すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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12 25

1.馬小屋で生まれられたイエス

・今日12月25日、私たちは、イエス・キリストの誕生日をお祝いして、礼拝の時を持つ。しかし、イエスがいつお生まれになったのか、歴史上はわかっていない。12月25日をイエスの誕生日として祝うようになったのは、4世紀頃からで、当時行われていた冬至の祭りを教会がキリストの誕生日に制定してからだ。冬至、夜が一番長い暗い闇の時、しかしそれ以上に闇は深まらず次第に光が長くなる時、人々は冬至の日こそ、救い主の誕生日に最もふさわしいと考えるようになった。今日はルカ福音書を通して、クリスマスのメッセージを聞いていく。
・ルカは最初に、キリストがどのような歴史の中で生まれて来られたかを記す「そのころ、皇帝アウグストゥスから全領土の住民に、登録をせよとの勅令が出た。これは、キリニウスがシリア州の総督であったときに行われた最初の住民登録である」(ルカ2:1-2)。ローマ皇帝アウグストゥスが世界を支配し、皇帝の部下キリニウスがシリアの総督であった時、シリア州の一部であったユダヤにおいて、ある出来事が起こったとルカは記す。その出来事とは、イエスの両親ヨセフとマリアが、住民登録をするために、ガリラヤのナザレから、遠いユダヤのベツレヘムまで、旅をする出来事だった。住民登録、今日で言えば国勢調査であり、目的は兵役と課税のためであった。
・ナザレからベツレヘムまで120キロ、山あり谷ありの道である。ヨセフの妻マリアは身重だったから、その旅は難儀であったろう。おそらく一週間以上も歩いてベツレヘムに着いた。たどり着いたベツレヘムの町は、住民登録をする人々であふれ、彼らには泊まる宿屋もなく、馬小屋に案内された。その馬小屋の中で、マリアは産気づき、幼子が生まれた。二人は生まれたばかりの子を布にくるみ、飼い葉桶の中に寝かせた。これがルカの語る救い主誕生の記事だ。
・この短い文章が示すことは、ユダヤはローマの植民地であり、ローマに税金を支払うために、全国の人々がその本籍地への移動を強制されたということだ。逆らえば、捕らえられ、殺される。命令に従って、イエスの両親は、遠いベツレヘムまで旅をし、旅先でイエスは生まれられた。そのベツレヘムはダビデの町だった。ダビデはイスラエルの全盛時代を築いた王、ダビデの末から救い主が生まれるとの預言を人々は信じていた。その預言どおり、ダビデの血を引く、一人の幼子が、ダビデの町に生まれられた。当時、救い主がこのベツレヘムに生まれられたとは誰も知らなかった。だから、歴史はイエスの誕生日を知らない。

2.アウグストゥスとイエス

・人間の歴史はイエスの誕生日を知らない。しかし、ローマ皇帝の誕生日は知っている。アウグストゥスは紀元前62年9月23日に、ローマの貴族の家に生まれた。成人してローマの支配者ユリウス・カエサルの養子となり、カエサル死後、アントニウス他の政敵との争いに勝利を収め、初代のローマ皇帝となった。彼の治世下、ローマは帝国として統一され、「ローマの平和」と呼ばれる繁栄期を迎える。人々は彼を「救い主」と呼んで崇めた。このアウグストゥスの時代に、ローマ帝国のはずれ、ユダヤの片田舎に一人の幼子が生まれた。
・ルカはイエスが生まれられた時、ベツレヘムの羊飼いに天使が現れたと記す。天使は言った「恐れるな。私は、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」(2:10-12)。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」、この人こそ救い主であるとルカは主張している。この記事を読んだローマの人々は嘲笑ったであろう「ユダヤ人の救い主を見よ、彼らの救い主は馬小屋で生まれ、飼い葉桶に寝かされた。誰がこのような救い主を拝むのか」。
・このルカの記事は、私たちにも選択を迫る。あなたはアウグストゥスとイエスのどちらを救い主とするのかと。ローマ帝国の首都から発せられた命令は、遠いユダヤのヨセフとマリアをガリラヤからベツレヘムに連れてくる力を持っていた。そのベツレヘムで一人の幼子が生まれたのを、皇帝は知らないし、総督も知らないし、ユダヤの支配者も知らなかった。その幼子は成長し、ローマ帝国への反逆者として十字架につけられて死んだ。時のローマ皇帝テベリウスはイエスが死んだことも知らなかった。だから、イエスがいつ死なれたのかも、歴史は記録していない。しかし、その死から300年の後、ローマ帝国はキリスト教を国教とする。ローマ皇帝がキリストの前に、頭を下げたのだ。今日、アウグストゥスを救い主として礼拝する者はいない。しかし、何十億と言う人が今日、キリストの前に頭をたれてクリスマスを祝う。何がこの逆転をもたらしたのか。

3.貧しい人、泣いている人こそ幸いだ

・今日の招詞にルカ6:20-21を選んだ。次のような言葉だ「さて、イエスは目を上げ弟子たちを見て言われた。『貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、あなたがたは笑うようになる』」。
・イエスのもとに病気や障害を持つ群集が集まってきた。イエスなら、何とかして下さる、この病気や苦しみさえ取り除かれれば、幸福になれると彼らは願っていた。その彼らにイエスは言われた「貧しい人々は幸いだ。飢えている人々は幸いだ。泣いている人々は幸いだ」。人々はびっくりした。貧しい人、泣いている人が幸いだとは思えなかったからだ。私たちもびっくりする。何故貧しい人が幸いなのか、貧しい人が豊かになることこそ幸いではないか。イエスは言われる「貧しい人は神を求める。助けてもらわないと生きていけないからだ。そして求めるものには神は応えて下さる。豊かな人は現在に満足して、神を求めない。求めない者には祝福はない」。
・泣いている人は何故幸いなのか。子供を亡くして泣いている人がいる。不治の病を宣告されて絶望している人がいる。彼らは慰めの言葉さえ拒否するだろう。しかしやがて、悲しいのは自分だけでなく、大勢の人たちが泣いている現実が見えてくる。「神は何故このような事をされるのか」、それを考え始めた時、神の声が聞こえてくる。成功したり富を得たり喜んでいる時には、この神の声が聞こえない。悲しみに打ちのめされて、初めて神の声が聞こえてくる。「貧しい人」はこの世に本当の救いがないことを知ったから神を求める。「悲しむ人」は自分が泣いたことがあるから、泣く人と共に泣く。
・人間の求める幸福は思いが自己に、現在に集中する。世の幸福は、富であり健康であり成功だ。それらは全て自己の為のものだ。私の富、私の健康、私の成功、私の栄誉。そして、誰もが欲しがるから、競争が起こり、誰かが勝てば誰かが敗れる。この世の幸福は他者の犠牲の上に成り立つ。神はこのような幸福を喜ばれない。だから、現在は健康でも、その健康はやがて崩され、勝者も何時かは敗者に落とされる。生きている者は必ず死ぬ定めにある。現在の幸福は何時崩されるのかわからない幸福だ。このような刹那的なものが幸福なのだろうか。
・私たちはイエスの言われる幸福、「貧しい人、飢えている人、悲しむ人こそ幸いだ。彼らは神の声を聞く」という言葉は非現実的だと思ってきた。しかし、世の幸福、富や健康や成功がはかないものであるとしたら、イエスの言われる幸福こそ現実的である事を知る。暗い闇を通った者こそ、光を知るのだ。私たちはそれをイエスの生涯を見て知った。だから、私たちは神の子が、その誕生日もわからずに生まれてこられた、闇の中で生まれて来られた事を感謝する。馬小屋に生まれ、飼い葉桶に寝かされた方こそ、私たちの悲しみも苦しみも知る方だ。そのイエスが、ローマ皇帝アウグストゥスに勝たれた。このことは、私たちに、生き方を変える事を求める。「貧しい人、飢えている人、悲しむ人こそ幸いだ。彼らは神の声を聞く」、ここに真の幸福があるのだ。


カテゴリー: - admin @ 18時17分53秒

12 18

1.子を与えられない女性の祈り

・今日、私たちはアドベント第四週を迎えた。来週はクリスマス、主イエス・キリストの降誕を祝う時だ。イエスの母マリアは、聖霊によって身ごもった事を知らされた時、神を讃美して歌った「私の魂は主をあがめます。この主のはしためにも、目を留めて下さったからです」(ルカ1:47-48)。自分のような者を神は選んで下さった、感謝しますとマリアは歌った。子供を身ごもる、それは女性だけが味わうことの出来る至上の喜びだ。聖書にはその喜びを歌ったもう一つの歌がある。サムエルの母、ハンナの歌だ。今日は、ハンナ、マリア、二人の母親の賛歌を通して、クリスマスのメッセージを聞きたい。
・ハンナは預言者サムエルの母であるが、サムエルが生まれるまでには多くの出来事があった。その次第がサムエル記上1章に述べられている。ハンナはエフライムの人、エルカナの妻であったが、不妊であった。夫のエルカナは妻ハンナを愛していたが、跡継ぎの子を得るために、もう一人の妻を迎えた。二番目の妻ペニナは多くの子を生んだ。彼女は自分が子を産んだ事を誇って、子を生めないハンナを思い悩ませ、苦しめた。当時、子のない女性は神に呪われているとされていた。ペニナから受ける辱め、それ以上に子を与えてくれない神に対する恨み、ハンナは毎日を泣き暮らしていた。夫は妻の痛みがわからず、「私がお前を愛していればいいではないか」と慰めるが、ハンナの心は晴れない。ハンナは家の中にも外にも居場所がなくなり、涙に明け暮れていた。
・子を生む、女性にだけ与えられた大きな喜びだ。しかし、その喜びを持てずに悲しむ女性は多い。現代では、何とかして子を持ちたいと願い、不妊治療を受ける女性もいる。それでも子を持てない人もいる。聖書はイエスがそのような女性たちを慰められたと記す。あるとき、イエスの説教に感動した婦人が叫んだ「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(ルカ11:27)。それに対してイエスは言われた「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人だ」。女性は子を産むことこそ幸いだという世の道徳にイエスは同調されなかった。女性も男性も神の言葉を聞き、それを守る人こそ幸いなのだとイエスは言われている。子を産むかどうか、どんな子を産むかで、価値付けられてきた女性たちの悲しみをイエスは知っておられたからだ。私たちがクリスマスで待ち望む方は、私たちの悲しみを知っておられる方だ。
・さて、エルカナ一家は毎年の祭りに、シロの神殿に参り、お祝いの食事をする慣わしだった。ある年、祭りでシロへ出かけ、祝いの席についたが、ハンナは悲しみの余り、食事も取れなかった。彼女は主の神殿に行き、激しく泣いた。そして泣きながら祈った「主よ、はしための苦しみを見てください。子を与えて、私に加えられたこの辱めを晴らしてください」。彼女が求めたのは、子が与えられて、ペニナを見返すことだった。しかし、祈るうちに彼女は変えられていった。「自分の苦しみを知って欲しい、助けて欲しい」という祈りが、「もし子を授けられたら、その子はあなたに捧げます」という祈りに変わっていった。神殿の祭司エリはそのハンナの祈りを聞き、彼女に言った「安心して帰りなさい。主があなたの願いをかなえて下さるように」。彼女の訴えは神に届き、彼女は身ごもって男の子を生んだ。熱心に祈った結果、子が与えられたため、彼女は子をサムエル(神聞きもう)と名づけた。

2.神の業を見た女性の讃美

・ハンナは子が乳離れするまで手元に置き、乳離れした時、子を献げる為に、シロの神殿に連れて行き、祭司エリに預けた。その時、ハンナが歌った讃美がサムエル2章の「ハンナの賛歌」である。ハンナは歌った「主にあって私の心は喜び、主にあって私は角を高く上げる。私は敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う」(2:1)。主は私の願いを聞いて下さった。私のようなはしためをも御心に留めて下さった。私を呪われた者と侮った敵の前で、私の恥をそそいで下さった。彼女は続ける「子のない女は七人の子を産み、多くの子を持つ女は衰える」(2:5)。不妊の女と卑しめられた私に子が与えられ、多くの子を産んだと誇るペニナをあなたは砕いて下さった。
・ハンナの祈りは私たちの祈りと同じだ。自分の思いしか祈らない。「子を与えてください、子を与えて私の恥をそそいで下さい。子を産んで憎いペニナを見返してやりたいのです」。神はこのような、わがままな祈りさえ聞かれる。そしてわがままな祈りが聞かれた者は、やがて自分の思いを離れて、主に感謝するようになる。その讃美が6節以下にある。「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げて下さる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めて下さる」(2:6-7)。榎本保郎牧師は解説して言う「ハンナの喜びは自分の恥が取り除かれたというところに留まらなかった。彼女は求めて子を与えられたと言う体験を通して、世界は全て神の愛の業の中にある事を示された。それ故に殺されることも、陰府に下ることも、貧しくなることも、低くされることも、もはや神を知った彼女にとっては闇でもなければ絶望でもなかった」(榎本保郎「旧約聖書1日1章」から)。
・ハンナは子に恵まれず、悲しみを強いられた。主が「ハンナの胎を閉ざしておられた」(1:5)からだ。不妊の女性であるからこそ、子が与えられるようにこんなにも深く祈った。苦労もなく子が与えられたならば、この祈りは生まれず、この祈りがなければサムエルは生まれなかった。自分の限界を知らされたからこそ、ハンナは主により頼み、主は答えて下さった。ハンナの涙が偉大な預言者を産み、ハンナの涙が後世まで人々が口ずさむ賛歌を生んだ。悲しみこそ、喜びの始まりなのだ。私たちは光をともして、キリストの降誕を待つ。闇の中に住んでいる故に、光であるキリストを待ち焦がれるのだ。

3.ハンナの祈りがマリアの賛歌を導いた

・今日、私たちは招詞として、ルカ1:47-48を選んだ。次のような言葉だ「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう」。
・この賛歌はマリアが神の子を身ごもっている事を知らされ、その喜びを伝えるために、いとこのエリサベトを訪問した時に歌った歌だ。一見すると、子を身ごもった母親の喜びの歌のように聞こえるが、その裏には多くの葛藤があった。御使いがマリアに現れ「あなたは男の子を産む。その子こそ神の子である」と告げた物語は受胎告知として有名だ。「マリアよ、おめでとう」、アベ・マリア、私たちはこの受胎告知をロマンチックな出来事として捉える。しかし、告げられた出来事は人間的にはめでたいどころか、非常に重い出来事であった。マリアはまだ、結婚していない。未婚の娘が子を産む、当時においても現代においても、それは世の非難を招く出来事だ。当時は、姦淫を犯した者は石を投げて殺せと云う法があった時代だ。夫もないのに子を生む、世間は姦淫を犯したとしか見ないだろう。だからマリアは不安におののいた。彼女は人知れず苦しみ、祈ったであろう。その祈りに神は応えられた。婚約者ヨセフは、最初はマリアを離婚しようと決意していた。しかし、御使いから「マリアの胎内に宿る子は聖霊によるものだから、彼女を妻として迎えなさい」と告げられ、受け入れてマリアを妻として迎えた。マリアは喜びに包まれた。だからこそ、この賛歌を歌えたのだ。
・「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」。あなたは私に子を持つことと許して下さった。あなたはヨセフに働きかけ、子が聖霊によって身ごもったという信じられない出来事を信じさせて下さった。ヨセフは私を妻として迎えてくれた。この幸いを感謝します。「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さった」。あなたはこの卑しい、無に等しい者も御心に留めていただき、子を与えて下さった。あなたは偉大な事をこの身になさいました。そして、彼女はハンナの歌を歌う「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。マリアは安息日ごとに会堂で詠まれる聖書を聴き、ハンナの賛歌も暗誦するほど親しんでいたのであろう。全てを支配される神、悲しむ者、貧しい者を顧みて下さる神への賛歌を、彼女はハンナの歌に合わせて歌った。
・マリアもまた困難な状況から神が救って下さった経験をした。だから、心からなる讃美を主に捧げた。ヨセフがマリアを妻として受け入れなければ、マリアは死んでいたかもしれない、あるいは子を中絶していたかも知れない。そうなれば、イエス・キリストは生まれなかった。イエスはユダヤ人からは「私生児」とののしられている。イエスが「子を生む女性が幸せではなく、神の言葉を聞き、それを守る人こそ幸いだ」と言われた時、母マリアと御自身の苦しみを思い起こされたのかもしれない。主は御自身が苦しまれたからこそ、私たちの苦しみを知って、憐れんで下さる。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブル2:18)。私たちの悲しみも苦しみも知っておられ、求めればいつでも手を伸ばして下さる方を、私たちは知っているのだ。だから、私たちも、ハンナと共に、マリアと共に、主を讃美するのだ。


カテゴリー: - admin @ 15時11分42秒

12 11

1.イザヤ40章-慰めの知らせ

・今日はアドベント第三主日だ。アドベントとは待ち望むという意味のラテン語だ。救いが来る事を待ち望む時がアドベントだ。アドベントの季節になると、ヘンデル「メサイア」が演奏される。メサイアとはヘブル語メシアの英訳、ギリシャ語ではキリストだ。救いを待ち望むアドベントの時に、救い主であられるキリストの物語を聴く、それがオラトリオ「メサイア」だ。「メサイア」は三部構成になっているが、その最初に歌われるのが、イザヤ40章1-5節である。救いの出来事は救い主の誕生から始まり、救い主の誕生ははるか昔から待望されていた。今日、私たちはそのイザヤ40章を通して、クリスマスのメッセージを聞こう。
・イザヤ40章の背景は紀元前6世紀のバビロンだ。紀元前587年、イスラエルはバビロニアに国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われた。歴史に名高いバビロン捕囚である。その亡国の民に、エレミヤやエゼキエル等の預言者が立てられ、言葉を伝えた「あなたたちは罪を犯した故に裁きを受けた。しかし、悔改めれば、神はあなたたちの罪を赦され、再びエルサレムに戻して下さる」と慰めた。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、神の言葉が預言者に再び臨んだ。
・エルサレムは既に廃墟となり、最初に連れて来られた民の大半は死に果てた。今は二世、三世の時代になっている。父親からエルサレムの話を聞かされ、いつかは戻りたいと言う願いも聞かされていたであろう。しかし、今は、何とかこの異郷の地で生きようと懸命であっただろう。そのような中で神の言葉が預言者に臨んだ「慰めよ、私の民を慰めよ・・・エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(イザヤ40:1-2)。服役の時、捕囚の時は終った、あなたがたは赦された、エルサレムに帰る時が来たと預言者は告げられた。
・3節以下で、エルサレムへの帰還が語られる「主のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(イザヤ40:3-5)。バビロンからエルサレムまで、何千キロもの荒野や砂漠を経て、帰還する道が開かれる。主が山を低くし、谷を高くし、道を整えられる。50年の沈黙を破って神が再び語られた。それがイザヤ40章の預言である。

2.信じることの出来ない預言者に希望が与えられる

・預言者は第一世代の生き残りかも知れない。彼もエルサレム帰還の夢はとっくに失くしていた。今さら、エルサレムに帰ると言われてもとまどうばかりだ。彼は言う「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と」(40:6)。民に何を言えば良いのか。彼らは希望を無くしている。それは主よ、あなたのせいだ「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ」(40:7)。主よ、あなたが民を砕かれた。あなたがエルサレムを廃墟にされ、民を遠い異郷の地まで連れて来られた。そして50年間、あなたは私たちを放置された。あなたは、私たちの嘆きの声を聞かれなかった。その民に、今さら、何を語れと言われるのか。
・私たちも苦しみ、悲しみに圧倒された時、神が見えなくなる。神などいないと思う時がある。預言者も同じ思いに苦しんだ。神の沈黙ほど信仰者にとって、恐ろしいものはない。しかも50年間の沈黙だ。何故50年間も放置されていたのか。神は預言者の不信をねじ伏せて言葉を語らせる「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)。言葉は続く「高い山に登れ、良い知らせをシオンに伝える者よ。・・・見よ、あなたたちの神、見よ、主なる神。彼は力を帯びて来られ、御腕をもって統治される。見よ、主のかち得られたものは御もとに従い、主の働きの実りは御前を進む」(40:9-10)。
・イスラエルは、彼等を通して諸国民が救われるために、選びの民とされた。しかし、彼らは約束の地を与えられ、生活が豊かになり、安定してくると傲慢になった「自分の力と自分の手の働きで、私はこの富を得た」(申命記8:17)。神は預言者を通じて繰り返し、彼等に警告された「主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられた。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、あなたがたは滅ぶ」(申命記8:18-19)。人は順調な時には神を忘れる「私は自分の力で学び、自分の力でこの職を得た。そして、自分の働きで食べている。私は誰の世話にもなっていない」。日本でも多くの人たちがそう思っている。私たちが恵みを当たり前と思い、傲慢になった時、神は私たちを砕かれる。その砕きはある人には病気として、別の人には事業の失敗として与えられる。
・イスラエルへの砕きは、国の滅亡と異国への捕囚というものだった。この苦しくつらい体験がイスラエルを変えた。神は何故、選ばれた私たちを捨てられたのか、何故その都と定められたエルサレムを滅ぼされたのか、彼らは父祖からの伝承を読み直し、まとめ直していった。旧約聖書の主要部分、創世記や申命記、預言書等は、この時代に編集された。旧約聖書は絶望の中で書かれてきたのだ。そして今、苦しみの時は終わり、慰めの時が来たと民は告げられる。「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(イザヤ40:11)。

3.希望の訪れ

・今日、私たちは招詞として、詩篇126:5-6を選んだ。次のような言葉だ「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる」。詩篇126編はバビロンからエルサレムに帰還する民の喜びを歌ったものだ。あきらめていた祖国への帰還の道が開かれた。人々は歌った「主がシオンの捕われ人を連れ帰られると聞いて、私たちは夢を見ている人のようになった」(1節)。信じられないことが起こった。「私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちた」(2節)。彼らは讃美する「主は私たちに大きな業を成し遂げられた」(3節)。
・記録を見てみたら、私がこの教会で始めて説教をしたのは、2001年12月だった。その時、与えられた聖書個所がこのイザヤ40章だった。その最後は次のように締めくくられている「昔から、人々はこのイザヤ40章を、アドベント(待降節)の第二主日に聞いてきた。そして、今年の待降節第二主日は今日12月9日である。暗い夜に光が来る。それを待ち望む時が待降節である。暗い夜に光が来る。光は必ず来る、イザヤ40章はそれを約束する神の言葉である。神は、この言葉を、バビロンの地で希望を失っていた人々に語られた。そして2500年経った今、私たちもこの言葉を希望のメッセージとして聞く」。
・この教会は6年前に無牧になり、2年間牧師がいなかった。その時代、この教会は苦しみを体験した。会堂にあふれていた人も一人去り、二人去っていった。しかし、主は残る者を与えられた。それから4年の時が流れた。奏楽者のいなかった私たちはCDで讃美を歌ったが、今は奏楽者が与えられ、ピアノで歌う。CD讃美を経験した者でないと、ピアノ讃美の喜びはわからない。15年前の会堂改築費用の借金は大きな負担であった。支払猶予を申請しなければ立ち行かないと思えた時もあったが、主は必要なものを与えて下さり、私たちは今年、借入金を完済した。教会学校には子供たちがいなかったのに、今では子供たちの声が響くようになった。教会の壁や屋根には新しいペンキが塗られた。寂しかった教会のクリスマス・イルミネーションも一新され、町の人たちが見に来る。教会のホームページは、携帯電話からもアクセスできるようになった。信じられない出来事が私たちの教会に起こりつつある。「その時には、国々も言うであろう『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた』」(126:2)。
・涙を流しながら種を蒔く人に、主は豊かな収穫を与えて下さった。「種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い喜びの歌をうたいながら帰ってくる」、この出来事が私たちにも起こったのだ。バビロンからの帰還が決して順調に行ったのではない事を私たちは歴史の中で知っている。バビロンから勇んで帰ったエルサレムは瓦礫の山であった。耕地は他人のものになっており、自分たちの家には他の人が住んでいた。帰還民はつぶやいた「約束が違うではないか。どこにエデンの園があるのだ」。私たちの教会にも、このようないさかい、つぶやきがこれからも起こるだろう。しかし、私たちは決定的な出来事を既に見た。歴史上、一旦滅ぼされた国が再建された例はない。一旦壊れた教会の再生も難しいことだ。しかし「主は私たちに大きな業を成し遂げられた」。このような経験をした者は、将来おこるであろう困難もまた神が助けてくださると信じることが出来る。「神は、これほど大きな死の危険から私たちを救って下さったし、また救って下さることでしょう。これからも救って下さるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(〓コリント1:10)。このパウロの言葉を私たちは今日、覚えよう。私たちは自分たちの体験を通して、約束の成就を見た。私たちもバビロンから帰還したのだ。だから、私たちは良い知らせを地域の人々に告げ知らせるのだ。どのような苦難の中にあっても、それは災いではない。悔い改めれば、主は救って下さる。私たちはその証人だと。


カテゴリー: - admin @ 15時52分41秒

12 04

1.預言を禁じられた預言者

・今日、私たちは、待降節第二週を迎える。待降節とは救い主の誕生を待つ時期だ。私たちは既に救い主の到来を知っているが、キリスト以前の人々は救い主を待望しながら、与えられないままに死んでいった。旧約の預言者たちがそうだ。今日は、その中で、エレミヤの言葉を通して待降節のメッセージを聞こう。与えられたテキストはエレミヤ書36章だ。
・エレミヤが預言者に召された時、北・イスラエル王国は既にアッシリヤに滅ぼされ、南・ユダ王国もアッシリヤの属国となり、重い賦役に苦しんでいた。そのユダヤにアッシリヤが倒れたとの朗報が伝えられる。圧制者はいなくなり、ユダヤは国を挙げて喜んだ。しかし、今度は南のエジプトがパレスチナに勢力を伸ばし、ヨシヤ王は殺され、後を継いだエホヤハズはエジプトに捕らえられた。アッシリヤは滅んだが、支配者がエジプトに変わっただけで、国の苦悩は増すばかりだった。北では、アッシリヤを滅ぼしたバビロニヤが勢力を伸ばし、パレスチナ侵略の機会をうかがっていた。南のエジプト、北のバビロニヤという二大帝国の狭間で、小国ユダヤは右往左往する。その中で、エレミヤが預言者として立てられていった。
・国内では、支配者に納める莫大な貢物を調達するために重い税金が課せられ、民は生活苦でうめいていた。しかし、王や貴族たちは自分たちの栄華を求めるばかりで民の苦しみを省みようとはしない。新王エホヤキムは、民衆の不満を静めるために、神が鎮座されるエルサレム神殿がある限り、国は安泰だとして、神殿礼拝を推し進めて行った。神殿に参拝しさえすれば、国は救われ、生活は良くなるという信仰が民衆の間に広がっていった。これは迷信を信じる古代人だけの話ではない。戦時下の日本は「神であられる天皇陛下がおられる限り戦争に負けることはない」として、原爆が投下されるまで戦争をやめようとしなかった。そのために死ななくとも良い何百万の兵士と市民が死んでいった。エレミヤ当時と同じ状況が現代にもあった。
・エレミヤはそのような風潮に対して立ち、神殿で説教を行った。「主は言われる。お前たちの道と行いを正せ。そうすれば、私はお前たちをこの所に住まわせる。・・・私の名によって呼ばれるこの神殿に来て私の前に立ち、『救われた』と言うのか。お前たちはあらゆる忌むべきことをしているではないか。私の名によって呼ばれるこの神殿は、お前たちの目に強盗の巣窟と見えるのか。その通り。私にもそう見える、と主は言われる」(7:2-11)。前609年のことだ。神殿の祭司たちはこれを聞いて怒り、エレミヤを捕まえて殺そうとするが、王の書記官のとりなしでエレミヤの一命は助けられる。これ以降、エレミヤは神殿の出入りを禁止される。
・時代は移った。前605年バビロニヤはエジプトを破り、パレスチナの支配者となった。エレミヤは主がバビロニヤを用いてユダヤを懲らしめようと計画しておられる事を知らされる。公の説教を禁止されたエレミヤは、言葉を弟子バルクに書き取らせ、それを神殿で読むように命じる。彼は言う「私は主の神殿に入ることを禁じられている。お前は断食の日に行って、私が口述した通りに書き記したこの巻物から主の言葉を読み、神殿に集まった人々に聞かせなさい。・・・主の怒りと憤りが大きいことを知って、人々が主に憐れみを乞い、それぞれ悪の道から立ち帰るかもしれない」(36:5-7)。

2.預言の巻物が読まれる

・エレミヤの預言が巻物に記され、その言葉は神殿で読まれた。11節以下にその巻物が読まれた結果、何が起きたかが書かれている。預言を聞いた宮廷役人の一部は言葉を真摯なものと受け止め、是非王に聞かせるべきだと主張した。「このままでは国は滅びる、悔い改めて政策を変えなければいけない」、そのように思った人々は王宮に帰り、主だった人々と再度協議した。そして、バルクを伴い、王の前に出た。王の前でエレミヤの預言が読まれた。王は預言を聞くと怒り、巻物を火にくべてしまった。真剣に預言を受け止めて欲しいと願う家臣たちの声を無視して、王は巻物を燃やした。燃やせば、不吉な言葉は灰となり、呪いは消滅すると考えたからだ。
・エレミヤとバルクは王の前を逃れ、燃やされた巻物の再作成にかかった。こうして出来た二番目の巻物が今日のエレミヤ書の中核、特に詩文の部分だと言われている。ユダヤはこれを契機に急坂を転げるように破滅の道をたどる。エホヤキム王は度重なる預言と勧告にもかかわらず、悔い改めようとせず、それから6年後の前598年、バビロニヤ軍はユダヤに侵攻し、エホヤキムは戦中に死んだ。子エホヤキンが王となったが、バビロニヤ軍に捕虜として連れ去られ、バビロンの地で生涯を終えた。しばらくの小康状態の後、前587年バビロニヤ軍が再度エルサレムに侵攻し、宮殿も神殿も焼かれ、国は滅びた。
・「悔い改めよ、そうすればお前たちはこの地で平和に暮らすことが出来る」、主はイザヤを起こし、エレミヤを召して、繰り返し、言葉を伝えられた。しかし、預言の言葉は聞かれず、ユダヤは滅びの道をたどる。預言とは何なのか、神の言葉は無力なのか。そのような疑問さえ湧くほど、預言は聞かれない。エレミヤはこの後、エルサレムが滅びるまで、預言を続け、エジプトで死んだ。弟子バルクはエレサレム陥落とエレミヤの死を見届け、その次第を受難記としてまとめた。それがエレミヤ書の散文の部分を構成する。バルクはユダヤに戻り、破局の中に沈む人々にエレミヤの言葉を伝えた。エレミヤの預言の成就を見た人々は畏敬の念を持ってエレミヤの預言と記録を廃墟となったエルサレムで、また捕囚地バビロンで読み、自分たちが何故滅ぼされたのかを知り、悔い改めた。エレミヤ書が最終的に編纂されたのは、捕囚地バビロンであったとされている。人は平和が破れて初めて神の言葉に耳を傾ける。どん底の中でこそ、神の言葉は聞かれる。それから2500年間、エレミヤ書は苦しむ人々に多くの慰めを与えて来た。記された神の言葉は今日の私たちに聖書と言う形で与えられている。

3.新しい契約

・今日の招詞にエレミヤ31:31-33を選んだ。次のような言葉だ「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る、と主は言われる。この契約は、かつて私が彼らの先祖の手を取ってエジプトの地から導き出したときに結んだものではない。私が彼らの主人であったにもかかわらず、彼らはこの契約を破った、と主は言われる。しかし、来るべき日に、私がイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる。すなわち、私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」。
・この言葉はエルサレムが陥落し、人々が全ての希望を無くしたときにエレミヤに語られたものだ。エレミヤが最初に巻物を書いたときから17年が経過している。前587年のバビロニヤ軍の侵攻で、エルサレムは焼かれ、王家は断絶、神殿も破壊された。旧い契約は破棄された。その時、エレミヤは主の言葉を聞いた。「見よ、私がイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る」。都が破壊され、神殿が燃え、民は殺害され、生き残りの者は異教の地に散らされた。その絶望の中で、神は自ら壊されたものを再び回復されると啓示された。
・その契約は、旧い契約の更新ではありえない。王家も神殿も断絶した。旧い契約を更新しても何の意味もない。人間に罪が残る限り、契約を更新しても、また人間の側から破るだろう。救済は神の恵み以外にはありえない。「この契約は私が・・・エジプトの地から導き出した日に立てたようなものではない。・・・彼らは私の契約を破った」。新しい契約においては、「神が語りかけ、人が聞く」と言うこと自体が廃止され、神の意志は直接人の心に置かれる。神自らが人の心の中に住まれる。「私は、私の律法を彼らの内に置き、その心にしるす」と神は約束された。私たちがバプテスマを受け、主の晩餐式を守る理由がここにある。自分の力による救いを断念し、あなたに委ねますという行為がバプテスマであり、晩餐式だ。
・イスラエルは「あなたの神、主に従いなさい」と命じられた。その結果がこの破滅だ。もはや、人間の側からの救いは全くない。「神がその律法を人間の中におき、心に記す」ことのみにしか希望はない。私たちが神の言葉に耳を傾ける時は自分が破れた時だけだ。打ちのめされ、どうしていいかわからない時に、始めて神の言葉が聞こえてくる。エレミヤは捕囚の民に次のような手紙を出した「私は、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(29:11)。エレミヤは国の滅亡と民の離散を、祝福の計画ととらえている。私たちも与えられる悲しみを、神からの祝福ととらえる時、変わり始める。私たちは神の言葉を悲しみの中で聞く。そして悲しみから立ち上がる。
・捕囚の民は、エレミヤの預言を真摯に受け止め、捕囚地において新しい共同体を形成した。国を失った捕囚民が信仰共同体として再生した背景には、エレミヤの言葉が大きな役割を果たした。イエスはエレミヤ書を繰り返し読まれたに違いない。捕らえられる前の日に、イエスは弟子たちと最後の晩餐を持たれ、エレミヤの言葉を引用された「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。新しい契約、エレミヤが待ち望んだ救いの契約は、キリストの血によって書かれたのだ。だから、私たちは感謝して、クリスマスの十字架の前にひざまずくのだ。


カテゴリー: - admin @ 20時37分47秒

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