すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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05 27

1.復活と体のよみがえり

・私たちにとってこの世で一番大切なものは何でしょうか。イエスは、それは命であると言われました「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ 9:25)。その通りだと思います。だから、私たちは教会に集まり、神の言葉を聞きます。しかし、私たちは言葉を信じきることが出来ませんから、言葉によって命が与えられません。命が与えられないから、信仰が私たちの生活を揺り動かさない。コリントの人々も同じでした。だからパウロはコリントの人々に手紙を書きました。その手紙の核心部分が今日読む第一コリント15章です。
・この箇所には、「死をどのように考えるか」が、記されています。パウロはコリントの教会に人々に語ります「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)。コリントの人々はキリストが死から復活したことは信じていました。しかし、コリントの人々は、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない出来事だ」と理解していました。彼らはギリシア的な霊魂不滅の考え方から、人の肉体は滅びると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ということが起こるはずはないと考えていました。その彼らにパウロは語ります「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(15:13)。
・キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられています。パウロは語ります「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:3-5)。イエスはローマ帝国により十字架刑で処刑され、墓に葬られました。その死んだイエスが弟子たちに現れた、その顕現体験から「イエスは復活された」という復活信仰が生まれ、その視点から「イエスの死は私たちの罪のためであった」という贖罪信仰が生まれました。この贖罪信仰と復活信仰こそ、聖書の語る福音です。パウロはコリントの人々に、あなた方はこの福音を否定しているのだと迫ります。
・そして彼は語ります「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。復活、体のよみがえりをどう理解するかは難しい問題です。イエスが十字架刑で殺され、葬られたことは歴史的な事実です。十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが復活のイエスに出会い、「イエスはよみがえられた」として教会を形成していったことも歴史的事実です。しかし出来事の基底にある「イエスの死からの復活」は、歴史的な言葉では表現できず、あえて表現すれば「弟子たちの共同心理体験」と言わざるを得ないでしょう。しかしパウロ自身、復活のイエスに出会っています「最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(15:8)。だからパウロは確信を持って語ります「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)。人は死んだのち眠りにつく、その死者の中からキリストが復活された。キリストが初穂であり、私たちもキリストに従って復活する、だから「死は勝利にのみ込まれた」(15:54)とパウロは語るのです。

2.私たちは死んだらどうなるのか

・「復活を信じることの出来ない人生を考えてみなさい」とパウロは訴えます。人が死ぬだけの存在に過ぎないとすれば、現在を楽しむしかない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(15:32)、そのような人生は死刑囚が刑の執行前にご馳走を食べるのと同じです。「どうせ死ぬのだ」、そのような言葉を聞くために、あなたがたは教会に来たのかとパウロは怒ります。現代の日本人は、死を出来るだけ考えないように、現在の生を楽しもうと生きています。おいしいものを食べ、楽しく、愉快に暮らすのが、日本人の求める幸福です。しかし、そんなものは幸せでもなんでもなく、死を見ようとしないだけの生活であり、仮に死が牙をむいて家族の一員に襲い掛かれば、たちまち崩れます。1985年8月12日に日航機が群馬・御巣鷹山に落ち、520人の方々が亡くなり、30年が経ちましたが、遺族は今でも命日に慰霊登山をされます。30年たっても死は人々を苦しめている、死の力はどうしようもなく大きい。この死を避けて、見ないようにして生きる生活は、「まやかし」です。今、私たちの生活から死が隠されています。死は病院や老人ホームでこっそりと取り扱われています。それでも私たちは死を見ないわけには行かない。いつかは私たちにも訪れるからです。死んだ後、私たちはどうなるのか、この大事な問題が生活の中で語られず、人々は死への準備なしに死んでいく。これは不幸なことだと思います。
・大阪・淀川キリスト教病院で長い間働いていた医師の柏木哲夫さんは、多くの方の死を看取りました。彼は語ります「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる」。彼はキリスト者でしたが、その問いに対して何も答えられませんでした。死後のことは誰にもわからないのです。しかし、彼は多くの人の死を看取った経験から語ります「人は死を背負って生きていく」、人はいつ何時死ぬかわからない存在であるという意味です。そしてまた「人は生きてきたように死ぬ」と語ります。それまでの生き方が死に反映されるということです。そして柏木先生は、「多くの人はあきらめの死を死ぬ」と言います。死にたくないのに死んでいく人が多いのです。しかし、「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」と語ります。
・コリントの人々はパウロに反論しました「死んだ後のことはわからないではないか」。その疑問に答えて、パウロは種の例えを語ります。「種は土に蒔かれて形をなくし、一度死ぬ。その死の中から新しい命が、新芽が生まれてくる。種と新芽は違う形をとるが、それは同じ命、同じ種だ。蒔かれた種は「新芽」と言う形でよみがえり、成長して30倍、60倍の実を結ぶ。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という不思議を見ながら、死んだ人間が再び生きる不思議を何故信じないのか」とパウロは語ります。自然界には実に多くの相違した肉があり、身体があります。朽ちる、卑しい、肉の身体で蒔かれる、それが人間の死です。その人間が朽ちない、輝かしい、力強いものとしてよみがえる、それが復活です。種が一旦死んで新しい芽として芽生えてくるように、肉の身体が死に、霊の身体で生き返る。その時、障害を持つ身体も、年老いた身体も、輝く身体としてよみがえる。その希望を持つことが出来るのだとパウロは語ります。よみがえりの身体は今の身体とは違うものになるでしょう。それにもかかわらず、種と植物が同じ生命であるように、死後の身体も、同じ存在、私は私、あなたはあなたとしてよみがえる。神はキリストをよみがえらせられたように、私たちをも生かして下さる。この希望を信じる時のみ、人は死の恐怖から解放されます。

3.復活信仰と日々の生活

・今日の招詞に1コリント15:54-55を選びました。次のような言葉です「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死のとげ、死に対する恐怖は克服されたとパウロは語ります。人は死んだらどこに行くのか、誰もわかりません。イエスもパウロも死後の生については多くを語りません。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「現在与えられた生を懸命に生きよ」と教えます。私たちは聖書に書いていないことを想像力たくましく語ることは控えるべきです。
・例えば「天国と地獄」は人間の想像の賜物であり、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という発想は聖書の考え方ではありません。人間の想像するような天国や地獄はないのです。同時に「霊魂不滅」も、聖書的な考え方ではありません。日本人の死生観は「肉体は死んでも魂はあの世に行き、里帰りする」というものです。「千の風になって」というアイルランドの歌が日本でも広く受け入れられたのは、この霊魂不滅という考えを共にするからです。この考え方は日本人の情緒に訴えますが、何の根拠もなく、単に人間の願望(死というこの世の別れを経験しても、霊魂として愛する者たちとの再会を願う)を反映したものに過ぎません。
・矢内原忠雄は昭和23年に語りました「かつてエゼキエルは敗戦の悲しみにある同胞に対して、『枯れた骨が生き返る』という復活の信仰を語りました(エゼキエル37:11-12)。今度の戦争によって、世界の至る所に、谷にも平野にも、海の底にも町にも、枯れた骨が散乱しました。これらの枯れた骨が生きた人として生き返るということは、驚くほど大きな言葉であります。科学はもちろん、これを否定するでしょう。しかし、科学の否定によって否定しきれない魅力が、この思想の中にあります。我々の愛する者の骨が白く戦場に散乱した時に、我々を慰めて、生きる力を与え、希望を与えてくれるものは、この信仰であります。「復活」を信じるならば、私どもに命があり、私どもは、再び起ち上がります。イエス・キリストによる復活の信仰、それだけがこの敗戦の焦土に立つ尽くす私どもに根本的な解決を与えてくれるのです(矢内原忠雄「人の復活と国の復活」、昭和23年3月28日、内村鑑三先生記念講演より)。
・パウロはコリント15章の終わりで言います「兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:58)。私たちの肉体は朽ちます。クリスチャンも、そうでない人も同じく死にます。しかしキリストを信じる者はよみがえります。復活がないとすれば、私たちの生涯は死で終わり、怯えて暮らすしかありません。「われは身体のよみがえり、とこしえの生命を信ず」、使徒信条の一節です。ここに私たちの信仰がかかっています。そして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と約束されています。


カテゴリー: - admin @ 07時58分17秒

05 20

1.異言と預言は何が違うのか

・コリント書を読み続けています。先週、私たちはコリント13章「愛の讃歌」を読みました。そこにありましたのは、「愛の賞賛」ではなく、教会内の「愛の欠如」についての使徒の警告でした。「愛とは自分の救いを求めることではなく、隣人と共に生きるための配慮である」ことをあなた方はわかっていないとパウロは語っています。14章に入りますと、その隣人への配慮の無さが、「異言を語る」ことへの関連で取り上げられています。異言、自己陶酔の中で発せられる言葉や叫びを指します。ギリシア世界では「密儀宗教」(ミステリア)が盛んで、神との交わりの中に神秘体験を求め、霊的興奮状態の中での叫びや声を、聖霊を受けたしるしとして誇り、その神秘体験をしていない人々を「聖霊を受けていない者」として侮蔑する傾向がありました。パウロはそれを聞いて怒り、「異言」の問題をここで取り上げています。
・異言は、今日でもキリスト教・聖霊派(ペンテコステ派)と呼ばれる教派では、信仰体験の極致として大事にされています。使徒言行録2章には、ペンテコステの日にイエスの弟子たちが、聖霊を受けて異言を語り始め、その異言を聞いて3千人が信仰に入ったと記されています(使徒2:41)。ペンテコステ派の人々は現代でも聖霊降臨のしるしとして異言が降り、病気治しの奇跡が起きると語ります。彼らは異言を賜物(カリスマ)として受け入れますので「カリスマ派」とも呼ばれ、霊的興奮によるエクスタシーのために礼拝中に失神する人が出るほどです。心理学的には集団催眠のような出来事、例えば、誰かが過呼吸になった時、周りの人が次々に過呼吸に陥る事例が起こりますが、それに似ているのかもしれません。
・ただ、パウロ自身は霊的体験である「異言」を賜物として受け入れています。パウロは「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します」(14:18)とさえ述べています。しかし彼はそれ以上に、「愛を追い求めなさい。霊的な賜物、特に預言するための賜物を熱心に求めなさい」(14:1)と語ります。預言とは今日でいう説教、御言葉の解き明かしのことです。預言もまた賜物であり、それは異言よりも大事であるとパウロは語ります。「異言を語る者は、人に向かってではなく、神に向かって語っています。それはだれにも分かりません。彼は霊によって神秘を語っているのです。しかし、預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。 異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げる」(14:2-4)からです。
・異言、霊によって高められる心は大事です。知識は人を信仰に導きますが、人の信仰を養うものは霊です。信仰は永遠なる方とのつながりの中に形成されます。そこには現実的な事柄と、現実を超えた超自然的な事柄の双方が含まれています。「隣人を愛せ」とは現実的な教えですが、その理由として「隣人もまた神の子である」との理解は、神を信じない人には不思議な言葉になるでしょう。信仰は霊的にしか理解できない部分があります。ですからパウロは聖霊の賜物である異言を軽んじません。しかし、異言は個人の霊性を高めても、教会を創り上げる徳ではないと語ります「あなたがた皆が異言を語れるにこしたことはないと思いますが、それ以上に、預言できればと思います。異言を語る者がそれを解釈するのでなければ、教会を造り上げるためには、預言する者の方がまさっています」(14:5)。

2.霊と理性、それぞれの役割

・聖霊を受けるとは個人体験であり、他人の入れない世界です。ですからパウロは「異言は個人の霊性を高めるが、教会の徳を高めない」と語ります。異言は他人から見れば何を語っているかがわからない。6節以降にパウロはそのことを説明します「だから兄弟たち、私があなたがたのところに行って異言を語ったとしても、啓示か知識か預言か教えかによって語らなければ、あなたがたに何の役に立つでしょう」(14:6)。そして語ります「同じように、あなたがたも異言で語って、明確な言葉を口にしなければ、何を話しているか、どうして分かってもらえましょう・・・だから、もしその言葉の意味が分からないとなれば、話し手にとって私は外国人であり、私にとってその話し手も外国人であることになります」(14:9-11)。
・「外国人=バルバロス」とは理解できない言葉を話す人々です。ラテン語でミサが行われても意味が理解出来なければ、誰も「アーメン」とは言えません。わからない言葉で語られても、その言葉は教会を形成しません。だからパウロは語ります「あなたがたの場合も同じで、霊的な賜物を熱心に求めているのですから、教会を造り上げるために、それをますます豊かに受けるように求めなさい。異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」(14:12-13)。パウロは「私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(14:19)と語ります。しかし理性だけでは教会形成には不十分です。パウロは語ります「では、どうしたらよいのでしょうか。霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう。霊で賛美し、理性でも賛美することにしましょう」(14:15)。

3.礼拝の喜び

・今日の招詞に1コリント14:39-40を選びました。次のような言葉です「私の兄弟たち、こういうわけですから、預言することを熱心に求めなさい。そして、異言を語ることを禁じてはなりません。しかし、すべてを適切に、秩序正しく行いなさい」。パウロは教会の中では「異言よりも預言を求めなさい」と語りました。異言は本人にしかわからないからです。彼は語ります「仮にあなたが霊で賛美の祈りを唱えても、教会に来て間もない人は、どうしてあなたの感謝に『アーメン』と言えるでしょうか。あなたが何を言っているのか、彼には分からないからです。あなたが感謝するのは結構ですが、そのことで他の人が造り上げられるわけではありません」(14:16-17)。造り上げる=オイコドメオーという言葉が14章に5回も用いられています。パウロの判断の基準は、それが「教会を造り上げるか否か」です。
・教会を造り上げるものは、だれでもが理解出来る言葉です。理解できる言葉が語られた時、そこに神の業が働きます。パウロは「皆が預言しているところへ、信者でない人か、教会に来て間もない人が入って来たら、彼は皆から非を悟らされ、皆から罪を指摘され、心の内に隠していたことが明るみに出され、結局、ひれ伏して神を礼拝し、『まことに、神はあなたがたの内におられます』と皆の前で言い表すことになるでしょう」(14:24-25)と語ります。福音の言葉は人に自分の罪を悟らせ、悔い改めに招き、そして神を賛美させます。それこそ私たちが教会に集い、礼拝を持つ理由です。
・しかしパウロは同時に「異言を語ることを禁じてはなりません」とも語ります。霊的な養いもまた教会は必要としているからです。パウロの描くコリント教会の礼拝は現代のクエーカー派の礼拝に似ているようです。明治の偉人、新渡戸稲造がクエーカー派であったことは有名ですが、同派は「内なる光」を大事にし、特定の礼拝プログラムを持たず、誰かが語り始めるまで沈黙を守り、啓示を受けた人々が語る言葉を皆が聞きます。コリント教会でも二人か三人が異言を語り(14:27)、預言する場合は二人か三人が預言しなさいと語られています(14:29)から、同じような礼拝だったと推測されます。
・現代教会の礼拝は牧師が説教し、人々は讃美する以外は受け身にそれを聞くだけになりがちですが、本来の礼拝は「話を聞く」ために教会に集まるのではなく、「神を賛美」するために来るはずです。どうすれば全員が主体的に参加できる礼拝になるのか、コリント14章は様々の示唆を与えます。基本は礼拝を通して私たちがどう変えられていくかです。「教会は自分のために何をしてくれるのか」を求める時に、教会に対する不平や不満が出ます。そうではなく、「自分は教会のために何をなしうるか」を求め始めた時、礼拝は活性化し、私たちに生きる勇気を与えます。その勇気が私たちを世へと押し出します。ヘンドリック・クレーマーは語りました「教会は世にあって、世に仕える。その世で働くものこそ、信徒であり、教会が世に仕えるためには、信徒が不可欠である」(クレーマー「信徒の神学」から)、牧師主導ではなく、信徒主導になった時、教会は生き生きとしたものになります。
・「韓国の教会は祈る教会、 台湾の教会は讃美する教会であるが、日本の教会は議論する教会である」と言われます。日本の教会は神学研究には熱心であるが、祈りと賛美に欠けているために成長しないと言われています。私自身、聖書学を大学院で学び直してみて、「その通りだ」と思います。理性は人を正しい信仰理解に導きますが、信仰を養い、育てる事はできないのです。韓国教会の多くは早天祈祷会を持っています。毎朝5時ないし6時に教会に集まって短い礼拝を持ち、各人が祈った後散会し、そのまま仕事に行くという形です。韓国のキリスト教徒の割合は国民の25%に上りますが、この韓国教会の成長を支えたのは、早天祈祷会です。日本でも早天祈祷やアシュラム(黙想会)を行う教会は多くの会衆を集めています。榎本保郎「聖書1日1章」は、今治教会での早天祈祷会奨励を集めたものです。
・毎朝集まって祈る教会生活は、週1回の主日礼拝にしか集まらない教会生活よりも力を持つのは事実です。しかし現代の日本でそれを行うのは現実的ではないと思えます。それを補うのが、家庭でなされる毎朝のデボーションであり、当教会でもこのような霊的養いの必要性を強く感じています。だから当教会ではデボーションのために「デイリーブレッド」という小冊子を共同購入し、皆さんに配布し、毎日のデボーションをお勧めしています。「霊で祈り、理性でも祈る。霊で賛美し、理性でも賛美する」、そのような教会形成をしたいと思います。


カテゴリー: - admin @ 08時04分03秒

05 13

1.コリント教会の実情と愛の賛歌

・今日、私たちはコリント人への第一の手紙13章を読みます。この箇所は「愛の賛歌」として有名で、結婚式等でよく読まれる箇所です。「愛は忍耐強い、愛は情け深い、愛はねたまない・・・」、美しい言葉が迫ってきます。しかし、このコリント13章に何故突然に愛の讃歌が出てくるのか、それは愛の賛歌を書かざるをえないような状況がコリント教会にあったからです。コリントの教会の中には、「私はパウロに」、「私はアポロに」という派閥争いがありました。「父の妻を自分の妻にしている」という道徳上の乱れがありました。教会内に財産をめぐる争いもありました。また結婚を肉の業として卑しむ風潮もありました。直前の12章では、異言を語る人々が「自分たちは聖霊を受けているが、あなた方は聖霊を受けていない」と見下す傾向があったことが伺えます。コリント教会はあまりにも多くの問題を抱え、そこには愛が欠けていました。だから、パウロは「あなた方に今一番必要なものは、愛なのだ」と書き送っているのです。
・今日、私たちは愛の賛歌を12章27節からの区切りで読みます。そのことによって、パウロのいう愛とは何かがより鮮明に浮かび上がって来ます。12章でパウロは「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」と述べます。教会の中で、人はいろいろな役割を持ちます。教会全体を指導する使徒、使徒から教育されて説教する預言者、子供や新来者を教える教師、彼らは教会を指導する役割を持ちます。また賜物を持って教会に仕える人々がいます。病気を癒す賜物を与えられている人、経済的困窮者に支援物資を配る人、会計や管理的な事柄に責任を持つ人、異言を語る人もいます。さまざまな人々の奉仕によって、教会活動は多様に、豊かになります。しかし、ここに人間の罪の問題が出てきます。
・指導者たちは「自分たちこそ教会の頭脳であり、単なる手足ではない」と威張り始めます。奉仕者も「私はこんなに奉仕しているのに、あの人は何もしない」と言い始めています。賜物が人を攻撃し、貶める方向に向かい始めています。その人々にパウロは語ります「教会はキリストの体であり、あなたがたはその部分なのだ」(12:27)。そして体とは「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(12:26)存在なのだと。指先が痛むだけで私たちは安眠を妨げられ、胃の調子がおかしくなれば一日が台無しになってしまう。体のどの部分、どの器官が、機能を停止しても体全体の調子は狂うのです。同じように教会員の一人が経済的な問題に苦しみ、心や体の不調に苦しむ時には、教会全体が苦しむのだとパウロは語っています。
・だからパウロは続けます「あなたがたは、もっと大きな賜物を受けるよう熱心に努めなさい」(12:31)。私たちにもっとも必要な賜物とは何か、それは「お互いが相手のことを思い合うことを可能にする賜物」、                                                            「愛」です。ですから、愛こそ熱心に求めるべきものであり、この「愛が無ければ全ての行為は空しい」とパウロは語ります。それが13章の愛の賛歌なのです。

2.愛が無ければ全ては空しい

・コリントの人々は各々の賜物(カリスマ)を誇り、神秘体験を自慢し、自己犠牲を賞賛しました。しかし、パウロは言います「たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、私は騒がしいどら、やかましいシンバル」(13:1)。どらやシンバルは、異教の礼拝に置いて人を陶酔に導くための道具として用いられます。単調なリズムを繰り返し、繰り返し、聞くことにより自己催眠が始まります。黒人教会で歌われるゴスペルも、同じ節が何度も何度も歌われ、それが会衆をエクスタシーの境地に招いていきます。しかし、それは一時的な陶酔であって本物ではありません。パウロは続けます「たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい」(13:2)。教会で熱心な証しがされ、燃えるような祈りや讃美が捧げられても、それが自己陶酔に終わったら全ては空しい。たとえ牧師が熱情あふれる説教を行って会衆が涙を流しても、その場限りの感動に終わるとしたら、それも虚しい。「全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、私に何の益もない」(13:3)。愛が無ければ、全ての行為は無益だと彼は言います。
・そして13章4節からの有名な言葉が始まります「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:4-7)。ここには愛に関する15の定義がありますが、そのうち八つは否定形です。「ねたまない、高ぶらない、いらだたない・・・」、何故否定形で書かれているのか。コリントの人々は「ねたみ、高ぶり、いらだつ」存在だったからです。だから、「ねたみをやめなさい」、「高ぶることをやめなさい」、「いらだつことはやめなさい」とパウロは語ります。ここにあるのは単純な愛の賛歌ではないことに留意すべきです。
・「愛は忍耐強い」、愛するとは相手のことを忍耐することだとパウロは語ります。「愛は情け深い」、キリスト者は往々にして、善良であっても思いやりのない存在になりがちです。牧師や信徒の「無思慮な一言が他者を傷つけ、教会の門を閉ざす」ことが起きています。それは向いている方向性が違うからです。教師が生徒の方を向く時、彼は愛ある教師になります。医者が患者の方を向く時、彼は愛ある医者になります。そして愛は自分の方ではなく、他者の方を向くのです。「愛は自慢せず、高ぶらない」、しかし教会の中にいかに高ぶりがあるか、長い教会生活をしている人は知っています。「愛は自分の利益を求めない」、パウロは繰り返し「すべてのことが許されているが、すべてのことが益になるわけではない」と語ります。
・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。カトリックの司祭・本田哲郎氏はそれを次のように説明します「人の関わりを支えるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書でいう愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続ける限り、薄れも途切れもしない」(本田哲郎、全国キリスト教学校人権教育協議会・開会礼拝より)。
・エロスとフィリアは人間関係を豊かにする愛です。夫婦が愛し合い、友人を大切にすることはとても大事な愛です。しかし、それらは感情的な愛であり、基本は好き嫌いです。人間の本性に基づくゆえに、その愛はいつか破綻します。人は自分のために相手を愛するのであり、相手の状況が変化すれば、その愛は消えます。この愛の破綻に私たちは苦しんでいます。若い恋人たちは相手がいつ裏切るかを恐れています。妻は夫が自分を愛してくれないことに悩みを持ちます。信頼していた友人から裏切られた経験を持つ人は多いでしょう。私たちの悩みの大半は人間関係の破綻から生じています。だから私たちは裏切られることのない愛、アガペーの愛を知ることが必要です。そしてアガペーとは「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」(13:7)愛です。この愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではありません。私たちの中にあるのは自己愛=エロスとフィリアだけです。だから自分の子どもは愛せても、他人の子どもは愛せない。自分の兄弟は愛せても、他の人には関心が持てない。自分の中に「愛(アガペー)」がないことを知ることが最初の一歩です。

3.教会の基盤としての愛

・今日の招詞として1コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です。「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。コリント教会の人々は語りました「私は自由だ、何者にも束縛されない、すべてのことは許されている」と。しかし、パウロはキリスト者の自由は、他者への愛によって束縛されると言います。何故ならば、主があなたのために死んで下さったからあなたがたは自由になった、それは購いとられた自由、責任を持つ自由なのです。「すべてのことが益になるわけではない」、愛は自己ではなく、他者の利益を求めます。
・愛=アガペーは、私たちの中に本来存在するものではない。しかし、神はそのあなたを子として下さった。その時、教会の兄弟姉妹も同じ神の子として、あなたの兄弟姉妹になるではないか。それなのに、何故兄弟姉妹が困惑するような自分勝手の行動が出てくるのかとパウロは問いかけています。私たちは愛をLoveと呼ぶことを止めるべきです。聖書の愛(アガペー)に最も近い言葉はRespect、尊ぶ、大切にする心です。キリシタン時代の宣教師は、「アガペー」を「愛」と訳さずに、「御大切」と訳しています。
・アガペーは感情ではなく、意思です。それは神から与えられる賜物です。私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできます。自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちも始めた時、その祈りは真心からのものではなく、形式的なものでしょう。しかし形式的であれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。祈りながら、その人を憎み続けることはできないからです。
・最後にパウロは言います「預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう」(13:8)、しかし「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(13:13)。どのような問題を教会が抱えていようが、どのように不完全であろうとも、どのように醜い現実がそこにあろうとも、教会は神の国共同体です。だから、私たちはこの教会から離れない。それはキリストの血によって購われた共同体なのです。教会に生じるどのような問題も、愛によって解決可能であり、そして最終的に残るものは「信仰と希望と愛である」とパウロは語ります(13:13)。
・私たちが教会で求めるべきは、自己の救い、自己の達成ではありません。それは既に達成されている。そうではなく「自分の利益ではなく他人の利益を追い求める」、他者の救い、隣人の喜びがわが喜びになった時、教会は教会になり、私たちは本当の生きる喜びを知るのです。最後にボンフェッファーの言葉を共に聞きましょう「教会は、他者のために存在する時にだけ教会である・・・教会は、あらゆる職業の人に、キリストと共に生きる生活とは何であり、他者のために存在するということが何を意味するかを、告げなければいけない」(D. ボンフェッファー「獄中書簡」39-440p)。


カテゴリー: - admin @ 07時58分05秒

05 06

1.コリント教会での間違った主の晩餐式

・コリント書を読み進めています。今日は11章を読んでいきますが、ここにあるのはコリント教会の分派騒動が、教会礼拝の中核である「主の晩餐式」にまで悪影響を及ぼしている事実です。コリント教会には多くの異なった経歴の人々がおり、ギリシア人もユダヤ人も、豊かな人も貧しい人も、自由人も奴隷もいたものと思われます(1:26)。出身も経歴も習慣も異なる多様な人々が、一つの家に集まり、共同の礼拝を持っていたのです。家の教会ですから、集会人数は多くても50人くらいだったと思われます。
・多様な50人が集まれば、そこにはおのずからグループが出来ます。ギリシア人はギリシア人で集まり、ユダヤ人はユダヤ人同士、自由人も奴隷もそれぞれグループに分かれていたことでしょう。だから「私はパウロに」、「私はアポロに」、「私はペテロに」という分派が生じます。パウロもある程度の仲間割れは仕方がないと考えています「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。私もある程度そういうことがあろうかと思います」(11:18)。しかし、仲間割れが主の晩餐の席上で起こったならば、「それはいけない」とパウロは語ります「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」(11:19−20)。
・具体的に何が起きていたのでしょうか。当時日曜日は休日ではなく、日曜休日が制度化されたのはキリスト教がローマの国教となった4世紀以降です。信徒の多くは奴隷や貧しい人々であり、彼らは日曜日も働かなければなりません。従って、主日礼拝は朝ではなく、みんなが集まることの出来る夕方から持たれ、その中心は各人が食料を持って来て分け合う、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事でした。金持ちの人々は夕刻にはそれぞれの食べ物をもって家の客間に集まり、主人が祈りと感謝を捧げて、パンを裂き、ぶどう酒を分けて飲食しました。日が暮れると、貧しい人々が一日の労働を終え、おなかを空かして礼拝に来ました。しかし、その時には肉や魚はほとんど残っておらず、先に来た人たちはぶどう酒の酔いで顔を赤くしているという状況でした。当時の貧しい人々の日常の食事は「パンと水」だけで、肉や魚をいただく食事は主の晩餐式だけだったと思われます。ところが仕事を終えて教会に来たら、もう食事は残っていない。それが1回だけでなく、恒常的にそうであった。
・そのことを伝え聞いたパウロは怒ります「食事の時、各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」(11: 21)。何故自分たちだけで先に食べて、貧しい人々を除外するようなことを平気で行うのか、それが主の晩餐としてふさわしいのかとパウロは叱責します。社会の中にある貧困や地位の格差が教会の中に持ち込まれ、主の晩餐を台無しにしていると、パウロは本気で怒っています。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」(11:22)。
・この「持てる者の身勝手と持たない者の悲哀」という問題はコリントだけに限りません。現代の日本ではパート・アルバイト・派遣等の非正規労働者が就業人口の15%、929万人を占め、絶対収入が低く(平均186万円)、男性の3割は貧困ゆえに家庭を持つことが出来ず、一人親世帯(9割は母子世帯)の貧困率は50%を超えています。これはコリントで排除されていた貧しい人々と同じです。見て見ぬふりをする訳にはいかない。パウロが怒ったように、教会も怒らなければいけない。現実の教会はこのような貧富の格差、不公平を是正する力はありません。しかし出来ることもあるはずです。ある教会は「子供食堂」を開き、別の教会では「フードバンク」の活動を行い、ホームレス支援に取り組む教会もあります。私たちの教会では本年度は第二主日に教会外の人をお招きして、それぞれの活動をお聞し、考える時を持ちます。

2.主の晩餐式とは何か

・パウロはコリントの人々に、「主の晩餐式」の意味を語ります。「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」(11:23-25)。パウロがここで語るのはパウロ自身もエルサレム教会から伝承した式文で、晩餐式の起源は主イエスが弟子たちと共に取られた最後の晩餐にあるというものです。
・最後の晩餐についての伝承がマルコ福音書にあります。「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた『取りなさい。これは私の体である』。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた『これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である』」(マルコ14:22-24)。イエスは最後の時が来たことを悟り、これまで労苦を共にしてきた弟子たちにお別れの挨拶をされました。「私はやがて殺されるだろうが、私の流す血、裂く体は決して無駄にならない。そのことを覚えておいてほしい」と。そして最後に言われます「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14:25)。「私は死ぬが神の国はまもなく来る。その時また一緒に祝宴を開いてぶどう酒を共に飲もう」として、イエスはお別れをされたのです。
・弟子たちも決意を新たにしますが、イエスが捕らえられ、十字架で処刑される時には、恐怖にかられて逃亡します。しかし逃げ出した弟子たちに復活のイエスが現れ、弟子たちは再び集められ、イエスが復活された日曜日を「主の日」として礼拝を持ちます。その礼拝の中核になったのが、イエスの死を想起する「主の晩餐式」でした。だからパウロは語ります「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」(11:26)。主の晩餐式は「イエスが私たちのために死んで下さった」という過去の出来事を記念すると同時に、「イエスが再び来て下さる。その時、神の国が来る」という将来の希望をも想起する行為なのです。
・「想起する」、アナムネーシスという言葉です。私たちの現実生活では、他者から心の痛む言葉やひどい仕打ちを受け、暗く、悲しい気持ちになる時があります。その時、「主の受けられた苦しみを想起しなさい」とパウロは語ります。主は自分を殺そうとする者を呪われたのではなく、執り成されたことを思い起こすのです(ルカ23:32「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているかを知らないです」)。私たちが晩餐の中で主の言葉を想起する時、たとえ自分を苦しめ困らせる者が同じ群れにいたとしても、私たちはキリストと共にその人のために祈る。それが教会の「主の晩餐式」なのです。教会は決して相手を非難したり、貶めたりはしない。「それはあなたの自己責任だ」とは、口が裂けても言わない場所なのです。

3.一つのパンが教会を一つにする

・今日の招詞に1コリント10:17を選びました。次のような言葉です「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。コリント教会では金持ちだけ集まって先に主の晩餐をいただき、貧しい人々は食事に与れないという事態が生じていました。パウロは語ります「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(11:27-28)。パウロが述べる「ふさわしくないままに」とは、貧しい者を食卓から排除しながら、自分たちだけで「主の晩餐」にあずかることは間違っているという意味です。パウロは、そのような事態を避けるために「食事のために集まる時には、互いに待ち合わせなさい」(11:33)と勧告し、それでも空腹に耐えられないようであれば「家で食事を済ませなさい」(11:34)と語ります。
・パウロは「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(11:29)と述べます。ここにいう「ふさわしくないままに主の晩餐をいただく」とは、「兄弟たちと和解することなくパンをいただくこと、兄弟に対して恨みや軽蔑の念を持ったままで杯をいただくこと」を意味します。ところが、2世紀以降教会制度が確立してきますと、主の晩餐式は礼拝の中で行われる秘蹟(サクラメント)となり、信徒のみ(洗礼者のみ)に限定されるようになります。しかしパウロは「洗礼が主の晩餐にあずかる要件だ」とは述べていません。「主の晩餐」にあずかるにふさわしいか否かは、各人の信仰的な反省に委ねるべき事柄です。
・初代教会において「主の晩餐式」は共同の食事の中で祝われていました。それは愛餐(アガペー)と呼ばれています。食事の交わり、分かち合いこそ、イエスが最も大事にされていたものです。イエスは徴税人や罪人といわれる人々と共に食卓につき、そのために批判されました(ルカ7:34「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」)。しかしイエスは人々との食卓の交わりを続けられました。「共に食べる」ことこそ、「神の国のしるし」として大事にされていたからです。主の晩餐式が愛餐(アガペー)であれば、そこにおける参加者の洗礼の有無は無関係です。私たちは主の晩餐式を本来の姿である「愛餐」に戻す必要があります。だから私たちの教会では洗礼を受けていなくとも、「イエスを主と信じる」決断をされた方は、共に晩餐にあずかるように招きます。それを通して「一つの体」になるためです。「一つのパンを共に食べる」、そこに教会の交わりの原点があります。


カテゴリー: - admin @ 08時19分51秒

04 29

1.偶像に備えられた肉

・コリント人への手紙を読み続けています。今日の主題は「偶像に供えられた肉を食べても良いのか」という問題です。パウロは、性に関わる諸問題を5-7章でとりあげ、次に、偶像への供え物に関わる問題を8-10で取りあげます。おそらく、コリント教会からの質問の順序に沿ったものなのでしょう。しかし性の乱れと偶像礼拝とは非常に深く結びついていたことを考える必要があります。コリントのアフロディア神殿には、千人近くの巫女(神殿娼婦)がいて、巡礼者に性的な享楽を奉仕していたと言われています。偶像礼拝は性的退廃(ポルネイア)を伴うのです。
・コリントを含めたギリシア・ローマ世界には多くの神殿があり、神殿では毎日動物の犠牲が捧げられ、その肉の一部は捧げ物として焼かれましたが、残りは市場に払い下げられ、人々はそれを食肉として食べていました。当時流通していた食肉の多くは「偶像に供えられた肉」であり、その肉を食べることは「偶像礼拝」に当たるとユダヤ人教徒は理解しました。キリストの福音はユダヤから始まり、その後異邦人社会にも広がっていきました。その時、ユダヤ教における食物規定を異邦人にも適用するのかどうかが課題となってきました。ユダヤ人は律法の規定により、豚肉や異教の神殿に捧げられた犠牲の動物の肉等は汚れたものとして食べることを禁じられていました(レビ記17:8他)。最初の教会の構成員はほとんどユダヤ人でしたので、この食物規定は初期には大きな問題にはなりませんでした。
・ところが、教会がギリシア・ローマ世界に広がるにつれて、神殿に捧げられた肉を食べてもよいのかどうかが、教会を二分する問題になっていきます。新しく信仰に入った異邦人は平気でその肉を食べており、それに対するユダヤ人信徒からの批判が高まったからです。そのためエルサレムで使徒会議が開かれ、異邦人も「偶像に供えて汚れた肉と、みだらな行いと、絞め殺した動物の肉と、血とを避けるよう」(使徒15:20)決定され、エルサレム教会の名で、「偶像に供えられた肉は食べてはいけない」と諸教会に通知が出されました。そのため、「偶像に捧げられた肉を食べて良いのか」がコリント教会の問題になってきたわけです。
・同じ問題を、私たち日本の教会も抱えています。日本は人口の多くが非キリスト教徒で、かつ神社や仏閣が方々にある、多神教の世界です。その中で、聖書の信仰を守ろうとする時、いろいろな問題が生じてきます。例えば親から継承した位牌や仏壇をどうすればよいのか、葬儀における焼香や合掌という儀式にどう対応するのか、日曜日に運動会や授業参観があれば礼拝を休んでもよいのか等々、私たちがこの日本でキリスト者として生活するために、社会とどのように折り合いをつけるかが課題となります。
・コリント教会の異邦人信徒たちは、自由を主張しました。彼らは言います「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」、だから「神殿に捧げられた肉を食べてもなんら汚れない」(8:4)と。パウロも彼らの主張を認め、「その通り、食べてもかまわない」とコリント教会に回答します。ユダヤ人のパウロが、エルサレム教会の偶像肉禁止令から解放された発言をしていることに注目すべきです。しかしパウロは同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかけます。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(8:7)。
・ここにおいて、問題は、「偶像に捧げられた肉を食べても良いのか」という教理上の問題から、「それを罪だと思う人にどう配慮するのか」という、牧会上の問題になっていきます。パウロは言います「私たちを神のもとに導くのは、食物ではありません。食べないからといって、何かを失うわけではなく、食べたからといって、何かを得るわけではありません」(8:8)。肉を食べるか、食べないかは信仰の本質に関わる問題ではない。だから食べても良いし、食べなくとも良い。しかし「あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘う」(8:9)時、つまずく人がいてもなお食べることは、罪であるとパウロは語ります。

2.信仰の本質にかかわる問題では譲歩しない

・パウロは「神殿に捧げられた肉を食べても構わない、そもそも偶像の神などいないのだから」とうそぶく人々に語ります。「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか。そうなると、あなたの知識によって、弱い人が滅んでしまう。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(8:10-11)。「キリストがあなたがたのために死んでくださったのに、あなたがたは信仰の弱い人々のために、自分の食事さえ変えるのはいやだというのですか」とパウロは問いかけます。もはや問題は肉を食べるか、食べないかではなく、隣人をどう考えるかの問題です。パウロは語ります「このようにあなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(8:12)。「食べることが正しいのかではなく、食べることによってつまずく人がいてもなお食べるのか」が中心課題です。答えは明らかです。パウロは言います「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(8:13)。
・偶像に捧げられた肉を食べるかどうかは、信仰の本質に関わる問題ではありません。偶像の神などいないからです。しかし、食べることによってつまずく人がいるのに食べるのは、信仰の本質に関わる問題です。日本のキリシタン禁制時代に用いられた踏み絵を踏むかどうかも、同じ問題を抱えています。踏み絵そのものは板に聖母子を描いたメダルを組み込んだもので、それ自体何の意味もありません。しかし、踏み絵を踏んだ人々の信仰は崩れました。それは人の前で、最も大事に思うものを踏みつけにする、自己の信仰告白を偽りと表明する行為だったからです。私たちの信仰は、私たちの生活を規定します。行為が人を救うわけではありませんが、信仰は行為を導くのです。例えば、「何があっても日曜日の礼拝を守る」、その証しこそが、伝道です。周りの人はその行為を通してキリストに導かれます。

3.キリスト者の自由とは何か

・今日の招詞に1コリント10:23-24を選びました。次の言葉です「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。パウロは偶像に捧げられた肉を食べることの議論を10章でも続けます。大事な問題だからです。パウロの態度ははっきりしています「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(10:25)。何でも食べてもよいが、誰かが「これは偶像に供えられた肉だ」と言う場合は、その人の良心のために、食べることを止めなさいと勧めます(10:28)。その人がつまずくことを避けるためです。そして招詞の言葉が来ます「すべてのことが許されているが、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」。
・ここにおいて、キリスト者の生活の基本が何かが明らかになってきます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8:1)。「造り上げる」、オイコメドオー、建設するという言葉が用いられています。「教会を立て上げていくのは知識ではなく、愛だ」とパウロは語ります。「知識に基づく強さ」ではなく、「愛に基づく弱さ」を私たちは求めるべきなのです。キリスト者の自由とは「隣人と共にある自由」であり、隣人がつまずくのであれば、自分が正しいと思うことも断念する自由です。キリスト者は何を食べても良い、「地とそこに満ちているものは、主のもの」(10:26)だからです。しかし自由を自己追求のためには用いません。肉だけでなく、お酒やたばこを嗜むことも自由です。しかし、妊娠した女性が胎児のためにお酒やたばこを控えるように、キリスト者は隣人のために自分の自由を制約します。
・「隣人のために何かを断念する自由」、この言葉を私自身が体験したことがあります。私たち家族は20年前に、仕事でオーストラリアに6年間駐在しました。その地で、日本で宣教師として働き、引退してシドニー日本人教会の牧師をされていたヘイマン夫妻と出会いました。ある時、ご夫妻を食事に招いた時、ヘイマン先生はワインを飲まれませんでした。ワインを飲まないオーストラリア人に出会ったのは初めてでした。理由を尋ねた時、先生は言われました「ワインは神様からの贈り物です。でも私は飲みません。お酒を飲むことによってつまずく人がいるかもしれないからです」。ヘイマン先生は、自分は飲んでもかまわないと思っても、他者のために「飲む自由」を捨てました。ここに福音信仰を生きている一人のクリスチャンがいました。私が後年牧師になった理由の一つは、ヘイマン先生の生き方に対する感動があったような気がします。
・何をしても良いが、隣人への愛が行為を制約します。キリスト者の自由とは、自分の権利を相手のために放棄することです。キリストが来て下さった、私のために死んでくださった、この愛を知った時に私たちは根底から変えられます。私たちはキリストが私たちを赦してくれたのだから他の人を赦します。たとえ誰かが私たちを憎み私たちにつばを吐きかけようと、私たちはつばを吐き返すことをしません。キリストは彼のためにも死んでくださったのですから。病気の人が教会に来ても病気が良くなるわけではありません。貧乏な人が教会に来ても金持ちになるわけではありません。しかし、病気のままに、貧乏のままに祝福を受けるのが教会です。外部状況は変わらなくとも内側から新しい人間に変えられて行くのが、教会と言う場です。その教会にあって、「自分と違う人を受け入れなさい。全ては許されているが、全てが良いものを作り上げるのではない」とのパウロのメッセージこそ、聞くべき使信です。


カテゴリー: - admin @ 08時05分17秒

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