すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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05 19

2019年5月19日説教(ガラテヤ4:8-20、罪の奴隷に逆戻りするな)

1.自由になったのに奴隷に逆戻りしてはいけない

・ガラテヤ書を読み続けています。パウロの伝道により、ガラテヤの人々は、それまでの偶像礼拝からキリスト教信仰に目覚めました。しかし、その後に来たエルサレム教会からのユダヤ人伝道者の影響を受けて、彼らは割礼を受けようとしています。パウロは、「律法の奴隷から解放されたのに、何故また割礼を受けて、奴隷に戻ろうとするのか」と教会の人々に手紙を出しました。
・パウロは記します「相続人は、未成年である間は・・・父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様に私たちも、未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」(4:1-3)。「あなたがたは未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」、しかし、キリストが来られてあなた方は自由を与えられた。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした」(4:4-5)。だから「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4:7)。
・そのあなたがたが今、割礼を受けて律法に戻ろうとしているが、それはかつてあなたがたを支配していた「諸霊(ストイケイア)の奴隷」に戻ることだとパウロは語ります。「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(4:8-9)。「あなた方は神から知られている」、あなた方は「神から受容されている」。それなのに、魂の救いを、この世の秩序や断食等の行為に求めようとしているのか、それは自然界の輓呂悗虜禿戮領貘阿紡召覆蕕覆い犯爐聾譴蠅泙后屬△覆燭たは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」(4:10)。自然界の輓蓮瓮好肇ぅ吋ぅ△箸蓮∈Fの私たちをも支配しているこの世の悪魔的霊力、罪のことです。
・聖書でいう罪=ハマルテイアとは、「的から外れる」という意味です。的から外れる、神なしで生きるという意味です。神なき世界では、人間は人間しか見えません。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨みます(=恨み)。神なき世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出していきます。神なき世界では、この世は弱肉強食の、食うか食われるかの世界です。パウロはそこに悪魔的霊力(ストイケイア)が働いていると見るのです。
・その霊力が世の権力と結びつく時、社会を破壊する恐ろしい力を持ちます。現代の私たちは地球を何度も破壊する量の核兵器を所有しています。広島、長崎への原爆投下を通して、核兵器が悪魔の兵器であることを誰もが知ったのに、世界はそれを廃絶することが出来ない。「核兵器は抑止力として必要だ」とうそぶく人々は悪魔的力の奴隷になっています。原子力発電も同じです。私たちは福島原発事故を契機に原子力発電の怖さを知り、放射性廃棄物を処理する能力がないことを知りました。それにも関わらず、原発再稼働が当然のように進められています。現代の私たちも悪的諸霊=ストイケイアから自由になっていないのです。ストイケイア、医師の加賀乙彦は「人は意識と無意識の間の、ふわふわとした心理状態にある時に、犯罪を犯したり、自殺をしようとしたり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまったりする。その実行への後押しをするのが、『自分ではない者の意志』のような力、すなわち「悪魔のささやき」である」(加賀乙彦「悪魔のささやき」から)と語ります。
・人間がこの罪の縄目から自由になるために、神は私たちにキリストを送られ、人間の罪がキリストを十字架につけるままに任された。私たちはキリストの十字架死を通して、「逆らう者は殺す」という人間の「罪の原点」を見ます。しかし神はイエスを死から起こすことを通して、罪を放置することを許されなかった。だから私たちはキリストの十字架死を通して救われる。それなのにあなた方は「救われるためにはキリストだけでは不十分だ」と言い始めている。あなたがたが割礼を受けるとは、「神無き世界に逆戻りすることだ」とパウロは語っています。

2.ガラテヤ教会をもう一度生むと言うパウロ

・12節からパウロの語調が変わり、これまでの論難調から、人々に対する個人的な語りかけになって行きます。「私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください」(4:12)。パウロは異邦のガラテヤ人に福音を伝えるためにユダヤ人であることを捨てました。彼らに割礼を強制せず、食物規定を守ることさえ求めなかった。その私をあなた方は暖かく迎え入れてくれたとパウロは回想します「あなたがたは、私に何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知っての通り、この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、私の身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」(4:12b-14)。
・パウロはガラテヤに行った時、病気に悩まされていたようです。その病気は眼病であったようです(4:15b「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです」)。かつてパウロを師として慕った人々が、今はパウロが敵であるかのように考えている。パウロは嘆きます「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」(4:15a)。パウロは彼らをたぶらかせたエルサレム教会の伝道者を批判します「私は、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです」(4:16-17)。そしてパウロはガラテヤの人々に呼びかけます「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」(4:19-20)。しかしパウロは「途方に暮れても行き詰まりません」(2コリント4:8)。

3.罪からの解放

・今日の招詞にガラテヤ6:14-15を選びました。次のような言葉です。「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。もし人が神からの招き=福音を受け入れるなら、人の生き方は根本から変えられます。新しい創造が始まるのです。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされます。私たちが信仰を教会の中だけに留めておけば、世との関係は良好に保たれるでしょう。しかし、私たちはどう生きたかを最後の審判の時に問われます。私たちが世の悪を見て見ぬふりをし、泣いている人々の顔を見つめようとしなければ、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)と叱責されるでしょう。日本のキリスト教会は明治以降150年経っても、信徒数が人口の1%を超えることが出来なかった。それは日本人の信仰が個人の救いに留まり、社会的な広がりを持たなかったからです。信仰と生活が分離し、信仰がその人の生き方を変えなかったからです。
・人が信仰に導かれるのは、信仰者の行為に感動した時です。劇作家の井上ひさしさんは、15歳の時に養護施設に入りますが、「その施設で働く修道士たちの生きざまを見てカトリックの信仰に入った」と語ります。「500項目以上の公教要理を暗唱し、毎朝6時からのミサにもきちんと出席して、洗礼を受けるようになった。しかし、それは、カトリックの教理をよく理解したからというのではない。私が信じたのは、はるか東方の異郷にやってきて、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒れ地を耕し、人糞をまき、手を汚し、爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国人の師父たちであり、母国の修道会本部からの修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当たった修道服で通した修道士たちであった。私は天主の存在を信じる師父たちを信じたのであり、キリストを信じるぼろ服の修道士たちを信じ、キリストの新米兵士になったのだ」(井上ひさし「道元の冒険」後書きから)。
・パウロはガラテヤの人々が割礼を受けることに強硬に反対しました。割礼を受けよと勧めるエルサレム教会の伝道者に対して、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)とさえ叫びます。割礼が何故そんなにいけないのか、それは「割礼を受ける」ことによって、救いの決定権を人間の側が持つようになるからです。割礼を受けた者は、「割礼を受けたのだから救って下さい」と神に迫っていくようになります。律法主義は自分の行いの正しさを神の前に持ち出すのです。そこでは「自分は正しい」という主張はあっても、心の変革は生じません。福音は、無条件で人間を赦し救って下さる神の憐れみを信じることです。この無条件の救いが人間の変革をもたらすのです。
・パウロは怒って、この手紙を書いています。正面から相手を面罵する手紙を書けば、相手の感情を逆なでし、逆効果になりかねないことをパウロは承知しています。それでも書かざるを得ません。福音の本質が損なわれようとしているからです。この手紙は宗教改革者マルティン・ルターの熱愛の書でした。ルターが戦ったカトリック教会は「イエスを信じる信仰だけでは十分ではない。人は善行を積むことによって救われる」と功績主義を掲げていました。「律法による救い」のカトリック版(善行による救い)です。その教会にルターは激しい言葉で、「呪われよ(アナテマ)」と叫びました。まるでパウロのように、です(ガラテヤ1:9)。今日でも教会の中に「善行を積めば救われる」、「信仰すれば幸せになれる」という誤った幸福主義が入り込む危険性があります。私たちはパウロのように、ルターのように、この「異なった福音」を拒否する必要があります。イエスが私たちの為に殺され、イエスの弟子であるパウロやペテロも殺されています。この救いは高価な贖い、命をかけて贖われたものなのです。


カテゴリー: - admin @ 08時29分01秒

05 12

2019年5月12日説教(ガラテヤ3:1-14、キリストの十字架死を無駄にするな)

1.救われるために何が必要なのか

・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て、「割礼を受けなければ本当の救いはない」と説得され、教会に混乱が生じていました。そのことを伝え聞いたパウロは、ガラテヤ教会に宛てた手紙を書きます「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。あなた方はキリストの十字架だけでは足りないかのように、割礼を受けようとしている。それはキリストの十字架の死を無駄にする行為だ、とパウロはガラテヤの人々に語ります。
・中心になる言葉は「割礼」です。割礼とは男性性器の包皮を切り取る行為ですが、元来は砂漠の不衛生の中で、体を清潔に保つために、与えられた戒めといわれています。今日でも砂漠地帯のアフリカや中東では割礼の習慣は残っており、ユダヤ教徒やイスラム教徒は宗教的儀式として割礼を受けます。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「選びのしるしとして男子はすべて割礼を受けなさい」と言われました(創世記17:9-11)。それ以降、ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に割礼を受けるようになりました。なお、この義務は男性だけのものです。ところが、その割礼がやがて、「割礼を受けなければ救われない」とされ、割礼が救いの条件になっていきます。パウロは「それはおかしい。私たちはキリストの十字架死という恵みによって救われるのであり,割礼の有無は関係がない」と主張し、エルサレムの使徒会議もその主張を受け入れました。そして、異邦人は割礼を受ける必要はないと決定されました。しかし、一部のユダヤ人信徒は依然として割礼の必要性を主張し、それがガラテヤ教会を混乱させていたのです。割礼は新約聖書に48回出てきますが、その半数はガラテヤ書とローマ書です。「割礼を受ける、受けない」は、ユダヤ人信徒と異邦人信徒の混在する教会に置いて起こった出来事なのです。
・その彼らにパウロは語ります「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(3:1)。「もし、割礼を受けなければ救われないのなら、キリストの十字架死は無駄だったのか」とパウロは迫ります。割礼の問題は、救われるためには何が必要かとの信仰の根本問題に関わります。人間は見えるしるしを求めます。割礼を受ければ救われるというように、救いを見える形にします。それが律法を守るという行為になります。パウロは言います「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(3:2)。あなた方はキリストの贖罪死によって罪を赦されたという福音を聞いて、信じた。その時には、割礼も律法も不要だったではないか、何故、今、「霊=福音によって始めたのに、肉=割礼によって仕上げようとするのですか」(3:3)とパウロは語ります。

2.あなた方は神の子とされた

・パウロは創世記にあるアブラハムの生涯を通して、救いとは何かを解き明かしていきます。彼は語ります「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(3:6)。創世記は記します「主は彼を外に連れ出して言われた『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい・・・あなたの子孫はこのようになる』。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:5-6)。その時、アブラハムには子供がおらず、また生まれる当てもありませんでした。妻サラは子が産めない体でした。相続人のいないアブラハムに「あなたの子孫は天の星のように増える」と宣言されて、彼は約束を信じ、義とされました。その時、アブラハムは割礼を受けていません。無割礼の時に救われたのであれば、何故割礼が救いの条件になるのかとパウロは問いかけます。アブラハムは救われたしるしとして割礼を受けたのに、いつの間にか、割礼が救いの条件になった、それはおかしいと彼は語るのです。
・パウロは続けます「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(3:10)。律法は人を救いません、何故なら、人は律法を守ることが出来ないからです。現在の国々の平和は、襲われたら襲い返すという威嚇の下に保たれています。武器は人を殺すためにあり、武器のない軍隊はなく、軍隊のない国はありません。日本は先の大戦で多くの命を失い、そのため憲法に武器を持たず、戦争をしないと憲法9条に明記しましたが、不安になり、憲法を改正しようとしています。今の日本は「割礼を受けようとするガラテヤ教会」とそっくりです。人間が戦争をやめることができないことは、「殺すな」という命令を守ることの出来ないしるしです。
・また「姦淫するな」と言われても、私たちは姦淫を犯し続けています。今日、結婚の三分の一は離婚で終わりますが、離婚原因は多くの場合、夫婦どちらかの不倫です。あのダビデ王でさえ、ウリヤの妻バテシバを欲して夫を殺しています。人は姦淫するなという戒めを守ることが出来ないのです。「盗むな」といわれても盗み続けます。上場企業でさえ、会計を不正操作して、株主や社員からお金を盗み取っています。アマゾンやアップルのような世界的大企業は複雑な会計処理により、実質的に税を払っていません。違法ではありませんが、責任ある大企業の為すべきことではありません。パウロが叫んだ通りです「正しい者はいない、一人もいない」(ローマ3:10)。
・人は律法を守ることは出来ない、つまり律法によっては救われない、だからこそ、キリストが十字架で死なれたのです。それが次の言葉です「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした」(3:13-14)。律法の視点から見れば、「木にかけられたキリスト」は呪われています。しかし神はそのキリストを十字架の死から起こされた、つまり律法の呪いから起こされ、そのことを通して神は律法の無効を宣言されたとパウロは語るのです。

3.相手を憎まない自由

・今日の招詞として、ローマ2:25を選びました。次のような言葉です。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」。割礼はイスラエルが約束の民とされた祝福の儀式です。肉を切り取るという痛みを通して神の民になる犠牲を受ける象徴でした。最初に与えられた律法は、十戒で、中核は安息日規定でした。民はエジプトでは奴隷であり、土曜日も日曜日も酷使された、その彼らに「週一日は休みなさい」として安息日が与えられました。しかし、時代が経つに従い、安息日の意味が変わってきます。「安息日には仕事をしてはいけない」、「安息日に仕事をする者は罰する」、やがては「安息日を守らない者は死刑にする」とまで規定が強化されます。律法の祝福が呪いになる、そこに律法主義の問題が生じるのです。
・これは旧約時代だけの話ではありません。日本のキリスト教はアメリカのピューリタン主義の影響を強く受け、禁酒・禁煙の伝統があります。酒やタバコは人体に害をもたらす。ある人がバプテスマを受けたのを契機にお酒をやめました。彼は祈りました「神は体を霊が宿る聖なる宮とされた。この宮をアルコールで汚すことはやめよう」。信仰からくる美しい決断です。しかし、自分がお酒を止めた人は、他の人がお酒を飲むことを許せなくなり、言い始めます「あなたはクリスチャンなのにお酒を飲むのですか」。やがて発言がエスカレートし、「あなたがクリスチャンであればお酒をやめなければいけない」と言い出します。この時、彼の信仰は律法主義に、人を呪うものに変わっていきます。
・パウロは本来の律法とは「隣人を自分のように愛することだ」と言います(5:14「律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされる」)。人はキリストに出会い、自由にさせられることを通して、自分の中にある「肉の欲」が、「霊の愛」に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。「自分も飲まないのだからあなたも飲むな」と肉の欲は強制します。他方、愛は自分が相手に仕えていく行為です。「私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者のあり方です。
・福音さえも律法化します。礼拝は恵みの時、神に出会う時です。だから私たちは礼拝を大事にします。しかし大事にした時、礼拝を休む人のことが気になり、やがて「礼拝を守らない人は救われない」と言い出しかねません。その時、福音が律法化します。礼拝に来ない人を呪うのではなく、「礼拝に来ることの出来ない人のために祈り続けていく」、それが福音に生かされた者のあり方です。どうすればそのような生き方が出来るのか。私たちが福音の原点、キリストの十字架に立ち戻った時です。パウロは語ります「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(1コリント8:11)ことを思い起こす時、私たちはもはや兄弟を憎むことは出来ません。自由とは何をしてもよいことではありません。そうではなく、兄弟を憎まない自由、兄弟の悪口を言わない自由、兄弟のために祈る自由が、与えられているのです。キリストの十字架に接して、私たちは兄弟を憎まない自由を強制ではなく、自由意志で選び取っていくのです。


カテゴリー: - admin @ 08時21分24秒

05 05

2019年5月5日説教(ガラテヤ2:15-21、信仰はあなたを自由にする)

1.律法からの解放

・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤ書の主題は、「律法からの解放」です。パウロは小アジア(現在のトルコ地方)のガラテヤ地方を何度か訪れ、そこにいくつかの教会が生まれました。彼はその後エペソに移りましたが、そのパウロのもとに、「ガラテヤの人々がパウロの伝えた福音から離れ、割礼を受けようとしている」との知らせが届きました。パウロの去った後に、エルサレム教会から派遣されたユダヤ人キリスト者たちが訪れ、「信仰だけでは人は救われない。私たちユダヤ人のように、割礼を受けて、律法を守らなければ、本当の救いはない」と宣教し、人々がその教えに従おうとしたのです。
・割礼とは何か、聖書辞典を見ますと、次のように記載されています「割礼、ヘブル語ムールは『切り取る』、『切り捨てる』という意味を持つ。またギリシア語ペリテムノーは『周りを切る』という意味で,男性の性器の亀頭を覆っている包皮を切開、もしくは切り捨てることを指す。割礼がユダヤ人の間で宗教的儀式として行われるようになったのは、神とアブラハムとの契約のしるしとして、アブラハムの家のすべての男子が割礼を受けたことによる(創世記17:1‐14)」。創世記は選びのしるしとして、イスラエルの民は割礼を受けるように神が命じ、もし割礼を受けない男子がいるならば、その者は民から断ち切られると記しています(創世記17:23‐27)」。 割礼はユダヤ人にとっては「救いのしるし」であり、当然受けるべきものでした。当時聖書は今日で言う旧約聖書しかなく、その聖書が「割礼を受けよ」と命じるのであれば、受けなければいけないとガラテヤ教会の人々が考えたのは当然です。今日でもユダヤ教徒及びその流れを汲むイスラム教徒は割礼を受けます。
・それに対してパウロは「あなた方は間違っている」と声を大にして叫びます。そのパウロが教会の人々を説得するために書いた手紙がガラテヤ書です。パウロは語りました「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(1:9)。パウロが述べ伝えたのは「十字架の福音」でした。人はキリストの十字架の贖いにより救われる、それなのに救いのために割礼が必要であれば、「キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。パウロはその意味を明らかにするために、自分が割礼論者と戦ってきた歴史を述べます。
・パウロの弁明は1章13節から始まります。「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(1:13-14)。パウロは熱心な律法主義者、割礼論者でした。そのパウロに復活のイエスが啓示され(1:15-16)、彼は間違いを悟り、福音の迫害者から伝道者に変えられます。彼は最初ダマスコで、その後故郷のタルソスで、10数年の年月を福音伝道についやします。そのタルソスにバルナバが来て、パウロをアンティオキア教会の協力者に迎えます。そのアンティオキア教会で「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)。エルサレムに最初のキリスト教会が建てられましたが、その教会はあくまでもユダヤ人のための教会でした。しかし、アンティオキアに生まれたのはユダヤ教の伝統から自由な、異邦人もユダヤ人も共に礼拝するキリスト教会でした。
・しかし、エルサレム教会の人々はそれを喜ばず、『異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない』と主張し、教会内に混乱が起き、バルナバとパウロは問題を話し合うためにエルサレムに行きます(使徒15:1-2)。使徒会議とよばれる最初の教会会議です。パウロは書きます「十四年たってから、私はバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際テトスも連れて行きました・・・私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした」(2:1-3)。パウロの弟子テトスは異邦人であり、当然「割礼を受けさせよ」との圧力がかかりましたが、パウロはそれを拒否し、エルサレム教会の人々もそれを容認しました。会議では異邦人に割礼を強要しないことが決められます。パウロは語ります「彼らは私に与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、私たちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々(ユダヤ人)の処に行くことになったのです」(2:9)。割礼問題は解決したと思われていました。

2.律法から自由でない人々との戦い

・しかし会議で決まったもののユダヤ人の律法に対する執着は消えませんでした。パウロの理解者であったペテロやバルナバでさえも、律法主義者に押されて妥協し始めます。「ケファがアンティオキアに来た時・・・ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」(2:11-13)。パウロはこの事態に直面し、激しくペテロに抗議します。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」(2:14)。
・当時、主の晩餐式は共同の食事の中で営まれていました。共に食卓につかないことは、共に礼拝をしないことを意味し、見過ごしに出来ない問題でした。だからパウロはユダヤ人キリスト者の態度を激しく批判します「律法により救われるのならキリストは何のために死んだのか」と。彼は手紙に書きます「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(2:16)。律法(善い行いや割礼)によっては誰も救われない、だからキリストの十字架を仰ぐ、それなのにまた律法に戻ろうとする。それはキリストの死を無意味にすることだとパウロは語ります「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。
・パウロ熱心な律法学者として、律法による救いを求めて苦闘しました。その体験からパウロは語ります。「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:19-20)。「律法は人を救えない。私は復活のキリストに出会ってそれを知った。だから私は律法に死に、キリストに生きるようになった」と彼は語るのです。

3.信仰はあなたを自由にする

・今日の招詞にガラテヤ3:27-28を選びました。次のような言葉です。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。律法主義(善い行いをすれば救われる)の下にある人間関係の基本は差別です。割礼を受ければ救われると信じるユダヤ人は、無割礼の異邦人を蔑みました。女性は教育を受ける機会を与えられませんでした。そのため、「無知なる者」として蔑まれていました。奴隷には人権など認められていません。律法順守という人間的な功績を誇る考え方は、自己義認に繋がり、他者を排斥します。
・21世紀に住む私たちは、男女は同権であり、民族の上下もないと信じています。だから「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」というパウロの言葉を当然として聞きます。しかし、2000年前にはそれは当然ではありませんでした。当時のユダヤ教のラビの祈りが残されています「神は褒むべきかな、私を異邦人には造られなかった。神は褒むべきかな、私を女性には造られなかった。神は褒むべきかな、私を野蛮な者には造られなかった」。当時の人々は優劣があるのは当然だと思っていたのです。その中でパウロは語ります「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたはキリスト・イエスにおいて一つだからです。そこには何の差別もありません」。これは現代においてもその重要性を失っていない言葉です。何故なら、この差別の論理は今日の世界にも根強く残っているからです。
・世の人々は語ります「能力のある者はそれに見合った収入を得るべきであるし、多く努力した者はそれだけ多くの報いを得るべきである。もし全てが平等無差別であれば、人間は向上心を失い、怠け者の社会になってしまう」。一見もっともな論理ですが、それは強者の論理であり、聖書はそれを明確に否定します「もし能力によって差別がなされた時、身体障害者や知的障害者は低い生活に甘んじるのが当然になる。もし働きによって差別がなされた時、病人や老人は押しのけられる。神はそのような社会を望んでおられない」。
・今年の東大入学式で社会学者の上野千鶴子さんは述べました「あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、(女性差別の東京医科歯科大学)不正入試に触れた通り、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください・・・あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください」。上野さんの言葉は多くの人の心に響きました。まさにパウロの代弁者です。
・「律法ではなく信仰こそ」を唱えるガラテヤ書は、ルターを通して宗教改革を生み出しましたが、現代においても本当の「平等と公平とは何か」を人々に迫ります。福音は、律法からの解放をもたらし、その結果、差別からの解放をもたらします。「キリストを着る」ことにおいてすべての人は平等で、キリストにあっては「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」のです。今日の世界において、依然、民族の差別があり、女性は男性と同権ではなく、貧乏人は卑しめられています。神学的に言えば、この世の人々はまだ「罪の縄目の中に縛られている」、相変わらず律法主義に囚われています。私たちの社会は、まだ解放されていない。だから、私たちは、キリストの福音を宣べ続けなければいけない、そのためにここに集められているのです。


カテゴリー: - admin @ 07時52分22秒

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2019年4月28日説教(ガラテヤ1:1-12、キリストの福音から離れるな)

1.福音を捨てて律法に戻ろうとする人々へ

・今日から6回にわたってガラテヤ書を読んでいきます。ガラテヤ書は短い書簡ですが、この書は宗教改革者マルティン・ルターがカトリック教会に対して反旗を翻す契機になった書簡として知られています。中世のカトリック教会は免罪符を買えば、罪の償いを軽減する証明書を発行していました。従来、キリスト教徒が罪を犯した場合、まず罪を悔い改め、司祭に告白し、最後に償いをすることが必要でしたが、免罪符という便利な制度が出来て、罪の償いをお金で買えることになりました。発端は十字軍時代で、十字軍に参加できない者は寄付を行うことで罪が許されることになり、その後、教会の建設費などの費用捻出のために免罪符が繰り返し販売されるようになります。教皇レオ10世は、サン・ピエトロ大聖堂建築の資金調達のため、ドイツで免罪符を販売します。しかしルターは「救いをお金で買うのはおかしい」として反発し、その根拠をガラテヤ書の信仰義認の教えに見出しました。信仰義認、「救いは神から来る恵みだ。そのために善行を積み、ましてや免罪符を買って救われるのではない」という信仰理解です。
・お金で救いを買うのは論外でしょうが、善行等の行いを通して救われるとの思想は私たちの中にもあります。善い行いを積めば神は報いて下さるとの考えです。また人は儀式の中に救いの要素を見ます。例えば洗礼(バプテスマ)がそうです。洗礼は救われた感謝として受けますが、いつの間にか「洗礼を受けたのだから私は天国に行ける」、「あの人は洗礼を受けていないから救われない」と言い始めます。洗礼という感謝の行為が、いつの間にか救いの条件になってしまい、受けない人を排除するようになります。時には、それが教会を二分する争いになります。ガラテヤ教会における割礼の問題も洗礼と同じく、受けなければ救われないのかという疑問を提示する課題でした。
・ガラテヤは今のトルコ、当時の小アジアをさす言葉です。パウロは小アジア地域のアンティオキアやルステラ、イコニウム等の諸都市を何度か訪れて伝道し、ガラテヤ地方にいくつかの教会が生まれました。彼はその後エペソに移りましたが、そのパウロの所に、「ガラテヤの人々がキリストの福音から離れ、割礼を受けようとしている」との知らせが届きました。パウロは、ガラテヤの人々がこんなにも簡単に福音から離れて行ったことに驚き、失望して、手紙を書きました。「キリストの恵みへ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています」(1:6)。パウロの去った後に、エルサレム教会から派遣されたユダヤ人伝道者たちがガラテヤ地方を訪れ、「信仰だけでは人は救われない。割礼を受けて、律法を守らなければ、本当の救いはない」と宣教し、人々がその教えに従おうとしたのです(使徒15:1)。
・その人々に、パウロは語ります「ほかの福音といっても、もう一つ別の福音があるわけではなく、ある人々があなたがたを惑わし、キリストの福音を覆そうとしているにすぎないのです」(1:7)。パウロは続けます「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい。私たちが前にも言っておいたように、今また、私は繰り返して言います。あなたがたが受けたものに反する福音を告げ知らせる者がいれば、呪われるがよい」(1:8-9)。「異なる福音などない。キリストを信じるか、サタンを信じるかのどちらかだ」とパウロは激しい言葉で語ります。パウロは本気で怒っているのです。
・「仮に救われるために割礼が必要なのであれば、キリストは何のために十字架に死なれたのか」とパウロは追求します。「キリストは、私たちの神であり父である方の御心に従い、この悪の世から私たちを救い出そうとして、御自身を私たちの罪のために献げてくださった」(1:4)。キリストの十字架を通して私たちは救われた、「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(5:2)。あなたがたは罪の中に閉じ込められていた。そのあなた方を自由にするためにキリストは死んで下さった。その死を無駄にするのかとパウロは述べています。

2.何故人は律法に惹かれるのか

・ここで問題になっている律法とは、神の戒めです。「殺してはいけない」、「姦淫してはいけない」、「盗んではいけない」等々が、人間のあるべき規律として与えられました。この教えが何故、人を罪の地獄に追いやるのでしょうか。最初に律法が与えられたのはモーセの時代でした。人々はエジプトで奴隷として働かされ、休息の日はありませんでした。その彼らがエジプトから救い出された時、安息日規定が与えられました。出エジプト記は語ります「あなたは六日の間、あなたの仕事を行い、七日目には、仕事をやめねばならない。それは、あなたの牛やろばが休み、女奴隷の子や寄留者が元気を回復するためである」(23:12)。エジプトであなたがたは奴隷として働かされ、休むことができなかった、今あなたがたは救われて自由になった、だから七日目には休みなさいと神は言われたのです。恵みとして安息日が与えられ、人々は安息日に礼拝を持ちます。しかし、その規定が時代を経て少しずつ変わっていきます。安息日に礼拝に参加しない人が出始め、規定は「安息日を守らない者は罰する」に、最後には「安息日を守らない者は死刑にする」と変わっていきます。安息日の礼拝を大事に守る人は、守らない人を許せなくなるのです。そのため、祝福が呪いに変わっていきました。
・割礼もそうです。最初に割礼を受けるように求められたのはアブラハムでしたが、それはアブラハムが選ばれて神の民となったのだから、「恵みのしるしとして一族すべてが割礼を受けなさい」というものでした(創世記17:9)。祝福のしるしとしての割礼だった。ところがそのうちに、「割礼を受けない者は救われない」、「割礼を受けない者は呪われる」と変わっていきます。エルサレム教会から派遣された伝道者たちも、ユダヤ人として割礼を受けていました。だから他者にも割礼を強要するようになり、いつの間にか、割礼を受けることが救いの要件になっていきます。恵みとしての律法が、人を縛り、不自由にさせるものに変化していきます。
・ここに人の罪があります。パウロが批判するのは、律法そのものではなく、人を奴隷化する律法主義です。「神の子とされたしるしとして割礼を受けなさい」という祝福が、「割礼を受けなければ救われない」という呪いに変えられていく。「週に一度は休みなさい」という祝福が、「安息日を守らない者は呪われる」という規定に変わって行く。そこに人の罪があり、その罪の贖いのためにイエスが十字架につかれたのです。人が再び神の子としての自由をいただく道がキリストによって与えられた、それが福音だ、それなのにあなたがたは、この福音を捨て、奴隷の道である律法主義に戻ろうとしているとパウロは警告します。反対者たちは、パウロの教えはエルサレム教会の教えと異なるから誤りだと主張しました。これに対して、パウロは、自分は人からではなく、直接キリストから啓示された福音を伝えていると反論します。「私が告げ知らせた福音は、人によるものではありません。私はこの福音を人から受けたのでも教えられたのでもなく、イエス・キリストの啓示によって知らされたのです」(1:11-12)。

3.恵みを無駄にするな

・今日の招詞にガラテヤ2:16を選びました。次のような言葉です「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」。
・中世カトリック教会は免罪符(贖宥状)を買えば、罪の償いを免じる証明書を発行していました。ルターは反発し、1517年10月31日にヴィッテンベルク大学聖堂の扉に95箇条の論題(贖宥状の意義と効果に関する見解)を提示しました。これは当時のカトリック教会の贖罪理解に疑義を呈して発表した提題であり、ローマ教皇の金権主義に反発していた人々を巻き込み、議論は政治論争へと発展し、「プロテスタント」と呼ばれる新しい教会を生み出します。多くの歴史家はこの宗教改革こそが、ルネサンスや新大陸発見と並んで近代を形成する原動力になったと考えています。
・ルターが問題にしたのは、「人は善行を積むことによって救われるのか」、という救いの根本問題であり、ルターはその行為義認の教えが、ガラテヤ書の「律法の実行によっては、だれ一人として義とされない」としたパウロの言葉によってあやまりであることに気づきます。「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされる」。人を救うのは神であり、人の行為ではない。その真理をルターはパウロから学び、この信仰義認に基づく行為こそが中世を終わらせ、新しい時代を築いたのです。パウロはガラテヤ書の中で、律法主義者に妥協するペテロを叱責しています(2:11—12)。初代教会の柱であったペテロをさえ叱責するパウロの姿勢の中に、ルターは当時の世界指導者ローマ教皇に逆らってまでも真理を主張する勇気をいただいたのです。「ペテロが間違えたようにローマ教皇も誤謬を犯す」、16世紀の人々が考えもしなかった主張をルターに与えたのは、ガラテヤ書のパウロです。パウロは語りました「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです」(6:14)、キリストが死んでくださったように私たちも罪に死ぬ、そのことを通して神の恵みが見えてくる、その恵みを通して、「この悪の世から、世のしがらみから救われ」、新しい人生に導かれるのです。


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04 21

2019年4月21日説教(ルカ24:33−49、復活のイエスの証人として)

1.弟子たちに現れたイエス

・イースター礼拝の時を迎えました。イースター(復活)は教会にとって何よりも大事な事柄です。何故ならば教会の礼拝はその基本において、「主イエス・キリストのよみがえり=イースターを信じる」ことにおいて成り立っているからです。復活された主は「今も共に生きておられる」、私たちはその復活の主に会うために、日曜日に教会に集まり、主を礼拝します。教会の礼拝はすべて、「主のよみがえりを記念するイースター礼拝」です。それほど「主イエス・キリストのよみがえり」は大きな意味を持ちます。その次第を記した文書が本日読みますルカ24章です。
・イエスは金曜日に十字架で亡くなられましたが、翌土曜日は安息日のため、一日待って、三日目の朝、日曜日早朝に、婦人たちは墓に急ぎました。あわただしく十字架から降ろされ、仮埋葬されたイエスの遺体に油を塗って丁寧に埋葬するためです。ところが、婦人たちが墓についた時、イエスの遺体はそこになく、二人の天使が現れ、「なぜ生きておられる人を死者の中に探すのか。イエスはよみがえられてここにおられない」と告げます(24:5-6)。婦人たちはそのことを弟子たちに報告しますが、弟子たちはそれを「たわごと」と思い(24:11)、信じなかったとルカは記します。
・同じ日曜日の昼間、エマオに帰る弟子たちにイエスが現れて同行されますが、弟子たちはその人がイエスであることがわからなかったとルカは報告します(24:15-16「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」)。その後エマオに着き、共に食卓に着いて、イエスがパンを割き、祈られた時に弟子たちはその人がイエスだと分ります(24:31)。復活のイエスと出会った弟子たちは心を弾ませて夜の道を急いでエルサレムに戻り(24:33)、仲間の弟子たちに、「イエスが復活された」と伝えます(24:35)。
・その頃、エルサレムに残った他の弟子たちは失意と恐怖の中で、家の戸にかぎをかけて部屋に閉じこもっていました。自分たちも捕らえられると恐れていたからです。そこへイエスが現れます。弟子たちは復活のイエスを見て、「亡霊を見ているのだと思った」(24:37)とルカは記します。あまりにも不思議な出来事で、とても信じることが出来なかったのです。その弟子たちのために、イエスはくぎに刺された手足をお見せになって言われます「私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある」(24:39-40)。
・やっと信じた弟子たちに、イエスは復活の証人になりなさいと言われます「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣伝えられると。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となるのだ」(24:45-47)。復活の日、十字架から三日目の日曜日に、イエスは早朝に婦人たちと墓で出会い、昼にエマオに向かう弟子たちに現れ、夜にはエルサレムに残った弟子たちに現れたとルカは伝えます。

2.私たちにとって復活とは何か

・復活の記事は私たちにいろいろなことを教えます。弟子たちが復活を信じたのは、復活のキリストが弟子たちに現れたからです。しかし、最初は弟子たちも信じることができなかった。婦人たちの証言を聞いても弟子たちはそれを「たわごと」と思い、エマオに向かう弟子たちも同伴したイエスがわからなかった。エルサレムに残った弟子たちも、最初は「亡霊を見ている」のだと思った。復活とはそれほど信じることの難しい出来事なのです。私たちが復活を信じることができるとしたら、それは私たち自身が復活のキリストに出会った時です。
・聖書学者のブルトマンは「新約聖書と神話論」の中で語ります「復活について歴史的に確認できるのは初代の弟子たちの復活信仰のみである。キリストの甦りとしての復活祭の出来事は決して史的出来事ではない。史的出来事としては、復活祭信仰は初代の弟子たちの信仰だけが把捉しうる」と。学問的には彼の語る通りで、人間の理性で判別できるのはそこまでです。それに対して、信仰者は理性を超えた真実を主張します。教義学者カール・バルトは反論します「ブルトマンは、甦りの出来事を“復活者を信じる信仰の発生”として解釈している時、復活の出来事を“非神話化”している。復活者を信じる信仰の発生は、復活者が歴史的に出現することによって起こって来るのであり、復活者の歴史的出現それ自体が甦りの出来事である。イエスご自身が甦って彼の弟子たちに現れ給うたのであって、そのことが甦りの歴史と甦りの時間の内容であり、その当時とあらゆる時代のキリスト教信仰とキリスト的宣教の内容である」。
・私たちはカール・バルトを支持します。何故ならば私たちも、それぞれの場で、復活のキリストに出会ったから、今ここにいるのです。もし、私たちが出会ったイエスが偽りであり、幻であるとすれば、私たちには何の希望もなくなり、私たちの信仰もまったくの無駄になります。パウロが言う通り、「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(第一コリント15:14)。しかし私たちは復活のイエスに出会った、だから復活を信じます。
・そして復活を信じることによって、私たちはもはや死を恐れる必要はなくなり、死の縄目から解放されます。死の縄目から解放されるということは、死ですべてが終わらないから、現在の生を大事にする生き方をすることが出来ます。死に勝たれた方がおられるから、私たちは現在がどのように絶望的で、出口が見えない状況にあっても、希望を失わずに生きていくことが出来ます。この復活の希望があるからこそ、私たちは自分の十字架を負って、イエスに従っていきます。復活はそれほどに私たちにとって大切な出来事なのです。
・教会はこの復活信仰の上に立てられています。私たちは日曜日を「主の日」と呼び、この日に礼拝を守りますが、これは金曜日に十字架で死なれたイエスが、三日後の日曜日に復活されて弟子たちの前に現れたことから、教会はこの日を「主の日」と定め、日曜日に礼拝を守るようになりました。当時の人々にとって聖書(現在の旧約聖書)は絶対の神の言葉でした。その中心となる十戒には「七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20:10)と規定します。「七日目」、つまり土曜日が安息日であったのに、教会はこれを「日曜日」に変えた。これは大決断でした。日曜日はそれほど重い日であり、私たちは復活の主に出会うために日曜日に教会に来るのであり、ホリデーではないことを銘記したいと思います。

3.復活の信仰に生きる

・復活されたイエスは弟子たちに「あらゆる人々に福音を告げなさい」と命令されました(24:47)。今日の証詞に私たちはマタイ28:19-20を選びました。次のような言葉です「だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。
・「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子としなさい」、これが復活の主が私たちに命令されたことです。その命令を受けて弟子たちは宣教を始め、教会が立てられて行きました。教会はエルサレムから始まり、ローマ世界に広がり、ヨーロッパに広がり、アメリカに行き、そのアメリカを通して日本にも伝えられました。日本人もこの宣教命令を受けて教会を立て、新小岩教会が立てられ、新小岩教会の伝道所としてこの篠崎教会が立てられました。篠崎教会が立てられたのも、新小岩教会の人たちが、このイエスの宣教命令を自分たちへの言葉として聞いたからです。自分たちだけの信仰生活を守るのであれば、篠崎の地に教会を立てる必要などありません。そうではなく、篠崎に住む人々にイエスの言葉を伝えるために必要だからこそ、この地にこの教会が立てられた。それは復活のイエスの命令にその根拠を置く行為です。
・私たちはこの宣教命令、「あらゆる人々に福音を告げなさい」という命令をどう聞くのでしょうか。私たちが自分の信仰生活を守るだけであれば、ここ篠崎に教会がある必要はないかもしれません。今、多くの人々が小さい教会を離れて大きな教会に移動しています。大きな教会は教会員がたくさんいるから献金負担も軽いし、奉仕も誰かがしてくれる、重荷を担わなくとも教会生活ができるからです。それに対して小さい教会の場合は、教会員が少ないから、一人一人への負担が経済的にも、また奉仕の面でも重くなります。私たちがただ礼拝を守りたいだけであれば、この篠崎教会は不要です。近くに他の教会もあるし、無理して篠崎教会を維持する必要はありません。そうではなく、この地域の人に伝道することが教会の使命であり、それが復活の主が命じられたことだと私たちが理解する時だけ、この地に教会が必要です。
・パウロは復活の主に出会った経験をコリント教会への手紙の中で書きます。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。・・・ 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。」(第一コリント15:3-8)。復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであり、その他の人たちは復活のキリストに出会っていないことに注意する必要があります。復活のキリストは霊の体であり、信仰なしには見えないのです。私たちは復活のキリストに出会って、心が熱く燃えた経験を持ちます。今も熱く燃えているかが課題です。
・今、私たちの教会は存続の危機に立っています。古くからこの教会を支えてくださった方々が、お年を召したり、病気になられたりで、共に礼拝を守れなくなっています。他方、新しく会員になって支えて下さる方も少ない。いま、この教会は皆さんの力が必要です。もし皆さんが、今も熱く燃えているならば、この篠崎教会を基点として、ご一緒に伝道にまい進して行きたいと願う。もし、皆さんの熱が少し冷めているならば、今改めて復活のキリストを呼び求めてほしい。皆さんなしには、この教会は伝道できないのであり、皆さんなしにはこの教会は存続し得ない。この教会が復活のキリストの命令に応えて立てられていることを共に覚えたい。


カテゴリー: - admin @ 08時20分38秒

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