すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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07 21

2019年7月21日説教(創世記39:1-23、主が共におられた)

1.エジプトに売られたヨセフ

・ヨセフ物語を読み続けています。ヨセフの父ヤコブはヨセフを偏愛し、ヨセフには兄たちと違う特別の着物を着せ、羊飼いの仕事をさせないで手元に置いて、秘書の仕事をさせていました。父親の偏愛を受けたヨセフは次第に兄たちを見下すようになり、兄たちはヨセフを憎み、商人たちに売り渡し、ヨセフはエジプトに奴隷として売られて行きます。その売られた先は、エジプト王の侍従長ポティファルの家でした(新聖書協会訳“親衛隊長”)。「主が共におられたので、ヨセフはポティファルの信頼を得た」と創世記は語ります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」(39:1-4)。ヨセフはポティパルの家で10年間働き、17歳の青白い少年が今や20代の堂々の青年になっています。
・ヨセフはその能力と忠実さによって主人の信頼を得て、家令(財産管理人)に任じられました。彼は奴隷ではあっても安定した生活に満足しています。そこに思わぬ出来事が起こります。主人の妻が美貌のヨセフに思いをかけて来たのです。「主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。『私の床に入りなさい』」(39:5-7)。しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に語ります。「ご存じのように、御主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべて私の手に委ねてくださいました。この家では、私の上に立つ者はいませんから、私の意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(37:8-9)。
・主人の妻はそれでも毎日ヨセフに言い寄り、あるとき強引にヨセフに関係を迫り、ヨセフは彼女の手に着物を残して逃げます。「彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『私の床に入りなさい』。ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」(39:10-12)。
・主人の妻にとってヨセフと寝ることは快楽の追求でした。しかし、ヨセフにとってそれは命にかかわる出来事、破滅への道でした。ヨセフは彼女から逃げます。拒絶された妻は腹いせにヨセフを告発し(39:13-18)、怒った主人はヨセフを投獄します「『あなたの奴隷が私にこんなことをしたのです』と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた」(39:19-20)。この事件を通してヨセフはイスラエルの知恵の言葉を思い起こしたでしょう。「彼女の美しさを心に慕うな。そのまなざしのとりこになるな。遊女への支払いは一塊のパン程度だが、人妻は貴い命を要求する」(箴言6:25-26)、「彼女(人妻)の家は陰府への道、死の部屋へ下る」(箴言7:27)。「人妻は貴い命を要求する」、姦淫は人と人の関係を破壊する毒なのです。

2.主が共におられた

・ヨセフは不当な姦淫の誘いを断った故に投獄されますが、創世記39章は37章と連続しており、間に38章が挿入されています。38章はヨセフの兄弟ユダが嫁のタマルと過ちを犯し、その結果嫁タマルの妊娠を通して子が生まれるという姦淫の物語です。何故直接的にはヨセフ物語と関係しないユダ物語がここに唐突に挿入されているのでしょうか。多くの注解者は、ヨセフの兄ユダは姦淫の罪を犯したが、弟ヨセフはそれを拒否した、その対比を見よと創世記編集者が語っていると理解します。だから38章もまた大事なヨセフ物語の一部なのです。そして後代の私たちは、この創世記38章の出来事がマタイによってイエスの系図の中に挿入され、タマルの生んだペレツがイエスの系図を構成している事実を知ります(マタイ1:3)。私たちの信じる神は姦淫の罪を犯さざるを得なかったユダとタマルの弱さを赦し、タマルの子をダビデの祖先の一人に、そして神の子イエスの系図に入れて下さった。創世記38章に福音が隠されています。
・そして姦淫を拒否した故に獄に入れられるヨセフがその苦難を通して、新しい希望を見出す物語が39章後半から展開していきます。別の福音の物語がここから始まります。主人ポティファルはヨセフを投獄しましたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎であり、そのことが、ヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となります。しかし投獄されたヨセフには先のことは見えません。ただ創世記は監獄の中でも主はヨセフと共におられたため、看守長もヨセフを信頼して全てを任せるようになったと記します。「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手に委ね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手に委ねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」(39:21-23)。
・創世記39章には「主が共におられた」という言葉が5回も出て来ます(2,3,5,21,23節)。全ての出来事を「主の導き」と信じる時に、出来事の意味が見えてきます。詩篇105は歌います「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現する時まで」(詩編105:16-19)。「御言葉が実現する時まで」、ヨセフは「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められ」ます。

3.神の経綸に従う

・ヨセフは主人の妻から言いがかりをつけられた時も、無言で主人の妻の罪を自ら担います。神の摂理を信じる者は未来を神に委ねて生きることが出来るゆえに、苦難の中でも平静です。今日の招詞に詩編119:71-72を選びました。次のような言葉です「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました。あなたの口から出る律法は私にとって、幾千の金銀にまさる恵みです」。ヨセフの獄中生活は3年間にも及びました(41:1)。無実の罪での3年間の投獄は長い。ヨセフの気持ちの中では希望と失望が交互していたであろうと思えます。
・それに対して創世記注解者リュティは語ります「バプテスマのヨハネは荒野で生活し、ヘロデ王の城内にある地下牢で処刑されます。パウロは多くの刑罰を受けながらも福音伝道を続け、最後はローマで処刑されました。神は十字架上から『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫ばれた御子イエスを十字架に残されました。しかし神はそこにおられました・・・艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることへの反証ではない。むしろ、神が我々と共におられることの証拠です」(ヴァルター・リュティ「創世記講解25-50章」223p)。
・与えられた出来事を災いと思う時、その出来事は人の心を苦しめます。しかし出来事を神の摂理と理解した時、新しい道が開けます。ヨセフは不当な罪で投獄されましたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎で、この投獄がやがてヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となります。その時のヨセフには先は見えませんでしたが、主の導きを信じて待ちました。
・今日の招詞、詩編119編はバビロン捕囚時の詩と言われています。イスラエルの民は、エルサレムが占領され、信仰の中心だった神殿も破壊され、自分たちも遠いバビロンに連れ去られた時、神の導きが分からなかった。捕囚は七十年にも及んだため、「主よ、何故、私たちをこのように苦しめるのですか」と嘆いて、死んで行った人も多かった。しかし、この70年の試練を経て、イスラエル人は神の民として自立していきます。旧約聖書が編集され、ユダヤ教が宗教として成立したのも、捕囚の時代でした。イスラエル人を捕囚したバビロン人は滅び、バビロンを滅ぼしたペルシャ人も滅び、そのペルシャを制圧したローマ人も滅びましたが、ユダヤの民は今日でも民族として残り、その時代に編集された旧約聖書は、今なお読み続けられ、人々に生きる力を与え続けています。
・「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました」と詩編作者は歌いました。人は卑しめられなければ、底の底まで落ちなければ、神を求めない存在なのです。地獄を経験した故に、ヨセフは兄弟たちに語ることが出来ました「今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:4-8)。この言葉をヨセフが言えたのは、途上において様々な試練があったからです。「御言葉が実現する時まで」、「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められた」からです。リュティが語るように、「艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることの証拠」なのです。これを知らされた者は幸いです。


カテゴリー: - admin @ 08時00分17秒

07 14

2019年7月14日説教(創世記37:12-36、不和を和解へと導かれる神)

1.兄弟たちの嫉妬が悲劇の引き金となる

・創世記からヨセフ物語を読んでいます。その始まりである創世記37章の主題は、「兄弟の不和」です。ヤコブは12人の子供を持ちましたが、最愛の妻ラケルの子であるヨセフを偏愛し、他の兄弟と区別しました。そのことが兄弟間に不和を生みます。「イスラエル(ヤコブ)は、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」(37:3)。「長い晴れ着」とは王侯貴族のみが着ることを許された特別の着物で、それを与えられたことは、11番目の息子であるヨセフを、他の兄たちを差し置いて、相続人にすることを意味しています。兄弟たちは当然面白くない、兄たちは「ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(37:4)とあります。
・偏愛されて高慢になったヨセフは「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」と語り、兄たちのさらなる怒りを買います(37:8)。ヨセフはさらに、「両親さえ彼を拝む夢を見た」と語り(37:9)、兄たちばかりか、ヤコブさえも不愉快になります。兄たちはさらにヨセフを憎みました。ここに家族の不和をもたらす三つの出来事が起こりました。親の特定の子への偏愛、偏愛された子の高慢、不公平を強いられた兄たちの嫉妬です。この三つが重なり合い、物語を新しい局面へと導きます。37章には神の言葉は何も記されていません。そこにあるのは、「夢見る人ヨセフ」の姿です。創世記では、夢は神が与えた使信であり、新しい局面は神の偉大な救済計画の導入となります。しかし、渦中にいる人間には神の計画は見えません。

2.エジプトに奴隷として売られるヨセフ

・ヨセフは父に命じられて、兄たちが羊を飼うシケムの地を訪問します。創世記は記します「兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていた時、イスラエルはヨセフに言った『兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずだ。お前を彼らのところへやりたいのだが・・・兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか』」(37:12-14)。シケムにいた兄たちは遠くからヨセフが長い晴れ着を着てくるのを見た時、日ごろからの憎しみが殺意にまで高まります。彼らはヨセフを殺してしまおうと相談します。「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう』」(37:18-20)。
・最年長のルベンは弟を殺すことに反対します「ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った『命まで取るのはよそう』。ルベンは続けて言った『血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない』」(37:21-22a)。創世記は「ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである」(38:22b)と記します。兄弟たちはヨセフを捕らえて着物をはぎとり、穴の中に投げ込みました。「兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった」(37:23-24)。からの井戸だったのでしょう。もう一人の兄ユダもヨセフを殺すことに反対します「ユダは兄弟たちに言った。『弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから』。兄弟たちは、これを聞き入れた」(37:26-27)。ルベンやユダの言葉の中に、働きかけられる神の姿があります。こうしてヨセフはエジプトに奴隷として売られることになります。
・兄たちは雄山羊の血を着物に浸し、ヨセフは獣に食われて死んだと父に報告します。「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、『これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください』と言わせた」(37:31-32)。父ヤコブは、最愛の子が死んだと聞かされ、晴れ着の血を見せられて、嘆きます。「父は、それを調べて言った『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ』。ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ」(37:33-34)。
・ドイツのノーベル賞作家トーマス・マンは「ヨセフとその兄弟」という長編小説を書いています。創世記のヨセフ物語を基盤にした作品で、「ヤコブ物語」(1933年)、「若いヨセフ」(1934年)、「エジプトのヨセフ」(1936年)、「養う人ヨセフ」(1943年)の4部からなります。物語は1926年から1943年まで足かけ18年にわたって書かれ、邦訳で2000ページを超える大長編です。背景にはナチス・ドイツによるユダヤ人迫害があります。ナチスは、旧約聖書はイエスを殺したユダヤ人の聖典であり、教会で旧約聖書を読むことを禁じました。違反して旧約聖書を語った牧師や神父は強制収容所につながれ、5000人以上が殺されたと言われています。そのような時代にドイツから追放された亡命者であるトーマス・マンが旧約聖書を題材とした長編小説を書き始めたのです。最初の「ヤコブ物語」が完成したのは1933年、ナチスが政権を握った年です。彼は語ります「ユダヤ人を題材とする小説を書くのは、反時代的であるゆえにまさに時代的である」(森川俊夫「ヨセフと兄弟たち」、巻末解説より)。そして最後の「養う人ヨセフ」が書かれたのは1943年、第二次大戦でドイツの敗色が明白になっていた年です。トーマス・マンは自由を圧殺し、聖書の民を抹殺しようとするナチス・ドイツに抵抗するためにこの物語を書いたのです。

3.この物語が意味するもの

・今日の招詞に創世記50:19−20を選びました。ヨセフ物語の最終部分です。「ヨセフは兄たちに言った『恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです』」。イスラエル民族がエジプトに来たのは、紀元前17世紀のヒクソス(ギリシャ語=異国の地の支配者)王朝の頃といわれています。異邦人王朝だったからこそ、異邦人のヨセフを取り立て、その家族の定住も許しました。ヤコブは子供たちに囲まれ、祝福の内に死んでいきました。兄弟たちは父ヤコブが死んだ後、ヨセフが自分たちに復讐するのではないかと恐れ、ヨセフの前に出て赦しを請います。その兄弟たちに語られた言葉が今日の招詞の言葉です。
・「あなたがたは私に悪をたくらみました」、この「たくらむ」と言う言葉はヘブル語の「カシャブ」であり、「神はそれを善に変え」、この「変え」も同じ「カシャブ」という言葉です。「あなたたちは私をエジプトに売るという悪を企んだが(カシャブしたが)、神はあなたたちの悪を多くの民の救いという善に計られた(カシャブされた)。神がそうされたことを知った以上、あなたたちに報復するという悪を私が出来ようか」とヨセフは言ったのです。ヨセフは神の導きを信じるゆえに兄弟たちを赦しました。そのことによってイスラエル民族はエジプトに住み、増え、一つの国民を形成するまでになりました。もし、ヨセフが神を信じず、感情のままに兄弟たちに報復していたならば、イスラエル民族は存続しなかった。悪を行うのは人間ですが、その悪の中にも神の導きがあることを信じる時、その悪は善に変わるのです。
・聖書学者北森嘉蔵は語ります「聖書は人間の罪が悪をもたらすことを明言する。しかしこの悪が神によって善に変えられていく。それが信じるのが聖書の信仰である」(北森嘉蔵「創世記講話」P308-311)。ヨセフ物語が私たちに示しますのはこの摂理の信仰です。「ヨセフとその兄弟」という長編小説を書いたトーマス・マンは物語の最後を締めくくります「かくして終わりを告げるのである。ヨセフとその兄弟たちについての、この美しい物語にして神の発意は」。翻訳者小塩節は述べます「神の発意による、神の計画による物語が、人間トーマス・マンによって語られる。ナチスがどのような暴虐を行おうとも、創造の世界は確固としてある。旧約聖書の事実としてある。それを20世紀の困難な世に現実に生きている人間が再度物語ることによって、命を吹き込む。こうして二つの世界(人間の生きるこの世界と神によって語られるあるべき世界)が一つになる」。どのような時代の中にあっても神は語っておられる、その語りを私は聞いた、だからあなた方に語るとトーマス・マンはいいます(小塩節「トーマス・マンとドイツの時代」)。
・2001年9月11日にニューヨークへの自爆テロで3000人が殺された時、神はそこにおられました。報復で行われたアフガニスタンへの空爆で幼い子供達が死んでいった時も、アメリカ人とイラク人が殺しあうイラクの地にも神はおられました。無差別テロにより3000人が殺されたアメリカは、報復でアフガン・イラクを攻め、その結果、米軍死者は6000人を超え、数十万人の戦争後遺症に悩む自国民を抱えました。さらにアフガン・イラクでは10万人を超える現地の人々も戦争で亡くなりました。3千人の報復のために数十万人が死ぬ、人は愚かです。私たちが神は悪を善に変える力をお持ちであることを信じるゆえに、世界は変わりうると信じます。この歴史の教訓をいかに生かすかが私たちに与えられた宿題です。ヨセフは神の導きを信じて兄弟たちを赦し、そのことによってイスラエル民族はエジプトに住み、増え、一つの国民を形成するまでになりました。悪を行うのは人間です。しかし、その悪の中にも神の導きがあることを信じる時、その悪は善に変わりうる。私たちはそれを信じることを許されているのです。箴言は語ります「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」(箴言16:9、口語訳)。


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07 07

2019年7月7日説教(創世記37:1-11、神の摂理)

1.ヨセフ物語の始まり

・今日から創世記・ヨセフ物語を読んでいきます。アブラハム・イサク・ヤコブと族長の時代が続き、ヨセフはヤコブの子、アブラハムから4代目です。ヨセフ物語は創世記37章から始まります。イスラエル(神と格闘する者)とも呼ばれたヤコブはメソポタミヤでの苛酷な20年間を終えて、故郷カナンに戻ってきました。ヤコブはメソポタミヤで二人の妻が与えられ、最初の妻レアは6人の子を産み、二人のそばめから4人の子が、最愛の妻ラケルからヨセフとベニヤミンが生まれます。この十二人の子がやがてイスラエル十二部族を形成します。妻ラケルは、ヨセフを生み、その後ベニヤミンを生んだ後、お産が原因で亡くなります(35:16-18)。
・妻に死なれたヤコブは愛するラケルから生まれた二人の子たちを、特にヨセフをかわいがりました。ヨセフには兄たちと違う特別の着物を着せ、羊飼いの仕事をさせないで手元に置いて、秘書の仕事をさせていました。父親の偏愛を受けたヨセフは次第に兄たちを見下すようになり、そのため、兄たちはヨセフを憎むようになります(37:4)。この憎しみがやがて兄たちに、ヨセフを殺そうとする気持ちを生ませます。
・その次第を創世記は記します「ヨセフは十七歳の時、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(37:1-4)。「裾の長い晴れ着」、王侯貴族たちが着る着物であり、ヤコブはヨセフを「11番目の子供であるにもかかわらず、その相続者とした」ことを暗示しています。
・偏愛されて高慢になったヨセフは、「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」と語り、兄弟たちの怒りをかいます。創世記は記します「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った『聞いてください。私はこんな夢を見ました。畑で私たちが束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、私の束にひれ伏しました』。兄たちはヨセフに言った『何、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか』。兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ」(37:5-8)。ヨセフ物語では夢が大きな役割を担います。「兄たちの束が周りに集まって来て私を拝む」、兄弟たちは「ヨセフが自分たちの支配者になろうとしている」と理解してヨセフを憎みます。
・ヨセフはさらに、「両親さえ彼を拝む夢を見た」と語り、兄弟ばかりか、ヤコブさえも不愉快にさせます。「ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した『私はまた夢を見ました。太陽と月と十一の星が私にひれ伏しているのです』。今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った『一体どういうことだ、お前が見たその夢は。私もお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか』。兄たちはヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留めた」(7:9-11)。「父はこのことを心に留めた」、古代においては「夢は神からの、語りかけ、また預言である」と受け止められていました。

2.その後のヨセフ

・37章1−11節には、家族に不和をもたらす三つの要素が盛り込まれています。「親の特定の子への偏愛」、そして「偏愛された子の高慢」、「不公平を強いられた兄弟たちの嫉妬」です。この三つが重なり合い、物語を悲劇へと導いていきます。物語の意味を考えるために、その後の展開を見ていきます。ある時、ヨセフは父の使いで、兄たちが羊を飼う地まで行きますが、兄たちはヨセフを殺してしまおうと謀ります。たださすがに反対する者も出て、ヨセフはエジプトに奴隷として売られることになります。兄たちは雄山羊の血をヨセフの着物に浸し、弟は獣に食われて死んだと父ヤコブに報告します(37:33-34)。こうしてヨセフはエジプトに売られて行きます。
・エジプトに連れて来られたヨセフは、ファラオの宮廷の侍従長ポテパルに奴隷として売られます。父親に大事にされて育ったヨセフが一転して、奴隷として苛酷な労働を課せられるようになります。しかし、ヨセフはそのことを嘆きません。エジプトへの旅の間に、兄たちが自分を憎んで殺そうとしたのは自分の傲慢さのためであったことを知り、彼の傲慢が砕かれ、試練が生意気盛りの少年を信仰の人に変えていきます。39章では、短い数節の間に、「主が共におられた」という言葉が繰り返し出てきます。失意のヨセフですが、「主が共におられた」ので、逆境の中でも彼は成功者になっていきます。
・しかしその後、ヨセフは言いがかりで告発され、投獄されますが、逆境の中にあっても不平を言うことなく、与えられた職務を誠実に為していくヨセフの態度が監守長の信用をもたらします(39:21-22)。そのヨセフのいる獄に、エジプト王の給仕役と料理役の二人が、王の怒りに触れて投獄されてきます。何日か経ち、二人は夢を見て、ヨセフがその夢解きをしました。給仕役の夢は3日後に釈放されるという夢であり、料理役の夢は3日後に木にかけて処刑されるという夢でした。二人は夢の通りになり、給仕役は釈放されますが、ヨセフのことを忘れ、彼は牢獄に残されたままです。しかし、ヨセフは給仕役の忘恩を恨みません。全てが神の導きと知る人は、静かに事態の改善を待ちます。
・それから2年が経ち、エジプト王ファラオは夢を二度見ました。第一の夢では7頭のやせた牛が肥えた7頭の牛を食い尽くし、第二の夢ではしおれた7つの穂が肥えた7つの穂を呑み込みます。ファラオは心騒ぎ、国中の魔術師や賢者を呼び集めますが、誰もファラオを納得させる夢解きをする者はいません。その時、給仕役の長がかつて自分の夢解きをしてくれたヨセフのことを思い出し、ファラオに推薦することから、ヨセフの出番になりました。こうしてヨセフがエジプト王のもとに呼び出され、ヨセフは王の夢解きをします「今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう」(41:25-31)。
・ヨセフは対応策も語ります「豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」(41:34-36)。ヨセフの夢解きとその対応策はファラオの心を動かし、ヨセフは大臣に登用され、政策が実行に移されるようになります。
・7年後、預言通り飢饉が起こりますが、準備の出来ていたエジプトは飢饉で困ることはなく、食糧の乏しい周辺諸国の民を養い、カナンにいたヤコブ一族も食糧を求めてエジプトに下ってきます。ヨセフの前に兄弟たちが跪いて拝みます。かつての夢(「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」)が真実の預言であったことがここで明らかになります。一族を迎えたヨセフは兄たちに語ります「神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:7-8)。「私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」、ここに神の摂理を信じる者の信仰が表明されています。
・近代西洋では啓蒙思想の台頭により、夢の解釈などは迷信として排斥されるようになり、歴史の表舞台から姿を消しましたが、その夢がふたたび注目され、人間の心の隠れた側面を表しているものとして科学的に研究されたのは20世紀のジグムント・フロイトに始まります(1900年「夢判断」)。フロイトはオーストリヤ生れのユダヤ人でしたが、後にナチス・ドイツに追われてイギリスに亡命しています。彼は「夢判断」の中で、オーストリヤからイギリスへの移住をヨセフの旅(カナンからエジプトへ)と比較しています(ロベール「フロイトのユダヤ人意識」)。聖書の物語は、それが自分の物語と思う時、特別な意味を持つようになります。

3.神の摂理

・今日の招詞にヘブル12:11-12を選びました。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。ヨセフは奴隷として売られた時も、無実の罪によって投獄された時も、給仕役が恩を忘れて出獄の機会を失った時も、一言も怨みや不平を言わず、焦りもしませんでした。いつまで逆境が続くのか分からない状態の中で、彼は「主が共にいて下さる」ことを信じ、与えられた境遇の中でなすべき最善を尽くしました。その生き方が彼の道を開いて行きました。
・ヨセフがエジプトに奴隷として売られた時は17歳でした。エジプトに売られ、奴隷の身に落とされることによって、彼は初めて神を信じる者になりました。エジプトで投獄されたことは辛い人生の転機でしたが、投獄されなければ、王の給仕役と知り合うこともなく、王の前に出ることもなかった。そこに働く「くしき業を見よ」と創世記記者は語ります。普通の人はただ目に見える現実だけを見つめて嘆きます。しかし神の摂理を信じる者にとって、苦難こそが神の祝福の第一歩なのです。まさに「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブル12:11)。
・神に委ねる生き方をする者は神の祝福を受けます。その祝福とは自分の使命を見出すことです。ヨセフはエジプトの宰相にまで登りましたが、それはやがて来る飢饉と一族受け入れの準備のためでした。生かされていない人生、主が共におられない人生は、この世的に成功してもそれだけの人生であり、墓石と共に終ります。私たちが求めるべきは人生の意味です。そして人生に意味を与えてくださる方は、生命の源であり、死を超えた存在である、「神お一人」です。強制収容所での体験を「夜と霧」に書いたフランクルは「どんな人のどんな人生にも「見えない使命」が与えられている。それを見つけて果たすことによって、初めて人生は全うされる」と語ります。フランクルは晩年、アメリカで死刑囚のいる刑務所に行って講演し、語りました。「明日もしあなたが死刑になるとしても、今からでも人生を意味あるものに変えるのに、遅すぎることは決してない」。人生の意味を見つけるのは最後の瞬間まで諦める必要はない。私たちは「生きているのではなく、生かされている」ことを知った時、ヨセフ物語は私たちの問題となります。


カテゴリー: - admin @ 08時12分33秒

06 30

2019年6月30日説教(フィリピ4:1-9、神にある平和)

1.教会内の不和をどう考えるか

・今日、私たちは、パウロの書いたフィリピ教会への手紙を通して、教会内に不和が生じた時に、どう対処すれば良いのかを学びます。教会も人の集まりですから、そこには意見の違いや対立が生じます。信仰の先輩たちは私たちに教えます「教会に不満を持つ人、意見の違う少数者の人が教会を去ろうとする時、あなたがたはその人たちを無理に引き留めたり、戻るように呼びかけない方が良い。それはいたずらに混乱を招くだけだから」。意見の異なる人々が教会を去るならそれに任せよというのです。経験に基づく知恵でしょう。しかし、パウロは私たちに言います「あなたがたはそうしてはいけない。気の合う人、意見を同じくする人とだけ礼拝を共にするのは教会ではない」と。私たちはどちらの意見に従うべきなのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。
・パウロはエフェソの獄中から、フィリピ教会に手紙を書いています。フィリピの人々は獄中のパウロを慰めるため、贈り物を持たせてエパフロディトを派遣しましたが、彼は重い病気になってフィリピに帰ることになりました。そのエパフロディトに託して、フィリピの人々に感謝を表したのがフィリピ人への手紙です。フィリピ書は礼状なのです。しかし、パウロはその礼状の中で、あえて教会の中にある争いに触れます。4章2-3節です「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」。
・この手紙は個人的な手紙ではありません。それは教会に宛てて書かれた公式の手紙であり、教会の礼拝の場で読まれることを期待して書かれました。その手紙の中で、パウロは二人の婦人の名前を挙げて和解するように勧め、また教会の人々にも仲裁の労をとるように書いています。パウロは何故この問題を個人的な問題として、教会の外で解決するようにしないのでしょうか。教会の指導者に個人的な手紙を書き、問題の解決を依頼することも出来たのに、何故あえて教会全体の場に持ち出すのでしょうか。二人の婦人の名前を礼拝の場で読み上げることを通して、二人に悔い改めを迫ったのでしょうか。そうではありません。パウロは「都合の悪い事実があってもそれを覆い隠すな。不和があれば、それを公の場に出して、主の名によって解決しなさい」と求めているのです。「主によって」(4:1)、「主において」(4:2)とパウロは強調します。教会の主がキリストであれば、そこに集う人々は和解できるはずだ、もしそれが出来なければ教会ではないのだと言っているのです。
・この手紙から、私たちは何を読み取ることが出来るのでしょうか。パウロとフィリピの人々は、二人の婦人の仲たがいの原因を知っていますが、私たちにはそれが何かわかりません。パウロとフィリピの人々は「真実の協力者」と言われている人が誰か知っていますが、私たちは知りません。ただ私たちは次のような事実を知ることは出来ます。二人の婦人は福音伝道のために良い働きをした人々であり、教会にとって無くてはならない人であるということ、そして神が二人の和解を望んでおられることも知っています。パウロはそれで十分だと私たちに言います。「神が和解を望んでおられるのならば、そうしなさい。また、周りの人々も和解のために働きなさい」と。

2.私たちの人生の現実の中で

・私たちは、水曜日の祈祷会でサムエル記を読んできました。サムエル記の主役はダビデで、イスラエル王国はダビデ王の時代に繁栄の頂点を迎えました。ダビデは偉大な王として歴史に名前を残しています。しかしサムエル記はダビデが罪を犯さずに、正しい人として神に仕え続けたとは記述しません。そうではなく、ダビデもまた人間の弱さのゆえに罪を犯し続けたことをあからさまに記しています。サムエル記下の主題はダビデ家の家庭紛争です。ダビデは多くの妻や側女を与えられましたが、それに満足せず、姦淫の罪を犯します。ある時、部下の兵士ウリヤの妻バテシバが水浴している姿を見てその美しさに焦がれ、彼女を王宮に呼び、彼女と寝るという過ちを犯しました。バテシバは妊娠し、困ったダビデは、夫ウリヤを殺させ、女を自分の妻とします。このことを責められたダビデは悔い改めますが、この事件を契機にダビデ家に次から次に不幸が訪れます。自分の撒いた悪を神が刈り取らせられるのです。
・最初は息子アムノンの不祥事です。ダビデの長男アムノンは異母妹タマルに恋をして彼女を力ずくで自分のものにした後、辱めて捨てます。ダビデは自らもバテシバを手に入れるためにウリヤを殺した過去を持っていますので、アムノンを処罰することが出来ず、放置します。この措置にタマルの兄アブサロムは怒り、妹を辱めたアムノンを自らの手で殺して国外に逃亡します。ダビデは長男アムノンの死を悲しみ、三男アブサロムを許すことが出来ません。部下の将軍ヨアブが両者のために和解の労をとり、アブサロムは帰国を許されますが、ダビデは息子と会おうとしません。このダビデの子を許さない態度がアブサロムの心をかたくなにし、彼はダビデに反旗を翻して、王としての即位を宣言します。やがてアブサロム軍とダビデ軍の間に戦いが起こり、アブサロムは敗れて殺されます。アブサロムの死を知ったダビデの嘆きの歌をサムエル記は次のように記しています。「私の息子アブサロムよ、私の息子よ。私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ」(サムエル記下19:1)。
・聖書はダビデを信仰の偉人と称えますが、そのダビデでさえ、人を許せず、その結果、長男が殺され、三男も死んでいきます。私たちもまた人を許すことが出来ないゆえに、家庭や職場での不和に悩まされています。これが人生の現実です。人は王宮の中にいても、兄弟同士の不和があり、親子の不和があって、幸せではないのです。人の幸せは私たちが獲得したお金や地位に依存せず、逆にお金や地位が私たちを虜にして不幸に導いていく現実があります。私たちはこの現実を知ったから、平安を求めて教会に来ました。しかし、教会にも不和があり、平安が無ければ、私たちはどうすればよいのでしょうか。

3.喜べない状況でも喜びなさい

・今日の招詞として、私たちは、フィリピ4:4-5を選びました。次のような言葉です「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」。私たちは平安を求めて教会に来たのに、教会の中にも不和があって平安がありません。私たちはどこにも行く場所がありません。だからパウロは不和を解決せよ、和解して喜べというのです。何故いがみ合いが教会の中で生じるのでしょうか。
・キリストは私たちが神と和解できるように死んで下さいました。キリストの死によって私たちは神と和解したのです。そして神と和解した者は人とも和解します。もし、私たちが人と和解できないとしたら、それは神との和解が無いからなのです。不和の根本原因は私たちと神との関係の不完全なのです。ですから、根本を解決しなければ、意見の違う人たちが教会から出て行っても教会内の不和は残ります。時間と共に新しい不和が教会内で生じるでしょう。それゆえ、人との不和の問題は人間的に解決すべき問題ではなく、教会全体で考える問題なのだとパウロは言うのです。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではありません。挫折も失意も仲たがいもあります。しかし、その中で喜んで行くのがキリスト者ではないかとパウロは言います。パウロは続けます。「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(4:6-7)。不和がある時、何故それを人間的に解決しようとするのか、何故人知を超える神の平和を求めないのかとパウロは言います。宝を見出した人は全てを捨てても宝を贖います。キリストと出会った人もそうします。キリストに出会った人は、自分の内には何の義も無く、ただキリストが死んで下さったから義とされた事を知りました。だから自分の誇りも捨てます。自分の誇りを捨てた時、人との争いもなくなります。何故なら、争いとは人と人の誇りのぶつかりあいだからです。
・人生は短く、その終わりは見えています。「もし、不和の人がいれば、一刻も早く和解しなさい。相手が許さなくともあなたは許しなさい」とパウロは訴えます。前にご紹介したマザーテレサの「あなたの最良のものを」という言葉をもう一度引用します「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。たとえそれが十分でなくても、気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい」。
・そしてマザーは大切なことを伝えます「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」。「人との関係の断絶は神との関係の断絶なのだ、だから神と和解している人は人と和解せよ、相手が赦さなくともあなたは赦せ」とマザーは言っています。マザーの言葉こそピリピ4章の最善の注解なのです。私たちは相手を変えることは出来ません。しかし、自分が変わることは出来ます。私たちが相手を赦した時に、相手も私たちに心を開き始めます。「人知を超える神の平和」は働き始めるのです。教会はその神の平和を知る場所なのです。


カテゴリー: - admin @ 08時19分02秒

06 23

2019年6月23日説教(フィリピ3:12-21、天に国籍を持つ者として生きる)

1.キリストに出会った喜びを伝えるパウロ

・フィリピ書は、「喜びの書簡」と言われています。私たちは、自分が幸福で満たされている時には喜びます。ただ、苦難の中にある時、重荷を担っている時には、喜べません。しかし、パウロは、「キリスト者は苦難の中でも喜ぶことが出来る」と語ります。パウロがこの手紙を書いた時、彼はエフェソの獄中にあり、殉教を前にした緊迫した状況の中にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜ぶ」という言葉が多く用いられています。パウロはエフェソの獄中から、フィリピ教会に手紙を書いています。
・パウロがエフェソの獄中にいると知らされたフィリピの教会は、パウロを慰めるためにエパフロディトに贈り物を託して送り、エフェソでパウロに仕えるように手配しました。そのエパフロディトが重い病になってフィリピに帰ることになり、彼に託して、パウロはフィリピの人々に手紙を書きました。それがフィリピ書です。パウロは案じてくれたフィリピの人々に感謝し、教会のために祈ります。フィリピ書1〜2章はパウロの感謝とフィリピの信徒を気遣う愛情に満ちた手紙です。3章の始めでパウロは書きます「最後に、私の兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」(3:1)。「主にあって喜びなさい」、フィリピ書を貫くパウロのメッセージです。
・その感謝の手紙が、3章2節から突然激しい語調になります。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(3:2)。パウロは手紙を書いている中で、フィリピ教会を混乱させているユダヤ主義キリスト者の活動をここで思い起こし、警告します。手紙には、「犬ども」、「よこしまな働き手」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」、と激しい言葉が並びます。当時のエルサレム教会は、「洗礼を受けただけでは救われない。割礼を受け、律法を守らないと救われない」として、巡回伝道者を各地の教会に派遣していました。フィリピ教会にも伝道者たちが訪れ、教会の中に混乱が生じていた。パウロはユダヤ人が大切にする割礼を「切り傷に過ぎない」とし、彼らを「犬」と呼びます。何故このような激しい言葉を投げかけるのか、それはユダヤ主義者の活動が教会を壊しかねない要素を持っていたからです。割礼を受けなければ救われないとしたら、キリストは何のために死なれたのか。割礼を強制する彼らはキリストの十字架を無益なものにしている。だから「よこしまな働き手」なのだ、とパウロは批判します。
・パウロもかつては律法による救いを求め、そのために努力し、そのような自分を誇った時もありました。彼は言います「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(3:5-6)。彼はユダヤ人の誰よりも、熱心に律法による救いを求め、熱心のあまり律法を守らないキリスト者共同体への迫害者にさえなった。その彼がダマスコ途上で復活のキリストに出会い、キリストに捕らえられ、教会の迫害者から伝道者になりました(使徒9:1-9)。彼は律法学者としての名声も、教師としての安定した生活も失くし、ユダヤ人からは「裏切り者」として命を狙われるようにもなりました。
・しかしパウロは、「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(3:7-8)と語ります。律法を守ろうとする者は自分の功績を誇ります「これだけ努力をして、これだけ実績を上げてきた。だから救われるのは当然だ」。パウロは自分を誇った過去を恥ずかしく思い、それらを「糞土」のように捨てたと語ります。パウロはすべてを失くしましたが、キリストを得た。彼はキリストに出会って命を見出しました。彼は語ります「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(3:9)。

2.キリストに出会った者の生き方

・私たちはキリストに出会った。キリストに捕らえられた。だからキリストを追い求めていくとパウロは言います「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(3:12-14)。人間の目から見れば、「成功の人生」があり、「失敗の人生」もあります。何の成果もあげられなかったと悔やむこともあります。パウロは語ります「後ろのものは忘れよう」(3:13a)。神の目から見れば「過去の功績」等どうでもよく、いかに「今を一生懸命に生きるか」のみが評価される。実績を上げることが出来なくとも、一生懸命に走った人に、神は「賞」をお与え下さる(3:14)。だから「前のものに全身を向けよう」(3:13b)とパウロは語ります。
・そして有名な言葉が来ます「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(3:20-21)。ここに永遠の命を求めるのか、この世での救いを求めるのか、信仰の分かれ目があります。島田裕巳著「日本の10大新宗教」によりますと、創価学会は1,000万人の信徒を持ち、立正佼成会は300万人、霊友会も300万人の信徒がいます。キリスト教人口100万人に比し、驚くべき数です。大教団に成長した新宗教のほとんどは「日蓮・法華系」の教団です。浄土信仰を説く既成仏教に飽き足らない人々が、現世における救いを強調する法華信仰に惹かれている。「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われる、信じれば豊かな生活が送れるという教えが人々を捕らえている。これは律法を守れば救われる、善行を積めば幸せになれるとするユダヤ主義者の考え方と同じです。しかし、パウロはこのような考え方を、「絶対そうではない」と否定します。

3.苦難の中で喜ぶ信仰

・今日の招詞としてフィリピ4:4-6を選びました。次のような言葉です「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。パウロは獄中にあっても喜んでいます。
・パウロは手紙の冒頭で言います「兄弟たち・・・私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(1:12-14)。獄中でパウロが気力を失わずにいる姿を見て、大勢の人が励まされ、ある者はキリスト教に回心しました。神が監獄という場所においても、働いてくださることを知るゆえにパウロは喜ぶ。どこにおいても私たちは神を賛美することが出来ます。現にパウロはエフェソの牢獄から、この手紙を書いています。私たちは、自由に外出の出来ない老人ホームにいても、病気で入院した病院においても、神のために働けるのです。
・私たちが苦しみの中にあれば、その苦しみを神の前に差し出す。悲しみの中にあれば、その悲しみを神の前に訴える。その時、神は悲しみの意味、苦しみの意味を教えてくださる。意味がわかった時、苦しみは苦しみのままで、悲しみは悲しみのままで、祝福に変わっていく。苦しくてたまらない時、祈って与えられた御言葉が私たちの人生を変えた経験を何度もしています。苦しみや悲しみがなくなることが救いではなく、苦しみ悲しみの中で神の声を聞くことこそ救いなのです。現世利益、功績主義は必ず行き詰ります。お題目を唱えても、治らない病気は治らないし、解決しない問題は解決しない。癒しは仮のものであり、救いではない。私たちは、病人は病気のままで、苦しむ人は苦しみながら、救われていく。悲しみや苦しみがもはや私たちを支配しない、神の平安の中にあるからです。それこそが救いではないでしょうか。
・パウロは言います「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」(3:20)。フィリピはローマの植民都市で、市民はローマ市民権を与えられていました。フィリピの市民がローマ市民であるように、私たちも地上に暮らしていても、天の国の市民なのだとパウロは言います。ペテロも語ります「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい(第一ペテロ2:11)。旅人であり、仮住まいの身ですから、自分の家を持つとか、老後の資金を蓄えることに価値を置かない。「年金だけでは暮らせない。老後には2千万円が必要だ」と言われても、動揺しない。神が道を開いて下さる、神が養って下さると信じるからです。この野放図な楽天性こそ、天の市民の生き方です。私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれませんが、神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖ってくださった方だからです。そのキリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも心配しない、だから喜ぶことが出来るのです。


カテゴリー: - admin @ 08時19分11秒

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