すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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06 18

1.お互いを裁きあうローマ教会の人々

・ローマ書を読み続けており、今日はローマ14章を読みます。14章のテーマは「習慣の違いが教会を壊す事も有り得る」ことに対する警告です。ユダヤ人は律法の規定により、豚肉や血抜きしない肉、また異教の神殿に捧げられた犠牲の肉等は汚れたものとして食べることを禁じられていました。最初のキリスト教会はエルサレムに立てられ、構成員はユダヤ人でしたので、この食物規定は、特に大きな問題にはなりませんでした。ところが、教会がギリシャ・ローマ世界に広がるにつれて、神殿に捧げられた肉や血抜きしない肉を食べてもよいのかどうかが、教会を二分する問題になっていきます。何故ならば、ローマ帝国内の諸都市で、市場に出回っていた肉の多くは異教の神殿に捧げられた動物の肉であり、当然血抜きもしてない。その肉を食べることは律法に反するではないかとの疑問が生じたからです。エルサレム使徒会議でもこの問題が議論され、「偶像に供えて汚れた肉」や「絞め殺した動物の肉(血抜きしていない肉)」は食べていけないと決められました(使徒15:28-29)。
・同じ問題を、私たち日本の教会も抱えています。日本は人口の多くが非キリスト教徒で、かつ神社や仏閣が方々にある、多神教の世界です。その中で、聖書の信仰を守ろうとする時、いろいろな問題が生じてきます。例えば親から継承した位牌や仏壇をどうすればよいのか、葬儀における焼香や合掌という儀式にどう対応するのか、日曜日に運動会や授業参観があれば礼拝を休んでもよいのか等々、私たちがこの日本でキリスト者として生活するために、社会とどのように折り合いをつけるかが課題となります。そして往々にしてこのような瑣末な出来事が教会の分裂を招きます。パウロがローマの教会に手紙を送ったのも、教会中にそれぞれの習慣をめぐっての争いがあり、無益な争いを止めるように勧告するためです。
・パウロは書きます「信仰の弱い人を受け入れなさい。その考えを批判してはなりません」(14:1)。パウロは宗教的な配慮から肉食を避け、野菜だけを食べる人たちを「信仰の弱い人」と呼んでいます。教会内のユダヤ人キリスト者たちは、「肉を食べることは罪だ」と考えていたようです(14:2)。他方、多数派は何を食べても良いとする異邦人キリスト者で、彼らはギリシャ・ローマの流れを汲む自由主義者でした。少数派のユダヤ人キリスト者たちは、ユダヤ教の禁欲的な伝統で育ち、穢れたものは食べていけないという教えを守って来た人々です。異邦人信徒たちは、禁欲的な人々を「信仰の弱い者」として軽蔑し、他方ユダヤ人信徒は節度を守らない異邦人を「罪人」として裁いていたようです。パウロはこのような人々に言います「食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(14:3a)、何故ならば「神はこのような人をも受け入れられたからです」(14:3b)。
・パウロの考え方は明白です。彼は言います「それ自体で汚れたものは何もないと、私は主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」(14:14)。イエスは言われました「外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが人を汚す」(マルコ7:15)。だからパウロは何を食べても良いと考える人たちを律法の制約から解放されているという意味で「信仰の強い人」と呼び、食べてはいけないと思い込んでいる保守的な人たちを「信仰の弱い人」と言ったのでしょう。
・では何を食べても良いのだから自由主義者が正しいのか、パウロは違うと言います。たとえ何を食べても良いとしても、肉を食べることでつまずく人がいるのに肉を食べることは間違っている。彼は言います「あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません」(14:15a)。何故ならば「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(14:15b)。正しい行いであっても、その行いが人を傷つける時、それは正しいものではなくなります。パウロは続けます「 食べ物のために神の働きを無にしてはなりません。全ては清いのですが、食べて人を罪に誘う者には悪い物となります」(14:20)。

2.違いを認める場が教会だ

・この問題は現代の日本の教会の中にもあります。日本の教会はアメリカの宣教師によって立てられたものが多いため、アメリカに倣って禁酒禁煙が当たり前で、お酒を飲んだり煙草をすったりするのは罪であると考える人が多いようです。他方、欧州の教会においては、牧師もビールやワインを楽しみ、喫煙する人も多い。お酒を飲むとか、煙草をすうとかの問題は各人が信仰の良心によって決めればよい問題であるのに、それがあたかも信仰上の譲れない出来事のようになり、争いが起きています。ローマ教会で起きていた出来事は私たちの周りにも起きているのです。
・偶像に捧げられた肉を食べることは、信仰の本質に関わる問題ではありません。しかし、食べることによって、つまずく人がいるのに食べることは、信仰の本質に関わる問題です。他者の救いを閉ざす行為だからです。日本のキリシタン禁制時代に用いられた踏み絵を踏むかどうかも、同じ問題を抱えています。踏み絵そのものは板に聖母子を描いたメダルを組み込んだもので、それ自体何の意味もありません。しかし、踏み絵を踏んだ人々の信仰は崩れました。それは人の前で、最も大事に思うものを踏みつけにする、自己の信仰告白を偽りと表明する行為だったからです。私たちの信仰は、私たちの生活を規定します。行為が人を救うわけではありません。しかし、信仰は行為を導くのです。キリスト者は全ての事に自由ですが、その自由はキリストの十字架の犠牲を通して与えられました。そのキリストは他者のために死なれた。ですから、他者への愛が自由を制限します。

3.教会の一致のために

・今日の招詞にローマ12:4-5を選びました。次のような言葉です「というのは、私たちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、私たちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです」。私たちは多くの兄弟姉妹と共に教会を形成します。部分である個人個人は多様な価値観と世界観を持ちます。お酒を神が下さった恵みとしていただく人もいるし、酒の害を見てお酒を飲むことは罪だと思う人もいます。肉を食べても良いと考える人もいれば、肉は動物の生命を絶って食べるのだから、「殺すな」という戒律に反すると考える人もいます。どちらも正しい。
・しかし、教会において求められるのは「人の正しさ」ではなく、「神の正しさ」です。「神の国は、飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜び」(14:17)です。「肉を食べてもよいか」、という問題は、「キリストは彼のためにも死なれた」という真理の前では些細な問題です。その些細な問題で教会を壊してはいけない。パウロはコリント教会への手紙の中で述べます「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない」(1コリント10:23-24)。自分の正しさだけを主張していく時、教会は壊れるのです。
・パウロはローマ13章で次のように語りました「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(13:9-10)。キリスト者の自由とは、自分の権利を相手のために放棄する自由です。「キリストが私のために自分を捨てて死んでくださった」、このキリストの愛を知った時に私たちは根底から変えられます。私たちはキリストが私たちを赦してくれたのだから他の人を赦します。たとえ誰かが私たちの右の頬を打つなら、左の頬を向けます」(マタイ39)。これは単に抵抗しないことではありません。泣き寝入りすることでもありません。「悪に対し、善をもって立ち向かう」という積極的な生き方です。「キリストは彼のためにも死んでくれたのだから、彼のことを祈る」、これこそがキリスト者の生き方です。
・病気の人が教会に来ても病気が良くなるわけではなく、貧乏な人が教会に来ても金持ちになるわけでもありません。しかし、病気のままに、貧乏のままに祝福を受けるのが教会です。外部状況は変わらなくとも内部から新しい人間に変えられていくのが、教会と言う場です。教会はその神と出会う場、そこに教会員同士の争いがあれば、そこは神の国でなくなります。少なくとも信仰の本質にかかわらないところで争って、教会を壊すことはやめたい。先祖の位牌はどうすればよいのか、十分の一献金はしなければいけないのか、酒を飲んでも良いのか。子供の運動会のために礼拝を休んでよいのか。それぞれの事柄は、自分の信仰によって決断すればよい出来事であり、教会で対立する出来事ではない。違いがあってもよい。お酒を飲む人も飲まない人もいていい。信仰の本質に関わらない問題では争わない。本質で一致し、細部は個々の人の決断に委ねる。そこに神の国が生まれていきます。そのような教会を、この地に、共に建設したいと祈ります。


カテゴリー: - admin @ 08時05分18秒

06 11

1.ローマ13章を巡る議論

・紀元57年ごろ、パウロはローマ教会に当てて手紙を書きました。この手紙はやがて正典に組み込まれ、権威を持つようになります。パウロは手紙の中で語りました「人は皆、上に立つ権威に従うべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(13:1)。初代教会はイエスの「剣を取る者はみな剣で滅びる」(マタイ26:52)という教えを基礎に、キリスト者が兵士になるのを禁じますが、やがてキリスト教がローマ帝国の国教になると、教会はローマ13章を基に、キリスト者も国家の命じる戦争には従うべきだとの「聖戦論」を展開するようになります。その後、ローマ13章は宗教改革時において、ルターとミュンツアーの間で農民戦争をめぐって論争された時の双方の根拠とされ(ルターは従うことを強調し、ミュンツアーは改革を強調する)、1930年代のドイツにおいても、ナチス政権の正当性を認めるルター派教会とそれに反対する告白教会の論争においても中心テーマとなります。ローマ13章は教会と国家の問題を論じる上での論争の書になっていきました。
・パウロはローマ帝国の首都にいるキリスト者たちに手紙を書き、その中で「上に立つ権威に従う」ように勧めます。ここでパウロは主にある服従を勧めています「あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:18)。平和に暮らすとは、具体的には「良き市民として暮らす」ことだとパウロは語ります「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。これはイエスの教えを継承すると同時に、終末時にある神の民としての生き方を教えたものです。ところが、パウロがローマ13章を書いてから、数年もしないうちに、ローマの信徒たちは、最初の迫害に遭います。皇帝ネロによるキリスト教徒迫害です。U.ヴィルケンスは、ローマ13章の注解(EKK聖書注解)の中で語ります「パウロは『神の奉公人である』である国家権力に服従することを彼等の良心の義務にしていたが、まさにその『国家権力』が、キリスト者たちを『生ける松明』として、町外れで火あぶりの刑に処することを命じた」。
・パウロ自身も迫害の中で殉教し、以降200間、教会は迫害の下に置かれました。それにもかかわらず、「進んで服従せよとのローマ書の勧めが、殉教者に満ちた教会の中で、中心的な意義を持ち続けた」とヴルケンスは分析します。しかし、度重なる迫害の中で、当然に異論が出てきます「ただ殺されることを神は求めておられるのか、違うのではないか」。教会はローマ13章の服従要求はペテロの留保条項(使徒5:29「人に従うよりは神に従うべきである」)により制限されていると考え始めます。つまり、権力が信仰からの離反を強制する場合には、キリスト者は抵抗しなければならないとの考え方です。ところが、コンスタンティノス帝によるキリスト教公認(313年)は、ローマ13章の解釈を根本的に変えていきます。教会は、「全てのキリスト者は自分たちの政府に従うべきであり、国家の秩序を守るためであれば死刑も戦争も許される」と肯定するようになります。
・宗教改革者ルターも国家による秩序維持について、従来の考え方を継承しました。そのため近代に至っても、ローマ13章は国家に対するキリスト者のあり方の基本テキストとして用いられていきます。ローマ13章の解釈が大きく揺らいだのは、1933年にナチスがドイツの政権を握り、服従を要求した時です。多くの教会はルターの立場を継承し、ヒトラー政権を神の権威の基に成立した合法政権として受け入れて行きますが、カール・バルトを中心とした告白教会は「政府が神の委託に正しく応えていない場合、キリスト者は良心を持って抵抗すべきである」ことを主張し、ナチスとの武力を含めた戦いを始めます。中心人物であるボンヘッファーが「ヒトラー暗殺計画」に参加して、処刑されたことはよく知られています。
・私たちキリスト者は社会の中で生きます。ある時代には、「国家が戦争に参加するように求めた」時、キリスト者はどうすべきかが問われる場合が出てきます。戦前の日本では信仰者も徴兵され、イエスが「殺すな」と語られている中で、殺すことを義務付けられ、兵役拒否者は非国民として投獄されていった歴史があります。現代のアメリカでは多くのキリスト者がベトナムやアフガニスタン、イラクで兵士として徴兵され、死んでいっている現実があります。国家に対してどのように向き合うのかは大事な問題です。

2.ローマ書は何故従うことを求めているのか

・ローマ13章はなぜ、国家に対する服従や抵抗を教えているのでしょうか。聖書の言葉は、ある言葉だけを取り出した場合、恣意的に読まれる危険性があります。つまり、自分の思想や価値観の裏付けのために聖書が引用されるのです。その過ちを防ぐためには、聖書は文脈の中で読むべきです。ローマ書においては12-13章が一つの文章群になっており、パウロは「キリスト者のあるべき生き方」をいろいろな角度から教えています。直前12章では、パウロは、キリストに召された者として、世の人々と平和に暮らすことを勧めています「すべての人と平和に暮らしなさい。愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」(12:18-19)。直後の13章8節後半でもパウロは「人々と争うな」と勧めます。何故ならば、「愛は隣人に悪を行わない」(13:10)からです。
・このような文脈の中で「この世の秩序維持のためであれば戦争も含めた悪にも従いなさい」という考えは出て来ません。パウロは、イエスが言われた従属の教えをここで考えています「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」(マルコ12:17)。キリスト者は良心の故に世の秩序に服従し、そのために貢や税や労役も世に支払います「すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい」(13:7)。同時に神のものは神に納めます。だから、パウロは言います「世に倣ってはいけない・・・何が神の御心であり、何が良いことで、神に喜ばれ、また完全であるかをわきまえなさい」(12:2)。
・ローマ13章を当時の時代背景の中で考えれば、パウロは「ローマ皇帝が信仰を捨てよと命令しても、それを拒否しなさい。しかし報復として殺すということであれば、それは受容しなさい」とローマの信徒に勧めているのです。このように見てくると、ローマ13章でパウロが「政府に対する絶対服従を教え、キリスト者も政府の命じる戦争には市民として参加せよ」と教えているのではないことは明らかです。聖書は例え、国家によって命じられた戦争にあっても人を殺すことが正当であるとは言いません。また逆に、戦争を起こすような政府は神の委託に反しているから、これに従うなとも言いません。聖書が語るのは「悪の権化と思えるローマ皇帝もあなたの隣人として愛しなさい」と言うことです。当時のローマ皇帝は迫害者ネロでした。そのネロを隣人として愛しなさい。パウロは「悪に対して悪を返すな。悪は神が裁いて下さる。その神の裁きに委ねよ」と語ります。

3.あなたがその人の隣人になりなさい

・今日の招詞にマタイ 5:46-48を選びました。次のような言葉です「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。この言葉をローマ13章の文脈の中で読めば、「ローマ皇帝がどのような悪逆な人であっても、例えネロ帝のような人であっても、彼を愛し、彼のために祈り、彼を隣人にしなさい」ということです。
・私たちは、隣人とは自分を愛してくれる人、自分の兄弟姉妹だと思っています。しかし、聖書が教えるのは、隣人とは自分を憎む人、自分に危害を加える人です。「そういう人とは隣人になれない」と私たちは抵抗しますが、イエスはその私たちに問われます「あなたの信仰はどこにあるのだ」。私たちの周りには、私たちの悪口を言う人、言われなき攻撃をする人が必ずいます。私たちはその人たちが嫌いです。しかし、その嫌いな人にためにキリストは死なれた。その嫌いな人を愛することが神を愛することだと告げられます。「イエスが罪人のあなたのために死んでくれたから、あなたは新しい命をもらったではないか。それなのに何故嫌いな人のために死ねないのか。パウロはあのネロをさえ隣人として愛せと書いたではないか」。隣人が私たちに悪を働いても報復するな、裁くのは神であって私たちではない。私たちがするべきは自分を憎む者のために祈ることです。その祈りを通して、その人は隣人になっていく。「神の力を信じ通せ、殺されても信じ通せ」、そう命じられています。聖書の教える生き方は理性的に納得できるものではありません。それは「信仰を持って従え」と語られるものなのです。
・信仰ゆえに迫害された時、パウロは「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるな。祝福を祈れ」と教えました。こういう生き方した人の一人が、非暴力・不服従を貫いたキング牧師です。彼は語りました「私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない・・・私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう・・・しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。そうすれば、私たちの勝利は二重の勝利となろう」(マーティン・ルーサー・キング「汝の敵を愛せよ」、新教出版社、1965年、79P)。こういう生き方に私たちは招かれています。


カテゴリー: - admin @ 08時18分38秒

06 04

1.ペンテコステ礼拝を迎えて

・聖霊降臨節を迎えました。ペンテコステ、イエスの受難と復活から50日目、祈り続ける弟子たちの群れに聖霊が下り、弟子たちはいろいろな国の言葉で福音を語り始めたと伝えられています。エルサレムで生まれた福音が言葉の壁、民族の壁を超えて伝わり始める、という出来事が起こった、それがペンテコステです。使徒言行録2章はその日に起こった出来事を記しています。今日はペンテコステを祝うために、聖書日課のローマ書を読む前に、使徒言行録2章の物語を最初に聞いていきます。
・ルカはその時の様子を報告します「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1-3)。見えない聖霊が風のように弟子たちに下り、その霊によって弟子たちに語る言葉が与えられた。ルカは記します「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)。
・エルサレムには外国生まれのユダヤ人たち、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが数多く住んでいました。ユダヤは何度も国を滅ぼされ、その度に人々は外国に散らされてそれぞれの地に住み、その子孫たちが故国に帰っていたのです。彼等はヘレニスタイと呼ばれ(6:1)、ギリシャ語を話していました。大きな物音にびっくりして弟子たちのいた家の周りに集まった人々の中に彼等もおり、弟子たちが自分たちの国の言葉で語っているのを聞き、驚いて言います「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(2:7−8)。「私たちの中には・・・ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2:9-11)。

2.福音伝達の業

・ペンテコステの出来事は、「神が為された偉大な業」(2:11)を、人々に分かる言葉で伝えることができたということです。ルカは「霊が語らせるままに、(弟子たちが)ほかの国々の言葉で話しだした」(2:4)と記しますが、おそらく弟子たちは、外国生まれのユダヤ人や異邦人も理解できる、当時の共通語ギリシャ語で語り始めたと思えます。弟子たちの出身はガリラヤですが、その地方はギリシャ化が進み、弟子たちの何人かはギリシャ語を話すことが出来たのでしょう。弟子たちがイエスの受難と復活をギリシャ語で語った結果、その言葉は人々に伝わり、その結果3千人の人が洗礼を受けたとルカは記します(2:41)。
・このギリシャ語を話すユダヤ人たちがやがて福音宣教の担い手になります。使徒8章ではエルサレム教会にユダヤ教からの迫害が行われたことが記されています。この迫害の結果、ギリシャ語を話すユダヤ人たちがエルサレムを追われ、サマリアやシリア、さらにはアジア地方にまで伝道を行い、その結果、福音が民族、国境を超えて広がって行き、福音はローマにも伝達されました。パウロはローマ帝国の各地で開拓伝道をしながら、いつかは首都ローマに行って伝道したいという希望を持っており、その準備として、ローマにいる信徒たちに手紙を書きます。手紙の中で、彼は自分がたどった回心の歴史、キリストに出会って罪を知ったこと、悔い改めて新しい生き方を示されたこと等を述べています。そして「神を信じる者の新しい生き方とは何か」をローマの信徒たちに送ったものが、12章以下の言葉です。
・12章冒頭で彼は言います「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。神の救済に対する応答とは礼拝であり、礼拝とは自分の体=生活を神に捧げることだと彼は言います。礼拝とは日曜日に教会に集まることだけではなく、毎日の生活の中で神を証していく、この世において神の救いを受けた者にふさわしく生きていく、それが本当の礼拝だと彼は言います。そして語ります「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき・・・なさい」(12:2)。この世は、「食料を兵器に」、「援助を弾圧に」、「正義をテロリズムに」、「愛を性欲に」、「解放を専制政治に」、変えてしまう悪の世です。だからパウロは語ります「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただきなさい」と。
・神によって変えられた者はどのような生き方をするのか、それは「愛する」生活です。彼は言います「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9-10)。この「愛」は「ヘ・アガペー」、その愛、神によって示された愛です。イエスが最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗われた愛です(ヨハネ15:12)。相手の足を洗う愛、仕える愛、これが「アガペー」と呼ばれる愛です。私たちが「人を愛する」と言う時、そこには「好き嫌い」の感情が入ります。好きな人を私たちは愛し、嫌いな人は愛さない。この愛は「エロス」と呼ばれるものです。聖書はエロスの愛を否定しませんが、エロスの愛だけでは神の平和は不可能です。なぜなら、好きな人は味方になり、嫌いな人は敵になり、敵がいる以上、争いが生まれます。
・嫌いな人をも受け入れる愛、それがアガペーです。パウロは「教会に集まるお互いを、実の兄弟姉妹のように愛しなさい」と教えます。教会に集まる人の中には、良い人も悪い人もいます。尊敬できない人も、好きになれない人もいます。そのような人でも「兄弟愛を持って、互いに愛し、尊敬をもって、相手を優れた者と思いなさい」(12:10)とパウロは語ります。兄弟愛=アガペーの愛とは好き・嫌いという感情を超えた愛です。人間は嫌いな人を愛することは出来ません。だから、祈ることが求められています。パウロは言います「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(12:12)。

3.敵を愛し、迫害するもののために祈れ

・今日の招詞にローマ12:14-15を選びました。次のような言葉です「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。当時のキリスト信徒たちはユダヤ教徒からもローマ人からも迫害を受けていました。パウロ自身もユダヤ教徒からも、異教徒のローマ人からも、何度も鞭打ちを受けていました。それだけ苦しめられたパウロが何故「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言えるのでしょうか。それは「キリストが『神への反逆者であった彼』のために死んでくださった」からです。パウロは語ります「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:8)。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わったのです。
・イエスは言われました「あなたがたは私を通して父なる神に出会った。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨を降らして下さる。あなたがたも父の子として敵を愛せ」(マタイ5:43-45)。多くの人々は、イエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えます。人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれています。軍隊を持たない国はなく、武器を持たない軍隊はありません。武器は人を殺すためにあります。襲われたら襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。相手は襲うかもしれない存在、敵です。しかし、悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終りません。「目には目を、暴力には暴力を」、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「敵を愛せよ、愛することによって、敵は敵でなくなる」のだ。
・パウロはこのイエスの言葉を受けて、迫害の中にあるローマ教会に手紙を書き送ります「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい・・・あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:17-18)。世の人々は競争を賞賛し、勝者をほめます。争わない者は弱者として嘲られます。その中でパウロは語ります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12:19−21)。
・このパウロの言葉を政治的に具体化したものが、日本国憲法です。憲法前文は次のように述べます「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。人間の歴史から見た時、この憲法は驚くほど“愚かな”憲法です。「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」ことが出来ないことを、私たちは歴史を通して知っています。それにもかかわらず、この憲法は9条2項で「一切の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と宣言します。日本国憲法は人間の目から見たら愚かで危ない。自衛のための軍隊は必要だ。だから、世の人々はこの憲法を改憲しようとしています。
・しかし、神の目から見れば、違う視点が与えられます。カトリック中央協議会は2003年度の声明の中で次のように述べています「日本は憲法9条を持つことによって国を守ることを放棄したのではありません。戦力を持たないという方法で国を守り、武力行使をしないで国際紛争のために働くと誓ったのです」。この70年間、一人の国民も戦争で死なせず、誰も殺さなかったのは、この憲法のおかげです。この憲法を持つことを、日本人として、キリスト者として、誇りにしたいと思います。その意味で憲法を変え、戦争のできる国にしようという動きに反対することもまた、キリスト者が為すべき礼拝であり、そのための苦難こそ、まさに私たちが捧げるべき生贄なのではないでしょうか。


カテゴリー: - admin @ 08時04分49秒

05 28

1. キリストを受入れない同胞への悲しみ

・ローマ書を読んでおります。パウロは異邦人伝道者として召命を受け、多くの異邦人をキリストに導きました。それはパウロには大きな喜びでしたが、同時にパウロは「同胞であるユダヤ人が今なおキリストを拒絶し続けていること」に悩んでいました。「キリストの十字架を通して神と和解し、救われる」と信じるパウロにとって、キリストを拒絶することは神を拒絶することであり、それは滅びを意味しました。「神はユダヤ人を御自分の民として選ばれたのに、今は捨てられたのか」、「私の同胞は滅びに至るのか」、その問題を述べた箇所が今日のテキスト、ローマ書11章です。
・ユダヤ人は「神の民」として選ばれた民族です。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記12:3)。神はユダヤ人を通して人類を救おうとされ、その約束は、ユダヤ人として生まれられたキリストの来臨により成就しました。しかし、ユダヤ人たちは、このキリストを殺し、今なおキリストの教会を迫害しています。何故彼らは神の憐れみであるキリストを受入れることが出来ないのか。彼らは永遠の滅びの中に入ってしまうのか。それはパウロにとって耐えられない悲しみでした。
・このパウロの悲しみを私たちも共有します。日本に福音が伝えられて150年が経ちますが、ほとんどの日本人はキリストを受入れようとしません。私たちの家族でさえ、福音を信じようとしません。日本では、教会に行き始めた子供たちも大きくなって教会を離れることが多く、また一度は洗礼を受けた人がやがて信仰から離れることも度々です。「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)とすれば、キリストを信じることなしに死んでいくかも知れない、私たちの夫や妻、子供たち、あるいは教会を離れた人たちは滅びるしかないのでしょうか。パウロの歎きは、私たちにも真剣に考えるべき問題を迫ってきます。
・パウロは言います「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(11:1)。パウロは神の摂理を信じます。故に、ユダヤ人がキリストを拒絶するのもまた神の計画の中にあると信じます。ではなぜ神はユダヤ人の心をキリストの福音に対して閉ざされたのか、そこまで考えて行った時、パウロは驚くべき逆説に気づきます。すなわち神は「異邦人を先ず救うことを通してユダヤ人を救おうとされている」との逆説です。それが今日のテキスト11:11の箇所です「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」。
・パウロ自身最初はユダヤ人同胞に伝道しましたが、彼らが受け入れなかったため、進路を異邦人に向けました(使徒13:46「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」)。もしユダヤ人がイエスを受け入れて福音を信じたならば、キリスト教はおそらくユダヤの民族宗教に留まり、全世界に述べ伝えられることはなかったでしょう。神の言葉(旧約聖書)がユダヤ人に与えられた時、彼らはそれを自分たちユダヤ教内の聖典として抱え込み、他民族には伝道しませんでした。しかしキリストの福音は、イスラエルの拒絶によって、民族を超え、ローマにまで伝えられて行きました。まさにユダヤ人の拒絶が福音宣教に決定的な役割を果たしたのです。
・それだけではなく、救いが異邦人に及ぶことを通して、一度は福音を捨てたユダヤ人がまた神の恵みに帰るという幻をパウロは与えられました。それが11:12の言葉です「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。ボンヘッファーも語りました。「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、またそれを望み給うということを、私は信じる」(ボンヘッファー「抵抗と信従」から)。人間の罪や過ちは取り返しのつかないものではない。神は人間の過ちを善に転換する力をお持ちだ。だから、私たちもまた、家族や友人が今は福音に心を閉ざしているとしても、それは神の計画の中にあるのであり、いつの日にか、家族もまた福音を受け入れるという希望を持つことが許されているのです。

2. 先に救われた者の役割

・では先に救われた異邦人の役割は何でしょうか。それは「ユダヤ人に妬みを起させることだ」とパウロは言います「あなたがた異邦人に言います。私は異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞に妬みを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(11:13-14)。あなたがたの救いを通してユダヤ人に妬みを起させ、彼らをもう一度神のもとに連れ帰ることこそ、あなた方異邦人キリスト者の使命なのだとパウロはここで言います。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」(11:15-16)。私たちの経験では、妻の信仰を見て夫が変えられて行く、あるいは子の変化を見て親が信仰に入ることがあります。まさに「そのような出来事が起こる」とパウロは語ります。
・パウロはユダヤ人と異邦人の関係を「根と接ぎ木」という例えで説明します。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11:17-18)。あなたがた異邦人の救いは、ユダヤ人という根に野生のオリーブが接ぎ木されたようなものであり、接ぎ木された枝が根であるユダヤ人に対して、誇る所は何もないとパウロは言います。しかし、ローマ教会で多数派を占めた異邦人キリスト者は、少数派のユダヤ人キリスト者を「弱い者」と呼んで軽蔑していました(14:1)。まさに接ぎ木された枝が、その根を嘲笑したのです。
・それは間違っているとパウロは語ります。「あなたは『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(11:19-20)。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」というパウロの言葉は2000年の歴史を振り返る時、大きな意味を持っています。パウロの時代、ユダヤ人がキリスト教徒を迫害していました。しかしキリスト教がローマ帝国の国教となると立場が逆転し、今度はキリスト教徒がユダヤ人を、「キリストの殺害者」として迫害するようになります。まさに「枝が根を迫害する」ようになった。中世のヨーロッパで、至る所でユダヤ人は迫害され、殺され、その反ユダヤ主義がやがてナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺を生んでいきます。アウシヴィッツの出来事は、人々がパウロの言葉を真剣に聞かなかったことから生まれているのです。

3. 神の摂理の中で

・今日の招詞にローマ11:31-32を選びました。次のような言葉です「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。ユダヤ人は行いによる義を追い求めることによって、神の義からそれてしまいました。先祖伝来の自分たちの正しさ(律法による救い)に固執したからです。パウロにとってのユダヤ人は、私たちにとっての家族や、教会を離れて行った友のことです。パウロは語ります「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」(11:25-26)。
・神はユダヤ人をその不信仰の故に裁かれますが、それは彼らを滅ぼすためではなく、救うためです。神は福音を世界に伝えるために一時的にユダヤ人の心を閉ざされたが、それは彼らを捨てられたからではない。「現に私のようにキリスト者を迫害していた神への反逆ユダヤ人を神は救って下さったではないか」とパウロは語るのです。同じように、神は今私たちの家族や友人の心を一時的に閉ざしておられる。しかし、閉ざされたものは開けられる、そこに私たちの希望があります。
・神は最後には同胞ユダヤ人を救いたもうとパウロは確信します。そしてパウロは、それが自分の生きている間に実現する、キリストの再臨と共に起こると考えていたようです。そのためにも異邦人伝道を急がなければいけない。ローマに行き、そこを根城に地の果てスペインにまで福音を伝えた時がその成就の時だと考えていたようです(15:22-24)。しかしそれは実現しませんでした。ローマに行ったパウロはその地で処刑されたのです(紀元60年、4年後)。ではパウロの考えた一切は幻想に過ぎなかったのでしょうか。それとも実現しつつあるのでしょうか。ある人々は1948年にイスラエルが国家として2000年を経て再建されたことを、ユダヤ人救済の最初の一歩と考えています。アメリカ原理主義福音派の人々はそう考え、イスラエルに対する宣教や支援を活発化させています(メシアニック・ジュー運動等)。
・しかし私たちは「誰が救われたとか、救われていないかということは神の領分」であり、私たちは「神が私たちを選んでくれたことに感謝するだけで良い」と思います。ボンヘッファーが語ったように、「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、またそれを望み給う」という信仰を持ち、その中で、キリストを信じないで死んでいった家族も、キリストから離れた友の救いも神が為してくださることを私たちは信じ、そのために私たちを用いられるように祈っていくのです。


カテゴリー: - admin @ 08時19分21秒

05 21

1.現在の苦しみ

・今日はローマ書8章を読んでいきます。キリストに出会う前のパウロは、「神の怒り」の前に恐れおののいていました。彼は律法=神の戒めを守ることによって救われようと努力しましたが、戒めを守ることのできない自分を見出し、その結果神の怒りの下にあることの恐れが彼を苦しめ、うめかせていました。彼は叫びます「私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(7:24)。その彼がキリストとの出会いを通して変えられていきます。パウロは告白します「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(8:3)。キリストの十字架を通して自分の罪が購われた、神との和解が為された、神の子としていただいた、とパウロは感謝します。
・私たちは「神の子」とされた。しかし現実の私たちはまだ肉の体をまとって、地上の生を生きています。そしてこの地上は、イエスを十字架で殺した場所、罪が支配している「邪悪な」場所です(使徒2:40)。この世の支配原理はエゴイズムです。競争社会の中で他者を押しのけて勝つ者たちは「勝ち組」と呼ばれ、敗者は「負け組」と蔑まれます。当時の社会ではローマ帝国が勝ち組であり、キリスト者は小さな存在でした。人々は「世界を支配するローマ皇帝こそ神の子だ」と賛美し、皇帝を拝みましたが、キリスト者は復活された「ナザレのイエスこそ神の子である」と主張して皇帝礼拝を拒否し、迫害されていきました。パウロはその現実を見据えて言います「この世でキリスト者として生きることはキリストと共に受難の人生を送ることだ」と。しかし「キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受ける。現在の苦しみは、将来私たちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」(8:17-18)と語ります。
・パウロがローマ8章で取り上げているのは死の問題です。パウロは言います「肉に従って歩む者は、肉に属することを考え、霊に従って歩む者は、霊に属することを考えます。肉の思いは死であり、霊の思いは命と平和であります」(8:5-6)。あなたがたが「肉に従って」、「この世の価値観に従って」生きるなら、その結果は死である。ローマ皇帝を拝んでもそれはこの世だけのことであり、ローマ皇帝もやがて死ぬ。いつかは死ぬ人間を拝んでもそこに命は生まれない。しかし神はイエスを死から起された。命は神とともにある。だから「神の霊があなたがたの内に宿っているかぎり、あなたがたは、肉ではなく霊の支配下にいます」(8:9)。
・肉の思いから解放され、霊に生きる時、世の有り様が見えてきます。パウロは語ります「被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものです」(8:20)。ここで言う被造物とは「自然」と言い換えてもよいでしょう。パウロは、自然そのものが人間の罪によって、虚無の中でうめいていると言います。自然と人間は不可分です。人間の罪が戦争を引き起こし、戦争は大地を荒廃させます。預言者エレミヤが語る通りです「いつまで、この地は乾き、野の青草もすべて枯れたままなのか。そこに住む者らの悪が、鳥や獣を絶やしてしまった」(エレミヤ12:4)。人間の欲望が森林を乱開発し、地球規模で砂漠化を進行させ、鉱物や石油が大地から掘り出され、大地は汚染され、世界各地で公害や大気汚染が起きています。炭素エネルギーの過剰使用は地球を温暖化させ、異常気象を招きます。フクシマが人の住めない土地になった罪を反省せず、原発の再稼働を進めるのはエゴの行為です。人間の果てしない欲望、罪が自然を破壊しています。「人間の罪により自然が破壊されている」というパウロの視点は、地球規模の環境破壊が進む現代においては、特に大事な言葉です。

2.苦しみを超えて

・しかしパウロは絶望しません。人間が贖われることによって、自然もまた回復することが出来ると彼は語ります。今は生みの苦しみ、救済への過程にあると彼は信じます「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです。被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、私たちは知っています」(8:21-22)。パウロは続けます「被造物だけでなく、"霊"の初穂をいただいている私たちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます」(8:23)。私たちは霊の初穂をいただいている、霊の救いという内面的な救済はすでに始まった。しかし体は肉を持つゆえに罪の虜になっている。救いは始まったがまだ完成していない、いつの日かこの体が贖われるその日を待ち望んでいるとパウロは言います。
・今現在、私たちの救いは目に見えません。現実の世界では、苦難が繰り返し襲い、私たちは疲れ果てて祈ることさえできない。しかし神は私たちのうめきを聞きとって下さる。私たちが祈れない時には共に祈って下さる「私たちはどう祈るべきかを知りませんが、霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、霊の思いが何であるかを知っておられます。霊は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです」( 8:26-27)。
・神の霊が私たちを支えてくれるゆえに、不信仰な私たちも神の約束を信じて人生を歩み続けることが出来ます。その時、私たちは「万事が益となって働く」(8:28)ことを経験します。私たちの生活は苦難に囲まれています。苦しみそのものは決して良いものではありませんが、それが私たちのために最善に用いられることを知るゆえに、困難や苦しみを喜ぶことが出来る者とされています。パウロはフィリピ教会への手紙の中で語っています「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1:29)。病も死も神がお与えになる故にそれは祝福なのだと受け止めていく時、人生に怖いものはなくなります。

3.将来の栄光のために

・今日の招詞にローマ8:33-34を選びました。次のような言葉です「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」。キリスト者になることは、イエスが十字架の苦しみを負われたように、私たちも苦しみを担っていくことだとパウロは言います。しかし一人で担うのではないと彼は言います「もし神が私たちの味方であるならば、だれが私たちに敵対できますか」(8:31)。ここでパウロは裁判のことを考えています。彼はそれまでの生涯で、何度も投獄され、鞭打たれ、法廷に引きずり出されています。法廷には告発する者と弁護する者、そして裁きを行う者がいます。「もし裁く者(裁判官)が神であり、神が私たちの味方であるとすれば、何も恐れることはないではないか」と彼は言うのです。
・パウロの生涯は苦難の連続でした。彼は同胞ユダヤ教徒からは、「裏切り者」として、命をねらわれていました。彼は母教会のエルサレム教会からは、律法を無視する異端者として批判されていました。自分が開拓伝道したコリント教会やガラテヤ教会からも、「彼は本当に使徒なのか」と疑われていました。そして生涯の最後には、ローマで処刑されます。この世的に見れば、パウロの生涯は苦労ばかり多く、報いは少なかった。しかし、パウロ自身の認識は異なります「私は、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれを私に授けてくださるのです」(第二テモテ4:7-8)。「やるべきことをやり終えた」といえる人生は素晴らしい。私たちの目の前には、二つの人生の可能性があります。一つは「幸福な人生」、自己実現に励み、他者からの評価を求める人生です。しかし死ねばすべて終わり、死後には何も残しません。もう一つの人生は「意味ある人生」、他者のために働く人生です。その人生は死んでも終わりません。新しい命がそこから生まれてくるからです。いかに多くの人々がパウロの言葉に励まされ、新しい人生を生き直すことが出来たことでしょう。
・パウロは語ります。「だれが神に選ばれた者たちを訴えるでしょう。人を義としてくださるのは神なのです。だれが私たちを罪に定めることができましょう。キリスト・イエスが、神の右に座っていて、私たちのために執り成してくださるのです」(8:33-34)。地上においては聖霊が私たちの心の内に働いて執り成し、天上においては復活されたキリストが私たちのために執り成される。神はこのような形で私たちを守って下さるのだから、たとえ地上で迫害や困難があっても恐れる必要はないと彼は書き送ります。
・人が地上の出来事のみに目を奪われている時、彼の信仰は揺らぎます。しかし彼が天上に目を向け、すべては神の支配の中にあることを確認する時、不条理も一時的なものであることに気づきます。彼を取り巻く現実は変わっていません。悪は栄え、彼は神の栄光に預かっていない。しかし心は平安です。彼はやがて死ぬでしょう。しかし神は死を超えて慈しんで下さると信じる故に彼の心は平和です。例え虐げられている人が戦乱の中で殺され、栄養不足で餓死したとしても、彼らは天上で迎え入れられます。救いは肉体の死を超えて存在します。信仰とは、この「目に見えないものを望んでいく」ことです。パウロは述べます「私たちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。私たちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです」(8:24-25)。現在の苦難は将来の栄光のためにある、それを知った時、「苦難が苦難のままに祝福になっていく」。それが私たちに与えられた福音なのです。


カテゴリー: - admin @ 08時02分41秒

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