すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.サウルを殺さなかったダビデ

・イスラエル民族は紀元前13世紀ごろにカナンの地に入った。そこは「あなた方に与える」と主から約束された土地であったが、先住の民族が住んでおり、イスラエルは敵と戦いながらその地に入り、そこを占領して国を築いた。しかし、国を建てた後も他民族の侵入に悩まされ、対抗して国を守るために王を必要とした。その初代の王として立てられたのがサウルであった。サウルは「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」(サムエル記上9:2)とあるように、軍人としては優れていたが、王=統治者としての能力は低く、民の人望はなかった。
・そのサウルの下で頭角を現してきたのがダビデだった。ダビデは軍人として優れ、また人柄も良く民に愛された。ダビデが戦いから帰って来た時、民は迎えて歌った「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(18:7)。これはサウルには聞くに堪えない言葉だった。サウルは王であり、ダビデはその家臣に過ぎないのに、人望はダビデにあった。サウルは言った「ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか。」(18:8)。「この日以来、サウルはダビデを妬みの目で見るようになった」とサムエル記は記す(18:9)。
・ダビデを妬む心がやがて憎しみになり、憎しみが殺意に変わっていく。サウルはダビデの命を狙い始めた。ダビデは宮廷を出て荒野に逃れるが、サウルは執拗にタビデの後を追い、殺そうとする。ある時「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者があり、サウルは3千の兵を率いてダビデ討伐に出る。その物語が今日学ぶサムエル記上24章である。
・ダビデを探す途中、サウルは用を足すために、洞窟に入った。ユダの荒野には多くの洞窟があり、あるものは数百人も入れる。サウルが入った洞窟にはダビデと部下たちが隠れていた。サウルが来た時、ダビデの部下たちは言った「「絶好の機会です。サウル自らあなたの手の下に来た。彼はあなたの命を狙っている敵です。彼を殺してあなたが王になりなさい」(24:5)。ダビデは武器を取って立ち上がり、サウルを殺そうとしたが、思い直して言った「 私の主君であり主が油を注がれた方に、私が手をかけ、このようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」(24:6)。
・ダビデは何故サウルを殺さなかったのだろうか。サウルはダビデにあらぬ疑いをかけ、彼の命を付けねらった敵であり、殺せばダビデの命は安泰になり、王位も彼のものになる。しかし、ダビデはサウルを殺さなかった。それは彼の信仰から来る。ダビデは歴史を神が導かれていると信じた。だから「神が選ばれたものを私は殺さない。もし、サウルが王としてふさわしくなければ、神自らサウルを取り除かれるだろう」と信じた。私たちも歴史をどのように理解するかで、行動が変わってくる。歴史は神により導かれているのか、それとも偶然性の連続なのか。もし、歴史が偶然性の連続であれば、今ここでサウルを殺して彼が王になれば良い。それが人間の選んできた歴史だ。しかし、もし歴史が神に導かれているものであれば、神の許しなしに行う行為は罪となり、ダビデの生涯は呪われたものになる。これが摂理の信仰、歴史を導かれる神の御心に従うという信仰であり、ダビデはその信仰に立って、サウルを殺さず、部下にもサウルを襲うことを許さなかった。ダビデは自分を殺そうとするサウルを主の裁きに委ねた。主が裁いてくださるから、自らの手で敵を殺す必要がなかった。

2.御心を受け入れる

・今日の招詞として、哀歌3:28-33を選んだ。次のような言葉だ「軛を負わされたなら、黙して、独り座っているがよい。塵に口をつけよ、望みが見いだせるかもしれない。打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ。主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる。人の子らを苦しめ悩ますことがあっても、それが御心なのではない」。
・イスラエルは神に背き、その結果、神から裁きを受ける。その裁きがバビロン軍の侵入、国の滅亡、民の離散として、目の前の現実となった。エルサレムは焼かれ、民は殺され、主だった人々は敵の都バビロンに捕虜として連れ行かれた。その絶望の只中で書かれた記事が哀歌だ。町は廃墟になり、人々は全てを失い、食べるものもなく、さまよっている。著者はエルサレム滅亡の目撃者だ。彼は絶望の中で神の名を呼び始める。「あなたは何故このような事をなさるのか」。祈り続ける中で、絶望が次第に希望に変わっていく。国の滅亡という裁きを受けたが、神は私たちを見捨てられない。あわてふためき騒ぎ立てることをせず、静かに神に信頼して与えられた軛を負っていこう。この困難もまた神のご計画の中にあるものなのだから。「塵に口をつけよ」、この困難を黙って受けよう。「打つ者に頬を向けよ、十分に懲らしめを味わえ」、不正で残忍な取り扱いを受けても、忍ぼう。「主は、決してあなたをいつまでも捨て置かれはしない。主の慈しみは深く、懲らしめても、また憐れんでくださる」。現実がどのようであれ、御心ならそれを受け入れていこう、哀歌の著者はそう歌う。
・ダビデは「主が油を注がれた方に私が手をかけることを主はお許しにならない」(24:7)といって、敵であるサウルを殺さなかった。相手がどのように残酷で自分を苦しめようと、悪に悪を報いない。打たれても報復しない。出来事の最終的な支配者である神にお任せする。神が私を選ばれたのであれば自分は王に成るであろう。その方法は相手の命を奪うことではない。ダビデは自らの手でサウルを退けず、神の時を待った。ダビデがイスラエルの王になったのはサウルの戦死後だった。長きにわたる試練がダビデを謙虚にした。領土が広がり、名君と評判されてもダビデは傲慢にはならなかった。王位は神の委託の元にあり、彼自身のものではないことを知っていたからだ。彼は弱さからいろいろの罪を犯すが、罪を問われた時は灰をかぶって悔い改めた。神はダビデを愛し、彼の末から神の子イエスが生まれていく。
・私たちも信仰者として、このダビデに倣って行く。神が与えられたものは、例え苦しく、その意味がわからなくとも受け入れていく。何故なら、神は私たちを愛し、私たちに祝福を与えようとしておられる。その祝福のために現在の試練がある。今はわからなくとも、わかる日が来る。その時、私たちは今与えられている呪いを感謝するようになる。自分で選ばない、神に委ねていく。そのような生き方が信仰者の生き方だ。
・今日、私たちは応答讃美として讃美歌73番を共に歌う。デートリッヒ・ボンヘッファーが1944年のクリスマスに書いた歌だ。ボンヘッファーはナチス時代を生きたドイツの牧師だ。彼はヒットラー暗殺計画に加わり、捕らえられ、獄中にいる。その獄中から家族にあてたのがこの詩だ。1番は次のような詩だ。「善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう」。今自分は獄中で、処刑の日を待っている。それなのに心は平安だ。善き力に守られている、神が共にいますからだ。「過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、さわぎ立つ心しずめ、御旨に従い行く」。神に信頼せず、自分の力で悪を取り除こうとした。その罪の報いを今自分は受けている。処刑の日は近いかも知れない。しかし、心は平安だ。罪を犯したにもかかわらず、神は赦し、受け入れてくださったからだ。
・2番が続く「たとい主から差し出される杯は苦くとも、恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう」。主から差し出される杯は「死」であろう。死ぬのは怖い。怖いがそれが神の御旨であるなら、差し出される杯をいただこう。「輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来るべき朝を待とう」。神共にいませば、それでいい。自分が死んだ後、祖国ドイツがどうなるかわからない。わからないが、神が全てを善しとして下さる、その事を信じて行こう。望みを主に委ねよう、自分の為すべき事は終わった。4ヵ月後に彼は処刑され、死ぬ。39歳であった。
・御心に従う事は、多くの場合苦痛だ。御心が私たちの願いと異なることが多いからだ。病のいやしを求めても与えられない時、その病を喜んでいく。希望した学校や企業への道が閉ざされた時、その意味を求めていく。教会の一致を求めても与えられない場合は、その不一致を喜んでいく。不一致を通して、神は私たちをどこに導こうとしておられるかを追い求めていく。新約聖書の1/2は使徒たちの教会への手紙だ。手紙は問題のある教会に向けて書かれた。初代教会がいろいろの問題を持った故に、後世の私たちは手紙と言う恵みを与えられた。神は全てを善しと変える力を持たれる。それを信じていく。信仰のある者と無い者の違いは、いざと言う時に絶望に押しひさがれるか、それとも神による救いを見出すかだ。私たちはクリスチャンだ。キリストに出会った。だから、御心に従っていくのだ。


カテゴリー: - admin @ 18時45分19秒

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1.子を与えられない女性の祈り

・今日、私たちはアドベント第四週を迎えた。来週はクリスマス、主イエス・キリストの降誕を祝う時だ。イエスの母マリアは、聖霊によって身ごもった事を知らされた時、神を讃美して歌った「私の魂は主をあがめます。この主のはしためにも、目を留めて下さったからです」(ルカ1:47-48)。自分のような者を神は選んで下さった、感謝しますとマリアは歌った。子供を身ごもる、それは女性だけが味わうことの出来る至上の喜びだ。聖書にはその喜びを歌ったもう一つの歌がある。サムエルの母、ハンナの歌だ。今日は、ハンナ、マリア、二人の母親の賛歌を通して、クリスマスのメッセージを聞きたい。
・ハンナは預言者サムエルの母であるが、サムエルが生まれるまでには多くの出来事があった。その次第がサムエル記上1章に述べられている。ハンナはエフライムの人、エルカナの妻であったが、不妊であった。夫のエルカナは妻ハンナを愛していたが、跡継ぎの子を得るために、もう一人の妻を迎えた。二番目の妻ペニナは多くの子を生んだ。彼女は自分が子を産んだ事を誇って、子を生めないハンナを思い悩ませ、苦しめた。当時、子のない女性は神に呪われているとされていた。ペニナから受ける辱め、それ以上に子を与えてくれない神に対する恨み、ハンナは毎日を泣き暮らしていた。夫は妻の痛みがわからず、「私がお前を愛していればいいではないか」と慰めるが、ハンナの心は晴れない。ハンナは家の中にも外にも居場所がなくなり、涙に明け暮れていた。
・子を生む、女性にだけ与えられた大きな喜びだ。しかし、その喜びを持てずに悲しむ女性は多い。現代では、何とかして子を持ちたいと願い、不妊治療を受ける女性もいる。それでも子を持てない人もいる。聖書はイエスがそのような女性たちを慰められたと記す。あるとき、イエスの説教に感動した婦人が叫んだ「なんと幸いなことでしょう、あなたを宿した胎、あなたが吸った乳房は」(ルカ11:27)。それに対してイエスは言われた「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人だ」。女性は子を産むことこそ幸いだという世の道徳にイエスは同調されなかった。女性も男性も神の言葉を聞き、それを守る人こそ幸いなのだとイエスは言われている。子を産むかどうか、どんな子を産むかで、価値付けられてきた女性たちの悲しみをイエスは知っておられたからだ。私たちがクリスマスで待ち望む方は、私たちの悲しみを知っておられる方だ。
・さて、エルカナ一家は毎年の祭りに、シロの神殿に参り、お祝いの食事をする慣わしだった。ある年、祭りでシロへ出かけ、祝いの席についたが、ハンナは悲しみの余り、食事も取れなかった。彼女は主の神殿に行き、激しく泣いた。そして泣きながら祈った「主よ、はしための苦しみを見てください。子を与えて、私に加えられたこの辱めを晴らしてください」。彼女が求めたのは、子が与えられて、ペニナを見返すことだった。しかし、祈るうちに彼女は変えられていった。「自分の苦しみを知って欲しい、助けて欲しい」という祈りが、「もし子を授けられたら、その子はあなたに捧げます」という祈りに変わっていった。神殿の祭司エリはそのハンナの祈りを聞き、彼女に言った「安心して帰りなさい。主があなたの願いをかなえて下さるように」。彼女の訴えは神に届き、彼女は身ごもって男の子を生んだ。熱心に祈った結果、子が与えられたため、彼女は子をサムエル(神聞きもう)と名づけた。

2.神の業を見た女性の讃美

・ハンナは子が乳離れするまで手元に置き、乳離れした時、子を献げる為に、シロの神殿に連れて行き、祭司エリに預けた。その時、ハンナが歌った讃美がサムエル2章の「ハンナの賛歌」である。ハンナは歌った「主にあって私の心は喜び、主にあって私は角を高く上げる。私は敵に対して口を大きく開き、御救いを喜び祝う」(2:1)。主は私の願いを聞いて下さった。私のようなはしためをも御心に留めて下さった。私を呪われた者と侮った敵の前で、私の恥をそそいで下さった。彼女は続ける「子のない女は七人の子を産み、多くの子を持つ女は衰える」(2:5)。不妊の女と卑しめられた私に子が与えられ、多くの子を産んだと誇るペニナをあなたは砕いて下さった。
・ハンナの祈りは私たちの祈りと同じだ。自分の思いしか祈らない。「子を与えてください、子を与えて私の恥をそそいで下さい。子を産んで憎いペニナを見返してやりたいのです」。神はこのような、わがままな祈りさえ聞かれる。そしてわがままな祈りが聞かれた者は、やがて自分の思いを離れて、主に感謝するようになる。その讃美が6節以下にある。「主は命を絶ち、また命を与え、陰府に下し、また引き上げて下さる。主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高めて下さる」(2:6-7)。榎本保郎牧師は解説して言う「ハンナの喜びは自分の恥が取り除かれたというところに留まらなかった。彼女は求めて子を与えられたと言う体験を通して、世界は全て神の愛の業の中にある事を示された。それ故に殺されることも、陰府に下ることも、貧しくなることも、低くされることも、もはや神を知った彼女にとっては闇でもなければ絶望でもなかった」(榎本保郎「旧約聖書1日1章」から)。
・ハンナは子に恵まれず、悲しみを強いられた。主が「ハンナの胎を閉ざしておられた」(1:5)からだ。不妊の女性であるからこそ、子が与えられるようにこんなにも深く祈った。苦労もなく子が与えられたならば、この祈りは生まれず、この祈りがなければサムエルは生まれなかった。自分の限界を知らされたからこそ、ハンナは主により頼み、主は答えて下さった。ハンナの涙が偉大な預言者を産み、ハンナの涙が後世まで人々が口ずさむ賛歌を生んだ。悲しみこそ、喜びの始まりなのだ。私たちは光をともして、キリストの降誕を待つ。闇の中に住んでいる故に、光であるキリストを待ち焦がれるのだ。

3.ハンナの祈りがマリアの賛歌を導いた

・今日、私たちは招詞として、ルカ1:47-48を選んだ。次のような言葉だ「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さったからです。今から後、いつの世の人も、私を幸いな者と言うでしょう」。
・この賛歌はマリアが神の子を身ごもっている事を知らされ、その喜びを伝えるために、いとこのエリサベトを訪問した時に歌った歌だ。一見すると、子を身ごもった母親の喜びの歌のように聞こえるが、その裏には多くの葛藤があった。御使いがマリアに現れ「あなたは男の子を産む。その子こそ神の子である」と告げた物語は受胎告知として有名だ。「マリアよ、おめでとう」、アベ・マリア、私たちはこの受胎告知をロマンチックな出来事として捉える。しかし、告げられた出来事は人間的にはめでたいどころか、非常に重い出来事であった。マリアはまだ、結婚していない。未婚の娘が子を産む、当時においても現代においても、それは世の非難を招く出来事だ。当時は、姦淫を犯した者は石を投げて殺せと云う法があった時代だ。夫もないのに子を生む、世間は姦淫を犯したとしか見ないだろう。だからマリアは不安におののいた。彼女は人知れず苦しみ、祈ったであろう。その祈りに神は応えられた。婚約者ヨセフは、最初はマリアを離婚しようと決意していた。しかし、御使いから「マリアの胎内に宿る子は聖霊によるものだから、彼女を妻として迎えなさい」と告げられ、受け入れてマリアを妻として迎えた。マリアは喜びに包まれた。だからこそ、この賛歌を歌えたのだ。
・「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます」。あなたは私に子を持つことと許して下さった。あなたはヨセフに働きかけ、子が聖霊によって身ごもったという信じられない出来事を信じさせて下さった。ヨセフは私を妻として迎えてくれた。この幸いを感謝します。「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めて下さった」。あなたはこの卑しい、無に等しい者も御心に留めていただき、子を与えて下さった。あなたは偉大な事をこの身になさいました。そして、彼女はハンナの歌を歌う「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます」。マリアは安息日ごとに会堂で詠まれる聖書を聴き、ハンナの賛歌も暗誦するほど親しんでいたのであろう。全てを支配される神、悲しむ者、貧しい者を顧みて下さる神への賛歌を、彼女はハンナの歌に合わせて歌った。
・マリアもまた困難な状況から神が救って下さった経験をした。だから、心からなる讃美を主に捧げた。ヨセフがマリアを妻として受け入れなければ、マリアは死んでいたかもしれない、あるいは子を中絶していたかも知れない。そうなれば、イエス・キリストは生まれなかった。イエスはユダヤ人からは「私生児」とののしられている。イエスが「子を生む女性が幸せではなく、神の言葉を聞き、それを守る人こそ幸いだ」と言われた時、母マリアと御自身の苦しみを思い起こされたのかもしれない。主は御自身が苦しまれたからこそ、私たちの苦しみを知って、憐れんで下さる。「御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです」(ヘブル2:18)。私たちの悲しみも苦しみも知っておられ、求めればいつでも手を伸ばして下さる方を、私たちは知っているのだ。だから、私たちも、ハンナと共に、マリアと共に、主を讃美するのだ。


カテゴリー: - admin @ 15時11分42秒

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1.ダビデの選び

・今日、私たちはキリスト降誕に思いを寄せるために、ダビデ王の選びの記事をサムエル記を通じて読む。キリスト降誕に先立つ1000年前、ダビデがイスラエルの王として立てられた。そのダビデの家系の中から世界の王となられるキリストが生まれてくる。サムエル記は約束の地に入ったイスラエルが部族共同体から次第に王国に変わっていく歴史を描く。その歴史書に王ではなく、預言者の名前がつく。国を興すのは王ではなく、神であり、歴史=Historyとは神の(His)物語(Story)であるとの信仰だ。神は最初の王として若者サウルを立てられた。サウルは武力に優れ、指導者として諸国と戦い、国を盛んにしていく。即位当初は謙虚な若者であったが、国力が増し、栄えていく過程で、次第に独裁的に変わっていく。サウルは預言者サムエルから「聖別の油」を注がれて王となるが、やがてサムエルの言葉に従わなくなり、専制君主となっていった。ここにおいて神はサウルを見限られ、新しい王に油を注ぐように命じられる。その箇所が今日読むサムエル記上16章だ。
・サムエルは主の祝福がサウルを離れたことを知らされたが、まだサウルに執着する。サウルは彼が油を注いで王とした者であり、彼に代えて新しい王に油を注ぐことは、自分のこれまでの働きを否定することだったからだ。彼は過去に執着する。しかし、神は未来を見よと言われる。「いつまであなたは、サウルのことを嘆くのか。私は、イスラエルを治める王位から彼を退けた。角に油を満たして出かけなさい。あなたをベツレヘムのエッサイのもとに遣わそう。私はその息子たちの中に、王となるべき者を見いだした」(16:1)。サムエルはためらう。サウルはいまだ王であり、新しい王に油を注ぐことは彼の憎しみを買い、命の危険を伴う。サムエルはベツレヘムに行くが、町の長老たちも不安な面持ちでサムエルを迎える。「おいでくださったのは、平和なことのためでしょうか」(16:4)。サウルは残虐な王であり、逆らう者は容赦なく殺す。預言者の来訪は町の人々を心配させた。
・サムエルは人々を安心させて、エッサイの家に向かい、エッサイに息子達を呼び集めるように命じた。最初に呼ばれたのが長男エリアブだった。エリアブは筋骨たくましく王にふさわしい立派な容貌だった。サムエルは彼こそその人だと思い、油を注ぐ準備をした。しかし主は彼ではないと言われた「容姿や背の高さに目を向けるな。私は彼を退ける。人間が見るようには見ない。人は目に映ることを見るが、主は心によって見る」(16:7)。神はサムエルに言われた「お前はまたサウルそっくりの男を選ぼうとしている。我々が必要とするのは武力に優れたものではない。神に従う心だ。力は神から来るのだ」。やがて次男アビナダブが呼ばれるが、彼も否定された。三男が、四男が呼ばれるが彼らでもない。七人の誰もが選ばれない。サムエルは「あなたの息子はこれだけか」とエッサイに聞く。エッサイはもう一人の子がいるが、まだ子供のためこの席にはいないと答える。サムエルは彼を連れてくるように命じ、八番目の子が彼の前に来た。その時、サムエルは主の言葉を聞く「立って彼に油を注ぎなさい。これがその人だ」(16:13)。こうしてダビデは聖別の油を注がれ、王として立てられていく。

2.選ばれた者のその後

・ダビデは聖別され、王として立たされた。しかし、日常生活は変わらない。彼は相変わらず羊飼いで、兄達に仕える弟だ。聖書は「その日以来、主の霊が激しくダビデに降るようになった」(16:13)と記すが、生活は変わらない。ダビデも自分は本当に選ばれたのだろうかと疑問を持ったであろうが、主の導きを待った。やがてその時が来た。それが17章にあるペリシテ軍の勇者ゴリアトとの対決だった。当時のイスラエルにとって、ペリシテは大きな脅威だった。彼らは青銅や鉄を用いて武器を作り、重装備軍団でイスラエルを侵略していた。その先頭に立つのが武将ゴリアトで、イスラエル軍は彼を恐れ、誰も立ち向かおうとはしない。このゴリアトを倒すために立ち上がったのがダビデであった。彼は王に言う「私は羊の群れを襲う獅子も熊も倒して来ました。今、イスラエルを襲うペリシテ人もそれらの獣の一匹のようにしてみせましょう。」(17:34-36)。ダビデはただ神の加護を武器に、単身ゴリアトに立ち向かい、石で彼を倒し、その首を切り落とす。
・これを契機に彼は出世していく。彼はサウル軍の武将になり、王の娘を与えられ、ペリシテとの戦いで連戦連勝する。民の人気は高まり、民は歌い始める「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(18:7)。主の選びが成就する日も近いとダビデは思ったであろう。しかし、ダビデの人気はサウルを不安にし、ダビデを自分の競争者として殺そうとする。王の娘婿、近衛隊長までなったダビデが一転、王に追われる身となる。ダビデの行く所、王の軍隊が差し向けられ、たびたび命の危険に脅かされる。彼は思ったであろう「これが主の選びか。羊飼いでいた時は貧しくはあったが平和な日々であった。主に選ばれたばかりにこのような苦難に会う。選びとは何なのか」。彼の放浪時代は10年以上も続いた。
・ダビデはサウルに追われて逃亡生活を続けていた。ある時、ダビデと部下たちが潜んでいる洞窟にサウルが用足しをするために入ってきた。ダビデの部下は「王を殺しなさい。そうすればあなたが王だ」とダビデをそそのかす。ダビデもその気になり、剣を取って密かにサウルに近づく。しかし、彼は自分の罪に気づき、王の着物の端を切り取っただけで帰ってくる。その時、ダビデは言った「主が油を注がれた方に私が手をかけることを主はお許しにならない」(24:7)。例え相手がどのように残酷で自分を苦しめようと悪に悪を報いてはいけない。打たれても報復しない。出来事の最終的な支配者である神にお任せする。神が私を選んだのであれば自分は王に成るであろう。その方法は相手の命を奪うことではない。彼もまた神の選びの中にあるのだから。

3.約束を信じて生きる

・今日の招詞にヨハネ15:16を選んだ。つぎのような言葉だ「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなたがたを任命したのである」
・自分が神に選ばれたことを信じることはやさしい。しかし自分の敵であったり、仇であったりする相手も神に選ばれた者として遇していくのは難しい。しかし、神の選びを信じるとは、自分の命をかけてまでも、相手にある神の選びを貴んでいくことだ。ダビデは自らの手でサウルを退けず、神の時を待った。ダビデがイスラエルの王になったのはサウルの戦死後だった。彼は若くして神の選びを受け、王の婿、近衛隊長にまで上りながら、その後長い間逃亡生活を送った。長きにわたる試練がダビデを謙虚な王にした。国の領土が広がり、名君と評判になってもダビデは傲慢にはならなかった。王位は神の委託の元にあり、彼自身のものではないことを知っていたからだ。彼は弱さからいろいろの罪を犯すが、罪を問われた時は灰をかぶって悔い改めた。神はダビデを信頼し、愛し、彼の末から神の子イエスが生まれていく。今日私たちは讃美歌153番「エッサイの根より」を歌うが、「エッサイの根」とは、「エッサイの子ダビデ」の意味だ。キリスト・イエスはこのダビデの末として生まれられた。
・イエスは言われた「あなたが私を選んだのではなく、私があなたを選んだ」。私たちもまたダビデと同じ選びの中にある。ダビデと同じように聖別の油をバプテスマと言う形で受けた。それは私たちが「行って実を結び、その実が残るように」である。そして私たちはこの教会を形成した。しかし、教会の現実は「私たちは本当に選ばれたのだろうか」と疑う困難の中にある。私たちの生活も楽しい時より苦労の方が多いかもしれない。しかし、神がダビデを選ばれたように、私たちをも選ばれたことは、疑いようもない事実だ。私たちも、ダビデのように時を待とう。祝福を自分の手で作るようなことはせず、約束の実現を待とう。そのために今なすべき事をしよう。礼拝と祈祷会を守っていこう。神の言葉を聞き続けていこう。神の選びを信じ続けていこう。


カテゴリー: - admin @ 18時37分46秒

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1.サウルとダビデ

・イスラエル民族は紀元前13世紀ごろにカナンの地に定住した。そこは「あなた方に与える」と主から約束された土地であったが、既に先住の民族が住んでおり、イスラエルは敵と戦いながらその地に入り、そこを占領して国を築いた。しかし、国を建てた後も他民族の侵入に悩まされ、対抗して国を守るために王を必要とした。その初代の王として立てられたのがサウルであった。サウルは「美しい若者で、彼の美しさに及ぶ者はイスラエルにはだれもいなかった。民のだれよりも肩から上の分だけ背が高かった」(サムエル記上9:2)とあるように、軍人としては優れていたが、王=統治者としての能力は低く、民の人望はなかった。
・そのサウルの下で頭角を現してきたのがダビデだった。ダビデは軍人として優れ、また人柄も良く民に愛された。ダビデが戦いから帰って来た時、民は迎えて歌った「サウルは千を討ち、ダビデは万を討った」(18:7)。これはサウルにはたまらない言葉だった。サウルは王であり、ダビデはその家臣に過ぎなかったのに、人望はダビデにあった。 サウル言った「ダビデには万、私には千。あとは、王位を与えるだけか。」(18:8)。 「この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった」とサムエル記は記す(18:9)。
・ダビデを妬む心がやがて憎しみになり、その憎しみが殺意に変わっていく。ダビデは宮廷を出て荒野に逃れるが、サウルは執拗にタビデの後を追い、これを殺そうとする。ある時「ダビデはエン・ゲディの荒れ野にいる」と伝える者があったため、サウルは3千の兵を率いてダビデ討伐に出る。その物語が今日学ぶサムエル記上24章の箇所である。

2.サウルを殺さなかったダビデ

・ダビデを探す途中、サウルは用を足すために、山羊の岩の近くの洞窟に入った。ユダの荒野には多くの洞窟があり、あるものは数百人も入れる。サウルが入った洞窟にはダビデと部下たちが隠れていた。サウルが来た時、ダビデの部下たちは言った「「絶好の機会です。サウル自らあなたの手の下に来た。彼はあなたの命を狙っている敵です。彼を殺してあなたが王になりなさい」。ダビデは武器を取って立ち上がり、サウルを殺そうとしたが、思い直して言った「 私の主君であり主が油を注がれた方に、私が手をかけこのようなことをするのを、主は決して許されない。彼は主が油を注がれた方なのだ。」(24:6)。
・ダビデは何故サウルを殺さなかったのだろうか。サウルはダビデにあらぬ疑いをかけ、彼の命を付けねらった敵であり、今、殺せばダビデの命は安泰になり、王位も彼のものになる。しかし、ダビデはサウルを殺さなかった。それは彼の信仰から来る。ダビデは歴史を神が導かれていると信じた。だから「神が選ばれたものを私は殺さない。もし、サウルが王としてふさわしくなければ、神自らサウルを取り除かれるだろう」と信じた。私たちも歴史をどのように理解するかで、行動が変わってくる。歴史は神により導かれているのか、それとも偶然性の連続なのか。もし、歴史が偶然性の連続であれば、今ここでサウルを殺して彼が王になれ良い。しかし、もし歴史が神に導かれているものであれば、神の許しなしに行う行為は罪となり、ダビデの生涯は呪われたものになる。これが摂理の信仰、歴史を導かれる神の意思に従うという信仰であり、ダビデはその信仰に立って、サウルを殺すことを止めた。彼はサウルの着物の端を切り取っただけで、部下にもサウルを襲うことを許さなかった。
・サウルは周囲で起こっていた出来事を何も知らず、洞窟を出た。そのサウルにダビデは声をかけた「あなたは何故私を殺そうとするのか。私にはあなたに対する殺意はない。洞窟の中であなたを殺す機会が与えられたが。私はそうしなかった。何故ならば、あなたは主が油を注がれた王であり、私は主のみ旨に反して行動することは出来ないからだ。ただ殺すことが出来たしるしにあなたの着物の端を切り取った」として、それをサウルに示した(24:9-12)。そして言った「主があなたと私の間を裁き、私のために主があなたに報復されますように。私は手を下しはしません」(24:13)。ダビデは自分を殺そうとするサウルを主の裁きに委ねた。主ご自身がダビデの言い分を裁いてくださるから、彼は自らの手で敵を殺す必要がなかった。


3.汝の敵を愛せよ。

・今日の招詞にマタイ福音書5:43-45を選んだ。「汝の敵を愛せよ」と言われたイエスの言葉である。
「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。」
・多くの人がこのイエスの言葉を説教した。マルテイン・ルーサー・キングも、1963年に「汝の敵を愛せよ」という説教を行った。当時、キングはアトランタ・エベニーザ教会の牧師だったが、黒人への差別撤廃運動の指導者として投獄されたり、また教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていた。そのような状況の中で行われた説教である。キングは次のように言っている「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、どのようにして私たちは敵を愛することが出来るようになるのか。イエスは汝の敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。また、憎しみは相手を傷つけると同時に憎む自分をも傷つけてしまう悪だ。自分たちのためにも憎しみを捨てよう。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」と彼は聴衆に語りかける。
・説教の最後で彼は敵対者に語りかける。「我々に苦難を負わせるあなた方の能力に対し、苦難に耐える我々の能力を対抗させよう。あなた方のしたいことを我々にするがいい、そうすれば我々はあなた方を愛し続けるだろう。我々はあなた方の不正な法律には従わない。我々を刑務所に放り込むがいい。それでも我々はあなた方を愛するだろう。我々の家庭に爆弾を投げ、我々の子供らを脅すがいい、それでも我々はあなた方を愛するだろう。覆面をした暴徒どもを真夜中に我々の家庭に送り込み、我々を打って半殺しにするがよい、それでも我々はなおあなた方を愛するだろう。しかし、我々は耐え忍ぶ能力によってあなた方を摩滅させることを覚えておくがいい。何時の日か我々は自由を勝ち取るだろう。しかし、それは我々自身のためだけではない。我々はその過程であなた方の心と良心に強く訴えて、あなた方を勝ち取るだろう。そうすれば我々の勝利は二重の勝利となろう」。
・キングは歴史を導く神の力を信じた。だから自らの手で敵に報復しない。敵の裁きは神に委ねる。白人たちは黒人を差別し、抗議する黒人を投獄し、彼らの家に爆弾を投げ込む。しかし、キリストは彼らのためにも十字架にかかられたから、白人を憎まない。ここにダビデと同じ精神の持ち主がいる。ダビデは言った「サウルは神が選ばれた王である。もしサウルが王として相応しくなければ神が取り除かれるだろう。だから私は自分の手で彼を殺さない」。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである」。歴史は神が導かれる。もし、私たちの前に私たちに不正を行うものがいたとしても、自分の手でその人を排除してはいけない。パウロは言った「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる・・・。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる。』」(ローマ12:19-20)。
・ダビデの言葉にサウルは泣いた。キングの言葉にアメリカは変わった。世を支配される神の力に委ねよう。


カテゴリー: - admin @ 12時20分18秒

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