すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.求められることを待ち望む神

・11月はイザヤ書を読み続けています。今回がイザヤ書の最終回です。イザヤ書の背景にあるのは、バビロンから故国に帰った人々が体験した苦難です。彼らが喜び勇んで帰国してみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がエルサレムをエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンに留まった方が良かったと民は言い始めているのです。
・それに対して預言者は、「主はあなたたちが呼び求めるのを待っておられる」と反論します。「私に尋ねようとしない者にも、私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」(65:1-2)。「父なる神は常に私たちと共におられる。私たちにそれが見えないのは私たちが神を求めないからだ」と預言者は語ります。イエスはそれを放蕩息子の帰還という形で私たちに示されました。「息子はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。しかし息子が異国の地に留まり続け、父の元に帰らなければ父の本当の姿を知ることはなかったことは事実です。
・預言者は「救いがないのはあなたたちの罪の故だ。あなたたちは主を無視して異教の神々に礼拝を捧げ、墓場で死者の霊を呼び出し、禁止された豚肉さえ食べている」と批判します。バビロニアでは豚肉は広く食され、祖先礼拝も当たり前でした。50年の捕囚の間に民はバビロニア化され、信仰が異教化していたのです(65:3-5)。それを悔い改めて主のもとに帰れ、そうすれば主は豊かに報いて下さると預言者は呼びかけます。しかし異教化した群れに中にも正しい信仰を求める者は必ずいます。その者たちは祝福すると主は言われます。その時、不毛の地シャロンの湿地も、砂漠のアコルの谷も、羊や牛が群がる豊かな地に変えられるとの希望を預言者は歌います「私はわが僕らのために、すべてを損なうことはしない。ヤコブから子孫を、ユダから私の山々を継ぐ者を引き出そう。私の選んだ者らがそれを継ぎ、私の僕らがそこに住むであろう。シャロンの野は羊の群がるところ、アコルの谷は牛の伏すところとなり、私を尋ね求めるわが民のものとなる」(65:8-10)。
・ただ留意すべきことを預言者は語ります。祝福は全ての人に与えられるのではなく、主の教えを守らない者には祝福がないことが伝えられます。11節以降は求める者への救済と、悔い改めない者への審判が交互に繰り返される二重告知になっています。「お前たち、主を捨て、私の聖なる山を忘れ、幸運の神(ガド)に食卓を調え、運命の神(ニメ)に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。私はお前たちを剣に渡す・・・私の僕らは糧を得るが、お前たちは飢える。見よ、私の僕らは飲むことができるが、お前たちは渇く。見よ、私の僕らは喜び祝うが、お前たちは恥を受ける」(65:11-13)。具体的には、死者を呼び出し、神託を求める等の行為が非難されています。神に頼るのではなく、迷信や占いで将来を知ろうという行為は主を信じる者の行為ではありません。信仰とは「求める者は与えられる」(マタイ7:8)ことを信じることです。しかし求めない者には救いは与えられない、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」のです。今日、この礼拝に招かれた人も、「主に従って生きる」と決心した時、救いが与えられるのです。

2.新しい天と新しい地の幻

・イザヤは「主の名を呼ぶ者に主は必ず答えられる」と語りました。主から与えられた応答こそ、新しい天地創造の幻です。荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムが創造される幻をイザヤは見ます。苦難は過ぎ去り、救いの時が来るとイザヤは歌い始めます。「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(65:17-18)。
・神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなるとイザヤは語ります。「私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(65:19-20)。
・これまでは家を建てても敵に強奪され、畑を耕してもその実りは敵が収奪していました。しかし、これからはそのようなことはない。また生まれた子どもが死ぬこともさらわれることもないと宣告されます。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」(65:21-23)。「今の困難は必ず神が良くしてくださる、その時を希望を持って待て」と預言者は語ります。イエスが語られた「神の国は近づいた」(マルコ1:15)という言葉も、「神が行為して下さるから、神の国の到来を待て」との希望の預言です。

3.幻を持つことの力

・最後にイザヤは究極の幻、神の国の幻を見ます。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(65:25)。狼は小羊を追い回し、獅子は牛を殺して食べる、弱肉強食のこの世界が平和と安全の世界に変えられるとイザヤは預言します。そのイザヤの預言を継承したものが、ヨハネ黙示録です。今日の招詞にヨハネ黙示録21:3-4を選びました。次のような言葉です「そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。ヨハネはイザヤの預言を自分たちの時代の中で読み直して歌います。
・これは幻であって現実ではありません。イザヤの時代にはイスラエルはペルシャ帝国の植民地であり、帝国に逆らう者は弾圧されました。バビロンからの帰国を導いた指導者たちの多くも殺されていったとみられています(イザヤ57:1-2)。黙示録のヨハネの時代も、ローマ皇帝からの迫害の中で多くの人々が殉教していった時代です(黙示録6:10-11)。しかし先見者が幻を見ることによって、現実社会も動いていきます。キング牧師の「私には夢がある」という演説はその典型です。1963年に彼は語りました「私は同胞に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。・・・将来いつか、幼い黒人の子どもたちが幼い白人の子どもたちと手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が」。
・この幻こそ、信仰がもたらすものです。神が行為される故に私たちも行為していく時、幻が現実化します。キングが夢見たように50年後のアメリカでは、黒人と白人の敵意の壁が低くされ、黒人であるバラク・オバマが大統領に選ばれています。幻、あるいは黙示とはどのような状況の中にあっても希望を失わない、神に呼びかけに答える行為なのです。そして神はそれを聞き届けると約束されます「彼らが呼びかけるより先に、私は答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(65:24)。
・創世記の初めには「地は闇に覆われていたが、神が光あれと言われると光があった」とあります(創世記1:1-3)。私たちはともすれば現実の中で可能性を見つけようとし、見つからない時、もう駄目だと思います。しかし「どのような闇に覆われていても、神が「光あれ」と言われるとそこに光が生じる」、その神に望みを託して生きるのが私たち信仰者です。使徒言行録は聖霊降臨の日にペテロの行った説教を記しています「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る・・・主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒2:17-21)。幻(vision)を見る力が使命(mission)を与え、信仰者を生かす希望(hope)となる。この神から与えられる希望がキリスト者の生き方を愛に導きます。パウロが語るように、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13:13)のです。


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1.苦難の中での祈り

・イザヤ書は40章から第二イザヤという預言者の言葉が始まります。バビロニアに国を滅ぼされ、異国の地で捕虜となって苦しんだイスラエルの民に、「主が私たちを解放してくださる」との希望の預言が語られます。そしていよいよ捕囚の民の帰国が始まり、人々はイスラエルを目指して帰国の旅につきます。しかし故国に帰ってみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がエルサレムをエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。主に対する信仰まで揺らぎ始めています。人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
・預言者は信仰をなくした民に語り掛けます「これまでの救済の歴史を忘れたのか、主は私たちを救い続けて来られたではないか」と。「私は心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主が私たちに賜ったすべてのことを、主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」(63:7)。「エジプトから救い出された主の慈しみを思い起こせ」と預言者は語ります「主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ、民の前で海を二つに分け、とこしえの名声を得られた。主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが、彼らは荒れ野を行く馬のようにつまずくこともなかった。谷間に下りて行く家畜のように、主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き、輝く名声を得られた」(63:12-14)。
・主は私たちに語られた「あなたは私の民、偽りのない子らである」(63:8)。そして主は私たちの救い主となられた。「主は私たちの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって私たちを救い、愛と憐れみをもって私たちを贖い、昔から常に、私たちを負い、私たちを担ってくださった」(63:8-9)ではないか。そして今、私たちを「バビロンから救い出してくださったではないか」。それなのになぜつぶやくのか「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」と。

2.天を裂いて降りたまえとの祈り

・預言者は語りを続けます「主が今、あなた方を捨てられたように見えるのは、あなた方が主に背いたからだ」と。かつてモーセを用いてあなた方を救われた主は、あなた方の背信によって、今あなた方から目をそむかれた。だから今主はあなた方と共におられないと預言者は語ります。「彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」(63:10)。しかし、民を諫める預言者自身も神の沈黙に悶えています。神の沈黙は罪に対する裁きだと理解していても、このままでは民の心が死に絶える。預言者は民を諫めると同時に主に嘆願の叫びをします「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、私に示されません」(63:15)。
・預言者は祈り続けます「あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを見知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。私たちの贖い主、これは永遠の昔からあなたの御名です」(63:16)。それなのに、「なにゆえ主よ、あなたは私たちを、あなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために」(63:17)。「民はあなたの力とあなたの憐れみに疑問を感じています。どうかあなたの力と憐れみを彼らに示してください」と預言者は叫びます。
・神の沈黙に対する民の呻きは預言者の呻きでもあります。預言者は祈ります「あなたの聖なる民が、継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、私たちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(63:18-19)。「私たちをバビロンから連れ出し、エルサレムに導かれたのはあなたではないですか。最後まで面倒を見てください。今こそ天を裂いて降って来て、この地上の出来事に介入して下さい。あなたが私たちと共におられることのしるしを見せて下さい」とイザヤは祈り続けます。
・63章の祈りは64章にも連続しています。預言者は自分たちの罪の故に、神が沈黙しておられることを知っています。だから祈ります「私たちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。私たちは皆、枯れ葉のようになり、私たちの悪は風のように私たちを運び去った。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの悪のゆえに、力を奪われた」(64:5-6)。しかし、それにもかかわらず預言者は救いを求め続けます。「しかし、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工、私たちは皆、あなたの御手の業。どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民である私たちすべてに目を留めてくださるように」(64:7-8)。
・私たちは罪を犯した。あなたから糾弾されても仕方がない。それでも「主よ、私たちを救ってください。あなたが私たちを造られたではありませんか」と預言者は激しく求め続けます。「あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し、私たちの輝き、私たちの聖所、先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ、私たちの慕うものは廃虚となった。それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え、黙して、私たちを苦しめられるのですか」(64:9-11)。

3.激しい祈りに応えられる主

・預言者の激しい祈りに応えて啓示された言葉が、今日の招詞イザヤ65:17-18です。次のような言葉です「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」。主は荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムを創造されるとの幻をイザヤは示されました。「苦難の時は過ぎ去り、救いの時が来る」とイザヤは歌い始めます。預言者はどのような絶望の中にあっても希望を持ち続け、その希望を幻として民に提示します。それが預言者の役割です。
・預言者は主の言葉を語ります「私はエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者もなお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は呪われた罪びととされる」(65:19−20)。神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなる。イザヤの時代、乳幼児死亡率は高く、天寿を全うせず死ぬ者も多かった。その中での希望の言葉です。
・聖書が私たちに告げることは、「いかなる場合でも希望を持ち続けよ。主はそれをかなえてくださる」という約束です。その約束を信じ続けた人がヴィクトール・フランクルです。彼は1905年にウィーンで生まれた精神科医でしたが、ユダヤ人でしたので、第二次大戦中、ナチスによって、強制収容所に送られます。彼の妻や子、また両親は収容所の中で殺されています。フランクルは、持ち物を全部取り上げられ、素っ裸にされた時、心の中でこうつぶやきました「あなたたちは私から妻を奪い、子どもたちを奪うことができるかもしれない。私から服を取り上げ、体の自由を奪うこともできるだろう。しかし、私の身の上に降りかかってくることに対して、私がどう反応するかを決める自由は、私から取り除くことはできない」。
・フランクルは収容所で絶望して自殺を決意した二人の囚人に語りかけました「あなたを必要とする何かがどこかにあり、あなたを必要としている誰かがどこかにいるはずです。そしてその何かや、誰かは、あなたに発見されるのを待っているのです」(V.E.フランクル「生きる意味を求めて」から)。フランクルは、非人間的な扱いを受ける収容所の中で、なお人間としての誇りを失わず、人々に優しい言葉をかけ、生きる希望を持ち続け、与え続けました。そして、人々が次々と死んでいく中でも、彼は生き延びました。彼と同じように、希望を持ち続けることを選んだ人たちも、また生き延びることができました。彼は言います「どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです」(V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」)。これがイザヤ書の信仰であり、私たちの信仰でもあります。
・今週、バプテスト連盟総会に参加しました。主題聖句は箴言4:25-26「目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう」でした。主題聖句の解説文は記します「“御言葉はそう言っているが現実はこうだ”というのではなく、“現実はどうであっても御言葉はこういっている”と御言葉にまっすぐ聞き従って行こう」。カール・バルトは死の前日の1968年12月に親友のトルナイゼンとの電話で語りました「意気消沈だけはしないようにしよう。主がこの世界を治めていたもう。神は私たちが滅びるままには放置されない」。現実がどんなに暗い時にも希望を持ち続ける、神が見えない時は叫び続ける、そして叫べば主は「天を裂いて降ってくださる」、このイザヤの信仰こそが私たちの信仰です。


カテゴリー: - admin @ 08時05分50秒

11 11

1.失望し落胆する民への預言者の言葉

・クリスマスを前に、11月はイザヤ書を読んでいきます。イザヤ書は40章から、バビロン捕囚からの解放の預言を記します。捕囚とは国が亡び、異国に強制連行されるという体験でしたが、50年もたつとそれなりに、人々はバビロンの地で生活基盤を築いていました。その人々に第二イザヤと呼ばれる預言者が「解放の時が来たから、共に故国に帰ろう」と呼びかけました(40:1-2)。しかし人々は今さら廃墟のエルサレムに帰りたくないと言い張っていました。その人たちに預言者は、「主が解放して下さったのだ。共にエルサレムに帰ろう、主は荒野をエデンの園に、荒れ地を主の園にされる」と励ましました(51:3)。励まされた人々は帰国の途につきます。紀元前538年のことです。しかし、帰国した民を待っていたのは、厳しい現実でした。イザヤ61章はこのような背景の中で語られています。
・帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。帰国の翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿再建を妨害しました。また、激しい旱魃がその地を襲い、穀物が不足し、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。エルサレムなどに帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
・この状況は、日本が戦争に敗れ、満州や朝鮮で暮らしていた人々が強制送還された時と共通するものがあります。着の身着のままで現地を追われ、日本に帰りさえすれば何とかなるとして、帰国した人々を待っていたのは、食糧難と迷惑そうな親族や近隣の顔でした。捕囚の民が50年ぶりに帰国すると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。これに対して、そうではない。問題は主にあるのではなく、あなたがたにあるのだと言って立ち上がった預言者が、第三イザヤです。彼は言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。

2.悲しみが喜びに

・預言者は人々に語ります。「主は私に油を注ぎ、主なる神の霊が私をとらえた。私を遣わして、貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために」(61:1)。主は、困難の中にあるあなたがたを慰めるために私を立てられた、良い知らせを伝えるために私に言葉を与えられた。預言者は続けます「シオンのゆえに嘆いている人々に、灰に代えて冠をかぶらせ、嘆きに代えて喜びの香油を、暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために」(61:3前半)。良い知らせ(福音)は、灰(悲しみ)を冠(喜び)に変える。主は悲しんでいるあなた方に、喜びの冠を与えると言っておられる。主はあなた方を通して、この廃墟をエデンの園に変えられる。あなた方こそ「とこしえの廃墟を建て直し、古い荒廃の跡を興す者」なのだ(61:4)と預言者は人々を慰めます。
・預言者は語ります「あなたたちは主の祭司と呼ばれ、私たちの神に仕える者とされ、国々の富を享受し、彼らの栄光を自分のものとする」(61:6)。あなた方はバビロンで50年にわたる苦難を受けた。それはあなた方を主の民、主の祭司とするためだった、あなた方を通して諸国の人々を解放するためだった。あなた方は単に自分の救いを求める者ではなく、神の祝福を隣人に、異邦人に伝える者となるのだ。あなた方が自分のためだけに幸いを求めるから、主は苦難を与えられる。隣人のために幸いを求めてみよ。主はあなた方を豊かに祝福されるだろうと預言者は語ります。
・中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。神殿再建を導いたのは、ダビデの血筋を引くゼルバベルです。人々は、ゼルバベルを王にいだいて国の独立を求めましたが、宗主国ペルシャ帝国によって弾圧され、イスラエルはその後も国の独立を果たすことが出来ませんでした。しかし、彼らは、捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して民族の同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシャ語に翻訳され、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主に出会うようになります。イザヤは預言しました「彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者はこれが主の祝福された民であることを認める」(61:9)。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として異邦人に仕える者になり、やがてはこのユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリスト=救い主が生まれてこられます。

3.イエスが第三イザヤの口を通して福音を語られた

・バビロン捕囚から500年の時が流れ、イエスが生まれられました。イエスはその宣教の初めに、故郷ナザレでイザヤ61章を読まれ、宣言されました。それが今日の招詞、ルカ4:20−21です。「イエスは巻物を巻き、係の者に返して席に座られた。会堂にいるすべての人の目がイエスに注がれていた。そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた」。イエスの時代、人々は安息日に会堂に集まり、聖書を読み、説教を聞き、祈りました。最初に信仰告白が読まれ、次に聖書日課に従って先ず律法の書が、次に預言書が読まれ、読んだ人がそれについて短い話をするのが慣例でした。その日の預言書の個所はイザヤ61章であり、イエスは渡されたイザヤ書の巻物を朗読されます。それがイザヤ61:1-2の預言です「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。
・イエスは、イザヤの預言を、現在の人々の困窮に焦点を当てて語られています。イザヤ61章が語られた時代は、人々が将来に希望を持てない時代でした。イエスの時代も同様でした。当時の人々は食べるのがやっとの貧しい生活を強いられていましたが、その貧しい人々に良い知らせが語られるとイエスは慰められます。税金が払えない人は獄に入れられていましたが、彼らは獄から解放される。病に苦しむ人はその病が癒される。土地を持たず、苦しむ人には土地が与えられるとイエスは言われたのです。人々はメシヤが来て、自分たちの生活が良くなることを待望していました。その人々にイエスは言われました。「私がそのメシヤである。あなた方の救いは、今日私の言葉を耳にした時に成就した」と(ルカ4:21)。
・イエスは人々に救いを告げられましたが、多くの人々にとって救いとは今現在の苦しみからの解放でした。イエスは霊の命を与えようとされましたが、人々は肉のパンを求めました。イエスは神の国を与えようとされましたが、人々は地上の王国を欲しました。人々の驚嘆と尊敬の中に始まったイエスの宣教が、三年を経ずして、人々のつぶやきと憎悪の中に、十字架の死をもって終るに至ったのはこのためです。イエスの業は挫折したのでしょうか。そうではありません。十字架につけられて死なれたイエスを神は復活させて下さいました。その復活のイエスに出会い、何人かの信じる者たちが起こされていきます。弟子たちを通して、イエスの業は継承されていったのです。そして今イエスの業を継承するために、私たちがこの教会に集められています。
・イエスは言われました「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私のもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。この言葉はどのようにして実現するのでしょうか。私たちを通してです。私たちは闇の中にいましたが、イエスと出会って光を見出した。光を見出した者が次に行うことは、その光、良い知らせを隣人に伝えていくことです。伝えるとは、言葉と同時に行為で伝えることです。隣人の重荷を私たちが一緒に担う事です。しかし、現実はそう甘くはありません。たとえば夜中に突然一人の人が教会に来られ、行くところが無いので今夜一晩泊めてほしいと言われた時、私たちはどうするでしょうか。その人に泊まっていただくことは可能なのでしょうか。身元のわかっている方であれば可能かもしれませんが、見ず知らずの方を教会にお泊めするのは不可能でしょう。言葉と同時に行為で伝えることは簡単な事ではありません。
・しかしヤコブは私たちを励まします「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:15-17)。イザヤの時代は今から2500年前、イエスの時代は2000年前です。時代が変わっても、本質的な問題は何も変わっていません。人々は現在の生活に不満を持ち、明日の生活に不安を持っています。その中で唯一変わった事はイエスの言葉に耳を傾け、従う人々が生まれたことです。私たちは神の業を行うように、ここに集められ、神の言葉を聴いています。もう自分のことばかりにかかわりわずらうことをやめ、隣人のために働く者となりたいとの希望を持って、私たちは今ここに集められています。


カテゴリー: - admin @ 08時28分16秒

11 26

1.主の僕の死

・イザヤ書を読んでおりますが、今日が最終回です。イザヤ書40章以下はバビロンの地に捕囚されていたイスラエル民族の解放を歌う個所です。今日の53章もその解放の歌の一部です。イスラエルは紀元前587年にバビロニア帝国に国土を占領され、都エルサレムは滅ぼされ、ダビデ王家は壊滅し、王を始め主だった人々は捕囚としてバビロンに捕えられました。国が滅んだのです。古代においては珍しい出来事ではありませんでした。強い国は弱い国を滅ぼす、そして国を滅ぼされたものは民族も消滅していきます。しかし、イスラエルは国家としては滅びましたが、民族としては滅びず、捕囚より50年を経て、イスラエルの民がエルサレムに帰還するという出来事が歴史の中に起こりました。国を滅ぼされ、根無し草になった民族が50年の後に民族の同一性を保って故国に帰るということは、これまでの歴史になかったことでした。それを見た異邦の民は驚き、そこに神の働きを見ました。それがイザヤ53章の記事です。
・異邦の民は、「国を滅ぼされた民が50年の時を生き残り、帰ってきた」ことに驚いて語ります。「だれがわれわれの聞いたことを、信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか」(53:1)。こんなことがありうるのだろうか、この出来事には神の意思(主の腕)が働いているとしか思えないと彼らは語ります。「そもそもイスラエルとは何か。彼らは世界史において何の重要性も持たない弱小民族ではないか。ダビデ・ソロモン時代に一時的に栄えたにせよ、大半はエジプトかメソポタミアの大国の支配下にあった。そして彼等はバビロニアにより、国を滅ぼされたではないか。都エルサレムは陥落し、彼等の信奉する神を祭るエルサレム神殿も焼かれたではないか。主だった人々は捕囚としてバビロンに連れて行かれたではないか。イスラエルは国を滅ぼされた。やがて民族としても滅びるだろう、私たちはそう思っていた」。それが2節の言葉です「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」(53:2)。
・イスラエルが滅んだ時、異邦の民は思いました「彼等の神が弱いから、強い神に打ち負かされたのだ。彼らは滅んだ、それで終わりだ。弱いものは強いものに滅ぼされて亡くなる。それだけのことだ」と。その思いが3節にあります「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」(53:3)。そのイスラエルが今故国エルサレムに帰ってきた。そして彼らは廃墟となっていた神殿の再建に取り掛かった。国を無くし、神に見捨てられたはずの民が復活した。捕囚の民がエルサレムに帰ってきたのを見た異邦の民はそこに神の働きを見ました「イスラエルは神の召命を受けた特別な民族かもしれない」と。4節です「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」(53:4)。
・イスラエルの帰還を通して神は何をされようとしておられるのか。もしかしたら彼らは何かの使信を持って帰還したのかも知れない。彼等の受けた苦しみを通して神は何かを伝えようとされているのかもしれない。その思いが5節にあります「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(53:5)。

2.イスラエルの使命

・イスラエルは国家としては前587年に滅んでいます。しかし、捕囚の苦しみの中で彼らは自分たちの存在の意味を探り、自分たちが神により選ばれ、特別な使命を与えられた民族であるとの自覚を持つようになります。その自覚の元に編集されたのが創世記であり、出エジプト記でした。旧約聖書の中心である律法の書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はこの捕囚時代にバビロンでまとめられたと言われています。国家を無くし、国民共同体としては滅んだイスラエルが、今信仰共同体として、聖書の民として戻ってきたのです。
・地上で迫害され、抹殺されたはずのものが帰還したのを見た迫害者たちはあ然と息を呑んで、帰国の民を迎えました。イスラエルはやがて神殿を再建し、バビロンの地で書き始められた聖書はその後も書き続けられました。紀元前3世紀頃にはイザヤ、エレミヤ等の預言書もまとめられ、旧約聖書は次第に正典として扱われるようになり、やがてギリシア語にも翻訳され、民族を超えて異邦人にも読まれ始めます。この聖書こそがイスラエル、後のユダヤ人に民族の同一性を保たせました。彼らは二度と国家を形成することはありませんでしたが、民族としては世界中に広がっていき、世界各地に彼等の礼拝所である会堂(シナゴーク)が立てられ、聖書が読まれました。ローマ帝国の時代には帝国人口の五分の一はユダヤ人であったといわれています。
・そのユダヤ人の中からイエス・キリストが生まれ、イエスはユダヤ教の会堂で教え、後継者であるペテロやパウロは、世界各地にあったユダヤ教会堂(シナゴーク)を拠点に福音を伝道していきます。イエスが十字架で死なれたのは紀元30年ごろですが、10年後の紀元40年ごろには帝国の首都ローマにキリスト教会が立てられました。歴史を振り返る時、イスラエルの民はキリストを準備するために国を滅ぼされ、民族は世界中に散らされ、その会堂を中心に使徒たちが宣教を行い、福音は世界中に広がっていったといえます。イザヤ書49章6節で預言された出来事が、本当の出来事になりました「私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。

3.私たちの出来事としてイザヤ書を読む。

・今日の招詞にヨブ記19:25-27を選びました。次のような言葉です「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされたのち、私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう。私の見る者はこれ以外のものではない。私の心はこれを望んでこがれる」。イザヤ書を読んできましたが、その中から明らかにされたのは、「苦難には意味がある」ということです。
・苦難を通して人は神を求め、神の応答を通して歴史が形成されます。イスラエルはバビロニアに国を滅ばされることを通して、自分たちが何故砕かれたのかを求め、その求めの中で旧約聖書が編集され、聖書によって生かされる民に変えられていきました。イスラエルを滅ぼしたバビロニアも、そのバビロニアを制圧したペルシャも今はいません。更にペルシャを滅ぼしたギリシア帝国もローマ帝国も滅んで消え、彼等は今、遺跡の中にのみ存在します。しかし、イスラエルの民は2500年の歴史を生き抜き、同じ民族として現在も生きており、50年前の1945年には地上の国家として復活しました。彼等を生かし続けたものは明らかに、苦しみの中で与えられた聖書です。私たちも人生において多くの苦難に出会い、その苦難はある時には限界を超えているように思われ、絶望した人たちは自殺していきます。しかし、苦難には意味があり、苦難を通して神が語られていることを知る者は、その苦難が時の経過と共に祝福に変えられていくのを知ります。
・旧約聖書のヨブ記では、財産に恵まれ、家族に恵まれ、自分を正しい人間だと思っていたヨブに災いが起こり、財産を奪われ、息子たちを殺され、自身も重い病気に犯されました。彼は神を呪い始めます「何故あなたはこんなに私を苦しめるのか」と。その後の長い苦悩の中でヨブは、「神は神であり、自分は人間に過ぎない」ことを知り、悔改めます。その悔改めの言葉が今日の招詞です。「私は知る、私を贖う者は生きておられる」。人がこのことを見出した時、外面にどのような苦難があろうとも神との平和が与えられ、平安に導かれます。ヨブはイエス・キリストを知りませんが、彼は仲裁者を求め続けました。
・捕囚から帰国したイスラエルの民もキリストを知りませんでしたが、彼らを贖う神を知り、その神の業をイザヤ53章で表現しました。そして、このイザヤ53章こそが、キリストの教会を立ち上げていった聖句として知られています。初代教会の人々は、「この人こそメシアだ」と信じたイエスが十字架で死んで行かれる姿を見て、失望し、散らされていきました。その彼らが、復活のイエスに出会い、「やはりこの方はメシアであった」と再度信じ、宣教の業を始めます。しかし彼らはメシアであるイエスが何故十字架で死ななければいけないのか、わかりませんでした。
・聖書学者の大貫隆氏は、弟子たちがイザヤ53章を通して、イエスの十字架死の意味を知ったと述べます「イエス処刑後に残された者たちは必死でイエスの残酷な刑死の意味を問い続けていたに違いない。その導きの糸になり得たのは聖書であった。聖書の光を照らされて、今や謎と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中に初めから含まれ、聖書で預言されていた出来事として了解し直されるのである。彼らはイザヤ53章を『イエスの刑死をあらかじめ指し示していた預言』として読み直し、イエスの死を贖罪死として受け取り直した」(大貫隆「イエスという経験」)。捕囚から帰国した民の嘆きが、キリストの教会を生んだのです。
・人は平和の時には神を求めません、神などいなくとも暮らしていけるからです。そして世の出来事に一喜一憂して人生を送ります。多くの人の人生はこのようなものです。その時、ある人には苦難が与えられます。苦難を与えられた人は、最初はその苦しみを自分では解決しようとし、次には他の人の助力を求めます。そしてどうしようもなくなった時初めて、神を求め、神は求められた時には答えられます。E.ケーゼマンという神学者は語ります「信仰は常に自然的諸可能性の墓場を乗り越えて成長する」。人間の力が絶えた所から神の力が働くと彼は言うのです。苦難なしには滅びがあるだけで、苦難こそ神が与えられる祝福であることを、イスラエルの民の歴史は示しています。また私たち自身も人生の中で経験してきたことです。「私を贖う者は生きておられる、生きて私と関わりを持とうとされている」。これが福音であり、私たちの信仰です。私たちはこの福音を伝えるためにこの教会に集められているのです。


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1.偶像を捨てよ

・第二イザヤ書を読んでいます。イスラエルは紀元前587年にバビロニアによって国を滅ぼされ、国の指導者たちは捕囚として遠いバビロンまで連れて来られました。捕囚された人々のある者は、自分たちの神ヤハウェがバビロンの神マルドゥクに破れた、これからはマルドゥクを礼拝しようと言い出していました。また50年にもわたる神の沈黙の中で、人々は「主は私を見捨てられた、私の主は私を忘れられた」(49:14)とつぶやき、民のある者はバビロンの異教的風習になじみ、偶像の神々に生きる支えを求めました。
・しかし、武力で栄えた者は武力の衰えと共に衰退します。世界帝国となったバビロニアもネブカドネザル王の死を契機に衰退し、新興国ペルシアに周辺領土を奪われ、ペルシア軍は首都バビロンにまで迫ってきました。バビロンの人々は避難を始め、守り神である神々も移動を始めました。神殿にあった神像が台座からとり下ろされ、台車に載せられ、それを家畜が引いていきます。偶像礼拝者たちは危急の時には、その神々を自分たちで救い、背負わなければいけないのです。それを見た預言者が、イスラエルの人々に「よく見よ」と呼びかけます。それがイザヤ46章1節の言葉です「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる」。
・ベルとはバビロンの主神マルドゥク、ネボはその子です。バビロンの人々を救うとされた守護神は、バビロンを救うことが出来ないばかりか、自分自身をも救うことが出来ない。神々を救うためには獣たちに台車を引かせ、台車が倒れるとそれを引く獣たちも共に倒れるではないか。それを歌ったのが次の46:2です「彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」。「偶像は人を救い得ない、その証拠にベルとネボの惨めな姿を見よ」と預言者は語ります。
・預言者はイスラエルの民に語りかけます「私に聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」(46:3)。バビロニアの偶像神は人や家畜に背負われないと動くことも出来ない。あなたたちは今までこのような偶像神に心を奪われてきた。今こそ目を開き、耳を立てよ、「私こそ」と主なる神は言われます。「私こそあなたたちが生まれた時から、あなたたちを背負い、担ってきたのだ」と。私は偶像の神々のように、人に背負われはしない。逆にあなた方を背負い続けるのだと預言が為されます「同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」(46:4)。46章4節は短い文節の中に、私=アニーという言葉が5回も登場します。それをそのままに訳すと次のようになります「あなたがたが年をとっても、私は同じようにする。あなたがたが白髪になっても、私は背負う。私はそうしてきたのだ。なお、私は運ぼう。私は背負って、救い出そう」(新改訳聖書から)。新改訳の方が、神の人に対する熱い思いが良く出ていると思えます。
・古代の戦争は神々の戦争であり、負けた国の神像は焼かれ、神殿から引き摺り下ろされて辱められ、勝利者の国に持ち去られました。捕囚の時にエルサレム神殿の宝物も同じようにバビロニア軍に奪われました。預言者は神の言葉を伝えます「お前たちは私を誰に似せ、誰に等しくしようとするのか。誰に私をなぞらえ、似せようというのか。袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は、鋳物師を雇って神を造らせ、これにひれ伏して拝む。彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き、据え付ければそれは立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」(46:5-7)。
・しかし私はそのようなものではない。私は天地を創造し、人々を動かして歴史を形成する。「背く者よ、反省せよ、思い起こし、力を出せ。思い起こせ、初めからのことを。私は神、ほかにはいない。私は神であり、私のような者はいない。私は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する」(46:8-10)。私の業を見よ、私は東からペルシア王キュロスを呼び起こし、私の計画を遂行させる。私こそ神、あなたを造り、あなたを救うものだ。「東から猛禽を呼び出し、遠い国から私の計画に従う者を呼ぶ。私は語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる」(46:11)。

2.背負う神

・日本人は仏像に惹かれます。興福寺にあります阿修羅像はその一つで、三つの悲しみに満ちた顔が多くの人々を魅了しています。この阿修羅像は天平6年(734年)、光明皇后が造ったと言われています。藤原家出身の光明皇后は自分の子を天皇にするために自分の兄弟たちと争います。阿修羅像の三顔の内右側には皇位継承権を持つ大津皇子・長屋王等のライバルを打倒する戦いの顔であり、左側は争いに負けて処刑された甥の藤原広嗣の死、兄弟たちの天然痘による相次ぐ死などの度重なる災害を見る苦悩の顔であり、正面は懺悔して仏に縋り、悲田院や施薬院を設立して一門の安寧を願う姿だと言われています。人は罪を犯さざるを得ませんが、その罪を贖う存在を持たない人々は偶像に頼るしかありません。しかし、いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んだとしても罪の赦しは来ません。阿修羅像が伝えるものは光明皇后の悲しみであっても、それ以上の救いはそこにはないのです。
・預言者自身、捕囚地バビロンの敗戦と捕囚の悲しみの中で、偶像に頼る同族を見てきました。44章で彼は語っています「木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く・・・木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝む」(44:13-15)。しかし「彼は自分の魂を救うことができず、『私の右の手にあるのは偽りではないか』」(44:20)と預言者は語ります。いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んでも罪の赦しは来ません。バビロニアの偶像神も日本の阿修羅像も結局は人が造ったものであり、人に背負われなければ動くことが出来ません。
・それに対し、主なる神は言われます「私はあなたたちが生まれた時から、あなたたちを背負い、担ってきたのだ」と。私は偶像の神のように、人に背負われはしない。逆に「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。だから私が担い、背負い、救い出す」と言われる方です。私たちの信じる神は、私たちを「造った故に」、「担い、背負い、救い出す」方、ここに偶像神との決定的な違いがあります。神は私たちに宣言されます「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ・・・私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」(43:1-4)。

3.福音伝道のために

・今日の招詞にイザヤ49:6を選びました。次のような言葉です「こう言われる。私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。世界史の上では何の重要性も持たないイスラエルという小さな国の挫折と回復の歴史が旧約聖書としてまとめられ、その旧約聖書がやがて世界史を動かす影響を持つようになりました。
・前回も見ましたように、捕囚から帰国したイスラエルの民は帰国後もペルシアの属国とされ、民族的には独立できませんでした。そしてペルシア時代の後はギリシアに、その後はローマ帝国により支配されます。彼らは政治的には大国の支配下に置かれ続けました。しかし民族として捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜き、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシア語に翻訳されて、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主なる神に出会うようになります。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として人々に仕える者になり、このユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリストが生まれてこられます。故に預言者は確信を持って言います。「人に侮られる者、民に忌み嫌われる者、司たちの僕」(49:7a)、人間的に見れば、戦争に破れて捕虜とされた民が帰還するに過ぎないイスラエルが、「諸々の王が立ち上がり、諸々の君が拝する」(49:7b)者となる。預言者は、神の救済の訪れを諸国民に宣べ伝える使命を抱いてエルサレムに帰ると預言者は歌います。
・この確信を私たちも持ちたいと願います。この教会は試練の中で、人々が散らされて行った歴史を持ちますが、主はこの教会を存続させて下さり、立派な会堂を与えて下さった。ただ現在は、教会に集う者の数が減らされ、会堂建築のための借入金返済負担が重くなり、教会員の元気がなくなっています。この時にこそ、私たちはこの教会の役割を再度考える必要があります。私たちの教会は大きくもなく、立派でもなく、礼拝に集まる人の数も30人前後にすぎません。しかし毎週の祈祷会や説教資料がホームページに掲載され、一日のアクセス数は200件を超えます。週ベースで見れば1000人を超える人々が、この教会のホームページを通してみ言葉に触れています。半年前から始まった礼拝のフェイスブックによる中継では50人から100人の人が視聴者になっています。目には見えませんが、神は確かに働いておられるのです。
・捕囚の民が解放の時を迎えた時を、預言者は、「恵みの時」「救いの時」と歌いました。「主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。私はあなたを形づくり、あなたを立てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(49:8-9)。使徒パウロはかたくななコリントの民に対して、主の救いの業を無駄にするなと言って、この言葉を引用します。「私たちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです」(第二コリント6:1-2)。教会が困難の中にある今こそ、教会の役割を考える時です。その時、この困難が神からの恵みに変わって行きます。この教会の見える現実は貧しくとも、神の言葉が語られ、多くの人が教会ホームページの文書や映像を通じて神の言葉に接しているのであれば、それで十分ではないかと思います。


カテゴリー: - admin @ 08時16分30秒

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