すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.主の僕の死

・イザヤ書を読んでおりますが、今日が最終回です。イザヤ書40章以下はバビロンの地に捕囚されていたイスラエル民族の解放を歌う個所です。今日の53章もその解放の歌の一部です。イスラエルは紀元前587年にバビロニア帝国に国土を占領され、都エルサレムは滅ぼされ、ダビデ王家は壊滅し、王を始め主だった人々は捕囚としてバビロンに捕えられました。国が滅んだのです。古代においては珍しい出来事ではありませんでした。強い国は弱い国を滅ぼす、そして国を滅ぼされたものは民族も消滅していきます。しかし、イスラエルは国家としては滅びましたが、民族としては滅びず、捕囚より50年を経て、イスラエルの民がエルサレムに帰還するという出来事が歴史の中に起こりました。国を滅ぼされ、根無し草になった民族が50年の後に民族の同一性を保って故国に帰るということは、これまでの歴史になかったことでした。それを見た異邦の民は驚き、そこに神の働きを見ました。それがイザヤ53章の記事です。
・異邦の民は、「国を滅ぼされた民が50年の時を生き残り、帰ってきた」ことに驚いて語ります。「だれがわれわれの聞いたことを、信じ得たか。主の腕は、だれにあらわれたか」(53:1)。こんなことがありうるのだろうか、この出来事には神の意思(主の腕)が働いているとしか思えないと彼らは語ります。「そもそもイスラエルとは何か。彼らは世界史において何の重要性も持たない弱小民族ではないか。ダビデ・ソロモン時代に一時的に栄えたにせよ、大半はエジプトかメソポタミアの大国の支配下にあった。そして彼等はバビロニアにより、国を滅ぼされたではないか。都エルサレムは陥落し、彼等の信奉する神を祭るエルサレム神殿も焼かれたではないか。主だった人々は捕囚としてバビロンに連れて行かれたではないか。イスラエルは国を滅ぼされた。やがて民族としても滅びるだろう、私たちはそう思っていた」。それが2節の言葉です「彼は主の前に若木のように、かわいた土から出る根のように育った。彼にはわれわれの見るべき姿がなく、威厳もなく、われわれの慕うべき美しさもない」(53:2)。
・イスラエルが滅んだ時、異邦の民は思いました「彼等の神が弱いから、強い神に打ち負かされたのだ。彼らは滅んだ、それで終わりだ。弱いものは強いものに滅ぼされて亡くなる。それだけのことだ」と。その思いが3節にあります「彼は侮られて人に捨てられ、悲しみの人で、病を知っていた。また顔をおおって忌みきらわれる者のように、彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。」(53:3)。そのイスラエルが今故国エルサレムに帰ってきた。そして彼らは廃墟となっていた神殿の再建に取り掛かった。国を無くし、神に見捨てられたはずの民が復活した。捕囚の民がエルサレムに帰ってきたのを見た異邦の民はそこに神の働きを見ました「イスラエルは神の召命を受けた特別な民族かもしれない」と。4節です「まことに彼はわれわれの病を負い、われわれの悲しみをになった。しかるに、われわれは思った、彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと」(53:4)。
・イスラエルの帰還を通して神は何をされようとしておられるのか。もしかしたら彼らは何かの使信を持って帰還したのかも知れない。彼等の受けた苦しみを通して神は何かを伝えようとされているのかもしれない。その思いが5節にあります「しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(53:5)。

2.イスラエルの使命

・イスラエルは国家としては前587年に滅んでいます。しかし、捕囚の苦しみの中で彼らは自分たちの存在の意味を探り、自分たちが神により選ばれ、特別な使命を与えられた民族であるとの自覚を持つようになります。その自覚の元に編集されたのが創世記であり、出エジプト記でした。旧約聖書の中心である律法の書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)はこの捕囚時代にバビロンでまとめられたと言われています。国家を無くし、国民共同体としては滅んだイスラエルが、今信仰共同体として、聖書の民として戻ってきたのです。
・地上で迫害され、抹殺されたはずのものが帰還したのを見た迫害者たちはあ然と息を呑んで、帰国の民を迎えました。イスラエルはやがて神殿を再建し、バビロンの地で書き始められた聖書はその後も書き続けられました。紀元前3世紀頃にはイザヤ、エレミヤ等の預言書もまとめられ、旧約聖書は次第に正典として扱われるようになり、やがてギリシア語にも翻訳され、民族を超えて異邦人にも読まれ始めます。この聖書こそがイスラエル、後のユダヤ人に民族の同一性を保たせました。彼らは二度と国家を形成することはありませんでしたが、民族としては世界中に広がっていき、世界各地に彼等の礼拝所である会堂(シナゴーク)が立てられ、聖書が読まれました。ローマ帝国の時代には帝国人口の五分の一はユダヤ人であったといわれています。
・そのユダヤ人の中からイエス・キリストが生まれ、イエスはユダヤ教の会堂で教え、後継者であるペテロやパウロは、世界各地にあったユダヤ教会堂(シナゴーク)を拠点に福音を伝道していきます。イエスが十字架で死なれたのは紀元30年ごろですが、10年後の紀元40年ごろには帝国の首都ローマにキリスト教会が立てられました。歴史を振り返る時、イスラエルの民はキリストを準備するために国を滅ぼされ、民族は世界中に散らされ、その会堂を中心に使徒たちが宣教を行い、福音は世界中に広がっていったといえます。イザヤ書49章6節で預言された出来事が、本当の出来事になりました「私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。

3.私たちの出来事としてイザヤ書を読む。

・今日の招詞にヨブ記19:25-27を選びました。次のような言葉です「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされたのち、私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう。私の見る者はこれ以外のものではない。私の心はこれを望んでこがれる」。イザヤ書を読んできましたが、その中から明らかにされたのは、「苦難には意味がある」ということです。
・苦難を通して人は神を求め、神の応答を通して歴史が形成されます。イスラエルはバビロニアに国を滅ばされることを通して、自分たちが何故砕かれたのかを求め、その求めの中で旧約聖書が編集され、聖書によって生かされる民に変えられていきました。イスラエルを滅ぼしたバビロニアも、そのバビロニアを制圧したペルシャも今はいません。更にペルシャを滅ぼしたギリシア帝国もローマ帝国も滅んで消え、彼等は今、遺跡の中にのみ存在します。しかし、イスラエルの民は2500年の歴史を生き抜き、同じ民族として現在も生きており、50年前の1945年には地上の国家として復活しました。彼等を生かし続けたものは明らかに、苦しみの中で与えられた聖書です。私たちも人生において多くの苦難に出会い、その苦難はある時には限界を超えているように思われ、絶望した人たちは自殺していきます。しかし、苦難には意味があり、苦難を通して神が語られていることを知る者は、その苦難が時の経過と共に祝福に変えられていくのを知ります。
・旧約聖書のヨブ記では、財産に恵まれ、家族に恵まれ、自分を正しい人間だと思っていたヨブに災いが起こり、財産を奪われ、息子たちを殺され、自身も重い病気に犯されました。彼は神を呪い始めます「何故あなたはこんなに私を苦しめるのか」と。その後の長い苦悩の中でヨブは、「神は神であり、自分は人間に過ぎない」ことを知り、悔改めます。その悔改めの言葉が今日の招詞です。「私は知る、私を贖う者は生きておられる」。人がこのことを見出した時、外面にどのような苦難があろうとも神との平和が与えられ、平安に導かれます。ヨブはイエス・キリストを知りませんが、彼は仲裁者を求め続けました。
・捕囚から帰国したイスラエルの民もキリストを知りませんでしたが、彼らを贖う神を知り、その神の業をイザヤ53章で表現しました。そして、このイザヤ53章こそが、キリストの教会を立ち上げていった聖句として知られています。初代教会の人々は、「この人こそメシアだ」と信じたイエスが十字架で死んで行かれる姿を見て、失望し、散らされていきました。その彼らが、復活のイエスに出会い、「やはりこの方はメシアであった」と再度信じ、宣教の業を始めます。しかし彼らはメシアであるイエスが何故十字架で死ななければいけないのか、わかりませんでした。
・聖書学者の大貫隆氏は、弟子たちがイザヤ53章を通して、イエスの十字架死の意味を知ったと述べます「イエス処刑後に残された者たちは必死でイエスの残酷な刑死の意味を問い続けていたに違いない。その導きの糸になり得たのは聖書であった。聖書の光を照らされて、今や謎と見えたイエスの刑死が、実は神の永遠の救済計画の中に初めから含まれ、聖書で預言されていた出来事として了解し直されるのである。彼らはイザヤ53章を『イエスの刑死をあらかじめ指し示していた預言』として読み直し、イエスの死を贖罪死として受け取り直した」(大貫隆「イエスという経験」)。捕囚から帰国した民の嘆きが、キリストの教会を生んだのです。
・人は平和の時には神を求めません、神などいなくとも暮らしていけるからです。そして世の出来事に一喜一憂して人生を送ります。多くの人の人生はこのようなものです。その時、ある人には苦難が与えられます。苦難を与えられた人は、最初はその苦しみを自分では解決しようとし、次には他の人の助力を求めます。そしてどうしようもなくなった時初めて、神を求め、神は求められた時には答えられます。E.ケーゼマンという神学者は語ります「信仰は常に自然的諸可能性の墓場を乗り越えて成長する」。人間の力が絶えた所から神の力が働くと彼は言うのです。苦難なしには滅びがあるだけで、苦難こそ神が与えられる祝福であることを、イスラエルの民の歴史は示しています。また私たち自身も人生の中で経験してきたことです。「私を贖う者は生きておられる、生きて私と関わりを持とうとされている」。これが福音であり、私たちの信仰です。私たちはこの福音を伝えるためにこの教会に集められているのです。


カテゴリー: - admin @ 08時13分25秒

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1.偶像を捨てよ

・第二イザヤ書を読んでいます。イスラエルは紀元前587年にバビロニアによって国を滅ぼされ、国の指導者たちは捕囚として遠いバビロンまで連れて来られました。捕囚された人々のある者は、自分たちの神ヤハウェがバビロンの神マルドゥクに破れた、これからはマルドゥクを礼拝しようと言い出していました。また50年にもわたる神の沈黙の中で、人々は「主は私を見捨てられた、私の主は私を忘れられた」(49:14)とつぶやき、民のある者はバビロンの異教的風習になじみ、偶像の神々に生きる支えを求めました。
・しかし、武力で栄えた者は武力の衰えと共に衰退します。世界帝国となったバビロニアもネブカドネザル王の死を契機に衰退し、新興国ペルシアに周辺領土を奪われ、ペルシア軍は首都バビロンにまで迫ってきました。バビロンの人々は避難を始め、守り神である神々も移動を始めました。神殿にあった神像が台座からとり下ろされ、台車に載せられ、それを家畜が引いていきます。偶像礼拝者たちは危急の時には、その神々を自分たちで救い、背負わなければいけないのです。それを見た預言者が、イスラエルの人々に「よく見よ」と呼びかけます。それがイザヤ46章1節の言葉です「ベルはかがみ込み、ネボは倒れ伏す。彼らの像は獣や家畜に負わされ、お前たちの担いでいたものは重荷となって、疲れた動物に負わされる」。
・ベルとはバビロンの主神マルドゥク、ネボはその子です。バビロンの人々を救うとされた守護神は、バビロンを救うことが出来ないばかりか、自分自身をも救うことが出来ない。神々を救うためには獣たちに台車を引かせ、台車が倒れるとそれを引く獣たちも共に倒れるではないか。それを歌ったのが次の46:2です「彼らも共にかがみ込み、倒れ伏す。その重荷を救い出すことはできず、彼ら自身も捕らわれて行く」。「偶像は人を救い得ない、その証拠にベルとネボの惨めな姿を見よ」と預言者は語ります。
・預言者はイスラエルの民に語りかけます「私に聞け、ヤコブの家よ。イスラエルの家の残りの者よ、共に。あなたたちは生まれた時から負われ、胎を出た時から担われてきた」(46:3)。バビロニアの偶像神は人や家畜に背負われないと動くことも出来ない。あなたたちは今までこのような偶像神に心を奪われてきた。今こそ目を開き、耳を立てよ、「私こそ」と主なる神は言われます。「私こそあなたたちが生まれた時から、あなたたちを背負い、担ってきたのだ」と。私は偶像の神々のように、人に背負われはしない。逆にあなた方を背負い続けるのだと預言が為されます「同じように、私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。私が担い、背負い、救い出す」(46:4)。46章4節は短い文節の中に、私=アニーという言葉が5回も登場します。それをそのままに訳すと次のようになります「あなたがたが年をとっても、私は同じようにする。あなたがたが白髪になっても、私は背負う。私はそうしてきたのだ。なお、私は運ぼう。私は背負って、救い出そう」(新改訳聖書から)。新改訳の方が、神の人に対する熱い思いが良く出ていると思えます。
・古代の戦争は神々の戦争であり、負けた国の神像は焼かれ、神殿から引き摺り下ろされて辱められ、勝利者の国に持ち去られました。捕囚の時にエルサレム神殿の宝物も同じようにバビロニア軍に奪われました。預言者は神の言葉を伝えます「お前たちは私を誰に似せ、誰に等しくしようとするのか。誰に私をなぞらえ、似せようというのか。袋の金を注ぎ出し、銀を秤で量る者は、鋳物師を雇って神を造らせ、これにひれ伏して拝む。彼らはそれを肩に担ぎ、背負って行き、据え付ければそれは立つが、そこから動くことはできない。それに助けを求めて叫んでも答えず、悩みから救ってはくれない」(46:5-7)。
・しかし私はそのようなものではない。私は天地を創造し、人々を動かして歴史を形成する。「背く者よ、反省せよ、思い起こし、力を出せ。思い起こせ、初めからのことを。私は神、ほかにはいない。私は神であり、私のような者はいない。私は初めから既に、先のことを告げ、まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。私の計画は必ず成り、私は望むことをすべて実行する」(46:8-10)。私の業を見よ、私は東からペルシア王キュロスを呼び起こし、私の計画を遂行させる。私こそ神、あなたを造り、あなたを救うものだ。「東から猛禽を呼び出し、遠い国から私の計画に従う者を呼ぶ。私は語ったことを必ず実現させ、形づくったことを必ず完成させる」(46:11)。

2.背負う神

・日本人は仏像に惹かれます。興福寺にあります阿修羅像はその一つで、三つの悲しみに満ちた顔が多くの人々を魅了しています。この阿修羅像は天平6年(734年)、光明皇后が造ったと言われています。藤原家出身の光明皇后は自分の子を天皇にするために自分の兄弟たちと争います。阿修羅像の三顔の内右側には皇位継承権を持つ大津皇子・長屋王等のライバルを打倒する戦いの顔であり、左側は争いに負けて処刑された甥の藤原広嗣の死、兄弟たちの天然痘による相次ぐ死などの度重なる災害を見る苦悩の顔であり、正面は懺悔して仏に縋り、悲田院や施薬院を設立して一門の安寧を願う姿だと言われています。人は罪を犯さざるを得ませんが、その罪を贖う存在を持たない人々は偶像に頼るしかありません。しかし、いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んだとしても罪の赦しは来ません。阿修羅像が伝えるものは光明皇后の悲しみであっても、それ以上の救いはそこにはないのです。
・預言者自身、捕囚地バビロンの敗戦と捕囚の悲しみの中で、偶像に頼る同族を見てきました。44章で彼は語っています「木工は寸法を計り、石筆で図を描き、のみで削り、コンパスで図を描き、人の形に似せ、人間の美しさに似せて作り、神殿に置く・・・木は薪になるもの。人はその一部を取って体を温め、一部を燃やしてパンを焼き、その木で神を造ってそれにひれ伏し、木像に仕立ててそれを拝む」(44:13-15)。しかし「彼は自分の魂を救うことができず、『私の右の手にあるのは偽りではないか』」(44:20)と預言者は語ります。いくら懺悔の思いを込めて偶像を造り、それを拝んでも罪の赦しは来ません。バビロニアの偶像神も日本の阿修羅像も結局は人が造ったものであり、人に背負われなければ動くことが出来ません。
・それに対し、主なる神は言われます「私はあなたたちが生まれた時から、あなたたちを背負い、担ってきたのだ」と。私は偶像の神のように、人に背負われはしない。逆に「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。だから私が担い、背負い、救い出す」と言われる方です。私たちの信じる神は、私たちを「造った故に」、「担い、背負い、救い出す」方、ここに偶像神との決定的な違いがあります。神は私たちに宣言されます「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今、こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ・・・私の目にあなたは価高く、貴く、私はあなたを愛し、あなたの身代わりとして人を与え、国々をあなたの魂の代わりとする」(43:1-4)。

3.福音伝道のために

・今日の招詞にイザヤ49:6を選びました。次のような言葉です「こう言われる。私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」。世界史の上では何の重要性も持たないイスラエルという小さな国の挫折と回復の歴史が旧約聖書としてまとめられ、その旧約聖書がやがて世界史を動かす影響を持つようになりました。
・前回も見ましたように、捕囚から帰国したイスラエルの民は帰国後もペルシアの属国とされ、民族的には独立できませんでした。そしてペルシア時代の後はギリシアに、その後はローマ帝国により支配されます。彼らは政治的には大国の支配下に置かれ続けました。しかし民族として捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜き、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシア語に翻訳されて、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主なる神に出会うようになります。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として人々に仕える者になり、このユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリストが生まれてこられます。故に預言者は確信を持って言います。「人に侮られる者、民に忌み嫌われる者、司たちの僕」(49:7a)、人間的に見れば、戦争に破れて捕虜とされた民が帰還するに過ぎないイスラエルが、「諸々の王が立ち上がり、諸々の君が拝する」(49:7b)者となる。預言者は、神の救済の訪れを諸国民に宣べ伝える使命を抱いてエルサレムに帰ると預言者は歌います。
・この確信を私たちも持ちたいと願います。この教会は試練の中で、人々が散らされて行った歴史を持ちますが、主はこの教会を存続させて下さり、立派な会堂を与えて下さった。ただ現在は、教会に集う者の数が減らされ、会堂建築のための借入金返済負担が重くなり、教会員の元気がなくなっています。この時にこそ、私たちはこの教会の役割を再度考える必要があります。私たちの教会は大きくもなく、立派でもなく、礼拝に集まる人の数も30人前後にすぎません。しかし毎週の祈祷会や説教資料がホームページに掲載され、一日のアクセス数は200件を超えます。週ベースで見れば1000人を超える人々が、この教会のホームページを通してみ言葉に触れています。半年前から始まった礼拝のフェイスブックによる中継では50人から100人の人が視聴者になっています。目には見えませんが、神は確かに働いておられるのです。
・捕囚の民が解放の時を迎えた時を、預言者は、「恵みの時」「救いの時」と歌いました。「主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。私はあなたを形づくり、あなたを立てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(49:8-9)。使徒パウロはかたくななコリントの民に対して、主の救いの業を無駄にするなと言って、この言葉を引用します。「私たちはまた、神の協力者としてあなたがたに勧めます。神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。なぜなら、『恵みの時に、私はあなたの願いを聞き入れた。救いの日に、私はあなたを助けた』と神は言っておられるからです」(第二コリント6:1-2)。教会が困難の中にある今こそ、教会の役割を考える時です。その時、この困難が神からの恵みに変わって行きます。この教会の見える現実は貧しくとも、神の言葉が語られ、多くの人が教会ホームページの文書や映像を通じて神の言葉に接しているのであれば、それで十分ではないかと思います。


カテゴリー: - admin @ 08時16分30秒

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1.希望の福音

・イザヤ書を読んでおります。イザヤ書の中でも40章以下の部分は第二イザヤと呼ばれる解放の預言です。
紀元前587年、イスラエルは国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われました。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、神の言葉が預言者に臨みます。「苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(40:2)。あなた方はバビロンという牢獄に捕らわれたが、苦役の時は満ち、解放の時が来たと預言者は聞きました。エルサレムは廃墟となり、最初の捕囚民の多くは死に果て、今や二世、三世の民が中心になっています。その民に、「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」と預言が為されます。
・預言者自身も第二世代に属すると思われますが、戸惑い、抗議します「草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」。「何故あなたは50年間も沈黙を続けられたのか。今更エルサレムに帰れと言われるのか。私たちの信仰は消えてしまったではないですか」と預言者は応答します。その預言者に神は語られます「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)。預言者はこの言葉を聞いて、立ち上がります。預言者が神の召命を受け入れた言葉です。
・50年に及ぶ捕囚はイスラエルの信仰を根底から揺さぶりました。50年もの間、神からの何の言葉もなかったのです。人々は語りました「私の道は主に隠されている、私の裁きは神に忘れられた」(40:27)。それに対して神の言葉をいただいた預言者は諭します「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(40:31)。「主はお前たちを見捨てておられたのではない。時が来るのを待たれていた。時が来て主はバビロンを滅ぼし、お前たちを救おうとされている」。預言者は語ります「エルサレムに帰る時が来た。さあ、立ち上がれ」と。

2.ペルシア王キュロスに期待を寄せる預言者

・預言者が捕囚民のエルサレム帰還を預言した背景には、当時の国際情勢があります。不滅と思われたバビロニア帝国がネブカドネザル王の死を契機に衰退し、東に起こったペルシアが新しい支配者としてバビロンに迫っていたからです。預言者は41章でそのことに触れています。「東からふさわしい人を奮い立たせ、足もとに招き、国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か・・・彼は敵を追い、安全に道を進み、彼の足をとどめるものはない。この事を起こし、成し遂げたのは誰か。それは主なる私。初めから代々の人を呼び出すもの、初めであり、後の代と共にいるもの」(41:2-4)。
・前559年にペルシア王となったキュロスは、10年後には宗主国メディアを併合し、ペルシア帝国を打ち立て、中央アジアから小アジア(今日のアフガンニスタン・イラン地方)をすべて支配下に置きました。そしてキュロス王は今、バビロンに迫っています。預言者はこの流れを起こされたのは主なる神だと理解し、「主はキュロスを用いてあなたがたを捕囚から解放してくださる。だからイスラエルよ、立て、恐れるな」と呼びかけます。「私は北から人を奮い立たせ、彼は来る。彼は日の昇るところから私の名を呼ぶ。陶工が粘土を踏むように、彼は支配者たちを土くれとして踏みにじる」(41:25)。
・バビロニア帝国の捕囚民として苦しんできたイスラエルに、預言者は主がペルシア王キュロスを用いてバビロンを滅ぼされると預言します。「あなたたちを贖う方、イスラエルの聖なる神、主はこう言われる。私は、あなたたちのために、バビロンに人を遣わして、かんぬきをすべて下ろし、カルデア人(バビロニア人)を歓楽の船から引き下ろす」(43:14)。かつてモーセを用いてイスラエルをエジプトから解放して下さった主は、今やペルシア王を用いてバビロニア帝国を滅ぼし、あなた方が祖国に帰る道を開かれると預言します。「見よ、新しいことを私は行う。今や、それは芽生えている。あなたたちはそれを悟らないのか。私は荒れ野に道を敷き、砂漠に大河を流れさせる」(43:19)。
・そして預言者はペルシア王キュロスを「主が油注がれた者」(ヘブル語マーシアハ、ギリシア語メシア)と呼び、イスラエルの解放者として待ち望みます。「キュロスに向かって、私の牧者、私の望みを成就させる者と言う。エルサレムには再建されると言い、神殿には基が置かれると言う。主が油を注がれた人キュロスについて、主はこう言われる。私は彼の右の手を固く取り、国々を彼に従わせ、王たちの武装を解かせる。扉は彼の前に開かれ、どの城門も閉ざされることはない」(44:28-45:1)。イスラエルの預言者が異国の君主をメシアと呼ぶのは異例のことです。「神は必要な時に必要な人を起こして導いて下さる」との信仰が、異国人もまた神の器になりうるとの現実認識をもたらすのです。
・経済学者であった矢内原忠雄は1937年「国家の理想」という論文を中央公論に発表します。1937年7月に盧溝橋事件を起こして、中国本土を征服しようと戦争を始めた日本を批判した論文です。「国家の理想は正義と平和にある、戦争という方法で弱者をしいたげることではない。理想にしたがって歩まないと国は栄えない、一時栄えるように見えても滅びる」と矢内原は書き、それが原因で彼は東大教授の地位を追われます。論文の中で、矢内原は、古代の覇権国家アッシリアの例を引いて、「日本は中国を懲らしめるための神の鞭、アッシリアに過ぎないのに、いつの間にか自分が神のように振舞い始めている」と批判します。イザヤ書を通して現実の世界を見つめる時に、見えてくるものを矢内原は書いたのです。イザヤ書は決して過去の文書ではなく、現在も語り続けています。

3.キュロスに対する失望と新しい立ち上がり

・今日の招詞にイザヤ49:4を選びました。次のような言葉です「私は思った。私はいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした、と。しかし、私を裁いてくださるのは主であり、働きに報いてくださるのも私の神である」。イザヤ書は40章から48章にかけて、ペルシア王キュロスに捕囚からの解放を期待する預言が続いています。預言者はキュロスの目覚しい躍進の中に神の働きを見ています。しかし49章から預言は一変し、「主の僕」の歌が主になります。キュロスの実態がわかり、彼もまた権力者の一人にすぎないことに気づいたからです。前539年キュロスはバビロニアを滅ぼしますが、彼が最初に為したのはバビロニアの主神マルドゥクの前に跪くことでした。預言者は「ペルシア王キュロスは偶像礼拝者であり、メシアではなかった」ことに失望し、その失望の思いが招詞の言葉を招きます。
・しかし預言者の働きは無にはなりませんでした。キュロスはバビロニア征服の翌年、捕囚になっていたユダヤ人をはじめ、強制移住させられた諸民族を解放します。祖国帰還を許されたイスラエルは指導者を立て、帰国の準備を始めます。主は預言者に新しい使命を与えられます。民を故郷に連れ戻る指導者としての使命です。「私はあなたを僕として、ヤコブの諸部族を立ち上がらせ、イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。だがそれにもまして、私はあなたを国々の光とし、私の救いを地の果てまで、もたらす者とする」(49:6)。
・捕囚の民が祖国帰還の時を迎えました。その時を、預言者は、「今は恵みの時」「今は救いの時」と歌います。「主はこう言われる。私は恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。私はあなたを形づくり、あなたを立てて民の契約とし、国を再興して荒廃した嗣業の地を継がせる。捕らわれ人には、出でよと、闇に住む者には身を現せ、と命じる」(49:8-9)。最初の帰還民はエホヤキン王の第四子セシバザルに率いられて故国に戻ったとされています(エズラ1:5−11)。彼はエルサレム神殿の基礎を据えましたが、工事は中断され、セシバザルはその後の歴史から消えます。おそらくイスラエル独立を図った廉で、ペルシアによって処刑されたと見られています。
・歴史は人の運命を超えて進み、救いの業は個人の希望や絶望を超えて為されます。捕囚から帰国したイスラエルの民のその後が全てうまくいったのではありません。帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でしたが、工事はやがて中断します。先住の人々が帰国民を喜ばず神殿再建を妨害し、また旱魃による飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲い、神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。彼らはその後も民族的には独立できず、ペルシア時代の後はギリシアに、その後はローマ帝国により支配されます。
・彼らは政治的には大国の支配下に置かれ続けました。しかし民族としては捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシア語に翻訳されて、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主なる神に出会うようになります。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として人々に仕える者になり、このユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリストが生まれてこられます。
・私たちの教会は48年間の歴史の中で何度も困難を体験し、現在も順調とは言えない状況にあります。見える現実は教会に集う人が減らされ、教会運営のために必要な献金が満たされない厳しい状況です。しかし私たちは「ペルシア王キュロスを用いてさえ、イスラエルをバビロンから解放された」神の見えない摂理を信じます。「それ故に見える現実だけに明け暮れている人々にはとうてい理解しえない、大きな希望と喜びと力を与えられる」(榎本保郎・旧約聖書1日1章、p765)のです。小説家・山本周五郎は自分の作品の根底にするテーマとして、イギリスの詩人・ロバート・ブラウニングの言葉を大切にしたといいます。「人間の真価は、その人が死んだ時、何を為したかではなく、彼が生きていた時、何を為そうとしたかで決まる」。人は「何を為したか」で評価しますが、神は「何を為そうとしたか」で評価されます。今、私たちが為すべきことは何か、ヘブル書は語ります。「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」(ヘブル12:11-12)。現在の与えられた厳しさは、私たちが「主の民」となるための訓練です。ですから私たちは「萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにして」、この教会に与えられた福音宣教の使命を為していきます。


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11 05

1.イザヤ40章〜慰めの知らせ

・クリスマスを前にした11月、私たちはイザヤ書からみ言葉をいただきます。イザヤ書には三つの預言が合本されています。1章から39章が本来のイザヤ書で紀元前700年ごろに生きたイザヤの預言であり、アッシリア侵略に揺れる国家危機の中で語られています。40章から55章は、国家が滅ぼされバビロンに捕囚となった民に対しての帰還預言で(前540年頃)、便宜的に第二イザヤと呼ばれています。最後が56章から66章で、それから30年後のエルサレム帰還後の預言です(前515年頃、第三イザヤと呼ばれています)。11月に読んでいきますテキストは、この第二イザヤと呼ばれる箇所です。
・イザヤ40章を読んでいきます。紀元前587年、イスラエルはバビロニア帝国に国を滅ぼされ、主だった人々はバビロンに捕虜として囚われました。「バビロン捕囚」です。それから50年の年月が流れた紀元前540年頃、主の言葉が預言者に臨みます。「慰めよ、私の民を慰めよとあなたたちの神は言われる。エルサレムの心に語りかけ、彼女に呼びかけよ。苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを主の御手から受けた、と」(40:1-2)。故国エルサレムは廃墟となり、人々はエルサレムから数千劼睥イ譴織丱咼蹈鵑涼呂砲い泙后50年の間に捕囚民の多くは死に、今は二世、三世の時代です。彼らは祖父母や両親から故郷エルサレムの話を聞かされていましたが、そこはもはや彼らの故郷ではありません。彼らは今、このバビロンの地で生きようとしているからです。その民に、「服役の時、捕囚の時は終った、エルサレムに帰る時が来た」と預言者は告げます。「主のために、荒れ野に道を備え、荒れ地に広い道を通せ。谷はすべて身を起こし、山と丘は身を低くせよ。険しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(40:3-5)。
・バビロンからエルサレムまで、数千劼旅嗅遒魑還する道が開かれたと預言者は語ります。しかし、聞いていた人たちは当惑しています。既にエルサレム帰還の夢を失くしていた人々は、「帰ろう」と言われても戸惑うばかりです。長い間の失望により、彼らの信仰は死んでいます。だから預言者は嘆きます「呼びかけよ、と声は言う。私は言う、何と呼びかけたらよいのか、と。肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ。主の風が吹きつけたのだ。この民は草に等しい」(40:6-7)。預言者は神に抗議します「民に何を言えば良いのですか。彼らは既に故国帰還の希望をなくしています。それは主よ、あなたのせいです。あなたが祖国を滅ぼし、遠いバビロンに私たちを連れ来て、そして50年間も放置された。その民に、今さら何を語れと言われるのですか」。
・「何故あなたは50年間も沈黙を続けられたのか」と語る預言者の不信をねじ伏せて、主は言葉を語らせます。「草は枯れ、花はしぼむが、私たちの神の言葉はとこしえに立つ」(40:8)。私たちは苦しみ、悲しみに圧倒された時、神が見えなくなります。神などいないのではないかと信仰が揺さぶられる時があります。預言者も同じ思いに苦しみました。しかし、神はその預言者をねじ伏せて言葉を語らせます。「草は枯れ、花はしぼむ。しかし、われわれの神の言葉はとこしえに変ることはない」と。

2.希望の福音

・神の言葉は続きます「良きおとずれをシオンに伝える者よ、高い山にのぼれ。良きおとずれをエルサレムに伝える者よ、強く声をあげよ、声をあげて恐れるな。ユダのもろもろの町に言え、あなたがたの神を見よと。見よ、主なる神は大能をもってこられ、その腕は世を治める。見よ、その報いは主と共にあり、その働きの報いは、その御前にある」(40:9-10)。「解放の時が来たのだ。良き訪れ、福音を伝える者は高い山に登って呼ばわれ」と神が語られます。
・イスラエルの民は、彼等を通して諸国民が救われるために、神により選ばれたと聖書は証言します「主があなたがたを愛し、あなたがたを選ばれたのは、あなたがたがどの国民よりも数が多かったからではない。あなたがたはよろずの民のうち、もっとも数の少ないものであった。ただ主があなたがたを愛し、またあなたがたの先祖に誓われた誓いを守ろうとして、主は強い手をもってあなたがたを導き出し、奴隷の家から、エジプトの王パロの手から、あがない出されたのである」(申命記7:7−8)。
・しかし、イスラエルの民は、約束の地が与えられ、豊かになるといい始めました。「自分の力と自分の手の働きで、私はこの富を得た」(申命記8:17)と。神は預言者を通じて繰り返し、彼等に警告されます。「主はあなたの先祖たちに誓われた契約を今日のように行うために、あなたに富を得る力を与えられるからである。もしあなたの神、主を忘れて他の神々に従い、これに仕え、これを拝むならば、私は、今日、あなたがたに警告する。あなたがたはきっと滅びるであろう。」(申命記8:18−19)。
・私たちも順調な時には神を忘れます。「私は自分の力で学び、自分の力でこの職を得た。そして、自分の働きで食べている。誰の世話にもなっていない」。人が神を忘れる時、隣人も忘れます。私たちが恵みに感謝することを忘れ、傲慢になった時、神は私たちを裁かれます。この裁き、苦しみを通して、私たちは神がおられ、神によって生かされていることを知らされます。イスラエルの民にとって、この捕囚は苦しく、つらいものでした。しかし、この捕囚体験は、イスラエルの民の信仰に決定的な影響を与えます。「神は何故選ばれた私たちを捨てられたのか、何故神の都と定められたエルサレムを滅ぼされたのか」、彼らは父祖からの伝承を読み直し、まとめ直していきました。旧約聖書の主要部分、創世記や申命記等は、この時代に編集されたと言われています。民が砕かれ、悔改めた時に、旧約聖書が書かれました。そして今、試練の時、苦しみ時は終わり、慰めの時が来たことを民は告げられます。預言者は語ります「主は牧者のようにその群れを養い、そのかいなに小羊をいだき、そのふところに入れて携えゆき、乳を飲ませているものをやさしく導かれる」(40:11)

3.私たちへのメッセージとしてイザヤ書を聞く

・今日の招詞に詩篇126:5-6を選びました。次のような言葉です。「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」。私は2002年4月からこの教会の牧師として招かれましたが、招聘の時の応答として語らせていただいた言葉がこのイザヤ書の使信でした。2002年1月13日の説教が残されています「イザヤ書の言葉を、この教会に語られた言葉として聞く時、何が聞こえてくるのか。この教会は江戸川地区の教会として立てられた。そして地域に伝道したが、教会が分裂し、牧師が去り、大勢の教会員も去るという悲しみを負わされた。しかし、牧師のいない1年半を通して、この教会に残った者は強くされた。神の民に相応しいものにされた。この地域には、傷ついて心が折れようとしている人、絶望してその炎が消えようとしている人がいる。その人たちに向かって、語るために、私たちが選ばれ、訓練された」。
・また2002年2月10日の説教では次のように語りました「私たちの教会は大きくもなく、立派でもないかも知れない。それ故に、苦しむ者の声を聞ける。私たちは、信仰に優れた者でないかも知れない。それ故に、信じることのできない人たちに福音を伝えることが出来る。イスラエルと同じく、私たちも主がいかに恵まれたかを証するために立たされ、そのために必要な苦しみを受けた。この苦しみを通して学んだ。今、解放の時を迎え、新しい使命を与えられた。この教会も試練の中で、人が散らされて行った。しかし、いつの日か人々は言うであろう『この会堂は狭すぎる。賛美するために、もっと広い教会堂を与えよ』と。その日は来る。私たちはこの教会の回復に望みを置く」。
・それから10年後の2011年に、私たちに奇跡のように立派な会堂が与えられました。とても40名の民が建設したとは思えないような立派な会堂です。神は約束を守って下さった。しかし、2017年の今、教会は新たな困難の中にあります。高齢化の中で、施設に入所され、家で療養される方が増え、礼拝に集う人の数が減少しています。しかし、会堂を与えて下さった神は、私たちに必要な人を与えて下さるでしょう。
・捕囚から帰国したイスラエルの民もすべてがうまくいったのではありません。帰国した人々が最初に行ったのは、廃墟となった神殿の再建でした。帰国翌年には、神殿の基礎石が築かれましたが、工事はやがて中断します。先住の人々は帰国民を喜ばず、神殿の再建を妨害したからです。また、激しい旱魃により、穀物が不足し、飢餓や物価の高騰が帰国の民を襲いました。神殿の再建どころではない状況に追い込まれたのです。そして人々はつぶやき始めます「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。これに対して、「そうではない」と言って立ち上がった預言者が、第三イザヤと呼ばれる人です。彼は言います「主の手が短くて救えないのではない。主の耳が鈍くて聞こえないのでもない。むしろお前たちの悪が、神とお前たちとの間を隔て、お前たちの罪が神の御顔を隠させ、お前たちに耳を傾けられるのを妨げているのだ」(59:1-2)。
・中断された神殿再建が再び始まったのはそれから20年後でした。神殿再建を導いたのは、ダビデ家の血筋を引くゼルバベルでした。人々は、ゼルバベルを王にいだいて国の独立を求めましたが、ペルシャ帝国によってゼルバベルは処刑されたようです。しかし、彼らは、捕囚時代に編纂された旧約聖書を守りながら生き抜くことを通して民族の同一性を保持し、旧約聖書はやがて当時の共通語ギリシャ語に翻訳されて、多くの異国人がこの翻訳聖書を通して主に出会うようになります。イザヤは預言しました「彼らの子孫は、もろもろの国の中で知られ、彼らの子らは、もろもろの民の中に知られる。すべてこれを見る者はこれが主の祝福された民であることを認める」(61:9)。ユダヤ人は、国が敗れることを通して、主の民として人々に仕える者になり、やがて、このユダヤ人の中からイエスと呼ばれるキリスト=救い主が生まれてこられます。私たちも現在の困難を超えた祝福を待ち望みながら、教会形成に励むのです。


カテゴリー: - admin @ 08時12分28秒

05 26

1.エルサレム包囲の中で

・イザヤ書を読んでおります。今日の箇所はイザヤ37章ですが、イザヤ書36章〜39章の記事は列王記下18章〜20章とかなり重複しています。そのため、今日は、列王記の記事も参照しながら、イザヤ37章を読んでいきます。37章にあるのは紀元前701年にユダがアッシリアの攻撃を受けた時の記事です。物語は36章から始まり、時の王はヒゼキヤでした(36:1)。世界制覇を目論むアッシリアはパレスチナ諸国を軍事占領し、今はエルサレムを大軍で包囲して無条件降伏を求めています。アッシリアの将軍は言います「ヒゼキヤが、『主は我々を救い出してくださる』と言っても、惑わされるな。諸国の神々は、それぞれ自分の地をアッシリア王の手から救い出すことができたであろうか。ハマトやアルパドの神々はどこに行ったのか。セファルワイムの神々はどこに行ったのか。サマリアを私の手から救い出した神があっただろうか。これらの国々のすべての神々のうち、どの神が自分の国を私の手から救い出したか。それでも主はエルサレムを私の手から救い出すと言うのか」(36:18-20)。「神に依り頼んでも無駄だ」とアッシリア王は自らの力を誇りました。ヒゼキヤはこの屈辱をイザヤに訴えます。「今日は苦しみと、懲らしめと、辱めの日、胎児は産道に達したが、これを産み出す力がない。生ける神をののしるために、その主君アッシリアの王によって遣わされて来たラブ・シャケのすべての言葉を、あなたの神、主は恐らく聞かれたことであろう。あなたの神、主はお聞きになったその言葉をとがめられるであろう」(37:3-4)。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時08分51秒

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