すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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09 25

1.死を忘れるな

・今日、私たちは召天者記念礼拝を行う。これは死なれた個々の方を悼む礼拝ではなく、生きている私たちが「死とは何か」を考えるための礼拝だ。教会では死を悼まない。死とは天に帰る、天に召されることであり、悼む事柄ではないからだ。教会の葬儀も同じだ。死者を悼むためではなく、生きている人を慰めるために執り行われる。今日、私たちは詩篇90編を通して死と生の問題について御言葉を聴く。

・詩篇90編がまず私たちに語ることは「死を忘れるな」と言うことである。5-6節「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。朝は咲いていた花も夕には枯れる。人の一生もそのようなものだと詩人は歌う。私たちの人生は死によって限界付けられている。人は誕生し、少年期、青年期を経て壮年期に至る。生きているうちに何事かを為したいと思い、学び・働き・結婚し、家族を形成する。幸運に恵まれ、一代で財を成す人もいれば、多くの家族に恵まれる人もいる。健康に恵まれた人は70代、80代まで生きることが出来る。しかし、振り返ってみれば、その人生は労苦と災いだと詩人は歌う。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(90:10)。長生きしても振り返ってみれば、一瞬の人生であり、生涯を終えた肉体は焼かれて塵に帰る。「人は塵だから塵に帰る」、詩篇90編が歌うのは「人生の無常」だ。どのような人生を送ろうとも、振り返ればそれは無常の人生だ。

・私たちは生まれ、死んでいく。人生は誕生と死の間にあるひと時の時だ。しかし、多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしない。だから近親者の死に直面する時、私たちは「死んではならないはずのものが死んだ」という矛盾の中で苦しむ。特に幼い子や壮年者が死んだときほど、死の痛みは大きい。聖書は「私たちは死という限界の中にあることを覚えよ」と求める。それが12節の言葉だ「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。詩人は、生涯の日を正しく数える、死ななければならない存在であることを教えてくださいと神に求める。これは非常に大事なことだ。何故なら、私たちは自分が死ぬ存在である、人生が一回限りのものであることを認めようとしない存在だからだ。私たちは無意識の内に死を他人事ととらえる。それは身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではない。死が他人事である限り、私たちは死について考えようとしない。死について考えないとは現在の生についても考えないことだ。聖書は私たちに求める「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。

2.死を考えまいとする私たち

・私たちは死を考えまい、あるいは忘れようとする。その試みの一つが「魂の不死、あるいは霊魂の不滅」という信仰だ。人は死ぬがそれは肉体が滅びるのであって霊は滅びない、霊は肉体の死を超えて生きる。古代以来多くの人々がそう信じてきた。プラトン・アリストテレスから始まり、カントに至るまでそうだ。教会に来ているクリスチャンの大半も実は信じているのは復活ではなく、霊魂の不死ではないかと思える。母親は死んだ夫について子どもたちに教える「お父さんは今天にいてお前を見守ってくれている」。私たちも墓参りに行き死者に呼びかける「来ましたよ」。心情的には理解できるが、この信仰は人間のただの希望的願いだ。何の真実性もない。

・二番目は現在の生の肯定を通して、死から逃れようとする考え方だ。私はまだ死んでいない、まだ死という最終限界にまでは至っていない。今しばらくは死なないだろう。生きているうちに両手を広げて可能性を求め、充実した生を楽しみたい。世の多くの人の生き方がそうだ。今はまだ死を考える時ではない。20代、30代の多くの人はそう思う。問題は50代、60代になっても、そう考える人が多いことだ。このような生き方、死を考えまいとするいき方はいつか破綻する。死は必ず訪れるからだ。

・聖書は両者ともごまかしの生き方だと指摘する。人間の真の生き方は、死を忘れないこと、自分の限界を知ることだと述べる。有限性を知ることは自分が被造物に過ぎない、死に対する決定権が自分にはないことを認めることだ。そこから創造者である神を思う心が生まれる。死をおそれずに死と向き合う唯一の道は、命の創造者である神を覚えること、だから詩人は歌う「主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(90:1-2)。私たちは神に創造された。それにもかかわらず私たちは死ぬ。それは何故か、私たちの罪のために神の怒りとして死が与えられたからだと詩人は言う。7-9節「あなたの怒りに私たちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたは私たちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。私たちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます」。罪の結果として、神の怒りとして、死がある。死から解放される道は神による罪の赦ししかない。だから詩人は祈る「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」(90:13)。詩人は神が正義の神である故に罪びとである人に死が与えられた事を知る。同時に神は憐れみの神であり、人が求める時、恵んでくださる方であることを信じる。故に願う「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたが私たちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、私たちに喜びを返してください」(90:14-15)。

3.死を恐れるな

・今日の招詞にヨハネ11:25-26を選んだ。次のような言葉だ「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。ラザロが死んで4日目にイエスはベタニヤ村に来られ、兄弟の死を悲しむマルタに言われた「あなたの兄弟は復活する」(ヨハネ1:23)。マルタは答えた「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。マルタが信じているのは霊魂の不滅であり、今ここでのラザロのよみがえりではない。そのマルタにイエスは言われた「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。神は死者を生き返らせることが出来る。死んだラザロを今よみがえらせることが出来る。その神の力、神の憐れみを信じるか。マルタは信じることが出来ない。イエスはマルタのためにラザロを墓から呼び出され、ラザロは再び生きるものとなった。神の憐れみがイエスを通して示された。

・死んだ後どうなるのか、誰にもわからない。それは神を信じる者にもわからない。ただわかることはイエスが死んで復活されたこと、イエスが今も生きておられることの二点だ。イエスによって死が乗り越えられた。故に私たちはイエスが復活されたように、信仰者に復活の約束が与えられていることに希望を置く。イエスの復活を信じる時、信仰者は今ここで永遠の命の中に入る。永遠の命とは、死んで天国に行くことではない。今、死から解放されることだ。信仰者はバプテスマを受ける。バプテスマは水に入り、水から引き出される。水に入りイエスと共に死ぬ、水から引き出されイエスと共に復活の命に生きる。この罪の赦しを通して、死から解放され、新しい命に生きる。だから現在を誠実に生きよと命令される。だから私たちは死を悼まない。死とは終わりではなく、新しい命の出発だからだ。

・世の若者たちは死ぬことを考えないし、老人たちは自分たちの時代はもう終わったとして人生を諦める。そうではなく、若いうちから死を覚えて現在を誠実に生き、歳をとればこの世での残された日々を大切に生き、死ねば天に召される。生かされているとは、そのような希望を持つということだ。死を忘れるな、そして死を恐れるな。これが聖書のメッセージだ。


カテゴリー: - admin @ 01時45分21秒

09 18

1.働かざるもの、食うべからず   

・「働かざるもの、食うべからず」、有名なことわざである。マルクスの言葉と誤解している人が多いが、元々は聖書の言葉だ。今日、私たちが学ぶ〓テサロニケ3章10節に出てくる。マルクスがこの言葉を「生産に役だたない者は食べる資格はない」という意味に使い始めてから、言葉はもともとの意味を超えて、使用されるようになって来た。会社においては業績の上がらない社員に対して「会社は慈善団体ではない。あなたが業績を上げないなら辞めてもらう。働かざるもの、食うべからずと言うではないか」として、首切りの理由にされる。夫は妻に対して言う「誰のおかげで食べていると思うのか。私が働いているからお前は生活が出来るのではないか。働かざるもの、食うべからずだ」。言われた妻は専業主婦であることを罪悪のように思い、社会に出て働かなければ一人前ではないと思い込まされる。

・聖書はどのような意味で、この言葉を使っているのだろうか。テサロニケはパウロとシラスの開拓伝道で立てられた教会だ。彼らはパウロから福音を聞いた「キリストが来られて、世はその意味を変えた。世と世のものは過ぎ去る。だから世に関らないようにしなさい」(〓コリント7:31)、「主の日は近い。だから目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)。世の価値だけを求めて生きる、そのような行き方を変えて神の国を求めなさいという勧めだったが、テサロニケの一部の信徒はそれを別のように理解した「最後の日、主の日が来る。そうであれば、いまさら働いてもしようがない。教会に行って主に祈り、黙想の時を過ごそう」。そして彼らは教会の人々に言った「私たちはあなたがたのために祈るから、あなたがたは私たちにパンを与えなければいけない」。パウロはそのような人々を怠け者と呼んだ。「主の日が近いとして働くことをやめ、他の人の厄介になるのがキリストの教えられたことではない。キリストは今も働いておられる。だから、私たちも力の限りに働くのだ」。そしてパウロは言う「『働きたくない者は食べてはならない』と命じておいたではないか」(〓テサロニケ3:10)。ここに『働かざるもの、食うべからず』の言葉が生まれた。

・パウロは続ける「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。たゆまず良いことをしなさい」。パウロ自身、天幕作りをして生活費を稼ぎながら伝道していた。伝道者は奉仕教会から報酬を得て働くことが許されている。しかし、自分はパンをただでもらうことをせず、自活の道を求めてきた。他の人に負担をかけないためだ。それが当たり前なのだと彼は人々を戒める。ここでは「働けるのに働かない」、そのような人々が叱責されている。聖書は「働きたくないものは食べてはいけない」と言っているのであり、「働けない者は食べてはいけない」とは言っていない。病気のため、高齢のため、職が見つからないため、働けない人々がいる。それらの人々に「食べさせるな」と言われているのではないことをしっかりと認識することが必要だ。

・しかし、人間の思いは神の言葉を曲げる。「働かざるもの、食うべからず」、ドイツのナチス政権は、戦争が始まると、全国の施設にいた障害者の処刑を命じた。戦争という重大な時に、何の役にも立たない人間に与えるパンはないと彼らは言い、障害者を「生きる価値のない命」として殺した。日本では今年10月から介護保険法が改定され、老人ホームでの住居費や食費は自己負担となる。自宅にいれば住居費や食費は必要であり、ホーム入居のお年寄りから費用を徴収するのは当然だとの厚生省の主張であるが、その結果最低でも月10万円の老後収入のない人は特別養護老人ホームにも入れない。国民年金の年金額が満額で6万円であることを考えれば、非常に高いハードルだ。自己責任という美名の下で、貧しい高齢者は保護の対象外にされようとしている。「働かざるもの、食うべからず」とは怠けて働かないものを叱責する言葉だ。それなのに「働けないもの、食うべからず」と言葉が拡大・悪用されている。私たちは御言葉が曲がって使用されていることに抗議しなければいけない。

2.働くこと、神の業に参加すること

・今日の招詞に創世記2:15を選んだ。次のような言葉だ「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。聖書は労働をどのように見ているのだろうか。創世記によれば、人はもともとエデンの園を耕し、守るものとしての使命が与えられている。人間は本来働くもの、働きを通して喜びを得るものとして創造されているのだ。その人間が神を離れ、自分が神になろうとした。その結果、人間はエデンの園を追われ、宣告された「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで」(創世記3:17-19)。ここで労働が苦痛に満ちた呪いの行為となる。働くという行為の中には、神に祝福された本来の喜びと、神に呪われた苦痛の双方の意味がある。労働と言う行為の中には喜びと苦痛の双方がある。怠け者は苦痛を避けようとして働くのを止め、勤勉な人は喜びを得ようとして働く。

・私たちクリスチャンはどうすべきか。私たちもかつては罪の縄目の中にあり、神の呪いの中にあった。しかし、キリストの十字架を通して赦され、今では神の子とされた。もう労働についての呪い、苦痛からは解放されている。だから一生懸命働け、働くものを神は祝福して下さるとパウロは言う。キリストが私たちのために働いてくれた。キリストは今も働いておられる。だから私たちも働く。働くとはキリストの業を共に担うことだ。ある人は言った「働く」とは「はた=他をらく=楽にする」。キリストにあっては、労働や職業は、世の中を楽にし、他者を愛するために存在する。従って怠けて働かない者はキリストから離れている。だから叱責されるのだ。

・働き方にはいろいろある。社会に出て働くばかりが働きではない。専業主婦も立派な働きだ。仮にその仕事をヘルパーの人に頼めば、月に15-20万円は必要となろう。それだけの価値の仕事が目に見えない形で為されている。寝たきりの老人も働くことが出来る。何も出来なくとも人のために祈る時、それは立派な仕事になる。人の話を嫌がらずに聞いてあげることも立派な働きだ。人はそれぞれ賜物(タラント)を与えられている。その与えられたタラントを持って働けばよい。高齢の人は高齢のままで、病気の人は病気のままで働けばよい。それがパウロのいう「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」(〓テサロニケ3:12-13)ということだ。高齢の人も、病気の人も大事な働きが出来るのだ。他者のために祈る、これ以上に大事な働きがあろうか。

・最後にパウロは言う「もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」(3:14-15)。怠惰な生活をしている人を避けなさい、悪い影響を受けるといけないから。しかし、その人たちを敵とはみなさず、兄弟として警告しなさい。「自分は働いているのにあの人は怠けている」と考える時、その警告は兄弟に対して批判的になり、お互いの絆は切れてしまう。そうではなく、その人が何故働けないのか、その理由を思い図り、働ける環境を作ってあげなさいと言われている。フリーターやニート(引きこもり)の人々が増えている。私たちは彼らが怠け者だから働かないのだと思いがちだが、実際は違う。10-20台の失業率は15-20%になっているし、失業率の増加と共にフリーターやニートが増えてきた。それらは失業の別の形なのだ。働きたくともふさわしい仕事がなく、ひきこもっている事例が多い。彼らの多くは良い仕事があればしたいのだ。私たちの役割は人を叱責することではなく、人にため祈り、自分に出来ることをすることだ。落ち着いて仕事をしなさい、たゆまず良いことをしなさい。自分の出来る事を求めて生きなさいと命じられている。
*ニート=Not In Employment ,Education or Training(NEET) 職に就かず学校にも通わず職業訓練を受けているのでもない人々の略


カテゴリー: - admin @ 20時25分53秒

09 11

1.キリストにあるものとしての生

・教会からお許しをいただき、3泊4日で韓国に行ってきた。神学校のスタッフとして、韓国のバプテスト教会を訪問する旅行であった。多くの教会を訪問したが、二日目の9月7日(水曜日)には、ソウルの郊外坡州(パジュ)市にあるクムチョン中央バプテスト教会での説教の機会が与えられた。教会に行ってまず見せられたのは、牧師室に飾られていた篠崎教会からの感謝状であった。話を聞いてみると、クオン牧師は日本に行ったことがあり、その時、篠崎教会で説教をした折のお礼状だと言う。日付は1993年9月12日になっていた。後で、教会の記録を調べてみると、93年9月に韓国伝道チームによる秋の特別伝道集会が開かれており、伝道隊の一員としてクオン牧師が当教会を訪問したようだ。今回、図らずも私が12年ぶりに当教会を返礼訪問したことになる。不思議な導きだ。

・韓国の教会では日曜日の礼拝の他に、水曜日・金曜日にも礼拝が持たれている。その日は水曜日で、50名ほどの人が集まっていた。私は、ルカ10章の「良きサマリヤ人の例え」を読みながら、短い説教をさせていただいた。「強盗に襲われた旅人が道端に倒れていた。祭司が通りかかったが、係わり合いになるのを恐れて避けて行った。次にレビ人が来たが同じく知らない振りをして通り過ぎた。最後にサマリヤ人が来て、倒れている人をかわいそうに思い、介抱して宿屋まで連れて行った。倒れていた人の隣人になったのは同じ民族の祭司でもレビ人でもなく、敵と思われていた異国人サマリヤ人だった。日本と韓国の間は不幸な歴史により敵対関係にあるが、それでも隣人になりうることをこの例えは示す。今回この教会を訪問するまで、クオン牧師が篠崎教会を訪問されたことを知らなかった。それが不思議な縁で、今回は私がクムチョン教会を訪問することになった。これは神が私たちに隣人になりなさいと機会を与えてくださったとしか思えない。神は生きておられる」。皆さんのお顔を拝見しながら話したが、話が進むに従い、こちらを見る目が変わってきた、通訳を通じての説教にも関らず、話が伝わり始めている。私たちクリスチャンは、お互いの民族や言葉は異なっても「主にあって一つになれるのだ」、「主は一人、信仰は一つ、バプテスマは一つ」と言う言葉が思い起こされた。エペソ4:5の御言葉だ。

・エペソ4:4は言う「体は一つ、霊は一つです。それは、あなたがたが、一つの希望にあずかるようにと招かれているのと同じです」。教会ではよく「霊による一致」が説かれる。それは無理に同じものになることではない。人はそれぞれの賜物を与えられている、それを生かして一つになることがここで求められている。違いを持ったままの一致だ。韓国人は韓国人として、日本人は日本人として生きる。それにも関らず、同じ信仰を持ち、主にあって一つになる。そのような一致だ。パウロはそれを「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(4:16)と表現する。国は違い、民族は異なっても、同じキリストの体なのだということを、理屈ではなく、体で感じた。

・4:17以降で語られているのは、どのようにして一致していくのかである。古い生き方、肉に従う生き方を捨て、新しい衣を着なさいと勧められている。私たちもかつては異邦人のように生きていた。ここで異邦人と言うのは偶像礼拝者のことだ。偶像礼拝とは自分を神として拝むことだ。その時、私たちの「知性は暗くなり、・・・無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れ、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません」(4:18-19)。「しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません」とパウロは訴える。あなたはキリストに出会ったのだ。新しい人にされたのだ。だから新しい人として生きよ、「以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません」(4:22-24)。

2.光の子としての生き方

・その新しい生き方とは隣人と共に生きる生き方だ。教会の兄弟姉妹に対して真実を語り、また怒ることがあっても翌日までその怒りを持ち越すな。教会内においても意見の違いでお互いに憤ることもあろう。しかし、それを持ち越すな。日本人である、韓国人であるというこだわりをなくせ。隣人からむさぼるな。自分で働き、収入の一部を貧しい教会員の人に分け与えるようにしなさい。相手を悲しませるのではなく、造り上げる言葉を語りなさいと教えられる。初めて会ったクムチョン教会の方たちとも、心の交流が出来た。「主にあってはギリシャ人もユダヤ人もない。あなたがたはキリストにおいて一つなのだ」とパウロが言うとおりだ(ガラテヤ3:28)。

・そして、パウロは語る。「あなたがたは神に愛されている子供ですから、神に倣う者となりなさい」(5:1)。自分が神になろうとする、自分を中心に世界は回ると思うから、他者への貪りが出てくる。神は御子を死なせるほどの愛を持って、私たちを愛された。だから、あなたたちも愛によって歩みなさい。愛するとは他者のために祈ることだ。他者のために祈る者はもはや貪り=自己主張から解放されている。だから違うものが集まる教会に置いても一致が可能になる。愛の中にある者が、淫らな思いや汚れた思いを持ち、それを言葉にすることがあろうか、あるはずではないかとここで言われる。「淫らな者、汚れた者、貪欲な者はキリストと神の国を受け継ぐことは出来ないのだ:(5:5)と明言される。

・5章の後半ではそれが「光の子」と言う言葉で示される。今日の招詞エペソ5:8の言葉だ。「あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい」。あなたがたは以前は暗闇にあった、しかし今は主に結ばれて光となっている。主に結ばれる、イエス・キリストに結ばれることにより、私たちが光とされるということなのだ。自分自身信じられないようなことかもしれないが、光とされている、というのだ。
・自分のどこが光となっているのだろうかと私たちは思う。しかし光となっているかどうかということは、自分がどんなに変わったかということよりも、主に結ばれているかどうかだ。自分に何の変化がなくても主にむすばれて、もうすでに光とされている。よくバプテスマを受けても何も変わらない、クリスチャンになっても罪を犯し続けていると歎く人がいるが、実は根底的な変化が見えない所で起きている。クリスチャンになったから罪が見えるようになった。罪が見えてきたから、心の葛藤が生じている。罪の悩みが生じるのはクリスチャンになったしるし、キリストが共におられるしるしなのだ。もう光とされている。だから、光の子として、光の子らしく生きなさい。光の子らしく生きるということは何が主に喜ばれるかを吟味しながら生きるということだ(5:10)。

・ここに書いてあることは「・・・しなさい」、「・・・してはいけない」と言う命令、あるいは律法ではない。律法とは福音なのだ。「人を殺すな」という戒めは申命記5:17にあるが、原文では「あなたが殺すはずがない」と書かれている。神の愛を知ったあなたが人を殺すという行為をするはずがないではないか。「姦淫するな」と戒めも、同じだ。「あなたが婚姻を破るはずがない」と書かれている。婚姻を破ることによってあなたの妻を悲しませることを、あなたがするはずはないではないか、あなたは既に光の子とされているのだ。だから、光の子として生きなさい。ここにあるのは、既に救われた者に対する祝福なのだ。

・親に「自分の子どもはどんな人間になって欲しいか」と聞くと、大概の親は「人に迷惑をかけない人間」になって欲しいと答える。イエスは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」(マタイ7:12)と言われる。「これをしてはいけない」ということではなく、「これをしなさい」と言われているのだ。迷惑をかけるなという事よりも、相手が喜ぶ事をしなさいと言われる。人に迷惑をかけずに生きることはできない。いろいろな人に迷惑をかけながら、世話になりながら生きている。自分も人に迷惑をかけている、だから自分も人から迷惑をかけられることを受け入れる、そのような生き方を目指すべきではないのか。何かをしないことではなく、何かをすることを目指していく、それがクリスチャンらしい生き方、光の子としての行き方なのだ。


カテゴリー: - admin @ 20時30分55秒

09 04

1.ヤコブ書と隣人愛

・今日、私たちはヤコブ書をテキストとして与えられたが、ヤコブ書は読まれることが少ない書簡だ。宗教改革者ルターはヤコブ書を「わらの手紙」と呼んだ。そこには戒めはあっても、福音=良い知らせはないと思ったからだ。ヤコブ書は律法について書かれている。全体が108節の短い手紙だが、そのうち58節、半分以上は命令文だ。「・・・しなさい」、「・・・してはいけない」という文章が満ち満ちている。そこには罪の指摘が多く、読んでも喜びがない。ルターの言う通りだ。しかし、繰り返し読むと、禁止命令の後ろに、読者に対する愛が浮かび上がってくる。道を踏み外しそうな子を心配し、「帰って来なさい」と訴えている。やはり大事な手紙だ。

・今日のテキストは2:8-13だが、その前には、教会の中で金持ちと貧乏人を分け隔てする実態があったことが指摘されている(2:1-7)。会堂に「金の指輪をはめた立派な身なりの人と、汚らしい服装をした貧しい身なりの人が入って来た」。「あなたは立派な身なりの人を会堂の上席に案内し、貧しい人は隅の席に案内した」。ヤコブは読者に問う「あなたはキリストを信じながら、このような分け隔てをするのですか」。富む人を尊重し、貧しい人を蔑視する、これは社会の慣わしだ。今回のアメリカのハリケーン被害でも、車がありお金がある人は避難し、無事だったが、車もお金もない黒人たちは避難できず、多くの犠牲者を出した。それが世の慣わしといえ、教会ではそうであってはならないとヤコブは言う。しかし、現実の教会でも、たくさん献金する人は尊ばれるし、献金の少ない人は発言力も少ない。礼拝中に汚い服装の人が入って来たら、私たちは眉をひそめる。ヤコブ書の指摘は当たっているから、私たちは聴くのが不快なのだ。

・今日のテキスト箇所の直後には、行いを伴わない信仰の実例が挙げられている。「着るものがなく、その日の食べ物にも事欠いている兄弟姉妹に対して、教会員の一人は言った『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』。しかし、彼はその兄弟に着物も食べ物も与えなかった」(2:15-16)。ヤコブは私たちを責める「キリストがそうするように教えて下さったのか。そうではあるまい。行いを伴わない信仰はそれだけでは死んだ信仰だ」。今回のハリケーンも当初から被害が予測され、避難勧告が出ていた。避難できる人は車や飛行機で避難した。避難する手段を持たない人には「非難しなさい」と言う言葉だけで、何の手段も提供されなかった。ヤコブ書の言う「言うだけで何も助けない」状況が被害を拡大した。この状況を私たちは気づいている。気づいているが見ようとしない、見たくないからだ。ヤコブ書は実に不愉快な方法で、「あなたは本当にクリスチャンか、あなたは隣人を愛しているのか」と迫ってくる。

・ヤコブ書は不愉快な手紙だ。しかし、神は私たちにヤコブ書を読めと命じられる。そして読み続けたとき、神はヤコブ書を通して真理を教えて下さる。2:8の言葉がそうだ「隣人を自分のように愛しなさい。これこそが最も尊い律法なのです」。イエスはどの戒めが最も大事かとの律法学者の問いに答えて言われた「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』。律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22:37-40)。ヤコブは福音書とは別の方法で教えを説く。しかし、その教えは福音=良い知らせだ。そして最も大事な福音として「自分を愛するように隣人を愛しなさい」と述べている。

2.自分を愛するように隣人を愛しなさい

・今日の招詞にルカ10:36-37を選んだ。有名な「良きサマリヤ人」の例えの一節だ。次のような言葉である。「『さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか』。律法の専門家は言った『その人を助けた人です』。そこで、イエスは言われた『行って、あなたも同じようにしなさい』」。この言葉は律法学者との問答の中で言われている。

・律法学者はイエスに問う「何をしたら永遠の命を受け継ぐことが出来るのでしょうか」。イエスは「神を愛し、また隣人を自分のように愛しなさい」と答えられた。律法学者は更に問う「私の隣人とは誰ですか」。それに対してイエスは「良きサマリヤ人の例え」を話される。追いはぎに襲われ、半殺しにされた旅人がいた。祭司が通りかかったが、係わり合いに為るのを恐れて、避けて行った。次にレビ人が来たが、同じように反対側を通って行った。三番目に来たサマリヤ人は、旅人を見てかわいそうに思い、自分のろばに乗せて宿屋まで運んでいった。この例えを話された後、イエスは律法学者に問われた「あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法学者は「誰が私の隣人ですか」と訊ねた。彼は答えを知っている、自分の同胞、仲間こそが隣人だ。しかし今彼は追い詰められている。仲間である祭司もレビ人も同胞である旅人を見捨てた。彼らは隣人ではなかった。助けたのは異邦人のサマリヤ人だった。彼は答える「その人を助けた人です」。

・律法学者は「誰が隣人ですか」と尋ねた。それに対してイエスは「誰がその人の隣人になったのか」と尋ね返された。あなたは、同胞こそ隣人であると思いこんでいた。しかし、あなたの同胞は仲間を見捨て、隣人にならなかった。「私の隣人とは誰か」を問うとき、あなたは失望する。人間に期待をかけているからだ。「誰が隣人となるのか」を問い始めた時、あなたは神の御言葉を聞く「あなたが隣人になりなさい」。イエスはここで、教えを聞くだけでなく、実行することを求めておられる。

・「良きサマリヤ人の例え」と「ヤコブ2章の教え」は同じことを教える。律法学者は自分の同胞こそ隣人だと思っていた。同胞が隣人であるとは、同胞ではない異邦人は隣人ではないと言うことだ。ナチスがユダヤ人を迫害し始めた時、ドイツ人の多くは、ユダヤ人は自分の同胞ではないとして、見て見ぬふりをした。教会にホームレスの人が入ってきた時、彼は私の兄弟ではないから私たちは眉をひそめる。これがヤコブ書の言う「人を分け隔てする」行為だ。道を通りかかった祭司やレビ人も、追いはぎに襲われて倒れている人を見てかわいそうだと思っただろう。しかし、係わり合いになりたくないとして行き過ぎた。私たちが電車を待っている時、人身事故で電車が遅れると言うアナウンスを聴く。人身事故の大半は飛び込み自殺だ。私たちは同情しても迷惑だと思うだけだ。これは「着るものがなく食べるものもない人に、温まりなさい、食べなさいと言うだけで何もしない」というヤコブが指摘する人たちと同じ行為、行いのない信仰ではないだろうか。

・多くの人は何もしないが、する人たちがいる。「いのちの電話」という組織は自殺予防のための電話相談を行っている団体だが、元々はイギリスの「Good Samaritan」(良きサマリヤ人)という教会から始まった運動に起源を持つ。「行ってあなたも同じようにしなさい」と言うイエスの言葉に従おうとした人々だ。ナチスのユダヤ人迫害に対しても、多くの人が救済のために立ち上がった。アンネの日記で有名なフランク一家に住まいと食べ物を供給したのは普通のオランダ市民だった。生命の危険を冒してまで、ユダヤ人をかくまった多くの人がいた。「自分を愛するようにあなたの隣人を愛しなさい」というイエスの教えに従った普通の人々だ。

・私たちは隣人なしには生きていけない。だから私たちは教会に来る。一人では、いただいた貴重な信仰を維持できない事を知っているからだ。教会では私たちは兄弟姉妹に出会う。その人を隣人にするか、しないかは、私たちに委ねられている。教会の外にも多くの兄弟姉妹がいる。「あなたがその人の隣人になりなさい」。多くの人と関りを持つことによって私たちの人生は豊かになる。「あなたの周りに、あなたからの助けを、あなたからの親切な一言を待っている実に大勢の人がいるではないか。その人たちこそ、私からのプレゼントだ。彼らと友達になりなさい。彼らと関係を持ちなさい。助けられた旅人はサマリヤ人に感謝する。彼は隣人になることによって一人の友を得たのだ。その人こそ、あなたの人生を豊かにする人々だ」と神は招いておられるのだ。


カテゴリー: - admin @ 20時33分28秒

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