すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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11 04

1.死を忘れるな

・今日、私たちは召天者記念礼拝を行います。私たちの教会では11月第一主日に召天者を覚える礼拝を行いますが、これは教会の暦で11月第一日曜日が「聖徒の日(死者の日)」、亡くなった信徒たちのために祈る日にしていることを覚えてのことです。死者の日は、元々はケルトのお盆(ハローウィン、秋の終わり・冬の始まりの収穫祭)に死者の霊が家族を訪ねてくる風習を教会が取り入れたものと言われています。私たちの教会ではこの日に召された方々のお名前をお呼びし、死の意味を共に考えていきます。今日は詩篇90編を通して死と生の問題について御言葉を聴いていきます。
・詩篇90編がまず私たちに語ることは「死を忘れるな」と言うことです。5-6節は語ります「あなたは眠りの中に人を漂わせ、朝が来れば、人は草のように移ろいます。朝が来れば花を咲かせ、やがて移ろい、夕べにはしおれ、枯れて行きます」。朝は咲いていた花も夕には枯れます。人の一生もそのようなものだと詩人は歌います。人は誕生し、少年期、青年期を経て壮年期に至ります。生きているうちに何事かを為したいと思い、学び・働き・結婚し、家族を形成します。幸運に恵まれ、一代で財を成す人もいれば、多くの家族に恵まれる人もいます。健康に恵まれた人は70代、80代まで生きることが出来ます。しかし、振り返ってみれば、その人生は労苦と災いだと詩人は歌います。「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(90:10)。
・詩編が歌われた3000年前の平均寿命は30年、40年だったでしょう。その当時、70年、80年生きることの出来る人はまれであった。ただその幸運を生きた長生きの人でも、振り返ってみれば、一瞬の人生であると詩人は歌います。現在の私たちは当時の人がうらやむほどの長寿を生きることが出来ます。しかしいくら長寿になっても少しも幸せとは思えない。神を見失った、神が共におられないからです。詩人は歌います「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください」(90:14)。
・私たちは生まれ、死んでいきます。人生とは誕生と死の間にあるひと時の時です。多くの人は自分がこの限界の中にあることを認めようとしません。だから近親者の死に直面する時、私たちは「死んではならないはずのものが死んだ」という矛盾の中で苦しみます。聖書は「私たちは死という限界の中にあることを覚えよ」と求めます。それが12節の言葉です「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」。詩人は、生涯の日を正しく数える、死ななければならない存在であることを受け入れることが出来ますようにと神に求めています。
・私たちは自分が死ぬ存在である、人生が死によって限界付けられていることを認めようとしない存在です。パスカルは語りました「人間は死と悲惨を癒やすことが出来ないので、自分を幸福にするためにそれらを考えないようにした」。別な人は語ります「私たちは死の前に衝立を置いて、そのこちら側で営まれている生活を幸福な生活とよんでいる。本当の幸福はそのような貧弱な幸福ではないではないか」。私たちはいつも死を他人事ととらえます。死とは身内の死、親族の死、友人知己の死であり、自分の死ではありません。死が他人事である限り、私たちは死について考えようとしない。死について考えないとは現在の生についても考えないことです。聖書は私たちに求めます「あなたは死ぬ。死ぬからこそ、現在をどう生きるかを求めよ」。

2.死を考えまいとする私たち

・私たちは死を考えまい、あるいは忘れようとします。その試みの一つが「魂の不死、あるいは霊魂の不滅」という信仰です。人は死ぬがそれは肉体が滅びるのであって霊は滅びない、霊は肉体の死を超えて生きる。古代以来多くの人々がそう信じてきました。プラトン、アリストテレスから始まり、カントに至るまでそうです。教会に来ているクリスチャンの大半も実は信じているのは復活ではなく、霊魂の不死ではないかと思えます。母親は死んだ夫について子どもたちに教えます「お父さんは今天からお前を見守ってくれている」。私たちも墓参りに行き、死者に呼びかけます「来ました」。心情的には理解できますが、この信仰は聖書の信仰ではありません。
・二番目は現在の生の肯定を通して、死から逃れようとする考え方です。私はまだ死んでいない、今しばらくは死なないだろう、生きているうちに充実した生を楽しみたいと世の多くの人は考えます。パウロはそのような生き方は空しいと語ります「「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(第一コリント15:32)。このような生き方を私たちは「良し」とするのか。しかし、このような生き方、死を考えまいとするいき方はいつか破綻します。死は必ず訪れるからです。
・聖書は、人間の真の生き方は、死を忘れないこと、自分の限界を知ることだと述べます。有限性を知ることは自分が被造物に過ぎない、死に対する決定権が自分にはないことを認めることです。そこから創造者である神を思う心が生まれます。死をおそれずに死と向き合う唯一の道は、命の創造者である神を覚えること、だから詩人は歌います「主よ、あなたは代々に私たちの宿るところ。山々が生まれる前から、大地が、人の世が、生み出される前から、世々とこしえに、あなたは神」(90:1-2)。
・私たちは神に創造されました。それにもかかわらず私たちは死にます。それは何故か、罪の咎として死が与えられたと詩人は語ります。7-9節「あなたの怒りに私たちは絶え入り、あなたの憤りに恐れます。あなたは私たちの罪を御前に、隠れた罪を御顔の光の中に置かれます。私たちの生涯は御怒りに消え去り、人生はため息のように消えうせます」。罪の結果として、神の怒りとして、死があるとすれば、死から解放される道は神による罪の赦ししかありません。だから詩人は祈ります「主よ、帰って来てください。いつまで捨てておかれるのですか。あなたの僕らを力づけてください」(90:13)。詩人は神が正義の神である故に罪びとに死が与えられることを知ります。同時に神は憐れみの神であり、人が求める時、恵んでくださる方であることを信じます。故に願います「朝にはあなたの慈しみに満ち足らせ、生涯、喜び歌い、喜び祝わせてください。あなたが私たちを苦しめられた日々と、苦難に遭わされた年月を思って、私たちに喜びを返してください」(90:14-15)。

3.死を恐れるな

・今日の招詞にヨハネ11:25-26を選びました。次のような言葉です「イエスは言われた『私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか』」。ラザロが死んで4日目にイエスはベタニヤ村に来られ、兄弟の死を悲しむマルタに言われました「あなたの兄弟は復活する」(ヨハネ1:23)。マルタは答えます「終わりの日の復活の時に復活することは存じております」。マルタが信じているのは霊魂の不滅であり、今ここでのラザロのよみがえりではありません。そのマルタにイエスは言われます「私は復活であり、命である。私を信じる者は、死んでも生きる。生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」。神は死者を生き返らせることが出来る。死んだラザロを今よみがえらせることが出来る。その神の力、神の憐れみを信じるか。マルタは信じることが出来ません。イエスはマルタのためにラザロを墓から呼び出され、ラザロは再び生きるものとなりました。神の憐れみがイエスを通して示されました。
・死んだ後どうなるのか、誰にもわかりません。神を信じる者にもわかりません。ただわかることはイエスが死んで復活されたこと、イエスが今も生きておられることの二点です。イエスによって死が乗り越えられた故に、私たちはイエスが復活されたように、信仰者に復活の約束が与えられていることに希望を置きます。イエスの復活を信じる時、信仰者は今ここで永遠の命の中に入ります。永遠の命とは、死んで天国に行くことではなく、今、死から解放されることです。神を信じる者は、水のバプテスマを受けます。バプテスマは水に入り、水から引き出される行為です。水に入りイエスと共に復活の命に生きる。パウロの語る通り、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」(第一コリント15:54-55)。だから私たちは死を悼みません。死とは終わりではなく、新しい命の出発だからです。
・信仰を持たない人々にとって、「死は嘆き悲しむ出来事」であり、「死は受入れるしかない」出来事です。パウロ時代の手紙は書きます「死に対して私たちが出来ることはありません。だからあなたたちはお互いに慰めあって下さい」(NTD新約注解・パウロ小書簡P442)。これは現代においても同じです。多くの日本人は死を全ての終わりと考えています。しかし、パウロは言います「イエスが死んで復活されたと私たちは信じています。神は同じように、イエスを信じて眠りについた人たちをも、イエスと一緒に導き出してくださいます」(第一テサロニケ4:14)。キリストが復活されたのであれば、キリストを信じて死んだ兄弟もまた復活するとパウロは語ります。世の若者たちは死ぬことを考えないし、老人たちは自分たちの時代はもう終わったとして人生を諦めます。それに対して私たちは、若いうちから死を覚えて現在を誠実に生き、歳をとればこの世での残された日々を大切に生き、死ねば天に召される生き方に召されています。「死を忘れるな」、そして「死を恐れるな」。これが聖書の語るメッセージです。


カテゴリー: - admin @ 08時04分24秒

10 28

1.ダビデの犯した悪

・詩篇51編は罪の悔い改めと赦しを求める詩として有名です。人々はダビデ王が罪を犯し、預言者ナタンがそれをとがめた時に、ダビデが悔い改めた言葉として、この詩を唱和してきました。それが表題の「ダビデの詩、ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来た時」(51:1-2)という解説です。ダビデの犯した罪については、サムエル記下11-12章に詳しく書かれていますので、最初に物語を見て行きます。当時、イスラエルはダビデ王の下に統一され、王国として栄え始めていました。ダビデは近隣諸国を征服し、領土を拡大していきます。ダビデは得意の絶頂期にありました。そのダビデがある日の夕暮れ、王宮の屋上から湯浴みする一人の婦人を見ます。彼女は兵士ウリヤの妻バテシバで、「女は大層美しかった」とサムエル記は記します。夫ウリヤはアンモン人との戦いのために出征し、不在でした。ダビデは婦人を王宮に呼び、彼女と寝て、その結果バテシバは妊娠します。
・バテシバの妊娠に困惑したダビデは、夫ウリヤを前線から呼び戻し、妻と寝させることによって自分の犯した悪をごまかそうとしますが、ウリヤは前線の将兵が戦いの中にある時、自分一人、家で妻と寝るわけには行かないと断ります。ダビデの目論見は失敗し、彼は自分の犯した悪をごまかすために、上司である将軍ヨアブに手紙を持たせ、ウリヤを最前線に立たせて死なせるように命じ、ウリヤは死にます。「罪は罪を生む」、姦淫が殺人にまで発展したのです。バテシバはやもめとなり、ダビデはバテシバを妻として宮殿に迎え入れ、彼女は男の子を生みます。
・サムエル記はこの事実を淡々と述べた後、最期に記します「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(サムエル下11:27)。他の国では王が臣下の妻を奪ったとしてもさしたる罪ではないかもしれませんが、イスラエルにおいてはその罪は放置されません。王は神の委託下にあるからです。「主はナタンをダビデのもとに遣わされた」(同12:1)。ダビデの前に現れたナタンはダビデに一つの物語を語ります(同12:1-4)。「多くの羊や牛を持つ豊かな男が自分の羊をつぶすのを惜しみ、一匹の羊しか持たない男の羊を取り上げ、それを客に出した」。ダビデは叫びます「そのような無慈悲なことをした男は死罪にされるべきだ」。ナタンは断言します「その男はあなただ」(同12:7)。ナタンは主の言葉を続けます「あなたをイスラエルの王にしたのは私であり、あなたを恵んできたのも私である。それなのに何故、ウリヤの妻を欲してウリヤを殺すような悪を為したのか」(同12:7-10)。この言葉にダビデは頭をたれ、告白します「私は主に罪を犯しました」(同12:13)。

2.ダビデの物語として詩編51篇を読む

・ダビデの悔い改めの言葉を受けて詩編51篇が始まります。「神よ、私を憐れんで下さい、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐって下さい。私の咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51:3-4)。ダビデは神に背き、罪を犯しました。その結果平安は彼から去りました。罪は赦されなければ消えません。だから彼は神に罪を洗い清めて下さるように祈ります。「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです」(51:5-7)。
・ダビデはウリヤの妻を横取りし、夫ウリヤを謀殺しました。罪は一義的には人に犯した罪です。しかし、それは突き詰めると神に逆らう行為です。神という絶対的な存在が無い時、本当の罪意識は生まれません。神がいない時、人はわからなければ何をしても良いと思う存在です。ダビデは罪の結果の子が生まれるまで、1年余りも平気で暮らしていました。人は、「その男はあなただ」と告発されなければ、自分の罪が見えないのです。罪を告発されたダビデは、その罪が生まれ落ちた時からあったことを自覚します。ここでは単に「ウリヤを殺すという罪を犯した」ことだけではなく、これまでに犯した様々な罪が詩人を圧倒し、「自分の存在それ自体が罪人である」と告白しているのです。
・「存在そのものが罪」である時、その罪は自分の力では洗い流すことはできません。いくらヒソプ(石鹸)で洗っても落ちません。だから神に罪を洗い流して下さるように祈ります「ヒソプの枝で私の罪を払ってください、私が清くなるように。私を洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください」(51:9-11)。罪の清めとは単に処罰が赦されることでは済まず、古き自己が葬られ、新たな自己に生かされなければ救済はありません。ですからダビデは主に願います「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください」(51:12-14)。
・「私を変えて下さい。私自身が問題なのです」とダビデは血の汗を流しながら祈っています。罪からの清め、救いとは人格を変える出来事なのです。人格を変える出来事を経験した者は他者のために祈り始めます。「私はあなたの道を教えます、あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います」(51:15-17)。
・そして中核の言葉が祈られます「もし生贄があなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求める生贄は打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(51:18-19)。罪の赦しは悔い改めの結果与えられるものであり、それは神殿に犠牲の動物を捧げることによって赦されるようなものではありません。私たちが捧げるべき生贄は「砕かれた霊」であり、主は「砕かれた悔いる心」を受け入れて下さる、それを信じてダビデは祈りを捧げました。
・詩篇編集者はこの詩に「ダビデの歌」との表題を付けましたが、内容的にはダビデ時代のものであるよりも、捕囚期以後の詩である可能性が高いといわれます。しかし、旧約の人々も新約の人々もこの詩をダビデの詩として親しんできました。その理由を高橋三郎氏は「イスラエルはその王なるダビデの醜悪な罪をこの詩を唱和する毎に想起し、打ちのめされた罪人の告白の中にこそ、信仰による生の原点を見出した」と表現します(高橋三郎「エロヒーム歌集」)。人々はダビデを慕いました。それはダビデがイスラエルを繁栄に導いた王であるからではなく、王であるにも関わらず、自らの罪を認め、神の前に悔い改めたからです。人は罪を犯さないから偉大なのではありません。「罪を心から悔いることのできる人」が偉大なのです。

3.私たちの物語として詩編51篇を読む

・詩編51編は、いろいろなことを私たちに示します。ダビデは王でした。権力者が悪を犯しても世間は何も言いません。しかし、人の目に隠れていることも神は明らかにされます。神はダビデの罪を公衆の前にさらけ出されました。権力者であれば、ダビデがするようなことは誰でもするでしょう。それにもかかわらず、ダビデは裁かれなければなりません。このバテシバを通じてソロモンが生まれ、このダビデ-ソロモンの系図からイエス・キリストが生まれたことをマタイ福音書は記します。「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ・・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:1-16)。マタイはあえて「ウリヤの妻によってソロモンが生まれた」と記します。それはキリストの系図もまた、汚れていたことを示すためです。人間は罪の中に生まれ、その罪を背負って生きる存在であり、その人間の罪を背負うためにキリストは来られたことを示すためです。私たちの系図も罪で汚れています。誰も知らない罪、隠しておきたい出来事、神は全てをご存知であり、それを承知の上で私たちを招かれています。
・今日の招詞にヨハネ8:11を選びました。次のような言葉です「女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。姦淫の罪を犯した女性にイエスが言われた言葉です。イエスのもとに、人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて、言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」。それに対してイエスは言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(ヨハネ8:7-8)。イエスの答えを聞いた者は「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(同8:9)。自らを「罪なし」と言える者は一人も居なかったのです。イエスは身を起して女に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」イエスはそれ以上、咎めようとせず女を赦されました。
・この女性はマグダラのマリアではないかと言われています。イエスが十字架にかけられた時、ゴルゴタの丘まで付き従い、イエスが葬られた後は、その墓に行き、復活のイエスに最初に出会った女性です。マグダラのマリアは、イエスの慈しみと、赦しにより新しく生まれ変わったのです。女を石打ちから守った温かい抱擁力、悔い改めを待つ忍耐、おおらかな罪の赦し、これらは全て主の慈しみ(ヘセド)からくるものです。神を信じる人とそうでない人は何が違うのでしょうか。共に罪を犯します。キリスト者は罪を犯した時、それを神に指摘され、裁かれ、苦しみます。その苦しみを通して神の憐れみ(ヘセド)が与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。「罪を犯した」と認めることが出来ないため、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから、償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きです。「私は罪を犯した」と悔改めた時、神の祝福が始まることを聖書は繰り返し、私たちに伝えます。


カテゴリー: - admin @ 08時00分29秒

10 21

1. 神の都をたたえる歌

・詩編46編は「神はわれらの避け所また力、悩める時のいと近き助け」と歌い、多くの讃美歌の題材にもなってきました。宗教改革者マルチン・ルターは、この詩編をもとに新生讃美歌538番「神はわがやぐら」を書いたといわれています。ルターは歌います「神はわがやぐら、わが強き盾、苦しめる時の、近き助けぞ」と。詩編46編の主題は万軍の主に対する信頼です。8節、12節に「万軍の主は私たちと共にいます。ヤコブの神は私たちの砦の塔」と繰り返えされています。この世にいる限り私たちには苦難がありますが、神は私たちが受ける苦難をご存知であり、必ずそこにいて助けてくださると詩編46編は歌います。
・最初に詩人は、天地を支配される主をほめたたえます。主ご自身が「私たちの砦、避けどころ」であるがゆえに、大地や山々が揺れ動き、海が荒れ狂おうとも、私たちは恐れないと詩人は歌います。この避け所、ヘブル語マフセーはギリシャ語聖書ではエルピス(希望)と訳されています。「神こそ私たちの希望」と歌われているのです。「神は私たちの希望、私たちの砦。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる。私たちは決して恐れない」(46:2-3a)。「地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも」(46:3b-4)。「山々が揺らぎ」、「海の水が騒ぎ」、「山々が震える」、いずれも創造以前の原始の混沌(カオス)を意味する言葉です。主は原始の混沌を秩序(コスモス)に変えて、天地を創造されたと聖書は語ります。だから「山々が揺らぎ、海の水が騒ぎ、山々が震える」とも、「私たちは決して恐れない」と詩人は語ります。
・2011年3月11日に東日本に大きな地震と津波が起こり、2万人近い方が亡くなり、多くの人が問いました。「神が愛であるならば、何故このような地震や津波を起こし、何万人もの命を奪われたのか」。しかし冷静に振り返ると、東日本を襲った地震と津波は、北米大陸プレートが過去に相当の回数行って来た自然界のリズムによるものです。自然災害は身に引き受けるしかありません。しかし自然災害でありますから、「山々が揺らぎ、海の水が騒ぎ、山々が震える」とも、私たちは決して恐れる必要がありません。対処法を神が示してくださるからです。
・天地を支配される方は、また歴史をも支配される方です。国々がどのように武力を誇ろうとも、主の前においては何の意味もなく、主の御声で地の力は溶けさり、主は住まいである聖所、神の都シオンを守って下さると詩人は歌います。「大河とその流れは、神の都に喜びを与える、いと高き神のいます聖所に。神はその中にいまし、都は揺らぐことがない。夜明けとともに、神は助けをお与えになる。すべての民は騒ぎ、国々は揺らぐ。神が御声を出されると、地は溶け去る」(46:5-7)。現実のイスラエルは東のメソポタミヤ、西のエジプトの二大帝国の狭間の中で、常に独立が脅かされ、繰り返し占領され、支配されてきました。その中で詩人は「主が共におられる故に私たちは揺るがない。主は弓を砕き、槍を折り、盾を焼かれて、地の果てまでも戦いを終わらせる方だ」との信仰を表明します。詩人は歌います「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き、槍を折り、盾を焼き払われる」(46:9-10)。
・詩人は、「私たちはこの主に依り頼んで国の平和を守る」と宣言します。「力を捨てよ、知れ、私は神。国々にあがめられ、この地であがめられる」(46:11)。「私たちは主に依り頼んで国の平和を守る」、と詩編は歌いますが、私たちの国は「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」と歌います(日本国憲法前文)。詩編と憲法前文の違いは、詩編は「主に依り頼んで国の平和を守る」と語るのに対し、日本国憲法は「諸国民の公正と信義に信頼して国の平和を守る」とします。でも本当に「諸国民の公正と信義に信頼」できるのか、近隣のロシアや中国、北朝鮮をそんなに信頼できるのか。信頼できないからこそ、日本は自衛隊を持ち、アメリカと軍事同盟を結んで、アメリカの核の傘の下で、「国の平和を守ろう」としています。

2.神の都とは何か

・「主が共におられる故に私たちは揺るがない。主は弓を砕き、槍を折り、盾を焼かれて、地の果てまでも戦いを終わらせる方だ」の信仰の背景にあるのは、「神の都シオンは永遠である」というシオン神学があります。イザヤは「万軍の主の御座であるエルサレムは滅びない」と宣言し、国際情勢の変動に動揺する為政者に対して、「恐れるな、平静であれ」と説き、「大国に頼るな」と戒めました。アッシリアが攻めて来た時、イザヤの預言通り、エルサレムを包囲した敵軍が撤退し、エルサレムは守られたという歴史があります。「主の御使いが現れ、アッシリアの陣営で十八万五千人を撃った。朝早く起きてみると、彼らは皆死体となっていた。アッシリアの王センナケリブは、そこをたって帰って行き、ニネベに落ち着いた」(イザヤ37:36-37)。ペストが発生してアッシリア軍は大打撃を受け、退いたと言われています。ここからシオン神学が生まれました。エルサレムは神の都だから滅ぼされることはないと。
・それに対して後代の預言者エレミヤは、罪を犯した民を主は罰せられ、神はシオンでさえも捨てられると説きます。エレミヤの言葉を「聖なる都」に対する冒涜とした祭司たちは裁判でエレミヤの死刑を求め、シオンの不可侵性を守ろうとしましたが、エレミヤの預言通り、エルサレムは紀元前587年にバビロン軍に占領され、焼かれました。シオンは不可侵ではなかったのです。
・エルサレムが聖なる存在ではなく、神が聖なる方だと知った人々は、「争いを終わらせる主」を待望するようになります。ミカは歌います「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる。もろもろの民は大河のようにそこに向かい、多くの国々が来て言う『主の山に登り、ヤコブの神の家に行こう。主は私たちに道を示される。私たちはその道を歩もう』と・・・主は多くの民の争いを裁き、はるか遠くまでも、強い国々を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(ミカ4:1-3)。「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」、この言葉はニューヨークの国連ビルの土台石に刻まれている言葉として有名です。20世紀は戦争の世紀でした。第二次世界大戦が終わった時、人々はもう戦争は止めようとして国連を組織し、武器を捨てるという決意で土台石にこの言葉を刻み込んだのです。

3.新しい天と新しい地

・今日の招詞にヨハネ黙示録21:1-2を選びました。次のような言葉です「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更に私は、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た」。この世は悪の世であり、支配者は権力を振るい、逆らう者は殺されていく不条理があります。しかしいつまでも悪の支配は続かない。「主は地の果てまでも、戦いを絶ち、弓を砕き、槍を折、盾を焼き払われる」方だとの信仰は新約にも継承されました。
・ヨハネ黙示録は、紀元95年前後、ローマ皇帝ドミティアヌスの時代に書かれました。ドミティアヌスは帝国全土に自分の像を祀らせ、これを神として拝むことを強制し、従わない者は迫害しました。多くのキリスト教徒は、「皇帝は人であり、神として拝むことは出来ない」として拒否し、捕らえられ、殺されて行きました。著者ヨハネも不服従の罪でパトモス島に流されています。そのパトモス島でヨハネは幻を見ました。ヨハネは証言します「私はまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった」(21:1)。「最初の天と最初の地」とは、古い世界、この現実世界のことです。ローマ皇帝が力で世界を支配し、従わない者を殺し、迫害の中で教会は消え去ろうとしている世界です。しかし、神が創り給うた世界はいつまでも悪の支配するところではない、古い世界は「去って行く」、そこから獣が出てきた混沌の象徴である海も消えていくとヨハネは知らされました。ヨハネは「聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来た」(21:2)のを見ます。
・エルサレムは、エル(神)・サレム(平安)と呼ばれました。神の平安の都が、現実の歴史の中では、争いや流血の場となっていました。エルサレムはアッシリア、バビロニヤ、ギリシャ、ローマといった諸帝国に次々に占領され、破壊の歴史を経験してきました。ヨハネ時代のエルサレムも、ユダヤ戦争の結果、ローマに占領され、神殿も破壊されています。その流血の町エルサレムが清められ、天から新しいエルサレムが降りて来る様をヨハネは見ています。そのような日が来るとの希望でヨハネ黙示録は閉じられています。ヨハネの教会を迫害した皇帝ドミティアヌスは手紙が書かれた1年後の紀元96年に暗殺され、迫害は終りました。その意味でヨハネの預言は成就したのです。しかしその後も迫害は繰り返し起こりました。人々はヨハネ黙示録の記すキリスト再臨を待望しましたが、キリストは来ませんでした。そして終末の時も始まらず、2000年の時が流れました。この終末とキリストの再臨をどのように考えるべきかが、現代の教会に与えられた課題です。
・「死の谷を過ぎて〜クワイ河収容所」という記録の中で、著者アーネスト・ゴードンはイギリス軍の将校として、日本軍の捕虜となり、鉄道工事に従事し、「死の谷」の収容所生活を送りました。マラリヤ、ジフテリヤ、熱帯性潰瘍等の病気に次々に罹り、「死の家」に運び入れられ、人生を呪いながら命が終わる日を待っていた著者のもとに、キリスト者の友人たちが訪れ、食べずにとっておいた食物を食べさせ、膿を出して腐っている足の包帯を替え、体を拭く奉仕をします。彼らの献身的な看護によって、著者は次第に体力を回復し、彼らを動かしている信仰に触れて、無神論者だった彼が聖書を読み始めます。そこに彼が見出したのは「生きて働いておられる神」でした。彼は書きます「神は私たちを捨てていなかった。ここに愛がある。神は私たちと共におられた」(176P)。詩編46編が歌うように、「万軍の主は私たちと共にいます。神は私たちの砦の塔」であることを彼は実感したのです。
・病をいやされたゴードンは仲間たちと共に奉仕団を結成して病人の介護を行い、死にゆく仲間の枕元で聖書を読み、祈り、励まし、死を看取ります。やがて無気力だった収容所の仲間たちから笑い声が聞こえ、祈祷会が開かれようになり、賛美の歌声が聞こえてくるようになります。彼はその時、思います「エルサレムとは、神の国とは結局、ここの収容所のことではないか」(202P)。彼もヨハネと同じ「新しいエルサレム」の幻を見たのです。彼は最後に書きます「人間にとって良きおとずれとは、人がその苦悩を神に背負ってもらえるということである。人間が最も悲惨な、最も残酷な苦痛の体験をしている時、神は私たちと共におられた。神は苦痛を分け持って下さった。神は私たちを外へ導くために死の家の中に入ってこられた」(383P)。「万軍の主は私たちと共にいます。神は私たちの砦の塔」なのです。


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1.神の偉大と人間の卑小

・詩編の学びの二回目、今日は詩編8篇がテキストとして与えられました。詩編8篇はエルサレム神殿の前庭に集う夜の集会の会衆によって歌われた讃美の歌です。最初に会衆が合唱します「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」(8:2a)。それにこたえて独唱者が進み出て歌い始めます「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」(8:4)。最後に会衆が再び合唱します「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」(8:10)。
・詩人の信仰体験が会衆讃美を通して礼拝共同体全体のものとなっています。詩人は夜空に果てしなく広がる月や星を見て、この無限の宇宙を創造された神に驚嘆し、その偉大さを讃美しています。現代の私たちは自然の壮大さに驚くことを忘れてしまいました。都会で夜空を見上げても、見える星はわずかです。しかし、人里離れた場所に行けば様相は一変します。私はオーストラリアの砂漠で夜空を見上げた時の感動を忘れることができません。まさに足元から星空が広がっている光景を見て、宇宙の広大さを思わずには居られませんでした。
・詩人は同じ光景を見ています。彼は夜空に広がる満天の星を見て、その宇宙のかなたに創造の神がいまし、天と地を支配しておられることを全身で感じたのです。だから詩人は歌います「天に輝くあなたの威光をたたえます」(8:2)。天には神の創造の業が力強く刻印されています。人は果てしなく広がる天空を見る時、宇宙の悠久無限に想いを馳せます。だから詩人は歌います「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」(8:4)。古代の人々は太陽や月を神として拝みましたが、イスラエルの民はこの偶像崇拝から自由です。月も星も被造物に過ぎないと歌います。
・その無限大の宇宙の前にたたずむ時、人は自分があまりにも小さな存在であることを痛感します。彼は歌います「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(8: 5)。「人間は何ものなのでしょう」、人間と訳されている言葉は「エノシュ」、人間の弱さを示します。人間は有限であり、やがては死すべき存在にすぎません。「人の子」、ベン・アダム、アダムの子、アダムは土(アダマ)から来ますから、塵の子と訳すべきでしょうか。人間は塵によって造られた卑小な存在に過ぎないことを詩人は認識しています。一人の人間の生涯は70年、あるいは80年です。それは決して短くはない。しかし人類の数百万年という長い歴史の中で見た時、その生涯は一瞬です。詩編90編は歌います「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(詩編90:10)。
・そして別の詩編詩人も歌います「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる」(詩編103:15-16)。私たちはやがて死に、私たちが生きてきた痕跡も消えてしまいます。それなのに私たちはこの地上で、「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩み(マタイ6:25)、瞬く間に過ぎゆく富や地位に目を奪われ、反目し、嫉妬し、恨み、争って、その生涯を終えます。神の造られた自然がこんなにも美しく、雄大であるのに、人の世は何故こんなにも騒々しく、醜いのか、詩人は満天の星の輝く夜空を前にして思います。
・しかし詩人はただ人間の卑小さだけに注意を奪われているのではありません。その無に等しい者に目を留め、顧みて下さる方に思いを馳せます。彼は歌います「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(8:6-7)。「無に等しい人間が神の似姿に創造された」、そして「万物の支配をその人間が委ねられた」、詩人はそのことを驚き、感謝しています。この言葉の背景には創造信仰があります。創世記は記します「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(創世記1:26)。

2.人を二重の視点で見る

・人は塵で造られた故に塵に帰る、はかない存在です。しかしそのはかない存在に神は天地万物を治める権能を与えることによって、神とつながる存在にして下さったと詩人は歌います。ここに人間の持つ二重性が見事に描かれています。すなわち、人は貧しく無に等しい存在ですが、神はその人間に尊厳を与えて下さった。人は卑しいけれども、同時に尊い存在であるという視点です。「卑しくかつ尊い」、その人間の両面性を正しく認識しない時に、人は過ちを犯します。自分が「尊い存在である」ことを忘れた時、人は虚無の世界に引き込まれ、自分なんかいなくとも良い、自分は誰にも必要とされていない、そう思い込んで自殺します。しかし聖書は「あなたは「神に僅かに劣るものとして造られ、栄光と威光を冠としていただいている」存在だと語ります。
・他方、自分が「限界を持つ存在」であることを忘れた時、人は傲慢になります。今や人間は高度に発達した科学技術によって宇宙の神秘にメスを入れ、遺伝子操作を用いて生命でさえも操作できると考えるようになりました。しかし技術の進歩は人を殺す大量殺戮武器の開発にも向けられ、人はこの美しい地球を何回でも破壊できるほどの核弾頭を抱えて、さまよっています。その人々に詩人は幼子を見よと言います「神は幼子、乳飲み子の口によって、あなたは刃向かう者に向かって砦を築き、報復する敵を絶ち滅ぼされます」(8:3)。幼子は自分では何もできないことを知るゆえに親を信じ、親に自らの生存を委ねます。詩人は自分が「限界を持つ存在」であることを忘れた人に、「幼子の生き方を見よ」と言っているのです。

3.命の息を吹き込まれた存在としての人間

・詩篇8篇の背景には創世記の人間理解があります。今日の招詞に創世記2:7を選びました。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人は土(アダマ)の塵で創られたから、人は(アダム)と呼ばれたと創世記は言います。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような、つまらない存在であることを示します。その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれた。神の息が吹き込まれた故に、人は生きる者になった。人の人たるはその肉にあるのではなく、神が吹き込まれた息(ルーアハ)、すなわち霊が与えられているためです。この霊こそ神の賜物であり、神の霊なしには人は動物にすぎないのです。
・「神を信じないならば人は動物にすぎない、神を信じてこそ人は人たりうる」と聖書は言います。人間の歴史は戦争の歴史、殺しあいの歴史です。私たちは人と人が殺し合い、国と国が争う歴史を形成してきました。動物は決して無用な殺戮は行いませんし、同族同士の殺し合いはしない。社会学的に見れば人間は動物以下の存在です。神の息、霊を失ったゆえです。神を知らない人間は本当の意味での平和を形成できません。人間の平和とは「争いのない」状態であり、誰かの武力に他の人が対抗できない時に争いのない状態=平和が生まれます。「ローマの平和=パックス・ロマーナ」は、ローマ帝国の軍事力を背景に生まれ、帝国が衰退すると各地の民族が反乱を繰り返し、その平和は崩れていきました。現代の平和=パックス・アメリカーナも同じで、アメリカの国力の衰退と共に平和は崩れてきます。この世の平和は軍事力の脅しによって生まれる、偽りの平和です。そのような平和は聖書の語る平和(シャローム)ではない。本当の平和は、人が己の限界を知り、神の霊を受けているゆえに生かされていることを知った時に来ます。
・それは国だけではなく、個人生活においても同じです。私たちが神を知らない時、私たちの人生は偶然にもてあそばされる人生です。たとえ、現在が幸福だとしても、それは偶然のなせる業であり、外部の環境が変われば、すぐに不幸になります。しかし、私たちが神によって生かされていることを知った時、私たちの人生は偶然ではなく、必然になります。私たちに災いが起こっても、その災いは必然のもの、神がその災いを通して私たちを導こうとしておられることを信じる時、災いの意味が変わってきます。この神の導き、神の霊によって生かされる生き方こそ本来のものなのだと聖書は語ります。悔い改めるとは、この本来の状態、神が霊を吹き込まれた最初の状態に立ち返ることであり、そのしるしとして、私たちはバプテスマを受け、神の霊を再び受けます。その時、私たちの人生は外部環境の変化によって翻弄される偶然の人生ではなく、外部環境がどうあっても心は平安である必然の人生に変えられていきます。
・人は塵だから塵に帰ります。神を知る者は、「自分がいかに卑小か」を知る故に、驕り高ぶることをしません。その人間に神は万物の支配を委託されました。神に出会うことによって、人生の意味が違ってきます。病の人は病のままに、貧乏な人は貧乏なままに、祝福を受けるからです。神を知ることによって、私たちは「運命に翻弄される人生」から、「神に生かされる人生」へと解放されます。詩編8篇は私たちにそのことを告げています。「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう」(8:5)と歌った詩人が、「あなた・・・は神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(8:6-7)と賛美することができました。この詩編に出会えたことを感謝します。


カテゴリー: - admin @ 08時08分58秒

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1.詩編全体に対する序詞としての第1篇

・私たちは今日から1カ月間、説教で詩編を学んでいきます。詩編150篇の中にはいろいろな詩があります。神を讃美し感謝する詩もあれば、苦難の中で救済を求める詩もあります。今日学びます詩編第一篇は詩編全体を統合する始まりの詩篇です。詩篇1篇の特徴の一つは「幸いなるかな」という祝福で始まっていることです。第二に、この詩では旧約聖書の代表的な考え方、「神を愛する者は報われ、神に逆らう者は滅びる」(1:6)という因果応報が歌われています。
・詩編第一篇は「いかに幸いなことか」という言葉で始まります。詩人は歌います「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座ら(ない者)」(1:1)。「神に逆らう者」、へブル語レシャイーム、邪悪な者、悪事を働く者の意味です。彼らは驕り高ぶり、寡婦、孤児、寄留者を虐げます。今日でいえばヘイト・スピーチを繰り返す人々です。「罪ある者(ハッタイーム)」とは、的を外す者、神の方を向かない者を指します。偉い人に忖度し、公文書さえも書き換える人々です。「傲慢な者(レツイーム)」とは嘲る者、高慢な者を言います。悪を犯しても「知らぬ、存ぜぬ」で悔い改めない人々です。詩人は「悪を働かず、神にそむくことがなく、高慢でない者」義人(正しい人)は幸いだと語ります。それを言い換えたのが2節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(1:2)です。主の教えとはトーラー(戒め、律法)ですが、それを毎日唱和し、守る人は幸いだと言われています。
・詩人は続けます「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば、実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(1:3)。主の教えに従う者の生活は「流れのほとりに植えられた木」のようであり、彼は豊かな水(御言葉)に養われて、多くの実を結ぶと祝福されています。詩編1篇の作者は詩編全体の編集者であり、彼は詩編の中に「悪しき者が栄え、正しい者が虐げられる」ことを訴えた詩が数多くあることを知っています。次の二編を見ると「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と彼らは言う(2:1-3)。その現実を知った上でなお、「神を愛する人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と詩人は断定します。「正しい者が虐げられ、悪が栄える」現実があっても、「悪の企てに加担しない者こそ幸い」だと歌い上げているのです。
・詩人は律法を守らない人、主の教えに逆らう者は災いだと続けます「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされる籾殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」(1:5)。穀物は収穫が終わると実をたたいて実と殻に分離し、空中に放り投げられます。その時、中身のないもみ殻は風に飛ばされ、重さを持つ実だけが再び容器の中に戻されます。悪しき者は、たとえ一時的に隆盛を誇るように見えても、内容のない空疎な存在として、あらゆる方向に吹き飛ばされる。それ故、悪人は「神の裁きに堪え得ない」(1:5)と詩人は歌います。悪しき者、神に逆らう者は終末の審判で滅ぼされる。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」(1:6)。邪悪な者の道が栄え、正しい者が虐げられるという現実があったとしても、それは一時的であり、「世界を支配される神はその悪を糺される、悪がいつまでも栄えることはない」とその信仰を歌います。

2.詩篇には救済の力はない

・詩編第一篇は義人を水辺の樹木に、罪人を風に吹き飛ばされるもみ殻にたとえて、両者の人生が対照的であることを印象付けます。第一篇の中心的な思想は因果応報です。因果応報とは行為の善悪と人生の幸不幸を関連付ける考え方です。「善は報われ、悪は滅びる」、「人は自分の蒔いたものを刈り取る」、「頑張った人は報われる」、そうであって欲しいという願いを込めて、現代社会もまた因果応報を考え方の基礎にしています。旧約学者の月本昭男氏は、詩篇釈義の中で述べます「何が悪で何が善かは相対的であり、立場を変えれば、善が悪に、悪が善になりえます。また何が本当の幸福か、誰も知りません。このような中で、善と悪、幸と不幸を二分化して固定する応報的世界観の下では、応報原理があらゆる人生の出来事に当てはめられ、悪人が悪ゆえに栄え、善人が善ゆえに滅びる現実社会の不条理は無視されてしまいます。その結果、ヨブのように災難に見舞われた者は神に罰された者として断罪されることになります。因果応報論は、時には因果関連を世代間に広げ、あるいは死後の世界へと延長して、人生の不条理を安易に合理化し、社会のゆがみや矛盾を正当化するようになります」(詩篇の信仰と思想より)。
・詩人は、義人の生涯は邪悪な者の生涯よりも幸福だと見ているわけではありません。そうではない現実があることを見つめながら、それでも悪に加担しない、正義を求めていく生き方こそ、幸いだと歌うのです。しかし、この詩は限界を持っています。詩人は人を義人と罪人に分け、対立させていますが、どこに完全な人、義人がいるでしょうか。「善を行う者はいない。一人もいない」(詩編14:3)という叫びは真実です。人は心の中に重い闇(原罪)を抱えています。パウロは叫びます「私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:23-24)。詩編1篇は偉大な詩ですが、そこにあるのは因果応報であり、基本的な考え方は利害得失です。利害得失はこの世の生き方ですが、私たちを滅びから救う力はありません。

3.詩篇1編を祝福に変えられるイエス

・今日の招詞にマタイ5:3‐5を選びました。次のような言葉です「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。山上の祝福の冒頭の言葉です。詩編1篇は「幸いだ」と言う言葉で始まります。「幸いだ」(ヘブル語アシュレイ)はギリシャ語訳聖書(70人訳)では「マカリオス」と訳されました。この「マカリオス」が、「山上の祝福」の冒頭の言葉です。原文では「幸いだ、貧しい者たち。神の国は彼等のものだ」とあります。他方、詩篇1:1は「幸いだ、神に逆らう者の計らいに従って歩まない者は」と語ります。両者の構成は同じです。イエスはガリラヤ湖のほとりで、詩編1篇を想起しながら、山上の祝福を述べられているのです。そして目の前にいる人々に「あなた方は貧しいゆえに幸いだ」と言われています。
・何時の時代でも人々は幸福を求めます。イエスの下に集まってきた人々も幸福を求めていました。ある者は、長い間病気で苦しみ、別の人は食べるものもない貧乏の中にいます。精神的な悩みを持つ人もいた。彼らは現在の情況さえ変われば、病気や貧困さえ取り除かれれば、幸福になれると思っていました。「でも本当にそうか」とイエスは問われます。1997年夏に亡くなったダイアナ妃の人生について、ある人は語ります「ダイアナは人に愛されたい、幸せになりたいと願い、それを追い続け、それが得られないままに世を去っていった」。幸福とは「求めたものを獲得する」ことではない。そのような喜びは一瞬に終わり、また新しい幸福の追求に人は追われていきます。イエスは言われます「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いだ。あなた方は悲しみを持つ、しかし悲しんでいる者が幸いなのだ」。聞いた人々は理解できません。貧しいこと、病気であることが幸いとは思えない。イエスはなぜ「貧しい人々、悲しむ人々」を祝福されたのでしょうか。
・イエスは貧しさや病気は耐え難い現実を十分に承知したうえで、苦しむ人々に「私の所に来なさい」と呼びかけ、その不幸を幸いに変えようと約束されます。彼はナザレでの宣教の始めに宣言されます「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである」(ルカ4:18)。イエスは自らの十字架死を通して、不幸を幸いにする道を開かれました。ペテロは告白します「(この方は)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によってあなたがたはいやされました」(第一ペテロ2:24)。私たちの罪を担うことを通して、私たちを死の刺から救い出して下さったとペテロは告白します。
・水野源三さんは子どもの時に熱病にかかって全身麻痺になり、生涯寝たきりの生活を送りました。人間的に見れば、悲惨な人生です。彼の体で動くものは唯一その眼球だけでした。彼は自由になる目の瞬きで意思を母親に伝え、母がそれを文字にする形で、詩を書きました。彼は歌います「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。「苦しんだからこそ神様に出会えた、だから私は幸いだ」といえる世界がここにあります。
・戦時下の日本、国家による宗教統制が激しさを増し、キリスト教が敵性宗教として弾圧されていた1941年の受洗者は5929 名でした。その後、日本が平和になり、信教の自由が許された1998 年の受洗者は1900名でした。迫害の時には6千名が受洗し、平和になると受洗者は1/3に減った。このことが示しますことは、苦難の時、悲しみの時にこそ、人は神に出会うという事実です。私たちに本当に必要なものは、病のいやしではなく、貧乏からの救済でもなく、苦難からの救いでもない。心が貧しくされて、神の言葉が聞こえるようになることです。その時、貧乏も、病気も、苦難もまた、祝福に変わって行くのです。「いかに幸いか、神の子を知る者は」、まさに私たちにキリストが与えられていることこそ、幸いなのです。


カテゴリー: - admin @ 08時08分14秒

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