すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.神の偉大と人間の卑小

・詩編の学びの二回目、今日は詩編8篇がテキストとして与えられました。詩編8篇はエルサレム神殿の前庭に集う夜の集会の会衆によって歌われた讃美の歌です。最初に会衆が合唱します「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」(8:2a)。それにこたえて独唱者が進み出て歌い始めます「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」(8:4)。最後に会衆が再び合唱します「主よ、私たちの主よ、あなたの御名は、いかに力強く、全地に満ちていることでしょう」(8:10)。
・詩人の信仰体験が会衆讃美を通して礼拝共同体全体のものとなっています。詩人は夜空に果てしなく広がる月や星を見て、この無限の宇宙を創造された神に驚嘆し、その偉大さを讃美しています。現代の私たちは自然の壮大さに驚くことを忘れてしまいました。都会で夜空を見上げても、見える星はわずかです。しかし、人里離れた場所に行けば様相は一変します。私はオーストラリアの砂漠で夜空を見上げた時の感動を忘れることができません。まさに足元から星空が広がっている光景を見て、宇宙の広大さを思わずには居られませんでした。
・詩人は同じ光景を見ています。彼は夜空に広がる満天の星を見て、その宇宙のかなたに創造の神がいまし、天と地を支配しておられることを全身で感じたのです。だから詩人は歌います「天に輝くあなたの威光をたたえます」(8:2)。天には神の創造の業が力強く刻印されています。人は果てしなく広がる天空を見る時、宇宙の悠久無限に想いを馳せます。だから詩人は歌います「あなたの天を、あなたの指の業を、私は仰ぎます。月も、星も、あなたが配置なさったもの」(8:4)。古代の人々は太陽や月を神として拝みましたが、イスラエルの民はこの偶像崇拝から自由です。月も星も被造物に過ぎないと歌います。
・その無限大の宇宙の前にたたずむ時、人は自分があまりにも小さな存在であることを痛感します。彼は歌います「そのあなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう。あなたが顧みてくださるとは」(8: 5)。「人間は何ものなのでしょう」、人間と訳されている言葉は「エノシュ」、人間の弱さを示します。人間は有限であり、やがては死すべき存在にすぎません。「人の子」、ベン・アダム、アダムの子、アダムは土(アダマ)から来ますから、塵の子と訳すべきでしょうか。人間は塵によって造られた卑小な存在に過ぎないことを詩人は認識しています。一人の人間の生涯は70年、あるいは80年です。それは決して短くはない。しかし人類の数百万年という長い歴史の中で見た時、その生涯は一瞬です。詩編90編は歌います「人生の年月は七十年程のものです。健やかな人が八十年を数えても、得るところは労苦と災いにすぎません。瞬く間に時は過ぎ、私たちは飛び去ります」(詩編90:10)。
・そして別の詩編詩人も歌います「人の生涯は草のよう。野の花のように咲く。風がその上に吹けば、消えうせ、生えていた所を知る者もなくなる」(詩編103:15-16)。私たちはやがて死に、私たちが生きてきた痕跡も消えてしまいます。それなのに私たちはこの地上で、「何を食べようか、何を飲もうか」と思い悩み(マタイ6:25)、瞬く間に過ぎゆく富や地位に目を奪われ、反目し、嫉妬し、恨み、争って、その生涯を終えます。神の造られた自然がこんなにも美しく、雄大であるのに、人の世は何故こんなにも騒々しく、醜いのか、詩人は満天の星の輝く夜空を前にして思います。
・しかし詩人はただ人間の卑小さだけに注意を奪われているのではありません。その無に等しい者に目を留め、顧みて下さる方に思いを馳せます。彼は歌います「神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(8:6-7)。「無に等しい人間が神の似姿に創造された」、そして「万物の支配をその人間が委ねられた」、詩人はそのことを驚き、感謝しています。この言葉の背景には創造信仰があります。創世記は記します「神は言われた『我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう』」(創世記1:26)。

2.人を二重の視点で見る

・人は塵で造られた故に塵に帰る、はかない存在です。しかしそのはかない存在に神は天地万物を治める権能を与えることによって、神とつながる存在にして下さったと詩人は歌います。ここに人間の持つ二重性が見事に描かれています。すなわち、人は貧しく無に等しい存在ですが、神はその人間に尊厳を与えて下さった。人は卑しいけれども、同時に尊い存在であるという視点です。「卑しくかつ尊い」、その人間の両面性を正しく認識しない時に、人は過ちを犯します。自分が「尊い存在である」ことを忘れた時、人は虚無の世界に引き込まれ、自分なんかいなくとも良い、自分は誰にも必要とされていない、そう思い込んで自殺します。しかし聖書は「あなたは「神に僅かに劣るものとして造られ、栄光と威光を冠としていただいている」存在だと語ります。
・他方、自分が「限界を持つ存在」であることを忘れた時、人は傲慢になります。今や人間は高度に発達した科学技術によって宇宙の神秘にメスを入れ、遺伝子操作を用いて生命でさえも操作できると考えるようになりました。しかし技術の進歩は人を殺す大量殺戮武器の開発にも向けられ、人はこの美しい地球を何回でも破壊できるほどの核弾頭を抱えて、さまよっています。その人々に詩人は幼子を見よと言います「神は幼子、乳飲み子の口によって、あなたは刃向かう者に向かって砦を築き、報復する敵を絶ち滅ぼされます」(8:3)。幼子は自分では何もできないことを知るゆえに親を信じ、親に自らの生存を委ねます。詩人は自分が「限界を持つ存在」であることを忘れた人に、「幼子の生き方を見よ」と言っているのです。

3.命の息を吹き込まれた存在としての人間

・詩篇8篇の背景には創世記の人間理解があります。今日の招詞に創世記2:7を選びました。「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」。人は土(アダマ)の塵で創られたから、人は(アダム)と呼ばれたと創世記は言います。土から創られたことは、人は神の前では土くれのような、つまらない存在であることを示します。その無価値な存在に、神は生命の息を吹き込まれた。神の息が吹き込まれた故に、人は生きる者になった。人の人たるはその肉にあるのではなく、神が吹き込まれた息(ルーアハ)、すなわち霊が与えられているためです。この霊こそ神の賜物であり、神の霊なしには人は動物にすぎないのです。
・「神を信じないならば人は動物にすぎない、神を信じてこそ人は人たりうる」と聖書は言います。人間の歴史は戦争の歴史、殺しあいの歴史です。私たちは人と人が殺し合い、国と国が争う歴史を形成してきました。動物は決して無用な殺戮は行いませんし、同族同士の殺し合いはしない。社会学的に見れば人間は動物以下の存在です。神の息、霊を失ったゆえです。神を知らない人間は本当の意味での平和を形成できません。人間の平和とは「争いのない」状態であり、誰かの武力に他の人が対抗できない時に争いのない状態=平和が生まれます。「ローマの平和=パックス・ロマーナ」は、ローマ帝国の軍事力を背景に生まれ、帝国が衰退すると各地の民族が反乱を繰り返し、その平和は崩れていきました。現代の平和=パックス・アメリカーナも同じで、アメリカの国力の衰退と共に平和は崩れてきます。この世の平和は軍事力の脅しによって生まれる、偽りの平和です。そのような平和は聖書の語る平和(シャローム)ではない。本当の平和は、人が己の限界を知り、神の霊を受けているゆえに生かされていることを知った時に来ます。
・それは国だけではなく、個人生活においても同じです。私たちが神を知らない時、私たちの人生は偶然にもてあそばされる人生です。たとえ、現在が幸福だとしても、それは偶然のなせる業であり、外部の環境が変われば、すぐに不幸になります。しかし、私たちが神によって生かされていることを知った時、私たちの人生は偶然ではなく、必然になります。私たちに災いが起こっても、その災いは必然のもの、神がその災いを通して私たちを導こうとしておられることを信じる時、災いの意味が変わってきます。この神の導き、神の霊によって生かされる生き方こそ本来のものなのだと聖書は語ります。悔い改めるとは、この本来の状態、神が霊を吹き込まれた最初の状態に立ち返ることであり、そのしるしとして、私たちはバプテスマを受け、神の霊を再び受けます。その時、私たちの人生は外部環境の変化によって翻弄される偶然の人生ではなく、外部環境がどうあっても心は平安である必然の人生に変えられていきます。
・人は塵だから塵に帰ります。神を知る者は、「自分がいかに卑小か」を知る故に、驕り高ぶることをしません。その人間に神は万物の支配を委託されました。神に出会うことによって、人生の意味が違ってきます。病の人は病のままに、貧乏な人は貧乏なままに、祝福を受けるからです。神を知ることによって、私たちは「運命に翻弄される人生」から、「神に生かされる人生」へと解放されます。詩編8篇は私たちにそのことを告げています。「あなたが御心に留めてくださるとは、人間は何ものなのでしょう。人の子は何ものなのでしょう」(8:5)と歌った詩人が、「あなた・・・は神に僅かに劣るものとして人を造り、なお、栄光と威光を冠としていただかせ、御手によって造られたものをすべて治めるように、その足もとに置かれました」(8:6-7)と賛美することができました。この詩編に出会えたことを感謝します。


カテゴリー: - admin @ 08時08分58秒

10 07

1.詩編全体に対する序詞としての第1篇

・私たちは今日から1カ月間、説教で詩編を学んでいきます。詩編150篇の中にはいろいろな詩があります。神を讃美し感謝する詩もあれば、苦難の中で救済を求める詩もあります。今日学びます詩編第一篇は詩編全体を統合する始まりの詩篇です。詩篇1篇の特徴の一つは「幸いなるかな」という祝福で始まっていることです。第二に、この詩では旧約聖書の代表的な考え方、「神を愛する者は報われ、神に逆らう者は滅びる」(1:6)という因果応報が歌われています。
・詩編第一篇は「いかに幸いなことか」という言葉で始まります。詩人は歌います「いかに幸いなことか、神に逆らう者の計らいに従って歩まず、罪ある者の道にとどまらず、傲慢な者と共に座ら(ない者)」(1:1)。「神に逆らう者」、へブル語レシャイーム、邪悪な者、悪事を働く者の意味です。彼らは驕り高ぶり、寡婦、孤児、寄留者を虐げます。今日でいえばヘイト・スピーチを繰り返す人々です。「罪ある者(ハッタイーム)」とは、的を外す者、神の方を向かない者を指します。偉い人に忖度し、公文書さえも書き換える人々です。「傲慢な者(レツイーム)」とは嘲る者、高慢な者を言います。悪を犯しても「知らぬ、存ぜぬ」で悔い改めない人々です。詩人は「悪を働かず、神にそむくことがなく、高慢でない者」義人(正しい人)は幸いだと語ります。それを言い換えたのが2節「主の教えを愛し、その教えを昼も夜も口ずさむ人」(1:2)です。主の教えとはトーラー(戒め、律法)ですが、それを毎日唱和し、守る人は幸いだと言われています。
・詩人は続けます「その人は流れのほとりに植えられた木。時が巡り来れば、実を結び、葉もしおれることがない。その人のすることはすべて、繁栄をもたらす」(1:3)。主の教えに従う者の生活は「流れのほとりに植えられた木」のようであり、彼は豊かな水(御言葉)に養われて、多くの実を結ぶと祝福されています。詩編1篇の作者は詩編全体の編集者であり、彼は詩編の中に「悪しき者が栄え、正しい者が虐げられる」ことを訴えた詩が数多くあることを知っています。次の二編を見ると「なにゆえ、国々は騒ぎ立ち、人々はむなしく声をあげるのか。なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して、主に逆らい、主の油注がれた方に逆らうのか。「我らは、枷をはずし、縄を切って投げ捨てよう」と彼らは言う(2:1-3)。その現実を知った上でなお、「神を愛する人のすることはすべて、繁栄をもたらす」と詩人は断定します。「正しい者が虐げられ、悪が栄える」現実があっても、「悪の企てに加担しない者こそ幸い」だと歌い上げているのです。
・詩人は律法を守らない人、主の教えに逆らう者は災いだと続けます「神に逆らう者はそうではない。彼は風に吹き飛ばされる籾殻。神に逆らう者は裁きに堪えず、罪ある者は神に従う人の集いに堪えない」(1:5)。穀物は収穫が終わると実をたたいて実と殻に分離し、空中に放り投げられます。その時、中身のないもみ殻は風に飛ばされ、重さを持つ実だけが再び容器の中に戻されます。悪しき者は、たとえ一時的に隆盛を誇るように見えても、内容のない空疎な存在として、あらゆる方向に吹き飛ばされる。それ故、悪人は「神の裁きに堪え得ない」(1:5)と詩人は歌います。悪しき者、神に逆らう者は終末の審判で滅ぼされる。「神に従う人の道を主は知っていてくださる。神に逆らう者の道は滅びに至る」(1:6)。邪悪な者の道が栄え、正しい者が虐げられるという現実があったとしても、それは一時的であり、「世界を支配される神はその悪を糺される、悪がいつまでも栄えることはない」とその信仰を歌います。

2.詩篇には救済の力はない

・詩編第一篇は義人を水辺の樹木に、罪人を風に吹き飛ばされるもみ殻にたとえて、両者の人生が対照的であることを印象付けます。第一篇の中心的な思想は因果応報です。因果応報とは行為の善悪と人生の幸不幸を関連付ける考え方です。「善は報われ、悪は滅びる」、「人は自分の蒔いたものを刈り取る」、「頑張った人は報われる」、そうであって欲しいという願いを込めて、現代社会もまた因果応報を考え方の基礎にしています。旧約学者の月本昭男氏は、詩篇釈義の中で述べます「何が悪で何が善かは相対的であり、立場を変えれば、善が悪に、悪が善になりえます。また何が本当の幸福か、誰も知りません。このような中で、善と悪、幸と不幸を二分化して固定する応報的世界観の下では、応報原理があらゆる人生の出来事に当てはめられ、悪人が悪ゆえに栄え、善人が善ゆえに滅びる現実社会の不条理は無視されてしまいます。その結果、ヨブのように災難に見舞われた者は神に罰された者として断罪されることになります。因果応報論は、時には因果関連を世代間に広げ、あるいは死後の世界へと延長して、人生の不条理を安易に合理化し、社会のゆがみや矛盾を正当化するようになります」(詩篇の信仰と思想より)。
・詩人は、義人の生涯は邪悪な者の生涯よりも幸福だと見ているわけではありません。そうではない現実があることを見つめながら、それでも悪に加担しない、正義を求めていく生き方こそ、幸いだと歌うのです。しかし、この詩は限界を持っています。詩人は人を義人と罪人に分け、対立させていますが、どこに完全な人、義人がいるでしょうか。「善を行う者はいない。一人もいない」(詩編14:3)という叫びは真実です。人は心の中に重い闇(原罪)を抱えています。パウロは叫びます「私の五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、私を、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。私はなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれが私を救ってくれるでしょうか」(ローマ7:23-24)。詩編1篇は偉大な詩ですが、そこにあるのは因果応報であり、基本的な考え方は利害得失です。利害得失はこの世の生き方ですが、私たちを滅びから救う力はありません。

3.詩篇1編を祝福に変えられるイエス

・今日の招詞にマタイ5:3‐5を選びました。次のような言葉です「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである、その人たちは慰められる。柔和な人々は、幸いである、その人たちは地を受け継ぐ」。山上の祝福の冒頭の言葉です。詩編1篇は「幸いだ」と言う言葉で始まります。「幸いだ」(ヘブル語アシュレイ)はギリシャ語訳聖書(70人訳)では「マカリオス」と訳されました。この「マカリオス」が、「山上の祝福」の冒頭の言葉です。原文では「幸いだ、貧しい者たち。神の国は彼等のものだ」とあります。他方、詩篇1:1は「幸いだ、神に逆らう者の計らいに従って歩まない者は」と語ります。両者の構成は同じです。イエスはガリラヤ湖のほとりで、詩編1篇を想起しながら、山上の祝福を述べられているのです。そして目の前にいる人々に「あなた方は貧しいゆえに幸いだ」と言われています。
・何時の時代でも人々は幸福を求めます。イエスの下に集まってきた人々も幸福を求めていました。ある者は、長い間病気で苦しみ、別の人は食べるものもない貧乏の中にいます。精神的な悩みを持つ人もいた。彼らは現在の情況さえ変われば、病気や貧困さえ取り除かれれば、幸福になれると思っていました。「でも本当にそうか」とイエスは問われます。1997年夏に亡くなったダイアナ妃の人生について、ある人は語ります「ダイアナは人に愛されたい、幸せになりたいと願い、それを追い続け、それが得られないままに世を去っていった」。幸福とは「求めたものを獲得する」ことではない。そのような喜びは一瞬に終わり、また新しい幸福の追求に人は追われていきます。イエスは言われます「あなた方は貧しい、しかし貧しいからこそ幸いだ。あなた方は悲しみを持つ、しかし悲しんでいる者が幸いなのだ」。聞いた人々は理解できません。貧しいこと、病気であることが幸いとは思えない。イエスはなぜ「貧しい人々、悲しむ人々」を祝福されたのでしょうか。
・イエスは貧しさや病気は耐え難い現実を十分に承知したうえで、苦しむ人々に「私の所に来なさい」と呼びかけ、その不幸を幸いに変えようと約束されます。彼はナザレでの宣教の始めに宣言されます「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである」(ルカ4:18)。イエスは自らの十字架死を通して、不幸を幸いにする道を開かれました。ペテロは告白します「(この方は)十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によってあなたがたはいやされました」(第一ペテロ2:24)。私たちの罪を担うことを通して、私たちを死の刺から救い出して下さったとペテロは告白します。
・水野源三さんは子どもの時に熱病にかかって全身麻痺になり、生涯寝たきりの生活を送りました。人間的に見れば、悲惨な人生です。彼の体で動くものは唯一その眼球だけでした。彼は自由になる目の瞬きで意思を母親に伝え、母がそれを文字にする形で、詩を書きました。彼は歌います「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。「苦しんだからこそ神様に出会えた、だから私は幸いだ」といえる世界がここにあります。
・戦時下の日本、国家による宗教統制が激しさを増し、キリスト教が敵性宗教として弾圧されていた1941年の受洗者は5929 名でした。その後、日本が平和になり、信教の自由が許された1998 年の受洗者は1900名でした。迫害の時には6千名が受洗し、平和になると受洗者は1/3に減った。このことが示しますことは、苦難の時、悲しみの時にこそ、人は神に出会うという事実です。私たちに本当に必要なものは、病のいやしではなく、貧乏からの救済でもなく、苦難からの救いでもない。心が貧しくされて、神の言葉が聞こえるようになることです。その時、貧乏も、病気も、苦難もまた、祝福に変わって行くのです。「いかに幸いか、神の子を知る者は」、まさに私たちにキリストが与えられていることこそ、幸いなのです。


カテゴリー: - admin @ 08時08分14秒

09 26

1.ハレルヤ詩編

・7月から詩編を読んで来ましたが、本日の146篇で詩編の学びは終ります。詩編は150篇あり、その最後はハレルヤ詩編と呼ばれる5つの歌で締めくくられます。今日読みます詩編146篇はその讃美の中でも有名で、讚美歌(新生114番、わが霊よ、主をほめよ)にもなっています。この詩篇は最初に「ハレルヤ」で始まり、最後も「ハレルヤ」で終ります。ハレルヤとは、ハレル=賛美せよ、ヤ=主ヤハウェを、「主を賛美せよ」との意味です。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時17分44秒

09 19

1.私の助けは天地を造られた主から来る

・今日、私たちに与えられましたのは、詩編121編です。この詩篇は別所梅之助氏の名訳で讚美歌となり、日本の教会では「山辺に向かいてわれ」として親しまれています。新生讚美歌では435番になりますが、その1節は歌います「山辺に向かいてわれ、目をあぐ。助けはいずかたより来たるか。天地のみ神より、助けぞわれに来る」。詩編の中には「都に上る歌(巡礼歌)」というのがあります。121編もその巡礼歌の一つで、都に上る、エルサレムの神殿への巡礼の時に歌われた歌です。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時25分41秒

09 12

1.死の床から救いだされた者の祈り

・詩編103篇は重い病気に罹り、死の床から救いだされた詩人の感謝の歌です。詩人は歌います「主はお前の罪をことごとく赦し、病をすべて癒し、命を墓から贖い出してくださる」(103:3-4)。病を癒された詩人はまず自分の身に与えられた神の慈しみに感謝し、次に主の慈しみがイスラエルの民全体に及んでいることを感謝し、それのみならず、主の慈しみと憐れみは全人類を覆うことに驚嘆し、最後には天の御使たちにも「共に讃美せよ」と呼びかけています。詩編103篇は個人、民族、人類、天地と讃美が広がっていく、壮大なスケールを持つ歌です。そして中心になる言葉が、「主の慈しみ=ヘセド」という言葉です。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時33分19秒

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