すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

説教内検索

05 13

1.苦難の中にある教会への二つの手紙

・復活節第六主日を迎えています。復活のキリストに命じられて、弟子たちは宣教の業を続け、福音はエレサレムを超えて異邦世界に伝えられていきました。しかし、福音宣教は決して順調に行ったのではありません。多くの人々は弟子たちの言葉に耳を傾けませんでした。パウロはギリシャのアテネの町で宣教しました。町には偶像の神々の像がいたるところにありました。パウロは言いました「このような偶像神は何の力も持たない、人の手で作った彫刻に過ぎないではないか。世界を創造された神は一人子を遣わし、救いの手を差し伸べられた。私たちはイエスが復活されたのを見た。この方こそ救い主=キリストだ」(使徒言行録17:30-31)と説教しました。しかし、アテネの人々は死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者はいずれまた聞かせてもらおうといって、その場を去っていきました。誰も信じようとはしなかったのです。またパウロがテサロニケで伝道していた折は、その地に住むユダヤ人によって騒乱罪で告発されています。ユダヤ人たちは「世界中を騒がせてきた連中が、ここにも来ています。・・・彼らは皇帝の勅令に背いて、『イエスという別の王がいる』と言っています」(使徒言行録17:6-7)とパウロたちを官憲に告発しました。
・異邦人の冷やかな反応、ユダヤ人のしつこい妨害の中でも、福音は伝えられていきました。新しく生まれた教会も、周囲の無関心と人々の迫害の中で、苦闘していました。現在の私たちも同じ状況の中にあります。日本ではクリスチャン人口は1%に過ぎず、人々はクリスマスには関心を持っても、イースター=復活祭には無関心です。多くの人々は教えの中に命があることに気がつこうともしません。パウロは迫害と艱難の中にあるテサロニケ教会に二つの手紙を書いています。テサロニケ第一、第二の手紙です。新約聖書の中で、最初に書かれた文書です。今日は、テサロニケ第二の手紙を通して、パウロが人々に何を語ったのか、それは現在の私たちにどのような意味を持つのかを考えてみたいと思います。
・パウロは言います「兄弟たち、あなたがたのことをいつも神に感謝せずにはいられません。・・・あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっているからです。私たち自身、あなたがたが今、受けているありとあらゆる迫害と苦難の中で、忍耐と信仰を示していることを、神の諸教会の間で誇りに思っています」(〓テサロニケ1:3-4)。テサロニケ教会はパウロの伝道によって立てられました。異邦人たちの何人かがパウロの宣教を聞いて偶像礼拝から離れ、キリストへの信仰に導かれましたが、迫害の中で苦闘していました。パウロはテサロニケ教会が心配で、弟子テモテを慰問に遣わし、その報告を受けて、手紙が書かれました「あなた方の信仰の戦いを私は知っているし、それを誇りにしている」とパウロは言い、「信仰の成長と共にお互いに対する愛が成長している」ことを喜びます。信仰は多くの場合、迫害を伴います。イエスは言われました「あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。私があなた方を世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(ヨハネ15:18-19)。私たちはキリストを知ることを通して、世の価値観とは異なる価値観を持ちます。ですから、世と摩擦が起き、世に憎まれます。しかし、イエスは言われました「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。私は既に世に勝っている」(ヨハネ16:33)。
・パウロもまた言います「神は正しいことを行われます。あなたがたを苦しめている者には、苦しみをもって報い、また、苦しみを受けているあなたがたには、私たちと共に休息をもって報いてくださるのです」(〓テサロニケ1:6-7)。信仰者は地上でどのような苦難や悲しみがあっても、やがて、それは慰められるとパウロは述べます。パウロは続けます「どうか、私たちの神が、あなたがたを招きにふさわしい者としてくださり、また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように」(〓テサロニケ1:11-12)。パウロは苦難が取り去られますようにとは祈りません。神の国の住人にふさわしいものにするために今苦難が与えられている、苦難は信徒の受ける栄光の一つであり、苦難を取り去るのではなく、苦難を耐える力を与えてくださいと祈ります。

2.終末は来たと混乱する教会への手紙

・テサロニケ教会はある問題を抱えていました。教会内の一部の人々が、迫害の激化の中で終末=世の終わりを待望し、「すぐに終末が来る。いや、来たのだ。仕事をしている時などではない」(〓テサロニケ2: 2)と熱狂し、教会を混乱に巻き込んでいたのです。パウロはそのような教会を心配し、惑わされるなと伝えます。世の終わりの時には悪の力が強まり、信仰者は迫害されるだろうとイエスは言われました。ある者たちは、自分たちに加えられる迫害や弾圧を、終わりの時のしるしと見たのかもしれません。人はこの世の成り行きから終末を考え、戦争・地震・飢饉・迫害等をその前兆と考えます。時代の閉塞感が強まった時、終末運動が歴史に現れます。11世紀の十字軍もその一つです。「キリストの再臨は近い。聖地エルサレムは異教徒によって汚染されている。聖地を浄化しなければならない」とのローマ法王の呼びかけで、十字軍は始まり、結果として、中世を終わらせ、近代を導きました。
・この終末論は現在も強い影響力を持っています。アメリカが9・11の後、イラクを攻撃したのは、終末論が大きく影響していると言われています。「マホメットはテロリストであり、イスラムは悪である、彼らを倒して神の国を実現させよう。イラク戦争は聖戦だ」とキリスト教原理主義者は言います。今、アメリカ人の半数は原理主義キリスト者と言われています。ブッシュ大統領もイラクへの攻撃を十字軍と位置づけ、神の加護を祈っています。アメリカ型キリスト教原理主義者に対抗して、イスラム原理主義者は自爆テロ等の方法で対抗しています。イラク戦争は、キリスト教原理主義とイスラム教原理主義の戦いの様相を呈しています。しかし、パウロは言います「終末は神が歴史を完成させる時、信徒が救われる時なのだ」と。それがいつであるか、私たちは知らないし、知る必要もない。あなた方はなすべきことを着実に行い、後のことは主に任せなさいと。「私たちは主イエス・キリストに結ばれた者として命じ、勧めます。自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」(〓テサロニケ3:12-13)。「落ち着いて仕事をし、たゆまず善いことをしなさい」というパウロの勧告と、イスラム教徒を悪魔として殺し尽くそうとするアメリカ原理主義者の行動には、大きな隔たりがあります。テサロニケ教会で起きた出来事が、今も起こっている事を、私たちは知る必要があります。

3.祈りの支援を求める伝道者

・パウロは今、コリントで伝道しながら、テサロニケ教会へ手紙を書いています。伝道は苦戦しており、彼はそれを素直に認め、祈ることによって助けてほしいと願います「兄弟たち、私たちのために祈ってください。主の言葉が、あなたがたのところでそうであったように、速やかに宣べ伝えられ、あがめられるように、また、私たちが道に外れた悪人どもから逃れられるように、と祈ってください。すべての人に、信仰があるわけではないのです」(〓テサロニケ3:1-2)。コリントでは、道に外れた悪人=ユダヤ人によって宣教が妨害され、無関心な異邦人は耳を傾けようとはしません。「すべての人に、信仰があるわけではないのです」という言葉は、パウロが砂地に水をまくような空しさを感じていたことを示します。ですから、パウロはテサロニケの人々が祈りによって、パウロの戦いに参加してくれることを望んでいるのです。パウロは言います「主は真実な方です」。主はテサロニケではユダヤ人の妨害と異邦人の無関心の中で、教会を立てることを許して下さった。だからこのコリントでも教会形成は可能だと信じています。
・今日の招詞に使徒言行録18:9-10を選びました。次のような言葉です「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ』」。コリントで苦闘するパウロに与えられた言葉です。使徒言行録18章の初めを見ますと次のような記述があります「パウロは御言葉を語ることに専念し、ユダヤ人に対してメシヤはイエスであると力強く証しした。しかし、彼らが反抗し、口汚くののしった。・・・ユダヤ人たちが一団となってパウロを襲い、法廷に引き立てて行って 『この男は、律法に違反するようなしかたで神をあがめるようにと、人々を唆しております』と言った」(使徒言行録18:5-13)。コリントでは伝道が思うようにはかどらないばかりか、ユダヤ人たちはパウロを市当局に告発して、伝道をやめさせようとしているのです。しかし、主は言われます「この町には、私の民が大勢いる」。パウロにはその民は見えません。いくら伝道しても聞いてくれる人はいない、それでもパウロは伝道を続けます。パウロは何故伝道するのでしょうか。そこに命があるからです。
・私たちは、キリストを信じることによってキリストの体の一部となります。一部であって、全体ではない。教会を離れた信仰、一人だけの救いを求める信仰は、必ず挫折します。だから、私たちは、教会に集まるのです。教会の人々の祈りを求めたパウロは、今度は教会の人々のために祈り始めます「どうか、主が、あなたがたに神の愛とキリストの忍耐とを深く悟らせてくださるように」(〓テサロニケ3:5)。私たちの教会に今、最も必要なものは、祈りの交わりではないかと思います。牧会者と信徒の間に、そして信徒相互に、生き生きした祈りの交換が生まれる時、そこに神の国は成って生きます。私たちが目指す教会は、「お互いが祈りあうことの出来る教会」です。そして「あなたがたの信仰が大いに成長し、お互いに対する一人一人の愛が、あなたがたすべての間で豊かになっている」と言われるような教会形成をしたい。それが私たちの願いです。


カテゴリー: - admin @ 13時11分25秒

09 18

1.働かざるもの、食うべからず   

・「働かざるもの、食うべからず」、有名なことわざである。マルクスの言葉と誤解している人が多いが、元々は聖書の言葉だ。今日、私たちが学ぶ〓テサロニケ3章10節に出てくる。マルクスがこの言葉を「生産に役だたない者は食べる資格はない」という意味に使い始めてから、言葉はもともとの意味を超えて、使用されるようになって来た。会社においては業績の上がらない社員に対して「会社は慈善団体ではない。あなたが業績を上げないなら辞めてもらう。働かざるもの、食うべからずと言うではないか」として、首切りの理由にされる。夫は妻に対して言う「誰のおかげで食べていると思うのか。私が働いているからお前は生活が出来るのではないか。働かざるもの、食うべからずだ」。言われた妻は専業主婦であることを罪悪のように思い、社会に出て働かなければ一人前ではないと思い込まされる。

・聖書はどのような意味で、この言葉を使っているのだろうか。テサロニケはパウロとシラスの開拓伝道で立てられた教会だ。彼らはパウロから福音を聞いた「キリストが来られて、世はその意味を変えた。世と世のものは過ぎ去る。だから世に関らないようにしなさい」(〓コリント7:31)、「主の日は近い。だから目を覚ましていなさい」(マタイ24:42)。世の価値だけを求めて生きる、そのような行き方を変えて神の国を求めなさいという勧めだったが、テサロニケの一部の信徒はそれを別のように理解した「最後の日、主の日が来る。そうであれば、いまさら働いてもしようがない。教会に行って主に祈り、黙想の時を過ごそう」。そして彼らは教会の人々に言った「私たちはあなたがたのために祈るから、あなたがたは私たちにパンを与えなければいけない」。パウロはそのような人々を怠け者と呼んだ。「主の日が近いとして働くことをやめ、他の人の厄介になるのがキリストの教えられたことではない。キリストは今も働いておられる。だから、私たちも力の限りに働くのだ」。そしてパウロは言う「『働きたくない者は食べてはならない』と命じておいたではないか」(〓テサロニケ3:10)。ここに『働かざるもの、食うべからず』の言葉が生まれた。

・パウロは続ける「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。たゆまず良いことをしなさい」。パウロ自身、天幕作りをして生活費を稼ぎながら伝道していた。伝道者は奉仕教会から報酬を得て働くことが許されている。しかし、自分はパンをただでもらうことをせず、自活の道を求めてきた。他の人に負担をかけないためだ。それが当たり前なのだと彼は人々を戒める。ここでは「働けるのに働かない」、そのような人々が叱責されている。聖書は「働きたくないものは食べてはいけない」と言っているのであり、「働けない者は食べてはいけない」とは言っていない。病気のため、高齢のため、職が見つからないため、働けない人々がいる。それらの人々に「食べさせるな」と言われているのではないことをしっかりと認識することが必要だ。

・しかし、人間の思いは神の言葉を曲げる。「働かざるもの、食うべからず」、ドイツのナチス政権は、戦争が始まると、全国の施設にいた障害者の処刑を命じた。戦争という重大な時に、何の役にも立たない人間に与えるパンはないと彼らは言い、障害者を「生きる価値のない命」として殺した。日本では今年10月から介護保険法が改定され、老人ホームでの住居費や食費は自己負担となる。自宅にいれば住居費や食費は必要であり、ホーム入居のお年寄りから費用を徴収するのは当然だとの厚生省の主張であるが、その結果最低でも月10万円の老後収入のない人は特別養護老人ホームにも入れない。国民年金の年金額が満額で6万円であることを考えれば、非常に高いハードルだ。自己責任という美名の下で、貧しい高齢者は保護の対象外にされようとしている。「働かざるもの、食うべからず」とは怠けて働かないものを叱責する言葉だ。それなのに「働けないもの、食うべからず」と言葉が拡大・悪用されている。私たちは御言葉が曲がって使用されていることに抗議しなければいけない。

2.働くこと、神の業に参加すること

・今日の招詞に創世記2:15を選んだ。次のような言葉だ「主なる神は人を連れて来て、エデンの園に住まわせ、人がそこを耕し、守るようにされた」。聖書は労働をどのように見ているのだろうか。創世記によれば、人はもともとエデンの園を耕し、守るものとしての使命が与えられている。人間は本来働くもの、働きを通して喜びを得るものとして創造されているのだ。その人間が神を離れ、自分が神になろうとした。その結果、人間はエデンの園を追われ、宣告された「お前は女の声に従い、取って食べるなと命じた木から食べた。お前のゆえに、土は呪われるものとなった。お前は、生涯食べ物を得ようと苦しむ。お前に対して土は茨とあざみを生えいでさせる。野の草を食べようとするお前に。お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで」(創世記3:17-19)。ここで労働が苦痛に満ちた呪いの行為となる。働くという行為の中には、神に祝福された本来の喜びと、神に呪われた苦痛の双方の意味がある。労働と言う行為の中には喜びと苦痛の双方がある。怠け者は苦痛を避けようとして働くのを止め、勤勉な人は喜びを得ようとして働く。

・私たちクリスチャンはどうすべきか。私たちもかつては罪の縄目の中にあり、神の呪いの中にあった。しかし、キリストの十字架を通して赦され、今では神の子とされた。もう労働についての呪い、苦痛からは解放されている。だから一生懸命働け、働くものを神は祝福して下さるとパウロは言う。キリストが私たちのために働いてくれた。キリストは今も働いておられる。だから私たちも働く。働くとはキリストの業を共に担うことだ。ある人は言った「働く」とは「はた=他をらく=楽にする」。キリストにあっては、労働や職業は、世の中を楽にし、他者を愛するために存在する。従って怠けて働かない者はキリストから離れている。だから叱責されるのだ。

・働き方にはいろいろある。社会に出て働くばかりが働きではない。専業主婦も立派な働きだ。仮にその仕事をヘルパーの人に頼めば、月に15-20万円は必要となろう。それだけの価値の仕事が目に見えない形で為されている。寝たきりの老人も働くことが出来る。何も出来なくとも人のために祈る時、それは立派な仕事になる。人の話を嫌がらずに聞いてあげることも立派な働きだ。人はそれぞれ賜物(タラント)を与えられている。その与えられたタラントを持って働けばよい。高齢の人は高齢のままで、病気の人は病気のままで働けばよい。それがパウロのいう「自分で得たパンを食べるように、落ち着いて仕事をしなさい。そして、兄弟たち、あなたがたは、たゆまず善いことをしなさい」(〓テサロニケ3:12-13)ということだ。高齢の人も、病気の人も大事な働きが出来るのだ。他者のために祈る、これ以上に大事な働きがあろうか。

・最後にパウロは言う「もし、この手紙で私たちの言うことに従わない者がいれば、その者には特に気をつけて、かかわりを持たないようにしなさい。そうすれば、彼は恥じ入るでしょう。しかし、その人を敵とは見なさず、兄弟として警告しなさい」(3:14-15)。怠惰な生活をしている人を避けなさい、悪い影響を受けるといけないから。しかし、その人たちを敵とはみなさず、兄弟として警告しなさい。「自分は働いているのにあの人は怠けている」と考える時、その警告は兄弟に対して批判的になり、お互いの絆は切れてしまう。そうではなく、その人が何故働けないのか、その理由を思い図り、働ける環境を作ってあげなさいと言われている。フリーターやニート(引きこもり)の人々が増えている。私たちは彼らが怠け者だから働かないのだと思いがちだが、実際は違う。10-20台の失業率は15-20%になっているし、失業率の増加と共にフリーターやニートが増えてきた。それらは失業の別の形なのだ。働きたくともふさわしい仕事がなく、ひきこもっている事例が多い。彼らの多くは良い仕事があればしたいのだ。私たちの役割は人を叱責することではなく、人にため祈り、自分に出来ることをすることだ。落ち着いて仕事をしなさい、たゆまず良いことをしなさい。自分の出来る事を求めて生きなさいと命じられている。
*ニート=Not In Employment ,Education or Training(NEET) 職に就かず学校にも通わず職業訓練を受けているのでもない人々の略


カテゴリー: - admin @ 20時25分53秒

15 queries. 0.114 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress