すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.何故苦しみはあるのか

・ヨブ記は、昔から、多くの人に読み継がれてきた書です。ヨブ記のテーマは「世の中に何故苦しみがあるのか」です。私たちは皆、平穏無事な生活を望んでいます。お正月に初詣する人は「どうか病気になりませんように、仕事がうまくいきますように、家族が平和に暮らせますように」と願います。しかし、現実の世の中には病気は絶えないし、不幸な出来事は次々に起こっています。今が平和であっても、その平和は病気や災いがあればすぐにも崩れてしまいます。だから私たちは「災いや不幸が来ませんように」と祈ります。しかし不幸や災いは来ます。その時どうするのか、それを扱った書がこのヨブ記です。
・主人公ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」とヨブ記は語ります(1:1-3)。彼は家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されており、申し分のない人生でした。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられます。子供たちが事故で亡くなり、彼の財産であった何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こり、彼自身に重い皮膚の病気(らい病)が与えられました。周りの人たちは相次ぐ災いがヨブに起こるのを見て、「この人は神に呪われている」と考え、近づかなくなりました。最初、ヨブはこれらの災いを宿命として受け容れますが、心の中では怒りがふつふつと湧いてきます。
・ヨブは正しい人だっただけに、彼自身がこんなに罰せられるほどの罪を犯したと思えません。何故このような苦しみが与えられるのかわからない。ヨブは神に対して異議申し立てを行います。「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。」(9:22-24)。ヨブは神に訴えます「何故あなたは私にこのような苦しみを与えられるのか。何故あなたは正しい者に悪人と同じような裁きをされるのか、私にはわからない。あなたは本当にこの地上を支配しておられるのか、神よ、答えてください」と。
・そのヨブの訴えに対して、神が大風の中から回答されます。38章です「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは・・・私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(38:2-4)。神はヨブの疑問に直接答えられません。ただ、あなたはどれだけ私のことを知っているのか。あなたはどれだけこの世界のことを知っているのかと聞かれます。創造(地球の誕生)から現在まで46億年の時間が流れ、その中で人は70年、80年の人生を生きるにすぎません。私たちは創造について何も知らず、単に創造世界の一部に過ぎないことが示されます。「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」と問われても答えることは出来ません。その神の問いかけに対する応答が、今日の聖書個所ヨブ記42:1-6です。

2.苦しみを通して神に出会う。

・ヨブは自分の苦しみを通して、世の中を見ました。自分の苦しみにこだわり続ける時、苦しみはますます大きくなって行きました。しかし、神の言葉を契機に、ヨブは自分が世界の中心にいるのではないこと、自分が全てを知るわけではないことを知らされます。そして、そのような自分のことをも、神は心に留めておられることに気づかされた時、苦しみは苦しみでなくなりました。だからヨブは告白すします「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。』その通りです。私には理解できず、私の知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました」(42:2-3)。神はそれぞれの人に、異なった能力と境遇と運命を与えられます。ある人は健康に生まれ、別の人はそうでありません。ある人は金持ちであり、ある人は家が貧しくて学校にいけません。私たちにはそれが何故か、理解できません。理解できなくとも、それはそれで良いのであって、私たちは自分に与えられた運命の中で精一杯生きれば良い。それは諦めではなく、現実を見つめる「平静さ」という勇気です。ヨブはそれを知った時に平安に満たされました。
・ヨブは続けて言います「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42:5-6)。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知ります。今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知ります。イエスが語られたように「私たちはどれほど思い悩んでも、自分の寿命をわずかでも延ばせない存在」(マタイ6:27)なのです。

3.神の顕現がヨブに救いをもたらした

・今日の招詞にヨブ記19:25―27を選びました。ヨブが苦しみの真ん中で叫んだ言葉です。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」ヨブは自分の苦しみを友人に訴えました。慰めてもらおう、力になってもらおうと願いました。しかし、帰ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いたのだ。悔い改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものでした。友人たちは正しいかも知れない。しかし、正しさが人を救うわけではありません。人は誰も他者のために苦しみを分かち合うことは出来ない存在なのです。ヨブは人間に絶望しました。その絶望の中で、この暗闇もまた神の支配下にあり、苦しみが神と出会うために与えられたことに気がつきます。そのことに気づいた喜びが「私を購うものは生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる」という告白でした。私たちが「何故」と聞くのを止めて、「何処へ」と聞き始めたとき、苦しみは恵みになります。だから、詩人は歌いました「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたの掟を学ぶことができました」(詩篇119:71)。
・初代教会の人たちは、「この人こそ救い主」と信じていたイエスが、ローマ総督ピラトにより逮捕され、十字架につけられた時、これで全ては終わったと思いました。もう何の望みもないと思いました。しかし、その暗闇の中で復活のイエスに出会い、その出会いを通して彼らは再び立ち上がり、「イエスこそ神の子であった。私たちはその証人だ」と伝え始めました。イエスはローマにより十字架につけられました。ローマがキリストに勝利したかに見えました。しかし、勝利したローマはやがて滅び、今では廃墟としてその遺跡を残すのみです。他方、ローマに負けたかに見えたキリストは今日も多くの人の心に生きます。これは何故でしょうか。イエスを通じて多くの人が神と出会ったからです。イエスこそ、神の下さったプレゼントなのです。
・私たちはただの人間であり、私たちの方から神に近づき、知ることなど出来ません。だから神がイエスを送り、御自身を知る道を開いてくださった。このイエスを通じて、私たちは神に出会います。イエスは人々に見捨てられ、十字架刑で血を流して死んでいかれました。私たちは顔につばきをかけられたことはありませんが、イエスはかけられました。私たちは両手にくぎを打ち込まれたことはありませんが、この方は打ち込まれた。私たちの苦しみがどのように大きくとも、イエスの苦難に比べれば何ほどのことはない。こうして私たちは苦しみを耐える力を与えられます。そして耐えた時に光が見えてきます。
・ヨブは、苦しみを通して、自分が生きているのではなく、生かされていることを知りました。それを知った時、苦難という外部状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなりました。ヨブは神に出会うことを通して、人間の善悪に応じて報われる教条主義的な神ではなく、人間を通して働かれる神の姿に接したのです。イエスが言われたように、「神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の人にも天を降らせる方」なのです(マタイ5:45)。太陽と雨は人間に恵みにもなれば、雨が洪水をもたらし、太陽が旱魃をもたらすように、災いにもなります。つまり、幸不幸は善人にも悪人にも訪れる。だから悪いことをしていないのに災いに会い、正しくないのに栄えても、それで良いのだということにヨブは気づかされたのです。
・そして偉大な言葉をヨブは語ります「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」。その方は「ついには塵の上に立たれる」、「自分がだれの目にも敗北者として死んで、土を被っても、その墓場の土の上まで来て私の恥を雪いで下さる方が、生きておられる。私がその時墓場の土の下にいても、土の塵の上から、『この下にいるのは私の僕なのだ。この者を侮辱することは、この私が許さない』と、その方は言ってくださる」、その確信こそ信仰です。聖書学者・織田昭氏は「私は決して、こんな惨めたらしい敗北者の姿で終わるのではない。人は私の信仰の不毛を笑うだろうが、神は決して私をこのままお見捨てになる方ではない。その神に私は最後まで信頼する。」と語っています(織田昭聖書講解ノート)。この信仰が与えられるならば、他に何もいらないと思います。
・ヨブが友人のために執り成しの祈りをした時、主はヨブの苦難を取り除かれました。人は隣人のために働き始めた時に救われることをヨブ記は示しています。ただ最終章にありますヨブへの祝福は古代的、応報的です。ヨブ記は記します「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた」(42:12-16)。この部分はおそらく後代の付加であり、まったく不要と思えます。不条理は不条理のままで、苦難は苦難のままで良いのです。「救済とは苦難や不条理が取り除かれることではなく、苦難の意味が変えられる」ことにあるのです。「苦難は解決される必要はない。神との出会いにより苦難は解消される」。この偉大な真理をヨブ記は伝えます。


カテゴリー: - admin @ 08時23分28秒

10 22

1.この世に何故悪があるのか

・「何故、この世に悪があるのだろうか」、人間は昔からこの問いをして来ました。「全能の神がおられるのに何故悪があるのか。神は本当におられるのか」という問いです。この世には多くの不幸や悲しみがあります。何故そのような不幸や悲しみが自分に起こるのか、理解できない時もあります。ある人は突然の難病に苦しめられます。ある人は家族を事故で亡くします。一生懸命働いてきたのに事業が行き詰まって破産に追い込まれる人もいます。神がこの世を支配し、かつ私たちを愛しておられるとすれば、何故このようなことが起こるのでしょうか。
・聖書の中で、この意味のわからない、不条理な苦しみが、何故あるのかを追求した書がヨブ記です。主人公ヨブは家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられます。家族を奪われ、事業は破たんし、自身は重い病気になります。ヨブは正しい人でしたので、彼自身がこんなに罰せられるほどの罪を犯したと思えません。また、自分が苦しんでみて、世の中には正しい人が苦しみ、悪人が栄えるという現実があることも見えてきます。
・ヨブは神に対して異議申し立てを行います。「何故あなたは私にこのような苦しみを与えられるのか。何故あなたは正しい者に悪人と同じような裁きをされるのか、あなたは本当にこの世界を支配しておられるのか」と。神は答えられません。ヨブは終には神を告発します「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を」(31:35)。「神よ、あなたを告発する」とヨブは言います。

2.苦しみを通して自分の無知を知る

・求め続けるヨブに神が応答されます。それがヨブ記38章です。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。(38:1-4)。「何故私に苦しみが与えられるのか」というヨブの問いに、神は何も答えられません。ただ言われます「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」。神が天地を創造された時、ヨブはどこにもいません。まだ生まれていなかったからです。
・神は語られます「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(38:12)。誰が夜を終わらせて朝をもたらすのか、お前なのかと神は問われます。ヨブは答えられません。天体を支配しているのはヨブではないからです。神は問われます「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか」(38:16)。お前は海の果て、地の果てまで行ったことがあるかとの問いにも、ヨブは答えられません。ヨブの知っている世界はパレスチナとその周辺だけだからです。
・ヨブの苦難は、自己を中心にした時には大問題になります。しかし、神は言われます「お前がこの世界の中心にいるのか。お前の問題はこの創造世界を根底から崩すような問題なのか。お前は被造物の一人に過ぎないではないか」、確かにそうです。神はさらに言われます「神を中心にして世界を考えてみなさい。一体お前はどれだけのことを知り、どれだけのものについて責任が取れるというのか。何一つお前は知らず、何一つ責任を取ることができないではないか」。このような問いかけが38章から41章まで続きます。38章39-41節に興味深い記述があります「お前は雌獅子のために獲物を備え、その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ、その子は隠れ家にうずくまっている。誰が烏のために餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出る時に」。獅子は動物を食べ、烏は死肉を漁ります。彼らの犠牲になる動物たちが「獅子の犠牲になって殺されるのは不合理であり、不条理だ」と叫ぶだろうか。叫ばないでしょう。それが自然の摂理だからです。
・ヨブは「自分の名誉が傷つけられた」と叫んでいます。神はヨブに語られます「お前の見方はあまりにも人間中心主義ではないのか。お前は山羊や牝鹿の出産の場に立ち会っているか。私は立ち会っている」。ヨブはここで知らされます。「創造世界の中心にいるのは彼ではなく、彼はこの創造世界について何も知っていない」ことを。ここで私たちも気づきます「知らないことを知らないと認め、自分の苦難よりも大事な問題がある」ことを知った時、苦難の問題は解決されることを。最後に神はヨブに問われます「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい」(40:2)。それに対してヨブは答えます「私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」(40:4-5)。自然世界の摂理を見た時、自分一個の善悪や正しさにこだわるのはあまりにも人間中心の世界観であり、「神の思いは人間を超えることを知った」時、ヨブの苦悩は吹き飛びました。ヨブの問題は解決しませんでしたが、解消したのです。

3.創造者に出会う

・今日の招詞にヨブ記42:5−6を選びました。次のような言葉です「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」。人は創造世界のことを何も知りません。この世界がどのようにして創造され、どのようにして運営されているかについて何も知りません。何も知らないことを知った時、私たちは「神ではない」ことを知ります。そして、ヨブは悔改めました。神がヨブの問いに答えず、逆に問うことにより、ヨブの悔改めが導き出されています。
・ヨブは自分の苦しみを通して、世の中を見ました。自分の苦しみにこだわり続ける時、苦しみはますます大きくなっていきました。しかし、神の言葉を契機に、ヨブは自分が世界の中心にいるのではないこと、自分が全てを知るわけではないことを知らされます。そして、そのような自分のことをも、神は心に留めておられることに気づかされた時、苦しみは苦しみでなくなりました。だからヨブは告白します「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました・・・私には理解できず、私の知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました」(42:2-3)。
・ヨブは言います「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」(42:5-6)。ヨブは今まで「神について」、いろいろ知っていました。しかし「神ご自身」を知りませんでした。苦難の中でのたうちながら神に問いかけ、神が応答された時、初めて神と出会いました。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知ります。その時、苦しみが苦しみのままで肯定されます。何故なら、神がこの苦しみを知り、導いておられることを知ったからです。
・「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」という本があります。著者H.S.クシュナーは幼い息子を難病で亡くしたユダヤ教のラビ(祭司)で、「神とはなにか、信仰とは何か」を問うた書です。人は不幸なことがあると、その原因が自分の犯した罪に対する神の罰ではないかと考えます。「罰が当たった、天罰だ」と。あるいは「自分が何か悪いことをしただろうか、なぜ自分だけが」と思う人もいます。しかし著者は、この世に起こる不正義、悪、不条理な出来事は、単なる自然、物理法則によるものであり、神に起因するものではないと断言します。
・ヨブ記では、「ヨブ」が何の罪もなく不幸のどん底に突き落とされます。3人の友人がヨブに対して繰り広げる説明は、「善にして全能の神のなさることに間違いはない」という教理の押し付けです。ヨブは納得せず、逆にそのような一般論は自分を苦しめるだけだと友人たちを責めます。友人たちは最後には「ヨブが神に対して罪を犯した」と言って責め、ヨブは神に対して説明を求め、最後に神は答えられます。神が応答の中に述べられているのは、ヨブへの断罪ではなく、ヨブの友人たちへの断罪です。神は語られます「私はお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、私について私の僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」(42:7)。
・クシュナーの信じる神は、正義であって人々に幸せになって欲しいと望んでいる方です。彼は「神は人々の上に不条理が起きないことを望んでいるが、止めることができない」と考えます。神はこの世の基本的な構造や物理法則を無理に捻じ曲げてまで望みを実行する専制君主ではない。神は混沌に秩序を与えるために世界を創造され、その神の創造は今も行われています。つまり、混沌がまだ残されています。その混沌を私たちは「不条理」と呼びます。著者は語ります「病人や苦痛に苛まれている人が『一体私がどんな悪いことをしたというのか』と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは『こうなってしまったのだから私は今何をなすべきか。そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか』である」。
・ヨブは、苦しみを通して、自分が生きているのではなく、生かされていることを知ります。それを知った時、苦難という外部状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなりました。これが神を知った者の平安です。世の人々は「苦しみや悲しみが来ませんように」と祈りますが、私たちは「この苦しみや悲しみを通じて、神に出会えますように」と祈ります。そして、出会いを通じて平安が与えられます。私たちを創造された方は、私たちのことを愛しておられ、愛しておられるゆえに私たちのことを気にかけておられます。私たちは一人ではないのです。神はイザヤを通じて言われました「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。(だから)私が担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)。創造者を覚えて生きる、そのことが出来る人生は恵まれています。


カテゴリー: - admin @ 08時11分32秒

10 15

1.エリフの登場

・ヨブ記を読んでいます。ヨブは家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました。しかし、そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられ、子どもたちが次々に取り去られ、何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こり、更に彼自身に忌まわしい病気(らい病)が与えられます。周りの人々は相次ぐ災いを見て、「この人は神に呪われている」と考え、近づかなくなりました。そのヨブを見舞うために、三人の友人が見舞いに来ます。ヨブは自分の苦しみを友人に訴えました。しかし、返ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いたのだ。悔い改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものでした。
・ヨブはこれほどの罰を受けるほどの罪を犯したとは思えず、神に対して異議申し立てを始めます。「私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手に委ねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。違うというなら、誰がそうしたのか」(9:22-24)。人は苦難に意味を認める限りはその苦難を耐えていけますが、苦難の意味がわからなくなった時、苦難は人を圧倒します。ヨブと三人の友人たちの議論が31章まで続きますが、ヨブは友人たちの説得に納得できず、叫びます「どうか黙ってくれ・・・私の議論を聞き、この唇の訴えに耳を傾けてくれ」(13:5-6)。ヨブはそれ以上、友人たちと議論をしてもしょうがないと思い、直接神に訴えます。「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を、私はしかと肩に担い・・・頭に結び付けよう。私の歩みの一歩一歩を彼に示し、君主のように彼と対決しよう」(31:35-37)。ヨブは神を被告席に立たせ、三人の友人たちはもはや語る言葉を持たず、沈黙します。
・この後、32章からエリフという新しい登場人物の弁論が挿入されます。エリフは神を被告席に立たせて、自分の正しさを主張するヨブに我慢がなりません。「エリフは怒った。この人はブズ出身でラム族のバラクエルの子である。ヨブが神よりも自分の方が正しいと主張するので、彼は怒った。また、ヨブの三人の友人が、ヨブに罪のあることを示す適切な反論を見いだせなかったので、彼らに対しても怒った。彼らが皆、年長だったので、エリフはヨブに話しかけるのを控えていたが、この三人の口から何の反論も出ないのを見たので怒ったのである」(32:2-5)。エリフはヨブを追求します「ヨブはこう言っている。『私は正しい。だが神は、この主張を退けられる。私は正しいのに、うそつきとされ、罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた。』ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし、悪を行う者にくみし、神に逆らう者と共に歩む」(34:5-8)。「神は人よりも大なる方であり、被造物であるあなたが何故創造主である神と争うのか。そこにあなたの根本的な間違いがある」とエリフは主張します。「神には過ちなど、決してない。全能者には不正など、決してない。神は人間の行いに従って報い、おのおのの歩みに従って与えられるのだ。神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない」(34:10-12)。

2.苦難を神の教育とみるエリフの議論

・エリフの主張は明解です。「神が罪を犯すことは決してない。全能者は正義を曲げられない」(34:12)。確かに被造物である私たちが、創造主である神と争うことはできない。それでも神に異議申し立てをせざるを得ない現実があります。イギリスのあるラジオ番組で流された実話があります。「一人の父親が癌に冒された娘を見舞うために、病院に向かっていた。父親はケーキの箱を抱えていた。途中に教会があり、彼は中に入って娘の癒しを祈った。やがて病院に着くと、彼は娘が死んだことを告げられた。彼は直ちに教会に戻り、祭壇の後ろの十字架像にケーキを投げつけた。それは命中して、ねばねばしたクリームがキリスト像の顔から肩にかけて、ゆっくりとしたたり落ちた」。ケーキを投げつけても娘は生き返りません。ヨブがいくら神を罵っても死んだ子供たちは生き返りません。しかし、悲しみを癒すためには、それは必要な「喪の作業」です。そのような異議申し立てを通して私たちは神と出会うのです。
・それは苦しい道のりです。でもその苦しみを通じて何かがなされる。弁護士の岡村勲氏は山一證券の顧問弁護士でしたが、山一破綻で損をした投資家の逆恨みで妻を殺され、犯罪被害者になって初めて、自分の目が開けたと語ります。「1997年、仕事の上で私を逆恨みした男によって妻が殺害されました。弁護士生活38年目にして犯罪被害者の遺族となって、被害者や家族がどんなに悲惨で、不公正な取り扱いを受けているかということを、初めて知りました。加害者の人権を守る法律は詳細に整備されているのに、被害者の権利を守る法律はどこにもありません・・・経済面では加害者は一切国の費用で賄い、弁護士も国の費用で依頼できますが、被害者は、被った傷害の医療、介護費、生活費はすべて自己負担なのです・・・私たちは、『犯罪は社会から生まれ、誰もが被害者になる可能性がある以上、犯罪被害者に権利を認め、医療・生活保障・精神的支援など被害回復のための制度を創設することは、国や社会の義務である』と考えます」。岡村氏の働き等により、犯罪被害者基本法(2004年)、刑事訴訟法が改正され(2007年)、事態は改善しました。苦難には自分が直面してこそ初めて知る真理が含まれています。ある信仰者は歌いました「病まなければ、ささげ得ない祈りがある。病まなければ、信じ得ない奇跡がある。病まなければ、聞き得ない御言葉がある。病まなければ、近づき得ない聖所がある。病まなければ、仰ぎ得ない御顔がある。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」(河野進・病まなければ)。不条理を受け入れた時、見えてくる真実があるのです。

3.人は理論では救われない

・今日の招詞にヨブ記38:1-4を選びました。次のような言葉です。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。ヨブは神に「私が何をしたので、あなたはこのような苦難をお与えになるのか」を問い続けてきました。しかし神は、「何故私に苦しみが与えられるのか」というヨブの問いに、何も答えられず、ただ言われます「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」。神が天地を創造された時、ヨブはどこにもいません。まだ生まれていなかったからです。神は問い続けられます「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(38:12)。誰が夜を終わらせて朝をもたらすのか、お前なのかと神は問われます。ヨブは答えられません。天体を支配しているのはヨブではないからです。神は更に問われます「お前は海の湧き出る所まで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか」(38:16)。ヨブは答えられません。ヨブの知っている世界はパレスチナだけだからです。
・ヨブの苦難は、自分を中心にした時には大問題になります。しかし、神は言われます「神を中心にして世界を考えてみなさい。一体お前はどれだけのことを知り、どれだけのものについて責任が取れるというのか。何一つお前は知らず、何一つ責任を取ることができないではないか」。このような問いかけが38章から41章まで続きます。神が語られたことは、前にエリフが語ったこととほぼ同じです。しかしエリフの語りはヨブに何の悔い改めも生じさせず、神の語りはヨブを変えました。エリフは正しいことを言いましたが、言葉は正しいから伝わるのではありません。人が自分の体験したこと、直面したことを語る時にはその言葉は伝わりますが、知らないことを知っているように語ってもその言葉は伝わりません。苦難を体験した者でなければ、苦しむ人を慰めることはできないのです。
・40章12-14節で神はこのように問われます「すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き、神に逆らう者を打ち倒し、ひとり残らず塵に葬り去り、顔を包んで墓穴に置くがよい。そのとき初めて、私はお前をたたえよう。お前が自分の右の手で、勝利を得たことになるのだから」。神は語られます「お前が地上の悪人どもを滅ぼし尽くし、この地上に完全な正義を実現することが出来るなら、私はお前をほめよう。しかし、何故私が悪人どもを滅ぼし尽くさないのか、お前は知っているか。私は悪人さえ滅ぶのを喜ばず、彼らが悔改めて命に入る日が来ることを望んでいる。だから彼らを滅ぼし尽くさないのだ。そのことをお前は知っているのか」。ここでヨブは知らされます。創造世界の中心にいるのはヨブではなく、神であり、神の働きについて何も知らないのに、自分に起こった理不尽な苦しみだけを見て、神を問い詰め、神を告発していたのです。神との対話を通じて、ヨブは自分の罪を悔い改めます。「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」(42:5-6)。
・私たちが苦難にあった時、「何故」と聞くのを止めて、「何処へ」と聞き始めた時、苦しみは恵みになります。「この苦難を通してあなたは私をどこに導かれるのか」と問い始めた時、苦難の意味が変わってきます。ヨブは、苦しみを通して、「自分が生きているのではなく、生かされている」ことを知り、状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなりました。人は苦しみや悲しみを通じて、神に出会い、その出会いを通じて新しい世界が与えられます。パウロは語ります「神の御心に適った悲しみは、取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせ、世の悲しみは死をもたらします」(第二コリント7:10)。苦難の中で、私たちは神と出会い、苦難の中に意味を見出した時、新しく生きることが出来ます。そのことについてエリフは正しいことを語っています「神は貧しい人をその貧苦を通して救い出し、苦悩の中で耳を開いてくださる。神はあなたにも、苦難の中から出ようとする気持を与え、苦難に代えて広い所でくつろがせ、あなたのために食卓を整え、豊かな食べ物を備えて下さる」(36:15-16)。この苦しみを経験しないと本当の喜びはないのではないか。病気のために生涯寝たきりの人生を送った、水野源三さんは歌いました「もしも私が苦しまなかったら、神様の愛を知らなかった。多くの人が苦しまなかったら、神様の愛は伝えられなかった。もしも主イエスが苦しまなかったら、神様の愛は現われなかった」。


カテゴリー: - admin @ 08時01分21秒

10 08

1.友人の絶え間ない問責に怒るヨブ

・ヨブ記の二回目です。私たちは誰もが平穏無事な生活を望んでいます。しかし、現実には、私たちの人生には多くの悲しみや苦しみがあり、平穏な人生が波乱に満ちた苦労の人生になることもあります。「何故悲しみや苦しみがあるのか、その時、人はどうすればよいのか」を語った書がヨブ記です。主人公ヨブは家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました(1:1-3)。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられ、10人の子どもたちが亡くなる事故が起こり、彼の財産であった何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こります。更に、彼自身に「らい病」が与えられます。周りの人たちは相次ぐ災いを見て、「この人は神に呪われている」と考え、近づかなくなりました。最初、ヨブはこれらの災いを宿命として受容れます。彼は「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)と語り、「私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)と語ります。しかしヨブの内心では、神に対する不信と怒りが渦巻いていました。
・遠くから、三人の友人が見舞いに来て、彼をいかにも「かわいそう」という目で見た時、押さえつけていたヨブの感情が迸りでます。「ヨブと親しいテマン人エリファズ、シュア人ビルダド、ナアマ人ツォファルの三人は・・・彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった。やがてヨブは口を開き、自分の生まれた日を呪って、言った『私の生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇になれ』」(2:11-3:4)。
・ヨブは自分の苦しみを友人に訴えました。しかし、返ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いたのだ。悔い改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものでした。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか」(4:7)、「神が裁きを曲げられるだろうか。全能者が正義を曲げられるだろうか。あなたの子らが神に対して過ちを犯したからこそ彼らをその罪の手に委ねられたのだ」(8:2-4)、「神は偽る者を知っておられる。悪を見て、放置されることはない」(11:11)。ヨブが求めていたものは慰めでした。しかしヨブに与えられたのは説教でした。
・あるカウンセラーは語ります「カウンセリングにおいて最も重要なことは、相手との関係の樹立であり・・・教理(ドグマ)や固定化したアプローチの仕方は、逆に相手に大きな痛手を負わせてしまう。ヨブの3人の友人たちは,キリスト教のドグマと既成概念に立って真の援助を与えることに失敗する牧師のようなものである」。人を本当に苦しめるものは、外的、肉体的な苦難ではなく、人との関係です。自分が理解されず、逆に責められる時、人の怒りは頂点に達します。何故、聴いてくれないのか、とヨブは叫びます「どうか黙ってくれ・・・私の議論を聞き、この唇の訴えに耳を傾けてくれ」(13:5-6)。真に苦しんでいる人を慰めることは人間にはできない。答えを示そうとして躍起になることは、逆に相手の苦しみに塩を塗り、傷口を広げていくことに他なりません。出来ることはただ、「その人のために祈る」ことだけです。

2.神を告発するヨブ

・ヨブは正しい人だっただけに、これほどの罰を受けるほどの罪を犯したと自分では思えません。ヨブは神に対して異議申し立てを始めます。人は苦難に意味を認める限りはその苦難を耐えていけますが、苦難の意味がわからなくなった時、苦難は人を圧倒します。ヨブは語ります「私は言う、同じことなのだ、と。神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる、と。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手に委ねられている。神がその裁判官の顔を覆われたのだ。違うというなら、誰がそうしたのか」(9:22-24)。
・ヨブは神に恨み言を述べます「神は私の道をふさいで通らせず、行く手に暗黒を置かれた。私の名誉を奪い、頭から冠を取り去られた。四方から攻められて私は消え去る。木であるかのように、希望は根こそぎにされてしまった」(19:8-10)。周りの人たちはヨブの相次ぐ災いを見て、「この人は神に呪われている」と考え、また彼の崩れた肉体を気味悪く思い、彼に近づかなくなります。ヨブは嘆きます「神は兄弟を私から遠ざけ、知人を引き離した。親族も私を見捨て、友だちも私を忘れた・・・息は妻に嫌われ、子供にも憎まれる。幼子も私を拒み、私が立ち上がると背を向ける・・・骨は皮膚と肉とにすがりつき、皮膚と歯ばかりになって、生き延びている」(19:13-20)。ヨブは三人の友に対して叫びます「憐れんでくれ、私を憐れんでくれ、神の手が私に触れたのだ。あなたたちは私の友ではないか。なぜ、あなたたちまで神と一緒になって、私を追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか」(19:21-22)。ヨブは自分の言葉を墓石に記し、自分の死後に誰かがそれを読んでくれることを願います「どうか、私の言葉が書き留められるように、碑文として刻まれるように。たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記され、いつまでも残るように」(19:23-24)。

3.私を贖う方は生きておられる

・ヨブは人間に絶望しました。その絶望の中で、ヨブは救済者を呼び求めます。今日の主題はここから始まります。ヨブは語ります「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる。私の皮がこのように滅ぼされた後、私は肉を離れて神を見るであろう。しかも私の味方として見るであろう。私の見る者はこれ以外のものではない。私の心はこれを望んでこがれる」(19:25-27)。今日の聖書個所はヨブ記の中核となる重さを持っています。
・ヨブの語る「贖い主、ヘブル語=ゴーエール」とは、「買い戻す者」の意味です。彼の死後に彼の知人や親戚が彼の名誉回復をしてくれることをヨブは望んだのでしょう。「私を贖う者」の元々の意味から見れば、自分にとって一番血の濃い近親者で、「身請け人」になってくれる人のことです。たとえば、人質になったり、奴隷に売られようとする時に、身代金を払って請け出してくれる人のことを、ヘブル語では「ゴーエール」と言いました(レビ 25:25−27)。この意味から言うと、ここに言う「私を贖う者」というのは、「最後まで私の肩を持ってくれる私の身請け人」、「誰が私を見限っても 決して私を捨てないで私の恥も悲しみも、すべてを引き受けてくれる人」という意味がこの表現に込められています。
・その方は「ついには塵の上に立たれるであろう」とヨブは告白します。ヨブが言いたいのは「自分がだれの目にも敗北者として死んで、土を被っても、その墓場の土の上まで来て私の恥を雪いで下さる方が、生きておられる。私がその時墓場の土の下にいても、土の塵の上から、『この下にいるのは私の僕なのだ。この者を侮辱することは、この私が許さない』と、その方は言ってくださる」、そんな確信を表したものです。「私は決して、こんな惨めたらしい敗北者の姿で終わるのではない。人は私の信仰の不毛を笑うだろうが、神は決して私をこのままお見捨てになる方ではない。その神に私は最後まで信頼する。」とヨブは語っています。ヨブは「神を告発する」ことを通して「神を求めている」のです(織田昭聖書講解ノート)。
・私たちに与えられるさまざまな苦しみの意味は、私たちにはわかりません。それでも、私たちは神を仰ぎ見て、どうしたらいいのかと問いかけながら歩みます。神は沈黙して語ってくださらないことが多い。しかし、神がいつか私たちを顧みてくださる希望をもちつつ、日々生活していきます。ヨブ記の最後は、神がヨブを元の境遇に戻して、以前の二倍の財産と十人の子どもを与えて、彼を労わり慰め、幸福のうちに後の人生を歩み終わらせます。私たちが、このヨブのような幸せな最後を与えられるとは限りません。人生の最後を迎える時に、どうしてこんなに苦しめられるのだ、と叫ばなくてはならないのかもしれません。それでも、神の救いを求めて神を仰ぎ見る時、神は必ず私たちの魂を労わり慰めてくださる。そういうメッセージがヨブ記には込められています。
・今日の招詞にマルコ15:34を選びました「三時にイエスは大声で叫ばれた。『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。』これは『わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか』という意味である」。ヨブ記の言葉「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」は、もともとの意味を超えて、人々に読まれてきました。「仮に自分が無念のままに、汚辱の中で死のうとも、神はそれを知り、いつの日か憐れんで下さるという希望」を人々はこの言葉に見ました。それはイエスの十字架の叫びとも重なります。人は死ねば「塵に帰る」、虚しい存在です。その虚しい存在が今神により生かされている。今生かされているという事実が、死後も生かされるであろうとの希望を持つことを許します。
・ヘンデル「メサイア」の歌詞の一部がヨブ記から採られていることは有名です。メサイア第3部第40曲はヨブ記19:25-26の言葉「私は知る、私を贖う者は生きておられる。またこの肉体が蝕まれようとも、私はこの身をもって神を仰ぎ見るであろう」から採られています。原文では「I know that my Redeemer liveth.and that He shall stand at the latter day upon the earth.And though・・・ worms destroy this body,yet in my flesh shall I see God.」となります。それに続く言葉は第一コリント15:20です「何故ならば、キリストは実際に死者の中から復活し、眠りについている人たちの初穂となられたからだ」(For now is Christ risen from the dead・・・ the first fruits of them that sleep.)。ヘンデルは、復活の希望の中に、不条理の克服を見ています。
・花の詩画集を書いておられる星野富弘さんは、中学校の体育の先生でしたが、クラブ活動の指導をしていた時、鉄棒から落下し、首から下がすべて動かなくなってしまいました。九年間の病院生活のなかで、口に絵筆をくわえて花を描き、詩を書くようになり、三浦綾子の本に出会い、聖書を読むようになって、洗礼を受けてクリスチャンになりました。彼は歌います「私の首のように、茎が簡単に折れてしまった。しかし、菜の花はそこから芽を出し、花を咲かせた。私もこの花と同じ水を飲んでいる。同じ光を受けている。強い茎になろう」。キリストの復活を信じる時、私たちはどのような状況に置かれても、「私は知る、私を贖う者は生きておられる、後の日に彼は必ず地の上に立たれる」と言えます。そして、この信仰がある限り、折れた茎から新しい芽が生まれるのです。「東北の津波で死んだ人の命も無駄ではない。幼くして死んだ子の命も生かされる」、これが福音に基づく希望です。


カテゴリー: - admin @ 08時13分08秒

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1.ヨブの物語

・今日からヨブ記を読んでいきます。ヨブ記は、「人生にはなぜ苦難があるのか」を追求した書です。私たちは誰もが平穏無事な生活を望んでいますが、現実には、人生には多くの悲しみや苦しみがあり、平穏な人生が波乱に満ちた労苦の人生になることもあります。何故そのような不幸や悲しみが自分に起こるのか、私たちには理解できない。ある人は突然の難病に苦しめられます。ある人は家族を交通事故で失くします。突然、職を解雇されて家族がバラバラにされる人もいます。神がこの世を支配し、私たちを愛しておられるとすれば、何故このような苦難が私たちに起こるのか。「人生には何故苦難があるのか」、人間は昔からこの問いをして来ましたが、誰も答えを持ちません。
・2011年3月に起きた東北大震災もまた人々に大きな苦しみを与えました。2万人の方が亡くなった災害を見て、多くの人が「何故」と問いました。新約聖書をケセン語に訳した医師の山浦玄嗣(はるつぐ)さんは、岩手県大船渡で震災に遭いました。その時、テレビ、新聞、雑誌などのインタビューアが彼の処に殺到し、繰り返したずねたそうです「こういう実直で勤勉な立派な人々が何故こんな目に合わなければならないのか。神はこういう人たちを、いったいなぜこんなむごい目に遭わせるのか。あなたは信仰者としてどう思いますか」。山浦さんは語ります「わかるわけがない、私は彼らのしつこさに腹が立ってきました」(山浦玄嗣「3.11後を生きる」)。人は因果応報の考え方にとらわれています「災害に遭ったのは何か罪を犯したからだ」と決めつけ、それが見当たらない時は、「お前たちの信じる神はお前を救えないのか。何のために信心するのか」と問いかけます。
・この意味のわからない、不条理な苦しみが、何故あるのかを追求した書がヨブ記です。主人公ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。七人の息子と三人の娘を持ち・・・多くの財産があり、使用人も非常に多かった。彼は東の国一番の富豪であった」(1:1-3)とあります。彼は経済的にも社会的にも、家庭的にも大変恵まれていた。ところが、そのヨブに理由のわからない災害が襲います。最初の災いは子どもたちが集まっていた時、家が倒壊し、全員が死ぬという災害でした。10人の子どもたちが一瞬のうちに取り去られました。次に何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こりました。裕福だったヨブが、一夜にして財産を失います。今回の東北大震災でも多くの人がこのヨブと同じ体験をしました。家族を失い、家を失った人々は言いました「私が何をしたというのか。何もしていないのにこの苦しみが与えられるのか。神も仏もいないのか」。それに対してヨブは語ります「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ」(1:21)。「ヨブは信仰を保った」とヨブ記は記します。

2.さらなる苦難が与えられる

・しかし、追い打ちをかけるように新たな苦難がヨブに与えられます。「らい病」です。らい病は肉が崩れ、腐臭を放ち、感染するので、忌み嫌われ、天刑病=天罰と言われていました。裕福な人、知恵ある者、正しい人と尊敬されていたヨブが、「神に呪われた者」として、周りの人々から卑しみと軽蔑の目で見られるようになります。ヨブは家を離れ、塵の上に座って嘆きます。ヨブ記は記します「サタンはヨブに手を下し、頭のてっぺんから足の裏までひどい皮膚病にかからせた。ヨブは灰の中に座り、素焼きのかけらで体中をかきむしった」(2:7-8)。彼の妻は「神を呪って死になさい」(2:9)と冷たく突き放します。らい病者は神に呪われた者、妻さえもそのような目で彼を見ています。しかしヨブは語ります「お前まで愚かなことを言うのか。私たちは、神から幸福をいただいたのだから、不幸もいただこうではないか」(2:10)。「ヨブはこのようになっても、彼は唇をもって罪を犯すことをしなかった」とヨブ記は記します。
・ヨブは表面的には神への信仰を保持し、告白しています。しかし彼の内面では、神に対する疑いが生じ、動揺し、苦悩していました。それが三人の友人がヨブを慰めるために来た時に爆発します。三人は変わり果てたヨブの姿を見て、言葉を失ってしまいます。「三人は、ヨブにふりかかった災難の一部始終を聞くと、見舞い慰めようと相談して、それぞれの国からやって来た。遠くからヨブを見ると、それと見分けられないほどの姿になっていたので、嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶった。彼らは七日七晩、ヨブと共に地面に座っていたが、その激しい苦痛を見ると、話しかけることもできなかった」(2:11-13)。これまで平静を保っていたヨブが三人の無言の責めに接して終に心が崩れます。友人たちが「ヨブが罪を犯したからこのような災いを招いたのだ」と無言のうちに彼を批判していることが分かったからです。現にエリファズは語ります「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか」(4:7)。二人目のビルダトは語ります「あなたが神を捜し求め、全能者に憐れみを乞うなら・・・神は必ずあなたを顧み、あなたの権利を認めて、あなたの家を元どおりにしてくださる」(8:5-6)。三人目のツオファルも語ります「神は偽る者を知っておられる。悪を見て、放置されることはない」(11:11)。彼らは因果応報の立場に立ち、「あなたの災いはあなたが罪を犯したことに対する神の罰だ。神の前に悔い改めなさい」とヨブを暗黙のうちに、攻め立てていたのです。
・その無言の問責に、ヨブは自分の生まれた日を呪い始めます。「私の生まれた日は消えうせよ。男の子をみごもったことを告げた夜も。その日は闇となれ。神が上から顧みることなく、光もこれを輝かすな」。(3:1-4)。ヨブの心が崩れる契機になったのは三人の友の来訪です。人は病気そのものよりも、その病気を通して見える相手の気持ち、「罪を犯したからこのような罰を受けたのだ」という無言の問責に傷つきます。それまでのヨブは表面を取り繕っていましたが、無言の問責を受けて彼の気持ちが崩れました。人を傷つけるものは、人の視線と言葉なのです。「人は人を救うことはできない」、ヨブはやがて語ります「そんなことを聞くのはもうたくさんだ。あなたたちは皆、慰める振りをして苦しめる」(16:2)。

3.苦難の意味

・今日の招詞にヨハネ9:2-3を選びました。次のような言葉です「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が、生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。当時の人々は、罪を犯したから、病気や障害になると考えていました。しかしイエスはそのような因縁、宿命を否定され、「神の業が現れるために」と語られました。
・島崎光正さんというクリスチャン詩人が、次のような詩を歌いました「自主決定によらずして、賜った、命の泉の重さを、みんなで湛えている」。「自主決定によらずして」、島崎さんは二分脊椎症という障害を持って生まれました。二分脊椎は、生まれつき脊椎の癒合が完全に行われず一部開いたままの状態にあります。そのために脳からの命令を伝える神経の束(脊髄)が、形成不全を起こし様々な障害を生じます。医療技術の進歩により、二分脊椎症は障害の有無が誕生前にわかるようになり、障害を持った胎児が中絶される危険性が大きくなってきました。島崎さんは出生前診断の廃止を訴えて活動されました。
・彼はドイツのボンで開かれた二分脊椎症国際会議で証言されます「私は二分脊椎の障害を負った七十七歳となる男性です。私は生まれた時からこの障害を負っていました。両親と早くに離別をし、ミルクで養ってくれた祖母の話では、三歳の時にようやく歩めるようになったとのことです。その時から、すでに足を引いておりました。七歳となり、私は村の小学校に入学しました。やがて市の商業学校へと進学しましたものの、間もなく両足首の変形が現れ、通学が困難となり、中途退学をしなくてはなりませんでした。その遅い歩みの中から詩を綴ることを覚え、今日に至っています」。
・証言は続きます「今、私がもっとも関心を抱いておりますのは、出生前診断のことです。二分脊椎の障害を負った胎児も、診断により見分けのつく時代を迎えています。その時、安易な選別と処置につながることを恐れる者です。たしかに、障害を負って生まれてきたことは、人生の途上において様々な困難をくぐらねばならないことは事実です。私の七十七年の歩みを振り返ってもそう言えます。けれども、それゆえに、この世に誕生をみたことを後悔するつもりは少しもありません。神様から母の陣痛を通してさずかった命の尊厳性は、重いものと考えられます。身に、どのようなハンデを負って生まれて来ようとも、人間が人間であるがゆえの存在の意味と権利は、人類の共同の責任において確保され、尊重されてゆかねばなりません」。
・人は人生に行き詰まりを感じた時、人生の意味を尋ねます。過酷な運命を与えられた人は必然的に自分の生まれたことの意味を問われます。その時、ヨブのように繰り返し「神様、何故ですか。なぜこのような不条理をあなたはされるのか」と問い続ける時に、「神の業がこの人に現れるためである」との声が聞こえてきます。納得できません。しかし納得できなくとも、不条理もまた神が与えたもうものであり、不条理な運命の中に意味があることを見出した時、「運命」が「使命」に変わっていきます。島崎さんは与えられた運命を嘆くのではなく、神が何故この苦難を与えられたのかを模索し、障害を持った子を中絶して葬り去ろうという世の動きを阻止することが自分の使命だと受け止め、そのために生涯を捧げられました。病気や障害が癒されることが神の業ではなく、病気や障害を持ちながらも使命に生かされていく人が現れることこそ、神の業の現れなのだと聖書は語ります。


カテゴリー: - admin @ 07時46分28秒

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