すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.この世に何故悪があるのか

・「何故、この世に悪があるのだろうか」、人間は昔からこの問いをして来ました。「全能の神がおられるのに何故悪があるのか。神は本当におられるのか」という問いです。この世には多くの不幸や悲しみがあります。何故そのような不幸や悲しみが自分に起こるのか、理解できない時もあります。ある人は突然の難病に苦しめられます。ある人は家族を事故で亡くします。一生懸命働いてきたのに事業が行き詰まって破産に追い込まれる人もいます。神がこの世を支配し、かつ私たちを愛しておられるとすれば、何故このようなことが起こるのでしょうか。
・聖書の中で、この意味のわからない、不条理な苦しみが、何故あるのかを追求した書がヨブ記です。主人公ヨブは家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されていました。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられます。家族を奪われ、事業は破たんし、自身は重い病気になります。ヨブは正しい人でしたので、彼自身がこんなに罰せられるほどの罪を犯したと思えません。また、自分が苦しんでみて、世の中には正しい人が苦しみ、悪人が栄えるという現実があることも見えてきます。
・ヨブは神に対して異議申し立てを行います。「何故あなたは私にこのような苦しみを与えられるのか。何故あなたは正しい者に悪人と同じような裁きをされるのか、あなたは本当にこの世界を支配しておられるのか」と。神は答えられません。ヨブは終には神を告発します「どうか、私の言うことを聞いてください。見よ、私はここに署名する。全能者よ、答えてください。私と争う者が書いた告訴状を」(31:35)。「神よ、あなたを告発する」とヨブは言います。

2.苦しみを通して自分の無知を知る

・求め続けるヨブに神が応答されます。それがヨブ記38章です。「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」。(38:1-4)。「何故私に苦しみが与えられるのか」というヨブの問いに、神は何も答えられません。ただ言われます「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」。神が天地を創造された時、ヨブはどこにもいません。まだ生まれていなかったからです。
・神は語られます「お前は一生に一度でも朝に命令し、曙に役割を指示したことがあるか」(38:12)。誰が夜を終わらせて朝をもたらすのか、お前なのかと神は問われます。ヨブは答えられません。天体を支配しているのはヨブではないからです。神は問われます「お前は海の湧き出るところまで行き着き、深淵の底を行き巡ったことがあるか」(38:16)。お前は海の果て、地の果てまで行ったことがあるかとの問いにも、ヨブは答えられません。ヨブの知っている世界はパレスチナとその周辺だけだからです。
・ヨブの苦難は、自己を中心にした時には大問題になります。しかし、神は言われます「お前がこの世界の中心にいるのか。お前の問題はこの創造世界を根底から崩すような問題なのか。お前は被造物の一人に過ぎないではないか」、確かにそうです。神はさらに言われます「神を中心にして世界を考えてみなさい。一体お前はどれだけのことを知り、どれだけのものについて責任が取れるというのか。何一つお前は知らず、何一つ責任を取ることができないではないか」。このような問いかけが38章から41章まで続きます。38章39-41節に興味深い記述があります「お前は雌獅子のために獲物を備え、その子の食欲を満たしてやることができるか。雌獅子は茂みに待ち伏せ、その子は隠れ家にうずくまっている。誰が烏のために餌を置いてやるのか、その雛が神に向かって鳴き、食べ物を求めて迷い出る時に」。獅子は動物を食べ、烏は死肉を漁ります。彼らの犠牲になる動物たちが「獅子の犠牲になって殺されるのは不合理であり、不条理だ」と叫ぶだろうか。叫ばないでしょう。それが自然の摂理だからです。
・ヨブは「自分の名誉が傷つけられた」と叫んでいます。神はヨブに語られます「お前の見方はあまりにも人間中心主義ではないのか。お前は山羊や牝鹿の出産の場に立ち会っているか。私は立ち会っている」。ヨブはここで知らされます。「創造世界の中心にいるのは彼ではなく、彼はこの創造世界について何も知っていない」ことを。ここで私たちも気づきます「知らないことを知らないと認め、自分の苦難よりも大事な問題がある」ことを知った時、苦難の問題は解決されることを。最後に神はヨブに問われます「全能者と言い争う者よ、引き下がるのか。神を責めたてる者よ、答えるがよい」(40:2)。それに対してヨブは答えます「私は軽々しくものを申しました。どうしてあなたに反論などできましょう。私はこの口に手を置きます。ひと言語りましたが、もう主張いたしません。ふた言申しましたが、もう繰り返しません」(40:4-5)。自然世界の摂理を見た時、自分一個の善悪や正しさにこだわるのはあまりにも人間中心の世界観であり、「神の思いは人間を超えることを知った」時、ヨブの苦悩は吹き飛びました。ヨブの問題は解決しませんでしたが、解消したのです。

3.創造者に出会う

・今日の招詞にヨブ記42:5−6を選びました。次のような言葉です「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」。人は創造世界のことを何も知りません。この世界がどのようにして創造され、どのようにして運営されているかについて何も知りません。何も知らないことを知った時、私たちは「神ではない」ことを知ります。そして、ヨブは悔改めました。神がヨブの問いに答えず、逆に問うことにより、ヨブの悔改めが導き出されています。
・ヨブは自分の苦しみを通して、世の中を見ました。自分の苦しみにこだわり続ける時、苦しみはますます大きくなっていきました。しかし、神の言葉を契機に、ヨブは自分が世界の中心にいるのではないこと、自分が全てを知るわけではないことを知らされます。そして、そのような自分のことをも、神は心に留めておられることに気づかされた時、苦しみは苦しみでなくなりました。だからヨブは告白します「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました・・・私には理解できず、私の知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました」(42:2-3)。
・ヨブは言います「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔改めます」(42:5-6)。ヨブは今まで「神について」、いろいろ知っていました。しかし「神ご自身」を知りませんでした。苦難の中でのたうちながら神に問いかけ、神が応答された時、初めて神と出会いました。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知ります。その時、苦しみが苦しみのままで肯定されます。何故なら、神がこの苦しみを知り、導いておられることを知ったからです。
・「なぜ私だけが苦しむのか―現代のヨブ記 (岩波現代文庫)」という本があります。著者H.S.クシュナーは幼い息子を難病で亡くしたユダヤ教のラビ(祭司)で、「神とはなにか、信仰とは何か」を問うた書です。人は不幸なことがあると、その原因が自分の犯した罪に対する神の罰ではないかと考えます。「罰が当たった、天罰だ」と。あるいは「自分が何か悪いことをしただろうか、なぜ自分だけが」と思う人もいます。しかし著者は、この世に起こる不正義、悪、不条理な出来事は、単なる自然、物理法則によるものであり、神に起因するものではないと断言します。
・ヨブ記では、「ヨブ」が何の罪もなく不幸のどん底に突き落とされます。3人の友人がヨブに対して繰り広げる説明は、「善にして全能の神のなさることに間違いはない」という教理の押し付けです。ヨブは納得せず、逆にそのような一般論は自分を苦しめるだけだと友人たちを責めます。友人たちは最後には「ヨブが神に対して罪を犯した」と言って責め、ヨブは神に対して説明を求め、最後に神は答えられます。神が応答の中に述べられているのは、ヨブへの断罪ではなく、ヨブの友人たちへの断罪です。神は語られます「私はお前とお前の二人の友人に対して怒っている。お前たちは、私について私の僕ヨブのように正しく語らなかったからだ」(42:7)。
・クシュナーの信じる神は、正義であって人々に幸せになって欲しいと望んでいる方です。彼は「神は人々の上に不条理が起きないことを望んでいるが、止めることができない」と考えます。神はこの世の基本的な構造や物理法則を無理に捻じ曲げてまで望みを実行する専制君主ではない。神は混沌に秩序を与えるために世界を創造され、その神の創造は今も行われています。つまり、混沌がまだ残されています。その混沌を私たちは「不条理」と呼びます。著者は語ります「病人や苦痛に苛まれている人が『一体私がどんな悪いことをしたというのか』と絶叫するのは理解できる。しかしこれは間違った問いだ。それらは神が決めている事柄ではない。だからより良い問いは『こうなってしまったのだから私は今何をなすべきか。そうするために誰が私の助けになってくれるだろうか』である」。
・ヨブは、苦しみを通して、自分が生きているのではなく、生かされていることを知ります。それを知った時、苦難という外部状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなりました。これが神を知った者の平安です。世の人々は「苦しみや悲しみが来ませんように」と祈りますが、私たちは「この苦しみや悲しみを通じて、神に出会えますように」と祈ります。そして、出会いを通じて平安が与えられます。私たちを創造された方は、私たちのことを愛しておられ、愛しておられるゆえに私たちのことを気にかけておられます。私たちは一人ではないのです。神はイザヤを通じて言われました「私はあなたたちの老いる日まで、白髪になるまで、背負って行こう。私はあなたたちを造った。(だから)私が担い、背負い、救い出す」(イザヤ46:4)。創造者を覚えて生きる、そのことが出来る人生は恵まれています。


カテゴリー: - admin @ 08時11分32秒

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