すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.何故苦しみはあるのか

・ヨブ記は、昔から、多くの人に読み継がれてきた書です。ヨブ記のテーマは「世の中に何故苦しみがあるのか」です。私たちは皆、平穏無事な生活を望んでいます。お正月に初詣する人は「どうか病気になりませんように、仕事がうまくいきますように、家族が平和に暮らせますように」と願います。しかし、現実の世の中には病気は絶えないし、不幸な出来事は次々に起こっています。今が平和であっても、その平和は病気や災いがあればすぐにも崩れてしまいます。だから私たちは「災いや不幸が来ませんように」と祈ります。しかし不幸や災いは来ます。その時どうするのか、それを扱った書がこのヨブ記です。
・主人公ヨブは「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた」とヨブ記は語ります(1:1-3)。彼は家族と財産に恵まれ、周りの人からも尊敬されており、申し分のない人生でした。そのヨブに理由のわからない苦難が次々に与えられます。子供たちが事故で亡くなり、彼の財産であった何千頭もの家畜が強盗に奪われるという出来事が起こり、彼自身に重い皮膚の病気(らい病)が与えられました。周りの人たちは相次ぐ災いがヨブに起こるのを見て、「この人は神に呪われている」と考え、近づかなくなりました。最初、ヨブはこれらの災いを宿命として受け容れますが、心の中では怒りがふつふつと湧いてきます。
・ヨブは正しい人だっただけに、彼自身がこんなに罰せられるほどの罪を犯したと思えません。何故このような苦しみが与えられるのかわからない。ヨブは神に対して異議申し立てを行います。「神は無垢な者も逆らう者も、同じように滅ぼし尽くされる。罪もないのに、突然、鞭打たれ、殺される人の絶望を神は嘲笑う。この地は神に逆らう者の手にゆだねられている。」(9:22-24)。ヨブは神に訴えます「何故あなたは私にこのような苦しみを与えられるのか。何故あなたは正しい者に悪人と同じような裁きをされるのか、私にはわからない。あなたは本当にこの地上を支配しておられるのか、神よ、答えてください」と。
・そのヨブの訴えに対して、神が大風の中から回答されます。38章です「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは・・・私はお前に尋ねる、私に答えてみよ。私が大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら、理解していることを言ってみよ」(38:2-4)。神はヨブの疑問に直接答えられません。ただ、あなたはどれだけ私のことを知っているのか。あなたはどれだけこの世界のことを知っているのかと聞かれます。創造(地球の誕生)から現在まで46億年の時間が流れ、その中で人は70年、80年の人生を生きるにすぎません。私たちは創造について何も知らず、単に創造世界の一部に過ぎないことが示されます。「私が大地を据えた時、お前はどこにいたのか」と問われても答えることは出来ません。その神の問いかけに対する応答が、今日の聖書個所ヨブ記42:1-6です。

2.苦しみを通して神に出会う。

・ヨブは自分の苦しみを通して、世の中を見ました。自分の苦しみにこだわり続ける時、苦しみはますます大きくなって行きました。しかし、神の言葉を契機に、ヨブは自分が世界の中心にいるのではないこと、自分が全てを知るわけではないことを知らされます。そして、そのような自分のことをも、神は心に留めておられることに気づかされた時、苦しみは苦しみでなくなりました。だからヨブは告白すします「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。『これは何者か。知識もないのに神の経綸を隠そうとするとは。』その通りです。私には理解できず、私の知識を超えた、驚くべき御業をあげつらっておりました」(42:2-3)。神はそれぞれの人に、異なった能力と境遇と運命を与えられます。ある人は健康に生まれ、別の人はそうでありません。ある人は金持ちであり、ある人は家が貧しくて学校にいけません。私たちにはそれが何故か、理解できません。理解できなくとも、それはそれで良いのであって、私たちは自分に与えられた運命の中で精一杯生きれば良い。それは諦めではなく、現実を見つめる「平静さ」という勇気です。ヨブはそれを知った時に平安に満たされました。
・ヨブは続けて言います「あなたのことを、耳にしてはおりました。しかし今、この目であなたを仰ぎ見ます。それゆえ、私は塵と灰の上に伏し、自分を退け、悔い改めます」(42:5-6)。人は苦しみに遭って初めて、自分の無力さを知り、弱さを知ります。今まで自分一人の力で生きていると思っていたものが、実は自分を超えた大きなものに生かされている事を知ります。イエスが語られたように「私たちはどれほど思い悩んでも、自分の寿命をわずかでも延ばせない存在」(マタイ6:27)なのです。

3.神の顕現がヨブに救いをもたらした

・今日の招詞にヨブ記19:25―27を選びました。ヨブが苦しみの真ん中で叫んだ言葉です。「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう。この皮膚が損なわれようとも、この身をもって、私は神を仰ぎ見るであろう。この私が仰ぎ見る、ほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。」ヨブは自分の苦しみを友人に訴えました。慰めてもらおう、力になってもらおうと願いました。しかし、帰ってきた答えは「あなたが罪を犯したから災いを招いたのだ。悔い改めて、神に許しを請いなさい」という冷たいものでした。友人たちは正しいかも知れない。しかし、正しさが人を救うわけではありません。人は誰も他者のために苦しみを分かち合うことは出来ない存在なのです。ヨブは人間に絶望しました。その絶望の中で、この暗闇もまた神の支配下にあり、苦しみが神と出会うために与えられたことに気がつきます。そのことに気づいた喜びが「私を購うものは生きておられる。後の日に彼は必ず地の上に立たれる」という告白でした。私たちが「何故」と聞くのを止めて、「何処へ」と聞き始めたとき、苦しみは恵みになります。だから、詩人は歌いました「苦しみにあったことは、私に良い事です。これによって私はあなたの掟を学ぶことができました」(詩篇119:71)。
・初代教会の人たちは、「この人こそ救い主」と信じていたイエスが、ローマ総督ピラトにより逮捕され、十字架につけられた時、これで全ては終わったと思いました。もう何の望みもないと思いました。しかし、その暗闇の中で復活のイエスに出会い、その出会いを通して彼らは再び立ち上がり、「イエスこそ神の子であった。私たちはその証人だ」と伝え始めました。イエスはローマにより十字架につけられました。ローマがキリストに勝利したかに見えました。しかし、勝利したローマはやがて滅び、今では廃墟としてその遺跡を残すのみです。他方、ローマに負けたかに見えたキリストは今日も多くの人の心に生きます。これは何故でしょうか。イエスを通じて多くの人が神と出会ったからです。イエスこそ、神の下さったプレゼントなのです。
・私たちはただの人間であり、私たちの方から神に近づき、知ることなど出来ません。だから神がイエスを送り、御自身を知る道を開いてくださった。このイエスを通じて、私たちは神に出会います。イエスは人々に見捨てられ、十字架刑で血を流して死んでいかれました。私たちは顔につばきをかけられたことはありませんが、イエスはかけられました。私たちは両手にくぎを打ち込まれたことはありませんが、この方は打ち込まれた。私たちの苦しみがどのように大きくとも、イエスの苦難に比べれば何ほどのことはない。こうして私たちは苦しみを耐える力を与えられます。そして耐えた時に光が見えてきます。
・ヨブは、苦しみを通して、自分が生きているのではなく、生かされていることを知りました。それを知った時、苦難という外部状況は何も変わらないのに、苦しみが苦しみでなくなりました。ヨブは神に出会うことを通して、人間の善悪に応じて報われる教条主義的な神ではなく、人間を通して働かれる神の姿に接したのです。イエスが言われたように、「神は善人にも悪人にも太陽を昇らせ、義人にも不義の人にも天を降らせる方」なのです(マタイ5:45)。太陽と雨は人間に恵みにもなれば、雨が洪水をもたらし、太陽が旱魃をもたらすように、災いにもなります。つまり、幸不幸は善人にも悪人にも訪れる。だから悪いことをしていないのに災いに会い、正しくないのに栄えても、それで良いのだということにヨブは気づかされたのです。
・そして偉大な言葉をヨブは語ります「私は知っている。私を贖う方は生きておられ、ついには塵の上に立たれるであろう」。その方は「ついには塵の上に立たれる」、「自分がだれの目にも敗北者として死んで、土を被っても、その墓場の土の上まで来て私の恥を雪いで下さる方が、生きておられる。私がその時墓場の土の下にいても、土の塵の上から、『この下にいるのは私の僕なのだ。この者を侮辱することは、この私が許さない』と、その方は言ってくださる」、その確信こそ信仰です。聖書学者・織田昭氏は「私は決して、こんな惨めたらしい敗北者の姿で終わるのではない。人は私の信仰の不毛を笑うだろうが、神は決して私をこのままお見捨てになる方ではない。その神に私は最後まで信頼する。」と語っています(織田昭聖書講解ノート)。この信仰が与えられるならば、他に何もいらないと思います。
・ヨブが友人のために執り成しの祈りをした時、主はヨブの苦難を取り除かれました。人は隣人のために働き始めた時に救われることをヨブ記は示しています。ただ最終章にありますヨブへの祝福は古代的、応報的です。ヨブ記は記します「主はその後のヨブを以前にも増して祝福された。ヨブは、羊一万四千匹、らくだ六千頭、牛一千くびき、雌ろば一千頭を持つことになった。彼はまた七人の息子と三人の娘をもうけ、長女をエミマ、次女をケツィア、三女をケレン・プクと名付けた。ヨブの娘たちのように美しい娘は国中どこにもいなかった。彼女らもその兄弟と共に父の財産の分け前を受けた。ヨブはその後百四十年生き、子、孫、四代の先まで見ることができた」(42:12-16)。この部分はおそらく後代の付加であり、まったく不要と思えます。不条理は不条理のままで、苦難は苦難のままで良いのです。「救済とは苦難や不条理が取り除かれることではなく、苦難の意味が変えられる」ことにあるのです。「苦難は解決される必要はない。神との出会いにより苦難は解消される」。この偉大な真理をヨブ記は伝えます。


カテゴリー: - admin @ 08時23分28秒

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