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2019年5月12日説教(ガラテヤ3:1-14、キリストの十字架死を無駄にするな)

1.救われるために何が必要なのか

・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て、「割礼を受けなければ本当の救いはない」と説得され、教会に混乱が生じていました。そのことを伝え聞いたパウロは、ガラテヤ教会に宛てた手紙を書きます「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。あなた方はキリストの十字架だけでは足りないかのように、割礼を受けようとしている。それはキリストの十字架の死を無駄にする行為だ、とパウロはガラテヤの人々に語ります。
・中心になる言葉は「割礼」です。割礼とは男性性器の包皮を切り取る行為ですが、元来は砂漠の不衛生の中で、体を清潔に保つために、与えられた戒めといわれています。今日でも砂漠地帯のアフリカや中東では割礼の習慣は残っており、ユダヤ教徒やイスラム教徒は宗教的儀式として割礼を受けます。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「選びのしるしとして男子はすべて割礼を受けなさい」と言われました(創世記17:9-11)。それ以降、ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に割礼を受けるようになりました。なお、この義務は男性だけのものです。ところが、その割礼がやがて、「割礼を受けなければ救われない」とされ、割礼が救いの条件になっていきます。パウロは「それはおかしい。私たちはキリストの十字架死という恵みによって救われるのであり,割礼の有無は関係がない」と主張し、エルサレムの使徒会議もその主張を受け入れました。そして、異邦人は割礼を受ける必要はないと決定されました。しかし、一部のユダヤ人信徒は依然として割礼の必要性を主張し、それがガラテヤ教会を混乱させていたのです。割礼は新約聖書に48回出てきますが、その半数はガラテヤ書とローマ書です。「割礼を受ける、受けない」は、ユダヤ人信徒と異邦人信徒の混在する教会に置いて起こった出来事なのです。
・その彼らにパウロは語ります「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(3:1)。「もし、割礼を受けなければ救われないのなら、キリストの十字架死は無駄だったのか」とパウロは迫ります。割礼の問題は、救われるためには何が必要かとの信仰の根本問題に関わります。人間は見えるしるしを求めます。割礼を受ければ救われるというように、救いを見える形にします。それが律法を守るという行為になります。パウロは言います「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(3:2)。あなた方はキリストの贖罪死によって罪を赦されたという福音を聞いて、信じた。その時には、割礼も律法も不要だったではないか、何故、今、「霊=福音によって始めたのに、肉=割礼によって仕上げようとするのですか」(3:3)とパウロは語ります。

2.あなた方は神の子とされた

・パウロは創世記にあるアブラハムの生涯を通して、救いとは何かを解き明かしていきます。彼は語ります「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(3:6)。創世記は記します「主は彼を外に連れ出して言われた『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい・・・あなたの子孫はこのようになる』。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:5-6)。その時、アブラハムには子供がおらず、また生まれる当てもありませんでした。妻サラは子が産めない体でした。相続人のいないアブラハムに「あなたの子孫は天の星のように増える」と宣言されて、彼は約束を信じ、義とされました。その時、アブラハムは割礼を受けていません。無割礼の時に救われたのであれば、何故割礼が救いの条件になるのかとパウロは問いかけます。アブラハムは救われたしるしとして割礼を受けたのに、いつの間にか、割礼が救いの条件になった、それはおかしいと彼は語るのです。
・パウロは続けます「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(3:10)。律法は人を救いません、何故なら、人は律法を守ることが出来ないからです。現在の国々の平和は、襲われたら襲い返すという威嚇の下に保たれています。武器は人を殺すためにあり、武器のない軍隊はなく、軍隊のない国はありません。日本は先の大戦で多くの命を失い、そのため憲法に武器を持たず、戦争をしないと憲法9条に明記しましたが、不安になり、憲法を改正しようとしています。今の日本は「割礼を受けようとするガラテヤ教会」とそっくりです。人間が戦争をやめることができないことは、「殺すな」という命令を守ることの出来ないしるしです。
・また「姦淫するな」と言われても、私たちは姦淫を犯し続けています。今日、結婚の三分の一は離婚で終わりますが、離婚原因は多くの場合、夫婦どちらかの不倫です。あのダビデ王でさえ、ウリヤの妻バテシバを欲して夫を殺しています。人は姦淫するなという戒めを守ることが出来ないのです。「盗むな」といわれても盗み続けます。上場企業でさえ、会計を不正操作して、株主や社員からお金を盗み取っています。アマゾンやアップルのような世界的大企業は複雑な会計処理により、実質的に税を払っていません。違法ではありませんが、責任ある大企業の為すべきことではありません。パウロが叫んだ通りです「正しい者はいない、一人もいない」(ローマ3:10)。
・人は律法を守ることは出来ない、つまり律法によっては救われない、だからこそ、キリストが十字架で死なれたのです。それが次の言葉です「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした」(3:13-14)。律法の視点から見れば、「木にかけられたキリスト」は呪われています。しかし神はそのキリストを十字架の死から起こされた、つまり律法の呪いから起こされ、そのことを通して神は律法の無効を宣言されたとパウロは語るのです。

3.相手を憎まない自由

・今日の招詞として、ローマ2:25を選びました。次のような言葉です。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」。割礼はイスラエルが約束の民とされた祝福の儀式です。肉を切り取るという痛みを通して神の民になる犠牲を受ける象徴でした。最初に与えられた律法は、十戒で、中核は安息日規定でした。民はエジプトでは奴隷であり、土曜日も日曜日も酷使された、その彼らに「週一日は休みなさい」として安息日が与えられました。しかし、時代が経つに従い、安息日の意味が変わってきます。「安息日には仕事をしてはいけない」、「安息日に仕事をする者は罰する」、やがては「安息日を守らない者は死刑にする」とまで規定が強化されます。律法の祝福が呪いになる、そこに律法主義の問題が生じるのです。
・これは旧約時代だけの話ではありません。日本のキリスト教はアメリカのピューリタン主義の影響を強く受け、禁酒・禁煙の伝統があります。酒やタバコは人体に害をもたらす。ある人がバプテスマを受けたのを契機にお酒をやめました。彼は祈りました「神は体を霊が宿る聖なる宮とされた。この宮をアルコールで汚すことはやめよう」。信仰からくる美しい決断です。しかし、自分がお酒を止めた人は、他の人がお酒を飲むことを許せなくなり、言い始めます「あなたはクリスチャンなのにお酒を飲むのですか」。やがて発言がエスカレートし、「あなたがクリスチャンであればお酒をやめなければいけない」と言い出します。この時、彼の信仰は律法主義に、人を呪うものに変わっていきます。
・パウロは本来の律法とは「隣人を自分のように愛することだ」と言います(5:14「律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされる」)。人はキリストに出会い、自由にさせられることを通して、自分の中にある「肉の欲」が、「霊の愛」に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。「自分も飲まないのだからあなたも飲むな」と肉の欲は強制します。他方、愛は自分が相手に仕えていく行為です。「私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者のあり方です。
・福音さえも律法化します。礼拝は恵みの時、神に出会う時です。だから私たちは礼拝を大事にします。しかし大事にした時、礼拝を休む人のことが気になり、やがて「礼拝を守らない人は救われない」と言い出しかねません。その時、福音が律法化します。礼拝に来ない人を呪うのではなく、「礼拝に来ることの出来ない人のために祈り続けていく」、それが福音に生かされた者のあり方です。どうすればそのような生き方が出来るのか。私たちが福音の原点、キリストの十字架に立ち戻った時です。パウロは語ります「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(1コリント8:11)ことを思い起こす時、私たちはもはや兄弟を憎むことは出来ません。自由とは何をしてもよいことではありません。そうではなく、兄弟を憎まない自由、兄弟の悪口を言わない自由、兄弟のために祈る自由が、与えられているのです。キリストの十字架に接して、私たちは兄弟を憎まない自由を強制ではなく、自由意志で選び取っていくのです。


カテゴリー: - admin @ 08時21分24秒

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