すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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2019年6月2日説教(ガラテヤ6:1−10、互いに重荷を担いなさい)

1.肉ではなく、霊によって歩め

・ガラテヤ書を読み続けています。今日が最終回です。ガラテヤ教会はパウロが設立しましたが、パウロが立ち去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て、「人は信じるだけでは救われない。救われたしるしとして割礼を受けなければいけない」として、人々に割礼を求め、教会に混乱が生じていました。エルサレム教会の人々はユダヤ教の伝統の中で育って来ましたので、救いのしるしとして割礼を受けることは当然だと考えていたのです。しかし、パウロはこの割礼に猛然と反対し、ガラテヤ教会にあてた手紙の中で、言います「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。
・パウロは続けます「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい」(5:13)。ガラテヤ書は宗教改革者マルティン・ルターの特に愛した書だといわれています。竹森満佐一先生はルターの言葉を記します「ガラテヤ書は私の信頼する私の手紙である。私のケーテ・フォン・ボーラである」(ガラテヤ書講解説教から)。ケーテ・フォン・ボーラ、ルターの妻の名前です。それほどに愛し、信頼してということでしょう。ルターは修道士でした。ルターの妻も修道女でした。二人とも結婚しないとの誓約をしていたはずです。しかし「あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです」というパウロの言葉が二人を後押ししたのでしょう。二人は誓約から自由になって結婚しました。まさに聖書の言葉は私たちの人生を変える力を持っています。
・人はキリストの霊をいただくことによって、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。それは具体的にどういうことか、どのように実践すべきかを、パウロは教会の人々に伝えます。それが今日、お読みするガラテヤ6章「重荷を担い合う生き方」です。パウロは言います「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(6:1)。私たちは洗礼を受けてキリスト者になりますが、それでも罪を犯し続けます。では洗礼を受けて何が変わるのか、それは「自分が罪を犯し続ける存在であり、それでもキリストに赦されて現在を生かされていることを知る」ことです。キリスト者は自分が罪人であることを知るゆえに、相手の罪を責めなくなります。そこに柔和が生まれ、この柔和が交わりを生みます。それが2節の言葉です「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」。重荷とは、労苦です。労苦を担い合いなさい、隣人を愛するとは、相手の労苦を共に担うことです。それは「疲れた者、重荷を負う者は、だれでも私の許に来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)と言われたイエスの後に従う行為です
・パウロは、言葉を続けます「実際には何者でもないのに、自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、その人は自分自身を欺いています。各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人に対しては誇ることができないでしょう。めいめいが自分の重荷を担うべきです」(6:3-5)。私たちの行為は、最終的に神の御前で審判を受けます。その時、「あの人に比べて悪いことはしていない」とか、「世間の人は賞賛してくれた」等の言葉は何の意味も持ちません。神の前に立って恥ずかしくないように、今現在を生きなさいとパウロは語ります「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります」(6:8)。だから「たゆまず善いことを行いなさい」(6:9-10)とパウロは教会の人々に語るのです。

2. イエスの焼き印を身に帯びて

・パウロは手紙の最後に言います「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。もし人が神からの招き=福音を受け入れるなら、その人の生き方は根本から変えられます。新しい創造が始まるのです。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされます。私たちも洗礼という形で、「イエスの焼き印」を身に帯びています。まだ洗礼を受けていない人はぜひ洗礼を受けてほしい。それはイエスと共に十字架に死に、イエスと共に新しい命を生きるという「焼き印」です。その焼き印を受けて人は教会に加わるのです。教会は地上にあるゆえに問題を抱えた群れではありますが、それでも地上に開かれた神の国の入り口なのです。
・パウロは言葉を続けます「これからは、だれも私を煩わさないでほしい。私は、イエスの焼き印を身に受けているのです」(6:17)。「焼印=スティグマ」、焼き鏝で奴隷につけられる所有者の印です。パウロはキリストに対する信仰故に数々の迫害を受けて来ましたが、体に残る鞭の傷跡こそ「イエスの焼き印」と考えています。だから彼はキリストなしの信仰には我慢がならないのです。だから彼は割礼を受けよと勧める宣教者に対して、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)と激しい言葉を用います。
・ガラテヤ教会の人々も、またエルサレムの伝道者たちも、手紙の激しさにびっくりし、また憤慨したでしょう。伝道者たちに言わせれば、「自分たちはキリストの福音を伝えており、ただ同胞ユダヤ人の誤解を避けるために教会の人々に割礼を奨励しただけだ」ということでしょう(6:12)。またガラテヤの教会員も思ったことでしょう「自分たちはキリストの福音を信じている。ただその信仰に加えて律法の行いを守ろうとするのが何故そんなに悪いのか」。パウロは何故こんなに激しく怒るのでしょうか。それは「異なる福音」が、キリストの恵みを台無しにするからです。割礼に代表される律法主義は教会を壊す「パン種(腐敗の元)」なのです(5:9)。

3.教会の実生活の中で

・では人はどのように変わりうるのか、それを確認するために、招詞にヨハネ8:11を選びました。次のような言葉です「 女が『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。律法学者とファリサイ派の人々が姦通の現場で捕えた女性を連れて来て言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています」(8:4-5)。イエスは答えられます「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(8:7)。イエスの答えを聞いた者は、「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエス一人と、真ん中にいた女が残」されました(8:9)。イエスは、人々に、「あなたは本当に神の前に無罪だと言えるのか、本当に姦淫の思いを抱いたことはないのか」という問いかけをされたのです。良心を持つ人は誰も、「自分は神の前に罪を犯したことがない」と言うことが出来ません。だから誰も石を投げることが出来ませんでした。
・聖書に語る「罪」には二つの区分があります。英語では法を犯す罪、犯罪をCrime、内なる心で犯す罪をSinと言い分けています。そしてこの内なる罪Sinこそが外に現れ出て、Crimeとなるのです。イエスが、「あなたたちの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言われた後、ファリサイ人や律法学者が立ち去ったのは、「自分たちは神の戒めを破ったことはない。神の前でSinなる罪を犯したことはない」と言い切れなかったからです。聖書のいう罪を正しく認識した時、誰も他人を裁けなくなります。みながいなくなり、その場には女性とイエスの二人だけが残されました。イエスは残された女性に言われます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」(8:10)。女性が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われた。「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(8:11)。イエスはそれ以上、咎めようとせず、女性を解放されました。
・ヨハネ7:53-8:11は聖書では〔 〕の中に書かれています。古い写本に記載がなく、後代の加筆の可能性が高く、資料的な問題があることを示します。この部分をルカ21:38の後に入れている写本もあり、おそらくは当初ルカ福音書にあったものが削除されて、後にヨハネ福音書に挿入されたのではないかと思われます。何故なのでしょうか。姦淫の罪を犯したにもかかわらず、その罪を無条件に赦されるイエスの態度に、ルカ教会の人々が戸惑ったからだと思われます。しかしヨハネ教会の人々はその戸惑いを超える真実を物語の中に見出したゆえに、あえてこの物語を自分たちの福音書の中に挿入したのだと思われます。
・ここに在るのは無条件の赦しではありません。「私もあなたを罪に定めない」とは、「あなたは罪を犯した。しかしあなたはこの辱めを通して自分の罪を知った。もう十分だ」という意味です。だから「もう罪を犯してはならない」。女を律法通り石打の刑で殺した時、一人の命が失われ、そこには何の良いものも生まれません。それは父なる神の御心ではない。しかし、女に対する処罰を猶予することによって、女は生まれ変わり、新しい人生を生き始める。ここに、「人を滅ぼすための裁き」ではなく、「人を生かすための裁き」が為されています。倫理や道徳を強調するルカ福音書の編集者はこれを削除し、偏見を超えて赦しの物語に注目したヨハネ福音書の編集者がこれを拾い、その結果「福音の中の福音」が残されました。愛するとは赦すことであるとの真理がここ示されました。内村鑑三はこの箇所を「この一篇の如き、これを全福音の縮図として見ることが出来る。もしこの篇だけが残っていてもイエスの感化は永久に消えない」と評しています(内村鑑三、1929.11、聖書の研究)。
・パウロが「万一だれかが不注意にも何かの罪に陥ったなら、霊に導かれて生きているあなたがたは、そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせなさい」(6:1)と語るのも同じです。「互いに重荷を担いなさい」(6:2)、排除するのではなく、受け入れなさい。イエスが一人の女性の人生を買い取られたように、あなたも赦された者として、あなたの出会う相手の人生を買い取りなさいとパウロは語るのです。ガラテヤ書には「イエスの愛」と、それに従う「弟子パウロの愛」が息づいています。そこを読み取った時、この聖書の言葉が私たちの生き方を変える言葉になるのです。


カテゴリー: - admin @ 07時56分24秒

05 26

2019年5月26日説教(ガラテヤ5:1-15、キリスト者の自由)

1.福音から離れ始めたガラテヤ諸教会へ

・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤ書の舞台は小アジアのガラテヤです。最初のキリスト教会はエルサレムに生まれました。復活のイエスに出会った弟子たちがエルサレムに集められ、ペンテコステの日に、聖霊を受け、福音を語り始め(使徒2:36)、多くの人々がバプテスマを受け、教会が生まれました。当初のエルサレム教会はユダヤ人信徒で構成されていましたが、一部の信徒たちはユダヤ教の中核である神殿礼拝や祭儀を拒否したため、彼らはサマリヤやシリアに追放され、そこに新しい教会が生まれていきます。シリアのアンティオキアを中心とするユダヤ人・異邦人混合教会です。アンティオキア教会はやがて、キプロスや小アジア、ギリシア等へも宣教師を派遣し、ガラテヤ、エペソ、コリント等にも教会が生まれて来ました。福音がローマ世界に広がり始めましたが、同時にいろいろの問題が生じて来ました。
・ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが立ち去った後、エルサレムから派遣されたユダヤ人教師たちが、「キリストを救い主として受け入れるだけでは十分ではない。救われたしるしとして割礼を受けなければいけない」として、人々に割礼を求めました。そのことを伝え聞いたパウロは、ガラテヤ諸教会宛てに手紙を書き、「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)と彼らが割礼を受けないように迫りました。
・アンティオキア教会にはユダヤ人もギリシア人もいましたが、民族は違っても兄弟姉妹の交わりがなされ、信仰が民族を超えたものとなり、人々はその地で初めて「クリスティアノ」(キリスト者)と呼ばれ始めました。しかし、エルサレム教会の人々は依然としてユダヤ教の枠内にいて、「異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない」と主張していました。パウロはエルサレムに行って、使徒たちと話し合いを行い、異邦人には割礼を強制しないことが決められましたが、原理主義的なグループは律法に対しこだわり続け、「割礼を受けなければ救いはない」と諸教会に申し送り、争いが絶えませんでした。そのためにガラテヤ書が書かれました。

2.再び奴隷に戻るな

・ガラテヤの人々は、割礼を受けなければ救われないとのエルサレム教会の指導を受けて、割礼を受けようとしています。パウロは彼らに言います「自由を得させるために、キリストは私たちを自由の身にして下さったのです。だから・・・奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」(5:1-2)。割礼を受ける、律法によって救われるとは、律法をすべて守ることを意味しますが、そのようなことは人には出来ません。自然のままの人間は自己の欲望を制御できない、私たちは律法を守ることは出来ない、だからキリストが死んで下さった、その恵みにすがるしかないとパウロは語ります「割礼を受ける人すべてに、もう一度はっきり言います。そういう人は律法全体を行う義務があるのです。律法によって義とされようとするなら、あなたがたはだれであろうと、キリストとは縁もゆかりもない者とされ、いただいた恵みも失います」(5:3-5)。
・パウロは続けます「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」(5:6)。形ではない、中身なのだとパウロは語ります。ユダヤ主義者たちは形のある信仰を求めました。律法は見えます。割礼を受ける、安息日を守る、食べていけないと言われたものは食べない、見えるものを守ることで救いの確信を得たいと思うのが律法主義です。しかし、この律法主義は教会を壊す悪を秘めています。パウロは言います「僅かなパン種が練り粉全体を膨らませるのです」(5:9)と。小麦粉の塊にパン種(酵母)を入れて焼くと、ふっくらとした、やわらかいパンになります。私たちは酵母の働きが人の役に立つ時、それを「発酵」と言い、役に立たない時、「腐敗」と言います。しかし、腐敗も発酵も同じ菌の働きです。ガラテヤの人々は割礼を受け、律法を守ることを、パンをおいしくする信仰的な行為として受け入れようとしていますが、パウロは「それはパンをおいしくするのではなく、パンを腐らせる行為だ。律法主義を受け入れた時、教会はキリストの体ではなくなる」と語ります。
・律法そのものは悪ではありません。ただ「律法を守れば救われる、守らない者は裁かれる」とする時に、それは悪になって行きます。安息日は「休みなさい」という恵みですが、「安息日を守らない者は呪われる」とした時、その律法が悪になって行きます。割礼もそうです。神に従うしるしとして割礼を身に帯びることは祝福ですが、「割礼を受けない者は救われない」とする時、それは悪になって行きます。人は良いものを悪に変えてしまう存在なのです。

3.キリスト者の自由

・今日の招詞にルカ18:13を選びました。次のような言葉です「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人の私を憐れんでください』」。イエスは、自分は正しいとして人を見下しているファリサイ人を懲らしめるために、ある喩え話をされました。こういう話です「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、私は他の人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。私は週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』」(18:10-12)。
・ここに典型的な律法主義者の生き方が示されています。「してはいけないと定められた悪いことはしていません。しなさいと言われた良いことをしています。だから救って下さい」。自分は律法を守っている、自分は正しいと自負する人は、対価として救いを要求します。そして律法を守らない人を攻撃します(私は徴税人のような者でもない)。それに対して、罪人と名指しで攻撃された徴税人の祈りが、招詞の言葉です。彼は自分が救いに価しないことを知っています。彼にできることはただ神の憐れみを乞うことだけです。イエスは言われます「言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(18:14)。パウロが割礼にこだわるのもそのためです。割礼を受けた人は自分の救いを神に要求するようになる。それはもはや神の恵みに生きる福音信仰ではなく、自分の力を頼みにする偶像礼拝です。
・パウロは語ります「兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互いに仕えなさい。律法全体は『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです」(5:13-14)。自由とは「自分の思う通り何でもできる」ことではありません。人はキリストに出会い、解放されることを通して、自分の中にある肉の欲が、霊の愛に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。他方、霊の愛は自分が相手に仕えていく行為です。前にもお話ししましたが、オーストラリア駐在時代にお世話になったD.ヘイマン宣教師は、私たちに次のように語りました「私はワインが大好きです。オーストラリアのワインはおいしい。しかし、宣教師がお酒を飲むことにつまずく人もいるので、私はお酒をやめました。しかし、あなた方はどうぞおいしいワインを楽しんで下さい」。「つまずく人がいるので、私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者の自由、愛に基づく自由です。
・律法からの解放は人を自由にします。マルテイン・ルーサー・キングは、1963年に「汝の敵を愛せ」という説教を行いました。当時、キングはアトランタの黒人教会の牧師でしたが、公民権運動の指導者として投獄されたり、教会に爆弾が投げ込まれたり、子供たちがリンチにあったりしていました。そのような中で彼は語ります。「イエスは汝の敵を愛せよと言われたが、敵を好きになれとは言われなかった。我々の子供たちを脅かし、我々の家に爆弾を投げてくるような人をどうして好きになることが出来よう。しかし、好きになれなくても私たちは敵を愛そう。何故ならば、敵を憎んでもそこには何の前進も生まれない。憎しみは憎しみを生むだけだ。愛は贖罪の力を持つ。愛が敵を友に変えることの出来る唯一の力なのだ」敵を友に変えることの出来る愛はアガペーの愛であり、それは感情ではなく、意思です。それは神から与えられる賜物です。割礼はこの賜物を虚しくするのだとパウロは語るのです。
・私たちは嫌いな人を好きになることはできなくとも、彼らのために祈ることはできます。自分に敵対する人のために祈るという実験を私たちが始めた時、その祈りは真心からのものではなく、形式的なものでしょう。しかし形式的であれ、祈り続けることによって、「憎しみが愛に変わっていく」体験をします。その時、私たちは隣人の欠点を数えなくなります。パウロは言います「割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:15)。「新しく創造される」、キリストの愛によって根底から変えられる、その道に私たちは招かれているのです。
・最後にパウロがコリント教会に書いた自由の定義を引用します。「全てのことが許されている。しかし、全てのことが益になるわけではない。全てのことが許されている。しかし、全てのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」(第一コリント10:23-24)。自由とは何をしてもよいことではない。そうではなく、兄弟を憎まない自由、兄弟の悪口を言わない自由、兄弟のために祈る自由が、与えられている。キリストの十字架に接して、私たちは兄弟を憎まない自由を強制ではなく、自由意志で選び取っていくのです。


カテゴリー: - admin @ 08時23分01秒

05 19

2019年5月19日説教(ガラテヤ4:8-20、罪の奴隷に逆戻りするな)

1.自由になったのに奴隷に逆戻りしてはいけない

・ガラテヤ書を読み続けています。パウロの伝道により、ガラテヤの人々は、それまでの偶像礼拝からキリスト教信仰に目覚めました。しかし、その後に来たエルサレム教会からのユダヤ人伝道者の影響を受けて、彼らは割礼を受けようとしています。パウロは、「律法の奴隷から解放されたのに、何故また割礼を受けて、奴隷に戻ろうとするのか」と教会の人々に手紙を出しました。
・パウロは記します「相続人は、未成年である間は・・・父親が定めた期日までは後見人や管理人の監督の下にいます。同様に私たちも、未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていました」(4:1-3)。「あなたがたは未成年であった時は、世を支配する諸霊に奴隷として仕えていた」、しかし、キリストが来られてあなた方は自由を与えられた。「時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、私たちを神の子となさるためでした」(4:4-5)。だから「あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」(4:7)。
・そのあなたがたが今、割礼を受けて律法に戻ろうとしているが、それはかつてあなたがたを支配していた「諸霊(ストイケイア)の奴隷」に戻ることだとパウロは語ります。「あなたがたはかつて、神を知らずに、もともと神でない神々に奴隷として仕えていました。しかし、今は神を知っている、いや、むしろ神から知られているのに、なぜ、あの無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りし、もう一度改めて奴隷として仕えようとしているのですか」(4:8-9)。「あなた方は神から知られている」、あなた方は「神から受容されている」。それなのに、魂の救いを、この世の秩序や断食等の行為に求めようとしているのか、それは自然界の輓呂悗虜禿戮領貘阿紡召覆蕕覆い犯爐聾譴蠅泙后屬△覆燭たは、いろいろな日、月、時節、年などを守っています。あなたがたのために苦労したのは無駄になったのではなかったかと、あなたがたのことが心配です」(4:10)。自然界の輓蓮瓮好肇ぅ吋ぅ△箸蓮∈Fの私たちをも支配しているこの世の悪魔的霊力、罪のことです。
・聖書でいう罪=ハマルテイアとは、「的から外れる」という意味です。的から外れる、神なしで生きるという意味です。神なき世界では、人間は人間しか見えません。他者が自分より良いものを持っていればそれが欲しくなり(=貪り)、他者が自分より高く評価されれば妬ましくなり(=妬み)、他者が自分に危害を加えれば恨みます(=恨み)。神なき世界では、この貪りや妬み、恨みという人間の本性がむき出しになり、それが他者との争いを生み出していきます。神なき世界では、この世は弱肉強食の、食うか食われるかの世界です。パウロはそこに悪魔的霊力(ストイケイア)が働いていると見るのです。
・その霊力が世の権力と結びつく時、社会を破壊する恐ろしい力を持ちます。現代の私たちは地球を何度も破壊する量の核兵器を所有しています。広島、長崎への原爆投下を通して、核兵器が悪魔の兵器であることを誰もが知ったのに、世界はそれを廃絶することが出来ない。「核兵器は抑止力として必要だ」とうそぶく人々は悪魔的力の奴隷になっています。原子力発電も同じです。私たちは福島原発事故を契機に原子力発電の怖さを知り、放射性廃棄物を処理する能力がないことを知りました。それにも関わらず、原発再稼働が当然のように進められています。現代の私たちも悪的諸霊=ストイケイアから自由になっていないのです。ストイケイア、医師の加賀乙彦は「人は意識と無意識の間の、ふわふわとした心理状態にある時に、犯罪を犯したり、自殺をしようとしたり、扇動されて一斉に同じ行動に走ってしまったりする。その実行への後押しをするのが、『自分ではない者の意志』のような力、すなわち「悪魔のささやき」である」(加賀乙彦「悪魔のささやき」から)と語ります。
・人間がこの罪の縄目から自由になるために、神は私たちにキリストを送られ、人間の罪がキリストを十字架につけるままに任された。私たちはキリストの十字架死を通して、「逆らう者は殺す」という人間の「罪の原点」を見ます。しかし神はイエスを死から起こすことを通して、罪を放置することを許されなかった。だから私たちはキリストの十字架死を通して救われる。それなのにあなた方は「救われるためにはキリストだけでは不十分だ」と言い始めている。あなたがたが割礼を受けるとは、「神無き世界に逆戻りすることだ」とパウロは語っています。

2.ガラテヤ教会をもう一度生むと言うパウロ

・12節からパウロの語調が変わり、これまでの論難調から、人々に対する個人的な語りかけになって行きます。「私もあなたがたのようになったのですから、あなたがたも私のようになってください」(4:12)。パウロは異邦のガラテヤ人に福音を伝えるためにユダヤ人であることを捨てました。彼らに割礼を強制せず、食物規定を守ることさえ求めなかった。その私をあなた方は暖かく迎え入れてくれたとパウロは回想します「あなたがたは、私に何一つ不当な仕打ちをしませんでした。知っての通り、この前私は、体が弱くなったことがきっかけで、あなたがたに福音を告げ知らせました。そして、私の身には、あなたがたにとって試練ともなるようなことがあったのに、さげすんだり、忌み嫌ったりせず、かえって、私を神の使いであるかのように、また、キリスト・イエスででもあるかのように、受け入れてくれました」(4:12b-14)。
・パウロはガラテヤに行った時、病気に悩まされていたようです。その病気は眼病であったようです(4:15b「あなたがたは、できることなら、自分の目をえぐり出しても私に与えようとしたのです」)。かつてパウロを師として慕った人々が、今はパウロが敵であるかのように考えている。パウロは嘆きます「あなたがたが味わっていた幸福は、いったいどこへ行ってしまったのか」(4:15a)。パウロは彼らをたぶらかせたエルサレム教会の伝道者を批判します「私は、真理を語ったために、あなたがたの敵となったのですか。あの者たちがあなたがたに対して熱心になるのは、善意からではありません。かえって、自分たちに対して熱心にならせようとして、あなたがたを引き離したいのです」(4:16-17)。そしてパウロはガラテヤの人々に呼びかけます「私の子供たち、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、私は、もう一度あなたがたを産もうと苦しんでいます。できることなら、私は今あなたがたのもとに居合わせ、語調を変えて話したい。あなたがたのことで途方に暮れているからです」(4:19-20)。しかしパウロは「途方に暮れても行き詰まりません」(2コリント4:8)。

3.罪からの解放

・今日の招詞にガラテヤ6:14-15を選びました。次のような言葉です。「この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」。もし人が神からの招き=福音を受け入れるなら、人の生き方は根本から変えられます。新しい創造が始まるのです。新しく創造された人は「世に対してはりつけにされている」、世とは異なる価値観に生かされます。私たちが信仰を教会の中だけに留めておけば、世との関係は良好に保たれるでしょう。しかし、私たちはどう生きたかを最後の審判の時に問われます。私たちが世の悪を見て見ぬふりをし、泣いている人々の顔を見つめようとしなければ、「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)と叱責されるでしょう。日本のキリスト教会は明治以降150年経っても、信徒数が人口の1%を超えることが出来なかった。それは日本人の信仰が個人の救いに留まり、社会的な広がりを持たなかったからです。信仰と生活が分離し、信仰がその人の生き方を変えなかったからです。
・人が信仰に導かれるのは、信仰者の行為に感動した時です。劇作家の井上ひさしさんは、15歳の時に養護施設に入りますが、「その施設で働く修道士たちの生きざまを見てカトリックの信仰に入った」と語ります。「500項目以上の公教要理を暗唱し、毎朝6時からのミサにもきちんと出席して、洗礼を受けるようになった。しかし、それは、カトリックの教理をよく理解したからというのではない。私が信じたのは、はるか東方の異郷にやってきて、孤児たちの夕餉を少しでも豊かにしようと、荒れ地を耕し、人糞をまき、手を汚し、爪の先に土と糞をこびりつかせ、野菜を作る外国人の師父たちであり、母国の修道会本部からの修道服を新調するようにと送られてくる羅紗の布地を、孤児たちのための学生服に流用し、依然として自分たちは、手垢と脂汗と摩擦でてかてかに光り、継ぎの当たった修道服で通した修道士たちであった。私は天主の存在を信じる師父たちを信じたのであり、キリストを信じるぼろ服の修道士たちを信じ、キリストの新米兵士になったのだ」(井上ひさし「道元の冒険」後書きから)。
・パウロはガラテヤの人々が割礼を受けることに強硬に反対しました。割礼を受けよと勧めるエルサレム教会の伝道者に対して、「あなたがたをかき乱す者たちは、いっそのこと自ら去勢してしまえばよい」(5:12)とさえ叫びます。割礼が何故そんなにいけないのか、それは「割礼を受ける」ことによって、救いの決定権を人間の側が持つようになるからです。割礼を受けた者は、「割礼を受けたのだから救って下さい」と神に迫っていくようになります。律法主義は自分の行いの正しさを神の前に持ち出すのです。そこでは「自分は正しい」という主張はあっても、心の変革は生じません。福音は、無条件で人間を赦し救って下さる神の憐れみを信じることです。この無条件の救いが人間の変革をもたらすのです。
・パウロは怒って、この手紙を書いています。正面から相手を面罵する手紙を書けば、相手の感情を逆なでし、逆効果になりかねないことをパウロは承知しています。それでも書かざるを得ません。福音の本質が損なわれようとしているからです。この手紙は宗教改革者マルティン・ルターの熱愛の書でした。ルターが戦ったカトリック教会は「イエスを信じる信仰だけでは十分ではない。人は善行を積むことによって救われる」と功績主義を掲げていました。「律法による救い」のカトリック版(善行による救い)です。その教会にルターは激しい言葉で、「呪われよ(アナテマ)」と叫びました。まるでパウロのように、です(ガラテヤ1:9)。今日でも教会の中に「善行を積めば救われる」、「信仰すれば幸せになれる」という誤った幸福主義が入り込む危険性があります。私たちはパウロのように、ルターのように、この「異なった福音」を拒否する必要があります。イエスが私たちの為に殺され、イエスの弟子であるパウロやペテロも殺されています。この救いは高価な贖い、命をかけて贖われたものなのです。


カテゴリー: - admin @ 08時29分01秒

05 12

2019年5月12日説教(ガラテヤ3:1-14、キリストの十字架死を無駄にするな)

1.救われるために何が必要なのか

・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤの諸教会はパウロの伝道によって設立されましたが、パウロが去った後、エルサレムから派遣された教師たちが来て、「割礼を受けなければ本当の救いはない」と説得され、教会に混乱が生じていました。そのことを伝え聞いたパウロは、ガラテヤ教会に宛てた手紙を書きます「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。あなた方はキリストの十字架だけでは足りないかのように、割礼を受けようとしている。それはキリストの十字架の死を無駄にする行為だ、とパウロはガラテヤの人々に語ります。
・中心になる言葉は「割礼」です。割礼とは男性性器の包皮を切り取る行為ですが、元来は砂漠の不衛生の中で、体を清潔に保つために、与えられた戒めといわれています。今日でも砂漠地帯のアフリカや中東では割礼の習慣は残っており、ユダヤ教徒やイスラム教徒は宗教的儀式として割礼を受けます。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「選びのしるしとして男子はすべて割礼を受けなさい」と言われました(創世記17:9-11)。それ以降、ユダヤ人の男子は生まれてから8日目に割礼を受けるようになりました。なお、この義務は男性だけのものです。ところが、その割礼がやがて、「割礼を受けなければ救われない」とされ、割礼が救いの条件になっていきます。パウロは「それはおかしい。私たちはキリストの十字架死という恵みによって救われるのであり,割礼の有無は関係がない」と主張し、エルサレムの使徒会議もその主張を受け入れました。そして、異邦人は割礼を受ける必要はないと決定されました。しかし、一部のユダヤ人信徒は依然として割礼の必要性を主張し、それがガラテヤ教会を混乱させていたのです。割礼は新約聖書に48回出てきますが、その半数はガラテヤ書とローマ書です。「割礼を受ける、受けない」は、ユダヤ人信徒と異邦人信徒の混在する教会に置いて起こった出来事なのです。
・その彼らにパウロは語ります「ああ、物分かりの悪いガラテヤの人たち、だれがあなたがたを惑わしたのか。目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(3:1)。「もし、割礼を受けなければ救われないのなら、キリストの十字架死は無駄だったのか」とパウロは迫ります。割礼の問題は、救われるためには何が必要かとの信仰の根本問題に関わります。人間は見えるしるしを求めます。割礼を受ければ救われるというように、救いを見える形にします。それが律法を守るという行為になります。パウロは言います「あなたがたが“霊”を受けたのは、律法を行ったからですか。それとも、福音を聞いて信じたからですか」(3:2)。あなた方はキリストの贖罪死によって罪を赦されたという福音を聞いて、信じた。その時には、割礼も律法も不要だったではないか、何故、今、「霊=福音によって始めたのに、肉=割礼によって仕上げようとするのですか」(3:3)とパウロは語ります。

2.あなた方は神の子とされた

・パウロは創世記にあるアブラハムの生涯を通して、救いとは何かを解き明かしていきます。彼は語ります「アブラハムは神を信じた。それは彼の義と認められた」(3:6)。創世記は記します「主は彼を外に連れ出して言われた『天を仰いで、星を数えることができるなら、数えてみるがよい・・・あなたの子孫はこのようになる』。アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」(15:5-6)。その時、アブラハムには子供がおらず、また生まれる当てもありませんでした。妻サラは子が産めない体でした。相続人のいないアブラハムに「あなたの子孫は天の星のように増える」と宣言されて、彼は約束を信じ、義とされました。その時、アブラハムは割礼を受けていません。無割礼の時に救われたのであれば、何故割礼が救いの条件になるのかとパウロは問いかけます。アブラハムは救われたしるしとして割礼を受けたのに、いつの間にか、割礼が救いの条件になった、それはおかしいと彼は語るのです。
・パウロは続けます「律法の実行に頼る者はだれでも、呪われています。『律法の書に書かれているすべての事を絶えず守らない者は皆、呪われている』と書いてあるからです」(3:10)。律法は人を救いません、何故なら、人は律法を守ることが出来ないからです。現在の国々の平和は、襲われたら襲い返すという威嚇の下に保たれています。武器は人を殺すためにあり、武器のない軍隊はなく、軍隊のない国はありません。日本は先の大戦で多くの命を失い、そのため憲法に武器を持たず、戦争をしないと憲法9条に明記しましたが、不安になり、憲法を改正しようとしています。今の日本は「割礼を受けようとするガラテヤ教会」とそっくりです。人間が戦争をやめることができないことは、「殺すな」という命令を守ることの出来ないしるしです。
・また「姦淫するな」と言われても、私たちは姦淫を犯し続けています。今日、結婚の三分の一は離婚で終わりますが、離婚原因は多くの場合、夫婦どちらかの不倫です。あのダビデ王でさえ、ウリヤの妻バテシバを欲して夫を殺しています。人は姦淫するなという戒めを守ることが出来ないのです。「盗むな」といわれても盗み続けます。上場企業でさえ、会計を不正操作して、株主や社員からお金を盗み取っています。アマゾンやアップルのような世界的大企業は複雑な会計処理により、実質的に税を払っていません。違法ではありませんが、責任ある大企業の為すべきことではありません。パウロが叫んだ通りです「正しい者はいない、一人もいない」(ローマ3:10)。
・人は律法を守ることは出来ない、つまり律法によっては救われない、だからこそ、キリストが十字架で死なれたのです。それが次の言葉です「キリストは、私たちのために呪いとなって、私たちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです。それは、アブラハムに与えられた祝福が、キリスト・イエスにおいて異邦人に及ぶためであり、また、私たちが、約束された"霊"を信仰によって受けるためでした」(3:13-14)。律法の視点から見れば、「木にかけられたキリスト」は呪われています。しかし神はそのキリストを十字架の死から起こされた、つまり律法の呪いから起こされ、そのことを通して神は律法の無効を宣言されたとパウロは語るのです。

3.相手を憎まない自由

・今日の招詞として、ローマ2:25を選びました。次のような言葉です。「あなたが受けた割礼も、律法を守ればこそ意味があり、律法を破れば、それは割礼を受けていないのと同じです」。割礼はイスラエルが約束の民とされた祝福の儀式です。肉を切り取るという痛みを通して神の民になる犠牲を受ける象徴でした。最初に与えられた律法は、十戒で、中核は安息日規定でした。民はエジプトでは奴隷であり、土曜日も日曜日も酷使された、その彼らに「週一日は休みなさい」として安息日が与えられました。しかし、時代が経つに従い、安息日の意味が変わってきます。「安息日には仕事をしてはいけない」、「安息日に仕事をする者は罰する」、やがては「安息日を守らない者は死刑にする」とまで規定が強化されます。律法の祝福が呪いになる、そこに律法主義の問題が生じるのです。
・これは旧約時代だけの話ではありません。日本のキリスト教はアメリカのピューリタン主義の影響を強く受け、禁酒・禁煙の伝統があります。酒やタバコは人体に害をもたらす。ある人がバプテスマを受けたのを契機にお酒をやめました。彼は祈りました「神は体を霊が宿る聖なる宮とされた。この宮をアルコールで汚すことはやめよう」。信仰からくる美しい決断です。しかし、自分がお酒を止めた人は、他の人がお酒を飲むことを許せなくなり、言い始めます「あなたはクリスチャンなのにお酒を飲むのですか」。やがて発言がエスカレートし、「あなたがクリスチャンであればお酒をやめなければいけない」と言い出します。この時、彼の信仰は律法主義に、人を呪うものに変わっていきます。
・パウロは本来の律法とは「隣人を自分のように愛することだ」と言います(5:14「律法全体は「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされる」)。人はキリストに出会い、自由にさせられることを通して、自分の中にある「肉の欲」が、「霊の愛」に変えられていきます。肉の欲とは相手を自分に仕えさせようとする欲です。「自分も飲まないのだからあなたも飲むな」と肉の欲は強制します。他方、愛は自分が相手に仕えていく行為です。「私は飲まない、しかしあなたは飲んで楽しみなさい」。これが律法から解放されたキリスト者のあり方です。
・福音さえも律法化します。礼拝は恵みの時、神に出会う時です。だから私たちは礼拝を大事にします。しかし大事にした時、礼拝を休む人のことが気になり、やがて「礼拝を守らない人は救われない」と言い出しかねません。その時、福音が律法化します。礼拝に来ない人を呪うのではなく、「礼拝に来ることの出来ない人のために祈り続けていく」、それが福音に生かされた者のあり方です。どうすればそのような生き方が出来るのか。私たちが福音の原点、キリストの十字架に立ち戻った時です。パウロは語ります「私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあってはなりません。この十字架によって、世は私に対し、私は世に対してはりつけにされているのです。割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(6:14-15)。「その兄弟のためにもキリストが死んでくださった」(1コリント8:11)ことを思い起こす時、私たちはもはや兄弟を憎むことは出来ません。自由とは何をしてもよいことではありません。そうではなく、兄弟を憎まない自由、兄弟の悪口を言わない自由、兄弟のために祈る自由が、与えられているのです。キリストの十字架に接して、私たちは兄弟を憎まない自由を強制ではなく、自由意志で選び取っていくのです。


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2019年5月5日説教(ガラテヤ2:15-21、信仰はあなたを自由にする)

1.律法からの解放

・ガラテヤ書を読み続けています。ガラテヤ書の主題は、「律法からの解放」です。パウロは小アジア(現在のトルコ地方)のガラテヤ地方を何度か訪れ、そこにいくつかの教会が生まれました。彼はその後エペソに移りましたが、そのパウロのもとに、「ガラテヤの人々がパウロの伝えた福音から離れ、割礼を受けようとしている」との知らせが届きました。パウロの去った後に、エルサレム教会から派遣されたユダヤ人キリスト者たちが訪れ、「信仰だけでは人は救われない。私たちユダヤ人のように、割礼を受けて、律法を守らなければ、本当の救いはない」と宣教し、人々がその教えに従おうとしたのです。
・割礼とは何か、聖書辞典を見ますと、次のように記載されています「割礼、ヘブル語ムールは『切り取る』、『切り捨てる』という意味を持つ。またギリシア語ペリテムノーは『周りを切る』という意味で,男性の性器の亀頭を覆っている包皮を切開、もしくは切り捨てることを指す。割礼がユダヤ人の間で宗教的儀式として行われるようになったのは、神とアブラハムとの契約のしるしとして、アブラハムの家のすべての男子が割礼を受けたことによる(創世記17:1‐14)」。創世記は選びのしるしとして、イスラエルの民は割礼を受けるように神が命じ、もし割礼を受けない男子がいるならば、その者は民から断ち切られると記しています(創世記17:23‐27)」。 割礼はユダヤ人にとっては「救いのしるし」であり、当然受けるべきものでした。当時聖書は今日で言う旧約聖書しかなく、その聖書が「割礼を受けよ」と命じるのであれば、受けなければいけないとガラテヤ教会の人々が考えたのは当然です。今日でもユダヤ教徒及びその流れを汲むイスラム教徒は割礼を受けます。
・それに対してパウロは「あなた方は間違っている」と声を大にして叫びます。そのパウロが教会の人々を説得するために書いた手紙がガラテヤ書です。パウロは語りました「たとえ私たち自身であれ、天使であれ、私たちがあなたがたに告げ知らせたものに反する福音を告げ知らせようとするならば、呪われるがよい」(1:9)。パウロが述べ伝えたのは「十字架の福音」でした。人はキリストの十字架の贖いにより救われる、それなのに救いのために割礼が必要であれば、「キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。パウロはその意味を明らかにするために、自分が割礼論者と戦ってきた歴史を述べます。
・パウロの弁明は1章13節から始まります。「あなたがたは、私がかつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたかを聞いています。私は、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました」(1:13-14)。パウロは熱心な律法主義者、割礼論者でした。そのパウロに復活のイエスが啓示され(1:15-16)、彼は間違いを悟り、福音の迫害者から伝道者に変えられます。彼は最初ダマスコで、その後故郷のタルソスで、10数年の年月を福音伝道についやします。そのタルソスにバルナバが来て、パウロをアンティオキア教会の協力者に迎えます。そのアンティオキア教会で「弟子たちが初めてキリスト者と呼ばれるようになった」(使徒11:26)。エルサレムに最初のキリスト教会が建てられましたが、その教会はあくまでもユダヤ人のための教会でした。しかし、アンティオキアに生まれたのはユダヤ教の伝統から自由な、異邦人もユダヤ人も共に礼拝するキリスト教会でした。
・しかし、エルサレム教会の人々はそれを喜ばず、『異邦人も割礼を受けて律法を守らなければいけない』と主張し、教会内に混乱が起き、バルナバとパウロは問題を話し合うためにエルサレムに行きます(使徒15:1-2)。使徒会議とよばれる最初の教会会議です。パウロは書きます「十四年たってから、私はバルナバと一緒にエルサレムに再び上りました。その際テトスも連れて行きました・・・私と同行したテトスでさえ、ギリシア人であったのに、割礼を受けることを強制されませんでした」(2:1-3)。パウロの弟子テトスは異邦人であり、当然「割礼を受けさせよ」との圧力がかかりましたが、パウロはそれを拒否し、エルサレム教会の人々もそれを容認しました。会議では異邦人に割礼を強要しないことが決められます。パウロは語ります「彼らは私に与えられた恵みを認め、ヤコブとケファとヨハネ、つまり柱と目されるおもだった人たちは、私とバルナバに一致のしるしとして右手を差し出しました。それで、私たちは異邦人へ、彼らは割礼を受けた人々(ユダヤ人)の処に行くことになったのです」(2:9)。割礼問題は解決したと思われていました。

2.律法から自由でない人々との戦い

・しかし会議で決まったもののユダヤ人の律法に対する執着は消えませんでした。パウロの理解者であったペテロやバルナバでさえも、律法主義者に押されて妥協し始めます。「ケファがアンティオキアに来た時・・・ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。そして、ほかのユダヤ人も、ケファと一緒にこのような心にもないことを行い、バルナバさえも彼らの見せかけの行いに引きずり込まれてしまいました」(2:11-13)。パウロはこの事態に直面し、激しくペテロに抗議します。「あなたはユダヤ人でありながら、ユダヤ人らしい生き方をしないで、異邦人のように生活しているのに、どうして異邦人にユダヤ人のように生活することを強要するのですか」(2:14)。
・当時、主の晩餐式は共同の食事の中で営まれていました。共に食卓につかないことは、共に礼拝をしないことを意味し、見過ごしに出来ない問題でした。だからパウロはユダヤ人キリスト者の態度を激しく批判します「律法により救われるのならキリストは何のために死んだのか」と。彼は手紙に書きます「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです」(2:16)。律法(善い行いや割礼)によっては誰も救われない、だからキリストの十字架を仰ぐ、それなのにまた律法に戻ろうとする。それはキリストの死を無意味にすることだとパウロは語ります「もし、人が律法のお陰で義とされるとすれば、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます」(2:21)。
・パウロ熱心な律法学者として、律法による救いを求めて苦闘しました。その体験からパウロは語ります。「私は神に対して生きるために、律法に対しては律法によって死んだのです。私は、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです。私が今、肉において生きているのは、私を愛し、私のために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(2:19-20)。「律法は人を救えない。私は復活のキリストに出会ってそれを知った。だから私は律法に死に、キリストに生きるようになった」と彼は語るのです。

3.信仰はあなたを自由にする

・今日の招詞にガラテヤ3:27-28を選びました。次のような言葉です。「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」。律法主義(善い行いをすれば救われる)の下にある人間関係の基本は差別です。割礼を受ければ救われると信じるユダヤ人は、無割礼の異邦人を蔑みました。女性は教育を受ける機会を与えられませんでした。そのため、「無知なる者」として蔑まれていました。奴隷には人権など認められていません。律法順守という人間的な功績を誇る考え方は、自己義認に繋がり、他者を排斥します。
・21世紀に住む私たちは、男女は同権であり、民族の上下もないと信じています。だから「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません」というパウロの言葉を当然として聞きます。しかし、2000年前にはそれは当然ではありませんでした。当時のユダヤ教のラビの祈りが残されています「神は褒むべきかな、私を異邦人には造られなかった。神は褒むべきかな、私を女性には造られなかった。神は褒むべきかな、私を野蛮な者には造られなかった」。当時の人々は優劣があるのは当然だと思っていたのです。その中でパウロは語ります「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたはキリスト・イエスにおいて一つだからです。そこには何の差別もありません」。これは現代においてもその重要性を失っていない言葉です。何故なら、この差別の論理は今日の世界にも根強く残っているからです。
・世の人々は語ります「能力のある者はそれに見合った収入を得るべきであるし、多く努力した者はそれだけ多くの報いを得るべきである。もし全てが平等無差別であれば、人間は向上心を失い、怠け者の社会になってしまう」。一見もっともな論理ですが、それは強者の論理であり、聖書はそれを明確に否定します「もし能力によって差別がなされた時、身体障害者や知的障害者は低い生活に甘んじるのが当然になる。もし働きによって差別がなされた時、病人や老人は押しのけられる。神はそのような社会を望んでおられない」。
・今年の東大入学式で社会学者の上野千鶴子さんは述べました「あなたたちはがんばれば報われる、と思ってここまで来たはずです。ですが、(女性差別の東京医科歯科大学)不正入試に触れた通り、がんばってもそれが公正に報われない社会があなたたちを待っています。大学に入る時点ですでに隠れた性差別が始まっています。社会に出れば、もっとあからさまな性差別が横行しています。そしてがんばったら報われるとあなたがたが思えることそのものが、あなたがたの努力の成果ではなく、環境のおかげだったこと忘れないようにしてください・・・あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力とを、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういうひとびとを助けるために使ってください。そして強がらず、自分の弱さを認め、支え合って生きてください」。上野さんの言葉は多くの人の心に響きました。まさにパウロの代弁者です。
・「律法ではなく信仰こそ」を唱えるガラテヤ書は、ルターを通して宗教改革を生み出しましたが、現代においても本当の「平等と公平とは何か」を人々に迫ります。福音は、律法からの解放をもたらし、その結果、差別からの解放をもたらします。「キリストを着る」ことにおいてすべての人は平等で、キリストにあっては「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もない」のです。今日の世界において、依然、民族の差別があり、女性は男性と同権ではなく、貧乏人は卑しめられています。神学的に言えば、この世の人々はまだ「罪の縄目の中に縛られている」、相変わらず律法主義に囚われています。私たちの社会は、まだ解放されていない。だから、私たちは、キリストの福音を宣べ続けなければいけない、そのためにここに集められているのです。


カテゴリー: - admin @ 07時52分22秒

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