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02 17

2019年2月17日説教(ルカ10:25-37、あなたが隣人になりなさい)

1.同胞は必ずしも隣人ではない

・今日はルカ10章の「善きサマリア人のたとえ」について、御言葉を聞いていきます。イエスが語られた有名なたとえで、今年度教会で共同受講した東京バプテスト神学校「隣人愛連続講座」のカギになっている言葉でもあります。物語はイエスと律法の専門家の問答から始まります。律法の専門家が「イエスを試そうとして」質問したとルカは語り始めます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(10:25)、律法の専門家は聖書に精通していますから、「永遠の命」を受けるためには何をなすべきかを当然知っています。知っているのにあえて聞く、イエスを試すためです。だからイエスは慎重に答えられます「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。
・律法の専門家は答えます「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさいとあります」。「主を愛しなさい」という言葉は申命記6:5にあり、「隣人を愛しなさい」という言葉はレビ記19:18にあります。彼は答えを知っているのです。ですからイエスは言われます「あなたは答えを知っている。あなたに欠けているのは実行だ。正しい答えを知っているのであれば実行したらどうだ」と。イエスの反論にたじたじとなった律法の専門家は、「自分を正当化する」ために聞き直します「私の隣人とはだれですか」。
・この答えも彼は知っているはずです。隣人への愛を教えるレビ記は、隣人とは同胞のユダヤ人であることを前提にしています(レビ記19:17-18)。「隣人を愛しなさい」とは「同胞たるユダヤ人を愛せよ」というのが律法の規定です。専門家は「自分はユダヤ教の教師として同胞のために尽くしている」と誇りたかったのです。そのうぬぼれた彼に、イエスは思いもしないたとえを語られます。それが「善きサマリア人のたとえ」です。「サマリア人はあなたの同胞になりうるのか」という問いかけです。
・イエスは語られます「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(10:30-31)。追いはぎに襲われたある人とは当然ユダヤ人です。一人のユダヤ人がエリコに下る道すがら追いはぎに襲われ、身ぐるみはがれた上に半殺しにされて放置された。そこに祭司が通りかかった。祭司であれば神に仕える聖職者、律法を守る人、当然同胞の自分を助けてくれるとけが人は期待しましたが、祭司はその人を見ると道の向こう側を通って行きました。
・何故祭司は倒れている同胞ユダヤ人を助けなかったのでしょうか。面倒なことに巻き込まれたくないと思ったのかもしれません。強盗はまだそこにいるかもしれないから、立ち止まるのは危険だと判断したのかもしれません。もう一つは律法違反を恐れたためと思われます。律法は祭司が遺体に触れて汚れることを禁じています(レビ記21:1、民数記19:11)。この男は死んでいるかもしれない、死んでいる男に触れたら律法を破ることになる、そのような思いが祭司の胸中にあったかもしれません。つまり、律法の形式的遵守「死体に触れるな」が、隣人愛「同胞を愛せ」の実行を妨げていた可能性が出てくるのです。
・次にレビ人が来ました。レビ人は神殿に仕える下級祭司です。当時のエルサレム神殿には8千人の祭司と1万人のレビ人が働いていたと伝えられています。レビ人も倒れている同胞を見ると、よけて通り過ぎました。同じように関り合いになるのを恐れたのでしょう。たとえの登場人物として最初に祭司を、次にレビ人を持って来られたイエスの心中には、当時の神殿制度に対する批判があったと思われます。何千人もの祭司やレビ人が神殿に仕え、犠牲を捧げる祭儀を執り行っているが、彼らはそれを職業として、生活の糧を得るためにしているのであり、民のためではない。「それを神は喜ばれるだろうか」とイエスは語られているのです。

2.同胞でないのにユダヤ人を助けるサマリア人

・例えの三番目の登場人物がサマリア人です。イエスは異邦人であるサマリア人が、ユダヤ人である祭司とレビ人が見捨てた旅人を見て、「憐れに思い」、手を差し伸べたと言われます。「旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(10:33-35)。サマリア人は何故助けの手を差し伸べたのか。「憐れに思った」からです。憐れに思う=ギリシャ語スプラングニゾマイという言葉はスプランクノン(内臓)から来ています。「内臓が痛むほど動かされる」、異邦人であるサマリア人が、民族的には敵になるユダヤ人を介抱したのは、内臓が痛むほど、心が揺り動かされたためだとイエスは言われました。
・サマリア人は元々イスラエル民族の一部でしたが、アッシリアによって北イスラエルが滅ぼされた後、移住してきた異邦人と混血し、ユダヤ人からは「汚れた民族」として排斥されてきました。そのサマリア人が隣人になった。サマリア人はユダヤ人ではないから、聖書の教えでは隣人ではありません。そのサマリア人が隣人を助けたとすればどうなのかというたとえです。イエスは律法の専門家に尋ねられます「この三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」。律法の専門家は「誰が隣人ですか」と聞いてきました。彼にとって隣人とは同胞のユダヤ人です。しかし、今イエスは「隣人とは民族を超えるのではないか」と聞き直されます。律法の専門家はやむなく答えます「(隣人になったのは)その人を助けた人です」。彼はサマリア人とは答えず、その人と言います。彼はサマリア人と隣人になることが出来なかった、彼は自分の正しさだけを考え、「他者のために心を揺り動かされ」なかったためです。

3.この物語は私たちに何を語るのか

・今日の招詞にエペソ2:14-16を選びました。次のような言葉です「キリストは私たちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」。イエスは律法学者に問われました「誰がその人の隣人になったのか」。律法の専門家はサマリア人とは答えず、その人と言います。彼はサマリア人と隣人になることが出来なかった。イエスはこの問いを通じて、「隣人になるとは異なる人々を受け入れることだ」と言われているのです。
・私たちはこの物語から何を聞くのでしょうか。隣人愛の教訓を聞くのか。そうではないでしょう。イエスが律法の専門家に言われたのは「あなたは何をすべきかを知っているのに、しようとはしないではないか」と言うことです。律法の専門家は聖書をよく読んでいたでしょうが、読むだけでは不十分なのです。ヤコブ書は語ります「兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いている時、あなたがたのだれかが、彼らに『安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい』と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう」(ヤコブ2:15-16)。ヤコブは続けます「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:17)。愛とは「誰が隣人か」と問うことではありません。「あなたも同じようにしなさい」。私が行為すればその人は隣人となり、行為しなければ隣人にならない。その行為を導くものは「心を揺り動かされる」思いです。
・多くの人がこのイエスの言葉に心を動かされて行為しました。自殺防止のために相談を受け付ける「いのちの電話」が全国にありますが、元々はイギリスの教会の「Samaritans(サマリア人)」から始まりました。増加する自殺に心を痛めた英国のクリスチャンたちが、教会の地下室に電話を引き、相談を受けるようになったのです。その動きがドイツにも、そして日本にも広がっていった。日本では1971年に始まりましたが、開設趣意書には次のように書かれています「いのちの電話は、苦悩の多いこの時代に生きるものが、互いに良い隣人になりたいという願いから生まれた運動です。キリスト者の有志が始めた仕事ですが、誰でもこの運動を理解する人々の協力を求めます」。開始から40年が経ち、今では教会色が薄められて来ました。ノンクリスチャンの人々が継承してくださるのであれば、教会の役割は終わったのかもしれません。教会は教会にしか出来ない新しい業を始めていけばよいのです。
・教会にしか出来ない業、それはイエスの十字架に「心を揺り動かされて行う」業です。何をなすべきか、何が出来るのか、それぞれが自分の置かれた状況の中で考えるべき問題です。負傷した人を助けたサマリア人は彼を宿屋にまで連れて行った後で、旅を続けます。自分の仕事を放り投げて助けたわけではない。私たちは「為すべきことを為しうる限りに」行えばよいのです。出来ないことをするように求められているのではないことを覚えるべきでしょう。
・ただ同時に、「隣人になることを通して関係性が生まれる」ことに留意すべきです。助けられた旅人はもはや「サマリア人は汚れているから交際しない」とは言わないでしょう。機会があれば、今度は助ける側に回るでしょう。その時「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました」(エペソ2:16)というパウロの言葉が実現します。「受けるよりも与える方が幸いである」(使徒20:35)とイエスは言われました。与えることによって、関係性が広がっていくからです。この物語は私たちに「日常から一歩を踏み出す勇気を与え」、「その一歩が隣人との和解を導く」のです。


カテゴリー: - admin @ 07時57分49秒

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