すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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12 02

1.マタイにおける復活顕現

・アドベントの時を迎えました。与えられた聖書箇所はマタイ28:16-20、復活されたイエスが弟子たちに世界伝道をお命じになるところです。何故、クリスマスを前に、復活のイエスの言葉を聞くのか、それはマタイの最後の言葉「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)がイエス生誕の時にも用いられているからです。「インマヌエル」、ヘブライ語で「神は私たちと共におられる」という意味で、マタイはこの言葉をイエス生誕時の受胎告知の中で用います「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)。「インマヌエルと呼ばれる方がお生まれになる」という約束がイエス生誕の時に為され、その方が「いつまでもあなたがたと共にいる」と約束して天に昇られた。マタイ福音書は「インマヌエル」という言葉で始まり、「インマヌエル」という言葉で閉じられています。インマヌエルの主とはどのような方であるのかを、クリスマスを前にした今、聞いていきます。
・28章でマタイは書きます「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(28:16)。弟子たちはイエスの十字架刑時にその場から逃げ出し、故郷ガリラヤに戻り、その地で復活のイエスと出会います。その時の記事が今日のマタイ28章です。マタイは記します「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(28:17)。「弟子たちはイエスに出会っても、まだ復活を信じることが出来なかった」ことをマタイは隠しません。弟子たちの中に、これは「幻覚」であり、自分たちは「亡霊を見ている」と思う者が居ても当然です。
・同時にこの箇所を、マタイは自分の教会の信徒に宛てて書いています。マタイ福音書が書かれたのは紀元80年頃、イエスの復活を直接に体験した第一世代の弟子たちは既に亡くなり、教会にいる第二世代、第三世代の弟子たちは復活顕現の直接体験をしていません。「見て信じる」ことさえ難しいのに,「見ないで信じる」ことはさらに困難です。初代教会の中にも「イエスの復活を信じることの出来ない」信徒たちがいた。その人々にマタイは「イエスは本当に復活された。11人の弟子たちは本当に復活のイエスに出会い、イエスから言葉を受けた。その言葉を私は使徒たちから聞いてあなた方に伝えるのだ」と語っています。その言葉とは18節以下の言葉です。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:18b-20a)。
・マタイはイエスの言葉を記します「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。「いつもあなたがたと共にいる」、インマヌエルです。イン=共に、ヌー=われら、エル=神、「神は私たちと共に」が元来の意味です。イエスは死なれたが、宣教の言葉の中に臨在しておられる、それがマタイの信仰です。だから彼は「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(18:20)とのイエスの言葉を伝えています。人が祈りを合わせる時、イエスはそこにおられる、また主の晩餐式における言葉「取って食べなさい。これは私の体である・・・この杯から飲みなさい。これは私の血・・・である」(26:26-28)も、晩餐の時にイエスがそこに臨在されているという信仰を示しています。

2.インマヌエルの主に出会う

・マタイの信仰は、「十字架で死なれたイエスは、復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」というものです。私たちも同じ信仰を持ちますが、主の臨在を実感できないのが現実です。インマヌエルのキリストとの出会い体験がない故に、「疑いつつ信じる」という信仰生活になりがちです。2000年前にペテロやパウロが体験した復活のイエスとの出会いが、「私たち自身の体験」にならない限り、私たちの信仰は弱いままで終わり、やがて教会を離れるようになります。「信仰告白して洗礼を受けた人の半数以上は、数年のうちに教会から離れる」という悲しい事実こそ、インマヌエルなる方とのこの出会いが必要であることを訴えます。では私たちはどのようにして復活のイエスと出会うことが出来るのでしょうか。
・その出会いの一つを示すのが、トルストイの描いた民話「靴屋のマルチン」です。物語の主人公、靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、孤独でした。彼は家族を自分から奪った神を恨み、生きる希望を失って、惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。ある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと聖書を置いていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父が置いていった聖書を読みはじめます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」。
・次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。キリストがおいでになるのを待っていると、今度はおばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。一日が終りましたが、期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが現れます「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後に言葉が響きます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。
・マルチンは隣人との出会いの中で、「インマヌエル」なる方と出会います。マザーテレサもそうです。インドで修道女となったマザーテレサが見たのは、貧しい人々が道端で死んで行く光景でした。彼女は修道院を出て、道端に捨てられた人々を救済する活動を始めます。彼女は語ります「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで、体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、 thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」(粕谷甲一「第二バチカン公会議と私達の歩む道」)。御聖体、キリストの体です。マザーは死にかけている老婆を介抱することでインマヌエルなる方と出会ったのです。マルチンの話、マザーテレサの体験は、「私たちが『誰が隣人ですか』と問うのをやめ、その人のために行為すればその人は隣人となり、私たちは隣人を通して、インマヌエルなる方に出会う」ことを示します。

3.イエスの宣教命令を受けて

・今日の招詞にイザヤ7:14を選びました。マタイがイエス生誕時に引用したイザヤの預言です。「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。イザヤの時代、シリアと北イスラエルはユダに侵略し、時のアハズ王は北の帝国アッシリアの支援を求めます。イザヤは反対し、「神に信頼して鎮まりなさい」と語りましたが、アハズは言葉を聞かず、アッシリアの援軍を求め、アッシリアはパレスチナに侵攻し、シリアと北イスラエルを滅ぼしました。その後アッシリアはユダを属国として支配します。神の言葉を語ってもアハズ王は聞こうとはしなかったので、イザヤは新しい王の出現を望みます。それがインマヌエル預言です。
・ここに期待される「男の子」とは、アハズ王の子ヒゼキヤを指し、彼は前715年に父に代わって王となりました。イザヤはヒゼキヤの即位をメシアの誕生として歌います「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた・・・その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(9:5)。ヒゼキヤは即位するとアッシリアとの関係を絶ち、神殿から偶像を放逐しますが、そのヒゼキヤでさえ、後の危機の時にはエジプトに支援を求めます。イザヤはヒゼキヤにも失望し、新しい預言をします「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(11:1-2)。クリスマスで読まれるメシア預言は、人間に絶望した預言者が神に救済を求める預言です。
・それから700年後、パレスチナに生まれたキリスト教会は、イザヤ7章インマヌエル預言にイエス・キリストの誕生の意味を見出します。「マリアは男の子を産む・・・この子は自分の民を罪から救う・・・主が預言者を通して言われていたことが実現する『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」(マタイ1:21-23)。マタイは福音書初めの誕生物語で、イエスの出現を「インマヌエル」(神は私たちと共におられる)という名で指し示しました(1:23)。物語の最後においても、復活者イエスが私たちといつまでも一緒にいてくださる事実を指し示して、「神は私たちと共にいます(イムマヌエル)」の句で締め括ります。同志社大学でユダヤ教を研究しておられる勝又悦子先生は語られます「イザヤ書に書かれている状況は、ユダ王国が置かれた戦争の状況です。今の私たちにとっての戦争は、個々人の心の中のさまざまな葛藤・悩み・不安・絶望として考えることができるのではないでしょうか。そして、そのような絶望、暗闇にあって、イザヤが発した預言の中身は「インマヌエル」=神が私たちとともにいるという、実にシンプルなフレーズでした・・・私たち自身も、さまざまな悩みや苦しみの中にあるかと思います。しかし、そのような個々人の闘いのなかで、「神が私たちとともにいる」ことを感じることで、心の闇や絶望に立ち向かう力を与えてくれるのではないでしょうか」(2013年10月9日京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録から)。


カテゴリー: - admin @ 07時59分29秒

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