すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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12 30

1.クリスマスの後で

・クリスマスが終わり、本年最後の礼拝の時を迎えました。今日読みますマタイ2章では、イエスがお生まれになった時、東方から三人の占星術の学者たちが星に導かれて幼子イエスを礼拝したとマタイは記します(2:1)。当時は占星術が盛んで、人々は天体の異変を見て自分たちの未来を知ろうとしました。紀元前7年に土星(ユダヤ人の星と言われていた)と木星(王の星と言われていた)が接近して異常な輝きを示したことが文献で確認されており、マタイは、この星を東方の占星術師たちが見て、「パレスチナに世界を救う王が生まれた」と示されて、その星を追ってユダヤに来たと記します。
・占星術の学者たちはエルサレムの王宮を訪ねて聞きます「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2:2)。「ユダヤ人の王」という占星術師たちの言葉は、ユダヤの王ヘロデを不安にします(2:3)。ヘロデはイドマヤ出身の異邦人で、ローマ軍の後押しを受けて王になりましたが、民衆の支持はありませんでした。彼は王権の正当性を保つためにハスモン王家の血を引く女性を妻にむかえますが、彼女が王位を狙っているとの猜疑心にかられ、妻を殺し、妻の親族を殺し、王家の血を引く三人の子も反逆罪で処刑しています。このようなヘロデですから、占星術師たちの言葉に王位を脅かす者の出現を予感し、不安になったのです。
・ヘロデは「メシアは何処に生まれるのか」と祭司長たちに問い質しました。祭司長たちはミカ書の預言から、ベツレヘムであると答えます(2:6)。占星術師たちはベツレヘムを目指してエルサレムを出発します。東方でみた星が先立って進み、彼等はイエスとその両親が住む家に導かれ、幼な子を拝したとマタイは記します(2:11-12)。その後、「ヘロデのもとに帰るな」という啓示を受け、別な道を通って故国に帰って行きました。他方、御使いはイエスの父ヨセフに現れ、「ヘロデが命を狙っているのでエジプトに逃げよ」と指示し、ヨセフはマリアと幼子イエスを連れてエジプトに逃れたとマタイは記します(2:13)。

2.難民となられたイエス

・マタイは、ユダヤ王ヘロデが自分の地位を脅かす新しい王の出現を怖れ、兵士たちにベツレヘムの2歳以下の男の子たちをすべて殺させたと記します「ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(2:16)。マタイは、子たちを殺された母親の嘆きの声がベツレヘムにとどろいたと記します「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」(2:18)。ベツレヘムでの虐殺が実際にあったのか、マタイ以外の記述はなく、歴史上は真偽を確認できません。しかし王座を守るために妻や子を殺したヘロデであれば、機会があればそうしたであろうことは推測できます。クリスマスは、救い主が誕生されたという喜びの日であると同時に、「罪のない子供たちが巻き添えで殺され、イエスも国を追われて難民となられた」という悲しい時でもあったとマタイは語ります。
・ノーベル文学賞を受賞したパール・バックは、「わが心のクリスマス」という本の中で、少女時代に経験した中国でのクリスマスの出来事を記しています。彼女の両親は宣教師で、彼女も少女時代を中国の鎮江で過ごしています。彼女が12歳の時、中国北部で大飢饉があり、飢餓に追われた何十万人もの難民が彼女の住む町に流れ込んできました。彼女は記します「朝になると、表門と裏門の前から、毎日のように死体が運び去られた。物乞いに来た人々は、施錠された門に隔てられ、力つきてその場で死んだ。私たちだれもが門を開けなかった。それは飢えた人々が畑の大麦を襲うイナゴの群のように、飛び込んでくるに違いないからだ・・・その12才の時のクリスマス、キリスト降誕祭の当日、門前に飢えて横たわっている人々の一人に赤ん坊が生まれた。あのベツレヘムの子のように、『宿には彼らのいる場所がなかった』ので、私の母は若い女を門の中に入れた。赤ん坊はわが家で生まれた。その子はしかし、すぐに死んだ。若い母親も生きられなかった・・・赤ん坊は一握りの骨になり、生命の始まりにはならなかった」。
・パール・バックは回想します「今、自分の国に住み、クリスマスの喜びの中で、私は彼らを想い出す。あの母と子は物乞いではなかった。泥棒でもなく、浮浪者でもなかった。ただ、『身を横たえる場所がなかった』のである・・・クリスマスが来るたびに私はあの母と子を思い出し、改めて誓いを新たにする。彼らは今も生きている。飢えに悩まされ、戸口で倒れて死んでいくこの地上の多くの人々の中に、今も生きている」。この悲しいクリスマスを体験したパール・バックは、戦後アメリカ人将兵と東洋女性の間に生まれ、棄てられた混血児たちを養うための「ウェルカム・ハウス」を造り、作品の印税のほとんどを捧げて、孤児たちの養母になっていきます。日本でも戦後、占領米軍兵士と日本人女性の間に多くの混血児が生まれ、社会問題になりました。そのような出来事がアジア各地で起こり、子どもたちは混血故に棄てられていきました。パール・バックは言います「私たちも祖先をたどれば多かれ少なかれ、混血児なのに」。

3.イエスに従う者の群れが生まれた

・イエス誕生の出来事の中に闇があったとマタイは証言します。メシアの誕生に不安を抱いたヘロデにより、幼児虐殺が起こされました。しかし、マタイはこの恐ろしい出来事の中に、もう一つの意味を見出しています。そのことを知る言葉がマタイ2:18です。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。この言葉のどこに意味があるのでしょうか。それはエレミヤ31:15-17を読むことで理解できます。今日の招詞です「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。
・エレミヤの預言前半をマタイは引用して、ベツレヘムの悲しみを述べましたが、同時に彼は後半の言葉を思い起こせと私たちに告げます。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」。ラマはイスラエルの民がバビロンに連行された時に、捕囚民が集合を命じられた場所です。子供たちが捕虜として敵地に連れて行かれる光景を見て、イスラエルの母たちは泣きました。その時、主は言われました「あなたが流したその涙は報われる。あなたの息子たちは帰って来る」。
・イエスはヘロデの陰謀から逃れられました。他方、残されたベツレヘムの息子たちは殺され、母親たちは涙を流しました。しかし、「その涙は報われる」とマタイは主張します。エレミヤは主の言葉を続けます「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る・・・私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(エレミヤ31:33)。イエスは十字架の前日に弟子たちと最後の食事をとられ、言われました「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。キリストの苦難はその出生と共に始まりましたが、その苦難は十字架で完成されます。神はイエスを十字架につけるために、生まれたばかりのイエスの命をヘロデから助けられたとマタイは語たるのです。
・幼子を殺したのはヘロデです。ヘロデの心の闇、罪が多くの子供たちを殺した。パール・バックの経験した難民の赤ん坊も「身を横たえる場所がなく」、生まれてすぐに死んで行った。イエスもまた「泊まる場所がなかった」ゆえに、宿の外で生まれられました(ルカ2:7)。人の罪がこの世に闇をもたらします。この闇をなくすためにイエスは馬小屋で生まれられ、十字架に死なれました。その十字架に出会って、人の心は変えられ、闇の中に光をもたらします。マタイは福音書の最後に、イエスの十字架刑を見て悔い改めたローマの百人隊長の言葉を記します「本当にこの人は神の子だった」(27:54)。十字架を見て、人は自分の罪を知り、悔い改め、心の中の闇が解け始めます。
・ヘロデは特別の悪人ではありません。歴史が私たちに教えるのは、自分の欲のために子供たちを殺したのは、ヘロデが初めてではないし、ヘロデの後も繰り返し行われたという事実です。日常に目を向ければ、私たちはこの日本で毎年20万人の子供たちを人工妊娠中絶という形で殺しています。望まない妊娠をした時、私たちの大半は、胎内の子を中絶して問題を解決しようとします。自分の地位が奪われるかも知れないとの不安から子供たちを殺したヘロデと、安定した生活を守るために、胎内の子を殺している私たちとどこが違うのか。ヘロデが闇の中にいたように、私たちも闇の中にいます。
・私たちの心の中にも、ヘロデがいます。そのヘロデ的存在が、他者のために命を捨てる存在に変えられる出来事が起きます。それが十字架の出来事であり、クリスマスはその十字架に死ぬために世に来られたイエスを想起する時です。先に紹介したパール・バックは最後に次のように語ります「クリスマスに呼び起こされた愛は生き続けて生活の一部になる。それがクリスマスの目的と意味であり、世界の人々の愛が、良き愛が、人生の中に生きてこそ、クリスマスは全うされるのである」。「目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」と言われた神の言葉は、心を変えられた信仰者の働きにより、成就します。今日が2018年度の最後の礼拝です。年の初めに、人々は今年1年が無事でありますように、災いが来ませんようにと祈ります。しかし、キリストに出会った者は別の祈りをします「来年もまた、苦しみや悲しみがあるでしょう。それは人の罪が造るものです。その闇を取り除くために、私たちに何が出来るか、教えて下さい」。


カテゴリー: - admin @ 07時52分45秒

12 23

1.イエスはヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムで生まれられた

・クリスマスを祝う礼拝の時になりました。今年のクリスマスに、私たちはマタイ2章を読みます。マタイは記します「イエスは、ヘロデ王の時代にユダヤのベツレヘムでお生まれになった。そのとき、占星術の学者たちが東の方からエルサレムに来た」(2:1)。東の方から、バビロンを指します。かつてユダヤ人を捕囚として苦しめた、その異邦の地バビロンから、占星術の学者たちが救い主を拝むために来たとマタイは記します。当時は占星術が盛んで、人々は天体の異変を見て未来を知ろうとしました。イエスの生誕は紀元前7年とされていますが、この年にイスラエルを示す土星と世界の支配者を指す木星が接近して異常な輝きを示したことが文献で確認されており、その現象は794年に一度の出来事であることから、天文学者ケプラーはキリストの生誕年を前7年と推定し、現在に至っています。マタイは、この星を東方の占星術師たちが見て、「パレスチナに世界を救う王が生まれた」と示されて、その星を追ってユダヤに来たとします。
・占星術の学者たちはユダヤに王が生まれたのであれば、そこはエルサレムの王宮に違いないとして来ました。彼らは尋ねます「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(2:2)。「ユダヤ人の王が生まれた」という言葉は、当時のユダヤ王ヘロデを不安にしました(2:3)。ヘロデはイドマヤ出身の異邦人であり、ローマ軍の後押しを受けてユダヤ王になりましたが、民衆の支持はありませんでした。ヘロデは正当性を保つためにユダヤのハスモン王家の血を引く女性を妻にむかえますが、彼女が王位を覗っているとの猜疑心にかられて妻を殺し、妻の母や兄弟を殺し、三人の子をも反逆の疑いで処刑しています。このようなヘロデですから、占星術師たちの言葉に自分の王位を脅かす者の出現を予感し、不安になったのです。
・彼は「メシアは何処に生まれるのか」と祭司長たちに質しました。祭司長たちはミカ書の預言から、それはベツレヘムであると答えます。「ユダの地、ベツレヘムよ・・・おまえの中から一人の君が出て、わが民イスラエルの牧者となるであろう」(2:6)。新しい王の誕生を聞いて、エルサレムの指導者たちも不安を感じたとマタイは記します(2:3)。現状に満足する者にとって神の子の出現による世の変革は現状否定であり、不安をもたらしたのです。祭司長たちはメシアがベツレヘムで生まれるとの預言を知り、今またメシアが生まれたとの報告を聞いても、誰も礼拝に行こうとはしません。
・占星術師たちはベツレヘムを目指してエルサレムを出発します。東方でみた星が彼らに先立って進み、彼等はイエスとその両親が住む家に導かれ、幼な子を拝し、黄金・乳香・没薬を献げたとマタイは記します(2:11-12)。その後、「ヘロデのもとに帰るな」という啓示を受けたため、彼等は別な道を通って故国に帰って行きました。他方、御使いはイエスの父ヨセフに現れ、「ヘロデが命を狙っているのでエジプトに逃げよ」と指示し、ヨセフはマリアと子イエスを連れてエジプトに逃れたとマタイは記します(2:13)。マタイはその後ヘロデがベツレヘムに軍隊を派遣し、2歳以下の男子を全て殺し、ベツレヘムには子が殺されたことを嘆く母親の泣き声が鳴り響いたと記します(2:18)。

2.信仰の視点から見えてくること

・ここにマタイが記しますことは、彼が受けた伝承です。その伝承は、バビロンの地から三人の占星術師がイエスの誕生を祝うために訪問した、ヘロデがそれを聞いて不安になり幼子の命を狙ってベツレヘムの子供たちを虐殺した、危機を告げられたイエスの両親が幼子を連れてエジプトに逃れたという内容が含まれていました。現代の私たちは、この伝承が歴史的な出来事であるのかどうかの検証はできません。しかし、そもそも出来事の歴史性を問うことは無意味なことです。何故ならば、マタイは歴史を記述しているのではなく、彼の受けた伝承を信仰の視点から記述しているからです。この伝承が現代の私たちとどのように関わるのか、そのことを、代々木上原教会前牧師の村上伸先生の説教をもとに考えてみます(2005・12・25、代々木上原教会説教「イエス誕生の意味」から)。
・村上先生は語ります「クリスマスに聖書を読んで私たちが出会うのは、美しい話ばかりでない。当時の人々の胸騒ぎや心配、血も凍るような恐怖も伝わってくる」。ヘロデは「新しい王が生まれた」との言葉に、自分の王位を危うくする者が現れたとして、ベツレヘムの子供たちを虐殺します。村上先生は書きます「この災いを逃れるために両親たちは生まれたばかりの幼子を連れてエジプトに逃れた。つまり主イエスは生まれるとすぐに難民になったのである」。村上先生は続けられます「イエスの母は未婚で妊娠し、世間の冷たい目にさらされ、母マリアが産気づいたのは旅先で、どこの宿にも泊めてもらえず、そのために赤ん坊は馬小屋で生まれ、ぼろ布でくるまれて飼い葉桶の中に寝かされた」。「成人して、宣教活動を始められてからは、自ら『狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない』(8:20)といったような貧困の中で過ごし、最後は十字架刑の上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(27:46)と絶望の叫びをあげてその生涯を終えた。このような一生を送るためにイエスはこの世に生まれた。これは何を意味するのだろうか」。
・イエスの生涯を彩るキーワードは、「幼児虐殺」、「難民」、「未婚の母」、「ホームレス」、「貧困」、まさに現代の私たちが直面するのと同じ苦しみ、悲しみをイエスは既に体験されています。神学者モルトマンが語るように、「イエスは私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたからこそ、私たちの真の希望となりうる」のです。このような方、私たちの苦しみや悲しみをご存知の方、インマヌエル(共におられる方)が、私たちの主、救い主であるとマタイはクリスマス物語を通じて証ししています。

3.拒絶する者と受入れる者

・今日の招詞にヨハネ1:11-12を選びました。次のような言葉です「言は、自分の民のところへ来たが、民は受入れなかった。しかし、言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。神の民となるべく養育されてきたユダヤ人はイエスを拒絶しましたが、異邦人はイエスを受け入れ、その結果救いが全人類に及ぶようになったとヨハネは語ります。マタイが自分の福音書2章で述べている事柄、異邦人の占星術師たちは遠くからイエスを拝みに来たが、エルサレムのユダヤ人たちはイエスを拒否した事実を、ヨハネは別の視点から告白しています。
・私たちは20世紀を終えて、21世紀に生きています。20世紀は「科学と技術の世紀」と言われました。科学技術の進歩により私たちの寿命は延び、人口は増え、豊かになりました。しかし私たちは幸福にはなっていない。科学技術の進歩は他方で大量殺戮兵器を生み出し、この兵器を用いて人間は殺し合いの規模を拡大させていった。20世紀はまた「戦争と殺戮の世紀」でもあります。二度の世界大戦を経験したにもかかわらず、人類は戦争を、民族の争いを乗り越えることが出来ません。現在も争いは繰り返され、イラクやアフガニスタンでの戦争は、テロとの戦いの枠を超え、白人とアラブ人の、キリスト教徒とイスラム教徒の民族紛争の様相を強めています。異なる民族の争いはパレスチナにおいても、アフリカにおいても繰り返されています。戦争の多くは民族紛争に起因します。人間は民族の壁を乗り越えることが出来ない、それは人間が民族を超える神の存在を受入れることを拒否したからだとヨハネは語ります「言は、自分の民のところへ来たが、民は受入れなかった」。
・しかし少数の人はこの神を受入れました。そして「言は、自分を受入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」。自分を超えるもの、民族を超える神を見出した時、人は初めて自分と異なるものを受入れることが出来ます。人が自分の主張や思想から解放されない限り他者を受入れることが出来ず、他者と争いを繰り返さざるを得ません。どうすれば自己中心から解放されるのか、神は全ての人の神であることを受入れることしかありません。マタイの教会ではすでにユダヤ人も異邦人も共に礼拝をしていたと思われます。だからこそ東方の占星術師たちの来往をマタイが自分の福音書で大きく取り上げているのでしょう。同じ主を信じる者たちは、異なる民族や人種であっても、和解できるのです。パウロは語りました「洗礼を受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。そこではもはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:27-28)。
・キリストは私のために死なれましたが、同時に私たちが争う他者のためにも死なれました。そのことを知る時、他者との和解が可能になります。キリストが来られましたが、多くの人はキリストを受入れませんでした。その結果、人々は果てしない争いを続けています。しかし少数の者たちはキリストを受入れました。神は私たちを和解のための器として選んで下さったのです。アッシジのフランシスは祈りました「主よ、私を平和の器とならせてください・・・主よ、慰められるよりも慰める者としてください。理解されるよりも理解する者に、愛されるよりも愛する者に。それは、私たちが、自ら与えることによって受け、許すことによって赦され、自分の身体をささげて死ぬことによって、とこしえの命を得ることができるからです」。私たちは和解の器としての使命を神から与えられています。私たちは和解の福音を宣べ伝えるために、今日この教会に集められています。クリスマスはそのことを想起する時なのです。


カテゴリー: - admin @ 08時03分47秒

12 16

1.ヨセフを通してのイエス生誕物語

・私たちはクリスマスを待つ待降節の中にいます。キリストが、どのようにして生まれられたかをマタイ福音書1章は語ります「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。人は通常は父と母から生まれ、両親がそろっている時、母の妊娠、子の誕生は祝福です。しかし、そうでない場合、子の妊娠が大きな波紋を招きます。ヨセフはマリアの許嫁でしたが、まだ婚約中で正式には結婚していません。その許嫁が身ごもった。ヨセフには身に覚えはありませんので、マリアが不義の罪を犯したと考えざるを得ません。そのためヨセフはマリアとの婚約を解消しようとしました。「 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)。この短い言葉の中にヨセフの苦悩が凝縮されています。
・神の選びにあずかるとは、必ずしもこの世の幸福を保障しません。否、むしろ苦しみを与えられる場合があります。「これから結婚しようという女性が自分以外の人の子を宿している」、ヨセフはこの事実を知って、苦しんだに違いありません。そして、「ひそかに縁を切ろうと決心した」、マリアの妊娠の事実が表ざたになれば、マリアは裁判にかけられ、村から追放されるでしょう。婚約中の不義は石打ちの刑と当時の律法には定められていました(申命記22:23−24)。
・来る日も来る日もヨセフは悩んだことでしょう。眠られぬ日が続く中でヨセフは夢を見ます。その夢の中で主の使いが現れ、ヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1:20)と述べます。主の使いは語り続けます「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(1:21)。ヨセフは理解できませんが、これを御旨として受け入れます「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」(1:24)。

2.ヨセフの苦悩と決断

・イエス誕生の次第は多くの人々に困惑を与えてきました。マタイ福音書はその冒頭にアブラハムから始まってイエスに至るまでの42代の系図を掲げます。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」という風に父の系図が続きますが、イエスについては次のように語ります「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1:18)。父の系図が突然母系に変わっています。ルカ福音書もイエスの系図を掲げますが、その中で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)と語ります。マルコ福音書ではイエスがナザレ村で「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと報告しています。「父の名をつけて呼ぶ」のが慣例の社会では、決して好意的な呼び名ではありません。つまり、マタイもルカもマルコもイエスがヨセフの実子ではないことをここに告白しています。人間的に見れば婚姻外の妊娠であり、社会では不道徳な出来事とされます。しかし福音書記者は、これを信仰によって、「聖霊によって生まれた」と受け止めています。
・マタイ福音書によれば、ヨセフは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」との神の言葉を与えられ、マリアを受け入れて妻に迎えました。ヨセフは理解できない出来事を目の前に突き付けられ、苦悩し、「神様、何故ですか」とその不条理を何度も訴えたと思われます。そのヨセフの度重なる訴えに応えて、主の使いがヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と示されたのです。現代の言葉に直せば、主の使いはヨセフに「マリアの生む子をお前の子として受け入れてほしい」と言われたのです。
・これまでヨセフは自分のことしか考えていませんでした。しかしマリアの立場に立てば、もしヨセフが受入れなければ、マリアと幼子は悲惨さの中に放り込まれることでしょう。もしかしたら生存さえ危ぶまれる事態になるかもしれません。当時は女性が自立して生きていける環境ではなかったからです。そのことを知ったヨセフは神の啓示を受け入れます。この時、ヨセフはイエスの「父となった」のです。こうしてダビデの血統に立つヨセフの受け入れによって、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1:1)が満たされました。ヨセフは神の言葉を受け入れ、その結果マリアと幼子の命が救われました。ヤコブ原福音書12:3によればマリアがイエスを産んだのは16歳の時であったとします。現代日本では、10代の妊娠の60%は、赤子が人工中絶されます。理由は「相手と結婚していない」、「育てられない」からです。マリアとヨセフの苦悩は現代でも繰り返され、多くの事例において胎児を犠牲にする方法で対処されています。それに対しマタイは、「神に働きかけられた人の信仰により、悲惨な事柄も祝福の出来事になる」ことを伝えています。クリスマスの喜びは、深い悩みの中での、一人の信仰者の神との出会いと決断によって起こったのです。

3.苦悩の中から喜びが

・今日の招詞にマタイ1:23を選びました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。マタイはイザヤの預言がイエス誕生によって成就したと語ります。シリアと北イスラエルがユダヤを攻撃した時、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺」(イザヤ7:2)します。イザヤは、こうした状況の中で、「おとめが身ごもって男の子を産む」と預言します。戦争に勝利して民族に解放をもたらす者が生まれる、勝利をもたらすメシアが来られるという預言です。700年前に為されたイザヤの預言が、今ここに成就してメシアであるイエスが生まれられたとマタイは記します。
・「その名はインマヌエルと呼ばれる」、ヘブル語で「神共にいましたもう」という意味です。「神はあなた方を見捨てない。どのような悲惨があなたがたの人生にあっても、神はそれを受け入れ、癒してくださる、神がそのような方であることを、生まれる子は証しするであろう」と、主の使いはヨセフに語ったとマタイは伝えます。クリスマスに起きたことは、「イエス=主は救いたもう」という名の子が私たちに与えられ、その子は「インマヌエル=神共にいます」ことを約束するとの祝福があったということです。イエスは、当時社会から排除されていた取税人や遊女たちと共に食卓に着き、それを批判したファリサイ人らに言われます「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5:31)。イエスは彼を必要とする人々と共にいて、その非難をあえて受け入れられたのです。復活のイエスはガリラヤで弟子たちに会われ、最後に言われました「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。「あなたがたと共にいる」、「インマヌエル」です。「十字架で死なれたイエスは、復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」とマタイは証しします。マタイ福音書では、冒頭で神の御子が「インマヌエル」と預言されて生まれてきたと伝え、巻末ではイエスが昇天を前に弟子たちに、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたとマタイは記します。
・「希望の神学」を書いたユルゲン・モルトマンは語りました「私たちの失望も、私たちの孤独も、私たちの敗北も、私たちをこの方から引き離さない。私たちはいっそう深く、この方との交わりの中に導かれ、答えのない最後の叫び、『どうして、わが神、どうして』に、その死の叫びに唱和し、彼と共に復活を待つ。私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる。」(モルトマン説教集「無力の力強さ」)。私たちの信じる神は「天に鎮座したもう超自然の神」ではなく、「共にいますインマヌエルの神」です。「共にいて下さる」から、私たちの悲しみも苦しみもご存じです。だからイエスは「自分の民を罪から救う」ことがおできになるのです。
・聖書は私たちに「イエスは宣教の言葉を通して、また主の晩餐式を通して、臨在される」と教えます。しかし、現実の私たちはその臨在を感じとることが出来ません。私たちには何かが欠けている。私たちが、「臨在を感じることが出来ない」とぐちをこぼすのを止めて、「イエスは私のインマヌエルになって下さったから、今度は私が他の人のインマヌエルになろう(必要とされる人となろう)」と決意し、実行していく時に、状況は変わっていきます。ヨセフは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と告げられ、人として信じられない出来事を目の前に突き付けられます。ヨセフはもし彼がマリアと幼子を受入れなければ、二人は悲惨さの中に放り込まれることを慮り、悩みぬいた末に神の啓示を受け入れ、マリアとその子を守っていこうと決意しました。こうしてヨセフはマリアと子のインマヌエル(必要とされる人)になって行くのです。
・マタイの描く「父」としてのヨセフは、妻に子を産ませることで自分の血統を伝えるのではなく、神が与えられた子の命を保護していく役割です。ヨセフはその役割を受け入れて生きました。成長したイエスは、村人から「私生児」と陰口されて苦しまれたでしょう。苦しまれた故にイエスは「自分の民を罪から救う」(1:21b)ことが出来ます。私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止め、自分を必要とする人のインマヌエルになろうと決意した時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる。クリスマスはそのことを改めて私たちに示す時です。


カテゴリー: - admin @ 08時10分33秒

12 09

1.キリストの系図の中に、四人の女性たちの名がある

・アドベント(待降節)の時を迎えています。今年のクリスマスはマタイ福音書から御言葉を聞きますが、今日はマタイ1章前半にありますイエス・キリストの系図を見ていきます。イエスがどのようにして生まれてこられたかを記す歴史です。そこにあるのは男系の系図です「アブラハムはイサクを、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟を」という形で、父から子へ、子から孫へ、さらにはその子たちへと系図が展開していきます。その男系の系図の中に、四人の女性の名が出てきます。当時のユダヤは徹底した父系社会であり、系図の中に女性が登場するのはきわめて異例です。そして、ここに登場する四人の女性たちはそれぞれに暗い過去を持ちます。彼女たちは、異邦人出身とか、性的不道徳が批判されかねない女性たちです。その女性たちがあえて選ばれてこの系図に記されています。
・4人の女性の最初は3節のタマルです。彼女はユダの長男エルの妻でしたが(創世記38章)、夫エルは子を残さずに死に、次に弟オナンの妻となりますが、オナンも子を残さずに死にます。当時の慣習では三男と結婚すべきですが、舅のユダは三男まで死んでしまうことを危惧し、タマルを実家に戻します。当時、婦人が子を産まないで実家に戻されるのは恥ずべき事と考えられていました。タマルはその恥を注ぐために、遊女を装って舅ユダに近づき、妊娠して子を産みます。マタイは「ユダはタマルによってペレツとゼラを (生んだ)」(1:3)と記します。タマルは近親相姦により不義の子を産んだ女性なのです。
・5節に出てくるラハブは、エリコの遊女(ヨシュア記2〜6章)で、エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候をかくまい助けた功で、ヨシュアから夫を与えられ、子を産みます。マタイは「サルモンはラハブによってボアズを(生んだ)」(1:5)と記します。遊女は当時の社会でも蔑まれる存在でした。その遊女がイエス・キリストの系図に入っています。5節後半のルツはモアブの女で、エリメレクの子と結婚しますが、夫と義父は死に、姑ナオミに従ってベツレヘムに行き、その地でエリメレクの親族ボアズと結婚し子を産みます(ルツ記4章)。マタイは「ボアズはルツによってオベドを(生んだ)」(1:5)と書きます。ルツは当時の社会で卑しまれていた異邦人の出身です。
・6節のウリヤの妻とはダビデの武将ウリヤの妻バテシバで、彼女は夫が戦場にいる時に、ダビデ王に見初められて床を共にし、妊娠します。ダビデはバテシバの夫ウリヤを戦場で死なせ、未亡人バテシバを妻として娶ります。このバテシバからソロモン王が生まれます(サムエル記下11‐12章)。マタイはここでバテシバの名前を出さずに「ウリヤの妻」とだけ記します。バテシバはウリヤの妻であってダビデの妻ではなかった。それなのにダビデはその夫人を無理やりに自分のものとした。「メシアはダビデの子から生まれる」と信じられていた時代に、そのダビデこそ罪びとであったことをマタイは強調しています。
・四人の女性に共通するのは、それぞれに人から罪びとと批判されるであろう、後ろめたい過去を持つことです。タマルは舅ユダとの姦淫を通して、子を生みました。ラハブの職業は娼婦で、ルツは異邦人でした。ウリヤの妻はダビデと姦淫を犯してソロモンを生んでいます。イスラエルの歴史の中にはアブラハムの妻サラやイサクの妻リベカ等、賞賛されるべき女性はたくさんいますが、彼らの名前は系図には現れません。逆に、異邦人であり、また性的不道徳が批判されかねない女性たちをあえて、マタイはキリストの系図の中に選んでいます。何故なのか、昔から、多くの人が疑問に思ってきたところです。

2.罪びとを受け入れられる神

・イエスはヨセフとマリアの長男としてお生まれになられましたが、マルコ福音書によれば、故郷ナザレ村の人々はイエスのことを「マリアの子」(マルコ6:3)と呼んだと記します。父兄社会では人は通常は父親の名前で呼ばれますから、イエスは「ヨセフの子」と呼ばれるべきであるのに、「マリアの子」と呼ばれています。この表現は「ヨセフの子ではなくマリアの子」、「イエスは私生児であった」という響きを持っており、ユダヤ人の中でイエスの出生に悪口をいう人たちがいたことを示します。キリスト教がユダヤ教から分離独立していったのは紀元70年ごろですが、母体のユダヤ教側では、「イエスがヨセフの子ではない」ことを逆手にとって、「イエスは私生児だった」と批判していたようです。
・そう批判されても仕方のない状況下でイエスがお生まれになったのは、事実です。マタイはその事実を踏まえ、仮に私たちの両親が、否、私たち自身がタマルやバテシバのように罪を犯した存在であっても、神は罪を犯す私たちの悲しみを知っておられ、それを赦しておられると主張するためにあえて系図の中に4人の罪ある女性たちの名前を挿入したと思われます。パウロは語ります「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ8:3)。
・四人の女性たちはそれぞれ罪を犯しましたが、それは生きるためにやむを得ない罪でした。タマルは舅の子を生みますが、当時の女性にとって嫁いで子を産まずに去るということは耐え難い屈辱でした。だから、あえて舅の子を生みます。その舅の子ペレツがイエスの系図を構成します。ラハブは娼婦でしたが、誰が喜んで娼婦になどなるでしょうか。恐らくは家が貧しく娼婦として売られた事情があったはずです。しかし、そのラハブの産んだ子から神の子の系図を構成するボアズが生まれています。ウリヤの妻バテシバはダビデに無理やり王宮に連れ去られ、夫はダビデに殺されています。バテシバの一生は決して平和ではなかった。神はこの女性たちの悲しみを知っておられ、それを憐れまれた。だから、彼女たちは神の子の系図に入ることを許されたとマタイは主張しているのです。
・この福音書を書いたとされるマタイも悲しみを知っています。彼は当時の社会の中で、嫌われ排除された徴税人であったとされています(9:9「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った)。しかし、イエスはそのようなマタイをも弟子として受け入れて下さった。イエスご自身も「私生児」と陰口されて、苦しまれたと思われます。それ故に「罪びと」と陰口されたマタイの苦しみも知って下さった。自分が差別され苦しんだ人こそが、差別に苦しむ他者を憐れむことが出来る。それを知るマタイだからこそ、キリストの系図の中に4人の差別された女性の名前を入れたのではないかと思えます。

3.罪の赦し

・今日の招詞にルカ7:47を選びました。次のような言葉です「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ルカは罪びとの赦しの物語を7章で展開します。「あるファリサイ派の人が一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7:36-38)。「罪深い女」とは娼婦や遊女を指す言葉です。
・宴席の主人シモンは評判の悪い女がそのような行為をするのに、イエスが拒絶されないのを見て、心の中で言います「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(ルカ7:39)。シモンの心中を推察されたイエスは彼に言われます「この人を見ないか。私があなたの家に入った時、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(ルカ7:44-46)。そして言われたのが招詞の言葉です「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」。そしてイエスは女性に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました(ルカ7:48-50)。
・この女性はその後どのようになったのでしょうか。ルカは何も語りません。しかし、罪を赦された者はもう罪の生活を続けることは出来ません。彼女はおそらく今までの生活と訣別し、新しい生活を始めたと思われます。イエスとの出会いは人生を根底から変える力を持っています。イエスは何故彼女を赦されたのでしょうか。それはイエスが悲しみを知っておられたからです。イエスご自身も「私生児」と陰口されて、苦しまれた、それ故に「罪びと」とされた女性の苦しみも知って下さった。
・神は私たちが弱さのために罪を犯すことを知っておられます。そして私たちが罪を認めた時、私たちの罪を赦されます。精神科医の神谷美恵子さんは、著書「生きがいについて」の中で語ります「罪深いままでよいのだ、ありのままでよいのだ、そのままでお前の罪は赦されているのだ、と。もしそのような声が世界のどこからか響いてくれば、罪の人ははっと驚いて歓喜の涙にかきくれ、とりつくろいの心も捨てて、あるがままの身を投げ出し、その赦しを素直に受け入れるだろう」(同書p156)。この赦しがマタイ福音書冒頭にあるのです。この赦しを経験した者は、もはや以前の生活には戻れません。だから、私たちは教会に来るのです。何故ならば、私たちもこの赦しを経験したからです。福音書の最初のページは赦しから始まっています。私たちはこのことに感謝し、「アーメン、わが主よ、あなたは生きておられます」と讃美したいと思います。


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1.マタイにおける復活顕現

・アドベントの時を迎えました。与えられた聖書箇所はマタイ28:16-20、復活されたイエスが弟子たちに世界伝道をお命じになるところです。何故、クリスマスを前に、復活のイエスの言葉を聞くのか、それはマタイの最後の言葉「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)がイエス生誕の時にも用いられているからです。「インマヌエル」、ヘブライ語で「神は私たちと共におられる」という意味で、マタイはこの言葉をイエス生誕時の受胎告知の中で用います「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)。「インマヌエルと呼ばれる方がお生まれになる」という約束がイエス生誕の時に為され、その方が「いつまでもあなたがたと共にいる」と約束して天に昇られた。マタイ福音書は「インマヌエル」という言葉で始まり、「インマヌエル」という言葉で閉じられています。インマヌエルの主とはどのような方であるのかを、クリスマスを前にした今、聞いていきます。
・28章でマタイは書きます「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(28:16)。弟子たちはイエスの十字架刑時にその場から逃げ出し、故郷ガリラヤに戻り、その地で復活のイエスと出会います。その時の記事が今日のマタイ28章です。マタイは記します「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(28:17)。「弟子たちはイエスに出会っても、まだ復活を信じることが出来なかった」ことをマタイは隠しません。弟子たちの中に、これは「幻覚」であり、自分たちは「亡霊を見ている」と思う者が居ても当然です。
・同時にこの箇所を、マタイは自分の教会の信徒に宛てて書いています。マタイ福音書が書かれたのは紀元80年頃、イエスの復活を直接に体験した第一世代の弟子たちは既に亡くなり、教会にいる第二世代、第三世代の弟子たちは復活顕現の直接体験をしていません。「見て信じる」ことさえ難しいのに,「見ないで信じる」ことはさらに困難です。初代教会の中にも「イエスの復活を信じることの出来ない」信徒たちがいた。その人々にマタイは「イエスは本当に復活された。11人の弟子たちは本当に復活のイエスに出会い、イエスから言葉を受けた。その言葉を私は使徒たちから聞いてあなた方に伝えるのだ」と語っています。その言葉とは18節以下の言葉です。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:18b-20a)。
・マタイはイエスの言葉を記します「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。「いつもあなたがたと共にいる」、インマヌエルです。イン=共に、ヌー=われら、エル=神、「神は私たちと共に」が元来の意味です。イエスは死なれたが、宣教の言葉の中に臨在しておられる、それがマタイの信仰です。だから彼は「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(18:20)とのイエスの言葉を伝えています。人が祈りを合わせる時、イエスはそこにおられる、また主の晩餐式における言葉「取って食べなさい。これは私の体である・・・この杯から飲みなさい。これは私の血・・・である」(26:26-28)も、晩餐の時にイエスがそこに臨在されているという信仰を示しています。

2.インマヌエルの主に出会う

・マタイの信仰は、「十字架で死なれたイエスは、復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」というものです。私たちも同じ信仰を持ちますが、主の臨在を実感できないのが現実です。インマヌエルのキリストとの出会い体験がない故に、「疑いつつ信じる」という信仰生活になりがちです。2000年前にペテロやパウロが体験した復活のイエスとの出会いが、「私たち自身の体験」にならない限り、私たちの信仰は弱いままで終わり、やがて教会を離れるようになります。「信仰告白して洗礼を受けた人の半数以上は、数年のうちに教会から離れる」という悲しい事実こそ、インマヌエルなる方とのこの出会いが必要であることを訴えます。では私たちはどのようにして復活のイエスと出会うことが出来るのでしょうか。
・その出会いの一つを示すのが、トルストイの描いた民話「靴屋のマルチン」です。物語の主人公、靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、孤独でした。彼は家族を自分から奪った神を恨み、生きる希望を失って、惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。ある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと聖書を置いていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父が置いていった聖書を読みはじめます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」。
・次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。キリストがおいでになるのを待っていると、今度はおばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。一日が終りましたが、期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが現れます「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後に言葉が響きます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。
・マルチンは隣人との出会いの中で、「インマヌエル」なる方と出会います。マザーテレサもそうです。インドで修道女となったマザーテレサが見たのは、貧しい人々が道端で死んで行く光景でした。彼女は修道院を出て、道端に捨てられた人々を救済する活動を始めます。彼女は語ります「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで、体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、 thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」(粕谷甲一「第二バチカン公会議と私達の歩む道」)。御聖体、キリストの体です。マザーは死にかけている老婆を介抱することでインマヌエルなる方と出会ったのです。マルチンの話、マザーテレサの体験は、「私たちが『誰が隣人ですか』と問うのをやめ、その人のために行為すればその人は隣人となり、私たちは隣人を通して、インマヌエルなる方に出会う」ことを示します。

3.イエスの宣教命令を受けて

・今日の招詞にイザヤ7:14を選びました。マタイがイエス生誕時に引用したイザヤの預言です。「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。イザヤの時代、シリアと北イスラエルはユダに侵略し、時のアハズ王は北の帝国アッシリアの支援を求めます。イザヤは反対し、「神に信頼して鎮まりなさい」と語りましたが、アハズは言葉を聞かず、アッシリアの援軍を求め、アッシリアはパレスチナに侵攻し、シリアと北イスラエルを滅ぼしました。その後アッシリアはユダを属国として支配します。神の言葉を語ってもアハズ王は聞こうとはしなかったので、イザヤは新しい王の出現を望みます。それがインマヌエル預言です。
・ここに期待される「男の子」とは、アハズ王の子ヒゼキヤを指し、彼は前715年に父に代わって王となりました。イザヤはヒゼキヤの即位をメシアの誕生として歌います「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた・・・その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(9:5)。ヒゼキヤは即位するとアッシリアとの関係を絶ち、神殿から偶像を放逐しますが、そのヒゼキヤでさえ、後の危機の時にはエジプトに支援を求めます。イザヤはヒゼキヤにも失望し、新しい預言をします「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(11:1-2)。クリスマスで読まれるメシア預言は、人間に絶望した預言者が神に救済を求める預言です。
・それから700年後、パレスチナに生まれたキリスト教会は、イザヤ7章インマヌエル預言にイエス・キリストの誕生の意味を見出します。「マリアは男の子を産む・・・この子は自分の民を罪から救う・・・主が預言者を通して言われていたことが実現する『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」(マタイ1:21-23)。マタイは福音書初めの誕生物語で、イエスの出現を「インマヌエル」(神は私たちと共におられる)という名で指し示しました(1:23)。物語の最後においても、復活者イエスが私たちといつまでも一緒にいてくださる事実を指し示して、「神は私たちと共にいます(イムマヌエル)」の句で締め括ります。同志社大学でユダヤ教を研究しておられる勝又悦子先生は語られます「イザヤ書に書かれている状況は、ユダ王国が置かれた戦争の状況です。今の私たちにとっての戦争は、個々人の心の中のさまざまな葛藤・悩み・不安・絶望として考えることができるのではないでしょうか。そして、そのような絶望、暗闇にあって、イザヤが発した預言の中身は「インマヌエル」=神が私たちとともにいるという、実にシンプルなフレーズでした・・・私たち自身も、さまざまな悩みや苦しみの中にあるかと思います。しかし、そのような個々人の闘いのなかで、「神が私たちとともにいる」ことを感じることで、心の闇や絶望に立ち向かう力を与えてくれるのではないでしょうか」(2013年10月9日京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録から)。


カテゴリー: - admin @ 07時59分29秒

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