すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.ダビデの犯した悪

・詩篇51編は罪の悔い改めと赦しを求める詩として有名です。人々はダビデ王が罪を犯し、預言者ナタンがそれをとがめた時に、ダビデが悔い改めた言葉として、この詩を唱和してきました。それが表題の「ダビデの詩、ダビデがバト・シェバと通じたので預言者ナタンがダビデのもとに来た時」(51:1-2)という解説です。ダビデの犯した罪については、サムエル記下11-12章に詳しく書かれていますので、最初に物語を見て行きます。当時、イスラエルはダビデ王の下に統一され、王国として栄え始めていました。ダビデは近隣諸国を征服し、領土を拡大していきます。ダビデは得意の絶頂期にありました。そのダビデがある日の夕暮れ、王宮の屋上から湯浴みする一人の婦人を見ます。彼女は兵士ウリヤの妻バテシバで、「女は大層美しかった」とサムエル記は記します。夫ウリヤはアンモン人との戦いのために出征し、不在でした。ダビデは婦人を王宮に呼び、彼女と寝て、その結果バテシバは妊娠します。
・バテシバの妊娠に困惑したダビデは、夫ウリヤを前線から呼び戻し、妻と寝させることによって自分の犯した悪をごまかそうとしますが、ウリヤは前線の将兵が戦いの中にある時、自分一人、家で妻と寝るわけには行かないと断ります。ダビデの目論見は失敗し、彼は自分の犯した悪をごまかすために、上司である将軍ヨアブに手紙を持たせ、ウリヤを最前線に立たせて死なせるように命じ、ウリヤは死にます。「罪は罪を生む」、姦淫が殺人にまで発展したのです。バテシバはやもめとなり、ダビデはバテシバを妻として宮殿に迎え入れ、彼女は男の子を生みます。
・サムエル記はこの事実を淡々と述べた後、最期に記します「ダビデのしたことは主の御心に適わなかった」(サムエル下11:27)。他の国では王が臣下の妻を奪ったとしてもさしたる罪ではないかもしれませんが、イスラエルにおいてはその罪は放置されません。王は神の委託下にあるからです。「主はナタンをダビデのもとに遣わされた」(同12:1)。ダビデの前に現れたナタンはダビデに一つの物語を語ります(同12:1-4)。「多くの羊や牛を持つ豊かな男が自分の羊をつぶすのを惜しみ、一匹の羊しか持たない男の羊を取り上げ、それを客に出した」。ダビデは叫びます「そのような無慈悲なことをした男は死罪にされるべきだ」。ナタンは断言します「その男はあなただ」(同12:7)。ナタンは主の言葉を続けます「あなたをイスラエルの王にしたのは私であり、あなたを恵んできたのも私である。それなのに何故、ウリヤの妻を欲してウリヤを殺すような悪を為したのか」(同12:7-10)。この言葉にダビデは頭をたれ、告白します「私は主に罪を犯しました」(同12:13)。

2.ダビデの物語として詩編51篇を読む

・ダビデの悔い改めの言葉を受けて詩編51篇が始まります。「神よ、私を憐れんで下さい、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐって下さい。私の咎をことごとく洗い、罪から清めて下さい」(51:3-4)。ダビデは神に背き、罪を犯しました。その結果平安は彼から去りました。罪は赦されなければ消えません。だから彼は神に罪を洗い清めて下さるように祈ります。「あなたに背いたことを私は知っています。私の罪は常に私の前に置かれています。あなたに、あなたのみに私は罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません」。私は咎のうちに産み落とされ、母が私を身ごもったときも、私は罪のうちにあったのです」(51:5-7)。
・ダビデはウリヤの妻を横取りし、夫ウリヤを謀殺しました。罪は一義的には人に犯した罪です。しかし、それは突き詰めると神に逆らう行為です。神という絶対的な存在が無い時、本当の罪意識は生まれません。神がいない時、人はわからなければ何をしても良いと思う存在です。ダビデは罪の結果の子が生まれるまで、1年余りも平気で暮らしていました。人は、「その男はあなただ」と告発されなければ、自分の罪が見えないのです。罪を告発されたダビデは、その罪が生まれ落ちた時からあったことを自覚します。ここでは単に「ウリヤを殺すという罪を犯した」ことだけではなく、これまでに犯した様々な罪が詩人を圧倒し、「自分の存在それ自体が罪人である」と告白しているのです。
・「存在そのものが罪」である時、その罪は自分の力では洗い流すことはできません。いくらヒソプ(石鹸)で洗っても落ちません。だから神に罪を洗い流して下さるように祈ります「ヒソプの枝で私の罪を払ってください、私が清くなるように。私を洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。私の罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください」(51:9-11)。罪の清めとは単に処罰が赦されることでは済まず、古き自己が葬られ、新たな自己に生かされなければ救済はありません。ですからダビデは主に願います「神よ、私の内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けて下さい。御前から私を退けず、あなたの聖なる霊を取り上げないでください。御救いの喜びを再び私に味わわせ、自由の霊によって支えてください」(51:12-14)。
・「私を変えて下さい。私自身が問題なのです」とダビデは血の汗を流しながら祈っています。罪からの清め、救いとは人格を変える出来事なのです。人格を変える出来事を経験した者は他者のために祈り始めます。「私はあなたの道を教えます、あなたに背いている者に、罪人が御もとに立ち帰るように。神よ、私の救いの神よ、流血の災いから私を救い出してください。恵みの御業をこの舌は喜び歌います。主よ、私の唇を開いてください、この口はあなたの賛美を歌います」(51:15-17)。
・そして中核の言葉が祈られます「もし生贄があなたに喜ばれ、焼き尽くす献げ物が御旨にかなうのなら、私はそれをささげます。しかし、神の求める生贄は打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」(51:18-19)。罪の赦しは悔い改めの結果与えられるものであり、それは神殿に犠牲の動物を捧げることによって赦されるようなものではありません。私たちが捧げるべき生贄は「砕かれた霊」であり、主は「砕かれた悔いる心」を受け入れて下さる、それを信じてダビデは祈りを捧げました。
・詩篇編集者はこの詩に「ダビデの歌」との表題を付けましたが、内容的にはダビデ時代のものであるよりも、捕囚期以後の詩である可能性が高いといわれます。しかし、旧約の人々も新約の人々もこの詩をダビデの詩として親しんできました。その理由を高橋三郎氏は「イスラエルはその王なるダビデの醜悪な罪をこの詩を唱和する毎に想起し、打ちのめされた罪人の告白の中にこそ、信仰による生の原点を見出した」と表現します(高橋三郎「エロヒーム歌集」)。人々はダビデを慕いました。それはダビデがイスラエルを繁栄に導いた王であるからではなく、王であるにも関わらず、自らの罪を認め、神の前に悔い改めたからです。人は罪を犯さないから偉大なのではありません。「罪を心から悔いることのできる人」が偉大なのです。

3.私たちの物語として詩編51篇を読む

・詩編51編は、いろいろなことを私たちに示します。ダビデは王でした。権力者が悪を犯しても世間は何も言いません。しかし、人の目に隠れていることも神は明らかにされます。神はダビデの罪を公衆の前にさらけ出されました。権力者であれば、ダビデがするようなことは誰でもするでしょう。それにもかかわらず、ダビデは裁かれなければなりません。このバテシバを通じてソロモンが生まれ、このダビデ-ソロモンの系図からイエス・キリストが生まれたことをマタイ福音書は記します。「エッサイはダビデ王をもうけた。ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ・・・ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:1-16)。マタイはあえて「ウリヤの妻によってソロモンが生まれた」と記します。それはキリストの系図もまた、汚れていたことを示すためです。人間は罪の中に生まれ、その罪を背負って生きる存在であり、その人間の罪を背負うためにキリストは来られたことを示すためです。私たちの系図も罪で汚れています。誰も知らない罪、隠しておきたい出来事、神は全てをご存知であり、それを承知の上で私たちを招かれています。
・今日の招詞にヨハネ8:11を選びました。次のような言葉です「女が、『主よ、だれも』と言うと、イエスは言われた。『私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない』」。姦淫の罪を犯した女性にイエスが言われた言葉です。イエスのもとに、人々が姦淫の現場で捕えた女を連れてきて、言いました「先生、この女は姦通をしている時に捕まりました。こういう女は石で打ち殺せとモーセは律法の中で命じています。あなたはどうお考えになりますか」。それに対してイエスは言われました「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、石を投げなさい」(ヨハネ8:7-8)。イエスの答えを聞いた者は「年長者から始まって、一人また一人と、立ち去ってしまい、イエスひとりと、真ん中にいた女が残った」(同8:9)。自らを「罪なし」と言える者は一人も居なかったのです。イエスは身を起して女に言われました。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。女が「主よ、だれも」と言うと、イエスは言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない。」イエスはそれ以上、咎めようとせず女を赦されました。
・この女性はマグダラのマリアではないかと言われています。イエスが十字架にかけられた時、ゴルゴタの丘まで付き従い、イエスが葬られた後は、その墓に行き、復活のイエスに最初に出会った女性です。マグダラのマリアは、イエスの慈しみと、赦しにより新しく生まれ変わったのです。女を石打ちから守った温かい抱擁力、悔い改めを待つ忍耐、おおらかな罪の赦し、これらは全て主の慈しみ(ヘセド)からくるものです。神を信じる人とそうでない人は何が違うのでしょうか。共に罪を犯します。キリスト者は罪を犯した時、それを神に指摘され、裁かれ、苦しみます。その苦しみを通して神の憐れみ(ヘセド)が与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。「罪を犯した」と認めることが出来ないため、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから、償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きです。「私は罪を犯した」と悔改めた時、神の祝福が始まることを聖書は繰り返し、私たちに伝えます。


カテゴリー: - admin @ 08時00分29秒

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