すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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08 26

1.アブラハムの死とイサク、イシマエル

・創世記からアブラハム物語を読んできました。今日が最終回です。創世記はアブラハムがサラの死後、再び妻をめとり、6人の子を生んだと記します「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は、アブラハムとの間にジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを産んだ」(25:1-2)。これは現代の私たちから見れば違和感がある記事です。長年連れ添った妻サラが死に、子イサクも妻を迎え、アブラハム自身も老年になったのに何故と思います。しかし25章26節「リベカが子供を産んだ時、イサクは60歳であった」と記してありますから、アブラハムが死ぬ時、まだイサクに子が与えられていません。アブラハムとしては生命の継承のために、再婚してさらに子を産むことが必要だったと判断したのかもしれません。
・側室に子が生まれた時、アブラハムはその全財産をイサクに譲り、他の子供たちには贈り物を与えて、イサクから分離させたと創世記は記します。「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」(25:5-6)。死後に不要な相続争いが起こらないようにする配慮でした。イサクこそ主に「約束された後継者」であったのです。アブラハムは天寿を全うし、175歳で死んだと創世記は記します「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(25:7-8)。古代の人々にとって長寿を全うし、子供たちに見送られて、先祖の列に加えられることが、「安らかな死」でした。
・現代の私たちは、病院での延命治療、孤独死、心のこもらない葬儀、死んだ後の墓の荒廃(無縁墓)に直面しています。教会の役割の一つは、共同体の成員に、「安らかな死と死後の慰めの継続」を与えることです。だから教会は独自の墓地を持ちます。パウロは記します「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14:7-9)。生きる時も、死ぬ時も主のため、これが生かされている信仰者の務めです。
・アブラハムはイサクとイシマエルの二人の子により、サラと同じ墓に葬られました。「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた」(25:9-10)。彼の死を契機に、対立していた兄弟の和解が為されたと創世記は伝えます。イスラエルの族長としての継承者はイサクでしたが、神はイシマエルも祝福し、イシマエルも多くの民の祖となっていきます。彼もまた神の恵みの中にあったのです。創世記は記します「サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである・・・彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた」(25:12-17)。

2. 人の死と土地

・アブラハムはあなたに約束の地を与えるとの神の招きを受けて、故郷メソポタミヤを離れ、カナンの地に向かいました。60年の時が流れ、その地で、先に妻サラが年老いて死に、アブラハムは彼女のために墓地を購入しました (23:16-18)。やがてアブラハムも年老いて死に、彼の遺骸は妻サラが眠るマクペラの洞穴に葬られました。この土地が約束の地でアブラハムに与えられた最初の、そして唯一の土地でした。アブラハムは地上では寄留民であることを表明しましたが、この地上に死者のための墓地を購入し、アブラハム(25:10)もイサク(35:28)もヤコブ(49:29)もこの墓地に埋葬されます。
・アブラハムは満足して死んだと思われます。人はこの世では寄留者であり、自分を葬るための一片の土地があれば、それで十分だからです。旧約の人々は復活を知りません。彼らにとって死者の存在の唯一のしるしは遺骨です。自分の遺骨がどこに葬られるかは、重要な問題でした。だからアブラハムは価格交渉をせずに相手の言い分を飲み、土地を買い、やがて子イサク(35:28)も孫ヤコブ(49:29)も死に、この墓地に埋葬されます。アブラハムのひ孫ヨセフも、エジプトに住んでいたにも関わらず、臨終に際して「自分の遺骨を約束の地、父祖の墓に葬る」ように命じて死にます。それから300年後、モーセはエジプトを出る時にヨセフの骨を携え、ヨセフの骨を先祖代々の墓に葬ったとあります(出エジプト記13:19)。

3.人がこの世に残すものは何か

・今日の招詞に創世記12:1-3を選びました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。私たちはこの世では寄留者、仮住まいの身です。信仰の祖と呼ばれたアブラハムが地上で手に入れたのは、妻と自分を葬るための小さな墓所のみでした(創世記25:10)。しかしアブラハムは「人生に満ち足りて死にました」。
・アブラハムは財産こそ残しませんでしたが、多くの命を残しました。創世記25章には三つの系図があります。基本はサラから生まれたイサクの系図で25:19以下に記してあります。二番目が側女のハガルから生まれたイシマエルの系図で、25章12節以下にあります。三番目がケトラから生まれた6人の子供たちの系図です(25:1-4)。創世記を記したイスラエルの民は、周辺諸民族を自分たちと同じアブラハムを父とする兄弟たちだと理解し、それこそがアブラハムに与えられた祝福「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」ことの成就だと考えたのです。
・アブラハム物語に一貫して流れているテーマは命の継承です。子が生まれ、子と両親の命が死の危険から守られていくこと、そして新しい命の誕生により一族の生命が継承されていくことに、創世記記者は神の祝福を見ています。未来は子の誕生の中に組み込まれています。この素朴な生命継承の喜びを現代人も取り返す必要があります。現代日本においては年間20万件から30万件の人工妊娠中絶が為されています(2000年34万件、2013年18万件)。死因のがんや心臓病を抜いて圧倒的なトップです。人口減少社会において最大の少子化対策は、中絶しなくてもよい社会環境の整備です。国がそれを行わないのなら、自分たちに出来ることをしようとして立ち上がったのが、熊本にありますカトリック病院・慈恵病院です。
・慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を創設しました。院長の蓮田太二氏は語ります「18歳の少女が産み落としたばかりの赤ちゃんを殺して庭に埋めるという事件や、21歳の学生がトイレで赤ちゃんを産み落とし、窒息させ実刑判決を受けるなどといった痛ましい事件が発生しました。神様から授かった尊い命を何とかして助けることができなかったのか、赤ちゃんを産んだ母親もまた救うことができたのではなかろうか、という悔しい思いをし、どうしても赤ちゃんを育てられないと悩む女性が、最終的な問題解決として赤ちゃんを預ける所があれば、母子共に救われると考え、開設しました」。
・それから10年経ちましたが、「こうのとりのゆりかご」は全国的な広がりを見せていません。24時間常駐できる医師や看護師が確保できないことと、行政の高くて厚い壁があるからです。厚労省の責任者は語ります「(子捨てが)あってはならないという認識は一切変わっていない。(ゆりかごは)一般化すべきではない」、現実を見ない考え方です。熊本市が2015年に発表した検証報告書によると、開設から8年の間に救うことができた命は112人。112人の子どものうち、18人が家庭に、30人が施設に、29人が特別養子縁組により新しい家族のもとへ、19人が里親に引き取られました。また慈恵病院が併殺している電話相談には10年間で2万件の相談があり、その9割は県外からだと言います。良し悪しは別にして、現代の日本では、このような受け皿は必要なのです。ドイツでは赤ちゃんポストは法制化されて、全国に100か所のポストが造られ、相談窓口は1500か所にもなります(NHK新書「何故わが子を捨てるのか」)。日本でも可能なはずだとして、慈恵病院は繰り返し行政側に働きかけています。「神から授かった尊い命を何とかして助けたい」という祈りがそこにあります。
・私たちは何故聖書を読むのでしょうか、創世記25章を読んで、「命の継承の大事さがわかった」というだけでは十分ではありません。ヤコブは語ります「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません・・・行いが伴わないなら信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ1:22、2:17))。最初の行動はまず「関心を持つ」ことです。中絶や子棄てについての様々な情報が、書籍やネットにあります。そして命の継承に無関心な社会にあって、自分たちの出来ることをしていこうとする人々がいることを知ります。では私たちは何をなしうるのか、「御言葉を行う人になりなさい」との言葉は何を求めているかを知り、できることをやり始めます。その後、神が行為されます。篠崎キリスト教会の今年の目標は、教会に何ができるかを知り、それに向けての一歩を歩み始めることです。私たちはアブラハムの末として、人々に「祝福をもたらす者」とされているのです。


カテゴリー: - admin @ 08時18分33秒

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