すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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07 21

2019年7月21日説教(創世記39:1-23、主が共におられた)

1.エジプトに売られたヨセフ

・ヨセフ物語を読み続けています。ヨセフの父ヤコブはヨセフを偏愛し、ヨセフには兄たちと違う特別の着物を着せ、羊飼いの仕事をさせないで手元に置いて、秘書の仕事をさせていました。父親の偏愛を受けたヨセフは次第に兄たちを見下すようになり、兄たちはヨセフを憎み、商人たちに売り渡し、ヨセフはエジプトに奴隷として売られて行きます。その売られた先は、エジプト王の侍従長ポティファルの家でした(新聖書協会訳“親衛隊長”)。「主が共におられたので、ヨセフはポティファルの信頼を得た」と創世記は語ります。「ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ。彼はエジプト人の主人の家にいた。主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」(39:1-4)。ヨセフはポティパルの家で10年間働き、17歳の青白い少年が今や20代の堂々の青年になっています。
・ヨセフはその能力と忠実さによって主人の信頼を得て、家令(財産管理人)に任じられました。彼は奴隷ではあっても安定した生活に満足しています。そこに思わぬ出来事が起こります。主人の妻が美貌のヨセフに思いをかけて来たのです。「主人は全財産をヨセフの手に委ねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった。ヨセフは顔も美しく、体つきも優れていた。これらのことの後で、主人の妻はヨセフに目を注ぎながら言った。『私の床に入りなさい』」(39:5-7)。しかし、ヨセフは拒んで、主人の妻に語ります。「ご存じのように、御主人は私を側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべて私の手に委ねてくださいました。この家では、私の上に立つ者はいませんから、私の意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。私は、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」(37:8-9)。
・主人の妻はそれでも毎日ヨセフに言い寄り、あるとき強引にヨセフに関係を迫り、ヨセフは彼女の手に着物を残して逃げます。「彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった。こうして、ある日、ヨセフが仕事をしようと家に入ると、家の者が一人も家の中にいなかったので、彼女はヨセフの着物をつかんで言った。『私の床に入りなさい』。ヨセフは着物を彼女の手に残し、逃げて外へ出た」(39:10-12)。
・主人の妻にとってヨセフと寝ることは快楽の追求でした。しかし、ヨセフにとってそれは命にかかわる出来事、破滅への道でした。ヨセフは彼女から逃げます。拒絶された妻は腹いせにヨセフを告発し(39:13-18)、怒った主人はヨセフを投獄します「『あなたの奴隷が私にこんなことをしたのです』と訴える妻の言葉を聞いて、主人は怒り、ヨセフを捕らえて、王の囚人をつなぐ監獄に入れた。ヨセフはこうして、監獄にいた」(39:19-20)。この事件を通してヨセフはイスラエルの知恵の言葉を思い起こしたでしょう。「彼女の美しさを心に慕うな。そのまなざしのとりこになるな。遊女への支払いは一塊のパン程度だが、人妻は貴い命を要求する」(箴言6:25-26)、「彼女(人妻)の家は陰府への道、死の部屋へ下る」(箴言7:27)。「人妻は貴い命を要求する」、姦淫は人と人の関係を破壊する毒なのです。

2.主が共におられた

・ヨセフは不当な姦淫の誘いを断った故に投獄されますが、創世記39章は37章と連続しており、間に38章が挿入されています。38章はヨセフの兄弟ユダが嫁のタマルと過ちを犯し、その結果嫁タマルの妊娠を通して子が生まれるという姦淫の物語です。何故直接的にはヨセフ物語と関係しないユダ物語がここに唐突に挿入されているのでしょうか。多くの注解者は、ヨセフの兄ユダは姦淫の罪を犯したが、弟ヨセフはそれを拒否した、その対比を見よと創世記編集者が語っていると理解します。だから38章もまた大事なヨセフ物語の一部なのです。そして後代の私たちは、この創世記38章の出来事がマタイによってイエスの系図の中に挿入され、タマルの生んだペレツがイエスの系図を構成している事実を知ります(マタイ1:3)。私たちの信じる神は姦淫の罪を犯さざるを得なかったユダとタマルの弱さを赦し、タマルの子をダビデの祖先の一人に、そして神の子イエスの系図に入れて下さった。創世記38章に福音が隠されています。
・そして姦淫を拒否した故に獄に入れられるヨセフがその苦難を通して、新しい希望を見出す物語が39章後半から展開していきます。別の福音の物語がここから始まります。主人ポティファルはヨセフを投獄しましたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎であり、そのことが、ヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となります。しかし投獄されたヨセフには先のことは見えません。ただ創世記は監獄の中でも主はヨセフと共におられたため、看守長もヨセフを信頼して全てを任せるようになったと記します。「主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手に委ね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手に委ねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」(39:21-23)。
・創世記39章には「主が共におられた」という言葉が5回も出て来ます(2,3,5,21,23節)。全ての出来事を「主の導き」と信じる時に、出来事の意味が見えてきます。詩篇105は歌います「主はこの地に飢饉を呼び、パンの備えをことごとく絶やされたが、あらかじめ一人の人を遣わしておかれた。奴隷として売られたヨセフ。主は、人々が彼を卑しめて足枷をはめ、首に鉄の枷をはめることを許された。主の仰せが彼を火で練り清め、御言葉が実現する時まで」(詩編105:16-19)。「御言葉が実現する時まで」、ヨセフは「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められ」ます。

3.神の経綸に従う

・ヨセフは主人の妻から言いがかりをつけられた時も、無言で主人の妻の罪を自ら担います。神の摂理を信じる者は未来を神に委ねて生きることが出来るゆえに、苦難の中でも平静です。今日の招詞に詩編119:71-72を選びました。次のような言葉です「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました。あなたの口から出る律法は私にとって、幾千の金銀にまさる恵みです」。ヨセフの獄中生活は3年間にも及びました(41:1)。無実の罪での3年間の投獄は長い。ヨセフの気持ちの中では希望と失望が交互していたであろうと思えます。
・それに対して創世記注解者リュティは語ります「バプテスマのヨハネは荒野で生活し、ヘロデ王の城内にある地下牢で処刑されます。パウロは多くの刑罰を受けながらも福音伝道を続け、最後はローマで処刑されました。神は十字架上から『わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか』と叫ばれた御子イエスを十字架に残されました。しかし神はそこにおられました・・・艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることへの反証ではない。むしろ、神が我々と共におられることの証拠です」(ヴァルター・リュティ「創世記講解25-50章」223p)。
・与えられた出来事を災いと思う時、その出来事は人の心を苦しめます。しかし出来事を神の摂理と理解した時、新しい道が開けます。ヨセフは不当な罪で投獄されましたが、その投獄された先は王の囚人をつなぐ獄舎で、この投獄がやがてヨセフが王の側近と知り合い、エジプト王に仕える契機となります。その時のヨセフには先は見えませんでしたが、主の導きを信じて待ちました。
・今日の招詞、詩編119編はバビロン捕囚時の詩と言われています。イスラエルの民は、エルサレムが占領され、信仰の中心だった神殿も破壊され、自分たちも遠いバビロンに連れ去られた時、神の導きが分からなかった。捕囚は七十年にも及んだため、「主よ、何故、私たちをこのように苦しめるのですか」と嘆いて、死んで行った人も多かった。しかし、この70年の試練を経て、イスラエル人は神の民として自立していきます。旧約聖書が編集され、ユダヤ教が宗教として成立したのも、捕囚の時代でした。イスラエル人を捕囚したバビロン人は滅び、バビロンを滅ぼしたペルシャ人も滅び、そのペルシャを制圧したローマ人も滅びましたが、ユダヤの民は今日でも民族として残り、その時代に編集された旧約聖書は、今なお読み続けられ、人々に生きる力を与え続けています。
・「卑しめられたのは私のために良いことでした。私はあなたの掟を学ぶようになりました」と詩編作者は歌いました。人は卑しめられなければ、底の底まで落ちなければ、神を求めない存在なのです。地獄を経験した故に、ヨセフは兄弟たちに語ることが出来ました「今は、私をここへ売ったことを悔やんだり、責め合ったりする必要はありません。命を救うために、神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのです・・・私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:4-8)。この言葉をヨセフが言えたのは、途上において様々な試練があったからです。「御言葉が実現する時まで」、「首に鉄の枷をはめられ」、「火で練り清められた」からです。リュティが語るように、「艱難、災難、失望、欠乏は神が我々と共におられることの証拠」なのです。これを知らされた者は幸いです。


カテゴリー: - admin @ 08時00分17秒

07 14

2019年7月14日説教(創世記37:12-36、不和を和解へと導かれる神)

1.兄弟たちの嫉妬が悲劇の引き金となる

・創世記からヨセフ物語を読んでいます。その始まりである創世記37章の主題は、「兄弟の不和」です。ヤコブは12人の子供を持ちましたが、最愛の妻ラケルの子であるヨセフを偏愛し、他の兄弟と区別しました。そのことが兄弟間に不和を生みます。「イスラエル(ヤコブ)は、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった」(37:3)。「長い晴れ着」とは王侯貴族のみが着ることを許された特別の着物で、それを与えられたことは、11番目の息子であるヨセフを、他の兄たちを差し置いて、相続人にすることを意味しています。兄弟たちは当然面白くない、兄たちは「ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(37:4)とあります。
・偏愛されて高慢になったヨセフは「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」と語り、兄たちのさらなる怒りを買います(37:8)。ヨセフはさらに、「両親さえ彼を拝む夢を見た」と語り(37:9)、兄たちばかりか、ヤコブさえも不愉快になります。兄たちはさらにヨセフを憎みました。ここに家族の不和をもたらす三つの出来事が起こりました。親の特定の子への偏愛、偏愛された子の高慢、不公平を強いられた兄たちの嫉妬です。この三つが重なり合い、物語を新しい局面へと導きます。37章には神の言葉は何も記されていません。そこにあるのは、「夢見る人ヨセフ」の姿です。創世記では、夢は神が与えた使信であり、新しい局面は神の偉大な救済計画の導入となります。しかし、渦中にいる人間には神の計画は見えません。

2.エジプトに奴隷として売られるヨセフ

・ヨセフは父に命じられて、兄たちが羊を飼うシケムの地を訪問します。創世記は記します「兄たちが出かけて行き、シケムで父の羊の群れを飼っていた時、イスラエルはヨセフに言った『兄さんたちはシケムで羊を飼っているはずだ。お前を彼らのところへやりたいのだが・・・兄さんたちが元気にやっているか、羊の群れも無事か見届けて、様子を知らせてくれないか』」(37:12-14)。シケムにいた兄たちは遠くからヨセフが長い晴れ着を着てくるのを見た時、日ごろからの憎しみが殺意にまで高まります。彼らはヨセフを殺してしまおうと相談します。「兄たちは、はるか遠くの方にヨセフの姿を認めると、まだ近づいて来ないうちに、ヨセフを殺してしまおうとたくらみ、相談した『おい、向こうから例の夢見るお方がやって来る。さあ、今だ。あれを殺して、穴の一つに投げ込もう。後は、野獣に食われたと言えばよい。あれの夢がどうなるか、見てやろう』」(37:18-20)。
・最年長のルベンは弟を殺すことに反対します「ルベンはこれを聞いて、ヨセフを彼らの手から助け出そうとして、言った『命まで取るのはよそう』。ルベンは続けて言った『血を流してはならない。荒れ野のこの穴に投げ入れよう。手を下してはならない』」(37:21-22a)。創世記は「ルベンは、ヨセフを彼らの手から助け出して、父のもとへ帰したかったのである」(38:22b)と記します。兄弟たちはヨセフを捕らえて着物をはぎとり、穴の中に投げ込みました。「兄たちはヨセフが着ていた着物、裾の長い晴れ着をはぎ取り、彼を捕らえて、穴に投げ込んだ。その穴は空で水はなかった」(37:23-24)。からの井戸だったのでしょう。もう一人の兄ユダもヨセフを殺すことに反対します「ユダは兄弟たちに言った。『弟を殺して、その血を覆っても、何の得にもならない。それより、あのイシュマエル人に売ろうではないか。弟に手をかけるのはよそう。あれだって、肉親の弟だから』。兄弟たちは、これを聞き入れた」(37:26-27)。ルベンやユダの言葉の中に、働きかけられる神の姿があります。こうしてヨセフはエジプトに奴隷として売られることになります。
・兄たちは雄山羊の血を着物に浸し、ヨセフは獣に食われて死んだと父に報告します。「兄弟たちはヨセフの着物を拾い上げ、雄山羊を殺してその血に着物を浸した。彼らはそれから、裾の長い晴れ着を父のもとへ送り届け、『これを見つけましたが、あなたの息子の着物かどうか、お調べになってください』と言わせた」(37:31-32)。父ヤコブは、最愛の子が死んだと聞かされ、晴れ着の血を見せられて、嘆きます。「父は、それを調べて言った『あの子の着物だ。野獣に食われたのだ。ああ、ヨセフはかみ裂かれてしまったのだ』。ヤコブは自分の衣を引き裂き、粗布を腰にまとい、幾日もその子のために嘆き悲しんだ」(37:33-34)。
・ドイツのノーベル賞作家トーマス・マンは「ヨセフとその兄弟」という長編小説を書いています。創世記のヨセフ物語を基盤にした作品で、「ヤコブ物語」(1933年)、「若いヨセフ」(1934年)、「エジプトのヨセフ」(1936年)、「養う人ヨセフ」(1943年)の4部からなります。物語は1926年から1943年まで足かけ18年にわたって書かれ、邦訳で2000ページを超える大長編です。背景にはナチス・ドイツによるユダヤ人迫害があります。ナチスは、旧約聖書はイエスを殺したユダヤ人の聖典であり、教会で旧約聖書を読むことを禁じました。違反して旧約聖書を語った牧師や神父は強制収容所につながれ、5000人以上が殺されたと言われています。そのような時代にドイツから追放された亡命者であるトーマス・マンが旧約聖書を題材とした長編小説を書き始めたのです。最初の「ヤコブ物語」が完成したのは1933年、ナチスが政権を握った年です。彼は語ります「ユダヤ人を題材とする小説を書くのは、反時代的であるゆえにまさに時代的である」(森川俊夫「ヨセフと兄弟たち」、巻末解説より)。そして最後の「養う人ヨセフ」が書かれたのは1943年、第二次大戦でドイツの敗色が明白になっていた年です。トーマス・マンは自由を圧殺し、聖書の民を抹殺しようとするナチス・ドイツに抵抗するためにこの物語を書いたのです。

3.この物語が意味するもの

・今日の招詞に創世記50:19−20を選びました。ヨセフ物語の最終部分です。「ヨセフは兄たちに言った『恐れることはありません。私が神に代わることができましょうか。あなたがたは私に悪をたくらみましたが、神はそれを善に変え、多くの民の命を救うために、今日のようにしてくださったのです』」。イスラエル民族がエジプトに来たのは、紀元前17世紀のヒクソス(ギリシャ語=異国の地の支配者)王朝の頃といわれています。異邦人王朝だったからこそ、異邦人のヨセフを取り立て、その家族の定住も許しました。ヤコブは子供たちに囲まれ、祝福の内に死んでいきました。兄弟たちは父ヤコブが死んだ後、ヨセフが自分たちに復讐するのではないかと恐れ、ヨセフの前に出て赦しを請います。その兄弟たちに語られた言葉が今日の招詞の言葉です。
・「あなたがたは私に悪をたくらみました」、この「たくらむ」と言う言葉はヘブル語の「カシャブ」であり、「神はそれを善に変え」、この「変え」も同じ「カシャブ」という言葉です。「あなたたちは私をエジプトに売るという悪を企んだが(カシャブしたが)、神はあなたたちの悪を多くの民の救いという善に計られた(カシャブされた)。神がそうされたことを知った以上、あなたたちに報復するという悪を私が出来ようか」とヨセフは言ったのです。ヨセフは神の導きを信じるゆえに兄弟たちを赦しました。そのことによってイスラエル民族はエジプトに住み、増え、一つの国民を形成するまでになりました。もし、ヨセフが神を信じず、感情のままに兄弟たちに報復していたならば、イスラエル民族は存続しなかった。悪を行うのは人間ですが、その悪の中にも神の導きがあることを信じる時、その悪は善に変わるのです。
・聖書学者北森嘉蔵は語ります「聖書は人間の罪が悪をもたらすことを明言する。しかしこの悪が神によって善に変えられていく。それが信じるのが聖書の信仰である」(北森嘉蔵「創世記講話」P308-311)。ヨセフ物語が私たちに示しますのはこの摂理の信仰です。「ヨセフとその兄弟」という長編小説を書いたトーマス・マンは物語の最後を締めくくります「かくして終わりを告げるのである。ヨセフとその兄弟たちについての、この美しい物語にして神の発意は」。翻訳者小塩節は述べます「神の発意による、神の計画による物語が、人間トーマス・マンによって語られる。ナチスがどのような暴虐を行おうとも、創造の世界は確固としてある。旧約聖書の事実としてある。それを20世紀の困難な世に現実に生きている人間が再度物語ることによって、命を吹き込む。こうして二つの世界(人間の生きるこの世界と神によって語られるあるべき世界)が一つになる」。どのような時代の中にあっても神は語っておられる、その語りを私は聞いた、だからあなた方に語るとトーマス・マンはいいます(小塩節「トーマス・マンとドイツの時代」)。
・2001年9月11日にニューヨークへの自爆テロで3000人が殺された時、神はそこにおられました。報復で行われたアフガニスタンへの空爆で幼い子供達が死んでいった時も、アメリカ人とイラク人が殺しあうイラクの地にも神はおられました。無差別テロにより3000人が殺されたアメリカは、報復でアフガン・イラクを攻め、その結果、米軍死者は6000人を超え、数十万人の戦争後遺症に悩む自国民を抱えました。さらにアフガン・イラクでは10万人を超える現地の人々も戦争で亡くなりました。3千人の報復のために数十万人が死ぬ、人は愚かです。私たちが神は悪を善に変える力をお持ちであることを信じるゆえに、世界は変わりうると信じます。この歴史の教訓をいかに生かすかが私たちに与えられた宿題です。ヨセフは神の導きを信じて兄弟たちを赦し、そのことによってイスラエル民族はエジプトに住み、増え、一つの国民を形成するまでになりました。悪を行うのは人間です。しかし、その悪の中にも神の導きがあることを信じる時、その悪は善に変わりうる。私たちはそれを信じることを許されているのです。箴言は語ります「人は心に自分の道を考え計る、しかし、その歩みを導く者は主である」(箴言16:9、口語訳)。


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07 07

2019年7月7日説教(創世記37:1-11、神の摂理)

1.ヨセフ物語の始まり

・今日から創世記・ヨセフ物語を読んでいきます。アブラハム・イサク・ヤコブと族長の時代が続き、ヨセフはヤコブの子、アブラハムから4代目です。ヨセフ物語は創世記37章から始まります。イスラエル(神と格闘する者)とも呼ばれたヤコブはメソポタミヤでの苛酷な20年間を終えて、故郷カナンに戻ってきました。ヤコブはメソポタミヤで二人の妻が与えられ、最初の妻レアは6人の子を産み、二人のそばめから4人の子が、最愛の妻ラケルからヨセフとベニヤミンが生まれます。この十二人の子がやがてイスラエル十二部族を形成します。妻ラケルは、ヨセフを生み、その後ベニヤミンを生んだ後、お産が原因で亡くなります(35:16-18)。
・妻に死なれたヤコブは愛するラケルから生まれた二人の子たちを、特にヨセフをかわいがりました。ヨセフには兄たちと違う特別の着物を着せ、羊飼いの仕事をさせないで手元に置いて、秘書の仕事をさせていました。父親の偏愛を受けたヨセフは次第に兄たちを見下すようになり、そのため、兄たちはヨセフを憎むようになります(37:4)。この憎しみがやがて兄たちに、ヨセフを殺そうとする気持ちを生ませます。
・その次第を創世記は記します「ヨセフは十七歳の時、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(37:1-4)。「裾の長い晴れ着」、王侯貴族たちが着る着物であり、ヤコブはヨセフを「11番目の子供であるにもかかわらず、その相続者とした」ことを暗示しています。
・偏愛されて高慢になったヨセフは、「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」と語り、兄弟たちの怒りをかいます。創世記は記します「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った『聞いてください。私はこんな夢を見ました。畑で私たちが束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、私の束にひれ伏しました』。兄たちはヨセフに言った『何、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか』。兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ」(37:5-8)。ヨセフ物語では夢が大きな役割を担います。「兄たちの束が周りに集まって来て私を拝む」、兄弟たちは「ヨセフが自分たちの支配者になろうとしている」と理解してヨセフを憎みます。
・ヨセフはさらに、「両親さえ彼を拝む夢を見た」と語り、兄弟ばかりか、ヤコブさえも不愉快にさせます。「ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した『私はまた夢を見ました。太陽と月と十一の星が私にひれ伏しているのです』。今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った『一体どういうことだ、お前が見たその夢は。私もお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか』。兄たちはヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留めた」(7:9-11)。「父はこのことを心に留めた」、古代においては「夢は神からの、語りかけ、また預言である」と受け止められていました。

2.その後のヨセフ

・37章1−11節には、家族に不和をもたらす三つの要素が盛り込まれています。「親の特定の子への偏愛」、そして「偏愛された子の高慢」、「不公平を強いられた兄弟たちの嫉妬」です。この三つが重なり合い、物語を悲劇へと導いていきます。物語の意味を考えるために、その後の展開を見ていきます。ある時、ヨセフは父の使いで、兄たちが羊を飼う地まで行きますが、兄たちはヨセフを殺してしまおうと謀ります。たださすがに反対する者も出て、ヨセフはエジプトに奴隷として売られることになります。兄たちは雄山羊の血をヨセフの着物に浸し、弟は獣に食われて死んだと父ヤコブに報告します(37:33-34)。こうしてヨセフはエジプトに売られて行きます。
・エジプトに連れて来られたヨセフは、ファラオの宮廷の侍従長ポテパルに奴隷として売られます。父親に大事にされて育ったヨセフが一転して、奴隷として苛酷な労働を課せられるようになります。しかし、ヨセフはそのことを嘆きません。エジプトへの旅の間に、兄たちが自分を憎んで殺そうとしたのは自分の傲慢さのためであったことを知り、彼の傲慢が砕かれ、試練が生意気盛りの少年を信仰の人に変えていきます。39章では、短い数節の間に、「主が共におられた」という言葉が繰り返し出てきます。失意のヨセフですが、「主が共におられた」ので、逆境の中でも彼は成功者になっていきます。
・しかしその後、ヨセフは言いがかりで告発され、投獄されますが、逆境の中にあっても不平を言うことなく、与えられた職務を誠実に為していくヨセフの態度が監守長の信用をもたらします(39:21-22)。そのヨセフのいる獄に、エジプト王の給仕役と料理役の二人が、王の怒りに触れて投獄されてきます。何日か経ち、二人は夢を見て、ヨセフがその夢解きをしました。給仕役の夢は3日後に釈放されるという夢であり、料理役の夢は3日後に木にかけて処刑されるという夢でした。二人は夢の通りになり、給仕役は釈放されますが、ヨセフのことを忘れ、彼は牢獄に残されたままです。しかし、ヨセフは給仕役の忘恩を恨みません。全てが神の導きと知る人は、静かに事態の改善を待ちます。
・それから2年が経ち、エジプト王ファラオは夢を二度見ました。第一の夢では7頭のやせた牛が肥えた7頭の牛を食い尽くし、第二の夢ではしおれた7つの穂が肥えた7つの穂を呑み込みます。ファラオは心騒ぎ、国中の魔術師や賢者を呼び集めますが、誰もファラオを納得させる夢解きをする者はいません。その時、給仕役の長がかつて自分の夢解きをしてくれたヨセフのことを思い出し、ファラオに推薦することから、ヨセフの出番になりました。こうしてヨセフがエジプト王のもとに呼び出され、ヨセフは王の夢解きをします「今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう」(41:25-31)。
・ヨセフは対応策も語ります「豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」(41:34-36)。ヨセフの夢解きとその対応策はファラオの心を動かし、ヨセフは大臣に登用され、政策が実行に移されるようになります。
・7年後、預言通り飢饉が起こりますが、準備の出来ていたエジプトは飢饉で困ることはなく、食糧の乏しい周辺諸国の民を養い、カナンにいたヤコブ一族も食糧を求めてエジプトに下ってきます。ヨセフの前に兄弟たちが跪いて拝みます。かつての夢(「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」)が真実の預言であったことがここで明らかになります。一族を迎えたヨセフは兄たちに語ります「神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:7-8)。「私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」、ここに神の摂理を信じる者の信仰が表明されています。
・近代西洋では啓蒙思想の台頭により、夢の解釈などは迷信として排斥されるようになり、歴史の表舞台から姿を消しましたが、その夢がふたたび注目され、人間の心の隠れた側面を表しているものとして科学的に研究されたのは20世紀のジグムント・フロイトに始まります(1900年「夢判断」)。フロイトはオーストリヤ生れのユダヤ人でしたが、後にナチス・ドイツに追われてイギリスに亡命しています。彼は「夢判断」の中で、オーストリヤからイギリスへの移住をヨセフの旅(カナンからエジプトへ)と比較しています(ロベール「フロイトのユダヤ人意識」)。聖書の物語は、それが自分の物語と思う時、特別な意味を持つようになります。

3.神の摂理

・今日の招詞にヘブル12:11-12を選びました。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。ヨセフは奴隷として売られた時も、無実の罪によって投獄された時も、給仕役が恩を忘れて出獄の機会を失った時も、一言も怨みや不平を言わず、焦りもしませんでした。いつまで逆境が続くのか分からない状態の中で、彼は「主が共にいて下さる」ことを信じ、与えられた境遇の中でなすべき最善を尽くしました。その生き方が彼の道を開いて行きました。
・ヨセフがエジプトに奴隷として売られた時は17歳でした。エジプトに売られ、奴隷の身に落とされることによって、彼は初めて神を信じる者になりました。エジプトで投獄されたことは辛い人生の転機でしたが、投獄されなければ、王の給仕役と知り合うこともなく、王の前に出ることもなかった。そこに働く「くしき業を見よ」と創世記記者は語ります。普通の人はただ目に見える現実だけを見つめて嘆きます。しかし神の摂理を信じる者にとって、苦難こそが神の祝福の第一歩なのです。まさに「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブル12:11)。
・神に委ねる生き方をする者は神の祝福を受けます。その祝福とは自分の使命を見出すことです。ヨセフはエジプトの宰相にまで登りましたが、それはやがて来る飢饉と一族受け入れの準備のためでした。生かされていない人生、主が共におられない人生は、この世的に成功してもそれだけの人生であり、墓石と共に終ります。私たちが求めるべきは人生の意味です。そして人生に意味を与えてくださる方は、生命の源であり、死を超えた存在である、「神お一人」です。強制収容所での体験を「夜と霧」に書いたフランクルは「どんな人のどんな人生にも「見えない使命」が与えられている。それを見つけて果たすことによって、初めて人生は全うされる」と語ります。フランクルは晩年、アメリカで死刑囚のいる刑務所に行って講演し、語りました。「明日もしあなたが死刑になるとしても、今からでも人生を意味あるものに変えるのに、遅すぎることは決してない」。人生の意味を見つけるのは最後の瞬間まで諦める必要はない。私たちは「生きているのではなく、生かされている」ことを知った時、ヨセフ物語は私たちの問題となります。


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08 26

1.アブラハムの死とイサク、イシマエル

・創世記からアブラハム物語を読んできました。今日が最終回です。創世記はアブラハムがサラの死後、再び妻をめとり、6人の子を生んだと記します「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は、アブラハムとの間にジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを産んだ」(25:1-2)。これは現代の私たちから見れば違和感がある記事です。長年連れ添った妻サラが死に、子イサクも妻を迎え、アブラハム自身も老年になったのに何故と思います。しかし25章26節「リベカが子供を産んだ時、イサクは60歳であった」と記してありますから、アブラハムが死ぬ時、まだイサクに子が与えられていません。アブラハムとしては生命の継承のために、再婚してさらに子を産むことが必要だったと判断したのかもしれません。
・側室に子が生まれた時、アブラハムはその全財産をイサクに譲り、他の子供たちには贈り物を与えて、イサクから分離させたと創世記は記します。「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」(25:5-6)。死後に不要な相続争いが起こらないようにする配慮でした。イサクこそ主に「約束された後継者」であったのです。アブラハムは天寿を全うし、175歳で死んだと創世記は記します「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(25:7-8)。古代の人々にとって長寿を全うし、子供たちに見送られて、先祖の列に加えられることが、「安らかな死」でした。
・現代の私たちは、病院での延命治療、孤独死、心のこもらない葬儀、死んだ後の墓の荒廃(無縁墓)に直面しています。教会の役割の一つは、共同体の成員に、「安らかな死と死後の慰めの継続」を与えることです。だから教会は独自の墓地を持ちます。パウロは記します「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14:7-9)。生きる時も、死ぬ時も主のため、これが生かされている信仰者の務めです。
・アブラハムはイサクとイシマエルの二人の子により、サラと同じ墓に葬られました。「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた」(25:9-10)。彼の死を契機に、対立していた兄弟の和解が為されたと創世記は伝えます。イスラエルの族長としての継承者はイサクでしたが、神はイシマエルも祝福し、イシマエルも多くの民の祖となっていきます。彼もまた神の恵みの中にあったのです。創世記は記します「サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである・・・彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた」(25:12-17)。

2. 人の死と土地

・アブラハムはあなたに約束の地を与えるとの神の招きを受けて、故郷メソポタミヤを離れ、カナンの地に向かいました。60年の時が流れ、その地で、先に妻サラが年老いて死に、アブラハムは彼女のために墓地を購入しました (23:16-18)。やがてアブラハムも年老いて死に、彼の遺骸は妻サラが眠るマクペラの洞穴に葬られました。この土地が約束の地でアブラハムに与えられた最初の、そして唯一の土地でした。アブラハムは地上では寄留民であることを表明しましたが、この地上に死者のための墓地を購入し、アブラハム(25:10)もイサク(35:28)もヤコブ(49:29)もこの墓地に埋葬されます。
・アブラハムは満足して死んだと思われます。人はこの世では寄留者であり、自分を葬るための一片の土地があれば、それで十分だからです。旧約の人々は復活を知りません。彼らにとって死者の存在の唯一のしるしは遺骨です。自分の遺骨がどこに葬られるかは、重要な問題でした。だからアブラハムは価格交渉をせずに相手の言い分を飲み、土地を買い、やがて子イサク(35:28)も孫ヤコブ(49:29)も死に、この墓地に埋葬されます。アブラハムのひ孫ヨセフも、エジプトに住んでいたにも関わらず、臨終に際して「自分の遺骨を約束の地、父祖の墓に葬る」ように命じて死にます。それから300年後、モーセはエジプトを出る時にヨセフの骨を携え、ヨセフの骨を先祖代々の墓に葬ったとあります(出エジプト記13:19)。

3.人がこの世に残すものは何か

・今日の招詞に創世記12:1-3を選びました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。私たちはこの世では寄留者、仮住まいの身です。信仰の祖と呼ばれたアブラハムが地上で手に入れたのは、妻と自分を葬るための小さな墓所のみでした(創世記25:10)。しかしアブラハムは「人生に満ち足りて死にました」。
・アブラハムは財産こそ残しませんでしたが、多くの命を残しました。創世記25章には三つの系図があります。基本はサラから生まれたイサクの系図で25:19以下に記してあります。二番目が側女のハガルから生まれたイシマエルの系図で、25章12節以下にあります。三番目がケトラから生まれた6人の子供たちの系図です(25:1-4)。創世記を記したイスラエルの民は、周辺諸民族を自分たちと同じアブラハムを父とする兄弟たちだと理解し、それこそがアブラハムに与えられた祝福「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」ことの成就だと考えたのです。
・アブラハム物語に一貫して流れているテーマは命の継承です。子が生まれ、子と両親の命が死の危険から守られていくこと、そして新しい命の誕生により一族の生命が継承されていくことに、創世記記者は神の祝福を見ています。未来は子の誕生の中に組み込まれています。この素朴な生命継承の喜びを現代人も取り返す必要があります。現代日本においては年間20万件から30万件の人工妊娠中絶が為されています(2000年34万件、2013年18万件)。死因のがんや心臓病を抜いて圧倒的なトップです。人口減少社会において最大の少子化対策は、中絶しなくてもよい社会環境の整備です。国がそれを行わないのなら、自分たちに出来ることをしようとして立ち上がったのが、熊本にありますカトリック病院・慈恵病院です。
・慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を創設しました。院長の蓮田太二氏は語ります「18歳の少女が産み落としたばかりの赤ちゃんを殺して庭に埋めるという事件や、21歳の学生がトイレで赤ちゃんを産み落とし、窒息させ実刑判決を受けるなどといった痛ましい事件が発生しました。神様から授かった尊い命を何とかして助けることができなかったのか、赤ちゃんを産んだ母親もまた救うことができたのではなかろうか、という悔しい思いをし、どうしても赤ちゃんを育てられないと悩む女性が、最終的な問題解決として赤ちゃんを預ける所があれば、母子共に救われると考え、開設しました」。
・それから10年経ちましたが、「こうのとりのゆりかご」は全国的な広がりを見せていません。24時間常駐できる医師や看護師が確保できないことと、行政の高くて厚い壁があるからです。厚労省の責任者は語ります「(子捨てが)あってはならないという認識は一切変わっていない。(ゆりかごは)一般化すべきではない」、現実を見ない考え方です。熊本市が2015年に発表した検証報告書によると、開設から8年の間に救うことができた命は112人。112人の子どものうち、18人が家庭に、30人が施設に、29人が特別養子縁組により新しい家族のもとへ、19人が里親に引き取られました。また慈恵病院が併殺している電話相談には10年間で2万件の相談があり、その9割は県外からだと言います。良し悪しは別にして、現代の日本では、このような受け皿は必要なのです。ドイツでは赤ちゃんポストは法制化されて、全国に100か所のポストが造られ、相談窓口は1500か所にもなります(NHK新書「何故わが子を捨てるのか」)。日本でも可能なはずだとして、慈恵病院は繰り返し行政側に働きかけています。「神から授かった尊い命を何とかして助けたい」という祈りがそこにあります。
・私たちは何故聖書を読むのでしょうか、創世記25章を読んで、「命の継承の大事さがわかった」というだけでは十分ではありません。ヤコブは語ります「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません・・・行いが伴わないなら信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ1:22、2:17))。最初の行動はまず「関心を持つ」ことです。中絶や子棄てについての様々な情報が、書籍やネットにあります。そして命の継承に無関心な社会にあって、自分たちの出来ることをしていこうとする人々がいることを知ります。では私たちは何をなしうるのか、「御言葉を行う人になりなさい」との言葉は何を求めているかを知り、できることをやり始めます。その後、神が行為されます。篠崎キリスト教会の今年の目標は、教会に何ができるかを知り、それに向けての一歩を歩み始めることです。私たちはアブラハムの末として、人々に「祝福をもたらす者」とされているのです。


カテゴリー: - admin @ 08時18分33秒

08 19

1.イサクの嫁探し

・創世記のアブラハム物語を読んでおります。アブラハムは年老い、死が近づいて来ました。彼は死を前に息子イサクに嫁を取らせ、一族の未来を確かなものにしたいと願い、同じ信仰の者を嫁に求めます。カナンの民はハム族であり、同族ではありません。当然に信仰のあり方も異なります。アブラハムは同じ民族(セム族)から嫁をめとるために、自分の故郷メソポタミヤに行くことを僕に命令します。創世記24章に展開されるイサクの嫁取り物語は、単なる部族の継承のためではなく、約束の継承の物語です。アブラハムは「あなたの子孫に土地を与える」(12:7)との約束を受けて、見知らぬ土地に旅立ちました。その約束の第一歩はイサクの誕生によりかなえられました。しかし神は新たな約束をアブラハムにされます「あなたの子孫を空の星の数ほど増やす」(15:5)、そのためにはイサクに嫁が与えられ、若夫婦から新しい命が誕生することが必要になります。創世記24章が67節もの長さでイサクの嫁取り物語を記すのはそのためです。
・アブラハムは召使いに語ります「手を私の腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたは私の息子の嫁を私が今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように」(24:2-4)。ユダヤの律法は異邦人との結婚を禁止します(申命記7:3-4「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになるからである」)。神を知らない民との婚姻は、信仰の継承を難しくする恐れがあったからです。
・アブラハムの命を受け、メソポタミヤに向かったのは、家令のエゼキエルであったと思われます(15:2)。彼は嫁を迎えるための条件を主人に確認します。「もしかすると、その娘が私に従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか」(24:5)。アブラハムは答えます「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、私に誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることが出来るようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は私に対するこの誓いを解かれる」(24:6-8)。アブラハムは神の促しに従って、全てを捨てて見知らぬ土地に旅立って来ました。イサクの嫁もまた、神の促しを受けて、すべてを捨てて決然と見知らぬ地に旅立つ人間でなければいけない、それが約束の成就を満たす嫁の条件だと思ったのでしょう。そして「約束して下さったその方がお前の行く手に御使いを遣わして下さる」、嫁の選びに神が関与されるとアブラハムは信じています。

2.嫁リベカの選び

・こうして召使はアブラハムの故郷、メソポタミヤに嫁を迎えるために旅立ちました。一カ月の道のりを超えてアブラハムの故郷にたどり着きます。その地に着いた召使が最初に行ったのは祈りでした。彼は祈ります「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示して下さい。私は今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来た時、その一人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が『どうぞ、お飲みください。駱駝にも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせて下さい」(24:12-14)。信仰者は行為を祈りから始めます。
・その結果、召使いは、リベカに出会います。「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった」(24:15-16)。僕が「水がめの水を少し飲ましてください」と頼むと、リベカは即座に「駱駝にも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と答えます(24:19)。当時の井戸は丸井戸で、階段を降りて泉の底に行き、水を汲んで階段を上る仕組みです。10頭の駱駝に水を飲ませるためには、井戸の底まで何十往復もしなければいけない、そういう労をいとわず奉仕する女性こそ、イサクの嫁にふさわしいと召使いは考えたのです。リベカこそ嫁にふさわしいと見た召使いは、彼女に贈り物として金の鼻輪と腕輪を与え、家に案内するように頼みます。
・リベカはアブラハムの親族ナホルの一族でした「私は、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」(24:24)。リベカの知らせで彼女の兄ラバンが来て、召使を家に案内し、召使は「リベカを主人の息子の嫁に迎えたい」と話し、ラバンも同意します「このことは主の御意志ですから、私どもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになった通り、御主人の御子息の妻になさって下さい」(24:50-51)。リベカも同意し、彼女の嫁入りが決まりました。創世記は「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した」(24:52)。信仰者の行為は祈りから始まり、礼拝で終わります。
・こうしてリベカは見ず知らずのイサクの許に嫁ぎます。彼女もまた「信仰によって・・・行く先も知らずに出発した」(ヘブル11:8)のです。彼女はやがてヤコブとエソウの二人の子を生みます。神の約束はリベカを通して、ヤコブに継承されていきます。創世記は記します「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクはリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」(24:67)。旧約聖書において、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。こうして一族の土台が、約束の土台が固められていきます。

3.この物語から何を学ぶか

・アブラハムも召使もリベカも、結婚を神の定めに従う出来事としてとらえています。アブラハムの僕は主の御心を求めて祈り、示された御心に従いました。ラバンとベトエルも「主がお決めになったこと」としてこれを受け入れていきます。人生が神の定めの許にあるとする生き方を私たちはここで学びます。今日の招詞にマタイ19:4-6を選びました。次のような言葉です「イエスはお答えになった『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった』。そして、こうも言われた『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない』」。結婚によって子が生まれ、子が約束を継承して行きます。私たちにおいても、子の結婚相手に信仰者を求める、あるいは信仰の誓いを求めることは、信仰の継承という意味で、大事な事柄です。
・現代においては、結婚は「両性の合意によって成り立つ」(憲法24条)とします。両性の合意、人間的な価値判断に結婚が委ねられ、その結果、三組に一組が離婚するようになっています。2012年度人口動態調査によれば、年間の結婚数は668千組、離婚数は235千組、離婚率は35.1%です。今日の社会では、まず二人が出会って知り合い、愛し合い、結婚して家庭を築くことが正しいことだと言われていますが、その結果、離婚がとめどなく増加し、家庭崩壊に歯止めがかからないという現実が起こっているのです。
・本当に祝福された結婚とは、「お互いが愛し合っているのか」、「理解し合っているのか」に基礎を置くのではなく、「その結婚が主の御心にかなったものであるかを祈る」ことに基礎を置くべきだと思います。なぜなら人間の愛はやがて変質するからです。創世記24章では、アブラハムも召使もリベカも、結婚を神の定めに従う出来事としてとらえています。アブラハムの僕は御心を求めて祈り、示された御心に従いました。ラバンとベトエルも「主がお決めになったこと」としてこれを受け入れていきます。このような結婚の神聖性が現代でも必要です。何故ならば、「両性の合意」、エロスの愛はやがて崩れるからです。
・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。前にご紹介した本田哲郎司祭はそれを次のように説明します「人の関わりを支えるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書でいう愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続ける限り、薄れも途切れもしない」。
・「エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる」、人間の愛に基礎を置く結婚は崩れやすいことを、現代の高い離婚率は示していると思えます。創世記24章の物語は古臭い結婚観を示すのではなく、現代の私たちにも大きな意味を持ちます。結婚は「好き嫌い(エロス)」で為されるものではなく、「互いを尊敬できるか(アガペー)」が判断基準になるべきなのです。カトリック教会のカテキズムは、「結婚は自然の現実であり、男と女というペルソナの存在に呼応するものである。その意味で、神ご自身が婚姻の創設者である。結婚への召し出しは創造主によって造られた男女の本性に刻みこまれている」とします。私たちは、「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かう」という摂理を信じます。私たちは自分の力ではなく、神によって生かされていると信じます。そうであれば、人生の途上における結婚も信仰の出来事であるし、結婚生活の困難や破綻の問題もまた信仰の出来事、神から与えられた宿題として、心を静めて祈って、決断していく生き方が必要なのだと思われます。


カテゴリー: - admin @ 07時58分32秒

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