すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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08 26

1.アブラハムの死とイサク、イシマエル

・創世記からアブラハム物語を読んできました。今日が最終回です。創世記はアブラハムがサラの死後、再び妻をめとり、6人の子を生んだと記します「アブラハムは、再び妻をめとった。その名はケトラといった。彼女は、アブラハムとの間にジムラン、ヨクシャン、メダン、ミディアン、イシュバク、シュアを産んだ」(25:1-2)。これは現代の私たちから見れば違和感がある記事です。長年連れ添った妻サラが死に、子イサクも妻を迎え、アブラハム自身も老年になったのに何故と思います。しかし25章26節「リベカが子供を産んだ時、イサクは60歳であった」と記してありますから、アブラハムが死ぬ時、まだイサクに子が与えられていません。アブラハムとしては生命の継承のために、再婚してさらに子を産むことが必要だったと判断したのかもしれません。
・側室に子が生まれた時、アブラハムはその全財産をイサクに譲り、他の子供たちには贈り物を与えて、イサクから分離させたと創世記は記します。「アブラハムは、全財産をイサクに譲った。側女の子供たちには贈り物を与え、自分が生きている間に、東の方、ケデム地方へ移住させ、息子イサクから遠ざけた」(25:5-6)。死後に不要な相続争いが起こらないようにする配慮でした。イサクこそ主に「約束された後継者」であったのです。アブラハムは天寿を全うし、175歳で死んだと創世記は記します「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた」(25:7-8)。古代の人々にとって長寿を全うし、子供たちに見送られて、先祖の列に加えられることが、「安らかな死」でした。
・現代の私たちは、病院での延命治療、孤独死、心のこもらない葬儀、死んだ後の墓の荒廃(無縁墓)に直面しています。教会の役割の一つは、共同体の成員に、「安らかな死と死後の慰めの継続」を与えることです。だから教会は独自の墓地を持ちます。パウロは記します「私たちの中には、だれ一人自分のために生きる人はなく、だれ一人自分のために死ぬ人もいません。私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです。従って、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。キリストが死に、そして生きたのは、死んだ人にも生きている人にも主となられるためです」(ローマ14:7-9)。生きる時も、死ぬ時も主のため、これが生かされている信仰者の務めです。
・アブラハムはイサクとイシマエルの二人の子により、サラと同じ墓に葬られました。「息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った。その洞穴はマムレの前の、ヘト人ツォハルの子エフロンの畑の中にあったが、その畑は、アブラハムがヘトの人々から買い取ったものである。そこに、アブラハムは妻サラと共に葬られた」(25:9-10)。彼の死を契機に、対立していた兄弟の和解が為されたと創世記は伝えます。イスラエルの族長としての継承者はイサクでしたが、神はイシマエルも祝福し、イシマエルも多くの民の祖となっていきます。彼もまた神の恵みの中にあったのです。創世記は記します「サラの女奴隷であったエジプト人ハガルが、アブラハムとの間に産んだ息子イシュマエルの系図は次のとおりである・・・彼らはそれぞれの部族の十二人の首長であった。イシュマエルの生涯は百三十七年であった。彼は息を引き取り、死んで先祖の列に加えられた」(25:12-17)。

2. 人の死と土地

・アブラハムはあなたに約束の地を与えるとの神の招きを受けて、故郷メソポタミヤを離れ、カナンの地に向かいました。60年の時が流れ、その地で、先に妻サラが年老いて死に、アブラハムは彼女のために墓地を購入しました (23:16-18)。やがてアブラハムも年老いて死に、彼の遺骸は妻サラが眠るマクペラの洞穴に葬られました。この土地が約束の地でアブラハムに与えられた最初の、そして唯一の土地でした。アブラハムは地上では寄留民であることを表明しましたが、この地上に死者のための墓地を購入し、アブラハム(25:10)もイサク(35:28)もヤコブ(49:29)もこの墓地に埋葬されます。
・アブラハムは満足して死んだと思われます。人はこの世では寄留者であり、自分を葬るための一片の土地があれば、それで十分だからです。旧約の人々は復活を知りません。彼らにとって死者の存在の唯一のしるしは遺骨です。自分の遺骨がどこに葬られるかは、重要な問題でした。だからアブラハムは価格交渉をせずに相手の言い分を飲み、土地を買い、やがて子イサク(35:28)も孫ヤコブ(49:29)も死に、この墓地に埋葬されます。アブラハムのひ孫ヨセフも、エジプトに住んでいたにも関わらず、臨終に際して「自分の遺骨を約束の地、父祖の墓に葬る」ように命じて死にます。それから300年後、モーセはエジプトを出る時にヨセフの骨を携え、ヨセフの骨を先祖代々の墓に葬ったとあります(出エジプト記13:19)。

3.人がこの世に残すものは何か

・今日の招詞に創世記12:1-3を選びました。「あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」。私たちはこの世では寄留者、仮住まいの身です。信仰の祖と呼ばれたアブラハムが地上で手に入れたのは、妻と自分を葬るための小さな墓所のみでした(創世記25:10)。しかしアブラハムは「人生に満ち足りて死にました」。
・アブラハムは財産こそ残しませんでしたが、多くの命を残しました。創世記25章には三つの系図があります。基本はサラから生まれたイサクの系図で25:19以下に記してあります。二番目が側女のハガルから生まれたイシマエルの系図で、25章12節以下にあります。三番目がケトラから生まれた6人の子供たちの系図です(25:1-4)。創世記を記したイスラエルの民は、周辺諸民族を自分たちと同じアブラハムを父とする兄弟たちだと理解し、それこそがアブラハムに与えられた祝福「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」ことの成就だと考えたのです。
・アブラハム物語に一貫して流れているテーマは命の継承です。子が生まれ、子と両親の命が死の危険から守られていくこと、そして新しい命の誕生により一族の生命が継承されていくことに、創世記記者は神の祝福を見ています。未来は子の誕生の中に組み込まれています。この素朴な生命継承の喜びを現代人も取り返す必要があります。現代日本においては年間20万件から30万件の人工妊娠中絶が為されています(2000年34万件、2013年18万件)。死因のがんや心臓病を抜いて圧倒的なトップです。人口減少社会において最大の少子化対策は、中絶しなくてもよい社会環境の整備です。国がそれを行わないのなら、自分たちに出来ることをしようとして立ち上がったのが、熊本にありますカトリック病院・慈恵病院です。
・慈恵病院は「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を創設しました。院長の蓮田太二氏は語ります「18歳の少女が産み落としたばかりの赤ちゃんを殺して庭に埋めるという事件や、21歳の学生がトイレで赤ちゃんを産み落とし、窒息させ実刑判決を受けるなどといった痛ましい事件が発生しました。神様から授かった尊い命を何とかして助けることができなかったのか、赤ちゃんを産んだ母親もまた救うことができたのではなかろうか、という悔しい思いをし、どうしても赤ちゃんを育てられないと悩む女性が、最終的な問題解決として赤ちゃんを預ける所があれば、母子共に救われると考え、開設しました」。
・それから10年経ちましたが、「こうのとりのゆりかご」は全国的な広がりを見せていません。24時間常駐できる医師や看護師が確保できないことと、行政の高くて厚い壁があるからです。厚労省の責任者は語ります「(子捨てが)あってはならないという認識は一切変わっていない。(ゆりかごは)一般化すべきではない」、現実を見ない考え方です。熊本市が2015年に発表した検証報告書によると、開設から8年の間に救うことができた命は112人。112人の子どものうち、18人が家庭に、30人が施設に、29人が特別養子縁組により新しい家族のもとへ、19人が里親に引き取られました。また慈恵病院が併殺している電話相談には10年間で2万件の相談があり、その9割は県外からだと言います。良し悪しは別にして、現代の日本では、このような受け皿は必要なのです。ドイツでは赤ちゃんポストは法制化されて、全国に100か所のポストが造られ、相談窓口は1500か所にもなります(NHK新書「何故わが子を捨てるのか」)。日本でも可能なはずだとして、慈恵病院は繰り返し行政側に働きかけています。「神から授かった尊い命を何とかして助けたい」という祈りがそこにあります。
・私たちは何故聖書を読むのでしょうか、創世記25章を読んで、「命の継承の大事さがわかった」というだけでは十分ではありません。ヤコブは語ります「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません・・・行いが伴わないなら信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ1:22、2:17))。最初の行動はまず「関心を持つ」ことです。中絶や子棄てについての様々な情報が、書籍やネットにあります。そして命の継承に無関心な社会にあって、自分たちの出来ることをしていこうとする人々がいることを知ります。では私たちは何をなしうるのか、「御言葉を行う人になりなさい」との言葉は何を求めているかを知り、できることをやり始めます。その後、神が行為されます。篠崎キリスト教会の今年の目標は、教会に何ができるかを知り、それに向けての一歩を歩み始めることです。私たちはアブラハムの末として、人々に「祝福をもたらす者」とされているのです。


カテゴリー: - admin @ 08時18分33秒

08 19

1.イサクの嫁探し

・創世記のアブラハム物語を読んでおります。アブラハムは年老い、死が近づいて来ました。彼は死を前に息子イサクに嫁を取らせ、一族の未来を確かなものにしたいと願い、同じ信仰の者を嫁に求めます。カナンの民はハム族であり、同族ではありません。当然に信仰のあり方も異なります。アブラハムは同じ民族(セム族)から嫁をめとるために、自分の故郷メソポタミヤに行くことを僕に命令します。創世記24章に展開されるイサクの嫁取り物語は、単なる部族の継承のためではなく、約束の継承の物語です。アブラハムは「あなたの子孫に土地を与える」(12:7)との約束を受けて、見知らぬ土地に旅立ちました。その約束の第一歩はイサクの誕生によりかなえられました。しかし神は新たな約束をアブラハムにされます「あなたの子孫を空の星の数ほど増やす」(15:5)、そのためにはイサクに嫁が与えられ、若夫婦から新しい命が誕生することが必要になります。創世記24章が67節もの長さでイサクの嫁取り物語を記すのはそのためです。
・アブラハムは召使いに語ります「手を私の腿の間に入れ、天の神、地の神である主にかけて誓いなさい。あなたは私の息子の嫁を私が今住んでいるカナンの娘から取るのではなく、私の一族のいる故郷へ行って、嫁を息子イサクのために連れて来るように」(24:2-4)。ユダヤの律法は異邦人との結婚を禁止します(申命記7:3-4「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子を引き離して私に背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるようになるからである」)。神を知らない民との婚姻は、信仰の継承を難しくする恐れがあったからです。
・アブラハムの命を受け、メソポタミヤに向かったのは、家令のエゼキエルであったと思われます(15:2)。彼は嫁を迎えるための条件を主人に確認します。「もしかすると、その娘が私に従ってこの土地へ来たくないと言うかもしれません。その場合には、御子息をあなたの故郷にお連れしてよいでしょうか」(24:5)。アブラハムは答えます「決して、息子をあちらへ行かせてはならない。天の神である主は、私を父の家、生まれ故郷から連れ出し、『あなたの子孫にこの土地を与える』と言って、私に誓い、約束してくださった。その方がお前の行く手に御使いを遣わして、そこから息子に嫁を連れて来ることが出来るようにしてくださる。もし女がお前に従ってこちらへ来たくないと言うならば、お前は私に対するこの誓いを解かれる」(24:6-8)。アブラハムは神の促しに従って、全てを捨てて見知らぬ土地に旅立って来ました。イサクの嫁もまた、神の促しを受けて、すべてを捨てて決然と見知らぬ地に旅立つ人間でなければいけない、それが約束の成就を満たす嫁の条件だと思ったのでしょう。そして「約束して下さったその方がお前の行く手に御使いを遣わして下さる」、嫁の選びに神が関与されるとアブラハムは信じています。

2.嫁リベカの選び

・こうして召使はアブラハムの故郷、メソポタミヤに嫁を迎えるために旅立ちました。一カ月の道のりを超えてアブラハムの故郷にたどり着きます。その地に着いた召使が最初に行ったのは祈りでした。彼は祈ります「主人アブラハムの神、主よ。どうか、今日、私を顧みて、主人アブラハムに慈しみを示して下さい。私は今、御覧のように、泉の傍らに立っています。この町に住む人の娘たちが水をくみに来た時、その一人に『どうか、水がめを傾けて、飲ませてください』と頼んでみます。その娘が『どうぞ、お飲みください。駱駝にも飲ませてあげましょう』と答えれば、彼女こそ、あなたがあなたの僕イサクの嫁としてお決めになったものとさせて下さい」(24:12-14)。信仰者は行為を祈りから始めます。
・その結果、召使いは、リベカに出会います。「僕がまだ祈り終わらないうちに、見よ、リベカが水がめを肩に載せてやって来た。彼女は、アブラハムの兄弟ナホルとその妻ミルカの息子ベトエルの娘で、際立って美しく、男を知らない処女であった」(24:15-16)。僕が「水がめの水を少し飲ましてください」と頼むと、リベカは即座に「駱駝にも水をくんで来て、たっぷり飲ませてあげましょう」と答えます(24:19)。当時の井戸は丸井戸で、階段を降りて泉の底に行き、水を汲んで階段を上る仕組みです。10頭の駱駝に水を飲ませるためには、井戸の底まで何十往復もしなければいけない、そういう労をいとわず奉仕する女性こそ、イサクの嫁にふさわしいと召使いは考えたのです。リベカこそ嫁にふさわしいと見た召使いは、彼女に贈り物として金の鼻輪と腕輪を与え、家に案内するように頼みます。
・リベカはアブラハムの親族ナホルの一族でした「私は、ナホルとその妻ミルカの子ベトエルの娘です」(24:24)。リベカの知らせで彼女の兄ラバンが来て、召使を家に案内し、召使は「リベカを主人の息子の嫁に迎えたい」と話し、ラバンも同意します「このことは主の御意志ですから、私どもが善し悪しを申すことはできません。リベカはここにおります。どうぞお連れください。主がお決めになった通り、御主人の御子息の妻になさって下さい」(24:50-51)。リベカも同意し、彼女の嫁入りが決まりました。創世記は「アブラハムの僕はこの言葉を聞くと、地に伏して主を拝した」(24:52)。信仰者の行為は祈りから始まり、礼拝で終わります。
・こうしてリベカは見ず知らずのイサクの許に嫁ぎます。彼女もまた「信仰によって・・・行く先も知らずに出発した」(ヘブル11:8)のです。彼女はやがてヤコブとエソウの二人の子を生みます。神の約束はリベカを通して、ヤコブに継承されていきます。創世記は記します「イサクは、母サラの天幕に彼女を案内した。彼はリベカを迎えて妻とした。イサクはリベカを愛して、亡くなった母に代わる慰めを得た」(24:67)。旧約聖書において、神は「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」と呼ばれます。こうして一族の土台が、約束の土台が固められていきます。

3.この物語から何を学ぶか

・アブラハムも召使もリベカも、結婚を神の定めに従う出来事としてとらえています。アブラハムの僕は主の御心を求めて祈り、示された御心に従いました。ラバンとベトエルも「主がお決めになったこと」としてこれを受け入れていきます。人生が神の定めの許にあるとする生き方を私たちはここで学びます。今日の招詞にマタイ19:4-6を選びました。次のような言葉です「イエスはお答えになった『あなたたちは読んだことがないのか。創造主は初めから人を男と女とにお造りになった』。そして、こうも言われた『それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせて下さったものを、人は離してはならない』」。結婚によって子が生まれ、子が約束を継承して行きます。私たちにおいても、子の結婚相手に信仰者を求める、あるいは信仰の誓いを求めることは、信仰の継承という意味で、大事な事柄です。
・現代においては、結婚は「両性の合意によって成り立つ」(憲法24条)とします。両性の合意、人間的な価値判断に結婚が委ねられ、その結果、三組に一組が離婚するようになっています。2012年度人口動態調査によれば、年間の結婚数は668千組、離婚数は235千組、離婚率は35.1%です。今日の社会では、まず二人が出会って知り合い、愛し合い、結婚して家庭を築くことが正しいことだと言われていますが、その結果、離婚がとめどなく増加し、家庭崩壊に歯止めがかからないという現実が起こっているのです。
・本当に祝福された結婚とは、「お互いが愛し合っているのか」、「理解し合っているのか」に基礎を置くのではなく、「その結婚が主の御心にかなったものであるかを祈る」ことに基礎を置くべきだと思います。なぜなら人間の愛はやがて変質するからです。創世記24章では、アブラハムも召使もリベカも、結婚を神の定めに従う出来事としてとらえています。アブラハムの僕は御心を求めて祈り、示された御心に従いました。ラバンとベトエルも「主がお決めになったこと」としてこれを受け入れていきます。このような結婚の神聖性が現代でも必要です。何故ならば、「両性の合意」、エロスの愛はやがて崩れるからです。
・愛を意味するギリシャ語には、エロス、フィリア、アガペーの三つがあります。前にご紹介した本田哲郎司祭はそれを次のように説明します「人の関わりを支えるエネルギーは、エロスとフィリアとアガペーである。この三つを区別無しに“愛”と呼ぶから混乱する。エロスは、妻や恋人への本能的な“愛”。フィリアは、仲間や友人の間に、自然に湧き出る、好感、友情として“愛”。アガペーは、相手がだれであれ、その人として大切と思う気持ち。聖書でいう愛はこのアガペーである。エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる。しかしアガペーは、相手がだれであれ、自分と同じように大切にしようと思い続ける限り、薄れも途切れもしない」。
・「エロスはいつか薄れ、フィリアは途切れる」、人間の愛に基礎を置く結婚は崩れやすいことを、現代の高い離婚率は示していると思えます。創世記24章の物語は古臭い結婚観を示すのではなく、現代の私たちにも大きな意味を持ちます。結婚は「好き嫌い(エロス)」で為されるものではなく、「互いを尊敬できるか(アガペー)」が判断基準になるべきなのです。カトリック教会のカテキズムは、「結婚は自然の現実であり、男と女というペルソナの存在に呼応するものである。その意味で、神ご自身が婚姻の創設者である。結婚への召し出しは創造主によって造られた男女の本性に刻みこまれている」とします。私たちは、「すべてのものは神から出て、神によって保たれ、神に向かう」という摂理を信じます。私たちは自分の力ではなく、神によって生かされていると信じます。そうであれば、人生の途上における結婚も信仰の出来事であるし、結婚生活の困難や破綻の問題もまた信仰の出来事、神から与えられた宿題として、心を静めて祈って、決断していく生き方が必要なのだと思われます。


カテゴリー: - admin @ 07時58分32秒

08 12

1.サラの死

・創世記23章はアブラハムの妻サラの死と彼女の埋葬の記事です。サラは127歳で死んだと創世記は記します。「サラの生涯は百二十七年であった。これがサラの生きた年数である。サラは、カナン地方のキルヤト・アルバ、すなわちヘブロンで死んだ。アブラハムは、サラのために胸を打ち、嘆き悲しんだ」。(23:1-2)。サラがアブラハムと共に約束の地に向かったのは65歳の時、それから62年間、サラはアブラハムと労苦を共にし、いまその生涯を閉じました。妻の死をアブラハムは悲しみ、泣きました。しかし、すぐに次の行動に移ります。サラの死によって、サラの遺体を葬る墓をどうするかという課題が出てきました。アブラハムはこの地においてまだ一坪の土地も自分のものとして持ってはいませんでした。
・アブラハムは、サラのためにカナンの地に墓地を購入しようとし、土地の人々と交渉を始めます。「私は、あなたがたのところに一時滞在する寄留者ですが、あなたがたが所有する墓地を譲ってくださいませんか。亡くなった妻を葬ってやりたいのです」(23:4)。アブラハムは自分を「寄留者」と表現します。信仰者はこの世では寄留者、旅人です。その寄留者がこの地上で持つ唯一のもの、それが家族と自分のための墓地です。アブラハムはそれを所有したいと申し出ましたが、土地の民は「お貸しします」と答えて、婉曲に売却を断りました。「どうか、御主人、お聞きください。あなたは、私どもの中で神に選ばれた方です。どうぞ、私どもの最も良い墓地を選んで、亡くなられた方を葬ってください。私どもの中には墓地の提供を拒んで、亡くなられた方を葬らせない者など、一人もいません」(23:5-6)。彼らは異国人であるアブラハムに土地を所有させたくないと考えており、アブラハムの所有を断っています。
・しかし、アブラハムはあくまでも譲ってほしいと交渉します「ぜひ、私の願いを聞いてください。ツォハルの子、エフロンにお願いして、あの方の畑の端にあるマクペラの洞穴を譲っていただきたいのです。十分な銀をお支払いしますから、皆様方の間に墓地を所有させてください」(23:7-9)。所有者のエフロンはアブラハムに「あの畑は差し上げます。あそこにある洞穴も差し上げます。私の一族が立ち会っているところで、あなたに差し上げますから、早速、亡くなられた方を葬ってください」(23:11)と語ります。贈与は古代特有の売買の婉曲表現です。「差し上げると言ったのに、あくまでも買いたいと言うから、やむを得ず売却した」という形式をとるための交渉手続きでした。
・ですからアブラハムは「代金を支払います」と申し出ます。「私の願いを聞き入れてくださるなら、どうか、畑の代金を払わせてください。どうぞ、受け取ってください。そうすれば、亡くなった妻をあそこに葬ってやれます」(23:13)。エフロンがアブラハムに提示した価格は銀400シュケルでした。「どうか、御主人、お聞きください。あの土地は銀四百シェケルのものです。それがあなたと私の間で、どれほどのことでしょう。早速、亡くなられた方を葬ってください」(23:15)。
・相手の言い値の銀400シュケルは法外な値段です。後代のエレミヤが故郷アナトトの畑を買った時の価格は銀17シュケルでした(エレミヤ32:9)(銀1シュケルが11.4g、400シュケルは銀4.5圓砲發覆襦法B佝罎垢譴弌∩蠑譴凌十倍の金額を吹きかけられたことになります。しかし、アブラハムは価格交渉をせず、そのまま受け入れて、妻のための墓地を購入します。アブラハムがここで、少しでも安く土地を手に入れようという取引をしていないことに留意すべきです。「アブラハムはこのエフロンの言葉を聞き入れ、エフロンがヘトの人々が聞いているところで言った値段、銀四百シェケルを商人の通用銀の重さで量り、エフロンに渡した。こうして、マムレの前のマクペラにあるエフロンの畑は、土地とそこの洞穴と、その周囲の境界内に生えている木を含め、町の門の広場に来ていたすべてのヘトの人々の立ち会いのもとに、アブラハムの所有となった」(23:16-18)。異国で墓を購入する、それはその地に骨を埋めるとの覚悟です。この墓地購入を通してカナンの地は異国ではなく、約束の地になりました。そのために必要な代価は、たとえ高くとも払って行こうというアブラハムの決意がここにあります。

2.墓地購入の意味するもの

・アブラハムは「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7)との約束を受けて故郷を離れ、約束の地に来ました。そして約束の地において「あなたの子孫にこの土地を与える。エジプトの川から大河ユーフラテスに至るまで」(15:18)との約束の確認を受けています。しかしアブラハムにはまだ一片の地さえ与えられていません。彼は放浪する寄留者なのです。そして、この墓地が約束の地でアブラハムに与えられた最初の土地でした。だからアブラハムは約束の一歩として、いくらの価格であれ、それを手に入れようとします。やがてアブラハム(25:10)もイサク(35:28)もヤコブ(49:29)もこの墓地に埋葬されます。このマクペラの洞穴がやがて、ユダヤ教・イスラム教共通の聖地となっています。アブラハムはイサクを通してユダヤ教徒の父になると同時に、イシマエルを通してイスラム教徒の父にもなります。このマクペラの洞穴を銀400シュケルで購入するという行為が、後に世界史的決断になって行ったのです。
・アブラハムは満足して死んだと思われます。人はこの世では寄留者であり、自分を葬るためには一片の土地があれば良い。トルストイは「人にはどれほどの土地がいるのか」という民話を書きました。少しでも広い土地を獲得しようとして、死にものぐるいの努力を続けて倒れた男が必要としたのは、その遺骸を葬るための墓穴にすぎなかったという作品です。詩編も歌います「自分の名を付けた地所を持っていても、その土の底だけが彼らのとこしえの家、代々に、彼らが住まう所」(詩編49:12)。旧約の人々は復活を知りません。彼らにとって死者の存在の唯一のしるしは遺骨です。ですから自分の遺骨がどこに葬られるかは、重要な問題でした。だからアブラハムは価格交渉をせずに相手の言い分を飲み、やがてアブラハムの子イサクも孫ヤコブも、さらにはひ孫になるヨセフもこの墓に葬られます(創世記50:24-25)。

3.人は何を残して死ぬのか

・今日の招詞にヘブル11:13を選びました。次のような言葉です「この人たちは皆、信仰を抱いて死にました。約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです」。私たちはこの世では寄留者、仮住まいの身です。信仰の祖と呼ばれたアブラハムが地上で手に入れたのは、妻と自分を葬るための小さな墓所でした(創世記25:10)。私たちはこの世で、家を持ち、財産を積んで将来のために備えようとしますが、その時聞こえてくるのは「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったい誰のものになるのか」という声です(ルカ12:20)。私たちが死ぬ時には地上の財産を持っては行けない。私たちは寄留者なのです。それではなぜ、アブラハムは墓地の購入にこだわったのでしょうか。
・横浜指路教会の藤掛順一牧師は語ります「アブラハムがカナンの地で得た最初の土地が、作物を得るための畑でも、家畜のための牧草地でもなく、墓だったということは意味深いことです。そこに彼の信仰の証があります。墓は、かつて生きていた人々の記念碑です。後世の人々にその記憶を伝えていくものです。アブラハムとその妻サラの墓は、彼らがこの地をかつて旅人として生きたことのしるしであり、そういう意味で彼らの信仰の証となるのです」(2007年5月13日説教から)。墓は死者がかつて生きていたことのしるしであり、またその死を記念するモニュメントです。だから寄留者も墓を大事にします。人は霊としては寄留者であり、この世の何ものも所有しませんが、生きてきた証しとして自分の墓を残していくのです。
・ローマにあった初代教会は、迫害の中で、地上での礼拝の場所を持てず、カタコンベと言われる地下墓地で、死者と共にキリストの復活を祝いました。その後教会が地上に建設されるようになった時も、彼らは教会堂の下に信徒たちのための墓地を設けました。四谷にあります聖イグナチオ教会の地下もその伝統に倣い、墓地になっています。中世の修道院では修道士たちの亡骸は地下墓所に安置され、その入り口には「メメント・モリ=死を忘れるな」と書かれていたそうです。「死を忘れない」、自分が死ぬべき存在であることを覚える、そして現在生かされていることを感謝する。その思いが「メメント・モリ」という言葉に込められています。教会は伝統的に信徒の墓の上で、死から蘇られたキリストの礼拝を続けたのです。死を思い起こし、今生かされていることを感謝するために墓地は必要なのです。
・私たちは6年前に会堂を建て直した折、会堂内に記念堂(納骨堂)を併設しました。教会員およびその家族の方の墓所とするためです。ただ法律の規制に応えるために、4年前にラザロ霊園に墓地を購入し、記念堂に納めた方の遺骨を希望があればいつでもラザロ霊園に移せるように整えました。これまで4名の召天者を葬ってきました。私たちもまた死ねば記念堂に入り、やがてラザロ霊園に移骨されます。召天された方々も教会員として共に礼拝を続けます。そして毎年秋に墓前礼拝を行い、亡くなった方のお名前を呼びます。アブラハムがサラを記念するために墓地を購入したように、私たちも生きた証を残すために、そして死を忘れないために、記念堂のある教会をここに建てたのです。


カテゴリー: - admin @ 08時05分29秒

08 05

1.アブラハムの罪とハガルの涙

・先週私たちはイサク誕生の記事を、創世記21章前半を通じて読みました。そこでの主題は「笑い」でした。「神は私たちに笑いを下さった」とアブラハムとサラは感謝しました。しかし人生には、笑いと共に涙があります。創世記21章後半の記事は笑いの反対側に涙があったことを記します。アブラハムのもう一人の子、イシマエルの記事です。物語は16章から始まります。アブラハムは「子を与える」との約束を神から受けましたが、妻サラは不妊で子供が生まれる気配もありません。「子を与える」との約束から10年が経過し、アブラハムとサラは約束の成就を待ち切れず、自分たちの力で神の約束を満たそうとします。
・創世記は記します「アブラムの妻サライには、子供が生まれなかった。彼女には、ハガルというエジプト人の女奴隷がいた。サライはアブラムに言った『主は私に子供を授けてくださいません。どうぞ、私の女奴隷のところに入ってください。私は彼女によって、子供を与えられるかもしれません』。アブラムは、サライの願いを聞き入れた。アブラムの妻サライは、エジプト人の女奴隷ハガルを連れて来て、夫アブラムの側女とした。アブラムがカナン地方に住んでから、十年後のことであった」(16:1-3)。妻に子が産まれない時、側女に子を産ませて世継ぎを得ることは当時の慣習でした。
・こうして側女ハガルがアブラハムの子を身ごもります。しかし、側女が身ごもり、正妻に子がなければ、側女と正妻の位置関係が変わり、側女は正妻を見下すようになります。創世記は記します「アブラムはハガルのところに入り、彼女は身ごもった。ところが、自分が身ごもったのを知ると、彼女は女主人を軽んじた」(16:4)。嫉妬に狂ったサラは側女ハガルを追放するようアブラハムに迫ります。「私が不当な目に遭ったのは、あなたのせいです。女奴隷をあなたのふところに与えたのは私なのに、彼女は自分が身ごもったのを知ると、私を軽んじるようになりました。主が私とあなたとの間を裁かれますように」(16:5)。
・サラとアブラハムが為したことは、約束の成就を待たずに、自力で解決しようとしたことでした。二人は「子を授かる」のではなく、「子を造る」ことを選択しました。現代の人々も「子を造る」ために不妊治療に取り組み、多くの赤ちゃんが生まれていますが、同時に不妊治療の失敗による夫婦の別離等の副作用も生まれています。「子は授かる」ものでなく、「造る」ものなのか、考える必要があります。アブラハムはサラに求められて、ハガルの追放を黙認し、家から追い出します。「アブラムはサライに答えた。『あなたの女奴隷はあなたのものだ。好きなようにするがいい』。サライは彼女につらく当たったので、彼女はサライのもとから逃げた」(16:6)。これが「信仰の父」(ヘブル11:17)といわれ、「信仰の母」(1ペテロ3:6)といわれた二人が行ったことです。創世記は信仰の父と信仰の母の二人の醜さと罪を隠しません。

2.ハガルとイシマエルを愛される神

・ハガルは逃げて砂漠を彷徨いますが、そのハガルに主のみ使いが現れ、元いた場所に帰るように促します「主の御使いが荒れ野の泉のほとり、シュル街道に沿う泉のほとりで彼女と出会って、言った『サライの女奴隷ハガルよ。あなたはどこから来て、どこへ行こうとしているのか』。『女主人サライのもとから逃げているところです』と答えると、主の御使いは言った。『女主人のもとに帰り、従順に仕えなさい』」(16:7-9)。彼女は奴隷であり、故郷のエジプトに戻っても保護してくれる家はなかった。彼女はアブラハムの天幕に帰る以外に子供を安全に生む道はなかった。そのハガルに主はみ使いを通して、「私があなたと生まれてくる子を守る」と語られます(16:10-12)。思いがけない妊娠をし、誰にも相談できないままに子が生まれ、処理に困ってその子を殺したり、捨てたりする出来事が現代で起こっています。3千年前に解決されていた出来事が今日でも罪を生む要因になっています。
・女奴隷さえも気にかけてくださった神に、ハガルは感謝し、神を「エル・ロイ」(私を顧みられる神)と呼びます(16:13)。ハガルはアブラハムの天幕に戻り、アブラハムとサラも事の次第を聞いて悔い改め、ハガルを迎え入れ、彼女は子を産み、その子はイシュマエルと名付けられました。「ハガルはアブラムとの間に男の子を産んだ。アブラムは、ハガルが産んだ男の子をイシュマエルと名付けた。ハガルがイシュマエルを産んだとき、アブラムは八十六歳であった」。(16:15-16)。

3.イシマエルの追放

・その後、アブラハムとサラの夫妻に長い間約束されていた子が終に生まれました。サラは男の子を生み、アブラハムは子にイサクという名前を与えます。イサク(彼は笑う)、高齢のアブラハム夫妻に笑いが与えられたのです(21:1-4)。イサクの誕生でアブラハム家に笑いが生まれましたが、その笑いがやがて悲劇に変わっていきます。感謝してイサクを受け取ったサラが、今度は側室の子イシマエルの追放を画策するからです。創世記は記します「やがて、子供は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に盛大な祝宴を開いた。サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムとの間に産んだ子が、イサクをからかっているのを見て、アブラハムに訴えた『あの女とあの子を追い出してください。あの女の息子は、私の子イサクと同じ跡継ぎとなるべきではありません』」(21:8-10)。
・正妻に子が生まれる前、アブラハム夫妻は側女の子イシマエルを相続人として育ててきました。しかし正妻の子が生まれると、側室の子は邪魔になります。サラの信仰も自分の子を相続人にしたいという現実の利害の前に砕けます。アブラハムは二人の子を前に悩みますが、神はアブラハムに、「相続人はイサクであり、イシマエルは追放せよ」と言われます。「あの子供とあの女のことで苦しまなくてもよい。すべてサラが言うことに聞き従いなさい。あなたの子孫はイサクによって伝えられる。しかし、あの女の息子も一つの国民の父とする。彼もあなたの子であるからだ」。(21:11)。
・アブラハムはイシマエルとその母を追放します。「アブラハムは、次の朝早く起き、パンと水の革袋を取ってハガルに与え、背中に負わせて子供を連れ去らせた。ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった」(21:14)。二人の生存は主に委ねられました。母と子は荒野をさまよいますが、やがて水がつき、死を覚悟します「革袋の水が無くなると、彼女は子供を一本の灌木の下に寝かせ、『私は子供が死ぬのを見るのは忍びない』と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。彼女は子供の方を向いて座ると、声をあげて泣いた」(21:15-16)。しかし神はイシマエルとその母を保護されます。彼もまたアブラハムの子だからです。
・「神は子供の泣き声を聞かれ、天から神の御使いがハガルに呼びかけて言った。『ハガルよ、どうしたのか。恐れることはない。神はあそこにいる子供の泣き声を聞かれた。立って行って、あの子を抱き上げ、お前の腕でしっかり抱き締めてやりなさい。私は、必ずあの子を大きな国民とする』。神がハガルの目を開かれたので、彼女は水のある井戸を見つけた。彼女は行って革袋に水を満たし、子供に飲ませた」(21:17-19)。やがて子は「神がその子と共におられたので、その子は成長し、荒れ野に住んで弓を射る者となった。彼がパランの荒れ野に住んでいた時、母は彼のために妻をエジプトの国から迎えた」(21:20-21)。

4. 神は両者を祝福された

・今日の招詞に創世記25:7-9aを選びました。次のような言葉です「アブラハムの生涯は百七十五年であった。アブラハムは長寿を全うして息を引き取り、満ち足りて死に、先祖の列に加えられた。息子イサクとイシュマエルは、マクペラの洞穴に彼を葬った」。アブラハムの名前はコーランに245回現れるそうです(イブラヒーム)。アブラハムはユダヤ教・キリスト教の父ですが、イスラム教もまたアブラハムをその祖とします。そしてアブラハムの子・イサクがユダヤ民族の祖となり、同じくアブラハムの子イシマエルがアラブ民族の祖となります。アラブ人もユダヤ人も共にアブラハムの子なのです。このことの意味を私たちは考える必要があります。
・ユダヤ教は、イシマエルを正統な後継者ではないとして排斥してきました。それを継承する新約聖書でも、イシマエルへの肯定的な言及をほとんどありません。パウロはガラテヤ書の中で語ります「「アブラハムには二人の息子があり、一人は女奴隷から生まれ、もう一人は自由な身の女から生まれたと聖書に書いてあります。ところで、女奴隷の子は肉によって生まれたのに対し、自由な女から生まれた子は約束によって生まれたのでした・・・兄弟たち、私たちは、女奴隷の子ではなく、自由な身の女から生まれた子なのです」(ガラテヤ4:22-32)。しかしパウロの見方は、あまりにも民族主義的な、偏った見方です。創世記はそのイシマエルのために神は荒野にオアシスを開かれたと記します。神はアラブ人さえも祝福されていると創世記は記しているのです。
・イスラムの伝統では、イシマエルを全てのアラブ人の先祖とみなしています。イスラム教の開祖ムハマッドは「コーラン」の中で、みずからをイシマエルの子孫と称しています。神と神の使いの特別な加護のあった母子は神聖視されており、イシマエルを預言者、犠牲の子として、大巡礼におけるザムザムの泉への往復は荒野に追われたハガル・イシマエル母子を追体験するものとされています。今日、イサクの子孫であるユダヤ人と、イシマエルの子孫であるアラブ人は抗争を繰り返しています。この現実の中で私たちは創世記21章を読みます。アラブ人もユダヤ人も共にアブラハムの子なのであり、アブラハムはイサクとイシマエルの二人の子により、マクペラの洞穴に葬られたのです。父アブラハムの死を契機に、対立していた兄弟の和解が為された。今日、ヘブロンにあるマクペラの洞穴にはユダヤ教の寺院(シナゴーク)とイスラム教の寺院(モスク)が並列しておかれ、両者は互いを尊重しています。このマクペラの出来事がパレスチナ全土に広がる時、パレスチナは平和になることが出来るのです。アメリカのトランプ大統領はアメリカ大使館をエルサレムに移転させることにより、アラブ人とユダヤ人の和解の動きを阻害しています。アブラハムの墓がアラブ人・ユダヤ人の共同管理であることの意味を聖書から学ぶ必要があります。


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07 29

1.イサクの誕生

・創世記を読み続けています。創世記では12章から人間の歴史が記述され、その最初が“信仰の父”と言われるアブラハムです。アブラハムはメソポタミアのウルに住んでいましたが、75歳の時に、召命を受け、「行き先も知らないで出て」行きました(12:4-5)。そしてアブラハムはカナンの地に導かれます。主はアブラハムに約束されます「見えるかぎりの土地をすべて、あなたとあなたの子孫に与える。あなたの子孫を大地の砂粒のようにする」(13:15-16)。アブラハムは子がいませんでしたが、この約束を信じます。しかし、子はなかなか与えられず、アブラハムと妻サラは次第に年を取っていきます。
・25年の時が流れ、アブラハムは100歳に、妻サラは90歳になっていました。その時、主は再びアブラハムに現れます「私はあなたの妻サラを祝福し、彼女によってあなたに男の子を与えよう。私は彼女を祝福し、諸国民の母とする」(17:16)。アブラハムは心の中では笑いました。「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(17:17)。90歳にもなり、月のものもなくなった老齢の妻が子を産むことができるはずがない。アブラハムは神の言葉を笑いました。不信の笑いです。
・そのアブラハム夫妻に、長い間約束されていた子が、終に与えられました。それが今日読みます創世記21章の個所です。創世記は記します「主は、約束された通りサラを顧み、先に語られた通りサラのために行われたので、彼女は身ごもり、年老いたアブラハムとの間に男の子を産んだ。それは、神が約束されていた時期であった。アブラハムは、サラが産んだ自分の子をイサクと名付け、神が命じられた通り、八日目に、息子イサクに割礼を施した」(21:1-4)。アブラハムは子にイサクという名前を与えます。イサク(ツェホーク、笑う)、高齢のアブラハム夫妻に笑いが与えられたのです。この笑いは先の不信の笑いと異なり、喜びの笑いです。サラは不可能を可能にする神を賛美して歌います「神は私に笑いをお与えになった。聞く者は皆、私と笑い(イサク)を共にしてくれるでしょう・・・誰がアブラハムに言いえたでしょう、サラは子に乳を含ませるだろうと。しかし私は子を生みました、年老いた夫のために」。当時の女性にとって子を生まない、生めないことは屈辱でした。主は私の屈辱を晴らして下さったとサラは喜んだのです。
・イサクが生まれた時、アブラハムは100歳、サラは90歳でした。不可能を可能にする神の業が示されました。後代の聖書記者は二人の信仰がそれを可能にしたと讃えます。パウロはローマ書の中で語ります「彼は希望するすべもなかった時に、なおも望みを抱いて信じ、『あなたの子孫はこのようになる』と言われていた通りに、多くの民の父となりました。そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻サラの体も子を宿せないと知りながらも、その信仰が弱まりはしませんでした。彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を賛美しました。神は約束したことを実現させる力も、お持ちの方だと、確信していたのです。だからまた、それが彼の義と認められたわけです」。(ローマ4:18-22)

2.信じない者に恵みを与えられる主

・しかしパウロの称賛は創世記に書かれた事実とは異なります。創世記のアブラハムは「不信仰に陥って神の約束を疑」ったし、サラも信じなかったのです。創世記は不信仰者のアブラハムとサラに子が与えられたことを明記します。「神は人間の不信にもかかわらず、必要な業をなさる」、創世記が語るのはそのダイナミックの福音なのです。17章で私たちは見たのは、「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか」(17:17)というアブラハムの疑いの言葉です。「子を与える」との約束は果たされないままに二人は老齢になり、妻は生理も止まっていました。アブラハムは神の言葉を信じませんでした。
・それからしばらくして、三人の御使いがアブラハムの前に現れ、再び子が生まれるとの約束が為されます。子を与えるという約束が実現しないうちに、アブラハムは100歳に、妻サラは90歳になっています。サラはその預言を聞いて笑いました「私は衰え、主人もまた老人であるのに、私に楽しみなどありえようか」(18:12)。サラもまた神の約束を信じませんでした。あまりにも長い間、約束は果たされず、望みは尽きていました。信じることが出来ない状況に置かれていたのです。絶望が不信仰を生み、不信仰が嘲笑を生みました。二人が信じることが出来なかったのは当然です。しかし主の使いは言います「主に不可能なことがあろうか」(18:4)。私たちの目の前の現実が全てふさがれ、将来の道が見えない時、なお神を信じ、主に不可能はないと言いうるのか。その信じることの出来ない不信仰者が信仰者に変えられていく奇跡が起こる、それが今日の創世記21章の記事です。

3.その神を信じていく

・約束通り、サラに子が与えられました。「主は私に笑いを与えて下さった」、サラとアブラハムは喜びます。不可能を可能にする神の業が今、示されたのです。今日の招詞に創世記22:8を選びました。次のような言葉です「アブラハムは答えた。『私の子よ、焼き尽くす献げ物の小羊はきっと神が備えてくださる』。二人は一緒に歩いて行った」。イサクが成長した時、主はアブラハムに「イサクを焼き尽くす献げ物として捧げなさい」と命じられます(22:2)。イサクをほふり、犠牲として、捧げよとの命令です。
・イサクは何十年間もの祈りの結果、やっと与えられた子です。イサクを通して子孫を星の数ほどに増やすと約束された子です。生まれた時には、笑いが、歓喜が、両親を包んだ子です。「その子を殺せ」と命じられます。「何故なのか」、アブラハムには主の御心がわかりません。しかし、彼は一言も反論せず、主の命に従います。彼はイサクを連れてモリヤの山に向かいます。途中でイサクは父に尋ねます「火と薪はここにありますが、焼き尽くす献げ物にする小羊はどこにいるのですか」。それに対するアブラハムの返事が今日の招詞です「子よ、必要なものは神が備えて下さる」。
・創世記をここまで読んできて、何故アブラハムに、長い間子が与えられなかった、何故、二人が高齢になるまで約束が実現しなかったのか、その理由が見えてきます。長い、辛い、年月を通さなければ、本当の喜びは与えられないのです。望み得ない状況の中で、約束が果たされることを見て、初めて、「主に不可能はない」ことを私たちは知ります。不可能を可能にされ、約束を守られる方であれば、イサクを捧げよとの命令にも意味があることを信じることが出来ます。「何故イサクを捧げよと言われるのかわからないが、この方が言われる以上、従っていこう。必要なものは備えて下さる」、アブラハムはそう信じました。だから一言も反論せずに、イサクを捧げようとするのです。
・アブラハムがモリヤの山に着き、イサクに手をかけて殺そうとした時、主が介入され、止められます。そしてイサクの代わりに一匹の羊が与えられ、アブラハムはその羊を焼き尽くす献げ物としてささげます。主が備えて下さったのです。“主は備えて下さる”、ヘブル語「アドナイ・エレ」(口語訳)です。“備える=エレ”は、英語では“provide”です。”pro=前もって、vide=video=見る、前もって見る、ここから“Providence=摂理”という言葉が生まれました。信仰とは、この神の摂理を信じることです。私たちは神によって生かされていることを信じることです。
・前に、ヨセル・ラコーバーという人をご紹介しました。1943年ワルシャワのゲットーで殺されていったユダヤ人です。ワルシャワのユダヤ人たちは反乱を起こし、ドイツ軍の攻撃の中で、次々に殺され、彼の妻と子どもたちも死に、一人ヨセルだけが生き残りました。彼は戦火の中で手記を書き、それを瓶の中に入れ、煉瓦の裏に隠しました。やがてヨセルも炎に包まれて死んで行きました。戦後、その手記が発見され、出版されました。彼は書きます「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosl Rakover Talks to God by Zvi Kolitz)。ここに死を超えた救済の信仰、極限の信仰があるように思います。
・「神は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された」。私たちの生涯の中で、何故このような苦しみや悲しみが与えられるのか、わからない時もあります。しかし、わからなくとも良い。すべては主の摂理に中にあるのであれば、いつかわかる時が来る、その信仰です。アブラハムが体験したことは私たちにも起こりえます。その時、“アドナイ・エレ=主備えたもう”という言葉を、私たちが信じることが出来れば、人生はそれで良いのではないでしょうか。
・私たちの人生の目標は何なのでしょうか。約束の地をいただく、あるいは約束の子をいただくことなのでしょうか。家族がいつまでも幸せに生きることでしょうか。しかし最終的には、土地も子も家族もいらないと思います。私たちは天の御国を目指して、この世を旅する寄留者なのです。私たちは与えられた生を一生懸命に生きる、その時、ただ、「主が共にいませば」、「主が備えて下されば」、それでよいのです。 “アドナイ・エレ”、パウロはこの信仰を次のように語りました「神は、これほど大きな死の危険からわたしたちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(2コリント1:10)。この信仰をいただければ他に何もいらない、この信仰があれば私たちは充実した人生を送りうる、それをアブラハムの生涯は示しています。世の中では、多くの人が絶望の中で自殺しています。私たちは彼らに、どのような状況の中でも主が道を備えて下さることを伝え、その命を救う責務があります。御言葉は命にかかわる言葉なのです。


カテゴリー: - admin @ 08時15分54秒

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