すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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07 15

1.ソドム滅亡の予告

・創世記18章、19章には、罪の町として知られていたソドム滅亡の物語が掲載されています。かつて栄えたソドムの町が突然世界から消え去り、その後に巨大な塩の柱が残されたことを、当時の人々は不思議に思い、「ソドムは神に裁かれて滅ぼされた」との伝説が生まれ、その伝説を、創世記記者が、アブラハムとロトの物語として編集していったと推測されています。私たちは創世記記者の信仰に注目して、この物語を読んでいきます。
・創世記記者は、主のみ使いがアブラハムを訪ねたところから、物語を語りはじめます「(彼らは)そこを立って、ソドムを見下ろす所まで来た。アブラハムも、彼らを見送るために一緒に行った。主は言われた『私が行おうとしていることをアブラハムに隠す必要があろうか』」(18:17)。そして主はみ使いを通して言われます「ソドムとゴモラの罪は非常に重い、と訴える叫びが実に大きい。私は降って行き、彼らの行跡が、果たして、私に届いた叫びのとおりかどうか見て確かめよう」(18:20-21)。アブラハムの最初の召命から25年が経過していました。主はアブラハムを信頼し、ソドムの裁きについて、彼の意見を求められます。
・主は「ソドムとゴモラを罪のゆえに滅ぼす」とアブラハムに告げられました。「罪のゆえに滅ぼす」、洪水物語と同じ言葉です。しかし洪水物語ではノアが残され、そこから人類は再び繁栄を取り戻すことが出来ました。アブラハムは「正義と憐れみに富むあなたが、何故ソドムを滅ぼすのですか」と抗議します。「アブラハムは進み出て言った『まことにあなたは、正しい者を悪い者と一緒に滅ぼされるのですか。あの町に正しい者が五十人いるとしても、それでも滅ぼし、その五十人の正しい者のために、町をお赦しにはならないのですか。正しい者を悪い者と一緒に殺し、正しい者を悪い者と同じ目に遭わせるようなことを、あなたがなさるはずはございません。全くありえないことです。全世界を裁くお方は、正義を行われるべきではありませんか』」(18:23-25)。私たちの信じる神は独断で行為される方ではなく、人間の意見にも耳を傾けられる方であるとの信仰がここにあります。
・アブラハムがソドムの運命に関心を持つのは、一つはソドムに甥のロトが住んでいた故と思われます。しかしそれ以上に、「神は悪人の悔い改めを待っておられる方だ」と信じるからです。神は悪人でさえ滅ぶことを喜ばれない。預言者はその言葉を記しています「ああ、エフライムよ、お前を見捨てることができようか。イスラエルよ、お前を引き渡すことができようか・・・私は激しく心を動かされ、憐れみに胸を焼かれる」(ホセア11:8)。アブラハムはソドムのために必死に言葉を連ねます。「『もしかすると、五十人の正しい者に五人足りないかもしれません。それでもあなたは、五人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか』・・・アブラハムは重ねて言った『もしかすると、四十人しかいないかもしれません』・・・『もしかすると、三十人しかいないかもしれません』。・・・『もしかすると、二十人しかいないかもしれません』。主は言われた『その二十人のために私は滅ぼさない』」(18:27-31)。
・アブラハムは最後に語ります「主よ、どうかお怒りにならずに、もう一度だけ言わせてください。もしかすると、十人しかいないかもしれません」。それに対して主は言われます「その十人のために私は滅ぼさない」(18:32)。アブラハムはそこで止めます。ソドムの町には「正しい者が一人もいないであろう」ことを推察したからです。「主はアブラハムと語り終えると、去って行かれた。アブラハムも自分の住まいに帰った」(18:33)と創世記記者は結びます。

2.ソドム滅亡の伝承の背後に

・ソドムのあった死海地域は海抜マイナス418mと地表で最も低い場所で、アスファルトや硫黄等の可燃性鉱物が大量に地下に埋蔵されています。また東アフリカからトルコにかけての大地溝帯に位置していて、地震の多い地域です。現代の地質学者は、「ソドムの滅亡は地震等により地下の鉱物や気体が発火し、爆発と大火災を起こして、町々が埋没し、ソドムの遺跡は死海の下に眠っているのではないか」と推測しています。このソドム滅亡について、イエスも弟子たちも、神の裁きの結果だと認識しています。
・イエスは言われています「カファルナウム、お前は天にまで上げられるとでも思っているのか。陰府にまで落とされるのだ。お前のところでなされた奇跡が、ソドムで行われていれば、あの町は今日まで無事だったにちがいない。しかし、言っておく。裁きの日にはソドムの地の方が、お前よりまだ軽い罰で済む」(マタイ11:23-24)。私たちもまたソドムの住民であり、滅ぼされても仕方のない存在であるのに、神の憐れみにより生かされていることを知りなさいと、イエスは言われているのです。新約記者もソドムの滅亡を神の裁きとして理解しています。「神はソドムとゴモラの町を灰にし、滅ぼし尽くして罰し、それから後の不信心な者たちへの見せしめとなさいました」(第二ペテロ2:6)。
・ソドムは神の裁きで滅ぼされたのか、そうであれば、「地震や災害等の天災は神が裁きとして起こされるのか」という疑問を私たちは持ちます。1755年11月に発生したリスボン大地震(マグニチュード9)は、当時の教会に大きな衝撃を与えました。その日は主の日で、多くの信徒が礼拝に参加しており、信徒たちは破壊された聖堂の下敷きになり、さらに起こった津波で流されました。信仰に熱いカトリックの国の首都が、主の日の礼拝を捧げている時に、地震の直撃を受け、聖堂と市街地が破壊され、数万人の信徒たちが死んで行きました。人文学者ヴォルテールは「災害によってリスボンが破壊され、10万人の人命が奪われた、神はなんと無慈悲だ」と主張し、人々の信仰は大きく揺すぶられました。この時、地震は地球の地殻変動によって起きるのであり、神の裁きではないと主張したのが、哲学者のインマヌエル・カントです。このカントの理解を私たちは継承しています。現代の私たちも、「地震や火山の噴火等はあくまでも自然災害であり、神の裁きではない」と理解しています。とすれば、ソドム滅亡を神の裁きと理解する創世記18章を私たちはどのように読むべきなのでしょうか。

3.物語が示す福音を見よ

・今日の招詞に創世記19:29を選びました。次のような言葉です「こうして、ロトの住んでいた低地の町々は滅ぼされたが、神はアブラハムを御心に留め、ロトを破滅のただ中から救い出された」(19:29)。創世記の記すソドム滅亡物語の主題は、ソドムの裁きと滅びではなく、その滅びの中からロトとその家族が救いだされたことにあります。何故ならば、神は裁くよりも遥かに大きく、救わんとしておられるからです。創世記記者は記します「ロトが正しい人であったからではなく、アブラハムがロトのために執り成ししたゆえに、主はロトを救いだされた」と。
・正義とは「人の罪の赦しを神に執り成し、祈る」ことです。イエスは自分を十字架にかけて殺そうとする者のために祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。これを聞いたローマの百人隊長は語ります「本当に、この人は正しい人だった」(ルカ23:47)。アブラハムは多くの過ちを犯しましたが、その過ちを通して他者の救いのために祈るものとなりました。だからこそ、彼は「信仰の父」と呼ばれるのです。
・ロトは決して正しい人ではありません。19章後半を読みますと、酒に酔って酩酊し、助けだされた娘たちと交わって子を産ませるような失態を犯しています(19:33)。伝承ではこの子供たちが近隣民族のモアブ人、アンモン人になったとされています。しかし主はこのような罪の結果から生まれたモアブ人やアンモン人も祝福されます。モアブの婦人ルツからオベデが生まれ、オベデからエッサイが生まれ、そのエッサイの子がダビデです。ダビデの子ソロモンはアンモンの婦人ナアマを妻に迎え、そのナアマから跡継ぎのレハブアムが生まれ、その系図がイエス・キリストに繋がっていきます。つまり、イエスの血の中には、モアブ人の血も、アンモン人の血も流れているのです。
・創世記の記すソドム物語の主題は、ソドムの滅びの中からでも、アブラハムの執り成しの祈りにより、ロトと家族が救いだされたことにあります。今回の西日本地区の集中豪雨により200人を超える方が亡くなられました。なぜあの人が亡くなって、この人が生かされたのか、私たちにはわかりません。そこには不条理があります。滅ぼされたソドムにも生まれたばかりの乳飲み子もいたでしょう、彼らも亡くなった、そこにも不条理があります。
・この世の不条理をどのように受け止めていくのは難しい問題です。長崎被爆者のために医師として働き、自らも原爆症で亡くなって行った永井隆は1945年11月23日、原子爆弾死者合同葬で浦上カトリック信徒を代表として「弔辞」を読みました。「原爆は神の摂理によって、この地点に持ち来らされました。世界大戦争という人類の罪悪の償いとして、日本唯一の聖地浦上が犠牲の祭壇に屠られ、燃やされるべき子羊として選ばれました。浦上が選ばれて燔祭に供えられたる事を感謝致します」。これはどう評価するか、意見が分かれます。またアウシュビッツ強制収容所を生き残ったエリ・ヴィーゼルはあるユダヤ人ラビに聞いたそうです「アウシェビッツの後でどうしてあなたは神を信じることが出来るのですか」と。するとラビは「アウシェビッツの後で、どうして神を信じないでいられましょうか」と答えたそうです。
・不条理をどう受け止めるべきか、わかりません。ただ言えることは、ソドム物語を通して、災害から救われ、生かされた命の中から、新しい命が生まれてきた、という福音がここに語られていることです。イエスは姦淫の罪を犯した婦人に言われました「私もあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)。過去に何があったかを問うのではなく、これからどう生きるかが私たちの課題です。創世記18-19章の中心テーマはソドム滅亡ではなく、ロトの救済であったことを再確認する時に、私たちは過去に目を向けて生きるのではなく、将来を主に委ねて生きる力が与えられるのです。


カテゴリー: - admin @ 08時11分42秒

07 08

1.アブラハムの信仰の揺らぎ

・創世記12章後半は、約束の地に導かれたアブラハムに与えられた試練についての物語です。アブラハムはメソポタミアのウル(現在のイラク)に住んでいましたが、「その地を離れて、私の示す土地へ行け」(12:1)という神の召しを受け、故郷を離れ、カナン(現在のパレスチナ)の地に行き、そこに祭壇を築いて「主の御名を呼びます」(12:8)。ところが約束の地で最初に与えられたものは、飢饉でした。「行けと言われて来たのに、来て見ると、食べるものもない。このままでは一族郎党、みんなが死んでしまう。自分は本当に神に召されたのだろうか、召されたのであれば何故」、アブラハムの信仰は動揺したと思います。
・彼の前には三つの選択肢がありました。一つは約束が幻だったとして故郷に戻ることです。故郷メソポタミアは豊かな土地であり、飢饉もありません。二つめは、約束をなおも信じてカナンの地に留まることでした。神は「あなたを祝福する」(12:2)と言われたのだから、養って下さると信じて留まり続ける道です。三つめの選択肢は、しばらくの難を逃れるために、食糧のある地に行くことでした。信仰的には留まることが望ましいと思われますが、当時のアブラハムにはそこまでの信仰はありませんでした。何故ならば、導かれる神がどのような方であるかを彼はよく知らなかったからです。
・アブラハムは、三つめの選択をして、食糧を求めて、豊かな穀倉地帯のエジプトに下ることにしました(12:10)。アブラハムは依然として信仰者です。しかし、今、彼は神の御旨を問うことをせず、自分の力を頼みにします。その結果、信仰は不従順となり、内側から挫折していきます。挫折した信仰は憂いを招き、憂いは不安をもたらします。彼は妻サラがひときわ優れて美しいことが気になります。不安に駆られたアブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私はあなたのゆえに幸いになり、あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。
・アブラハムの懸念は現実となりました。エジプトに着くや、人々の視線は美しいサラの上に集中し、うわさは宮廷にも届き、エジプト王(ファラオ)はサラをハーレムに迎え入れます。そしてアブラハムはサラの兄として王から富を与えられます。「アブラムも彼女のゆえに幸いを受け、羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなどを与えられた」(12:16)。新参の外来者が妻の出世によって裕福な財産家になりました。アブラハムは信仰の父といわれる人ですが、その人が、生涯の始めにおいては、妻を妹と偽って、彼女を王に売って身の安泰を保ち、金持ちになったという経歴を持ちます。
・この聖書記事がナチス・ドイツのユダヤ人迫害の一つの理由とされたそうです。アドルフ・ヒトラーは語ったそうです「これがユダヤ人だ。すでにその父祖たちにおいて後のユダヤ主義の宿命的兆候が確認できるではないか。旧約聖書は忌まわしい物語だ」と(ヴォルター・リュティ「アブラハム」から)。確かにアブラハムの行為は世渡りとしては賢い行為かも知れませんが、信仰者としては卑しい行為であり、何よりも神の約束を反故にする行為です。非難されても仕方がない。しかしヒトラーの知らない神の物語はここから始まります。

2.神の救済と赦し

・主はアブラハムとサラを救出されます「主は、アブラムの妻サライのことで、ファラオと宮廷の人々を恐ろしい病気にかからせた」(12:17)。恐ろしい病気、疫病の蔓延です。エジプト王は原因がサラとアブラハムにあることを知らされ、彼に問いかけます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」です。創世記では先に禁断の木の実を食べたエバに向かって神が「何ということをしたのか」と言われ(3:13)、また弟を殺したカインに対しても「何ということをしたのか」と言われました(4:10)。今また、主はエジプト王の口を通して、「何ということをしたのか」とアブラハムに問われたのです。信仰の人、アブラハムは恥ずかしさのあまり、下を向いたことでしょう。
・しかし主はそのようなアブラハムを見捨てず、彼との約束を守られます。創世記は記します「ファラオは家来たちに命じて、アブラムを、その妻とすべての持ち物と共に送り出させた」(12:20)。アブラハムは与えられた家畜や金銀を持って妻と共にエジプトを去ります。「罪を犯したのに神は私を赦してくださった」、私たちの信じる神は、私たちの想像も及ばないような方法で私たちを恵まれます。ここでの神は、エジプトのファラオを用いて、アブラハムをもう一度立ち上がらせるのです。

3.アブラハムの回心

・今日の招詞に創世記13:3-4を選びました。次のような言葉です「ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。そこは、彼が最初に祭壇を築いて、主の御名を呼んだ場所であった」。口語訳では「彼はネゲブから旅路を進めてベテルに向かい、ベテルとアイの間の、さきに天幕を張った所に行った。すなわち彼が初めに築いた祭壇の所に行き、その所でアブラムは主の名を呼んだ」とあります。「アブラムは主の名を呼んだ」、アブラハムはエジプトから約束の地カナンに戻ると、最初に主を礼拝したのです。アブラハムは主の導きを信じきることができずにエジプトに行き、その地で罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰ってきました。そして最初にしたのは主の前に悔い改めることでした。自分が罪を犯したのに主は見捨てず救って下さった、それを知った時、彼の信仰者としての新しい人生が始まったのです。悔い改めた罪人は自分の罪、弱さを知る故、他者を赦すことができます。罪の赦し、これこそ旧新約聖書を通じた福音です。
・私たちが順調な時には、あるいは自分の力で生きていると思っている時には主に出会いません。しかし、過ちを犯し、砕かれた時に初めて、主の御名を呼び、その時、私たちは主と出会います。私たちは災いや苦難を通して自分の真実な姿を知り、神を求めます。その意味で、災いや苦難は、神から与えられる祝福であり、私たちは涙を通して救われていくのです。アブラハムは、ハランでの召命、カナンでの信仰の揺らぎ、エジプトでの罪と恥ずかしさを通して、信仰者として立てられて行きました。創世記12章前半は信仰者アブラハムの物語ですが、12章後半は罪人アブラハムの物語です。そしてそのどちらもがアブラハムなのです。
・悔い改めた罪人は新しい生き方をします。アブラハムはエジプトで手に入れた多くの財産を持ってカナンに帰ってきました。一緒に行った甥のロトもまた多くの家畜を持つ者となります。そして「アブラムの家畜を飼う者たちと、ロトの家畜を飼う者たちとの間に争いが起きた」(13:7)と創世記は記します。多くの家畜を飼うだけの十分な水と草がそこには無かったからです。先には食べることの出来ない飢饉という試練がアブラハムを襲いましたが、今度は多くを持ちすぎる故の試練がアブラハムを襲います。しかし、今のアブラハムは、もう自分の力に頼る人ではなく、神の召しを聞くものに変えられています。彼はロトに言います「私たちは親類どうしだ。私とあなたの間ではもちろん、お互いの羊飼いの間でも、争うことはやめよう。あなたの前には幾らでも土地があるのだから、ここで別れようではないか。あなたが左に行くなら、私は右に行こう。あなたが右に行くなら、私は左に行こう」(13:8-9)。
・一方には肥沃なヨルダン川流域の草地があり、他方には水も牧草も乏しい荒野があります。牧羊者であれば、誰でもヨルダン川流域を選びますが、アブラハムは選択権を甥のロトに委ねました。叔父であり、年長者であり、強者であるアブラハムが、甥であり、年少者であり、弱者であるロトに選択上の優先権を与えたのです。罪を犯して無条件で赦されたアブラハムは、今は、赦して下さった方の御旨に従おうと決意しています。だから彼は自分の望みを優先せず、相手の望みを優先し、争いは回避されました。アブラハムが自己の生存権を自力で守ろうとしたら争いは拡大したでしょう。今のパレスチナで戦争が続くのも、お互いが自己の生存権を主張して譲らないからです。アブラハムは新しい土地を示されました。生活者としてのアブラハムの心は平安ではなかったでしょう。ロトの選んだ地の方が良いに決まっています。その彼に神は言われます「目を上げよ、下を向くな。私はあなたと共にいる。私の祝福はあなたにある」(13:14)。アブラハムはその地で祭壇を築いて主を礼拝します「アブラムは天幕を移し、ヘブロンにあるマムレの樫の木のところに来て住み、そこに主のために祭壇を築いた」(3:18)。もしヒトラーが創世記12章だけでなく13章も読んだら彼は言うかもしれません「旧約聖書は確かに神が導かれた物語だ」と。
・人が動物を殺してその肉を食べて生きるように、私たちは罪を犯さずには生きていけない存在です。アダムとエバは罪を犯して楽園を追放されましたが、主は二人に革の衣を与えて保護されます(3:21)。弟を殺してエデンの東に追放されたカインにもしるしが与えられ、敵から守られます(4:16)。アブラハムにもこれから生きて行くのに必要な財産が与えられ、新しい旅立ちが守られます(13:2)。私たちの信仰生活もそうです。バプテスマを受けても何も変わらない、主日礼拝を守っても日常生活は変えられない、むしろ罪を犯し続ける。それにもかかわらず主は共にいてくださった、そのことを知った時、私たちの回心が生まれ、信仰者となっていくのです。アブラハムの物語は私たち一人一人が体験する物語なのです。


カテゴリー: - admin @ 08時29分01秒

07 01

1.信仰の決断をしたアブラハム

・7月から私たちは創世記を学んでいきます。創世記は1−11章が原初史と言われ、そこに記されているのは、「神の祝福を受けて創造された人間が、罪を犯して神に背き、神から離れていった」歴史です。人は神に背き、離反しました。しかし、神は人を見捨てられません。神は新しい救いの業とし て、一人の人を選び、彼に一つの民族を形成させ、その民族を通して人々を救うことを計画されました。それがアブラハムの召命に始まったと創世記の著者は告白します。
・創世記12章1節は記します「主はアブラムに言われた。あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい」。アブラム、後のアブラハムはメソポタミヤに住む遊牧民でした。遊牧民は牧草地を求めて移動生活をしますが、移動の範囲は、水と草が確保されていることが条件です。アブラハムは父テラの時代に、カルデアのウルからハランまで移住しています(11:31)。ウルはユーフラテス川とチグリス川が交差する河口の町、メソポタミヤ文明発祥の地です。そこでは月神が礼拝されていました。太陽や月は被造物に過ぎないのに、それを拝む文明が生まれ、神の創造の業が忘れ去られていた。神は創造の秩序の回復のために、アブラハムの父テラに偶像崇拝の町を離れ、新たな信仰の場を求めるように命じられ、テラはユーフラテス川に沿って北上し、上流のハラン地方まで移住しました。テラはそこで死にます。テラの息子アブラハムに「ハランを離れて、私の示す地に行け」との神の召しがありました。
・ウルからハランまでは1000kmの距離がありますが、ユーフラテス川に沿う地域ですので、水と草はあります。水と草があり限り、羊や山羊を養って生きる遊牧民の生活は保証されています。しかし、今回の神の示しは、ユーフラテス川から離れて砂漠を超え、カナンに行けというものでした。そこはメソポタミヤの遊牧民にとっては未知の地、水や草が保証されない地、盗賊や野獣の危険に満ちた地でした。神はアブラハムに「私を信じ、見たことのない地に行け」 と言われました。「私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める・・・地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る」(12:2-3)と言われます。「約束を信じて、一歩を踏み出せ」と言われた。彼はその時75歳、人生の盛りは過ぎていました。妻サラは不妊で子供もありません(11:30)。アブラハムの人生はもう終わったようなもの、まもなく閉ざされる、その時に彼は召されたのです。彼は神の言葉に従い、カナンを目指して歩き始めます。
・この一歩が、世界史を変える一歩になります。もしアブラハムがこの時の呼びかけに応えなければ、イスラエルは約束の地に到達せず、ユダヤ民族の形成もなく、当然イエス・キリストも生まれず、その結果教会も生まれなかったでしょう。私たちが今日ここに礼拝に集まることもなかったかもしれない。アブラハムのこの一歩はそれほど大きい意味を持つのです。だからこそ、アブラハムはユダヤ教においても、キリスト教においても、さらにはイスラム教においても、「信仰の父」と呼ばれます。

2.信仰が揺らいだアブラハム

・アブラハムは一族郎党を引き連れて、故郷を離れ、カナンを目指しました。長い旅の末にアブラハムはカナンの地シケムに入りましたが、そこにはすでにカナン人が住み、城砦を築いていました。主はアブラハムに言われます「あなたの子孫にこの土地を与える」(12:7a)。子もなく、先住民を制圧する武力も持たないアブラハムに、「この土地を与える」との約束が与えられました。アブラハムはその約束を信じました。「アブラムは、彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた」(12:7b)。しかし、シケムには強力な武器と城砦を持つ先住民がいて土地を獲得することは無理でした。彼はシケムを離れてベテルに南下します。「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(12:8)。南部では自分も土地を持てるかもしれないと思ったからです。しかし、ベテルにも居場所はありませんでした。先住民が住んでいる土地に寄留者一族が入り込む余地はなかったのです。だから彼は、誰も住まない砂漠のネゲブに居を移します(12:9)。彼は「あなたの子孫にこの土地を与える」という神の約束を疑い始めているのです。
・約束の地に来たアブラハムを、次に迎えたものは飢饉でした。旱魃のため、家畜に食べさせる草も水も手に入れることができません。「せっかく約束の地に来たのに、何故主はこのような災いを下されるのか」、アブラハムは「私が養う」という主の約束を信頼することができず、食を求めてエジプトに下ります。「その地方に飢饉があった。アブラムは、その地方の飢饉がひどかったので、エジプトに下り、そこに滞在することにした」(12:10)。これまでアブラハムは、行く先々で祭壇を築いて主を礼拝しています。しかしエジプト下りについては、「主のために祭壇を築いた」という表現はありません。おそらくは一族と家畜を守るために、アブラハムが自分の判断でエジプト行きを決めたのでしょう。この時、アブラハムの中で何かが崩れました。彼はもはや「神に頼れない」と思い始めているのです。
・神の庇護を信じられない者は、他者を恐れます。エジプトに行く道すがら、彼は妻サラが際立って美貌であることが気になります(召命の時、アブラハムは75歳、サラは65歳とされていますが、旧約の年齢の数え方は現代とは異なりますので、今日的には、アブラハムは40代、サラは30代であったと推測されます)。妻が美しいことは弱肉強食の世界では危険です。強い者が力ずくで妻を奪い、夫を殺す可能性があるからです。アブラハムはサラに言います「あなたが美しいのを、私はよく知っている。エジプト人があなたを見たら、『この女はあの男の妻だ』と言って、私を殺し、あなたを生かしておくにちがいない。どうか、私の妹だ、と言ってください。そうすれば、私は・・・あなたのお陰で命も助かるだろう」(12:11-13)。
・アブラハムの懸念は現実となります。エジプト王はサラの美貌に目を留め、彼女を側室として迎え入れます。アブラハムはサラの兄として、王から多くの贈り物を与えられ、裕福になります。「信仰の父」と称えられた人が、実は妻をエジプト王の側室に売って身の安泰を保ち、金持ちになったのです。それは創世記3章で見たアダムの姿と同じです。愛した妻が過ちを犯し、その災いが自分に及びそうになると彼は言います「あなたが私と共にいるようにしてくださった女 が、木から取って与えたので、食べました」(創世記3:12)。「私が悪いのではない。妻が悪いのです」とアダムは妻を見捨てました。アブラハムも妻を見捨てて、身の安全と繁栄を図ろうとしたのです。

3.信仰の揺らぎと悔い改め

・今日の招詞にヘブル11:1を選びました。次のような言葉です「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」。アブラハムは信仰の偉人と称えられますが、彼もまた聖人ではなかったのです。約束の地に来て、住民が城砦を構え強大であることを知れば、身の危険を覚えて砂漠のネゲブに隠れます。飢饉でエジプトに下れば、自分の妻を利用して身の安全を図ります。その地でアブラハムは神から問われます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。ヘブル語「マー・ゾート・アッシータ」、かつて蛇に騙されて禁断の木の実を食べたエバに語られ、妬みのために自分の弟を殺したカインに呼びかけられた言葉です。取り返しのつかない過ちを起こしたことを知らされたアブラハムは、恥ずかしさで下を向きます。彼も私たちと同じ罪人、同じ過ちを犯す人間だったのです。ここにおいて、アブラハムの生涯は私たちと関わりを持つものになります。
・アブラハムの最初の旅立ちは、神の呼びかけに答えて「行く先を知らずに出かけた」時でした(12:4)。冒険者としての旅立ちです。その彼が、エジプトで罪を犯し、恥ずかしい思いを抱いて約束の地に帰り、そこに祭壇を築き、主の御名を再度呼びました(13:4)。その時が、信仰者としての再出発の時です。聖書で信仰者と呼ばれる人は、多くの過ちを犯しています。ダビデは人の妻に恋情を抱き、夫を殺して女を自分のものにしています。ペテロはイエスの裁判の時、そんな人は知らないと否認しました。パウロは伝道者になる前は、教会の迫害者でした。しかし、ダビデは過ちを通して自分が罪人である事を知り、新しい人間となりました。ペテロはイエスを否認した後、大祭司の屋敷を飛び出し、泣きました。その時の涙こそが、ペテロの洗礼の水です。パウロも、ダマスコ途上での復活のイエスとの出会いが、パウロを迫害する者から迫害される者に変えました。罪を犯して悔い改める、それが信仰です。
・哲学者の森有正は講演の中で次のように述べています「人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、恥があります。どうも他人には知らせることができない心の一隅というものがある。そこにしか神様にお目にかかる場所は人間にはない」(森有正「土の器に、アブラハムの信仰」p.21)。エジプトのアブラハムは、自分の妻を利用して身の安全を図りますが、そのアブラハムに神は問われます「あなたは私に何ということをしたのか」(12:18)。アブラハムは「他人には知らせることができない心の一隅」で主に出会ったのです。
・私たちが自分の力に頼っている間は神が見えません。罪を犯し、泣いて、主の名を呼び求めた時、主は応えて下さる。人間は、過ちを犯し、砕かれた時でないと、主の御名を呼び求めない存在なのです。そして求めた時、神はご自身を現して下さり、見えない神が見えるようになります。そして、人は人生の歩みの中に、神の見えざる手が働いていることを知り、感謝します。まさに、信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することなのです。私たちも、自分の罪を知り、泣き、悔い改めた時こそが、人生の再出発の時なのです。そのことをアブラハムの生涯は私たちに教えてくれます。


カテゴリー: - admin @ 07時57分12秒

08 27

1.バベルの塔

・創世記11章は「バベルの塔の物語」です。創世記は1-11章が原初史で、バビロン捕囚時代に最終編集されたと言われています。イスラエルは紀元前587年、祖国をバビロニア帝国に滅ぼされ、指導者たちは異国の地バビロンに捕囚となりました。「自分たちは神に選ばれた民である」という誇りを持っていたイスラエルにとって、この亡国・捕囚の出来事は衝撃的でした。神は何故「選ばれた民」である自分たちを捨てられたのか、自分たちは異国の地で滅び去るのかと、彼らは苦悩します。70年に及ぶ捕囚の中で、彼らは祖先から伝えられた伝承を調べ、その記録がやがて創世記といわれる書にまとめられていきました。
・その中で創世記11章はどのような意味を持っているのでしょうか。11章は記します「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた。東の方から移動してきた人々は、シンアルの地に平野を見つけ、そこに住み着いた。彼らは『れんがを作り、それをよく焼こう』と話し合った。石の代わりにれんがを、漆喰の代わりにアスファルトを用いた。彼らは『さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう。そして、全地に散らされることのないようにしよう』と言った」(11:1-4)。シンアルの地とはバビロニアを指し、物語はメソポタミアの歴史を背景にしています。メソポタミアでは、複数の町で最上階に神殿を築いた巨大な方形の塔(ジッグラト)の廃墟が発見されています。バビロンで見つかった粘土板に楔形文字で記された物語によれば、この塔の土台は幅と奥行が約90メートル、高さは90メートルほどあったといいます。バベルの塔のモデルになったのは、このジグラットだといわれます。高さ90メートルは現代のビルでいうと30階建の高層ビルです。3000年前の人々が30階建てのビルに相当する建物を建造する技術を持っていたことは驚くべきことです。そして、それを可能にしたのは、「日干し煉瓦とアスファルト」という、それまでの「石と漆喰」に代わる新しい素材でした。技術革新が高層ビルの建設を可能にしたのです。
・国を滅ぼされたイスラエル人は強制的にメソポタミア地方に移住させられ、首都バビロンで天にそびえる高い塔を見せられます。バビロニア人はその塔を「エ・テメン・アンキ」(天と地の基礎なる家)と呼び、「これこそ神が立てられた世界の中心だ、我々こそ世界を治める民族であり、この塔はそのしるしだ」と誇りました。敗戦国イスラエルの民は屈辱の中でその言葉を聞き、そのようなバビロニア人の傲慢を主なる神は決して赦されないと思い、その思いがバベルの塔の崩壊物語を書かしめたのではないかと言われています。

2.神のようになろうとする人を神は砕かれた

・バベル(神々の門、バビロンのヘブライ語読み)に代表される大都市は、古代文明の担い手であり、その首都にそびえる神殿の塔は、王国の政治的・宗教的権力の象徴でした。都市を拠点とするアッシリア帝国やバビロニア帝国は、周辺の国々を制圧し、併合して、支配体制に組み込んでいきました。「天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」、自分たちこそ世界の中心だと彼らは誇ります。「全地に散らされることのないようにしよう」、敵に占領されて民族が滅びることがないように相手を威嚇します。同時にノアの洪水を見て来た私たちには、「たとえまた大洪水があっても自分たちは再び散らされない、この塔を超える洪水などありえない」と誇る声が聞こえるようです。ノアの洪水はメソポタミアの大洪水伝承を基にして書かれています。私たちの国は3.11の大津波で、三陸沿岸が大きく被災し、国は津波対策として海岸沿いに巨大防潮堤を建設しました。10メートルを超える防潮堤が何十キロも続き、海が見えない海岸線が生まれています。他方、防潮堤の内側では人口減少が進み、ある学者(小熊英二)はこの現象を「ゴーストタウンから死者は出ない」と語ります。自然を克服できると考える現代人は、バベルの塔を建造した古代人の姿と重なります。
・その巨大な塔をみた捕囚の民イスラエルは思いました「神は人間の傲慢を許されず、それを断ち切ろうとされる方だ」と。その思いが5節以下の記述にあると思われます。「主は降って来て、人の子らが建てた、塔のあるこの町を見て、言われた『彼らは一つの民で、皆一つの言葉を話しているから、このようなことをし始めたのだ。これでは、彼らが何を企てても、妨げることはできない。我々は降って行って、直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまおう』」(11:5-7)。古代の中央集権帝国は歴史の流れの中で滅んでいきます。アッシリア帝国は紀元前612年に滅亡し、バビロニア帝国も紀元前539年に滅びます。バベルの塔について作家の三浦綾子さんは語ります「バベルの町を造ろうとした人々は、神の域に迫ろうとしたのだ・・・自分を神と等しい高さに置こうとしたのだ。これが人間の陥りやすい傲慢であり、既に陥っている傲慢なのだ。私たちは神の座を侵そうとして、逆に建てかけた塔と町を置いてちりじりに散っていくバベルの人々の惨めな姿を笑うことが出来ない」(「旧約聖書入門」)。
・バベルの塔の物語は私たちに何を伝えるのでしょうか。「文明や技術の進歩が人間に何をもたらすのかを見つめよ」とのメッセージがそこにあるような気がします。人々は「石の代わりにれんがを、漆喰の代わりにアスファルトを用いて」、高い建築物を造ることができるようになりました。技術革新がそれを可能にしました。アメリカで起きた同時多発テロによるNY国際貿易センタービルの崩壊は、現代のバベルの塔の崩壊と呼べるかもしれません。アメリカの繁栄を象徴する110階建てのツインタワーが、テロリストに乗っ取られた旅客機の突入によりもろくも崩れていった光景を、私たちはTV中継で見ました。そして火災になったビルの窓から人々が飛び降りる光景を見て驚愕しました。ビルの高さは411m、まさに摩天楼(英語でsky scraper,空をかすめる建物)でした。そのビルが無残にも崩壊しました。テロリストたちから見れば、このビルは世界を支配しようとするアメリカ帝国の傲慢の象徴だったのです。
・2011年に起きた福島原発事故もまた、現代の「バベルの塔崩壊」と言えます。事故が問いかけるのは、「人間は原子力や核廃棄物を管理できるのか」という問題でした。今回の事故は津波により核燃料の冷却ができなくなり、核燃料がメルトダウンし、放射性物質を拡散させました。さらに破損した核燃料をどのように安全に取り出すのか、いまだに未知の段階です。使用済み核燃料(核廃棄物)を完全に無害化することはできず、最終処分の方法が見出せないことも明らかになりました。「技術開発の結果生まれたものは何だったのか。それは人を幸せにしたのか」とバベルの塔の物語は問いかけます。今回の原発事故をある人は、「神の領域を侵した人間の傲慢が砕かれた、現代のバベルの塔ではないか」と語ります。
・さらに東北大震災はマグニチュード9.0、震度7の巨大地震でしたが、私たちが驚いたのは、震源から遠く離れた浦安等の埋め立て地域で大規模液状化現象が起こり、多くの家が傾き、あちこちの道路が陥没したことです。今、江東区に建てられている高層マンション群は54階建、55階建で(高さ180メートル前後)、都心に近いことから人気が出ています。しかし、豊洲や東雲はかつて海だった場所を埋め立てした場所であり、想定を超える巨大地震が発生すれば液状化や津波等により大きな被害が出る可能性が懸念されています。「深い地盤まで杭を打ち込み、建物は耐震・免震構造等の最先端技術により支えられているから大丈夫だ」と建設会社は語りますが、東京は震度7以上の地震を経験したことはなく(関東大震災はマグニチュード7.9、震度6強)、想定外の大地震を前提にしていません。これもまた、自然の脅威を恐れず、人間の力を過信する、「現代のバベルの塔」ではないかとさえ思われます。

3.バベルの崩壊によって新しいものが生まれた

・神はバベルの塔の建設を中断させられました。創世記は語ります「主は彼らをそこから全地に散らされたので、彼らはこの町の建設をやめた。こういうわけで、この町の名はバベルと呼ばれた。主がそこで全地の言葉を混乱(バラル)させ、また、主がそこから彼らを全地に散らされたからである」(11:8-9)。神はバベルの塔の建設をしていた人々の言葉を散らされ、互いに言葉が通じなくなり、その結果、共同作業が出来なくなって、塔の建設は中断され、人々は全地に散っていきます。人間の傲慢・驕り高ぶりが社会の一致を破り、通じ合う心を乱し、世を分裂させたのです。
・しかし、神は洪水からノア一族を救われたように、バビロニアの地から一人を選び出し、彼を通して、人類を救おうとされます。それが創世記12章から記されるアブラハムから始まるイスラエル民族の歴史です。アブラハムの出身地はメソポタミアのハランでした(11:31)。今日の招詞に創世記12:1-3を選びました。次のような言葉です「主はアブラムに言われた『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、私が示す地に行きなさい。私はあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の基となるように。あなたを祝福する人を私は祝福し、あなたを呪う者を私は呪う。地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る』」。「地上の氏族はすべてあなたによって祝福に入る」、アブラハムの末裔から、イエス・キリストが生まれます。イエスが地上の生涯を終えられた時、神は弟子たちに聖霊を下され、それぞれの民族にその国の言葉で福音が語られました。キリストの十字架を通して、自己中心の思いが砕かれ、相手との交わりが始まった時に、言葉は再び通じるようになることを使徒言行録は示します(使徒2:7-8)。
・神の不思議な業は今日でも継続しています。福島原発事故を通して、ドイツやスイスでは今後は原子力発電所を新しく造らず、既存発電所も耐用年数が来れば廃棄すると発表しました。日本では原子力発電所再稼働の方向で進んでいますが、どこかの段階で見直しが必要になると思います。福島県双葉郡の被爆地を訪問したことがありますが、今、町はゴーストタウンになっています。立ち入り制限区域にあるため津波の跡が生々しく残り、津波被害を受けなかった地域では家々が元のままに残されていましたが、人影は全く途絶えていました。除染作業は進んでいますが、帰還の目途は立っていません。あの光景を見れば誰でも原発再稼働に反対するでしょう。
・原発は万一の事故があれば、地域から人を「散らして」しまいます。私たちはこのことの意味を考えるべきです。原発依存を低下させ、自然エネルギー開発に注力するという政策変更がなければ、大きな被害をもたらした今回の事故の意味がないと思われます。また住むべき処ではない埋め立て地に巨大な高層マンションを建てることの危険性も考えるべき問題です。50年後・100年後、直下型の大地震があれば豊洲や東雲は廃墟に、バベルの塔になりかねないのです。バベルの塔が崩壊したことの意味を考え、新しい良いものを生み出す努力が私たちに求められています。


カテゴリー: - admin @ 08時06分09秒

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1.血を流すな

・創世記から御言葉を聞いています。創世記は6章から9章が洪水物語です。洪水物語は世界各地にあります。過去の大洪水の記憶が伝説となったものでしょう。イスラエルは紀元前587年にバビロニア帝国に国を滅ぼされ、住民はバビロンの地に捕囚となりました。イスラエルが幽閉されたメソポタミアには、有名なギルガメシュ叙事詩(洪水物語)が残されており、捕囚の民はその叙事詩に題材を得て、創世記の洪水物語を編集していったと言われています。創世記の洪水物語は歴史上の出来事の報告というよりも、国を滅ぼされ、破局を経験した民族が、洪水伝承を用いて、自分たちへの罪の裁き=国の滅亡という出来事の中に、神の救いを見出していった信仰の記録です。今日学びますのは、創世記9章、「洪水の後の祝福」です。神は洪水の後、ノアと契約を結ばれました。
・洪水によって地上のすべての生き物は、箱舟に逃れたノアとその一族、動物たちを除いて滅ぼされました(7:23)。やがて水が引き、ノアと家族は箱舟から出て、救われた感謝を込めて礼拝を行います。その礼拝に神は応答されます「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私は、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。神の赦しの中で新しい世界が始まり、神はノアと息子たちを祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満てよ」(9:1)。そこにある言葉は最初の創造物語と同じ祝福であり、世界は洪水という徹底的な裁きを経て、再創造されたと創世記記者は伝えます。洪水を通じてそれまでの悪に満ちた世界は滅ぼされ、新しい世界が生まれました。
・しかし洪水は悪そのものを水に流したわけではありません。箱舟を出たノアと家族の心にも悪があります。神はその悪を許容した上で人を祝福されます。「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える』」(9:2-3)。創造されたばかりの人間に与えられた食物は穀物と果実でした「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(1:29)。今回は肉食が許されています。肉食を許されたのは、他の動物を殺してその肉を食して生きる人間の罪を、神は受け入れて下さったとの創世記記者の理解でしょう。
・肉食とは、「動物の命」を奪う行為です。すべての動物はいつ殺されるかわからないゆえに、人の前に「恐れおののき」ます。神はその動物の肉を食べることを許されますが、「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(9:4)と命じられます。人間に与えられたのは肉であって血ではない。血は神のもの、それを確認するために動物を殺す時は必ず血抜きをして、血を神に(大地に)戻せと命じられています。このためにユダヤ人は今でも血抜きをした肉(カーシェール)以外は食べません。肉を食べても命である血は食べない。それは「肉を食する時は、生きるためにやむを得ず、他の命を殺すという感謝と恐れを覚えて食べよ」ということです。
・そして血は命であるから、「人の血を流すな」と命じられます。「また、あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(9:5-6)。「人を殺すな、人は神にかたどって造られた、人を殺すことは神に敵対することだ」と語られます。「人の血を流す者は人によって自分の血を流される」、イエスはこのことを「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言い換えられました。「殺すな」、聖書に一貫して流れる命令です。ですから聖書は本筋ではどのような戦争も肯定しません。聖戦や正しい戦争などないのです。

2.契約のしるしとしての虹

・神はノアとその家族、そしてすべての生き物と、新しい契約を結ばれました。「あなたたち、ならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。すなわち、私は雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。私が地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、私は、私とあなたとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(9:12-15)。神は「二度と人と生き物を滅ぼすことはしない」と約束され、そのしるしとして虹を置かれたと創世記記者は語ります。虹はヘブル語「ケシェト」、弓を意味します。英語のrainbowも「雨の弓」の意味です。虹を雲の中に置くとは、武器である弓を置いて、もう使わない、もう人を滅ぼさないと約束することです。これが洪水後の世界の始まりでした。
・神は人が罪を犯し続けることを承知の上で、「もう滅ぼさない」という和解の契約を立てられ、しるしとして虹を立てられました。それは人が洪水に洗われて清くなったためではなく、「人が滅びるのを見ることは悲しいからだ」と神は言われています。神が自己の正しさを放棄され、被造物がどのように罪を犯し続けても、これを受け入れると約束された。洪水物語の焦点は洪水そのものにあるのではなく、洪水の後、「もう人を滅ぼすことはしない」と言われた神の言葉に、国を滅ぼされたイスラエルの民が民族の再生の希望を見出していった点にあるのです。
・創世記は「神は人間に肉食を赦されたが、流血は固く禁じられた」と語ります。「人を殺すな、人の命は神にかたどって造られた、人を殺すことは神に敵対することだ」と創世記は語ります。しかし現実の社会では、洪水による再創造後も人は殺し合いを続けています。人間の歴史は戦争(殺し合い)の歴史です。神が武器である弓を置いて、「もう使わない、もう人を滅ぼさない」と約束されたにも関わらず、人は神の約束を信じることができず、自分を守るために、武器で隣人を殺し続けています。この現実の中で私たちはノアの洪水物語を聞いています。

3.絶望の中に希望を見ていく

・今日の招詞にイザヤ43:1-2を選びました。次のような言葉です「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も私はあなたと共にいる。大河の中を通ってもあなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」。イザヤ書は40章から第二イザヤと呼ばれ、捕囚末期の預言が集められています。イスラエルはイザヤを通して与えられた神の約束を信じて、捕囚期を耐え抜き、70年後に故郷エルサレムに戻り、神殿を再建することが出来ました。
・エルサレムに戻ったユダヤの民は紀元前521年に神殿を再建しますが、その後も政治的な独立は得られず、ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配下で苦しめられ、紀元70年には再建した神殿もローマにより再び破壊させられ、その後再建されることはありませんでした。その後のユダヤ人は国をなくした「流浪の民」として世界各地に散らされ、各地で「キリストを殺した民」として迫害を受け、終にはナチス・ドイツによるホロコーストによる民族大虐殺を経験します。
・第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出て来ました。その時、ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスは、あなたたちの信仰は「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語りました。「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止める者は宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」(レヴィナス「困難な自由」内田樹訳)。彼自身も両親や家族をホロコーストで亡くしています。
・成人の信仰とは何でしょうか。1943年にワルシャワのゲットーでドイツ軍に殺されたヨセル・ラコーバーは死を前に手記を書きました「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosl Rakover Talks to God by Zvi Kolitz)。これこそが成人の信仰です。この成人の信仰が、イエスが最後の晩餐の時に語られた言葉の中にもあります。イエスは語られました「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14:25)。死んでもまた会えるではないか、その時はお互いに「喜びのぶどう酒を飲もう」とイエスは約束されました。
・そのイエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。神はイエスを棄てられなかった。だから神は人に捨てられた私をも起こして下さると確信します。人生はいつも思い通りに行くわけではありません。神の約束を疑わずにいられないほどの失望や悲しみが襲ってくることもあります。その中で信じ続ける信仰こそ、成人の信仰です。だから出口の見えない困難な状況の中でも、静かに神の声を待ち望みます。「死を超えた命を信じる」とはそういうことです。だから私たちは、「私はあなたと共にいる」という神の約束を信じます。そして守ってくださる神に感謝し、礼拝します。ノアと家族が箱舟から出て、救われた感謝を込めて礼拝を行うように、です


カテゴリー: - admin @ 08時17分08秒

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