すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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05 06

1.コリント教会での間違った主の晩餐式

・コリント書を読み進めています。今日は11章を読んでいきますが、ここにあるのはコリント教会の分派騒動が、教会礼拝の中核である「主の晩餐式」にまで悪影響を及ぼしている事実です。コリント教会には多くの異なった経歴の人々がおり、ギリシア人もユダヤ人も、豊かな人も貧しい人も、自由人も奴隷もいたものと思われます(1:26)。出身も経歴も習慣も異なる多様な人々が、一つの家に集まり、共同の礼拝を持っていたのです。家の教会ですから、集会人数は多くても50人くらいだったと思われます。
・多様な50人が集まれば、そこにはおのずからグループが出来ます。ギリシア人はギリシア人で集まり、ユダヤ人はユダヤ人同士、自由人も奴隷もそれぞれグループに分かれていたことでしょう。だから「私はパウロに」、「私はアポロに」、「私はペテロに」という分派が生じます。パウロもある程度の仲間割れは仕方がないと考えています「あなたがたが教会で集まる際、お互いの間に仲間割れがあると聞いています。私もある程度そういうことがあろうかと思います」(11:18)。しかし、仲間割れが主の晩餐の席上で起こったならば、「それはいけない」とパウロは語ります「あなたがたの間で、だれが適格者かはっきりするためには、仲間争いも避けられないかもしれません。それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならないのです」(11:19−20)。
・具体的に何が起きていたのでしょうか。当時日曜日は休日ではなく、日曜休日が制度化されたのはキリスト教がローマの国教となった4世紀以降です。信徒の多くは奴隷や貧しい人々であり、彼らは日曜日も働かなければなりません。従って、主日礼拝は朝ではなく、みんなが集まることの出来る夕方から持たれ、その中心は各人が食料を持って来て分け合う、「主の晩餐」と呼ばれる共同の食事でした。金持ちの人々は夕刻にはそれぞれの食べ物をもって家の客間に集まり、主人が祈りと感謝を捧げて、パンを裂き、ぶどう酒を分けて飲食しました。日が暮れると、貧しい人々が一日の労働を終え、おなかを空かして礼拝に来ました。しかし、その時には肉や魚はほとんど残っておらず、先に来た人たちはぶどう酒の酔いで顔を赤くしているという状況でした。当時の貧しい人々の日常の食事は「パンと水」だけで、肉や魚をいただく食事は主の晩餐式だけだったと思われます。ところが仕事を終えて教会に来たら、もう食事は残っていない。それが1回だけでなく、恒常的にそうであった。
・そのことを伝え聞いたパウロは怒ります「食事の時、各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末だからです」(11: 21)。何故自分たちだけで先に食べて、貧しい人々を除外するようなことを平気で行うのか、それが主の晩餐としてふさわしいのかとパウロは叱責します。社会の中にある貧困や地位の格差が教会の中に持ち込まれ、主の晩餐を台無しにしていると、パウロは本気で怒っています。「あなたがたには、飲んだり食べたりする家がないのですか。それとも、神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」(11:22)。
・この「持てる者の身勝手と持たない者の悲哀」という問題はコリントだけに限りません。現代の日本ではパート・アルバイト・派遣等の非正規労働者が就業人口の15%、929万人を占め、絶対収入が低く(平均186万円)、男性の3割は貧困ゆえに家庭を持つことが出来ず、一人親世帯(9割は母子世帯)の貧困率は50%を超えています。これはコリントで排除されていた貧しい人々と同じです。見て見ぬふりをする訳にはいかない。パウロが怒ったように、教会も怒らなければいけない。現実の教会はこのような貧富の格差、不公平を是正する力はありません。しかし出来ることもあるはずです。ある教会は「子供食堂」を開き、別の教会では「フードバンク」の活動を行い、ホームレス支援に取り組む教会もあります。私たちの教会では本年度は第二主日に教会外の人をお招きして、それぞれの活動をお聞し、考える時を持ちます。

2.主の晩餐式とは何か

・パウロはコリントの人々に、「主の晩餐式」の意味を語ります。「私があなたがたに伝えたことは、私自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、感謝の祈りをささげてそれを裂き、『これは、あなたがたのための私の体である。私の記念としてこのように行いなさい』と言われました。また、食事の後で、杯も同じようにして、『この杯は、私の血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、私の記念としてこのように行いなさい』と言われました」(11:23-25)。パウロがここで語るのはパウロ自身もエルサレム教会から伝承した式文で、晩餐式の起源は主イエスが弟子たちと共に取られた最後の晩餐にあるというものです。
・最後の晩餐についての伝承がマルコ福音書にあります。「一同が食事をしている時、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた『取りなさい。これは私の体である』。また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた『これは、多くの人のために流される私の血、契約の血である』」(マルコ14:22-24)。イエスは最後の時が来たことを悟り、これまで労苦を共にしてきた弟子たちにお別れの挨拶をされました。「私はやがて殺されるだろうが、私の流す血、裂く体は決して無駄にならない。そのことを覚えておいてほしい」と。そして最後に言われます「神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14:25)。「私は死ぬが神の国はまもなく来る。その時また一緒に祝宴を開いてぶどう酒を共に飲もう」として、イエスはお別れをされたのです。
・弟子たちも決意を新たにしますが、イエスが捕らえられ、十字架で処刑される時には、恐怖にかられて逃亡します。しかし逃げ出した弟子たちに復活のイエスが現れ、弟子たちは再び集められ、イエスが復活された日曜日を「主の日」として礼拝を持ちます。その礼拝の中核になったのが、イエスの死を想起する「主の晩餐式」でした。だからパウロは語ります「あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られる時まで、主の死を告げ知らせるのです」(11:26)。主の晩餐式は「イエスが私たちのために死んで下さった」という過去の出来事を記念すると同時に、「イエスが再び来て下さる。その時、神の国が来る」という将来の希望をも想起する行為なのです。
・「想起する」、アナムネーシスという言葉です。私たちの現実生活では、他者から心の痛む言葉やひどい仕打ちを受け、暗く、悲しい気持ちになる時があります。その時、「主の受けられた苦しみを想起しなさい」とパウロは語ります。主は自分を殺そうとする者を呪われたのではなく、執り成されたことを思い起こすのです(ルカ23:32「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているかを知らないです」)。私たちが晩餐の中で主の言葉を想起する時、たとえ自分を苦しめ困らせる者が同じ群れにいたとしても、私たちはキリストと共にその人のために祈る。それが教会の「主の晩餐式」なのです。教会は決して相手を非難したり、貶めたりはしない。「それはあなたの自己責任だ」とは、口が裂けても言わない場所なのです。

3.一つのパンが教会を一つにする

・今日の招詞に1コリント10:17を選びました。次のような言葉です「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。コリント教会では金持ちだけ集まって先に主の晩餐をいただき、貧しい人々は食事に与れないという事態が生じていました。パウロは語ります「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」(11:27-28)。パウロが述べる「ふさわしくないままに」とは、貧しい者を食卓から排除しながら、自分たちだけで「主の晩餐」にあずかることは間違っているという意味です。パウロは、そのような事態を避けるために「食事のために集まる時には、互いに待ち合わせなさい」(11:33)と勧告し、それでも空腹に耐えられないようであれば「家で食事を済ませなさい」(11:34)と語ります。
・パウロは「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」(11:29)と述べます。ここにいう「ふさわしくないままに主の晩餐をいただく」とは、「兄弟たちと和解することなくパンをいただくこと、兄弟に対して恨みや軽蔑の念を持ったままで杯をいただくこと」を意味します。ところが、2世紀以降教会制度が確立してきますと、主の晩餐式は礼拝の中で行われる秘蹟(サクラメント)となり、信徒のみ(洗礼者のみ)に限定されるようになります。しかしパウロは「洗礼が主の晩餐にあずかる要件だ」とは述べていません。「主の晩餐」にあずかるにふさわしいか否かは、各人の信仰的な反省に委ねるべき事柄です。
・初代教会において「主の晩餐式」は共同の食事の中で祝われていました。それは愛餐(アガペー)と呼ばれています。食事の交わり、分かち合いこそ、イエスが最も大事にされていたものです。イエスは徴税人や罪人といわれる人々と共に食卓につき、そのために批判されました(ルカ7:34「人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」)。しかしイエスは人々との食卓の交わりを続けられました。「共に食べる」ことこそ、「神の国のしるし」として大事にされていたからです。主の晩餐式が愛餐(アガペー)であれば、そこにおける参加者の洗礼の有無は無関係です。私たちは主の晩餐式を本来の姿である「愛餐」に戻す必要があります。だから私たちの教会では洗礼を受けていなくとも、「イエスを主と信じる」決断をされた方は、共に晩餐にあずかるように招きます。それを通して「一つの体」になるためです。「一つのパンを共に食べる」、そこに教会の交わりの原点があります。


カテゴリー: - admin @ 08時19分51秒

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