すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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04 22

1.結婚についてのパウロの勧め

・コリント教会への手紙を読んでおります。この手紙では教会の中に起きる様々な問題についてパウロが助言する形で、論議が進んでいきます。7章の主題は「結婚をどう考えるか」です。教会のあるコリントは人口70万人を抱える当時の世界有数の大都市であり、歓楽の都、虚栄の市と呼ばれ、あらゆる性的な不倫が蔓延していた都市でした。5章では「聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」(5:1)とあります。6章では「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか」(6:15-16)とあります。教会の中に性的誘惑に負けて不品行(ポルネイア)、不倫や買春に陥る人も出ていたようです。
・その反動もあって、一部の教会員は「キリスト者は独身を保つべきであり、既婚者も性的交わりを一切断つべきではないか」と極論を主張していたようです。そのため、教会の執事たちが、「結婚と性について」パウロに相談した、それに対するパウロの回答がコリント7章です。パウロは語ります「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい」(7:1)。独身である方が良いというのが、パウロの基本的な考え方です。パウロは7節でも語ります「私としては、皆が私のように独りでいてほしい」(7:7a)。
・しかしパウロは自分の生き方を強制しません「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」(7:7b)。パウロは独身でしたが、ペテロには妻がいました(9:5)。パウロはそれでよいと語ります。「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」(7:2)。「みだらな行い」と訳されている言葉は「ポルネイア」で、本来の意味は「娼婦(ポルネー)と交わる」ことです。そこから「ポルノ」という言葉が生まれました。それを避けるために神は結婚という祝福をお与えになったとして、パウロは夫婦の性的交わりを肯定します「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません」(7:3-4)。
・パウロは結婚をやむをえないもの、情欲を抑制するための手段と考えているように見えますが、そうではありません。彼は、結婚により相手に束縛され、信仰生活がおろそかになる場合が多いことを懸念しているのです「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと世の事に心を遣います」(7:32-34)。パウロの結婚に関する考え方の根底には終末観があります。彼は手紙の中で「定められた時は迫っている」(7:29)と語ります。キリスト再臨の時が迫っている今は、非常時であり、できるだけ身軽になるべき時だと彼は理解しているのです。
・カトリック教会は、コリント7章を基準にして、「信徒は結婚しても良いが、聖職者は結婚せず、終生独身を守る」ように制度化しました。その結果、聖職者の中には関心が同性愛の方向に赴き、少年に対する性的虐待事件が発生する結果を招いています。バチカンの発表によればこの10年間で2500人の聖職者が処分を受けたそうです。パウロが言うように「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらない」(7:5)事態になったのです。神は人を男と女に造られ、男女の性的交わりを通して命を継承するように造られました。イエスは言われます「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」(マルコ10:6-8)。パウロは決して自然の摂理に反するような独身生活を求めているのではなく、「キリストのために独身となる者はなりなさい、しかし結婚しても良い。どちらにも神の祝福がある」と語ります。

2.未信者との結婚をどう考えるか

・8節以降で未婚者と寡婦の結婚について語った後、12節からパウロは「キリスト者でない配偶者との結婚生活をどう考えるべきかについて」助言します。当時、コリント教会の中に、「信者は不信者と生活を共にしてはいけない、夫婦の一方が異教徒のままであるときは、直ちに離婚せよ」と極論を唱える人たちがいたのでしょう。その人々にパウロは語ります「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」(7:12-13)。キリスト者は少数者ですから、結婚相手の多くは、「信徒でない」異教徒でした。パウロは、たとえ相手が未信者であっても、相手が結婚生活の継続を望むのであれば、継続しなさい、信徒の生活を見て、相手がキリストの福音に救いを見出す可能性があると語ります。「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」(7:14)。しかし、「信者でない相手が離れていくなら、去るに任せなさい」(7:15)とも語ります。結婚は大事なことではあるが、信仰の本質にかかわる問題ではないと彼は考えています。
・パウロの教えは日本のキリスト者にとっては大事な教えです。何故ならば、日本でもキリスト者は少数に留まり、多くの結婚は非キリスト者との結婚になるからです。 玉川キリスト教会の福井誠牧師は語ります「クリスチャンである人がクリスチャンでない人と結婚するのは大変なことだ。価値観が違い、ライフスタイルが違う。非信者の人は週5日働き、週末は休みだから家族とどこかに出かけようと考える。クリスチャンは日曜日に教会に行き、礼拝を持って新しい一週を始めようとする。そうなると、結婚生活の故に信仰を持って生きていくのが難しくなる」(聖書1日1章から)。しかし、それは宣教の機会でもあります。ペテロは語ります「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」(1ペテロ3:1)。「結婚も主のためである」のです。

3.置かれた場所で咲きなさい

・今日の招詞に1コリント7:17を選びました。次のような言葉です「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召された時の身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会で私が命じていることです」。コリント7章はパウロの結婚に対する教えが展開されています。彼は結婚を神が定められた秩序として尊重します。結婚は祝福され、結婚した者たちは自然の秩序の中で性的交わりを行い、新しい生命を生み出す。他方、パウロは未婚者には「独身でいる」ことを勧めます。彼は「結婚しても良いが、結婚しない方がさらに良い」と繰り返します(7:26、38、40)。それは結婚することにより、人の関心が神ではなく、相手を含めた世に移るからです。しかし同時に、「情欲に身を焦がす」(7:9)よりは結婚することを勧めます。独身であることは強制ではなく、自由意志です。それを強制にした時、そこにサタンの誘惑が入り込みます。独身性をとるカトリック司祭が同性愛に陥りやすいのも、自然の感情を無視するためです。
・パウロの結婚観の背景にあるのは強い終末観です。彼は自分が生きている間に終末が来る、その時天変地異が起こると考えています。非常時を前に、キリスト者は世との繫がりを相対化すべきであると考えています。「兄弟たち、私はこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(7:29-31)。世の終わりは近い、その時に生き方は切迫したものになります。
・パウロの終末観は、現在の私たちにはありません。私たちは「明日は来る」と考えています。多分来るでしょう。しかし、明日の来ない日が私たちにも訪れます。死の時です。私たちが「死を前にして」今をどう生きるかを考えた時、パウロの危機意識を私たちも共有します。パウロが勧めるのは人生の出来事の相対化です。死を前にすれば、「どのような学校に入るか」、「会社の中でどうすれば昇進できるか」、「どのような人と結婚するのか」は、相対化されます。大事なことは「与えられた生命を、与えられた場で、一生懸命に生きる」ことです。ですから、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召された時の身分のままで歩みなさい」という生き方になります。
・この言葉を言い換えたものが、「置かれた場所で咲きなさい」という言葉です。渡辺和子さんの言葉が有名ですが、その原点はアメリカの神学者ラインホルド・ニーバの祈りです。「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを、示して生きることなのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。置かれている所で精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。神が置いて下さった所で咲きなさい」。ここに福音があります。


カテゴリー: - admin @ 08時03分42秒

04 15

1.キリストの体である教会で何故争いが起こるのか

・コリント書を読んでいます。教会は「エクレシア」と呼ばれます。エクレシアとは「呼び集められる」と言う意味です。キリストの名によって呼ばれた者が集められ、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために遣わされていく場所です。ところが現実の教会ではそこに対立や紛争が生じます。争いの多くは、人間的な結びつきによるもので、この世の争いと変わりません。何故キリストの体である教会において、この世と同じ人間的な争いが起こるのか。それを私たちに教えるのが、コリント教会の経験です。
・コリント教会はパウロの開拓伝道により生まれました。巡回伝道者パウロはコリントに1年半滞在して教会の基礎を築き、その後を同僚のアポロに託して、エペソに移ります。アポロは雄弁家で、聖書に精通し、その説教は人々を魅了したようです。アポロに惹きつけられた人々はアポロ指導下に新しい方向に導かれることを望むようになっていきました。他方、創設者パウロからじかに教えを受け、導かれた人々は、そのような動きを、教会を誤った方向に導くものだと強く反対していました。アポロは雄弁で、外見も立派だったと伝えられています。他方、パウロは朴訥でその説教はわかりにくかったようです(第二コリント10:10)。教会の人々は外見や説教で二人を比べ、「私はアポロに」、「私はパウロ」にと争っていました。
・このコリント3章を読む時、いつもため息が出ます。人はバプテスマを受けても、その前と何も変わらないのか、バプテスマの意味は何なのだろうかというため息です。教会の混乱はコリントだけの問題ではありません。今日の教会でも、牧師と役員の争いにより牧師が辞任するという混乱が方々の教会で起きています。教会も人間の集まりであり、意見の対立や争いはやむをえないという考えに対して、「それは違う」とパウロは主張します。彼はコリント教会に書き送ります。「(あなたがたは)相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」(3:3)。

2.肉の人から霊の人へ

・キリストを救い主と受け入れるためには、霊の働きが必要です。コリント教会の人々も神の霊の導きでバプテスマを受け、キリスト者となりました。しかし、「霊を受けても乳飲み子のままにとどまっている」とパウロは指摘します。「兄弟たち、私はあなたがたには、霊の人に対するように語ることができず、肉の人、つまりキリストとの関係では乳飲み子である人々に対するように語りました。私はあなたがたに乳を飲ませて、固い食物は与えませんでした。まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」(3:1-2)。「肉の人」とは肉の思い、この世の知恵に支配されている人のことを指します。この世の知恵は他者を支配することを目的とします。だから知恵と知恵がぶつかり合い、争いが生まれます。彼らは、教会はキリストの体であり、アポロもパウロも「キリストに仕える僕」に過ぎないことを理解していません。だから「私はパウロに」、「私はアポロに」と争い合うのです。他方、神の知恵は神に仕えることを目的とします。故に知恵が人を一致に導くのです。「教会は人の知恵ではなく、神の知恵を求める場所ではないか」とパウロは語るのです。
・パウロが求めるのは「信仰に成熟した人」(2:6)、「霊の人」(3:1)です。固い食物を食べることの出来る人、この世を超えたものに価値を見出せる人、「パウロが植え、アプロが水を注いだかもしれないが、成長させて下さるのは神である」ことを理解できる人です。パウロは語ります「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。私は植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」(3:5-6)。二人はただの奉仕者に過ぎない、教会を立ち上げるのは、パウロでもアポロでもなく神ではないか、と彼は語ります。人間的な好き嫌いの感情で、「私はアポロに」、「私はパウロに」、という争いをするために教会に集められたのではない。信仰の未熟者(子供)から成熟者(大人)になれとパウロは言います。

3.成熟した信仰者になれ

・パウロは10節から教会を建物に例えて説明をしています。彼は言います「私は、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています」(3:10)。初代牧師のパウロがコリント教会の土台を築き、二代目牧師のアポロがその上に建物を建てました。パウロは続けます「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」(3:10b-11)。パウロが土台を据えましたが、基礎石になっているのはあくまでもキリストです。パウロもアポロも「神のために働く同労者」に過ぎず、「土台はキリストだ」とパウロは強調します。
・パウロは続けます「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」(3:12-13)。耐久性のある資材(金、銀、宝石)で上物を造ったのか、それとも当座の必要を満たす物(木、草、わら)で造ったのかは、50年後、100年後に明らかになる。目先だけを考えた材料は50年後、100年後には朽ち果てるからです。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受ける」(3:14-15)のです。
・私たちの教会は、2011年に会堂建設をしましたが、基礎工事にお金と時間をかけ、上物に耐久性のある資材を選びましたので、予算は当初の6,500万円から8,500万円に増加しました。小さな教会にとっては大幅な増額で、増額部分を教会債という形でお願いしました。結果的に自己資金(献金)は3,000万円、教会債4,000万円、連盟借入金2,000万円という形の資金調達になりました。資金の7割近くが借入金ですが、借入金の66%を占める教会債は教会員の方々からの借入であり、その基礎はキリストに対する信仰です。連盟貸付も諸教会からの献金が原資になっており、これもまた信仰が土台になっています。会堂建設の基礎もまたキリストなのです。
・教会は建物ではなく、そこに集う一人一人の信仰者の共同体が教会です。教会は祈りと讃美を捧げる場であり、会堂がなく、礼拝の場所が借家や借室であっても、礼拝を守ることが出来ます。しかし同時に、借家や借室で礼拝を行い続けた時、教会が継続が難しいこともまた事実です。私たちが舞浜伝道所を20年の苦闘の後に閉鎖せざるを得なかったことは、会堂を持たない教会形成の難しさを示しています。ただ、会堂を建て、維持するためには知恵が必要です。今、私たちは借入金の返済負担の重さにあえいでいます。一人一人の教会員が、この会堂の真の土台石はキリストであり、キリストが共にいてくださる限り、この会堂は神の宮で在り続けると信じる時、借入金の返済負担を共に担うことが可能になります。
・では教会は建物を造って、そこで何をするのでしょうか。ヘンドリック・クレーマーは「信徒の神学」の中で述べます「神は世と関わりを持たれる方であるゆえに、教会もまた世のために存在する。しかし、現実には、教会の関心は、教会自身の増大と福祉に注がれてきた。教会は宣教のための器として立てられた。宣教に専念し、世に向けて、御言葉を発信している教会では、分派や論争はおきにくい。主目的において一致があるからだ。教会はキリストに仕え、世に仕えていく。そこでは牧師と共に信徒も宣教の業を担う。信徒こそが世に離散した教会である。教会は信徒を通じて、この世にキリストのメッセージを伝えていく使命を持つ」。「世に向けて、御言葉を発信している教会では、分派や論争はおきにくい」という言葉は大切な言葉です。
・今日の招詞に1コリント3:22-23の言葉を選びました。次のような言葉です。「パウロもアポロもケファも、世界も生も死も、今起こっていることも将来起こることも。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」。パウロは「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの」と語りました。私たちの教会もこのような理想を持ちたい。私たちには「神と世の和解の言葉」が委ねられています。私たちには世を救う「福音」が委ねられています。パウロはコリント教会を「神の教会」、その信徒を「召されて聖なる者とされた人々」と呼びます。争いを繰り返している教会の人々を、パウロはそれでも「聖徒」と呼ぶのです。神に召された故に聖なる者とされたのです。
・私たちも「キリストの名によって召され、神の言葉を聞き、それぞれの場で福音を伝えるために」集められていいます。仲間割れや分派争いをしている時ではありません。教会には異なる人々が集められています。しかし、主から使命を委ねられているという理解は一致しています。この一致ゆえに、教会は「普通の人間の集団」ではなく、「聖徒の集まり」になり、福音を携えて、世に出て行くのです。内村鑑三の墓は多磨霊園にありますが、その墓碑には次の言葉が刻まれています「I for Japan.japan for the world.The world is for Christ. And all for God.」。「私は日本のため、日本は世界のため、世界はキリストのため、そして全ては神のため」、私たちがキリストにある大志を持って教会形成に取り組んでいった時、教会は世に福音を伝える拠点になりうるのです。「Boys, be ambitious in Christ」、「キリストにあって一つ」、この共通理解があれば、この教会は大丈夫です。


カテゴリー: - admin @ 08時06分41秒

04 08

1.コリント教会の分裂騒動

・本年は4月から6月まで、パウロの書いたコリント教会への手紙を読んでいきます。コリント教会は多くの問題を抱えていました。それらの問題に対処するため、パウロは何度もコリント教会宛の手紙を書いています。新約聖書には二通の手紙(第一、第二)だけが収録されていますが、実際は四通ないし五通の手紙が書かれたと考えられています。今日読みますコリント第一の手紙は紀元55年頃、滞在先のエペソで書かれました。
・パウロは先にアテネで伝道し、そこでは哲学や論理学の助けを借りた堂々たる説教をしましたが、アテネの人々は受け入れず、パウロは失意の内にコリントに来ました(使徒17:32以下)。パウロは語ります「そちらに行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(2:3)。パウロは自信を失くしていたのです。しかしコリントでは先に来ていた「プリスカとアキラ」の協力のもと、パウロは再び福音を語り始めます(使徒18:1-8)。パウロはコリントでは「十字架につけられたイエス・キリスト」だけを語り、その結果回心者が次々に起されていきました。パウロは語ります「私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、"霊"と力の証明によるものでした。それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした」(2:4-5)。教会設立後、パウロはコリント教会を弟子のアポロに委ねて去り、今度はエペソの開拓伝道に力を注ぎます。そのエペソにいるパウロの所に、「コリント教会が分派争いで混乱している」との報告が届けられました(1:11)。
・パウロが去った後のコリントでは、教会内に対立が起きていました。パウロに導かれてバプテスマを受けた人々は、パウロの教えを大事にしました。ただパウロの説教は朴訥で難しかったようです。コリント教会のある人々はパウロを、「手紙は重々しく力強いが、実際に会ってみると弱々しい人で、話もつまらない」(2コリント10:10)と評していました。他方、パウロの後継者アポロは博識で雄弁でしたので、その説教に感動した人々は、アポロ派を形成していきました。人々は指導者の外見や説教で、私はアポロに、私はパウロにと争っていたのです。アポロはその後コリントを去り、手紙が書かれた当時、コリント教会は無牧師で、母教会のエレサレム教会からの巡回伝道者が訪れて、バプテスマを授けていたようです。巡回伝道者からバプテスマを受けた信徒たちは、「エルサレム教会の指導者ペテロこそ本物の使徒だ」としてペテロ派になったのでしょう。こうしてコリント教会は分裂状態に陥ってしまいました。
・コリント教会の動きは、現代では「牧師の解任決議」に相当します。教会はパウロに対して、「これ以上、あなたの指導は受けたくないので、辞任してほしい」と要求しているのです。コリント教会の争いは他人事ではありません。私の出身教会は中野教会ですが、中野では35年間牧会された牧師が引退して名誉牧師になられ、後任に新しい牧師を招聘した時、新旧牧師間で教会運営についての意見が対立し、争いに巻き込まれた執事たちが去っていく出来事がありました。私たちの周りの教会でも、毎年のように、期の途中で辞任する牧師がおられます。篠崎教会でも、ある時に牧師と信徒が対立し、別な時には信徒同士で教会運営についての考え方の違いが表面化し、信徒が散らされていくという悲しみを経験しています。

2.パウロはどう行為したか

・人々は感情的な好き嫌いで党派を形成していました。しかしパウロは、感情ではなく、彼らの信仰に訴えて、説得します。彼は最初に教会の人々に問います「キリストはいくつにも分割されたのですか」(1:13a)。教会はキリストが頭であり、教師はキリストに仕える手足に過ぎないのに、何故、手足である教師が頭であるキリストより重視されるのかと問います。次にパウロは「私があなたがたのために十字架につけられたのですか」(1:13b)と問います。「キリストが死んで下さったのであって、私が死んだのではない。あなた方は、私に救われたのではなく、キリストの十字架で救われた。その十字架を仰ぎながら、互いに争うとしたら、十字架は飾りになってしまったのか」と問いかけます。
・最後にパウロは言います「あなたがたは誰の名によってバプテスマを受けたのですか」(1:13c)。あなたがたはキリストの名によってバプテスマを受け、キリストに属する者とされた。それなのに誰がバプテスマを授けたかに、どうしてこだわるのか。パウロからバプテスマを受けた者はパウロ派になり、アポロから受けた人はアポロ派になる、それが正しい信仰と思うのかと問います。バプテスマとは水に入ってキリストと共に一度死に、水から引き上げられてキリストと共に新しく生きることです。その「キリストに結ばれる行為」が何故、「人に結ばれる行為となるのか」とパウロは問いかけます。
・パウロは、「あなたがたがキリストの十字架の意味を真剣に受け止めないから、このような争いが起きるのだ」と語ります。彼は手紙の中で述べます「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1:18)。キリストの十字架は私たちに決断を迫ります。私たち人間の本質は「自己中心=エゴ」です。このエゴが教会を壊す。「私はパウロに」、「私はアポロに」、と主張する時、そこには、“私”しかなく、キリストがありません。主語が “私”の信仰は未熟な信仰であり、未熟だから他者と争うのだとパウロは言います(3:4)。主語が“私”から“キリスト”になった時、成熟した信仰になります。成熟した信仰者が集まる時、争いは起きない。意見の違いはあっても、違いが争いにならない。それは、私ではなく、「キリスト」が何を望んでおられるかが、行動基準になるからです。

3.十字架の言葉に従う

・今日の招詞に1コリント1:22-24を選びました。次のような言葉です。「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。キリストは十字架で殺されました。処刑された人間が「神の子」、「メシア」であると主張することは、愚かであり、信じがたい事柄です。しかし「神はイエスをあえてこの十字架につけられ、そのことを通して人間に悔い改めを迫られた」とパウロは語ります。人間は有史以来戦争を続けてきました。人間は戦争を、殺し合いを止めることが出来ない。殺し合う、相手を排斥することこそが人間の本質であり、気に入らない者は殺す。それを文字通りに実行したのがキリストの十字架なのではないかとパウロは語るのです。
・「殺さなければ殺される」、人の世の競争社会に生きるとはそのような生き方です。その人間が十字架に直面して、おのれの罪を知らされ、救いは人から来ないことを知り、神の名を呼び求めるようになります。だからこそ十字架が、「神の知恵」、「神の力」になりうるのです。十字架は救いのしるしではなく、絶望のしるしです。イエスは十字架上で「わが神、何故私を棄てられたのか」と叫んで死んで行かれました。しかし神はそのイエスを十字架死から起された。「神は悪を善に変えられた」、それを知った時、「私はパウロに」、「私はアポロに」、という言葉が出るはずがないではないかとパウロは語るのです。
・教会はこの世にありますが、この世と一線を画す神の国共同体です。この世にある故に、この世の霊と行いが教会の中に入り込んできます。「自己実現」というこの世の知恵の本質が、あたかも人間の理想のように思えてきます。ウィリアム・クラークは語りました「Boys, be ambitious (in Christ)」、クラークが語ったのは、自分のためではなく、“キリストのために大志を抱け”という言葉でした。しかし世の人はこの「キリストのために」を省いてしまいます。「in Christ」を削除した時、教会はこの世の団体と何も変わらない場になります。教会は会員が「自己実現する」、「自分の正しさ」を主張する場ではなく、「神の正しさ」を賛美する場です。神の正しさという視点から見れば、パウロもアポロもただの人にすぎません。
・パウロは語ります「神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」(1:28)。コリントは世界有数の大都市で、「歓楽の市」と呼ばれていました。ただ人口の70万人のうち50万人は奴隷であり、格差社会でした。その中で、多くの奴隷たちが教会に導かれ、信徒になって行きました。教会は奴隷の人格を認め、彼らを人間として扱ったからです。パウロは語ります「(教会では)もはや、ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリスト・イエスにおいて一つだからです」(ガラテヤ3:28)。
・当時の奴隷は「生きた道具」であり、主人は役に立たなくなった奴隷を棄てることも殺すことも自由でした。その中で多くの奴隷たちが自分たちの人格を認めてくれる教会に惹かれて行ったのは当然です。コリントと同じ出来事がインドでも起きています。インドでは人口の3%、3000万人がクリスチャンですが、多くは指定カースト(不可触民)の人々だと言われています。インドに最初に宣教を行ったのはフランシスコ・ザビエルで、彼は貧しい人々に福音を伝えました(沖浦和光「宣教師ザビエルと被差別民」から)。ザビエルはインドにコリント教会を見出したのです。
・アメリカでも同様です。本年はマーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されてから50年になります。アメリカでは黒人も法的には平等が保障され、黒人初の大統領も誕生しましたが、人々の心に潜む差別の意識や白人との格差はいぜん根強いままです。追悼式典に集まった参加者の一人は語りました「メンフィスでは、全米各地から集まった約1万人が『I AM A MAN』(私は人間だ)と書かれたプラカードを掲げて行進しました。私も作業員として当時のストに参加しました。それは『人間としての尊厳を取り戻す闘いだった。キング牧師のおかげで今の私がいる』(4月6日朝日新聞より)。教会は人間としての尊厳を取り戻す言葉を持っています。
・今日の日本で、コリントの奴隷、インドの指定カースト、アメリカの黒人と同じような立場にあるのが「非正規労働者」と言われる人たちです。日本は豊かな国と誤解されていますが、実際は貧困率16.1%と高く、2千万人が貧困層と言われています(現代の貧困は相対的貧困と呼ばれ、所得中央値の1/2以下、2002年では年収160万円以下で、人としてふさわしい生活を送れない状態を指す)。男性正規雇用者の貧困率は5.4%ですが、非正規雇用では25.3%と跳ね上がります。また日本では一度、正規雇用の枠から転落すれば、救済の道がありません。その悲惨さの一端を2009年の「年越し派遣村」で私たちは見ました。不況に伴う人員整理で職場も住む所も失った人々が何百万人も出現したのです。その人々に対して教会が何をすればよいのか、わかりません。しかし何かができるはずです。2千万人の人が福音を求めているのです。
・私たちはイエスの言葉の中に人生を生きる知恵を求めて聖書を読みます。「人はパンだけで生きるのではない」(マタイ4:4)、「悲しむ人々は幸いだ、その人たちは慰められる」(マタイ5:4)。偉大な言葉です。しかしそれ以上に偉大な言葉があるパウロは教えます「私はあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」(2:2)。神学者モルトマンも語ります「私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる」(モルトマン「無力の力強さ」)。復活されたイエスの最初の言葉は「ガリラヤに行きなさい」でした。ガリラヤ、ガーリール(周辺)に行け、現場で生きよ、自分のためだけではなく、隣人と共に生きよとのメッセージに従う時、私たちは「生けるイエス」、「十字架を担ったままのイエス」と出会うのです。


カテゴリー: - admin @ 08時01分43秒

11 30

1.パウロとコリント教会

・パウロがコリント教会に書いた第一の手紙を読んできました。今日が最終回です。今日の箇所はパウロが第一の手紙の締めくくりとして書いた所です。パウロの所にコリント教会からの使者が来て、教会の諸課題について質問した手紙を持って来ています(16:17-18「ステファナ、フォルトナト、アカイコが来てくれたので、大変うれしく思っています。この人たちは、あなたがたのいないときに、代わりを務めてくれました。私とあなたがたとを元気づけてくれたのです」)。パウロは手紙に書いてある質問や使者たちから聞いた教会の課題に答える形で、返事としてこの手紙を書いているのです。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時24分15秒

11 23

1.異言と預言は何が違うのか

・コリント書を読み続けています。先週、私たちはコリント13章「愛の讃歌」を読みました。そこにありましたのは、「愛の賞賛」ではなく、教会内の「愛の欠如」についての使徒の警告でした。「愛とは自分の救いを求めることではなく、隣人と共に生きるための配慮であることをあなた方はわかっていない」とパウロは語っています。14章に入りますと、その隣人への配慮の無さが、「異言を語る」ことへの関連で取り上げられています。異言、グラソリア、舌(グロッサ)から生まれた言葉、自己陶酔の中で発せられる言葉や叫びを指します。ギリシア世界では「密儀宗教」(ミステリア)が盛んで、神との交わりの中に神秘体験を求め、霊的興奮状態の中での叫びや声を、聖霊を受けたしるしとして誇り、その神秘体験をしていない人々を「聖霊を受けていない者」として侮蔑する傾向がありました。パウロはそれを聞いて怒り、「異言」の問題をここで取り上げています。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時16分03秒

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