すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.中風の人のいやし

・マルコ福音書を読み始めています。今日、私たちはイエスが中風の人を癒されたマルコ2章の物語を手がかりに、病の癒しと罪の赦しの問題を考えます。イエスは言葉の説教をされると同時に、多くの癒しを行われました。らい病人が癒され(1:42)、熱病の人が治され(1:31)、悪霊に取りつかれた人から悪霊が追い出されました(1:33)。人々はその不思議な業を見て、この人には神が特別な力を与えておられると思い、イエスの所に押しかけてきました。イエスがシモンの家で人々に話をされていた時も、たくさんの人々が押し寄せ、家の外まで人があふれていました。そこに、四人の男に担がれて、中風の人が床に乗せられて運ばれてきました。イエスの評判を聞き、この人なら病を治して下さるかもしれないと思い、近隣の人に頼んで、運んでもらったのでしょう。中風とは「麻痺」と言う意味で、何らかの理由で体が麻痺になり、起き上がることも出来ないようになった、脳卒中や脳梗塞の後遺症だったのかもしれません。
・この人は四人の男に担がれてここに来ました。どの程度の距離を担がれたのかは不明ですが、人を戸板に載せて担ぐのは重労働です。男たちは汗びっしょりになって、やっとイエスのおられた家まで病人を運んで来ました。ところが、家は戸口まで人があふれていて、中に入ることは出来ません。苦労してここまで来た人々は、それくらいではあきらめません。四人の男たちは屋根に上り、それをはがして、病人をイエスの前に降ろそうとします。パレスチナの屋根は平らで、木の骨組みの上に粘土がかぶせてあるだけで、外側には屋上に上がるための階段もありました。四人の男たちは床を担いだまま、屋根に上り、屋根に穴をあけ、その穴から、病人をつり下ろしました。中にいた人たちは驚きました。イエスも驚かれたでしょう。もうもうたる土煙が立ったと思われます。しかし、イエスは、そこまでして癒しを求めてきた男たちの熱心さに、感動されました。イエスは「その人たちの信仰を見て」(2:5a)、屋根から降ろされてきた病人に言われました「子よ、あなたの罪は赦された」(2:5b)。イエスは必死に求めて来た長血を患う受精にも言われました「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(5:34)。真摯な信仰(信頼)は報われるのです。
・そこにいた律法学者はイエスの言葉を聞いて、つぶやきます「神お一人のほかに罪を赦すことの出来るお方はいない。この男は神を冒涜している」(2:7)。イエスはそれを悟って言われました「中風の人に『あなたの罪は赦された』というのと、『起きて床をとって歩け』というのとどちらがたやすいか」(2:9)。「罪が赦された」と宣言されても、誰もその結果を検証できません。言うのはたやすい。しかし「起きて歩け」と言うのは難しい。「歩け」といって歩けなければ、言った人はうそをついたことになります。イエスは言われます「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている事をあなたが知るために、私は言おう『起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」(2:10-11)。中風の人の病は癒され、床から起き上がり、歩き始めました(2:12)。

2.人が求めるのは病の癒しだ

・イエスは病の癒しに先立って、罪の赦しを宣言されました。何故でしょうか。「罪の赦し」と「病の癒し」は、どのように関係するのかが今日の私たちの主題です。私たちが人生において求めるものは、自分の力ではどうしようもない病気や苦難が取り除かれることです。失業すれば、生活困難の問題が生じます。子供が不登校になれば、家庭は荒れます。元気な人が病気で倒れれば、生きる力さえなくなります。生きることは苦難の連続です。その現実の中で、私たちは現実を打ち破る力、病を癒し、困難を取り除く力を求めています。ですから、シモンの家には癒しを求める人々があふれ、教会にも癒しを求めて人が訪ねて来ます。私たちが求めるのは、「目に見えない罪の赦し」ではなく、「目に見える病や苦難の解決」です。
・しかし、イエスは中風の人に、まず罪の赦しを語られました。当時のユダヤ社会では、病気は「罪を犯した人間に対する神の罰だ」と考えられていました。これはユダヤ教だけではなく、多くの宗教にある「因果応報」の考え方です。イエスはこれをきっぱりと否定されます「あなたの罪は赦された」、あなたは神の怒りの下にあるから病気になったのではない」と言われたのです。イエスは神の愛を示すために、「起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」と言われます。家に帰る、社会生活に復帰しなさいとの意味です。
・イエスは別の箇所では、病の癒しを「神の御業が現れるため」(ヨハネ9:3)と言われます。「神の御業が現れるため」、神は人を罰する方ではなく、憐れまれる方である、その憐れみをあなた方が見ることができるようにと、イエスは病人を癒されるのです。イエスの癒しの力は、病む心を共感する力から生まれます。イエスが癒された人々は、当時の社会において罪人、穢れた者とされていた人々でした。触れてはいけないと禁止されていたらい病人を、「深く憐れみ」、「手を差し伸べてその人に触れ」、癒されます(マルコ1:40-45)。一人息子の死を悲しむ母親を「憐れに思い」、死体に触れるなという当時のタブーを冒してまで「棺に手を触れ」、彼を生き返らせます(ルカ7:11-17)。「癒し」の行為は、禁止されていた安息日にも行われました(マルコ3:1-6)。そのことにより、イエスは祭司や律法学者から異端と糾弾され、神を冒涜する者と批判され、捕らえられ、十字架で殺されていきます。イエスは自らが痛むことにより、病む者たちの痛みを共有されて行かれました。「あなたの罪は赦された」という宣言は、「あなたの罪は私が代わりに引き受ける、そのことによって私は死んでもかまわない」という決意のもとで為されているのです。

3.罪を赦し、病を癒す力

・今日の招詞に詩篇41:4-5を選びました。次のような言葉です「主よ、その人が病の床にある時、支え、力を失って伏す時、立ち直らせてください。私は申します『主よ、憐れんでください。あなたに罪を犯した私を癒してください』」。詩篇の作者は最初に「罪の赦し」を求め、次に「病の癒し」を求めています。マルコ2章のイエスも、まず「罪の赦し」を宣言され、その後で「病気の癒し」をされました。何故イエスは最初に罪の赦しを宣言されたのか、赦しと癒しはどう違うのかが今日の主題です。
・「罪とは神との関係の破れ」であり、その回復が「罪の赦し」です。イエスは言われました「人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される」(3:28)。私たちは神の赦しの中にある。ですから、教会はイエスの権威を継承して、罪の赦しを宣言します。「神はあなたを子とされた、その事を喜びなさい」と伝えます。その時、多くの人は言います「イエスは神の国のしるしとして病を癒して下さいました。あなたも私の病を癒して下さい。そうすれば信じます」。罪の赦しという目に見えないものではなく、病の癒しという見えるしるしを下さいと人々は望みます。
・しかし、私たちは、「病の癒しはあくまでも神の出来事である」ことを伝えなければいけません。神は必要な時には病を癒し、また必要な時には病をそのままにされます。ある牧師は歌いました「病まなければささげ得ない祈りがある 。病まなければ信じ得ない奇跡がある 。病まなければ聞き得ない御言葉がある 。病まなければ近づき得ない聖所がある 。病まなければ仰ぎ得ない御顔がある 。おお、病まなければ、私は人間でさえもあり得ない」(河野進「病まなければ」)。病が祝福になることがある、癒されないこともまた神の恵みとして受け止めていくのが聖書の信仰です。
・前にもお話ししましたが、福音書に繰り返し出てくる「癒し」という言葉はギリシャ語「セラペオー」です。本田哲郎神父は「小さくされた人々のための福音」の中で語ります「文字通り“癒す”という言葉“イオーマイ” が出るのは、マタイとマルコ両福音書について言えば、合わせて五回しかない・・・あとはすべて“奉仕する”という意味の、“セラペオー”が用いられる。マタイとマルコ合わせて二十一回も出てくる。英語 Therapy の語源となった言葉だが、これを病人に当てはめると、“看病する”、“手当てする”となる・・・イエスにとって、神の国を実現するために本当に大事なことは、“癒し”を行うことではなく、“手当て”に献身すること、しんどい思いをしている仲間のしんどさを共有する関わりであった」。イエスが為されたのは病の治癒ではなく、病人の苦しみに共感し、手を置かれる行為だった、「その結果ある人々の病が癒されていった」と本田氏は語ります。
・今年は明治維新から150年です。ある人は語りました。「4年間の太平洋戦争期間を除けば、73年ごとになる。戦前の73年、戦後の73年である」。その戦前に書かれた「きみたちはどう生きるか」という本が漫画化されて、100万部を超えるベストセラーになっているそうです。原作が書かれたのは1937年、日中戦戦争が始まった年、著者の吉野原三郎は治安維持法違反で検挙され、投獄され、発言の自由を奪われたため子供向けの本を書きました。その本は岩波文庫となり、版を重ねてきましたが、半年前に漫画化され、若者を中心に、どう生きたらよいかを悩む人々の心を「癒す」書になっているそうです。この本を漫画化した羽賀翔一さんは語ります「1937年、人々の生活が大きく変わろうとしているこの時代に、日々自分の中の疑問と向き合い、人として成長しようとした、一人の中学生とその叔父さんがいました。…小説の出版から80年経った今も、あらゆる世代の人たちが生き方の指針となる言葉を、物語の中から見出しています」。真摯な言葉、熱心な訴えは、時代を超えて、受容されます。言葉には癒しの力があります。イエスの言葉も生きています。「あなたの信仰が、あなたの熱心が、あなたを救った」、この言葉が自分の体験になれば、それは力を持つのです。
・私たちにはイエスのような病の癒しは出来ませんが、自分たちに出来る癒しの業に取り組む必要があります。私たちは足の不自由な人に、「起きて歩け」ということは出来ません。しかし、足の不自由な人が、教会に来ることが出来るように、玄関の段差をなくし、車椅子のままトイレを使えるように改造することは出来ます。私たちは、病気で寝ている人の病気を治すことは出来ません。しかし、寝ている人を訪ね、その枕元で一緒に讃美することは出来ます。ペテロが自分の家の屋根が壊されても文句を言わなかったように、私たちも自分の家を解放して、家庭集会を行うことは出来ます。私たちはイエスのように癒しを行うことは出来ませんが、イエスの前に中風の人を運んだ四人の男にはなりうるのです。そしてイエスは「その人たちの信仰を見て」行為されます。イエスの前に人を運ぶ、その先は、赦しと癒しの権能を持たれるイエスにお委ねする。教会は多くの癒しの業を行うことが出来ることを覚えたいと思います。


カテゴリー: - admin @ 07時55分46秒

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