すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1. イエスの神殿奉献

・本年最後の礼拝を迎えます。本日与えられた聖書個所はルカ2:21以下のイエスの神殿奉献の記事です。
ルカは記します「八日たって割礼の日を迎えた時、幼子はイエスと名付けられた。これは、胎内に宿る前に天使から示された名である」(2:21)。ユダヤの慣習では、子の誕生から8日目に割礼と命名が行われます。名前を付けるのは通常は父親ですが、この場合は「天使から示された名」である「イエス」と命名されました。「子の誕生に深く神が関わられた」とルカは語ります。赤子の命名式は誕生から8日目で、イエスの誕生日を12月25日とすれば、8日目は1月1日になります。教会は伝統的に12月25日にクリスマスをお祝いし、1月1日を「主イエスの御名によって歩みを始める」記念の日として祝います。
・さてユダヤの律法は、誕生から40日目に、生まれた子を神殿に捧げるように命じています。そのためにヨセフとマリアは子を奉献するために、神殿に参拝しました。ルカは記します「さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎた時、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。それは主の律法に、『初めて生まれる男子は皆、主のために聖別される』と書いてあるからである」(2:22-23)。二人が神殿に向かった理由は二つあります。一つはマリアの産後の「清め」のため、もう一つは「長子を聖別して神に献げる『初子の贖い』の儀式」のためです。神殿では、燔祭と罪祭の生贄を、祭司立会いで献げます。燔祭(焼き尽くす)の献げ物は一歳の小羊とされていましたが、貧しい人は「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」ことでも良いと定められていました(2:24)。イエスの両親は「鳩」を捧げました。この記事が示しますことは、イエスは厳格なユダヤ教の信仰を持つ両親に生まれ、育まれたことです。その意味ではイエスはユダヤ教徒です。しかし初代教会の人々は、イエスをヘブル語で「イエシュア・マシーアハ」と呼びました。「メシアであるイエス」という意味です。ここにおいて、初代教会はイエスをメシアと認めないユダヤ教会と決別し、キリストの教会を形成していきます。

2.シメオンの賛歌

・イエスは両親に連れられて神殿に来られました。イエスの両親が奉げたのは貧者の奉げものとされた鳩でした。このことはイエスが家畜小屋で生まれられ、飼い葉桶の中に置かれたことと通じます。イエスは王の宮殿の中でお生まれになったのではなく、貧しい家庭に生まれられた。ルカは「主イエスは居場所がなく、家畜小屋で誕生された。神は居場所を見いだせずに悩む私たちの悲しみ、苦しみを担うために、あえて御子を家畜小屋で生まれさせられた」と語ります。
・その神殿で、イエスの両親は預言者シメオンに出会います。ルカは記します「その時、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた」(2:25-26)。このシメオンがどのような経歴の人であったかは何も記されていません。ただかなり高齢の人であったと思われます。彼は語ります「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。私はこの目であなたの救いを見たからです」(2:29-30)。メシアに出会うことが出来たので、「もう、いつ死んでも良い」と彼は語ります。シメオンは80歳代、あるいは90歳代だったかもしれません。
・老預言者シメオンは、その後、賛歌を歌い始めます。後に「ヌンク・デミティス(「今こそあなたはしもべを去り行かせたもう」)という典礼歌になった歌で、J.S.バッハのカンタータ第82番「我は満ちたれり」はこの時の情景を歌ったものです。第1曲の歌詞は歌います「私は満ち足りています。私は救い主を、敬虔な者たちの希望を、待ち望むこの腕に抱きしめたのです。私は満ち足りていすます。私はあのお方を見たのです。今や私の望みは、今日にでも喜びのうちにこの世を去ることです」。死後の命を信じる者には、死は「恐怖の時」ではなく、「解放の時」になります。しかし現代では新しい死の有様も出ています。12月30日朝日新聞に「ひきこもり29年目、親子の孤立、このままでは共倒れ」という記事が出ていました。「86歳男性の長男は47歳。ひきこもりは1989年から続き、29年目になる。彼は語る『あと3〜4年の命でしょうが、ひきこもりの解決を考えることが使命。できるだけのことをしてあの世にいこうと思っています』」。このような人々にイエスであれば何らかの行動をされるでしょう、私たちはイエスの弟子として何が出来るのかを考えることが、今日シメオンの預言を聞いた私たちの課題です。
・ところで賛歌はその後半で、イエスの十字架を預言しています。イエスはメシアとして生まれられ、「信じる者には救いの石ですが、信じないものにはつまずきの石になる」と彼は語ります。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。あなた自身も剣で心を刺し貫かれます。多くの人の心にある思いがあらわにされるからです。」(2:34-35)。「あなた自身も剣で心を刺し貫かれます」、イエスの母マリアはイエスの十字架刑に立ち会い、わが子が目の前で殺されていくのを目撃します。まさに彼女の心は「剣で刺し貫かれて」いきます。
・現代のクリスマスは、子供たちがプレゼントをもらって喜ぶ日、家族全員でケーキを囲む時、若者たちが聖夜を恋人と過ごす時となっていますが、真実のクリスマスは、「心を剣で刺し貫かれても、主の誕生を喜ぶ」日です。何故ならば十字架という苦難を通して、復活という喜びを待望する時だからです。十字架なしには復活はない、だから私たちは十字架を喜ぶのです。クリスチャン小説家に椎名麟三という人がいますが、彼が洗礼を受けた時、友人の遠藤周作にこう言ったそうです。「これでじたばたして、虚空を掴んで、死にたくない、死にたくないと叫んで死ねるようになった。」キリスト信仰を逆説的に語る言葉です。洗礼を受けて、「死にたくない」と叫ぶ相手ができた、その相手は私の叫びを聞き入れて下さる方だという告白です。椎名麟三は「私の聖書物語」の終わりに書きます「私は死ぬまで生きるだろう。それから後のことは、私は知らない。天国に行くのか、地獄に行くのか、私にはわからない。ただ今の私は十分生きられるようにされているので、死後のことなんか、キリストに任せてしまったのである」。

3.私はこの目であなたの救いを見た

・今日の招詞に使徒言行録2:17を選びました。次のような言葉です。「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る」。イエスの復活後、弟子たちはエルサレムに集まり、「これからどうしたら良いのか」と祈っていました。もうイエスはおられない、自分たちだけではどうしたらよいのか、わからない。その時、ペテロに与えられた幻が招詞の言葉です。この言葉はヨエル書の中にあります。ヨエル書は捕囚から帰還した人々を襲ったいなごと干ばつの災害を前にして、落胆する民に、ヨエルが語った言葉です。ヨエル時代にユダを襲ったいなごの害は史上まれに見る悲惨なものだったと言われています。数億匹のいなごが大量発生し、地上の穀物や木々を手当たり次第に食べ尽くしました。ぶどうの実はもちろん、その樹皮さえも食われ、ぶどうの木は立ち枯れ、もうぶどう酒を作ることもできません。小麦や大麦の畑の実りも食い尽くされ、農夫たちは泣き叫び、人々は絶望の声を上げました。その絶望の中で「主の名を呼び求めよ、主はあなたたちを見捨てられない」とヨエルは預言します。
・初代教会の人々は、自分たちへの聖霊降臨こそが、ヨエルの預言成就だと受け止めました。「イエスが復活された、自分たちに聖霊が下った。今まさに主の日が来ている」との高揚感の中で、ペテロは説教を始めます。使命感にあふれた説教は人々を動かし、その日だけで3千人が受洗したと言われています。ここに夢と幻という言葉が使われていますが、夢とは将来に対する希望です。キング牧師は「私には夢がある」(I have a dream)という説教しました。「いつの日か、白人と黒人の子どもたちが差別なく一緒にテーブルにつくことができる日」を夢見るという説教です。その夢は実現し、黒人のオバマが大統領になりました。ヨエル書で言われている夢は、これと同じで、将来の希望という意味での夢です。
・幻も、幻想という意味ではありません。英語訳聖書はこの幻を、ビジョン(vision)という言葉で訳します。ヨエル書で預言されている事柄も、ビジョン、将来に対する希望です。今、日本の教会は苦難の中にあります。新来者が減り、受洗者も減少し、教会員の高齢化が進み、60歳以上の比率が50%を超えるようになり、教会は将来の絶滅が予想される「限界集落」になったと叫ぶ人もいます。この流れは全世界的であり、人々は神の存在を疑い、宗教的な組織や施設に懐疑的な目を向け、教会の礼拝に参加する人が減少しています。
・それにも関わらず、私たちのバプテスト連盟は15千人の現在会員を抱えており、毎週日曜日にそれだけの人が教会に集まっています。これは驚くべき出来事です。また世論調査等によれば、キリスト教を信じている人は0.9%ですが、キリスト教に親しみを感じる人は12.5%、聖書を読む人は26.4%、聖的な存在や霊的な存在を信じる人は26%います。福音を人々は求めており、求めている人たちをいかに教会に招くかを考える時であります。「若者は幻を見、老人は夢を見る」、今、教会に必要なものはまさに、「夢」と「幻」なのです。私たちが夢と幻を持ち、「この目であなたの救いを見た」という確信を持てば、神は必要な方をお与え下さり、教会は再生します。今年最後の礼拝でそのことを思い起こし、新しい年、再生の時を待望します。


カテゴリー: - admin @ 08時11分31秒

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