1.結婚をどう理解すべきか
・コリント人への手紙を読んでおります。この手紙では教会の中に起きる様々な問題についてパウロが助言する形で、論議が進んでいきます。7章の主題は「結婚をどう考えるか」です。教会のあるコリントは人口60万人を抱える当時の世界有数の大都市であり、また歓楽の都、虚栄の市と呼ばれたように、あらゆる性的な不倫が蔓延していた都市でした。ですから、教会の中に誘惑に負けて不品行(ポルネイア)に陥る人も出て、その反動もあって、一部の教会員は「キリスト者は当然独身を保つべきであり、既婚者も性的交わりを一切断つべきではないか」と主張する人々が出たようです。そのため、教会の執事たちが「結婚と性について」パウロに相談した。それに対するパウロの回答がコリント7章です。
・パウロは語ります「そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい」(7:1)。独身である方が良いというのが、パウロの基本的な考え方です。パウロは7節でも語ります「私としては、皆が私のように独りでいてほしい」(7:7a)。しかしパウロは自分の生き方を強制しません「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」(7:7b)。パウロは独身でしたが、ペテロには妻がいました(9:5)。パウロはそれを批判しません。「人によって生き方が違う」からです。パウロは語ります「みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい」(7:2)。そして夫婦の性的交わりを肯定します「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。妻は自分の体を意のままにする権利を持たず、夫がそれを持っています。同じように、夫も自分の体を意のままにする権利を持たず、妻がそれを持っているのです。互いに相手を拒んではいけません」(7:3-4)。
・一見すると、パウロは結婚をやむをえないもの、欲望を抑制するための手段と考えているように見えますが、真意は異なります。結婚により相手に束縛され、信仰生活がおろそかになる場合が多いことを懸念して語っているのです「独身の男は、どうすれば主に喜ばれるかと主のことに心を遣いますが、結婚している男は、どうすれば妻に喜ばれるかと世の事に心を遣い、心が二つに分かれてしまいます。独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして主のことに心を遣いますが、結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと世の事に心を遣います」(7:32-34)。パウロの結婚に関する考え方の根底には強い終末観があります。彼は手紙の中で「今危機が迫っている」(7:26)、「定められた時は迫っている」(7:29)と語ります。終末、キリスト再臨の時が迫っている今は、非常時であり、できるだけ身軽になるべき時だと彼は理解しているのです。
・終末を前に私たちはどのような生き方をすべきか。日本では先の戦争で多くの若者たちが命を失いましたが、周りの人たちは若者たちが出征する前に結婚するように勧めました。その結果、多くの若い婦人たちが戦争未亡人として残されました。出征前に結婚させてあげたいという周囲の善意が多くの不幸を生み出したのです。パウロに従えば、死の可能性が身近に迫っている兵士たちは結婚しないほうが良いという判断になります。難しい問題です。
・カトリック教会では、コリント7章等を基準にして、「信徒は結婚しても良いが、聖職者は結婚せず、終生独身を守る」ように制度化しました。その結果、聖職者の中には関心が同性愛の方向に赴き、少年に対する性的虐待事件が発生するという結果を招いています。バチカンの発表によればこの10年間で2500人の聖職者が処分を受けたそうです。パウロが言うように「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらない」(7:5)事態になったのです。パウロは人の弱さを知っているのです。自分自身の弱さを知ったルターは独身の誓いを大胆に破り、同じ誓を立てた修道女と結婚し、愛すべき家庭を造りました。神は人を男と女に造られ、人は男女の性的交わりを通して命を継承するように造られました。結婚は神が与えられた祝福です。イエスは言われました「天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である」(マルコ10:6-8)。パウロは決して自然の摂理に反するような独身生活を求めているのではなく、「キリストのために独身となる者はなってほしい、しかし難しければ結婚しなさい」と勧めます。
2.未信者との結婚をどう考えるか
・8節以降で未婚者と寡婦の結婚について語った後、12節からパウロは「キリスト者でない配偶者との結婚生活をどう考えるべきかについて」助言します。彼は語ります「ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない」(7:12-13)。当時のコリント教会には100人位の教会員がいたのかもしれません。しかし60万人の中の100人ですから、結婚相手は多くの場合、「信徒でない」異教徒でした。もしパウロが教条主義者であれば、未信者あるいは異教徒との結婚に反対し、これを排斥するでしょう。しかしパウロの考え方は柔軟です。たとえ相手が未信者であっても、相手が結婚生活の継続を望むのであれば、継続しなさいと語ります。何故か、それは信徒の生活を見て、相手がキリストの福音に救いを見出す可能性があるからです。パウロは語ります「なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです」(7:14)。聖なる者になる=教会に繫がる者となるという意味です。しかし、「信者でない相手が離れていくなら、去るに任せなさい」(7:15)。
・このパウロの教えは日本のキリスト者にとっては大事な教えです。何故ならば、日本でもキリスト者は少数に留まり、多くの場合、結婚は非キリスト者との結婚になるからです。 玉川キリスト教会の福井誠牧師は語ります「クリスチャンである人がクリスチャンでない人と結婚するのは大変なことだ。価値観が違い、ライフスタイルが違う。非信者の人は週5日働き、週末は休みだから家族とどこかに出かけようと考える。クリスチャンは日曜日に教会に行き、礼拝を持って新しい一週を始めようとする。そうなると、結婚生活の故に信仰を持って生きていくのが難しくなる」(聖書1日1章から)。このことに関してカルヴァンは語っているそうです「一方の信仰が結婚を清める力は、他方の不信仰が結婚を汚す力をはるかに圧倒する」(加藤常昭注解から)。ペテロの手紙の著者は語ります「妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです」(1ペテロ3:1)。「結婚も主のため」と聖書は語ります。
3.置かれた場所で咲きなさい
・今日の招詞に1コリント7:17を選びました。次のような言葉です「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召されたときの身分のままで歩みなさい。これは、すべての教会で私が命じていることです」(7:17)。コリント7章はパウロの結婚に対する教えが展開されています。彼は第一に結婚を神が定められたものとして尊重します。これはイエスの教えを継承したものです(マルコ10:6)。その結婚は教会の中で祝福され、故に結婚した者たちは自然の秩序の中で性的交わりを行い、新しい生命を生み出すべきだとします。他方、パウロは未婚者には「独身である」ことを勧めます。彼は「結婚しても良いが、結婚しない方がさらに良い」と繰り返します(7:26、38、40)。それは結婚することにより、人の関心が神ではなく、相手を含めた世に移るからです。しかし同時に、「情欲に身を焦がす」(7:9)よりは結婚することを勧めます。独身であることは強制ではなく、自由意志です。それを強制にした時、そこにサタンの誘惑が入り込みます。
・パウロの結婚観の背景にあるのは強い終末観です。彼は自分が生きている間に終末が来る、その時天変地異等の非常事態が起こると考えています。その非常時を前に、キリスト者は世との繫がりを相対化すべきであると考えています。「兄弟たち、私はこう言いたい。定められた時は迫っています。今からは、妻のある人はない人のように、泣く人は泣かない人のように、喜ぶ人は喜ばない人のように、物を買う人は持たない人のように、世の事にかかわっている人は、かかわりのない人のようにすべきです。この世の有様は過ぎ去るからです」(7:29-31)。初代教会の人々は強い終末観の下に生きていました。世の終わりは近い、キリストがやがて来られる、その時に生き方は切迫したものになります。非常時を生きているとの認識です。
・パウロのような終末観、あるいは戦時中の兵士のような切迫感は、現在の私たちにはありません。私たちは「明日は来る」と考えています。多分来るでしょう。しかし、明日の来ない日が私たちにも訪れます。死の時です。そのことを忘れるな、とパウロは語ります。個々人で考えた時、つまり「死を前にして」今をどう生きるかを考えた時、パウロの危機意識は私たちと同じものになります。パウロが勧めるのは人生の出来事の相対化です。死を前にすれば、「どのような学校に入るか」、「会社の中でどうすれば上に立てるか」、「どのような人と結婚するのか」は、絶対的な出来事ではなくなります。絶対的なことは「与えられた生命を、与えられた場で、一生懸命に生きる」ことです。ですから、招詞の言葉のような生き方、「おのおの主から分け与えられた分に応じ、それぞれ神に召された時の身分のままで歩みなさい」になるのです。
・この言葉を言い換えたものが、渡辺和子「置かれた場所で咲きなさい」という言葉です。彼女の著書はベストセラーになりました。彼女が著書の中で語るのは「置かれたところこそが、今のあなたの居場所・・・どうしても咲けない時もあります。雨風が強い時、日照り続きで咲けない日、そんな時には無理に咲かなくてもいい。その代わりに、根を下へ下へと降ろして、根を張るのです。次に咲く花が、より大きく、美しいものとなるために。現実が変わらないなら、悩みに対する心の持ちようを変えてみる・・・心に開いた穴からこれまで見えなかったものが見えてくる。希望には叶わないものもあるが、大切なのは希望を持ち続けることです」と。渡辺和子さんの言葉の原典はアメリカの神学者ラインホルド・ニーバの祈りだと言われています。最後に彼の原詩を読んでみます「神が置いて下さった所で咲きなさい。仕方ないとあきらめてではなく、咲くのです。咲くということは、自分が幸せに生き、他人も幸せにすることです。咲くということは、周囲の人々に、あなたの笑顔が、私は幸せなのだということを、示して生きることなのです。神がここに置いて下さった。それは素晴らしいことであり、ありがたいことだと、あなたのすべてが、語っていることなのです。置かれている所で精一杯咲くと、それがいつしか花を美しくするのです。神が置いて下さった所で咲きなさい」。
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