すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.マリアに臨んだ困難

・クリスマス礼拝の時を迎えました。与えられました聖書箇所はルカ1:26-38、受胎告知と呼ばれる箇所です。受胎告知と言いますと、私たちはレオナルド・ダ・ヴィンチの描いた「受胎告知」を思い浮かべます。神の子を宿す聖なる器として選ばれたことを告げる天使ガブリエルと、それを静かに受けるマリアの穏やかな表情が印象的な絵画です。しかし実際の受胎告知はそのようなロマンチックなものではありません。それはマリアの言葉に表れています「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。口語訳では「私にはまだ夫がありませんのに」とあります。女性にとって子を産むことは祝福ですが、それは夫があり家族がある時の話です。夫なしに子を生むことは様々な社会的困難を招きます。これが本当に祝福なのか、何故神はこのような形で御子を世に送ることを決断されたのか、今日はルカ1章の受胎告知の物語を通して、御言葉を聞いていきます。
・ルカは天使ガブリエルがナザレという村のマリアのもとを訪れて「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」(1:28)と言う挨拶をしたところから物語を始めます。天使(ギリシャ語anggeros"、英語Angel)とは告知者という意味です。神の言葉を伝える者がマリアに現れた。マリアは驚きます「何がおめでとうなのか、何が起こっているのか」わからないからです。その彼女にガブリエルは伝えます「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい」。イエス、へブル語ではヨシア=神は救いと言う意味です。末常喜愛君と同じヨシアです。マリアはヨセフと婚約していますが、まだ結婚はしていません。その未婚のマリアに「あなたは身ごもって男の子を産む」と告げられます。マリアはこの知らせを聞いて喜ぶ以上に困ったと思います。
・婚約中の女性が婚約相手以外の子を産む、それは人の眼からみれば不倫を犯したことになります。現に婚約者ヨセフもそう思い、マリアを密かに離別しようとします(マタイ1:18-19)。彼女は戸惑い、抗議します「どうして、そのようなことがありえましょうか。私は男の人を知りませんのに」(1:34)。先に見ましたように「私にはまだ夫がありませんのに」の方が適切な訳でしょう。夫なしに子を産む、社会の差別と偏見の中で身ごもることは現在でも大変なことですが、当時はもっと大変でした。当時の律法は不倫を犯した者は石打の刑にすると定めていました(申命記22:23-24)。
・天使は答えます「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる・・・神に出来ないことは何一つない」(1:35-37)。神に出来ないことは一つもない、そういわれても困ります。マリアも困ったと思います。しかし彼女はためらいながらも答えます「私は主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」(1:38)。この1:38を英語訳聖書(NKJ)は次のように訳します「Behold the maidservant of the Lord! Let it be to me according to your word」。 Let it be=御心のままに、「何故私にこのようなことが起こるのか私にはわかりません。わかりませんが、あなたがそう言われるのであれば受入れます」とマリアは答えます。

2.Let it be

・Let it be=御心のままに、皆さんはこの「Let it be」と言う言葉を聞いて何を思い出されますか。ビートルズのポール・マッカートニーが創った「Let it be」という曲があります。「Let it be」の最初の歌詞は次のようになっています「When I find myself in times of trouble Mother Mary comes to me Speaking words of wisdom Let it be. And in my hour of darkness She is standing right it front of me Speaking words of wisdom Let it be.」日本語に訳すと次のようになります「悩み苦しんでにいる時、母マリアが現れて、智慧の言葉を話してくれた『御心のままに』、暗闇でさまよっている時、彼女が私の前に現れて、智慧の言葉を話してくれた『御心のままに』」。
・母マリアとはもちろん聖母マリアです。同時にポール・マッカートニーの母親の名前はマリア(メアリー)であり、熱心なカトリック教徒でポール自身もカトリックの洗礼を受けています。ポールがこの曲を書いた時、ビートルズは解散の危機にありました。ポールとジョン・レノンの考え方の違いからもう一緒にはやっていけないのではないかと双方が思い始めていた時です。その中で「御心のままに」とポールは歌います。Let it beを「なるがままに」と訳すれば希望を失った人の言葉です。「御心のままに」と訳した時、この歌の本当の姿が見えてくるような気がします。この歌は信仰告白の歌、讃美歌ではないかと思います。
・聖書の中で「Let it be」と言う言葉が響くもう一つの場面があります。今日の招詞として選びましたルカ22:42の言葉です。次のような言葉です「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。イエスが十字架につけられる前日にゲッセマネの園で祈られた言葉です。神はイエスに十字架で死ぬことを求めておられました。しかし、イエスは33歳、若い肉体は生きることを欲しています。また十字架に死ぬことが本当に必要なのか、生きていてこそ神の子としての働きがあるのではないかとイエスは思われたかもしれません。イエスは「御心なら、この杯を取りのけて下さい」と求められますが、最後には、「御心のままに=Let it be」と祈られます。

3.御心のままに

・今、私たちは水曜日の祈祷会でマルコ福音書を読んでおります。先週はマルコ5章後半「ヤイロの娘の癒し」の話を読みました。会堂長のヤイロが来て、イエスにひれ伏して願います「私の幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」(マルコ5:22-23)。イエスは会堂長の家に向かわれますが、使いが来て娘は亡くなったと伝えます。肩を落とすヤイロにイエスは言われます「恐れることはない。ただ信じなさい」(マルコ5:36)。娘は死んだのではない、眠っているだけだ。イエスは死んだ娘の手を取り「タリタ・クミ(子よ起きなさい)」と言われます。娘は生き返り、一同は喜びに包まれます。この物語は多くの人に影響を与えました。明治の信仰者、内村鑑三もその一人でした。彼の娘ルツは17歳の時に重い病気に罹り、内村は必死に祈ります。それにもかかわらずルツは死にました。
・その時の心境を内村は次のように語ります「私の耳に響きしはただイエスの言葉であった。『恐るるなかれ、ただ信ぜよ』と。されど私の信仰はついに無効に帰した。私は非常に失望した・・・私の信仰は根底より揺るぎだした。私は暗黒の淵へと投げ込まれた」。しかしやがて彼は新しい信仰に包まれます「私の娘の場合においても、私の祈祷が聞かれなかったのではない。聞かれつつあるのである。終わりの日において、イエスがすべて彼を信ずる者をよみがえらしたもう時に、彼は私の娘に向かっても、「タリタ・クミ」と言いたもうのである。・・・われらにヤイロ以上の信仰がなくてはならない。すなわちわが娘は癒さるるも癒されざるも、最後の癒し、すなわち救いを信じ、感謝してその日を待たねばならない。われら、愛する者の死に面してこの信仰をいだくははなはだ難くある。されども神はわれらの信なきをあわれみたもう。『主よ、信なきを助けたまえ』との祈りにこたえたもう」(内村鑑三聖書注解全集第十五巻ガリラヤの道三十六「ヤイロの娘より」)。
・マリアに与えられた道は困難な道でした。しかし、戸惑いながらも彼女は答えます「御心のままに」。婚約者ヨセフは当初マリアを離別しようと思いますが、マリアの罪ではないことを知り、やがて彼女を妻として受け入れ、子イエスを自分の息子として認知します。ルカ1章後半に「マリアの賛歌」がありますが、その47-48節で彼女は歌います「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです」。岩波訳聖書で佐藤研氏はそれを次のように訳します「私の心は私の救い主なる神を喜びます。そのはしための悲惨を顧みて下さったからです」。「はしための悲惨を顧みて下さった」、婚約者ヨセフが受入れてくれた喜びをマリアは歌ったと佐藤氏はここに見ます。
・イエスは不安のうちに十字架につかれます。ですからイエスは十字架上で神に叫びます「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか)」。しかし神は見捨てずイエスを復活させられました。内村鑑三は祈りが聞かれず、子のルツは死にました。しかしその死を通して内村は復活信仰に導かれます。神は私たちの「御手に委ねます」との祈りに答えてくださるのです。
・私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止めていった時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる経験を私たちはします。「御心のままに」とは、幸福も不幸も神の摂理(計画)の中にあることを信じて、その現実を受入れることです。救いはそこから始まります。竹森満佐一と言う説教者はこの箇所に関して次のように言います「重荷でしかなかったものから、神の恵みを知ったという人はいくらでもあります。治らない病気、解決のつかない問題、そういうものから、神の恵みを知った人は少なくありません。そこまでいかないと、実は真の解決が得られないのです。全てを神に委ねて、どのことも神が人間に恵みを与えて下さる手段であった、ということに気が付くまでは、救いはありません」(竹森満佐一講解説教「降誕・復活」P90から)。
・「思いどおりにならないことは世の常であり、最善を尽くしても惨憺たる結果を招くこともある。最善を尽くすことと、その結果とはまた別な次元のことである。しかし、最善を尽くさなくては、素晴らしい一日をもたらすことはない」(飯嶋和一著「出星前夜」p212から)。まさにその通りで、「神は・・・苦悩の中で耳を開いてくださる」(ヨブ36:15)方なのです。「御心のままに」、今日はこの言葉を福音として共に聞きたいと願います。


カテゴリー: - admin @ 08時43分03秒

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