すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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04 29

1.偶像に供えられた肉を食べても良いのか

・復活節第四主日を迎えています。復活節の中で、私たちはルカ福音書を読んできました。ルカは弟子たちに現れたキリストが「あなたがたは私の復活の証人となれ」と命じられて、昇天されて行ったと伝えます。弟子たちはその命を受けて宣教を始めました。弟子たちの最初の宣教の言葉は「神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です」(使徒言行録2:32)というものでした。証人となっていく弟子たちの業が始まったのです。そしてエルサレムに教会が形成され、福音はやがて異邦世界にも広がり、コリントにも教会が立てられていきました。そのコリントで律法の食物規定を守るべきかどうかが問題になりました。今日は、この問題を通して、異教世界の中でキリスト者として生きることの意味を共に考えてみたいと思います。
・ユダヤ人は律法の規定により、豚肉や異教の神殿に捧げられた犠牲の動物の肉等は汚れたものとして食べることを禁じられていました。最初の教会はエルサレムに立てられ、構成員はほとんどユダヤ人でしたので、この食物規定は、特に大きな問題にはなりませんでした。ところが、教会がギリシャ・ローマ世界に広がるにつれて、神殿に捧げられた肉を食べてもよいのかどうかが、教会を二分する問題になっていきます。何故ならば、ローマ帝国内の諸都市で、市場に出回っていた肉のほとんどは異教の神殿に捧げられた動物の肉であり、その肉を食べることは異教の礼拝に参加することになるのではないかとの疑問が生じたからです。
・同じ問題を、私たち日本の教会も抱えています。日本は人口の99%が非クリスチャンで、かつ神社や仏閣が方々にある、多神教の世界です。その中で、聖書の信仰を守ろうとする時、いろいろな問題が生じてきます。教会でバプテスマを受けた人は、親から継承した位牌や仏壇をどうすればよいのか、葬儀に参加する時に焼香や合掌という儀式にどう対応するのか、日曜日に子どもたちの運動会や授業参観があれば礼拝を休んでもよいのか等々の問題を抱えこみます。私たちがこの日本でクリスチャンになる、キリスト者として生活するために、社会とどのように折り合いをつけていけばよいのでしょうか。
・前述のように、ユダヤ教社会では、偶像に捧げられた肉を食べることは罪とされていました。エルサレム使徒会議でもこの問題が議論され、神殿に捧げられた肉は異邦人も食べてはいけないと決められました(使徒言行録15:28-29)。またヨハネ黙示録では「偶像に捧げられた肉を食べる」ことは、「みだらな行為」と同じように、恥ずべき行為であるとされています(ヨハネ黙示録2:14,20)。「偶像に捧げられた肉を食べる」ことは、偶像礼拝であるとされたのです。ここで問題がおきます。コリントには多くのギリシャやローマの神々を祭った神殿があり、人々は結婚式や誕生日のお祝い等を神殿で行い、付属の飲食施設で酒食が振舞われるのが日常でした。上流階級の人々は、そのような食事に招待されることがしばしばありました。そのような時、キリスト者は信仰のゆえに招待を断るべきか、しかし断れば、社会生活から締め出されてしまうという問題に直面しました。
・教会の中の裕福な人たちは、問題を解決するために、自由を主張しました。彼らは言います「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」、つまり偶像などないのだから、「神殿にささげられた肉を食べてもなんら汚れない」(〓コリント8:4)と。パウロも「その通り、食べてもかまわない」とコリント教会に回答します。しかし同時に、「食べることを罪だと考える人がいることをどう思うか」と問いかけます。「ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです」(同8:7)。ここにおいて、問題は、「偶像に捧げられた肉を食べることが良いのかどうか」という教理上の問題から、「それを罪だと思う人にどう配慮するのか」という、牧会上の問題になっていきます。パウロは言います「私たちを神のもとに導くのは、食物ではありません。・・・あなたがたのこの自由な態度が、弱い人々を罪に誘うことにならないように、気をつけなさい。知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」(8:8-10)。

2.信仰の本質にかかわる問題では譲歩しない

・当時のコリント教会の構成員のほとんどは、異教礼拝からの改宗者でした。彼らは神殿での飲食を通して、また偶像礼拝に戻ってしまうかもしれない。福音から離れれば死ぬ。パウロは言います「あなたの知識によって、弱い人が滅びてしまいます。その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。あなたがたが、兄弟たちに対して罪を犯し、彼らの弱い良心を傷つけるのは、キリストに対して罪を犯すことなのです」(8:11-12)。「キリストがあなたのために死んでくださったのに、あなたは信仰の弱い人々のために、自分の食事さえも変えるのはいやだというのですか」とパウロは問いかけます。「食べることが正しいのかではなく、食べることによってつまずく人がいてもなお食べるのか」が議論されています。答えは明らかです。パウロは言います「食物のことが私の兄弟をつまずかせるくらいなら、兄弟をつまずかせないために、私は今後決して肉を口にしません」(8:13)。
・偶像に捧げられた肉を食べることは、信仰の本質に関わる問題ではありません。偶像の神などいないからです。しかし、食べることによって、つまずく人がいるのに食べるのは、信仰の本質に関わる問題です。他者の救いを閉ざす行為だからです。日本のキリシタン禁制時代に用いられた踏み絵を踏むかどうかも、同じ問題を抱えています。踏み絵そのものは板に聖母子を描いたメダルを組み込んだもので、それ自体何の意味もありません。しかし、踏み絵を踏んだ人々の信仰は崩れました。それは人の前で、最も大事に思うものを踏みつけにする、つまり自己の信仰告白を偽りと表明する行為だったからです。踏み絵を踏むかどうかは、信仰の本質に関わる問題だったのです。私たちが行為する時に、それが信仰の本質に関わる問題かどうかを判別する知恵が求められます。

3.愛は正義を超える

・今日の招詞に〓コリント10:23-24を選びました。次のような言葉です「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない。だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」。
・パウロは偶像に捧げられた肉を食べることの議論を9章、10章でも、続けます。大事な問題だからです。パウロの態度ははっきりしています「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」(10:25)。何でも食べてもよいが、誰かが「これは偶像に供えられた肉だ」と言う場合は、その人の良心のために、食べることを止めなさいと勧めます。その人がつまずくことを避けるためです。そして招詞の言葉が来ます「すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが益になるわけではない。すべてのことが許されている。しかし、すべてのことが私たちを造り上げるわけではない」。人のつまずきとなる行為は止めなさい。他者のために自分の自由を放棄することこそが、本当の自由なのだと彼は言っているのです。
・ここにおいて、キリスト者の生活の基本が何かが明らかになってきます。「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」(8:1)。知識ではなく愛が、キリスト者の生活の指針になるのです。不倫が何故いけないか、それは人を傷つけるからです。不倫は当事者の満足のために、お互いの配偶者を傷つける行為です。人は幸福を他者の不幸の上に築いてはいけない、それは道徳の問題ではなく、信仰の問題です。また、日本の教会には禁酒禁煙の伝統がありますが、これは信仰の問題ではなく、個人の嗜好の問題です。飲んでもよい、しかし、お酒を飲むことにつまずく人がいれば飲まないという姿勢が必要です。ですから、教会の会合においては、アルコールは出しません。位牌や仏壇はどうするのか、葬儀における焼香をどうするのかも、自分の正しさではなく、人を傷つけることのない方法を選ぶべきです。日曜日に子どもたちの運動会や授業参観がある時、礼拝を休むこともやむをえないと思います。子どもたちが傷つくことを避けるためです。その代わり、夜自宅で家庭礼拝を持つことで、主日礼拝を守ればよいと思います。
・私たちの信仰は、私たちの生活を規定します。生活が信仰をいただく前と変わらないのであれば、私たちには信仰はないと思うべきです。行為が人を救うわけではありません。しかし、信仰は行為を導くのです。キリストが私たちのために死んでくださったのだから、私たちもキリストのために死ぬ、具体的には他者との愛の中に生きます。それは抽象論ではありません。具体的な生活の中で実践されるべきことです。パウロは言います「あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」(10:31)。信仰は飲み食いをも規定するのです。キリスト者は全ての事に自由です。何をしても良い。しかし、その自由はキリストの十字架の犠牲を通して与えられました。そのキリストは他者のためにも死なれた。ですから、他者への愛が自由を制限します。「知識は人を誇らせるが、愛は人を形成する」、そのことを強く覚えたいと願います。


カテゴリー: - admin @ 08時57分03秒

04 22

1.信じない弟子たちのために三度現われるイエス

・復活節の今、私たちは、ルカの記すイースターの日の出来事を学んでいます。その日の朝、イエスの遺体を清めるために墓に向かった女性たちは、イエスの墓が空であるのを発見しました。その時、天使が現れ、「イエスはここにおられない。復活された」と告げられ、弟子たちのところに急ぎます。しかし、弟子たちは信じませんでした。その日の午後、エマオに向かう二人の弟子たちにもイエスが現れましたが、二人の心の目は閉じて、イエスとわかりませんでした。しかし、イエスがパンを取り、祝福して裂かれた時、目が開け、二人はイエスが生きておられるのを知り、急いでエルサレムに戻ります。その日の夜、イエスはみたび弟子たちの前に現れます。今日はルカ24章後半を通して、イースターの夜の出来事を聴いていきます。
・夜遅く、クレオパたちがエマオからエルサレムに戻った時、11人とその仲間の弟子たちは集まって、「イエスがペテロに現れた」と話していました。そこにクレオパからも「私たちもイエスに出会った」という報告があり、弟子たちの興奮はいやがうえにも高まっていました。その時、イエスご自身が彼らの前に現れました。弟子たちは呆然としてイエスを見つめます。ルカは「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」と記します。ペテロは「主に出会った」と報告し、クレオパも同じ報告をしていますのに、今、イエスが目の前に来られると、「彼らは恐れおののきます」。復活とはそれほどに信じるのが難しい出来事なのです。
・イエスは弟子たちに言われます「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、私にはそれがある」(24:38-39)。今、目の前におられるイエスの手と足には、十字架に打ち付けられた時の釘の跡がありました。その釘跡を見よとイエスは言われます。さらには、自分が亡霊でないことを示すために、弟子たちと共に食事まで取られます。ここに至って初めて、弟子たちは、このお方が十字架に死なれたナザレのイエスであることがわかり、喜びに包まれます。
・ナザレのイエスこそが、よみがえられたキリストであるとルカは主張します。これはとても大事なことを私たちに教えます。この方は生前、罪人として社会から排除されていた徴税人やライ病者に近づいていかれ、「あなた方の苦しみを私は知っている」と言われた方です。この方は、十字架につけられた時、一言も相手をののしることなく、自分を殺そうとする者の許しを祈られた方です。この方は、自分を見捨てた弟子たちのために、何度もその復活の身体を見せてくださった方です。この方が私たちの主なのです。ですから、私たちも人に裏切られても絶望せず、人が評価しなくともやるべきことを行っていくのです。ナザレのキリストがそうされたからです。
・マザーテレサの次の言葉は私たちの心を打ちます。「人は不合理、非論理的、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと思われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの最良のものを、世に与えなさい。けり返されるかもしれません。でも、気にすることなく、最良のものを与え続けなさい」(マザーテレサ 愛の花束から)。ナザレのキリストがそうされたから、私たちもそうする。マザーの言葉にはその精神がみなぎっています。

2.私たちの復活のキリストとの出会い

・ルカ24章の記事はヨハネが伝えるイエスの顕現記事と密接に関係しています。おそらく同じ体験を別の視点から述べたものです。ルカの記事をより理解するために、ヨハネ20章の記述を見てみたいと思います。ヨハネは、「その日、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(20:19)と記述します。弟子たちは「この人こそ」と信じたイエスが十字架で死なれたことに失望し、生きる目標を失くして、打ち沈んで家に閉じこもっていました。彼らは、イエスのために死ぬ覚悟を決めていましたが、実際には怖くなって逃げ、今は、イエスを捕らえた勢力が自分たちも捕らえるのではないかと恐れて、家の戸に鍵をかけていたのです。
・その弟子たちにイエスが現れ、ご自分の手とわき腹をお見せになりました。そこには十字架につけられた時の釘穴と、刺された時の槍の跡が明白に残っていました。弟子たちはその傷を見て、ここにおられる方が、十字架で死なれたイエスであることを信じることが出来、喜びに包まれます(20:20)。しかし、その時、弟子の一人、トマスはいませんでした。他の弟子たちが「私たちは主を見た」と言ってもトマスは信じません。彼は言います「あの方の手に釘の跡を見、この指を釘跡に入れてみなければ、また、この手をそのわき腹に入れてみなければ、私は決して信じない」(20:25)。その彼のためにイエスが再び体を示される出来事が起こります。復活から8日目にイエスは再び現われ、トマスを見つめて言われます「あなたの指をここに当てて、私の手を見なさい。また、あなたの手を伸ばし、私のわき腹に入れなさい」(20:27)。
・トマスは何故、信じることが出来なかったのでしょうか。イエスは弟子たちの群れに現れましたが、彼はその時、群れにいませんでした。だから復活のイエスに出会えなかった。しかし、トマスはその群れに帰って来ました。帰ってみると、他の弟子たちは「私たちは主を見た」と喜び沸き立っています。彼は自分一人が取り残されていることに腹を立てますが、それでも群れを離れませんでした。だから、イエスが再度現れた時、トマスはイエスに出会い、その出会いが彼に命と力を与えるようになります。人は一人では信仰をまっとうすることはできないことをヨハネは私たちに教えます。復活のイエスは最初に婦人たちに現れました。次にはエマオに急ぐ弟子たちに現れました。最後に11人の弟子たちに現れました。いずれも複数の人です。救いは、「私ではなく、私たち」に与えられます。私たちは教会を通して、復活の主に出会うのです。言い換えれば、教会を離れたら、私たちは復活の主に出会うことはなくなるのです。ここに教会の意味があります。

3.弟子としての派遣

・今日の招詞にルカ24:46-48を選びました。次のような言葉です「言われた『次のように書いてある。メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」。
・弟子たちが復活を信じたのは、復活のキリストと出会ったからです。私たちが復活を信じることができるとしたら、それは私たちも復活のキリストに出会った時、復活が自分の出来事になった時です。その時、私たちはもはや死を恐れる必要はなくなり、死の縄目から解放されます。死が終わりではないから、現在を大事にする生き方ができるようになります。死に勝たれた方がおられるから、現在がどのように暗く、出口が見えないとしても、希望を失わずに生きていくことが可能になります。復活の希望こそ、人生を真の人生とします。
・教会はこの復活信仰の上に立てられています。私たちは日曜日を「主の日」と呼び、礼拝を守りますが、それは十字架で死なれたイエスが、日曜日に復活されたからです。私たちは日曜日ごとに復活の主に出会うために教会に来ます。その復活されたイエスは、私たちに「証人としてあなたの経験した出来事を伝えなさい」と命じられました。その命令を受けて弟子たちは宣教を始め、教会が立てられて行きました。教会はエルサレムに生まれ、ローマ世界に広がり、ヨーロッパで育ち、アメリカに行き、日本にも伝えられました。アメリカの支援により新小岩の地に教会が立てられ、新小岩教会を母体としてこの篠崎教会が立てられました。篠崎教会が立てられたのは、新小岩教会の人たちが、イエスの宣教命令を自分たちへの言葉として聞いたからです。自分たちだけの信仰生活を守るのであれば、篠崎の地に教会を立てる必要などありません。そうではなく、篠崎の人々にイエスの言葉を伝えるために、新小岩教会の人々は財政的、人的な重荷を自ら背負って、この地に教会を立てました。
・私たちはこの宣教命令をどのように聞くのでしょうか。私たちが自分の信仰生活を守るだけであれば、ここに教会がある必要はありません。今、多くの人が小さい教会を離れて大きな教会に移動しています。大きな教会は教会員がたくさんいるから献金負担も軽いし、奉仕も誰かがしてくれる、重荷を担わなくとも教会生活ができるからです。それに対し、小さい教会の場合は、教会員が少ないから一人一人への負担が経済的にも、また奉仕の面でも重くなります。私たちがただ礼拝を守りたいだけであれば、この教会は不要です。近くに他の教会もある、無理して篠崎教会を維持する必要はない。そうではなく、この地域の人に伝道することが教会の使命であり、それが復活の主が命じられたことだと私たちが理解する時だけ、ここに教会が必要となります。だから、私たちは、この教会に、自分の出来る範囲のお金や時間を捧げるのです。この教会でいやなことがあっても、教会から出て行くことをしないのです。
・私たちが重荷を背負わない限り、復活の主と出会うことはないでしょう。何故なら主自ら重荷を負われたからです。私たちが、自己の救いを、あるいは自己の満たしを求めて、この教会に来ても、復活の主との出会いはないでしょう。主は「この最も小さい者の一人にしなかったのは、私にしてくれなかったことなのである」(マタイ25:45)と言われる方だからです。救いは個人の出来事ではなく、共同体の出来事です。だから私たちはここに教会を立て、この教会を通して、復活のキリストと出会うことを共に覚えたいと願います。


カテゴリー: - admin @ 15時21分40秒

04 15

1.目がふさがれてイエスが見えない弟子たち

・先週、私たちは、ルカ24章前半から、イースターのメッセージを聞きました。イエスの遺体に香料を塗るために墓に急いだ婦人たちが見たものは、墓の石が取り去られ、イエスの遺体がなくなっているという現実でした。その現実に戸惑う婦人たちに、「イエスはここにおられない。復活された。何故生きている方を死者の中に探すのか」という天使の言葉が与えられました。「イエスは復活された」、「イエスは生きておられる」、婦人たちは喜びの知らせを持って、弟子たちのところに急ぎましたが、弟子たちは信じません。ルカは書きます「使徒たちはこの話がたわ言のように思われたので、婦人たちを信じなかった」(ルカ24:11)。イエスを神の子と信じ、従って来た弟子たちにさえ、復活の知らせはたわ言だったのです。復活は「自らが経験しない限り」、たわ言です。復活がたわ言である時、十字架は惨めな敗北です。ですから、神は復活のイエスとの出会いを計画されます。それが、今日、読みます「エマオ途上のイエスとの出会い」です。
・その日に、イエスが十字架で死なれて三日目のその日、婦人たちがイエスが復活されたとの知らせを弟子たちに伝えたその日です。その日の午後、二人の弟子がエルサレムからエマオに向けて歩いていました。エマオはエルサレムから11キロ離れたところにある村です。二人は村へ向かって歩きながら、エルサレムで起こった出来事について話し合っていました。ルカによれば、クレオパともう一人の人です。彼らは、おそらくエマオの出身で、イエスに従ってエルサレムに行き、そこでイエスが捕らえられ、十字架で殺されるのを目撃しました。彼らは「イエスこそイスラエルを解放して下さると望みをかけていた」とルカは書きます。この方こそ、神からのメシア、イスラエルの解放者だと信じたから、従って行ったのです。しかし、イエスは十字架上で無力に死なれ、神も救いの手を差し伸べることはされなかった。「この人は救い主ではなかった」、彼らは一時の興奮がさめ、今は失望して、自分たちの家に戻ろうとしています。
・その二人にイエスが近づいて来られ、一緒に歩き始められましたが、二人は「目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(24:16)とルカは記します。イエスは二人に「何を話していたのか」と問われました。クレオパが暗い声で答えます「この人こそ救い主と信じて従ってきた方が、十字架で殺され、しかもその遺体さえどこにあるのかわからなくなっているのです」。彼らはイエスと話しているのに、イエスがわかりません。悲しみと失意で心を閉ざしている人には、復活のイエスは見えないのです。彼らは過去にこだわっています。「この人は行いにも言葉にも力があった」、「私たちはこの人に望みをかけていた」、「この人は十字架につけられた」、「それからもう三日がたった」、「婦人たちが墓に行ったが遺体は見つからなかった」、「弟子たちも行ったが、見つからなかった」、全て過去形です。過去にとらわれ、そこから出ることが出来ません。故にイエスは言われます「ああ、物分かりが悪く、心が鈍い者たちよ」と。そして続けられます「メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」(24:26)。

2.イエスがパンを裂かれたときに、弟子たちの目が開けた

・二人の弟子はまだこの人がイエスであることはわかりません。それでも彼らは、旅人の言葉に何かを感じています。だから、エマオについた時、先に行こうとする旅人を引き止めて言います「一緒にお泊まりください。日も傾いていますから」(24:29)。弟子たちが、この人こそイエスなのだとわかったのは、一緒に家に入り、食卓について、イエスがパンを取り、それを祝福された時でした。二人はイエスの弟子として生前のイエスに従っていましたから、イエスが5000人を前にパンを祝福して裂かれ、養われた場にもいたのでしょう。彼らは旅人の様子から、その時のことを思い起こし、この方がイエスであることがわかりました。その時、イエスの姿が見えなくなりました。
・救い主が死んで3日目に復活するということは聖書にも予言され、生前のイエスも弟子たちに繰り返し言われています。しかし、弟子たちは婦人たちの復活証言を聞いても信じませんでした。信じたのは自分自身が復活の主と出会った時でした。人間は自分で見なければ信じることはできないのです。その人間のために、復活のイエスは来てくださいます。パウロも復活の主に出会ったと証言しています。彼はコリント教会への手紙に書きます「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが・・・私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、・・・三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。・・・ 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。」(〓コリ15:3-8)。
・復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであることに注目する必要があります。復活のキリストは信仰がないと見えないのです。エマオに向かう二人の弟子も、自分たちの悲しみで心がふさがれている時にはイエスがわかりませんでした。二人がわかったのは、イエスがパンを裂いて祝福された時、すなわち彼らの信仰の回復をとりなして祈られた時です。二人の弟子は沈んだ心で、エマオに向かっていました。その弟子たちが復活のイエスに出会い、心が燃やされました「道で話しておられる時、また聖書を説明して下さった時、私たちの心は燃えていたではないか」(24:32)。そしてすぐにエルサレムに戻りました。三時間かけて歩いてきた道を、夜遅くにもかかわらず、疲れているにもかかわらず、引き返したのです。自分たちの知った喜びを、他の人たちと語り合わずにはおられなかったからです。悲しみで始まった旅立ちが、喜びと讃美に変わりました。

3.復活とは私たちの人生が無駄でないことを知ること

・今日の招詞に第一コリント15:58を選びました。次のような言葉です「私の愛する兄弟たち、こういうわけですから、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。復活とは再び生きることです。私たちが絶望し、自分の力ではどうしようもなくなったどん底から、神の働きが始まる事を見ることです。その時、死は終わりではなくなります。不慮の事故で死んだ人の過去も無駄ではなく、中絶で闇から闇に葬り去られた胎児の命も無駄ではありません。復活の信仰を持つ者には、失敗の生涯はありません。何故なら、死が終わりではないからです。だからパウロは言うのです「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」。悲しむ人は人生の半分しか見ていません。イエスの十字架を見て「もう終わりだ」と嘆く二人の旅人も、人生の半分しか見ていません。しかし、人生にはもう半分があります。神が私たちを愛し、私たちが絶望の中に苦しむ時に、再び立ち上がることができるように手を貸して下さるという事実です。そのしるしとしてキリストが復活されました。そのことを知った時、私たちは変えられるのです。
・最近、復活を象徴するような出来事がありました。ドレスデン・聖母教会の再建です。第二次大戦末期の1945年2月、ドレスデンはイギリス・アメリカ連合軍による大空襲を受け、町は廃墟となり、数万の人が亡くなりました。この“ドレスデン大空襲”により、市の象徴的建物でした聖母教会は瓦礫と化してしまいました。戦後、ドレスデンは東ドイツに編入され、共産政府は、資本主義国の野蛮さを宣伝する意味合いもあって、教会を瓦礫のままに放置しておきました。1989年11月、ベルリンの壁が開き、東西ドイツの再統一が実現すると、市民の間から、聖母教会再建の声が高まりました。イギリスやポーランドなど海外からも支援の動きがあり、再建が始まります。崩れ落ちた瓦礫の一つ一つに番号をつけてその石材を再利用するという復元を目指して、1991年に教会再建は始まり、13年後の2005年10月に完成しました。総工費250億円のうち、140億円はイギリスその他の国からの寄付でまかなわれました。ドイツは戦争加害者であると同時に、戦争被害者です。イギリスは空爆した加害者でもありますが、戦争で多くの国民が死んでいる被害者でもあります。その被害者と加害者がお金を出し合って、聖母教会を再建したのです。50年間、瓦礫のままに放置されていた教会が、また礼拝のために人々が集まる場所になったのです。これが復活です。神が人々の心を動かして、この教会を再び創られたのです。復活とは単に死んだ人が生き返る、蘇生ではありません。復活は生物学的な現象でもありません。そうではなく、死を超えた命が示される出来事なのです。それは、神がこの世界を支配されておられることを信じるか、どうかという出来事なのです。私たちの人生にとっては、「私はたまたま生まれ、たまたまここにいる」のか、それとも「私の人生には意味があり、私は生かされている」のかの、分かれ道なのです。
・二人の旅人は十字架のあるエルサレムから逃げて来ました。現実から逃げていく時、そこには悲しみしかありません。しかし、その悲しみにイエスが同行されます。そして力を与えられ、彼らはまた、エルサレムに、十字架の待つ危険な場所に喜んで帰って行きます。私たちも、このエマオの弟子たちの経験を自分自身で経験する必要があります。私たちに苦しみや悲しみが与えられているのは、私たちが絶望して自分に死に、そこから神を呼ぶためです。神は呼べば答えて下さる。二人の弟子たちはイエスを引き止めたから、イエスは共にいてくださった。私たちも神の名を呼ぶ時、私たちの目が開けて、イエスが共にいてくださることを知ります。その時、私たちは復活のキリストに出会い、新しい命を受けます。新しい命を受けた者は次の者に命を伝えていきます。そのために、ここに教会が立てられました。


カテゴリー: - admin @ 08時37分07秒

04 08

1.空の墓の前で戸惑う婦人たち

・今日、私たちはイエスの復活をお祝いするために、この教会に集められました。今年のイースターに、私たちは二つの出来事を経験しました。一つは、一人の兄弟がイエス・キリストを救い主と信じる信仰告白をされ、バプテスマを受けて、私たちの仲間に入られたことです。イエスを救い主と告白することは、「イエスは今も生きておられる」ことを信じることであり、バプテスマは復活を自分の出来事として体験することです。まさに、イースターにふさわしい喜びが教会に与えられました。もう一つの出来事は、長い間、私たちと信仰生活を共にされた一家がこの教会を出て、新しい教会生活を始められるという知らせです。残される私たちにとっては、悲しい出来事です。イースターの喜びの時に、うれしい出来事と悲しい出来事が、同時に与えられました。私たちは、この双方の出来事とも神の御旨と信じますが、神が何故、私たちに、このような出来事をお与えになったのか、その意味を知りたいと思います。今日はルカ福音書を共に読みながら、考えて見ます。
・イエスは金曜日の午後3時ごろに十字架で亡くなられたとマルコ福音書は記します。ユダヤの安息日は金曜日の日没から始まります。十字架にかけられた死体は呪われたものであり、そのまま聖なる日(安息日)を迎えることは出来ませんので、イエスの遺体はあわただしく十字架から降ろされ、墓に入れられました。当時は、遺体を洗い香料を塗って葬るのが一般的でしたが、その時間がないままに、とりあえず葬られたのです。イエスの十字架刑を見守っていたのは、ガリラヤからイエスに従って来た婦人たちでした。彼女たちは、愛するイエスが十字架で殺され、しかも十分な清めなしに墓に葬られたのを目撃し、何とかイエスを丁重に葬りたいと願いました。ですからルカは記します「イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」(23:55-56)。翌土曜日は安息日ですので、婦人たちは待機しました。つらい沈黙の一日であったと思われます。男の弟子たちはみな逃げていませんでしたが、婦人たちはイエスのために、待機しました。
・安息日が明けた日曜日の朝早く、まだ暗い中を、婦人たちは香料を持って墓に急ぎました。墓には大きな石のふたがしてあり、番兵もついています。墓に行っても、中に入れるかどうかわかりません。それでも婦人たちは急ぎました。ところが墓に行くと、石のふたは既に開けられてあり、番兵もいず、中には遺体もありませんでした。婦人たちは途方にくれました。彼女たちは愛する者を奪われた悲しみの中で、せめて遺体を洗い清めることによって、愛する者を慰めたいと願って墓に来ましたが、その遺体が見当たらないのです。イエスを十字架にかけたユダヤ当局者が遺体を動かしたのかもしれない、十字架で死なれたことさえ耐えられないのに、遺体さえも侮辱されてしまうかもしれない。婦人たちは困惑し、途方にくれていました。その婦人たちの前に、輝く衣を着た二人が現れました。口語訳聖書ではその場面を次のように表現しています「そのため途方にくれていると、見よ、輝いた衣を着た二人の者が、彼らに現れた」(24:4)。「見よ」、あなたたちの当惑を超えた出来事が今告げられるとルカは言っています。婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言いました「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」(24:5-6)。「イエスは復活された、ここにはおられない」と二人は婦人たちに告げます。婦人たちは何のことかわかりません。二人は続けます「まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」(24:6-7)。
・「婦人たちはイエスの言葉を思い出した」とルカは続けます。空の墓を見て、途方にくれていた婦人たちが「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている」というイエスの言葉を思い起こすことを通して、イエスが復活されたことを今知ったのです。思い起こす、大事な言葉です。講壇から語られる説教も聴くだけでは単なる言葉です。しかし、自分の人生のある時点で、それを思い起こし、それに従って生きてみようと思った時に、人を養う神の言葉になります。イエスの言葉を思い起こした婦人たちは、もはや途方にくれてはいません。喜びにあふれ、この知らせを弟子たちに知らせるために、急ぎました。

2.「しかし、見よ」と言われる主

・しかし、弟子たちは「この話がたわごとのように思えたので信じなかった」とルカは書きます。イエスの復活について、四福音書は共通して、復活を信じることがいかに困難であったかについて伝えています。マルコはイエスの復活を告げ知らされた婦人たちが「震え上がり、正気を失った」と書き(マルコ16:8)、マタイでは、復活のイエスに出会った弟子たちが「疑った」(マタイ28:17)とあり、ヨハネでは、報告を受けたペテロが墓に急ぎますが、イエスの復活を信じなかったとあります(ヨハネ20:10)。復活はその出来事を目撃した人でさえ、信じることが難しい出来事だったのです。
・私たちも、復活のイエスに出会わない限り、復活はただのお話になります。日本基督教団の調べでは、教団所属牧師2700人のうち、約15%は親が牧師、つまり二世牧師だとのことです。それを調査した戒能先生が、国際宗教研究所のシンポジウムでこの話を紹介したところ、他の宗教の方々から「キリスト教は生きているのですね」という感想を聞かされたそうです。他宗教の場合、二世率は100%近く、それさえ充当できなくて困っているのに、キリスト教会においては牧師の子どもでない人が牧師になる比率が85%になることに驚きがあがったということです(福音と世界・2007年4月号から)。生けるキリストに出会わない限り、この世的に割の合わない牧師になる人はいません。今日でも復活のキリストとの出会いは続いているのです。
・今日の招詞にエレミヤ33:3を選びました。今年の主題聖句に選ばれている言葉です。「私を呼べ。私はあなたに答え、あなたの知らない、隠された大いなることを告げ知らせる」。この言葉は、都エルサレムがバビロン軍に包囲され、まさに滅びようとしている、その時に語られたものです。エレミヤは預言者として神の言葉を伝えました「イスラエルは罪を犯したために神の怒りを受けている。バビロンは神の鞭であり、あなたたちはバビロンに降伏し、自らの罪を認め、悔い改めよ」と。敵に降伏せよ、それが救われる道だと説いたのです。イスラエル王ゼデキヤはエレミヤを売国奴と非難し、彼を捕らえ宮殿の獄舎に監禁しました。その獄中のエレミヤに臨んだ言葉が招詞の言葉です。主は言われました「彼らはカルデア人と戦うが、都は死体に溢れるであろう。私が怒りと憤りをもって彼らを打ち殺し、そのあらゆる悪行のゆえに、この都から顔を背けたからだ」(エレミヤ33: 5)。エルサレムは敵に包囲されているが、敵の軍勢は防御網を破って都に侵入し、多くの者が殺され、都は死体であふれる。これは私の怒りのためだ。しかし、あなたたちが悔い改めるならば、そして私の名を呼ぶのであれば、私はあなたたちに答え、あなたたちの知らない、隠された奥義を伝える。その奥義とは「しかし、見よ、私はこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す」(33:6)ことです。
・「しかし、見よ」、イエスの墓の前で戸惑う婦人たちに言われた言葉がここにも響いています。見える現実は何の希望もないかもしれません。エレミヤが置かれた状況は、都を包囲する敵軍がやがて都になだれ込み、多くの市民たちが殺されるであろうという現実です。その現実の中で、「しかし、見よ」といわれます。ルカ24章の婦人たちの置かれた現実は、愛するイエスが十字架で殺され、その遺体さえも無くなっている状況です。そのような状況の中で、「しかし、見よ」と語られます。そして、この言葉を契機に、状況は変わるのです。イスラエルは滅ぼされ、人々はバビロンに捕囚となりましたが、やがて捕囚民を通して新しいイスラエルが立てられました。イエスの墓の前で戸惑う婦人たちは、やがて復活のイエスに出会い、悲しみは喜びとなります。
・私がこの教会に赴任して5年がたちました。過去において不幸な教会分裂があり、多くの信徒が散らされ、10名あまりの残った人々と共に教会再建のために働いてきました。そして、新しい人も与えられ、教会は再建されたと思った矢先に、5年間共に働いて下さった大事な家族を教会は失いました。小さな教会にとっては大きな痛手です。しかし、主はそのような私たちに「しかし、見よ」と言って下さいます。私たちは、この言葉を手がかりに、原点に戻って教会再建をやり直したいと思います。今回の出来事は神の御心だと信じます。神はこの出来事を通して、出て行かれる一家に新しい任務をお与えになると同時に、残された私たちに新しい教会の建設を望まれています。私たちが過去の出来事をあれこれ思い悩むのは、「生きておられる方を死者の中に捜す」行為です。イエスがよみがえられた以上、墓はもういらないのです。私たちが今なすべきことは、一家が新しい使命のために旅立たれることを祝福し、同時に残された私たちが、ここに神の宮を再建することです。神は私たちと共におられる、そのしるしとして、去る人々と同時に、新しい友を教会に与えて下さったのです。十字架で死なれたイエスは死から復活された。神がイエスを復活させて下さった。そして私たちをも復活させて下さる。この信仰がある限り、どのような状況の中でも私たちは立ち上がることが出来ます。それが復活信仰の力です。


カテゴリー: - admin @ 08時57分20秒

04 01

1.自分を救えない救い主

・今日から4月、2007年度が始まります。その新しい年の初めに、私たちは受難日礼拝を持ちます。今年の礼拝が受難日礼拝から始まることに、今年を予感させる何かがあるような気がします。2006年度は概ね順調に物事が進んだ年でした。その反動もあって、2007年度は私たちの教会にとって、多難の年になるかもしれないと思います。しかし、教会が成長するために背負うべき十字架であれば、皆さんと共に背負いたいと思います。十字架こそ私たちの希望であり、十字架無しには復活の栄光はないからです。
・受難日礼拝の今日、私たちはルカ23章から、イエスの十字架物語を読みます。人々はイエスを捕らえ、裁判にかけ、死刑を宣告し、されこうべと呼ばれる刑場まで連れてきました。イエスの手と足には太い釘が打ち込まれ、十字架が立てられました。十字架につけられたイエスを、人々は嘲笑します。ユダヤ議会の指導者たちはあざ笑って言います「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(23:35)。ローマ兵たちもイエスを侮辱します「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」(23:37)。彼らの嘲笑の言葉は同じです「お前は救い主ではないのか。何故自分を救えないのか」。
・イエスは「自分を救えない救い主」と嘲笑されます。人々がイエスに求めたのは、栄光の救い主です。力によって敵を打ち倒し、人々の尊敬と信頼を勝ち取って、自ら道を切り開いていく救い主です。人々は、病人をいやし、悪霊を追い出されるイエスの行為に、神の力を見ました。力強い説教に、神の息吹を感じました。神の力があれば、自分たちの生活を豊かにしてくれるに違いないと人々は期待しました。しかし、イエスは救いとはそのようなものではないと拒否されます。期待を裏切られた人々は怒り、イエスを十字架につけます。「民衆は立って見つめていました」(23:35)。私たちもまた民衆の一人として、その場にいます。私たちは救いを、幸福を求めて教会に来ましたが、イエスは私たちに「自分の十字架を背負って従って来なさい」と言われます。冗談ではない、幸福ではなく十字架なのか、私たちのある者は教会を去り、別の人は教会に何も期待しなくなってしまいました。私たちもまたイエスを嘲笑する人々の中にいます。
・全ての人が自分を嘲笑する中で、イエスは祈られました「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(23:34)。イエスは自分を嘲笑する人々を呪うのではなく、その赦しを神に祈られます。私たちは不思議に思います。何故、この人はこのような祈りをされるのだろうか。神の子だから出来るのだろうか。聖書は、イエスが激しい葛藤の末に、この言葉に到達された事を隠しません。捕らえられる前の晩、イエスはゲッセマネで祈られました「父よ、御心なら、この杯を私から取りのけてください」(22:42)。イエスは死にたくなかったのです。自分を殺そうとする者に憎しみを持たれたのです。しかし、イエスは続いて祈られます「しかし、私の願いではなく、御心のままに行ってください」。死にたくない、辱めを受けたくない、しかしそれがあなたの御心なら従っていきますという決意です。人間としての思いと神の子としての思いが葛藤し、「汗が血の滴るように地面に落ちた」とルカは記述します。その試練に勝たれたゆえに、今イエスは、自分を殺そうとする者たちのために、祈ることが出来るのです。
・イエスが経験された葛藤を、イエスに従う人も経験します。江戸時代、キリスト教は禁止され、信徒は弾圧されました。権力者たちはキリシタンたちを拷問しながら、その耳元でささやきます「お前がこんなに苦しめられても、お前の救い主は何もしてくれないではないか。そんな者が救い主であるはずがない。踏み絵を踏めば、お前は家族の元に帰ることが出来る」。私たちもこの葛藤を経験します。自分の働く会社が組織ぐるみの脱税を行っているのを発見し、告発しようとした時、上司は私たちを止めるでしょう。「不正経理を告発すれば、会社は倒産する。会社が倒産すればお前も家族も路頭に迷う。この程度のごまかしは誰でもやっているではないか」。サタンのささやきに負けた事例が多く報道されています。期限切れ原料の使用をごまかした不二家や、番組捏造を隠蔽しようとした関西テレビもそうです。原子力発電所の事故を隠す電力会社や、談合をやめることの出来ない建設会社もサタンの誘惑に負けたのです。イエスは自分のために神の力を用いることを拒否され、嘲りの中に身を置かれました。「他人は救ったのに、自分は救わない」、この救い主の姿は、私たちに生き方の変革を求めます。

2.一人はののしり、一人は憐れみを求める

・「父よ、彼らをお赦しください」というイエスの祈りは、イエスと共に十字架につけられていた二人の人間に別々の反応を引き起こしました。犯罪人の一人はイエスをののしります「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」。自分を救えないくせに、他者の救いを祈っても何にもならないではないか。私が欲しいのは今この十字架の苦しみから解放する力なのだと。もう一人の犯罪人はイエスに言います「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、私を思い出してください」。彼は訴えました「私は罪を犯したのだから、死刑にされても仕方がない、でも死んだ後の裁きが怖くて仕方がない。私には救って下さいと要求する資格はないが、それでも憐れんで下さい」と。その男にイエスは言われました「はっきり言っておくが、あなたは今日私と一緒に楽園にいる」。人が死刑の宣告を受けることは、社会から「あなたなど要らない、あなたは生きるに値しない」と断罪されることです。しかし、イエスは言われます「人はあなたなど要らない、死んでしまえというかもしれないが、父なる神にとってあなたも大事な人だ。父はあなたを受け入れて下さる」。
・私たちはこの話をどのように聴くのでしょうか。私たちは死刑にされるほどの悪いことをした覚えはないから、無縁な話だと思うのでしょうか。しかし、そう思う私たちもやがて死ぬ時が来ます。死が今か、先かの違いだけで、私たちも死刑を宣告されている状況は同じです。二人は共に救いを求めています。一方は今現在の苦しみからの解放を、他方は神の憐みを求めています。私たちも、どちらの立場に立つのかが問われています。私たちは何故教会に来るのでしょうか。ここに救いがあると思うからです。しかし、その救いとは「今現在の苦しみから解放される」ことではなく、「苦しみの中にあっても平安である」救いです。

3.十字架の他に救いはない

・今日の招詞に第一ペテロ2:22-24を選びました。次のような言葉です「この方は、罪を犯したことがなく、その口には偽りがなかった。ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず、正しくお裁きになる方にお任せになりました。そして、十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担ってくださいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。
・イエスが十字架で苦しんでおられた時、弟子のペテロはそこにいませんでした。自分たちも捕らえられ、殺されることを怖れて、遠くから見ていたのです。そのペテロが何故、十字架こそ救いであると言えるようになったのでしょうか。イエスが十字架につけられた時、人々はこぞってイエスをののしりました。「他人を救ったのに自分は救えないのか。神の子なら自分を救え、十字架から降りてみろ」と言うのです。イエスは、人々からのののしりを、黙って受けられました。もしイエスが、私たちの期待通り、その力を示して十字架の縄目を破り、下に降りて、罪ある人々を裁かれたら、どういうことが起こったでしょうか。
・「今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば信じてやろう」と言う祭司長、律法学者たちは、真っ先に裁かれるでしょう。そしてイエスの救いは、イエスを信じ、イエスに仕える信仰者たちに与えられます。しかしどこにその信仰者がいるでしょうか。弟子たちはイエスを見捨てて逃げています。彼らも救いの対象にはならないでしょう。私たちも群集との一人として、イエスをののしっています。私たちも救いからはずされます。正しい者だけが救われるのであれば、救われる人は誰もいなくなります。だから、イエスは十字架で人々からの嘲りを全て引き受けることによって、ご自分を打たれ、私たちを救おうとしておられるのです。イエスは十字架の苦しみと死をご自分の身に引き受けて、その代わりに私たちの赦しを父に願われたのです。「父よ、彼らをお赦しください」。この“彼ら”とは私たちなのです。このイエスの祈りによって、私たちに救いの道が開かれました。
・ペテロはそのことを、身をもって体験しました。イエスを裏切り、見捨て、逃げたペテロは、もう救われる価値はないと思っていました。しかし、復活されたイエスはそのようなペテロに現れ、彼を赦し、さらには信徒の群れを委ねられました。だから今、ペテロは告白することが出来るのです「この方は十字架にかかって、自らその身に私たちの罪を担って下さいました。私たちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました」。ペテロ自身がまさに、イエスの「お受けになった傷によって、いやされた」のです。十字架の傷によるいやしこそ、救いなのです。私たちが与えられる救いはイエスの十字架の上に立っています。とすれば、私たちはもはやこの世と同じ生き方は出来ない、教会をこの世と同じ利害共同体ではなく、信仰共同体にしなければならない。今年1年間の目標こそ、信仰共同体の形成です。イエスが血の汗を流して苦しまれたのなら、私たちも苦しめばよい。信仰共同体の形成のために必要であれば、私たちも自分たちの十字架を背負って歩くことをためらわない。そのような年にしたいと祈ります。


カテゴリー: - admin @ 14時52分39秒

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