すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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06 30

2019年6月30日説教(フィリピ4:1-9、神にある平和)

1.教会内の不和をどう考えるか

・今日、私たちは、パウロの書いたフィリピ教会への手紙を通して、教会内に不和が生じた時に、どう対処すれば良いのかを学びます。教会も人の集まりですから、そこには意見の違いや対立が生じます。信仰の先輩たちは私たちに教えます「教会に不満を持つ人、意見の違う少数者の人が教会を去ろうとする時、あなたがたはその人たちを無理に引き留めたり、戻るように呼びかけない方が良い。それはいたずらに混乱を招くだけだから」。意見の異なる人々が教会を去るならそれに任せよというのです。経験に基づく知恵でしょう。しかし、パウロは私たちに言います「あなたがたはそうしてはいけない。気の合う人、意見を同じくする人とだけ礼拝を共にするのは教会ではない」と。私たちはどちらの意見に従うべきなのでしょうか。ご一緒に考えてみたいと思います。
・パウロはエフェソの獄中から、フィリピ教会に手紙を書いています。フィリピの人々は獄中のパウロを慰めるため、贈り物を持たせてエパフロディトを派遣しましたが、彼は重い病気になってフィリピに帰ることになりました。そのエパフロディトに託して、フィリピの人々に感謝を表したのがフィリピ人への手紙です。フィリピ書は礼状なのです。しかし、パウロはその礼状の中で、あえて教会の中にある争いに触れます。4章2-3節です「私はエボディアに勧め、またシンティケに勧めます。主において同じ思いを抱きなさい。真実の協力者よ、あなたにもお願いします。この二人の婦人を支えてあげて下さい」。
・この手紙は個人的な手紙ではありません。それは教会に宛てて書かれた公式の手紙であり、教会の礼拝の場で読まれることを期待して書かれました。その手紙の中で、パウロは二人の婦人の名前を挙げて和解するように勧め、また教会の人々にも仲裁の労をとるように書いています。パウロは何故この問題を個人的な問題として、教会の外で解決するようにしないのでしょうか。教会の指導者に個人的な手紙を書き、問題の解決を依頼することも出来たのに、何故あえて教会全体の場に持ち出すのでしょうか。二人の婦人の名前を礼拝の場で読み上げることを通して、二人に悔い改めを迫ったのでしょうか。そうではありません。パウロは「都合の悪い事実があってもそれを覆い隠すな。不和があれば、それを公の場に出して、主の名によって解決しなさい」と求めているのです。「主によって」(4:1)、「主において」(4:2)とパウロは強調します。教会の主がキリストであれば、そこに集う人々は和解できるはずだ、もしそれが出来なければ教会ではないのだと言っているのです。
・この手紙から、私たちは何を読み取ることが出来るのでしょうか。パウロとフィリピの人々は、二人の婦人の仲たがいの原因を知っていますが、私たちにはそれが何かわかりません。パウロとフィリピの人々は「真実の協力者」と言われている人が誰か知っていますが、私たちは知りません。ただ私たちは次のような事実を知ることは出来ます。二人の婦人は福音伝道のために良い働きをした人々であり、教会にとって無くてはならない人であるということ、そして神が二人の和解を望んでおられることも知っています。パウロはそれで十分だと私たちに言います。「神が和解を望んでおられるのならば、そうしなさい。また、周りの人々も和解のために働きなさい」と。

2.私たちの人生の現実の中で

・私たちは、水曜日の祈祷会でサムエル記を読んできました。サムエル記の主役はダビデで、イスラエル王国はダビデ王の時代に繁栄の頂点を迎えました。ダビデは偉大な王として歴史に名前を残しています。しかしサムエル記はダビデが罪を犯さずに、正しい人として神に仕え続けたとは記述しません。そうではなく、ダビデもまた人間の弱さのゆえに罪を犯し続けたことをあからさまに記しています。サムエル記下の主題はダビデ家の家庭紛争です。ダビデは多くの妻や側女を与えられましたが、それに満足せず、姦淫の罪を犯します。ある時、部下の兵士ウリヤの妻バテシバが水浴している姿を見てその美しさに焦がれ、彼女を王宮に呼び、彼女と寝るという過ちを犯しました。バテシバは妊娠し、困ったダビデは、夫ウリヤを殺させ、女を自分の妻とします。このことを責められたダビデは悔い改めますが、この事件を契機にダビデ家に次から次に不幸が訪れます。自分の撒いた悪を神が刈り取らせられるのです。
・最初は息子アムノンの不祥事です。ダビデの長男アムノンは異母妹タマルに恋をして彼女を力ずくで自分のものにした後、辱めて捨てます。ダビデは自らもバテシバを手に入れるためにウリヤを殺した過去を持っていますので、アムノンを処罰することが出来ず、放置します。この措置にタマルの兄アブサロムは怒り、妹を辱めたアムノンを自らの手で殺して国外に逃亡します。ダビデは長男アムノンの死を悲しみ、三男アブサロムを許すことが出来ません。部下の将軍ヨアブが両者のために和解の労をとり、アブサロムは帰国を許されますが、ダビデは息子と会おうとしません。このダビデの子を許さない態度がアブサロムの心をかたくなにし、彼はダビデに反旗を翻して、王としての即位を宣言します。やがてアブサロム軍とダビデ軍の間に戦いが起こり、アブサロムは敗れて殺されます。アブサロムの死を知ったダビデの嘆きの歌をサムエル記は次のように記しています。「私の息子アブサロムよ、私の息子よ。私の息子アブサロムよ、私がお前に代わって死ねばよかった。アブサロム、私の息子よ」(サムエル記下19:1)。
・聖書はダビデを信仰の偉人と称えますが、そのダビデでさえ、人を許せず、その結果、長男が殺され、三男も死んでいきます。私たちもまた人を許すことが出来ないゆえに、家庭や職場での不和に悩まされています。これが人生の現実です。人は王宮の中にいても、兄弟同士の不和があり、親子の不和があって、幸せではないのです。人の幸せは私たちが獲得したお金や地位に依存せず、逆にお金や地位が私たちを虜にして不幸に導いていく現実があります。私たちはこの現実を知ったから、平安を求めて教会に来ました。しかし、教会にも不和があり、平安が無ければ、私たちはどうすればよいのでしょうか。

3.喜べない状況でも喜びなさい

・今日の招詞として、私たちは、フィリピ4:4-5を選びました。次のような言葉です「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます」。私たちは平安を求めて教会に来たのに、教会の中にも不和があって平安がありません。私たちはどこにも行く場所がありません。だからパウロは不和を解決せよ、和解して喜べというのです。何故いがみ合いが教会の中で生じるのでしょうか。
・キリストは私たちが神と和解できるように死んで下さいました。キリストの死によって私たちは神と和解したのです。そして神と和解した者は人とも和解します。もし、私たちが人と和解できないとしたら、それは神との和解が無いからなのです。不和の根本原因は私たちと神との関係の不完全なのです。ですから、根本を解決しなければ、意見の違う人たちが教会から出て行っても教会内の不和は残ります。時間と共に新しい不和が教会内で生じるでしょう。それゆえ、人との不和の問題は人間的に解決すべき問題ではなく、教会全体で考える問題なのだとパウロは言うのです。
・私たちの毎日は常に喜べる状況ではありません。挫折も失意も仲たがいもあります。しかし、その中で喜んで行くのがキリスト者ではないかとパウロは言います。パウロは続けます。「どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう」(4:6-7)。不和がある時、何故それを人間的に解決しようとするのか、何故人知を超える神の平和を求めないのかとパウロは言います。宝を見出した人は全てを捨てても宝を贖います。キリストと出会った人もそうします。キリストに出会った人は、自分の内には何の義も無く、ただキリストが死んで下さったから義とされた事を知りました。だから自分の誇りも捨てます。自分の誇りを捨てた時、人との争いもなくなります。何故なら、争いとは人と人の誇りのぶつかりあいだからです。
・人生は短く、その終わりは見えています。「もし、不和の人がいれば、一刻も早く和解しなさい。相手が許さなくともあなたは許しなさい」とパウロは訴えます。前にご紹介したマザーテレサの「あなたの最良のものを」という言葉をもう一度引用します「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい・・・善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。・・・助けた相手から、恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを、この世界に与えなさい。たとえそれが十分でなくても、気にすることなく、最良のものをこの世界に与え続けなさい」。
・そしてマザーは大切なことを伝えます「最後に振り返ると、あなたにもわかるはず、結局は、全てあなたと内なる神との間のことなのです。あなたと他の人の間のことであったことは一度もなかったのです」。「人との関係の断絶は神との関係の断絶なのだ、だから神と和解している人は人と和解せよ、相手が赦さなくともあなたは赦せ」とマザーは言っています。マザーの言葉こそピリピ4章の最善の注解なのです。私たちは相手を変えることは出来ません。しかし、自分が変わることは出来ます。私たちが相手を赦した時に、相手も私たちに心を開き始めます。「人知を超える神の平和」は働き始めるのです。教会はその神の平和を知る場所なのです。


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06 23

2019年6月23日説教(フィリピ3:12-21、天に国籍を持つ者として生きる)

1.キリストに出会った喜びを伝えるパウロ

・フィリピ書は、「喜びの書簡」と言われています。私たちは、自分が幸福で満たされている時には喜びます。ただ、苦難の中にある時、重荷を担っている時には、喜べません。しかし、パウロは、「キリスト者は苦難の中でも喜ぶことが出来る」と語ります。パウロがこの手紙を書いた時、彼はエフェソの獄中にあり、殉教を前にした緊迫した状況の中にありました。にもかかわらず、この手紙には「喜ぶ」という言葉が多く用いられています。パウロはエフェソの獄中から、フィリピ教会に手紙を書いています。
・パウロがエフェソの獄中にいると知らされたフィリピの教会は、パウロを慰めるためにエパフロディトに贈り物を託して送り、エフェソでパウロに仕えるように手配しました。そのエパフロディトが重い病になってフィリピに帰ることになり、彼に託して、パウロはフィリピの人々に手紙を書きました。それがフィリピ書です。パウロは案じてくれたフィリピの人々に感謝し、教会のために祈ります。フィリピ書1〜2章はパウロの感謝とフィリピの信徒を気遣う愛情に満ちた手紙です。3章の始めでパウロは書きます「最後に、私の兄弟たちよ。主にあって喜びなさい」(3:1)。「主にあって喜びなさい」、フィリピ書を貫くパウロのメッセージです。
・その感謝の手紙が、3章2節から突然激しい語調になります。「あの犬どもに注意しなさい。よこしまな働き手たちに気をつけなさい。切り傷にすぎない割礼を持つ者たちを警戒しなさい」(3:2)。パウロは手紙を書いている中で、フィリピ教会を混乱させているユダヤ主義キリスト者の活動をここで思い起こし、警告します。手紙には、「犬ども」、「よこしまな働き手」、「切り傷に過ぎない割礼を持つ者たち」、と激しい言葉が並びます。当時のエルサレム教会は、「洗礼を受けただけでは救われない。割礼を受け、律法を守らないと救われない」として、巡回伝道者を各地の教会に派遣していました。フィリピ教会にも伝道者たちが訪れ、教会の中に混乱が生じていた。パウロはユダヤ人が大切にする割礼を「切り傷に過ぎない」とし、彼らを「犬」と呼びます。何故このような激しい言葉を投げかけるのか、それはユダヤ主義者の活動が教会を壊しかねない要素を持っていたからです。割礼を受けなければ救われないとしたら、キリストは何のために死なれたのか。割礼を強制する彼らはキリストの十字架を無益なものにしている。だから「よこしまな働き手」なのだ、とパウロは批判します。
・パウロもかつては律法による救いを求め、そのために努力し、そのような自分を誇った時もありました。彼は言います「私は生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(3:5-6)。彼はユダヤ人の誰よりも、熱心に律法による救いを求め、熱心のあまり律法を守らないキリスト者共同体への迫害者にさえなった。その彼がダマスコ途上で復活のキリストに出会い、キリストに捕らえられ、教会の迫害者から伝道者になりました(使徒9:1-9)。彼は律法学者としての名声も、教師としての安定した生活も失くし、ユダヤ人からは「裏切り者」として命を狙われるようにもなりました。
・しかしパウロは、「私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、私の主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、私はすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしています」(3:7-8)と語ります。律法を守ろうとする者は自分の功績を誇ります「これだけ努力をして、これだけ実績を上げてきた。だから救われるのは当然だ」。パウロは自分を誇った過去を恥ずかしく思い、それらを「糞土」のように捨てたと語ります。パウロはすべてを失くしましたが、キリストを得た。彼はキリストに出会って命を見出しました。彼は語ります「私には、律法から生じる自分の義ではなく、キリストへの信仰による義、信仰に基づいて神から与えられる義があります」(3:9)。

2.キリストに出会った者の生き方

・私たちはキリストに出会った。キリストに捕らえられた。だからキリストを追い求めていくとパウロは言います「私は、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。兄弟たち、私自身は既に捕らえたとは思っていません。なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」(3:12-14)。人間の目から見れば、「成功の人生」があり、「失敗の人生」もあります。何の成果もあげられなかったと悔やむこともあります。パウロは語ります「後ろのものは忘れよう」(3:13a)。神の目から見れば「過去の功績」等どうでもよく、いかに「今を一生懸命に生きるか」のみが評価される。実績を上げることが出来なくとも、一生懸命に走った人に、神は「賞」をお与え下さる(3:14)。だから「前のものに全身を向けよう」(3:13b)とパウロは語ります。
・そして有名な言葉が来ます「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています。キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、私たちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(3:20-21)。ここに永遠の命を求めるのか、この世での救いを求めるのか、信仰の分かれ目があります。島田裕巳著「日本の10大新宗教」によりますと、創価学会は1,000万人の信徒を持ち、立正佼成会は300万人、霊友会も300万人の信徒がいます。キリスト教人口100万人に比し、驚くべき数です。大教団に成長した新宗教のほとんどは「日蓮・法華系」の教団です。浄土信仰を説く既成仏教に飽き足らない人々が、現世における救いを強調する法華信仰に惹かれている。「南無妙法蓮華経」を唱えれば救われる、信じれば豊かな生活が送れるという教えが人々を捕らえている。これは律法を守れば救われる、善行を積めば幸せになれるとするユダヤ主義者の考え方と同じです。しかし、パウロはこのような考え方を、「絶対そうではない」と否定します。

3.苦難の中で喜ぶ信仰

・今日の招詞としてフィリピ4:4-6を選びました。次のような言葉です「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい。あなたがたの広い心がすべての人に知られるようになさい。主はすぐ近くにおられます。どんなことでも、思いわずらうのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」。パウロは獄中にあっても喜んでいます。
・パウロは手紙の冒頭で言います「兄弟たち・・・私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになった」(1:12-14)。獄中でパウロが気力を失わずにいる姿を見て、大勢の人が励まされ、ある者はキリスト教に回心しました。神が監獄という場所においても、働いてくださることを知るゆえにパウロは喜ぶ。どこにおいても私たちは神を賛美することが出来ます。現にパウロはエフェソの牢獄から、この手紙を書いています。私たちは、自由に外出の出来ない老人ホームにいても、病気で入院した病院においても、神のために働けるのです。
・私たちが苦しみの中にあれば、その苦しみを神の前に差し出す。悲しみの中にあれば、その悲しみを神の前に訴える。その時、神は悲しみの意味、苦しみの意味を教えてくださる。意味がわかった時、苦しみは苦しみのままで、悲しみは悲しみのままで、祝福に変わっていく。苦しくてたまらない時、祈って与えられた御言葉が私たちの人生を変えた経験を何度もしています。苦しみや悲しみがなくなることが救いではなく、苦しみ悲しみの中で神の声を聞くことこそ救いなのです。現世利益、功績主義は必ず行き詰ります。お題目を唱えても、治らない病気は治らないし、解決しない問題は解決しない。癒しは仮のものであり、救いではない。私たちは、病人は病気のままで、苦しむ人は苦しみながら、救われていく。悲しみや苦しみがもはや私たちを支配しない、神の平安の中にあるからです。それこそが救いではないでしょうか。
・パウロは言います「私たちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待っています」(3:20)。フィリピはローマの植民都市で、市民はローマ市民権を与えられていました。フィリピの市民がローマ市民であるように、私たちも地上に暮らしていても、天の国の市民なのだとパウロは言います。ペテロも語ります「愛する人たち、あなたがたに勧めます。いわば旅人であり、仮住まいの身なのですから、魂に戦いを挑む肉の欲を避けなさい(第一ペテロ2:11)。旅人であり、仮住まいの身ですから、自分の家を持つとか、老後の資金を蓄えることに価値を置かない。「年金だけでは暮らせない。老後には2千万円が必要だ」と言われても、動揺しない。神が道を開いて下さる、神が養って下さると信じるからです。この野放図な楽天性こそ、天の市民の生き方です。私たちはこの地上で多くのものを失うかもしれないし、多くの人たちから捨てられるかもしれませんが、神が私たちを見捨てられることは決してない。何故なら、神は私たちのためにキリストを遣わして、その命で私たちを贖ってくださった方だからです。そのキリストは私たちの重荷を共に負って下さる、キリストが共にいてくださるから、私たちはどのような状況下でも心配しない、だから喜ぶことが出来るのです。


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06 16

2019年6月16日説教(フィリピの信徒への手紙2:12-18、キリストのために苦しむ恵み)

1.非日常の中で喜ぶ

・今日から三回にわたって、私たちは「フィリピの信徒への手紙」を読みます。フィリピはマケドニア州にある港町で、パウロが初めてヨーロッパ伝道を行った記念すべき町です。 キリスト教はパレスチナ(アジア)から始まりましたが、発展したのはヨーロッパです。「福音がアジアからヨーロッパに伝わる」ことがなかったら、その後の世界史は大きく変わったでしょう。パウロのフィリピ伝道は世界史の大きな転換点になりました。そのフィリピで、パウロはリディアという一人の裕福な婦人に出会い、彼女はパウロの話を聞いて、回心し、洗礼を受けます(使徒16:14-15)。やがてこのリディアの家の教会がフィリピ教会と成長していきます。パウロはフィリピを離れた後、テサロニケ、コリント、エフェソ等で伝道活動を続けますが、フィリピ教会はパウロの活動支援のためにエパフロディトに託して献金を送り、彼はパウロの助手として働き始めます。しかし彼は重い病気に罹り、フィリピに帰る事となりました。パウロは帰還するエパフロディトに託して、支援感謝の手紙を書きます。それが「フィリピの信徒への手紙」です。
・パウロはこの手紙をエフェソの獄中から書いています。フィリピ教会の人々はパウロ投獄の知らせを聞いて心配したと思います。その人々にパウロは現況報告を書きます「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(1:12-14)。パウロは獄中にあって喜んでいます。何故ならば、逮捕と裁判を通して、異教世界の責任のある人たちの居並ぶ法廷で、キリストを述べ伝える道が開かれたからです。そしてパウロの喜びを見て、兵士の中にも回心する者が出てきたようです。パウロは先にフィリピでも投獄されていますが、その時には監獄の看守とその家族が救われる体験をし(使徒16:25)、今また逮捕・監禁・裁判という「強いられた受難」が、エフェソの役人の中から回心者が出ています。「強いられた受難」が「神の恵みとしての受難」に変えられた。パウロはそれを喜んでいるのです。
・フィリピの教会はパウロが捕らえられたと聞き、エパフロディトに慰問の品を持たせて、派遣しました。パウロは教会の支援に感謝すると共に、いま自分が獄にあってフィリピの人々のために働けないことを、心残りに思っています。しかし、パウロの心は彼らと共にあり、パウロがいない今も主に従順であるように祈ります。「愛する人たち、いつも従順であったように、私が共にいるときだけでなく、いない今はなおさら従順でいなさい」(2:12)。パウロは続けます「恐れおののきつつ自分の救いを達成するように努めなさい・・・不平や理屈を述べることを止めなさい」。つぶやきや疑いを捨てなさい、そうすれば「とがめられるところのない清い者となり、よこしまな曲がった時代の中で、非のうちどころのない神の子として、世にあって星のように輝き、命の言葉をしっかり保つでしょう」(2:15-16)とパウロは語ります。
・パウロは獄中にあり、死の脅威の中にあります。1章21節以下でパウロは語ります。「私にとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。けれども、肉において生き続ければ、実り多い働きができ、どちらを選ぶべきか、私には分かりません。この二つのことの間で、板挟みの状態です。一方では、この世を去って、キリストと共にいたいと熱望しており、この方がはるかに望ましい。だが他方では、肉にとどまる方が、あなたがたのためにもっと必要です」(1:21-24)。パウロは、人間としては、釈放されて再びフィリピを訪れることを願っていますが、それは適わないかもしれない。彼は死を覚悟し始めています。それが神の御心であれば受け容れていこうと思っています。彼は語ります「信仰に基づいてあなたがたがいけにえを献げ、礼拝を行う際に、たとえ私の血が注がれるとしても、私は喜びます。あなたがた一同と共に喜びます。同様に、あなたがたも喜びなさい。私と一緒に喜びなさい」(2:17-18)。民の罪を購う「贖いの日」には、犠牲の動物の血が祭壇に注がれ、祭壇を清めます。パウロは自分が処刑され、その血がフィリピ教会の祭壇を清めるのであれば、喜んで死のうと語ります。

2.善き力にわれ囲まれ

・パウロは獄中でキリスト賛歌を歌いました。同じく獄中でキリスト賛歌を歌ったのがD.ボンヘッファーです。讃美歌73番は、デートリッヒ・ボンヘッファーが1944年に書いた「善き力にわれ囲まれ」という詩を歌にしています。ボンヘッファーはナチス時代を生きたドイツの牧師です。1933年、ナチスが政権を取り、ユダヤ人迫害を始めると彼はそれに抗議します。ドイツの大半の教会はナチスの政策に従ってドイツ帝国教会として再編成されますが、ボンヘッファーはカール・バルト共に告白教会を組織し、「不正な指導者には従うな」と呼びかけます。彼は政権ににらまれ、心配した友人たちはニューヨークのユニオン神学校の職をボンヘッファーに提供し、1939年彼はアメリカに渡りますが、1ヶ月間いただけですぐドイツに帰ります。祖国の人々が犠牲になって苦しんでいる時、自分だけが平和な生活を送ることは出来ない、苦しみを共にしなければ、もう祖国の人に福音を語れないと思ったからです。
・彼はドイツに戻り、ヒットラー暗殺計画に加わります。彼は語ります「車に轢かれた犠牲者の看護をすることは大事な務めだ。しかし、車が暴走を続け、新しい被害者を生み続けているとすれば、車自体を止める努力をすべきだ」。暴走を続けるナチスを止めるには、その頭であるヒットラーを倒すしかない。そう考えたボンヘッファーは国防軍情報部に入り、ヒトラー暗殺計画を推し進めますが、発覚し、1943年4月に捕らえられます。1年半後の1944年12月に彼は獄中から家族にあてて手紙を書きますが、そこに同封されていたのが、讃美歌の元になった詩です。
・1番は次のような詩です。「善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう」。1年半にわたって彼は投獄されています。その中で、家族や友人が彼のために祈り続けてくれる事を感謝し、それを与えてくれた神の守りを「善き力に囲まれ」と歌います。ナチスに対する反逆罪で捕らえられた彼は死刑になることを覚悟しています。また牧師として、暗殺行為に関ったことが良かったのか、迷いはあります。その迷いの中で「過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、さわぎ立つ心しずめ、御旨に従い行く」と歌います。
・2番が続きます「たとい主から差し出される杯は苦くとも、恐れず感謝をこめて、愛する手から受けよう」。主から差し出される杯は「死」かも知れない。死ぬのは怖いし、人としては、釈放されてまた家族や友人と楽しい日々を過ごしたいと願います。しかし、それは適わないかもしれない。その時は主から差し出される杯をいただこう。この邪な、曲がった時代の中にも、神の光は輝いている。「輝かせよ、主のともし火、われらの闇の中に。望みを主の手にゆだね、来るべき朝を待とう」と彼は歌います。いつ処刑されるかわからない不安の中にありながら、主にある平安を彼は喜びます「善き力に守られつつ、来るべき時を待とう。夜も朝もいつも神は、われらと共にいます」。神がわれらと共にいませば、それでいいではないか。4ヵ月後の1945年4月に処刑されて、彼は39歳の若さで死んで行きます。

3.キリストのために苦しむ恵み

・今日の招詞にフィリピ1:29−30を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです。あなたがたは、私の戦いをかつて見、今またそれについて聞いています。その同じ戦いをあなたがたは戦っているのです」。パウロは今キリストの福音を伝えた故に獄にいます。福音は時として迫害をもたらします。
・イエスは安息日に病人を治療してはいけないという律法を知りながら、目の前に病人を憐れみ、いやされました。らい病人には触れていけないという掟があっても、愛の故にそれを無視されました。だから律法を重んじるユダヤ人たちはイエスを捕らえました。ローマ帝国は皇帝を神として拝めと求め、パウロはこれを拒否したため、帝国はパウロを捕らえました。キリストに従うとする時、世から迫害を受けることはあり、迫害を受けた時、私たちは日常の平和から、非日常の苦難の中に入ります。しかし、その苦難が神ゆえのものであることを知る時はもう怖れません。
・パウロの言葉はボンヘッファーを慰めましたが、鈴木正久という日本人牧師にも死を超えた希望を与えています。日本基督教団議長を務めた鈴木正久牧師は死が避けられないことを知り、嘆きます。その彼を再び立ち上がらせたのは、フィリピ書でした。鈴木牧師は語ります「フィリピ人への手紙を読んでもらっていた時、パウロが自分自身の肉体の死を前にしながら非常に喜びにあふれて他の信徒に語りかけているのを聞きました・・・パウロは、生涯の目標を自分の死の時と考えていません。それを超えてイエス・キリストに出会う日、キリスト・イエスの日と述べています。そしてそれが本当の「明日」なのです。本当に明日というものがあるときに、今日というものが今まで以上に生き生きと私の目の前にあらわれてきました」(鈴木正久・病床日記から)。「神が共にいてくださる」ことを知る時、牢獄もまた喜びの場になります。キリストを信じる者にも死は恐怖です。しかし、その恐怖は神が取り去って下さいます。信仰のある者と無い者の違いは、いざと言う時に絶望に押しひさがれるか、それとも神による救いを見出すかです。パウロは語ります「あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。


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11 03

1.後ろのものを忘れ

・今日、私たちは召天者記念礼拝を覚えてここにいます。教会の礼拝においては召天者(死んだ方)の供養はしません。死後のことは神に委ねるからです。従って、今朝は「よく生きるために、よく死ぬ」ことの意味を聖書から聞いていきます。しかし「よく死ぬ」ことは容易ではありません。音楽評論家の吉田秀和氏は地下鉄サリン事件に関して一文を新聞に寄稿しました「TVで地下鉄サリン事件の一周忌ということで、殉職した職員を弔う光景をみた。実に痛ましい事件である。あの人たちは生命を賭けて多くの人を救った。(中略)年をとって涙もろくなった私はそのまま見続けるのが難しくなり、スイッチを切った。切った後で、あの人たちの魂は浄福の天の国に行くのだろうか、そうであればいいと思う一方で、『お前は本当にそう信じるのか』という自分の一つの声を聞く。そういう一切が作り話だったとしたらあの死は何をもって償われるのか。この不確かさの中で、彼らがより大勢の人の危難を防いだ事実を思い、私はもう一度頭を下げる」(1996年4月18日朝日新聞夕刊)。 (続き…)


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03 17

1.獄中からの手紙

・パウロ書簡を読んでいます。今週は「フィリピの信徒への手紙」を読みます。フィリピはマケドニア州にある港町で、パウロが初めてヨーロッパ伝道を行った記念すべき町です。 キリスト教はアジア(パレスチナ)で始まりましたが、発展したのはヨーロッパです。「福音がアジアからヨーロッパに伝わる」ことがなかったら、その後の世界史は大きく変わったでしょう。パウロのフィリピ伝道は歴史の大きな転換点になりました。そのフィリピで、パウロはリディアという一人の裕福な婦人に出会い、彼女はパウロの話を聞いて、回心し、洗礼を受けます(使徒16:14-15)。やがてこのリディアの家の教会がフィリピ教会となっていき、その後はパウロの伝道活動を支援する教会となっていきます。パウロはフィリピを離れた後、テサロニケやコリント、エペソ等で伝道活動を続けますが、フィリピ教会はパウロの活動支援のためにエパフロディトに託して献金を送り、彼はパウロの助手として働き始めますが、重い病気に罹り、フィリピに帰る事となりました。パウロは帰還するエパフロディトに託して、支援感謝の手紙を書きます。それが「フィリピの信徒への手紙」です。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時34分19秒

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