すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

説教内検索

06 24

1.弱さの中に恵みが

・第二コリント書を読み続けています。本日が最終回です。この手紙を通して明らかになったのは、パウロがコリント教会の離反に苦しみ、何とかしてコリントの人々が「本当のイエス」、「本当の霊」、「本当の福音」に立ち戻ってほしいという願いの下に、手紙を書いているという事実です。本当のイエスとは「十字架で死なれた苦難のイエス」であり、本当の福音とは「イエスのように弱さを受け入れる時に救いが来る」ということです。しかしパウロに反対する人たちは、自分たちの強さや神秘体験を誇り、「パウロは神秘体験をしていないから本当のキリスト者ではない」、「パウロは異言を語れないから聖霊を受けていない」と批判していたようです。そのためにパウロはやむなく、自分の神秘体験を語り始める、それが今日読みます第二コリント12章です。
・パウロはこれまで自己の神秘体験を語ってきませんでした。神秘体験は自分だけの体験であり、他者と共有できるものではないからです。パウロはかつて語りました「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を語れることを、神に感謝します。しかし、私は他の人たちをも教えるために、教会では異言で一万の言葉を語るより、理性によって五つの言葉を語る方をとります」(1コリント14:18-19)。他者に理解されない言葉(異言)は福音=良い知らせではないのです。しかし、ここでは止むを得ず、パウロは自己の神秘体験を語ります「私は、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。私はそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです」(12:2-4)。
・「一人の人」、パウロのことです。「14年前」、この手紙が書かれたのが紀元57年前後ですから紀元43年頃、異邦人伝道旅行を始める前、彼がアンテオケ教会で活動していた時の出来事です。具体的に何があったのかは私たちにはわかりません。パウロはある時、天に引き上げられて、そこで主に出会うという体験をした、それはパウロには忘れられない体験でしたが、彼はそれを長々と語ることをしません。そのような体験を通して伝道者は自分の召命を確信しますが、自分を振り返った時、目に付くのは肉の身の弱さです。弱さを通して神を誇ることに、パウロは導かれていきます「このような人のことを私は誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」(12:5)。そしてパウロは彼の人生を決定づけた、ある出来事を語ります「私の身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、私を痛めつけるために、サタンから送られた使いです。この使いについて、離れ去らせてくださるように、私は三度主に願いました」(12:7-8)。
・パウロは深刻な病気を抱えていたようです。ある人は「癲癇」と推測し、別の人は「目の病」と考えています。何であるかはわかりませんが、それは彼の心身を苦しめると同時に、伝道の妨げにもなっていたようです。彼はその病を「サタンから送られた使い」と表現しています。パウロはこのとげを取り去ってくれるように、繰り返し主に祈りましたが、彼に与えられたのは「私の恵みはあなたに十分である」との言葉でした。「主は、『私の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」(12:9)。この体験を通してパウロは「キリストと共に苦しむことこそ恵みである」ことを理解しました。だから彼は語ります「それゆえ、私は弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、私は弱い時にこそ強いからです」(12:10)。

2.聴かれない祈り

・パウロの祈りは聴かれませんでした。彼に与えられた「とげ」は取り去られませんでした。しかしパウロはそのことを主に感謝しています。私たちの人生にもいろいろな「とげ」が与えられます。私たちはパウロと同じようにそれに感謝出来るでしょうか。内村鑑三の書いた文章に、「聴かれざる祈り」という短文があります。彼は「聴かれざる祈祷のいちじるしき例が三つある。モーゼの祈祷が聴かれず、パウロも聴かれず、イエスご自身もまた聴かれなかった」と語り始め、パウロについて、このコリント12章の体験を語り始めます「神は新約の忠僕であるパウロの祈祷をも斥けられた。パウロにもまた一つの切なる祈願があった。彼は、単に彼の肉体の苦痛としてだけ、これを感じたのではないと思う。彼が伝道に従事するに当って、彼は大きな妨害としてこれを感じたのであろう。彼は幾回となく、このために敵の侮辱を受けたであろう。彼の福音は、幾回となくこのために人に嘲られたであろう。彼は自分の健康のためばかりではなく、福音のために、神の栄えのために、この痛い刺が彼の身から除かれることを祈った・・・ところがこの忠僕に対する、主の答は何であったか・・・簡単であってすげなかった。『我が恩恵汝に足れり』(第二コリント12章9節)というものだった。君の痛い刺は除かれる必要はない。私の恩恵は、これを補い得て足りているということであった。パウロの切なる祈求もまた、モーセのそれと等しく聴かれなかった。新旧両約の信仰の代表者は、その厚い信仰を以てしても、その祈祷の応験を見ることが出来なかったのである」(内村鑑三「聴かれない祈り」、全集第20巻の現代語訳から)。
・新約学の織田昭先生は語ります。「パウロの『とげ』が実際に何だったのか、この文章からは特定できないが、恐らく、これは、後にコリント書を読む多くの読者が、自分の持つ弱さや悲しみと引き比べながら、それぞれなりに慰めを受けられるように、聖霊がそうお導きになったのかも知れません。お互い弱い肉の人間として、病気の不安も、老いの悲哀も、事業の挫折もあります。もし私たちがお互い、自分の弱さを恥じないで共感できたら、私たちはみんな同じように主キリストだけを頼りにして、自分の弱さを克服できますし、その弱いままで強く変えられるのです。パウロの最後の言葉はこうでした。『私が弱い時、まさにその時、私は強くなれる。』」(織田昭・エリニカから)。

3.キリストのために苦しむ

・今日の招詞にピリピ1:29を選びました。次のような言葉です「つまり、あなたがたには、キリストを信じることだけでなく、キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」。パウロはコリント教会のために良かれと思い、手紙を書き、訪問し、指導しました。そのコリント教会はパウロに背き、パウロは裏切られた痛みに耐えています。しかしパウロがその苦難を、「キリストのために苦しむ」と受け入れた時、苦難が「恵みに変わる体験」をしています。ある人は語ります「水の冷たさは熱い所で初めてわかる。水の有り難さは水のない所で知れる」。苦難を通して私たちは神が共にいてくださることを知り、そこから生きる力をいただきます。
・教会には誤解や争いが絶えません。これが「神の教会か」と思うこともしばしばあります。パウロもまた、このあまりにも人間的な現実の中で、悩み、悲しみ、怒ります。しかし彼は教会に対する責任を放棄しません。神の恵みである信仰は、教会なしには生まれず、育まれることはないことを知る故です。しかし、その人間的対立の中から人の心に迫る手紙が生まれてきました。第二コリント書は国宝のような宝物です。そしてこの宝物は苦難の中から生まれてきたのです。
・生涯寝たきりの人生を送った水野源三さんは4冊の詩集を出しましたが、その第一詩集の表題は「わが恵み汝に足れり」(アシュラム・センター)です。今日の聖書個所から取られた表題です。その中に、「主よ、なぜ」という詩があります。次のような詩です「主よ、なぜそんなことをなされるのですか。私はそのことがわかりません。心には悲しみがみちています。主よ、どうぞこのことをわからせたまえ」。人生の現実にはとても納得出来ないものがあります。「私の恵みはあなたに十分である」と言われても困る時があります。その中で神を求めていく。そして「力は弱さの中でこそ十分に発揮される。だから、キリストの力が私の内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」と誇れるようになった時、私たちの人生は素晴らしいものになります。私たちはパウロのようにはなれません。しかしパウロに憧れる事はできます。
・この世は力を賞賛し、強さを求めます。強さとは何でしょうか。アメリカ宗教史が専門の森本あんり先生は「宗教国家アメリカのふしぎな論理」という著書の中で述べます「アメリカ大統領ドナルド・トランプは破天荒な大統領だが、同時に熱心なクリスチャンとして知られる。彼が信奉するキリスト教は「成功の神学である」と。もともと聖書では神と人間の関係を、神は人間が不服従な時にも一方的に恵みを与えてくれるという「片務契約」で理解します。ところが、ピューリタニズムがアメリカに移植される過程で、「片務契約」は「双務契約」へと転移していきます。双務ということは、人間は神に従い、神は人間に恵みを与える義務があるというものです。これは信賞必罰、ギブ・アンド・テイクの論理であり、この論理の行き着く先には「神の祝福を受けているならば、正しい者だ」という考え方が語られます。「自分は成功した。大金持ちになった。それは人びとが自分を認めてくれただけではなく、神もまた自分を認めてくれたからだ。たしかに自分も努力した。だが、それだけでここまで来られたわけではない。神の祝福が伴わなければ、こんな幸運を得ることはできなかったはずだ。神が祝福してくれているのだから、自分は正しいのだ」。これがドナルド・トランプの信奉する、そして多くの福音派の人々が信奉するキリスト教であると森本先生は語ります。「神は従う者には恵みを与え、背く者には罰を与える。自分は成功し、恵まれている。だから神は自分を是認している。自分は正しいのだ」。この世的に成功したければ神を信じなさいという勧めの中で、アメリカ人の5割の人が毎週の礼拝に参加します。
・「神を信じて従えばこの世の成功は約束される」という信仰は、申命記を始めとした旧約聖書の信仰ですが、イエスともパウロとも異なる信仰の在り方です。私たちの主イエスは決定的に弱い方でした。彼は弱い者、病に苦しむ者、世から排斥された者の側に立ち、彼自身も強い人々により殺されていきました。その弱いキリストを神は起こされ、キリストは今なお生きておられます。正にパウロが言うように、「キリストは、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力によって生きておられるのです。私たちもキリストに結ばれた者として弱い者ですが、しかし、あなたがたに対しては、神の力によってキリストと共に生きています」(13:4)。キリストの弱さを身にまとうことにより、神の強さが与えられる、これが私たちの信じる福音であり、それゆえに私たちもまた「弱さを誇って生きる」のです。


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06 17

1.エルサレム教会への献金問題

・第二コリント書を読んでいます。第二コリント書では8章、9章が、「献金」の問題を取り上げています。パウロは異邦人伝道を熱心に行い、コリントやテサロニケに教会を設立し、異邦人教会は母国エルサレム教会を上回るほどの大きな群れに育って行きます。しかし、同時に、異邦人教会とエルサレム教会との亀裂が目立ってきました。信仰の形が違うのです。エルサレム教会はユダヤ教をベースにした保守的な教会で、それに対して異邦人教会はギリシャ文化を土台にしたリベラルな教会群でした。その結果、異邦人教会とエルサレム教会との不和が拡大し、パウロは両者の和解を勧めるために、異邦人教会に呼びかけて、財政的に逼迫しているエルサレム教会への支援献金運動を進めていました。彼は語ります「異邦人はその人たち(エルサレム教会)の霊的なものにあずかったのですから、肉のもので彼らを助ける義務があります」(ローマ15:27)。ただこの献金運動は諸教会に様々な波紋を生みました。コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか、そんな余裕はない」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。
・その次第が8章に記述されています。パウロはコリント教会での献金の業を進めるためにテトスと同行者をコリントへ派遣したと語ります「彼(テトス)は私たちの勧告を受け入れ、ますます熱心に、自ら進んでそちらに赴こうとしているからです。私たちは一人の兄弟を同伴させます・・・主御自身の栄光と自分たちの熱意を現すように私たちが奉仕している、この慈善の業に加わるためでした」(8:16-19)。コリント教会の中には「パウロは献金をくすねているのではないか」との批判もあったようです。パウロは語ります「私たちは、自分が奉仕している、この惜しまず提供された募金について、だれからも非難されないようにしています。私たちは、主の前だけではなく、人の前でも公明正大にふるまうように心がけています」(8:20-21)。献金には公平性と透明性が必要です。私たちの教会では毎月第一主日に前月の会計報告を提出し、どれだけの献金があり、どのように用いたのかを報告するようにしています。
・9章は6節から本論に入ります。パウロは「惜しみなく捧げなさい。捧げることは捧げる者の益になるのです」と勧めます。「惜しんでわずかしか種を蒔かない者は、刈り入れもわずかで、惜しまず豊かに蒔く人は、刈り入れも豊かなのです。各自、不承不承ではなく、強制されてでもなく、こうしようと心に決めた通りにしなさい。喜んで与える人を神は愛してくださるからです」(9:6-7)。パウロは献金を種蒔きに喩えています。「豊かに播く者は豊かに収穫する」、蒔いた種は発芽し、成長し、多くの実を結びます。しかし蒔かない種からは収穫はありません。献金を通して「教会同士の関係の改善」が始まるのです。彼は続けます「神は、あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、あらゆる善い業に満ちあふれるように、あらゆる恵みをあなたがたに満ちあふれさせることがおできになります」(9:8)。「献金とは、神から与えられた恵みをお返しすることだ」とパウロは語ります。

2.恵みとしての献金

・献金は誰に捧げるのでしょうか。神は献げ物を必要とはされません。しかし、必要とする人たちがいます。私たちの献げ物を用いて、神は私たちの隣人を養われます。今はエルサレムの人々を支援するために私たちは捧げるのだとパウロは語ります。パウロは語ります「種を蒔く人に種を与え、パンを糧としてお与えになる方は、あなたがたに種を与えて、それを増やし、あなたがたの慈しみが結ぶ実を成長させてくださいます」(9:10)。「あなたがたに種を与え、それを豊かに実らせ、食べるパンを与えて下さったのは神ではないか。その神からいただいたものを隣人に与えた時、捧げ物が神の栄光となり、人々は神をほめたたえるようになる」とパウロは語ります。彼は続けます「あなたがたはすべてのことに富む者とされて惜しまず施すようになり、その施しは、私たちを通じて神に対する感謝の念を引き出します。なぜなら、この奉仕の働きは、聖なる者たちの不足しているものを補うばかりでなく、神に対する多くの感謝を通してますます盛んになるからです」(9:11-12)。
・コリント教会では「なぜ私たちがエルサレム教会を支援しなければいけないのか」という反発が強く、人々は献金に消極的でした。その人々にパウロは語ります「この奉仕の業が実際に行われた結果として、彼らは、あなたがたがキリストの福音を従順に公言していること、また、自分たちや他のすべての人々に惜しまず施しを分けてくれることで、神をほめたたえます。更に、彼らはあなたがたに与えられた神のこの上なくすばらしい恵みを見て、あなたがたを慕い、あなたがたのために祈るのです」(9:13-14)。パウロは最後に締めくくります「言葉では言い尽くせない贈り物について神に感謝します」(9:15)。パウロはここで献金を「贈り物」と表現します。ギリシャ語エウロギア、祝福という意味です。「神が私たちを祝福して下さったので、私たちも他者を祝福する事ができる。その祝福の行為こそ、贈り物としての献金なのだ」とパウロは語ります。お金に心を込める時、そのお金は祝福に変わっていくのです。献金は単なる経済行為ではなく、信仰の行為なのです。

3.恵みとしての献金

・今日の招詞に、1コリント12:26を選びました。次のような言葉です「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです」。教会はキリストの体です。ここで言う教会とは、一つ一つの地域教会を超えて存在する「見えざる公同の教会」です。一つ一つの地域教会が集まってキリストの体を形成します。ですから一つの教会が傷めば、他の教会も共に苦しみます。私たちの所属する日本バプテスト連盟には325の教会・伝道所がありますが、そのうち礼拝参加者が10名に満たない教会・伝道所が26もあります。多くは地方教会で、礼拝参加者10名以下の教会の多くは経常献金300万円以下であり財政的に牧師招聘が難しく、牧師のいない教会は消滅危険性が高いとされます。バプテスト連盟ではこのような小教会に様々な財政支援をしていますが、その財源は諸教会から捧げられる協力伝道献金です。
・今回、説教準備をしていて、ギリシャ語の献金には「ロゲイア」という言葉と「カリス」という言葉の二つがあることに気づきました。ロゲイアの語源はロゲオー=集める、集金する、です。現代語では「教会維持献金」になるでしょう。教会が成立すると、その維持経費が必要となり、教会はそれを月約献金、建築献金として、教会員の方々に拠出をお願いします。大事な献金です。しかし、パウロがここで用いている言葉はカリス=恵み、恩恵です。「恵みとして捧げもの」です。「エルサレム教会への献金は、自分の教会には直接的な恩恵をもたらさないが、神の宣教の業に参加する恵みの出来事なのだ」とパウロは語るのです。諸教会に捧げるために用いられる協力伝道献金はもちろんこのカリスになります。また今日、私たちは神学校週間を記念して伊藤真知子姉をお呼びし、讃美と証しの時を持ち、席上献金を神学校に捧げますが、この神学校献金もカリス=恵の業としての献金になります。私たちは自分たちの教会を支えるためのロゲイア的献金は捧げますが、直接の見返りのないカリス的献金を捧げることには躊躇します。
・私たちの教会の場合、建築献金を含めた献金総額は約900万円ですが、そのうち800万円は借入金の返済や牧師給等の教会維持のために用いられ(ロゲイア的献金)、外部に献金しているお金(カリス的献金)は100万円です。そのうち諸教会を支援する原資になる協力伝道献金は30万円です。これまでは60万円を協力伝道として捧げていましたが、会堂借入金の返済負担が重く、今年から30万円に減額しています。ロゲイア的献金がカリス的献金を圧迫しているのです。
・今日の聖書個所は私たちに献金に対する考え方の変更を求めているような気がします。私たちの教会は建築借入金返済や教会債返済積み立てために、当面は年間300万円のお金を必要としています。借入金を返済しているのに外部支援を増やす余裕はないという考え方も成立します。しかしある注解者は語ります「捧げ物の最終基準は捧げた後にどれだけ残るかという計算の結果によるものではない。唯一の基準はキリストの愛である」(アーネスト・ベスト「現代聖書注解・第二コリント」)。
・私たちは一つの教会ではできないことを共同して行うために連盟を結成し、連盟は諸教会からの協力伝道献金や神学校献金をそれぞれ必要な場所に届ける仕事を担っています。「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」、パウロはマケドニア教会の働きについて述べています「兄弟たち、マケドニア州の諸教会に与えられた神の恵みについて知らせましょう。彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなったということです。私は証ししますが、彼らは力に応じて、また力以上に、自分から進んで、聖なる者たちを助けるための慈善の業と奉仕に参加させてほしいと、しきりに私たちに願い出たのでした」(8:1-4)。今は私たちがマケドニア教会になる時です。「捧げることが出来るのは恵みである」、大事な問いかけをパウロは私たちに与えています。


カテゴリー: - admin @ 08時15分34秒

06 10

1.パウロの困難

・今日は第二コリント4章からパウロの言葉を学んでいきます。4章7節「私たちはこのような宝を土の器の中に入れています」はとても印象的な言葉です。ここには二つのことが語られています。一つはパウロが「土の器」であると非難されていた現実です。もう一つはそれにもかかわらず、パウロの語る福音は「宝」といえるほどの価値を持つことです。今日は第二コリント4章をこの二つの側面から学んでいきます。
・第一の側面はパウロが受けていた激しい批判です。パウロは復活のキリストに出会い、キリストから福音を伝える使徒としての務めをいただき、異邦人伝道のために奔走してきました。そしてコリント教会が設立されました。それはパウロにとってわが子のように愛おしいキリスト者の群れです。しかしパウロの伝道活動を喜ばないエルサレム教会の人々は宣教者たちをコリントに遣わし、「パウロはエルサレム教会からの推薦状を持った使徒ではない、またパウロの伝える福音は私たちが承認していない異端だ」と攻撃し、その結果、コリント教会の人々はパウロに疑いを抱き、パウロから離反しようとしています。
・キリストから託された福音を宣教しても、多くの人々は受け入れようとはしません。特にパウロの場合、一旦は福音を喜んで受け入れてくれたコリントの人々が、今は聞こうとはしなくなったのです。何故聞いてくれないのか、しかしパウロは落胆しません。彼は語ります「私たちは、憐れみを受けた者としてこの務めを委ねられているのですから、落胆しません。かえって、卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにすることにより、神の御前で自分自身を全ての人の良心にゆだねます」(4:1-2)。エルサレム教会から派遣された巡回伝道者たちは「パウロは偽使徒であり、その福音は間違っている」と批判したようです。それに対してパウロは反論します「私たちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」(4:3-4)。
・どのような命の言葉も、心を閉じた人には伝わりません。言葉が伝わらない、伝道は失望と落胆の連続です。しかしパウロは伝え続けます。彼は語ります「私たちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。私たち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」(4:5)。イエスの福音には力があり、それはいつか「人々を変えうる」と信じるゆえに伝え続けます。「闇から光が輝き出よと命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」(4:6)。彼は光の中に復活のイエスと出会い(使徒9:3)、福音宣教の使命を与えられたのです。使命を与えられた人間は決して落胆しません。

2.この土の器に

・手紙を書いた当時のパウロは(紀元58年頃)、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動は決してうまく行っていません。コリントの人々は福音を伝えるパウロに注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私は土の器に過ぎない」と語ります。しかし伝えている福音は宝物であると彼は語ります「私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」(4:7)。
・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語ります「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、「四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒された」状況でした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)と言います。この言葉を原文に忠実に訳すると、「途方に暮れても、途方に暮れっぱなしではない」となります。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。
・彼は語ります「私たちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。私たちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(4:10-11)。パウロは「イエスの死を体にまとっている」と語りますが、この「死ぬ」という動詞は通常用いられる「サナトウ」(死ぬ)ではなく、「ネクロイス」(殺される)という言葉です。すなわち十字架で殺されたイエスの体を身にまとっていると彼は言うのです。コリントの人々はパウロを失敗者、廃棄される土の器のように見棄てていました。しかしキリストも十字架上で見捨てられています。イエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。そこには神の祝福も栄光もありませんでした。そこにあったのは神と人に捨てられた惨めな死(ネクロス)だけでした。
・しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。だから神は捨てられた私をも起こして下さるとパウロは確信します。パウロ自身、命の危険をおかしながら伝道しているのです。ユダヤ教徒から、またローマ帝国の官憲から彼は憎まれていました。事実、パウロはこの手紙を書いた7年後(紀元65年)にローマで処刑されています。しかしパウロの心には復活の希望があります。だから、パウロは見棄てられても起き上がります。何故なら、「主イエスを復活させた神が、イエスと共に私たちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、私たちは知っています」(4:14)。

3.希望の福音

・今日の招詞に第二コリント4:16を選びました。今日の宣教箇所に続く言葉です「だから、私たちは落胆しません。たとえ私たちの『外なる人』は衰えていくとしても、私たちの『内なる人』は日々新たにされていきます」。キリストの福音はそれを信じて受け入れる者を変容させる力を持っています。それは人の思いを超える「並外れて偉大な力」です。その福音は土の器に入れて持ち運ばれます。土の器である「外なる人」、死に渡された命は日々衰えていきます。人は年を取れば体力は低下し、気力も低下し、死ねば土に帰ります。しかし、「内なる人」、キリストと共にある命は衰えることがありません。自然の人間は疲れ、絶望します。しかし信仰によって新しく創造された人間、内なる人はそれを突き抜けた命を与えられます。
・私たちはキリストに従う決心をした時、洗礼を受けます。洗礼についてパウロは語ります「私たちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」(ローマ6:4)。洗礼の時、私たちは全身を水の中に入れられて一旦死にます。キリストの死にあずかることによって、私たちは新しく生きる者に変えられます。私たちはこの洗礼を通して、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」存在に変えられていきます。
・私たちが福音を伝えるべき対象の日本人は、今現在、決して幸福ではありません。いろいろな調査を見ると、日本人は「豊かではあるが幸福ではない」という指標が出ています。これまで日本人を支えていた地域の絆、職場の絆、家族の絆がなくなり始め、人々が孤立化しているからです。神学者の栗林輝夫氏は述べます「今日我々が目撃しているのは、経済のグローバル化によって『持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまで取り上げられる』(マタイ13:2)という格差社会であり、大勢の若者がワーキング・プアに転落していく光景である。資本のグローバル化は生産拠点を労働力の安い地域(海外)に移動させ、それまで人々を結びつけてきた地域の文化を根こぎにし、地方の中小都市の街を軒並みシャッター・ストリートにした。かつての日本は一億総中流の経済格差のない社会であったが、今では先進国の中でアメリカに次ぐ格差社会になってしました。その中で日本の教会は何を発信できるのか」。
・私たちは貧困強制社会の中で苦しむ同胞の存在を知っています。勤続10年でも非正規であるゆえに年収が200万円に満たない市役所の臨時職員がいます。大学院を出て博士号をとっても就職先がなく、複数の大学の非常勤講師を掛け持ちし、働いても、働いても暮らしが楽にならない人がいる現実を知っています。現在40歳前後の方は、大学を出た時は就職氷河期でやむなく非正規の職に就き、30歳になった時にはリーマン・ショックのあおりで派遣切りに遭い、40歳の現在はこれまで生活をサポートしてくれた親世代がリタイアし、親子共倒れの危機にある(アラフォー・クライシス)ことも承知しています。その危機の中にある人々に、教会はキリストの福音を発信して、「生きる勇気」を与えうるか。それが私たちの課題です。人生の危機に直面した時、キリストの言葉が私たちを苦難から立ち上がらせる力を持つのか、もしなければ教会などいらない。私たちはキリストの福音こそ宝であり力を持つと信じるゆえに宣教を続けます。
・私たちの人生において、次から次に不運と不幸が襲いかかり、不安と恐れに苦しめられる時があります。神の子とされているのに、何故次々に困難や苦難が与えられるのか、自分は呪われているのではないかとさえ思える時もあります。それは、これまでにもあったし、これからもあるでしょう。その時、私たちはどうして良いのかわからず、途方に暮れます。パウロも途方に暮れましたが、「途方に暮れっぱなしではなかった」。彼は失望から立ち上がる力が与えられました。「十字架で殺されたイエスの体を身にまとって」です。復活のイエスの命が彼のうちに充満し、彼は立ち上がりました。パウロはその感謝を手紙の中で述べています。少し長くなりますが引用しましょう。「兄弟たち、アジア州で私たちが被った苦難について、ぜひ知っていてほしい。私たちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。私たちとしては死の宣告を受けた思いでした。それで、自分を頼りにすることなく、死者を復活させてくださる神を頼りにするようになりました。神は、これほど大きな死の危険から私たちを救ってくださったし、また救ってくださることでしょう。これからも救ってくださるにちがいないと、私たちは神に希望をかけています」(1:8-10)。その神の力は教会の交わりを通して与えられます。パウロの福音はイエスの復活に裏打ちされた「希望の福音」です。この希望に励まされて私たちも生きていくことができるのです。


カテゴリー: - admin @ 08時24分04秒

06 03

1.キリストの香り

・今日から第二コリント書を読んでいきます。コリント教会はパウロが設立し、育ててきた教会でしたが、エルサレム教会の推薦状を携えた伝道者たちが現れ、パウロの説いた福音とは「異なる福音」を説いたため、教会内に動揺と混乱が生じていました。彼らは「キリスト者も割礼を受け、律法を守らなければ救われない」として、パウロの説く「人が救われるのは神の恵みのみであり、割礼を受け、律法を守ることによってではない」という福音を否定しました。その上彼らは「パウロはエルサレム教会からの推薦状を持たないから使徒とは認められない」と批難しました。それに対してパウロは弁明の手紙を書き、それが第二コリント書2章14節から始まる部分です。彼は書きます「神に感謝します。神は、私たちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、私たちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます。救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、私たちはキリストに依って神に献げられる良い香りです」(2:14-15)。
・パウロのイメージしているのは、ローマ軍の凱旋行進です。ローマは世界各地を征服し、勝利を得た軍隊は首都ローマで凱旋行進をして、その勝利を祝いました。行進の最初には征服地から奪った宝物が運ばれていきます。次に捕らえられた敵の王族や将軍たちが鎖に繋がれて歩かされます。彼らは行進が終われば投獄され、処刑されます。次に音楽を奏でる者たちが続き、さらに芳しい香りを放つ香炉を振りながら祭司たちの一団が通ります。そして最後に馬に引かせた戦車に乗る将軍が、将校たちや兵士たちを従えて行進します。祭司たちが振りまく香りは、将軍と兵士たちには喜びと勝利と生命の香りであり、他方戦争捕虜たちにとっては死の香りでした。
・だからパウロは書きます「(私たちは)滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです」(2:16)。「福音の香りも同じであり、受け容れる者には命の香りとなり、拒否する者には死の香りとなる」とパウロは語ります。パウロは先にも語りました「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、私たち救われる者には神の力です」(1コリント1:18)。福音はそれを聞く者に「根本的に生き方を変えるのか、それとも今まで通り生きるのか」の選択を迫ります。そしてコリントの人々はその生き方を変えた。だからあなた方に福音を伝えた私たちは、あなた方に対して、「キリストの香り」という役割を果たしたのだとパウロは語っているのです。

2.キリストの手紙

・パウロは次の17節から言葉を変えて、コリント教会を混乱させている伝道者たちを批判します。「私たちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています。私たちは、またもや自分を推薦し始めているのでしょうか。ある人々のように、あなたがたへの推薦状、あるいはあなたがたからの推薦状が、私たちに必要なのでしょうか」(2:17-3:1)。エルサレム教会の推薦状を持った教師たちがコリントに来て、異なる福音、律法による救いを唱え、教会を混乱させていました。彼らはエルサレム教会の使徒たちからの推薦状を携え、「この推薦状が示す通り、自分たちこそ正当な福音を伝える使者」であり、他方「パウロは何の推薦状も持っていないから偽使徒だ」と攻撃しました。それに対して、パウロは「彼らは神の言葉を売り物にしている商売人に過ぎない」(2:17)と語ります。「神の言葉を語ると称して報酬を得ているだけの存在が、エルサレム教会からの推薦状を持っていても何の価値があるか」と。
・パウロは「本当の推薦状は人からのものではなく、神からいただいた推薦状であり、それはあなたがたなのだ」と語ります。「私たちの推薦状は、あなたがた自身です。それは、私たちの心に書かれており、すべての人々から知られ、読まれています」(3:2)。牧会者にとって、その伝道から生まれた信徒こそ、神からの推薦状です。パウロは「あなた方は私たちの伝道によって、それまでの異教礼拝を止め、イエス・キリストを救い主として受け入れた。あなた方が変えられた、その事こそが私たちに与えられた推薦状だ」と語るのです。彼は次に驚くべきことを語ります「あなたがたは、キリストが私たちを用いてお書きになった手紙として公にされています。墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく人の心の板に、書きつけられた手紙です」(3:3)。コリントに信仰者の群れが生まれた、それこそがキリストの働きなのであり、あなた方はこのキリストの働きの「生きたしるし」なのだと彼は語るのです。この二つの事柄は、私たちに次のことを示します。つまり、「全てのキリスト者は、好むと好まざるとにかかわらず、キリストの香りであり、キリストの手紙なのだ。世の人はキリスト者の生き方を通して、キリストを、そして神がどなたであるかを知るのだ」と。
・ロバート・ベラーという宗教社会学者は、その著「善い社会」の中で、アメリカ・メソジスト教会の一人の牧師の言葉を紹介しています。牧師は語ります「ヘブライ人への手紙の著者が誰であるかはどうでも良い。それは死んだ神学だ。生きた神学はこの書が私の人生にどのような意味を持つのかを教える。ヘブル13章5節は語る「主は『私は、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない』と言われました」。16歳の娘の麻薬が発覚した時、この言葉はどのように私を導くのか。会社が買収されて24年間勤務した職場を去らなければいけない時、この言葉の意味は何なのか、それが問題なのである」(ロバート・ベラー「善い社会」、p207-208)。
・人生の危機に直面した時、キリストの言葉が本当に私たちを苦難から立ち上がらせる力があるのか、そのような体験的神学の学びを通して、私たちは訓練され、聖書が「生きて働く」福音になっていきます。その時、まさに「文字は殺し、霊は生かす」というパウロの言葉の意味が、体験的に理解出来るようになります。ロバート・ベラーは最後に語ります「宗教共同体(教会)はまた、私たちが究極的な問題と取り組むのを助けてくれる。すなわち、費用便益計算(利害損得)以上のもの、欲望以上のものに基づいて生きるための道を探ることである」(同p228)。現代の私たちは利害損得(お金)を宗教としています。しかし聖書は利害を超えるもの、神を愛するように隣人を愛することを求めます。

3.土の器に宝を持って

・今日の招詞として2コリント4:7を選びました。次のような言葉です「ところで、私たちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、私たちから出たものでないことが明らかになるために」。今のパウロは、自分の設立したコリント教会に背かれ、孤独の中にあります。宣教活動は決してうまく行っていません。コリントの人々は福音を伝えるパウロの履歴や外形に注目し、「彼はキリストに直接仕えた直弟子ではないから使徒ではない」とか、「手紙では重々しいが、実際に会ってみると弱々しく、話もつまらない」(10:10)と批判していました。パウロ自身も自分が欠けの多い人間であることを承知しています。だから彼は「私を見るのではなく、私が持ち運んでいる福音を見よ」と語ります。それが招詞の言葉です。パウロは訴えています「私はみすぼらしい土の器かもしれない。あなた方はその私を見て、土の器には何の価値も無いというだろう。しかし、私が土の器だからこそ、神の栄光が現されるのだ。私が金や銀の器であれば、人は私を見てキリストを見ないだろう。だから私は自分が土の器であることを恥じない」と。
・この確信があるからこそ、伝道がうまくいかず、批判され、苦しめられても、落胆しないとパウロは語ります。招詞の次に来る言葉です「私たちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない」(4:8-9)。パウロの置かれた現実は、過酷なものでした。パウロは自分の設立した教会から追放された伝道者なのです。世の人々はパウロを敗残者と考えるでしょう。当時のパウロは「失敗した伝道者、辞任を迫られた牧師、自分の設立した会社から追い出された創業経営者」のような惨めな状態なのです。しかしパウロは「途方に暮れても失望しない」(4:8)。彼は失望から立ち上がる力が与えられた、それが復活のイエスから与えられる力です。
・コリント教会と伝道者パウロの間の信頼関係が崩れています。それにもかかわらず、パウロはコリント教会の人々を「あなたがたこそ私の推薦書、墨ではなく生ける神の霊によって、石の板ではなく、心の板に書かれたキリストの手紙」と呼びます。コリントの人々は教会の主導権を巡って争い、誘惑に負けて不品行を行い、金持ちと貧しい人は分断していました。それでも彼らは教会から離れず、パウロから離れず、主に従って生きたいともがいていました。それは赤裸々な人間の現実の中にあってもなお主から、教会から離れない私たちと同じです。私たちもまた「キリストの手紙」であり、世の人は私たちを見て、「キリストはどなたか」を知るのです。
・パウロは喜怒哀楽の激しい人で、誤解を生みやすい言行がありました。彼は雄弁な説教者ではなかった。しかしパウロは全てを捨ててコリント伝道のために尽しました。そして今も教会からの誹謗中傷に耐えながら、涙ながらに手紙を書いています。このパウロを動かしているのは神です。彼は語ります「私は信じた。それで、私は語ったと書いてある通り、それと同じ信仰の霊を持っているので、私たちも信じ、それだからこそ語ってもいます」(4:13)。私たちもパウロと同じ「信仰という宝物」を神からいただきました。それを入れている容器である私たちは、落とせば割れる土の器ですが、いただいているのは宝物なのです。ですから私たちはキリストの香りになりうるし、キリストの手紙になりうるのです。


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05 27

1.復活と体のよみがえり

・私たちにとってこの世で一番大切なものは何でしょうか。イエスは、それは命であると言われました「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ 9:25)。その通りだと思います。だから、私たちは教会に集まり、神の言葉を聞きます。しかし、私たちは言葉を信じきることが出来ませんから、言葉によって命が与えられません。命が与えられないから、信仰が私たちの生活を揺り動かさない。コリントの人々も同じでした。だからパウロはコリントの人々に手紙を書きました。その手紙の核心部分が今日読む第一コリント15章です。
・この箇所には、「死をどのように考えるか」が、記されています。パウロはコリントの教会に人々に語ります「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(15:12)。コリントの人々はキリストが死から復活したことは信じていました。しかし、コリントの人々は、「キリスト・イエスは神の子だから復活したのであって、それは人間である自分たちとは何の関係もない出来事だ」と理解していました。彼らはギリシア的な霊魂不滅の考え方から、人の肉体は滅びると考えていました。だから「死者の体が生き返る」ということが起こるはずはないと考えていました。その彼らにパウロは語ります「死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです」(15:13)。
・キリスト教は、「キリスト・イエスが復活した、だからキリストを信じる者もまた死を超えた命に生きることが出来る」という信仰の上に建てられています。パウロは語ります「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてある通り、三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです」(15:3-5)。イエスはローマ帝国により十字架刑で処刑され、墓に葬られました。その死んだイエスが弟子たちに現れた、その顕現体験から「イエスは復活された」という復活信仰が生まれ、その視点から「イエスの死は私たちの罪のためであった」という贖罪信仰が生まれました。この贖罪信仰と復活信仰こそ、聖書の語る福音です。パウロはコリントの人々に、あなた方はこの福音を否定しているのだと迫ります。
・そして彼は語ります「キリストが復活しなかったのなら、私たちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です」(15:14)。復活、体のよみがえりをどう理解するかは難しい問題です。イエスが十字架刑で殺され、葬られたことは歴史的な事実です。十字架刑の時に逃げ去った弟子たちが復活のイエスに出会い、「イエスはよみがえられた」として教会を形成していったことも歴史的事実です。しかし出来事の基底にある「イエスの死からの復活」は、歴史的な言葉では表現できず、あえて表現すれば「弟子たちの共同心理体験」と言わざるを得ないでしょう。しかしパウロ自身、復活のイエスに出会っています「最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました」(15:8)。だからパウロは確信を持って語ります「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(15:20)。人は死んだのち眠りにつく、その死者の中からキリストが復活された。キリストが初穂であり、私たちもキリストに従って復活する、だから「死は勝利にのみ込まれた」(15:54)とパウロは語るのです。

2.私たちは死んだらどうなるのか

・「復活を信じることの出来ない人生を考えてみなさい」とパウロは訴えます。人が死ぬだけの存在に過ぎないとすれば、現在を楽しむしかない。「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」(15:32)、そのような人生は死刑囚が刑の執行前にご馳走を食べるのと同じです。「どうせ死ぬのだ」、そのような言葉を聞くために、あなたがたは教会に来たのかとパウロは怒ります。現代の日本人は、死を出来るだけ考えないように、現在の生を楽しもうと生きています。おいしいものを食べ、楽しく、愉快に暮らすのが、日本人の求める幸福です。しかし、そんなものは幸せでもなんでもなく、死を見ようとしないだけの生活であり、仮に死が牙をむいて家族の一員に襲い掛かれば、たちまち崩れます。1985年8月12日に日航機が群馬・御巣鷹山に落ち、520人の方々が亡くなり、30年が経ちましたが、遺族は今でも命日に慰霊登山をされます。30年たっても死は人々を苦しめている、死の力はどうしようもなく大きい。この死を避けて、見ないようにして生きる生活は、「まやかし」です。今、私たちの生活から死が隠されています。死は病院や老人ホームでこっそりと取り扱われています。それでも私たちは死を見ないわけには行かない。いつかは私たちにも訪れるからです。死んだ後、私たちはどうなるのか、この大事な問題が生活の中で語られず、人々は死への準備なしに死んでいく。これは不幸なことだと思います。
・大阪・淀川キリスト教病院で長い間働いていた医師の柏木哲夫さんは、多くの方の死を看取りました。彼は語ります「死を前にした患者さんは必ず、“人間が死ぬというのはどういうことなのか”、“死後の世界はあるのか”、“死んだ後どうなるのか”と聞いてくる」。彼はキリスト者でしたが、その問いに対して何も答えられませんでした。死後のことは誰にもわからないのです。しかし、彼は多くの人の死を看取った経験から語ります「人は死を背負って生きていく」、人はいつ何時死ぬかわからない存在であるという意味です。そしてまた「人は生きてきたように死ぬ」と語ります。それまでの生き方が死に反映されるということです。そして柏木先生は、「多くの人はあきらめの死を死ぬ」と言います。死にたくないのに死んでいく人が多いのです。しかし、「死を新しい世界への出発だと思えた人は良い死を死ぬことが出来た」と語ります。
・コリントの人々はパウロに反論しました「死んだ後のことはわからないではないか」。その疑問に答えて、パウロは種の例えを語ります。「種は土に蒔かれて形をなくし、一度死ぬ。その死の中から新しい命が、新芽が生まれてくる。種と新芽は違う形をとるが、それは同じ命、同じ種だ。蒔かれた種は「新芽」と言う形でよみがえり、成長して30倍、60倍の実を結ぶ。「一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)という不思議を見ながら、死んだ人間が再び生きる不思議を何故信じないのか」とパウロは語ります。自然界には実に多くの相違した肉があり、身体があります。朽ちる、卑しい、肉の身体で蒔かれる、それが人間の死です。その人間が朽ちない、輝かしい、力強いものとしてよみがえる、それが復活です。種が一旦死んで新しい芽として芽生えてくるように、肉の身体が死に、霊の身体で生き返る。その時、障害を持つ身体も、年老いた身体も、輝く身体としてよみがえる。その希望を持つことが出来るのだとパウロは語ります。よみがえりの身体は今の身体とは違うものになるでしょう。それにもかかわらず、種と植物が同じ生命であるように、死後の身体も、同じ存在、私は私、あなたはあなたとしてよみがえる。神はキリストをよみがえらせられたように、私たちをも生かして下さる。この希望を信じる時のみ、人は死の恐怖から解放されます。

3.復活信仰と日々の生活

・今日の招詞に1コリント15:54-55を選びました。次のような言葉です「この朽ちるべきものが朽ちないものを着、この死ぬべきものが死なないものを着る時、次のように書かれている言葉が実現するのです。『死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか」。死のとげ、死に対する恐怖は克服されたとパウロは語ります。人は死んだらどこに行くのか、誰もわかりません。イエスもパウロも死後の生については多くを語りません。聖書は、死後の世界は「人間には理解不能な領域」であり、それは神に委ね、「現在与えられた生を懸命に生きよ」と教えます。私たちは聖書に書いていないことを想像力たくましく語ることは控えるべきです。
・例えば「天国と地獄」は人間の想像の賜物であり、「善人は天国へ、悪人は地獄へ」という発想は聖書の考え方ではありません。人間の想像するような天国や地獄はないのです。同時に「霊魂不滅」も、聖書的な考え方ではありません。日本人の死生観は「肉体は死んでも魂はあの世に行き、里帰りする」というものです。「千の風になって」というアイルランドの歌が日本でも広く受け入れられたのは、この霊魂不滅という考えを共にするからです。この考え方は日本人の情緒に訴えますが、何の根拠もなく、単に人間の願望(死というこの世の別れを経験しても、霊魂として愛する者たちとの再会を願う)を反映したものに過ぎません。
・矢内原忠雄は昭和23年に語りました「かつてエゼキエルは敗戦の悲しみにある同胞に対して、『枯れた骨が生き返る』という復活の信仰を語りました(エゼキエル37:11-12)。今度の戦争によって、世界の至る所に、谷にも平野にも、海の底にも町にも、枯れた骨が散乱しました。これらの枯れた骨が生きた人として生き返るということは、驚くほど大きな言葉であります。科学はもちろん、これを否定するでしょう。しかし、科学の否定によって否定しきれない魅力が、この思想の中にあります。我々の愛する者の骨が白く戦場に散乱した時に、我々を慰めて、生きる力を与え、希望を与えてくれるものは、この信仰であります。「復活」を信じるならば、私どもに命があり、私どもは、再び起ち上がります。イエス・キリストによる復活の信仰、それだけがこの敗戦の焦土に立つ尽くす私どもに根本的な解決を与えてくれるのです(矢内原忠雄「人の復活と国の復活」、昭和23年3月28日、内村鑑三先生記念講演より)。
・パウロはコリント15章の終わりで言います「兄弟たち、動かされないようにしっかり立ち、主の業に常に励みなさい。主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです」(15:58)。私たちの肉体は朽ちます。クリスチャンも、そうでない人も同じく死にます。しかしキリストを信じる者はよみがえります。復活がないとすれば、私たちの生涯は死で終わり、怯えて暮らすしかありません。「われは身体のよみがえり、とこしえの生命を信ず」、使徒信条の一節です。ここに私たちの信仰がかかっています。そして「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならない」と約束されています。


カテゴリー: - admin @ 07時58分17秒

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