すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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08 20

1.血を流すな

・創世記から御言葉を聞いています。創世記は6章から9章が洪水物語です。洪水物語は世界各地にあります。過去の大洪水の記憶が伝説となったものでしょう。イスラエルは紀元前587年にバビロニア帝国に国を滅ぼされ、住民はバビロンの地に捕囚となりました。イスラエルが幽閉されたメソポタミアには、有名なギルガメシュ叙事詩(洪水物語)が残されており、捕囚の民はその叙事詩に題材を得て、創世記の洪水物語を編集していったと言われています。創世記の洪水物語は歴史上の出来事の報告というよりも、国を滅ぼされ、破局を経験した民族が、洪水伝承を用いて、自分たちへの罪の裁き=国の滅亡という出来事の中に、神の救いを見出していった信仰の記録です。今日学びますのは、創世記9章、「洪水の後の祝福」です。神は洪水の後、ノアと契約を結ばれました。
・洪水によって地上のすべての生き物は、箱舟に逃れたノアとその一族、動物たちを除いて滅ぼされました(7:23)。やがて水が引き、ノアと家族は箱舟から出て、救われた感謝を込めて礼拝を行います。その礼拝に神は応答されます「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私は、この度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。神の赦しの中で新しい世界が始まり、神はノアと息子たちを祝福して言われます「産めよ、増えよ、地に満てよ」(9:1)。そこにある言葉は最初の創造物語と同じ祝福であり、世界は洪水という徹底的な裁きを経て、再創造されたと創世記記者は伝えます。洪水を通じてそれまでの悪に満ちた世界は滅ぼされ、新しい世界が生まれました。
・しかし洪水は悪そのものを水に流したわけではありません。箱舟を出たノアと家族の心にも悪があります。神はその悪を許容した上で人を祝福されます。「地のすべての獣と空のすべての鳥は、地を這うすべてのものと海のすべての魚と共に、あなたたちの前に恐れおののき、あなたたちの手にゆだねられる。動いている命あるものは、すべてあなたたちの食糧とするがよい。私はこれらすべてのものを、青草と同じようにあなたたちに与える』」(9:2-3)。創造されたばかりの人間に与えられた食物は穀物と果実でした「見よ、全地に生える、種を持つ草と種を持つ実をつける木を、すべてあなたたちに与えよう。それがあなたたちの食べ物となる」(1:29)。今回は肉食が許されています。肉食を許されたのは、他の動物を殺してその肉を食して生きる人間の罪を、神は受け入れて下さったとの創世記記者の理解でしょう。
・肉食とは、「動物の命」を奪う行為です。すべての動物はいつ殺されるかわからないゆえに、人の前に「恐れおののき」ます。神はその動物の肉を食べることを許されますが、「ただし、肉は命である血を含んだまま食べてはならない」(9:4)と命じられます。人間に与えられたのは肉であって血ではない。血は神のもの、それを確認するために動物を殺す時は必ず血抜きをして、血を神に(大地に)戻せと命じられています。このためにユダヤ人は今でも血抜きをした肉(カーシェール)以外は食べません。肉を食べても命である血は食べない。それは「肉を食する時は、生きるためにやむを得ず、他の命を殺すという感謝と恐れを覚えて食べよ」ということです。
・そして血は命であるから、「人の血を流すな」と命じられます。「また、あなたたちの命である血が流された場合、私は賠償を要求する。いかなる獣からも要求する。人間どうしの血については、人間から人間の命を賠償として要求する。人の血を流す者は人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(9:5-6)。「人を殺すな、人は神にかたどって造られた、人を殺すことは神に敵対することだ」と語られます。「人の血を流す者は人によって自分の血を流される」、イエスはこのことを「剣を取る者は皆、剣で滅びる」(マタイ26:52)と言い換えられました。「殺すな」、聖書に一貫して流れる命令です。ですから聖書は本筋ではどのような戦争も肯定しません。聖戦や正しい戦争などないのです。

2.契約のしるしとしての虹

・神はノアとその家族、そしてすべての生き物と、新しい契約を結ばれました。「あなたたち、ならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえに私が立てる契約のしるしはこれである。すなわち、私は雲の中に私の虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。私が地の上に雲を湧き起こらせ、雲の中に虹が現れると、私は、私とあなたとの間に立てた契約に心を留める。水が洪水となって、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」(9:12-15)。神は「二度と人と生き物を滅ぼすことはしない」と約束され、そのしるしとして虹を置かれたと創世記記者は語ります。虹はヘブル語「ケシェト」、弓を意味します。英語のrainbowも「雨の弓」の意味です。虹を雲の中に置くとは、武器である弓を置いて、もう使わない、もう人を滅ぼさないと約束することです。これが洪水後の世界の始まりでした。
・神は人が罪を犯し続けることを承知の上で、「もう滅ぼさない」という和解の契約を立てられ、しるしとして虹を立てられました。それは人が洪水に洗われて清くなったためではなく、「人が滅びるのを見ることは悲しいからだ」と神は言われています。神が自己の正しさを放棄され、被造物がどのように罪を犯し続けても、これを受け入れると約束された。洪水物語の焦点は洪水そのものにあるのではなく、洪水の後、「もう人を滅ぼすことはしない」と言われた神の言葉に、国を滅ぼされたイスラエルの民が民族の再生の希望を見出していった点にあるのです。
・創世記は「神は人間に肉食を赦されたが、流血は固く禁じられた」と語ります。「人を殺すな、人の命は神にかたどって造られた、人を殺すことは神に敵対することだ」と創世記は語ります。しかし現実の社会では、洪水による再創造後も人は殺し合いを続けています。人間の歴史は戦争(殺し合い)の歴史です。神が武器である弓を置いて、「もう使わない、もう人を滅ぼさない」と約束されたにも関わらず、人は神の約束を信じることができず、自分を守るために、武器で隣人を殺し続けています。この現実の中で私たちはノアの洪水物語を聞いています。

3.絶望の中に希望を見ていく

・今日の招詞にイザヤ43:1-2を選びました。次のような言葉です「ヤコブよ、あなたを創造された主は、イスラエルよ、あなたを造られた主は、今こう言われる。恐れるな、私はあなたを贖う。あなたは私のもの。私はあなたの名を呼ぶ。水の中を通る時も私はあなたと共にいる。大河の中を通ってもあなたは押し流されない。火の中を歩いても焼かれず、炎はあなたに燃えつかない」。イザヤ書は40章から第二イザヤと呼ばれ、捕囚末期の預言が集められています。イスラエルはイザヤを通して与えられた神の約束を信じて、捕囚期を耐え抜き、70年後に故郷エルサレムに戻り、神殿を再建することが出来ました。
・エルサレムに戻ったユダヤの民は紀元前521年に神殿を再建しますが、その後も政治的な独立は得られず、ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配下で苦しめられ、紀元70年には再建した神殿もローマにより再び破壊させられ、その後再建されることはありませんでした。その後のユダヤ人は国をなくした「流浪の民」として世界各地に散らされ、各地で「キリストを殺した民」として迫害を受け、終にはナチス・ドイツによるホロコーストによる民族大虐殺を経験します。
・第二次大戦中のホロコースト(ユダヤ人大虐殺)後、多くのユダヤ人は「神に見捨てられた」という思いをひきずっていました。「なぜ神は天上から介入して我々を救わなかったのか」、若いユダヤ人の中には信仰を棄てる人たちも出て来ました。その時、ユダヤ教のラビ、エマニュエル・レヴィナスは、あなたたちの信仰は「大人の信仰ではなく、幼児の信仰だ」と語りました。「人間が人間に対して行った罪の償いを神に求めてはならない。社会的正義の実現は人間の仕事である。神が真にその名にふさわしい威徳を備えたものならば、『神の救援なしに地上に正義を実現できる者』を創造したはずである。わが身の不幸ゆえに神を信じることを止める者は宗教的には幼児にすぎない。成人の信仰は、神の支援抜きで、地上に公正な社会を作り上げるという形をとるはずである」(レヴィナス「困難な自由」内田樹訳)。彼自身も両親や家族をホロコーストで亡くしています。
・成人の信仰とは何でしょうか。1943年にワルシャワのゲットーでドイツ軍に殺されたヨセル・ラコーバーは死を前に手記を書きました「神は彼の顔を世界から隠した。彼は私たちを見捨てた。神はもう私たちが信じることができないようなあらゆることを為された。しかし私は神を信じる」(Yosl Rakover Talks to God by Zvi Kolitz)。これこそが成人の信仰です。この成人の信仰が、イエスが最後の晩餐の時に語られた言葉の中にもあります。イエスは語られました「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」(マルコ14:25)。死んでもまた会えるではないか、その時はお互いに「喜びのぶどう酒を飲もう」とイエスは約束されました。
・そのイエスは十字架上で「わが神、わが神、何故、私をお見捨てになったのか」と叫んで死んでいかれました。しかし神はその捨てられたイエスを死から起こされた。神はイエスを棄てられなかった。だから神は人に捨てられた私をも起こして下さると確信します。人生はいつも思い通りに行くわけではありません。神の約束を疑わずにいられないほどの失望や悲しみが襲ってくることもあります。その中で信じ続ける信仰こそ、成人の信仰です。だから出口の見えない困難な状況の中でも、静かに神の声を待ち望みます。「死を超えた命を信じる」とはそういうことです。だから私たちは、「私はあなたと共にいる」という神の約束を信じます。そして守ってくださる神に感謝し、礼拝します。ノアと家族が箱舟から出て、救われた感謝を込めて礼拝を行うように、です


カテゴリー: - admin @ 08時17分08秒

08 13

1.洪水の始まりと水の氾濫

・ノアの洪水の二回目です。創世記は6章から9章が洪水物語であり、6章で洪水の始まりを、7章で洪水の出来事を、8章で洪水の終わりを描きます。前回私たちは、ノアが作れと命じられた「箱舟」がエルサレム神殿と全く同じ大きさであることを学びました。ノアの洪水を描いた記者たちは、国が滅ぼされ、神殿も破壊されて、異国の地に捕囚となっている祭司たちだと考えられています。記者は洪水という惨事の中で箱舟の8人を残してくださった神の行為に、自分たちの将来の救済を叫んでいたのです。今日は8章を中心に「洪水の私たちへのメッセージ」を聖書から聞いていきます。最初に洪水の経緯を7章までさかのぼって見てみます。7章4節から洪水が予告されます「七日の後、私は四十日四十夜地上に雨を降らせ、私が造ったすべての生き物を地の面からぬぐい去ることにした」(7:4-5)。
・洪水が始まります「ノアが六百歳の時、洪水が地上に起こり、水が地の上にみなぎった。ノアは妻子や嫁たちと共に洪水を免れようと箱舟に入った。清い動物も清くない動物も、鳥も地を這うものもすべて、二つずつ箱舟のノアのもとに来た。それは神がノアに命じられた通りに、雄と雌であった。七日が過ぎて、洪水が地上に起こった・・・この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」(7:6-11)。雨は降り続き、地には水が満ち、箱舟は水の上を漂流します。創世記は記します「洪水は四十日間地上を覆った。水は次第に増して箱舟を押し上げ、箱舟は大地を離れて浮かんだ。水は勢力を増し、地の上に大いにみなぎり、箱舟は水の面を漂った。水はますます勢いを加えて地上にみなぎり、およそ天の下にある高い山はすべて覆われた。水は勢いを増して更にその上十五アンマに達し、山々を覆った」(7:17-20)。その結果、大地の生き物はすべて息絶えます(7:21-24)。
・しかし、洪水も終わりの時を迎えます。創世記は「神は、ノアと彼と共に箱舟にいたすべての獣とすべての家畜を御心に留め、地の上に風を吹かせられたので、水が減り始めた」と記します(8:1)。水が減るとノアは最初に烏を、次に鳩を放って、水の減り具合を確かめます(8:6-9)。しかし、烏も鳩は止まる所が見つからなかったので、箱舟のノアのもとに帰って来ました。さらに7日待って鳩を放すと、鳩はオリーブの木の葉をくわえて戻りました(8:11)。水が引き始めて木の枝が現れて来たのです。「鳩とオリーブ」は象徴的な光景です。鳩がオリーブの枝を嘴にくわえてきたことから、この姿が平和のシンボルとなり 「オリーブの枝を差し出す」ことが和解のしるしとされていきます(1949年、パリ国際会議で、ピカソがデザインしたポスターが作られ世界中に浸透した。ピカソもまたスペイン内戦という惨事を経験している)。さらに7日後に鳩を放つともう戻らなかった、水が完全に引いたのです(8:12-14)。

2.洪水の終わり

・洪水が終わり、地も乾き、ノアと家族は箱舟を出ます(8:15-19)。下船したノアが最初に行ったのは礼拝でした。彼は祭壇を築き、清い家畜と鳥を、焼き尽くす献げものとして捧げます(8:20)。自分たちの罪を悔い、その中で命を残してくださった神に感謝するためです。焼き尽くす捧げものの「宥めの香りをかいだ」神は、次のように言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい。人が心に思うことは、幼い時から悪いのだ。私はこの度したように生き物をことごとく打つことは、二度とすまい。地の続くかぎり、種蒔きも刈り入れも寒さも暑さも、夏も冬も昼も夜も、やむことはない」。(8:21-22)。「人が心に思うことは、幼い時から悪い」、人間の悪自体は変わらない。しかしそうであっても「私はそれを受け入れる」との神の宣言がここにあります。
・人は罪を重ねますが、神は滅ぼし尽くすことはされません。必ず残りの者を残され、彼らから新しい共同体が形成されます。そのことに捕囚の民は希望を見ています。捕囚地の預言者と言われる第二イザヤは、バビロン捕囚からの解放をノアの洪水を通して聞いています「これは、私にとってノアの洪水に等しい。再び地上にノアの洪水を起こすことはないとあの時誓い、今また私は誓う。再びあなたを怒り、責めることはないと」(イザヤ54:9)。「神は私たちを赦してくださった」との喜びの声です。洪水の後で変化したのは人間ではなく、神でした。神は「人間の悪を耐え忍び、受け入れられた」と創世記記者は語ります。

3.人間を罪のままに受け入れられる神

・今日の招詞として第一ペテロ3:20-21を選びました。次のような言葉です「この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです」。洪水の後、神は人を再び滅ぼすことはしないと約束されました。どのような苦難も有限なものになりました。バビロンの地で絶望の中に沈む民は、ノアに語られた神の言葉に、自分たちの生存の希望を見出していきました。洪水物語は新約聖書記者にも大きな影響を与えました。ペテロは洪水の意味をバプテスマの中に見ています。私たちはバプテスマによって葬られ、水から上がって復活の命に生きます。人は救われるために一度死なねばならない。洪水を通してこそ救いがあるとペテロは言っています。
・「ノアの洪水」の記事は、私たちには2011年に起こった「東日本大震災」の出来事と重なります。千年に一度といわれた東北沿岸部で発生した巨大地震は大津波(大洪水)を引き起こし、地上の家や自動車を破壊し、多くの人命を奪いました。私たちはその映像を見て大きな衝撃を受けました。同じく洪水を目撃したノアとノアの家族も、大きな衝撃をうけたはずです。東日本大震災の死者は2万人を超えましたが、ノアの洪水では、ノアとその家族、選ばれた動物以外、息あるものはすべて絶えてしまいました。洪水により、ノアの時代まで続いた世界は一旦、終止しました。神は苦悩と忍耐を持って、被造物が悔い改めるのを待っておられたがそうはならなかった、故に一旦滅ぼすことを決意された。しかし、悪に満ちた人間の中でノアだけが神に従う者であることを見出され、ノアとその家族を残されました。洪水は滅びではなく、より良き未来のための再創造だったのです。洪水の後、神は言われます。「人に対して大地を呪うことは二度とすまい・・・生き物をことごとく打つことは、二度とすまい」(8:21)。
・神は「もう人を滅ぼすことはしない」と誓われました。バビロン捕囚も天罰ではありませんでした。捕囚期の預言者エレミヤは語りました「剣を免れた者は荒れ野で恵みを受ける」(31:2)、荒野(捕囚)は単なる苦難の場ではなく、人がそれを受けいれる時、恵みの場になるという意味です。古代に活躍した民族のほとんどは死に絶えましたが、その中でユダヤ民族だけは生き残りました。バビロン捕囚を経験し、悔い改め、その結果「神の言葉を聞きながら歩む」民として再生したからです。同じように、3.11の洪水も裁きではあっても、天罰ではありません。3.11の大洪水を神が与えられた裁きとして受け止めた時、新しい時代を開くものになります。
・今回の震災による最大の衝撃は、大洪水による福島での原発事故でした。私たちは事故を通して、首都圏の電力が域外の東北で作られていることを知りました。福島や新潟に原発を建設したのは、人口密集地では事故時の被害が大きく、過疎地にしか原発立地が認められないからです(原子炉立地審査指針)。事故の危険性を福島や新潟に押し付けることを通して首都圏の繁栄があった。これは正義ではありません。私たちは洪水を通してそれを教えられました。また今回の事故を通して核廃棄物を現代の技術では無害化できないことを改めて知りました。核廃棄物の無害化には最大10万年かかると言われていますが、70年か80年しか生きることのできない人間にとって、10万年は予測できる範囲をはるかに超えています。それを知った上でなお原子力発電を継続することは不誠実です。さらに日本に原発が導入された契機は核爆弾に転用しうるプルトニウム生産のためであったことも知りました。日本はこのたび国連で取り決められた核兵器禁止条約に参加しませんでしたが、それは将来的には核保有国になりたいとの願望があるためだと考えられています。広島や福島を体験した国として、節度を破壊する行為です。
・東北は首都圏住民に電力を供給するための原子力発電所を引き受けてきました。それは原発交付金や、原発関連企業の雇用と引換に原発のリスクを背負わされたものでした。そのリスクは想定を超えるもので、そのために東北の地は汚されました。このような現実の中で、私たちは「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように、尽きることなく流れさせよ」(アモス5:24)という神の声をどのように聞くのでしょうか。神は「もう人を滅ぼすことはしない」と誓われました。神は今回の洪水を通して、私たちが新しい世界を築くことを待っておられます。イスラエルの民はバビロン捕囚という裁きを通して、創世記という信仰の書を書き上げました。戦後の日本は戦災と広島・長崎の原爆被害という苦渋を経て、戦後の平和・民主主義国家へ転換しました。同じように神は洪水後の新しい世界が、「正義と公平」に満ち溢れることを期待されておられるのではないでしょうか。それができるのは、神のみ旨を求めていく教会だけなのです。そこに教会の役割があります。どうすれば「洪水が恵みになりうるのか」を考え、求め、告げ知らせる役割が私たちにあることを、ノアの物語は示します。


カテゴリー: - admin @ 08時03分07秒

08 06

1.洪水伝承

・創世記を読み続けています。今日から3回にわたって「ノアの洪水物語」を見ていきます。洪水伝説は世界各地に伝わっています。おそらくは氷河期末期に起こった地球温暖化により世界各地で氷河が融けて大洪水が起こり、その記憶が伝説となって伝わったものと思われます。あるいは地殻変動に伴う津波で大洪水が起きたのかもしれません。世界各地に伝わっているということは、何度も異なる場所で大洪水が起きたことを想起させます。その大洪水に関する最古の資料が1872年にバビロニアの遺跡から発見された「ギルガメシュ叙事詩」で、5千年前にさかのぼるとされます。考古学者はこの叙事詩が創世記ノアの洪水物語の底本になったとみています。
・創世記の洪水物語は6章5節から始まります。創世記は語ります「主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。主は言われた『私は人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。私はこれらを造ったことを後悔する』」(6:5-7)。すべてが「良し」として創造された世界なのに(1:31)、いまや人は自分が神になろうとして、隣人を支配し、搾取する存在になり果てている。その事実を神は見られ、この世界をいったん滅ぼすことを決意されたと創世記記者は記します。
・創世記は6章9節から祭司資料と呼ばれる記事になります。記事を書いたのはバビロン捕囚期のユダの祭司たちで、彼らはイスラエルが滅亡し、自分たちが捕囚としてこのバビロンに流されたのは、自分たちが犯した罪の故だと考えています。彼らはバビロンの地でギルガメシュ物語を読み、そこにある洪水伝承を自分たちの物語として読み取りました。6:11-13にその罪責告白があります「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。神はノアに言われた『すべて肉なるものを終わらせる時が私の前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、私は地もろとも彼らを滅ぼす』」。捕囚地の祭司たちは自分たちの罪の現実を洪水物語という形で記述しているのです。しかし同時に、彼らは「神は一人の正しい者(ノア)に眼を留められ、彼を通して世界を再創造された」と記します。神が「すべて肉なるものを終わらせる」と宣言されたにもかかわらず、ノアを助けて下さったように、自分たちもいつの日か罪を赦されて故国に帰ることができる、その希望がノアの生存に託されています。
・この理解の根拠は箱舟の大きさです。神が指示された箱舟の大きさは、滅ぼされたエルサレム神殿の大きさとまるで同じなのです。創世記は記します「箱舟の長さを三百アンマ(135メートル)、幅を五十アンマ(22.5メートル)、高さを三十アンマ(13.5メートル)にし、箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい」(6:3-5)。エゼキエル書40-43章、列王記上6-7章に示されるエルサレム神殿と同じ大きさです。創世記記者(祭司資料記者)は箱舟の大きさをエルサレム神殿と同じくすることによって、箱舟建設の中にエルサレム神殿の再建、捕囚からの解放を祈願しています。その箱舟にはすべての生き物のつがいが一組ずつ入るように命じられます(6:17-22)。

2.洪水の始まり

・洪水の具体的な記事は創世記7章10節から始まります。「七日が過ぎて、洪水が地上に起こった。ノアの生涯の第六百年、第二の月の十七日、この日、大いなる深淵の源がことごとく裂け、天の窓が開かれた」(7:10-11)。いよいよ雨が降り始めます。創世記は記します「雨が四十日四十夜地上に降り続いたが、まさにこの日、ノアも、息子のセム、ハム、ヤフェト、ノアの妻、この三人の息子の嫁たちも、箱舟に入った。彼らと共にそれぞれの獣、それぞれの家畜、それぞれの地を這うもの、それぞれの鳥、小鳥や翼のあるものすべて、命の霊をもつ肉なるものは、二つずつノアのもとに来て箱舟に入った。神が命じられたとおりに、すべて肉なるものの雄と雌とが来た。主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」(7:12-16)。「主は、ノアの後ろで戸を閉ざされた」、ノア一族と動物たちの箱舟生活が始まったのです。
・他方、箱舟の外では洪水が荒れ狂っています。創世記記者は書きます「地上で動いていた肉なるものはすべて、鳥も家畜も獣も地に群がり這うものも人も、ことごとく息絶えた。乾いた地のすべてのもののうち、その鼻に命の息と霊のあるものはことごとく死んだ。地の面にいた生き物はすべて、人をはじめ、家畜、這うもの、空の鳥に至るまでぬぐい去られた。彼らは大地からぬぐい去られ、ノアと、彼と共に箱舟にいたものだけが残った」(7:21-23)。ノアと箱舟にいたものたちを除いて、すべての生き物が死に絶えるという悲惨な出来事が起こされたのです。

3.晴れた日に箱舟を造る

・今日の招詞にマタイ24:37-39を選びました。次のような言葉です「人の子が来るのは、ノアの時と同じだからである。洪水になる前は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲って来て一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった。人の子が来る場合も、このようである」。ノアは晴れた日に洪水に備えて箱舟を造り、周りの人々はノアを嘲笑しました。「どこに洪水の兆候があるのか」、嘲笑した人々は残らず死んだとイエスが語られています。
・今日科学者の間で「ノアの箱舟」の再評価が起きています。地球温暖化により氷河や凍土が解け、海水面が上昇し、再び大洪水が起こることが懸念されているからです。また温暖化による海水温の上昇で、気象変動が激しくなっています。政府の調査では、「日本の年平均気温は19世紀末以降1.1度上昇し、温室効果ガスの排出が多いままだと今世紀末には20世紀末より4.4度上昇する。その結果、洪水、水害については、時間雨量が50ミリを超える短時間豪雨や総雨量が1000ミリを超える豪雨は現在より頻繁に発生して、降雨総量も今世紀末には最大3割増加し、防水施設の能力を超えた水害が頻発する。また高温による死亡リスクは、今世紀末には最大3.7倍になり、熱中症は、今世紀半ばに全国の大半の地域で搬送者が2倍以上になる」と予測されています(2015.10.23「気候変動の影響への適応計画」)。もはや「晴れた日に箱舟を造る」ノアを笑えない現実が来つつあるのです。招詞の言葉は、イエスが「人は危機が迫らないと行動しない。あなたがたも洪水=終末に向けて備えるように促して」おられるのです。
・私たち日本人も2011年3月11日に千年に一度ともいわれる大津波(大洪水)を経験しました。太平洋沖で起こった大地震が三陸海岸に大津波を起こし、2万人近い方が亡くなりました。マグネチユ−ド9の強大な地震エネルギ−は東北沿岸部を呑みこむ津波となり、地上の家や自動車を、まるで籾殻のようにもてあそんで、多くの人命を奪いました。私たちは津波の映像を見て大きな衝撃を受けました。そして思いました「神はなぜこのような災害を私たちに与えられるのか。亡くなった人たちはそうでない人々よりも罪深かったのか。たまたまその地に住んでいただけではないか」。神は世界と人間を良いものとして創られた(創世記1:31)、それなのに大震災のような悲劇が起こるのは何故かと思います。これは十字架上でイエスが問われた問い「わが神、わが神、何故私を見捨てられるのか」(マルコ15:34)と同じように、答えの見つからない不条理です。
・震災後の日本の教会で、ヨブ記がもう一度読み直されています。ヨブ記は「罪もないのになぜ私に苦難をお与えになるのか」と叫んだヨブを通して、「世界の不条理」を正面から問う書だからです。旧約学者の並木浩一氏は「ヨブ記からの問いかけ」という短文の中で語ります「ヨブ記の中で神が言及する地球物理的な自然は・・・固有の法則を持っている。自然も自律的であり、人間の願望には従わない。気象がそれを象徴的に語る・・・今回の東日本を襲った大地震と津波の発生は北米大陸プレートが過去に相当の回数行って来た自然界のリズムによる。このリズムに十分な配慮を払った生活形態を築かなければ、人々は再び悲惨な状況に追い込まれるだろう。ヨブ記は今日、人間に固有な責任の確認と外部世界の独自性の承認とを我々に問うている」。
・大震災はあくまでも自然災害であり、そこに神の意志が働いているとは思えません。ましてや天罰などではない。ではなぜ起きるのか。答えは見つかりません。不条理としか言いようのない出来事です。しかしいかなる不条理の中でも、人にはやるべきことがあります。神はなぜノアを選ばれたのでしょうか。神は実はすべての人に箱舟の建造を命じられたのかもしれません。多くの人はそれをあざ笑った。晴れた日に洪水に備えて箱舟を造るのは、正気の沙汰ではありません。人々が信じない中で神の命に従い、行動することは決してやさしいことではありません。ヘブライ人の手紙はこう述べています「信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けた時、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」(ヘブル11:7)。
・人々の嘲笑の中で、ノアだけが愚直にも「晴れた日に箱舟を造り始めた」。それを見て神はノアを正しい者と認められたのではないかと思います。そして私たちも、「晴れた日に箱舟を造る」ことを命じられています。それは「やがて来る死に備えて、現在を大切に生きるように」との命令です。死もまた不条理ですが、受け入れざるを得ない。私たちはそれを見つめて生きることが求められています。不条理を見つめた生き方は、世の人々から見れば、窮屈な生き方となります。多くの人は「死を考えることを縁起が悪い」と考えます。しかしクリスチャンは死を見つめて生きるように命じられている。だからクリスチャン人口は人口の1%を超えません。私たちは「毎主日に教会の礼拝に参加し」、「収入の十分の一を献金として捧げ」、「自分がこの世では寄留者であることを認識し」、「まだ見ぬ永遠の国を熱望して」います。この世の人から見れば窮屈な生き方でしょう。ノアの洪水は私たちにそうするように語ります。私たちもまたノアのように、「晴れた日に箱舟を造る」生き方に変えられたのです。


カテゴリー: - admin @ 08時07分28秒

07 30

 
1.楽園追放後の人の歩み

・創世記を読み続けています。人は共に生きる者として女を与えられた時、「これこそ私の骨の骨、肉の肉」と呼びます。女が造られる事によって、人は一人ではなく、隣人と共に生きる存在となります。しかし、この関係が罪を犯すことによって変化していきます。2章17節で「善悪の知識の木からは決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」と命じられますが、人は、禁じられたその実を食べてしまいます。
・人が禁断の木の実を食べ、「何故食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)と責任を問われるようになると、彼は「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)と答えます。「あなたが与えてくれた女が食べよと言ったから食べたのです。悪いのは私ではなく、あの女です」と彼は責任を妻に転嫁し、さらに「あなたが妻を与えなければこのような罪を犯さなかった。悪いのはあなたではないか」と神を非難し始めます。人は他者との関係が破れただけではなく、神との関係も破れました。女も言います「蛇がだましたので、食べました・・・あなたが蛇さえ創らなければ罪を犯さなかったのです」。「私が悪いのではない。神様、あなたが悪いのだ」、被造物である人間が創造主である神を非難しています。
・ここにおいて、人間の罪とは何かが明らかにされています。人間の罪は、神が「食べてはいけない」と禁じられたものを食べたことにあるのではありません。過ちを犯してもそれを自己の責任として受け止めることができず、その責任を他者に、最後には神のせいにしてまで逃れようとする、そこに人間の罪の原点があると創世記は語ります。罪とは過ちを犯すことではありません。その過ちを悔い改め、謝罪することができないところにあります。ですから、神は人を楽園から追放することを決められます。楽園に住むにはあまりにも幼く、外に出て成長する必要があったからです。
・楽園追放は罪に対する呪いではありません。「主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた」(3:21)。神は着物を人間のために用意し、彼らを保護した上で追放されたのです。人は楽園を追放され、額に汗して地を耕す者になります。地を耕して初めて、太陽と雨がなければ収穫はなく、それは人の力では支配出来ないもの、神の恵みにより与えられる事を知りました。楽園の外に出ることを通して、初めて人は自分の限界を知り、神を求める者に変えられていきます。女も同じです。女は苦しんで子を産むことを通して、死ぬべき存在であるのに、生命の継承を許して下さる神の恵みを知りました。労働は苦しみであり、出産もまた苦しみでありますが、その苦しみを通して、本当の喜びを知る道を神は与えて下さったのです。人は楽園追放を通して、初めて神の愛を知ります。ですから、失楽園、楽園追放とは決して呪いではなく、祝福なのです。人は過ちを通して成長していく、ここから人間の歴史が始まったと創世記は語っています。

2.エバの出産

・アダムとエバは楽園を追放され、エデンの園の外で生き始めます。「アダム」とは元来、土(アダマ)から造られた「人間」という意味であって、その段階では男の固有名詞ではありません。しかし、女が造られて後、アダムは男となり、固有名詞になりました。そのアダムが、女を「エバ」と名付けます(3:20)。「エバ」、「ヘブル語=ハッファー」は命という意味で、エバはそのラテン語訳です。「彼女がすべて命あるものの母となった」、女こそが命を生み出す性です。男と女の信頼関係は崩れましたが、それにも関わらず、性の交わりを通して、新しい命が生まれることを神は赦して下さったのです。
・しかし罪ある人間はそれを感謝せず、自分で命を作り出し、「神のような」力を持ちたいと願います。彼らは罪を犯し、楽園から追放され、その荒野で人間が最初に行ったことは性の交わりです。創世記は記します「さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、『私は主によって男子を得た』と言った」(創世記4:1)。「知った」とは、性的な交わりを持ったということです。そして女は身ごもってカインを産み、続いて弟のアベルを産みます(4:2)。子が生まれた時、エバは言います「私は主によって男子を得た」。新共同訳では子を与え与えられたことを神に感謝する表現になっていますが、原文では微妙に異なります。
・「男子を得た」と訳された「カーナー」という言葉は、創造したという意味をも持ちます。ある旧約学者はこの個所を「私は神と同じように人を創造した」と訳すべきだとします(J.C.ギブソン他)。「神だけが命を与えるのではない。私も命を創造した(カーナー)」とエバは意気揚々と語っていると読み取るべきだと。女はここで「神のように」なった自分を誇っています。女性は子供を産んだ時に非常に誇らしい気持ちになります。それは出産が命がけの大仕事であると同時に、女性にしか出来ないことだからです。しかし、出産そのものに自分の力を誇るようになる時に、人は過ちに陥っていきます。現代人は「子を生む」ことを「子を造る」と言います。自分の力で妊娠し、出産し、誰の世話にもなっていない。だからその子をどうしようと私の勝手だと考え、出生前診断で異常が見つかれば、不良品として中絶します。子供は自分たちが生む(造る)と考える時、そこにエゴが入ります。年間20万件に及ぶ妊娠中絶はその結果です。子は自分たちが造るのか、それとも神により授けられるのか、生き方の分岐点がそこにあります。信仰者は、命は男女の愛の交わりの中で母胎に宿り、生み出されるべきもので、そこに神の祝福、「産めよ、増えよ、地に満ちよ」が与えられると理解します。その祝福の中で、親たちは子を神から与えられた子として受け止め、神の子として心から愛していく。その親の愛の中で、隣人を愛する人間が育っていく。
・しかしエバは、神の祝福など必要としない形で、誇らしげにカインを生みます。その結果、子のカインはどう育ったのか。彼は、自分の兄弟を妬んで殺す最初の殺人者になります。彼の母エバは新しい生命をつくる彼女の能力を誇って胸が一杯になりました。このようにしてつくられた新しい生命は、彼の仲間に対する責任を放棄し、仲間が彼の邪魔をするのであれば、彼を殺して取り除く存在になりました。彼らは、そういう子を育てた、そういうふうにしか育て得なかった。そのようにして、彼らは自分たちの「力」が何であり、どういうものであったかを知っていくのです。出産の日から何年もたって、自分の兄息子が弟息子を殺すという悲劇の中で、彼らは「人が子を創造するのではない」ことを知らされることになります。

3.しるしとしての十字架

・今日の招詞に創世記4:25-26を選びました。次のような言葉です「再び、アダムは妻を知った。彼女は男の子を産み、セトと名付けた。カインがアベルを殺したので、神が彼に代わる子を授け(シャト)られたからである。セトにも男の子が生まれた。彼はその子をエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである」。神はカインを追放されましたが、彼にしるしをつけて保護されました。カインは妻を娶り、彼女は子を産みます。カインの子孫からレメクが生まれ、レメクは言います「私は傷の報いに男を殺し、打ち傷の報いに若者を殺す。カインのための復讐が七倍ならレメクのためには七十七倍」(4:23-24)。七倍の復讐はカインを保護するためのものでしたが、レメクが主張する七十七倍の復讐は自己の力を誇示するためのものです。神の赦しを知らない者は、孤独と不安から自己の力に頼り、その結果、他者に対して敵対的になります。他者を威嚇することによって自分の安全を図ろうとする、この人間中心主義の流れが現代にも継続されています。
・アダムとエバは次男を殺され、長男は追放されます。その二人に、主は新しい子、セトを与えられます。セトのヘブル名シャトは「授かる」という意味です。「主によって子を授かった」との感謝の気持ちが込められています。前にカインを生んだ時にはエバは「私は主のように人を創った」(4:1)と誇りました。カインを生んだ時、エバは自分の力で子供を産んだと理解していました。しかしその傲慢の罪の結果、弟息子は殺され、兄息子は遠い所に追放されます。その罪の悔い改めが、次の子セトを「授かった(シャト)」いう言葉に反映しています。子供は産む(造る)のか、それとも授けられるのか、この理解が子供に対する親の意識を大きく変えます。そして、セトの子の時代に「主の名を呼び始めた」(4:26)と創世記は記します。「主の名を呼ぶ」、神を礼拝するという意味です。弱さを知り、それ故に主の名を呼び求める人々の群れがここに生まれたのです。
・イエスは「七の七十倍赦しなさい」と教えられました(マタイ18:22)。この流れの中で、「七十七倍の復讐をやめ、七の七十倍の赦しを」求める人々が生れていきます。神に赦されたから人を赦していく、神中心主義の流れです。人間の歴史はこのカインの系図とセトの系図の二つの流れの中で形成されてきました。カインの子孫たちは「人間に不可能はない。劣った者は滅びよ」という考えを形成して来ました。現代社会ではこの流れが多数派です。しかし少数であれ、「人間は弱い者であり、神の赦しの下でしか生きることが出来ない」ことを知るセトの流れを汲む者たちが存在し、信仰者は自分たちがセトの子孫であることを自覚します。
・私たちはエデンの東に住み、「殴られたら殴り返す」社会の中で生きています。その中で、私たちは「七の七十倍までの赦し」を求めていきます。それはイエスの十字架を見つめる時にのみ可能になります。カインさえも赦しの中にあり、殺されたアベルもセトという形で新たに生かされたことを知る時、私たちもカインの末裔でありながら、「主の名を呼び求める者」に変えられていきます。そして十字架を仰ぐ時、イエスが死から復活されたように、私たちも新しい命を与えられることを信じて生きます。


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07 23

1.罪の始まり

・創世記を読み始めています。本日は創世記3章を読みますが、3章は2章から連続する物語です。創世記2章では人間が男と女に創造され、園の中で暮らしていた事が書かれていました。3章では、人間が誘惑に負けて神の戒めを破ってしまい、その結果、園を追放されるという、有名な失楽園物語が描かれています。教会は伝統的に創世記3章に「罪」の問題を見てきました。パウロはローマ教会への手紙の中で語ります。「一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだのです。すべての人が罪を犯したからです」(ローマ5:12)。一人の人アダムが「神の戒め」を破ったゆえに、罪が人間の中に入り、人は死ぬものとなったとの理解です。この理解は正しいのか、私たちは今日、この創世記3章を通して、「罪とは何か」、「人間は何故罪を犯すのか」を考えていきたいと思います。
・3章の冒頭では蛇が誘惑者として女の前に登場します。創世記は語ります「主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った『園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか』」(3:1)。神は人間に言われました「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」(2:16-17)。「園のすべての木から取って食べなさい」、人間に与えられたのは自由でした。ただしその自由は「善悪の知識の木からは食べてはならない」という制限の中の自由でした。人間にはそれで十分でした。何故ならば「善悪の知識の木」から食べなくとも、多くの食べ物があり、不足はなかったからです。
・しかし蛇はこの自由を逆転させて、不自由を全面に押し出すようにして人を誘惑します「園のどの木からも食べてはいけないと神は言われたのか。あなたはかわいそうだ、全く自由がないではないか」と。蛇は聖書では知恵の象徴です。伝統的神学ではこの蛇をサタンとし、人間はサタンに誘惑されて罪を犯したとします。しかしこの物語が示すのは人間に与えられた知恵が、「なぜ食べてはいけないのか」とささやき、人は内心のささやきの命じるままに行為したことです。蛇のつぶやきは人間の心の中にある抑えられない好奇心です。
・女は語ります「私たちは園の木の果実を食べてもよいのです。でも、園の中央に生えている木の果実だけは、食べてはいけない、触れてもいけない、死んではいけないから、と神様はおっしゃいました」(3:2-3)。蛇は言葉を続けます「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」(3:4-5)。ここでは、「人間が神のように賢くなることを神は嫌っておられる」という悪意ある解釈がなされています。そして女も神の禁止命令は「不当だ」と考えるようになります。物事の善悪を見極めることがそんなに非難されるべきことなのか、人の心の中の不満が増します「女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた」(3:6)。女は我慢できなくなって食べ、一緒にいた男にも渡したので、男も食べました。
・ここに人間の本質が見事に映し出されています。人間には制約の中の自由が与えられていました。「善悪の知識の木からは食べてはならない」、人は制約なしには共同生活を営むことができないからです。共同生活を営む人間にとって、自由は制約があってこそ初めて成り立ちます。「人を殺してはいけない」という制約のない社会では、人間は欲望のままに相手を殺し、混乱と無秩序がそこに生まれます。「姦淫するな」という制約がなければ、家族は互いに疑い合い、憎み合う存在になるでしょう。「共に生きる」には制約が不可欠です。しかし人間は制約、あるいは限界が置かれると、その限界を不自由だと思う存在です。哲学者のエマニュル・カントは「アダムとエバが善悪の木の実を食べた時、人間は理性に目覚めた」と解釈します。ある意味でこの物語は「人が幼子から成人になるためにたどる原体験」を暗示しています。
・その木が「善悪を知る木」と名付けられているのは象徴的です。ここでいう「善悪」は、「善と悪に至るすべての知識の総称」を意味し、その木の実を取って食べることは、「善悪」のすべての知識を、自分を基準にして自由に決定づけることを意味します。「その実を食べるな」という禁止は、「私は神の判断を仰がずに、自分で判断する」という人間の主権宣言に対して、神が「自由は責任を伴うことを覚えなさい」と警告された言葉です。「責任を負えるのであれば食べよ、そうでなければ食べるな」と、創世記は人間の自由意志とその責任の重さを、エデンの中央に置いているのです。この物語は決して、歴史上の出来事を述べたものではなく、「悪がいかにしてこの世界に入ってきたのか」の説明では当然なく、ましてや「死の起源」を述べたものでもありません。

2.罪の本質
 
・男と女は禁断の木の実を食べました。「善と悪を分別できるようになって何が悪いのか」、「賢くなることによって新しい可能性が開けるではないか」という内心の声に、二人は勝つことができませんでした。女は実を食べ、共にいた男にも与えたので彼も食べます。男は蛇が女を誘惑する時、そこにいました。女が木の実を食べた時に制止することはなく、女から勧められると何も言わず食べました。エデンの園の悲劇は女が蛇に欺かれたことで始まり、その場に居合わせた男がそれを受け入れたことで拡大していきます。男も女と同罪なのです。しかしテモテ書は語ります「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、私は許しません・・・なぜならば、アダムが最初に造られ、それからエバが造られたからです。しかも、アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました」(汽謄皀2:12-14)。「アダムはだまされませんでしたが、女はだまされて、罪を犯してしまいました」とは、あまりにも皮相的な解釈だと思います。創世記を忠実に読む限り、男もまた誘惑に負けた。それ以上にここに書かれているのは人間の堕罪物語ではなく、楽園に住む無知な幼子たちが、楽園を出て責任ある大人になる、人間成長が象徴的に描かれている物語なのです。
・さて、禁断の実を食べた結果何が起きたか、「二人の目は開け、自分たちが裸であることを知り、二人は無花果の葉をつづり合わせ、腰を覆うものとした」(3:7)。神のようになりたいと思って禁断の木の実を食べた二人に起こったことは、「自分たちが裸であることを知った」ことでした。今まで神の方を向いていた視線が自分の方を向くと、自分の汚れが見え、その汚れを隠そうとした。「アダムと女は、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れ(た)」(3:8)。人間の視線が自己を向いた、その瞬間から人間は神から身を隠すようになった、そこに人間の罪の姿があると創世記は語ります。

3.罪からの解放
 
・今日の招詞にエゼキエル33:14-15を選びました。次のような言葉です「また、悪人に向かって、私が、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない」。禁断の木の実を食べた人に対し、神は呼びかけられます「あなたはどこにいるのか」(3:9)。人間は神からの呼びかけによって神に背く自分の姿を認識します。そのような人間を見て神は問われます「取って食べるなと命じた木から食べたのか」(3:11)。その問いかけに男は答えます。「あなたが私と共にいるようにしてくださった女が、木から取って与えたので、食べました」(3:12)。
・「あの女が取って与えた。悪いのはあの女です」と彼は言います。「あの女」とは、彼の妻です。神が彼女を連れて来て下さった時、「私の骨の骨、私の肉の肉」と感動の叫びをあげた相手です。その相手を「あの女」と呼び、自分の罪の責任をなすりつけようとしています。さらには「あなたがあの女を与えた」と責任を神に拡げています。責任を問われた女は「蛇が騙したので、食べました」と責任を蛇に押し付けます。「蛇を造ったのはあなたではないか」という神への責めも女の言葉に含まれています。これが、自由を獲得して、自分が主人になって生きようとした人間の姿です。自分のしたことの責任を自分で負うことをせず、ひたすら他の人のせいにしていく、それが人間の求めた自由だったと創世記記者は語っています。
・ここに罪の本質があります。もし人がここで自分の責任を認めたら、神は間違いなく人間を赦されたでしょう。それを示すのが招詞の言葉です。「彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら・・・彼は必ず生きる。死ぬことはない」。つまり、「神の戒めを破った、禁断の木の実を食べた、そのことに罪の本質があるのではなく」、「罪を認めようとせず、自己弁解し、他者に責任を押し付けようとした」、さらには「神に責任を押し付けようとした」、そこに罪の本質があると物語は語っています。パウロは「人が禁断の木の実を食べたから罪がこの世に入った」と理解しますが、そうではなく、罪を罪と認めることのできない人間の傲慢さこそが、創世記で語られているのです。この物語は遠い過去において私たちの祖先に起こったことではなく、現在すべての人間が直面する課題を描いているのです。
・神を信じる人とそうでない人は何が違うのでしょうか。共に罪を犯します。神を信じる人は罪を犯した時、「あなたはどこにいるのか」と神に問われ、裁かれ、苦しみます。その苦しみを通して神の憐れみが与えられ、また立ち上がることができます。神を信じることの出来ない人々は犯した罪を隠そうとします。「私が悪いのではない」と言い逃れをするために、罪が罪として明らかにされず、裁きが為されません。裁きがないから償いがなく、償いがないから赦しがなく、赦しがないから平安がない。罪からの救いの第一歩は、罪人に下される神の裁きなのです。
・「私は罪を犯しました」と悔改めた時、神の祝福が始まります。私たちは今、楽園の外の「弱肉強食の世界」に生きています。この社会は「万人の万人に対する闘争」(ホッブス)の世界です。その中で私たちは、「自分の責任を隣人に押し付ける」生き方ではなく、「自分を愛するように隣人を愛する」(マルコ12:33)生き方を選び取っていくのです。その時、私たちは再び楽園に、神の平和に招かれるのです。失楽園を描いたミルトンは語ります「眠れ、幸福な二人。もしお前たちがこれ以上の幸福を求めず、分を知って今以上に知ろうとしなかったら、どれほど幸福であったことか」。


カテゴリー: - admin @ 08時06分22秒

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