すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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1.ヨセフを通してのイエス生誕物語

・私たちはクリスマスを待つ待降節の中にいます。キリストが、どのようにして生まれられたかをマタイ福音書1章は語ります「母マリアはヨセフと婚約していたが、二人が一緒になる前に、聖霊によって身ごもっていることが明らかになった」(1:18)。人は通常は父と母から生まれ、両親がそろっている時、母の妊娠、子の誕生は祝福です。しかし、そうでない場合、子の妊娠が大きな波紋を招きます。ヨセフはマリアの許嫁でしたが、まだ婚約中で正式には結婚していません。その許嫁が身ごもった。ヨセフには身に覚えはありませんので、マリアが不義の罪を犯したと考えざるを得ません。そのためヨセフはマリアとの婚約を解消しようとしました。「 夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」(1:19)。この短い言葉の中にヨセフの苦悩が凝縮されています。
・神の選びにあずかるとは、必ずしもこの世の幸福を保障しません。否、むしろ苦しみを与えられる場合があります。「これから結婚しようという女性が自分以外の人の子を宿している」、ヨセフはこの事実を知って、苦しんだに違いありません。そして、「ひそかに縁を切ろうと決心した」、マリアの妊娠の事実が表ざたになれば、マリアは裁判にかけられ、村から追放されるでしょう。婚約中の不義は石打ちの刑と当時の律法には定められていました(申命記22:23−24)。
・来る日も来る日もヨセフは悩んだことでしょう。眠られぬ日が続く中でヨセフは夢を見ます。その夢の中で主の使いが現れ、ヨセフに「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」(1:20)と述べます。主の使いは語り続けます「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい」(1:21)。ヨセフは理解できませんが、これを御旨として受け入れます「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、マリアを妻に迎えた」(1:24)。

2.ヨセフの苦悩と決断

・イエス誕生の次第は多くの人々に困惑を与えてきました。マタイ福音書はその冒頭にアブラハムから始まってイエスに至るまでの42代の系図を掲げます。「アブラハムはイサクをもうけ、イサクはヤコブを」という風に父の系図が続きますが、イエスについては次のように語ります「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1:18)。父の系図が突然母系に変わっています。ルカ福音書もイエスの系図を掲げますが、その中で「イエスはヨセフの子と思われていた」(ルカ3:23)と語ります。マルコ福音書ではイエスがナザレ村で「マリアの息子」(マルコ6:3)と呼ばれていたと報告しています。「父の名をつけて呼ぶ」のが慣例の社会では、決して好意的な呼び名ではありません。つまり、マタイもルカもマルコもイエスがヨセフの実子ではないことをここに告白しています。人間的に見れば婚姻外の妊娠であり、社会では不道徳な出来事とされます。しかし福音書記者は、これを信仰によって、「聖霊によって生まれた」と受け止めています。
・マタイ福音書によれば、ヨセフは「恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである」との神の言葉を与えられ、マリアを受け入れて妻に迎えました。ヨセフは理解できない出来事を目の前に突き付けられ、苦悩し、「神様、何故ですか」とその不条理を何度も訴えたと思われます。そのヨセフの度重なる訴えに応えて、主の使いがヨセフに現れ、「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と示されたのです。現代の言葉に直せば、主の使いはヨセフに「マリアの生む子をお前の子として受け入れてほしい」と言われたのです。
・これまでヨセフは自分のことしか考えていませんでした。しかしマリアの立場に立てば、もしヨセフが受入れなければ、マリアと幼子は悲惨さの中に放り込まれることでしょう。もしかしたら生存さえ危ぶまれる事態になるかもしれません。当時は女性が自立して生きていける環境ではなかったからです。そのことを知ったヨセフは神の啓示を受け入れます。この時、ヨセフはイエスの「父となった」のです。こうしてダビデの血統に立つヨセフの受け入れによって、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1:1)が満たされました。ヨセフは神の言葉を受け入れ、その結果マリアと幼子の命が救われました。ヤコブ原福音書12:3によればマリアがイエスを産んだのは16歳の時であったとします。現代日本では、10代の妊娠の60%は、赤子が人工中絶されます。理由は「相手と結婚していない」、「育てられない」からです。マリアとヨセフの苦悩は現代でも繰り返され、多くの事例において胎児を犠牲にする方法で対処されています。それに対しマタイは、「神に働きかけられた人の信仰により、悲惨な事柄も祝福の出来事になる」ことを伝えています。クリスマスの喜びは、深い悩みの中での、一人の信仰者の神との出会いと決断によって起こったのです。

3.苦悩の中から喜びが

・今日の招詞にマタイ1:23を選びました。「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。マタイはイザヤの預言がイエス誕生によって成就したと語ります。シリアと北イスラエルがユダヤを攻撃した時、「王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺」(イザヤ7:2)します。イザヤは、こうした状況の中で、「おとめが身ごもって男の子を産む」と預言します。戦争に勝利して民族に解放をもたらす者が生まれる、勝利をもたらすメシアが来られるという預言です。700年前に為されたイザヤの預言が、今ここに成就してメシアであるイエスが生まれられたとマタイは記します。
・「その名はインマヌエルと呼ばれる」、ヘブル語で「神共にいましたもう」という意味です。「神はあなた方を見捨てない。どのような悲惨があなたがたの人生にあっても、神はそれを受け入れ、癒してくださる、神がそのような方であることを、生まれる子は証しするであろう」と、主の使いはヨセフに語ったとマタイは伝えます。クリスマスに起きたことは、「イエス=主は救いたもう」という名の子が私たちに与えられ、その子は「インマヌエル=神共にいます」ことを約束するとの祝福があったということです。イエスは、当時社会から排除されていた取税人や遊女たちと共に食卓に着き、それを批判したファリサイ人らに言われます「健康な人には医者はいらない。いるのは病人である」(ルカ5:31)。イエスは彼を必要とする人々と共にいて、その非難をあえて受け入れられたのです。復活のイエスはガリラヤで弟子たちに会われ、最後に言われました「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。「あなたがたと共にいる」、「インマヌエル」です。「十字架で死なれたイエスは、復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」とマタイは証しします。マタイ福音書では、冒頭で神の御子が「インマヌエル」と預言されて生まれてきたと伝え、巻末ではイエスが昇天を前に弟子たちに、「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と約束されたとマタイは記します。
・「希望の神学」を書いたユルゲン・モルトマンは語りました「私たちの失望も、私たちの孤独も、私たちの敗北も、私たちをこの方から引き離さない。私たちはいっそう深く、この方との交わりの中に導かれ、答えのない最後の叫び、『どうして、わが神、どうして』に、その死の叫びに唱和し、彼と共に復活を待つ。私たちのために、私たちの故に、孤独となり、絶望し、見捨てられたキリストこそ、私たちの真の希望となりうる。」(モルトマン説教集「無力の力強さ」)。私たちの信じる神は「天に鎮座したもう超自然の神」ではなく、「共にいますインマヌエルの神」です。「共にいて下さる」から、私たちの悲しみも苦しみもご存じです。だからイエスは「自分の民を罪から救う」ことがおできになるのです。
・聖書は私たちに「イエスは宣教の言葉を通して、また主の晩餐式を通して、臨在される」と教えます。しかし、現実の私たちはその臨在を感じとることが出来ません。私たちには何かが欠けている。私たちが、「臨在を感じることが出来ない」とぐちをこぼすのを止めて、「イエスは私のインマヌエルになって下さったから、今度は私が他の人のインマヌエルになろう(必要とされる人となろう)」と決意し、実行していく時に、状況は変わっていきます。ヨセフは「マリアの胎の子は聖霊によって宿った」と告げられ、人として信じられない出来事を目の前に突き付けられます。ヨセフはもし彼がマリアと幼子を受入れなければ、二人は悲惨さの中に放り込まれることを慮り、悩みぬいた末に神の啓示を受け入れ、マリアとその子を守っていこうと決意しました。こうしてヨセフはマリアと子のインマヌエル(必要とされる人)になって行くのです。
・マタイの描く「父」としてのヨセフは、妻に子を産ませることで自分の血統を伝えるのではなく、神が与えられた子の命を保護していく役割です。ヨセフはその役割を受け入れて生きました。成長したイエスは、村人から「私生児」と陰口されて苦しまれたでしょう。苦しまれた故にイエスは「自分の民を罪から救う」(1:21b)ことが出来ます。私たちの人生には不条理があります。理解できない苦しみや災いがあります。希望の道が閉ざされて考えもしなかった道に導かれることもあります。しかしその導きを神の御心と受け止め、自分を必要とする人のインマヌエルになろうと決意した時に、苦しみや悲しみが祝福に変わる。クリスマスはそのことを改めて私たちに示す時です。


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12 09

1.キリストの系図の中に、四人の女性たちの名がある

・アドベント(待降節)の時を迎えています。今年のクリスマスはマタイ福音書から御言葉を聞きますが、今日はマタイ1章前半にありますイエス・キリストの系図を見ていきます。イエスがどのようにして生まれてこられたかを記す歴史です。そこにあるのは男系の系図です「アブラハムはイサクを、イサクはヤコブを、ヤコブはユダとその兄弟を」という形で、父から子へ、子から孫へ、さらにはその子たちへと系図が展開していきます。その男系の系図の中に、四人の女性の名が出てきます。当時のユダヤは徹底した父系社会であり、系図の中に女性が登場するのはきわめて異例です。そして、ここに登場する四人の女性たちはそれぞれに暗い過去を持ちます。彼女たちは、異邦人出身とか、性的不道徳が批判されかねない女性たちです。その女性たちがあえて選ばれてこの系図に記されています。
・4人の女性の最初は3節のタマルです。彼女はユダの長男エルの妻でしたが(創世記38章)、夫エルは子を残さずに死に、次に弟オナンの妻となりますが、オナンも子を残さずに死にます。当時の慣習では三男と結婚すべきですが、舅のユダは三男まで死んでしまうことを危惧し、タマルを実家に戻します。当時、婦人が子を産まないで実家に戻されるのは恥ずべき事と考えられていました。タマルはその恥を注ぐために、遊女を装って舅ユダに近づき、妊娠して子を産みます。マタイは「ユダはタマルによってペレツとゼラを (生んだ)」(1:3)と記します。タマルは近親相姦により不義の子を産んだ女性なのです。
・5節に出てくるラハブは、エリコの遊女(ヨシュア記2〜6章)で、エリコを探るためにヨシュアが遣わした2人の斥候をかくまい助けた功で、ヨシュアから夫を与えられ、子を産みます。マタイは「サルモンはラハブによってボアズを(生んだ)」(1:5)と記します。遊女は当時の社会でも蔑まれる存在でした。その遊女がイエス・キリストの系図に入っています。5節後半のルツはモアブの女で、エリメレクの子と結婚しますが、夫と義父は死に、姑ナオミに従ってベツレヘムに行き、その地でエリメレクの親族ボアズと結婚し子を産みます(ルツ記4章)。マタイは「ボアズはルツによってオベドを(生んだ)」(1:5)と書きます。ルツは当時の社会で卑しまれていた異邦人の出身です。
・6節のウリヤの妻とはダビデの武将ウリヤの妻バテシバで、彼女は夫が戦場にいる時に、ダビデ王に見初められて床を共にし、妊娠します。ダビデはバテシバの夫ウリヤを戦場で死なせ、未亡人バテシバを妻として娶ります。このバテシバからソロモン王が生まれます(サムエル記下11‐12章)。マタイはここでバテシバの名前を出さずに「ウリヤの妻」とだけ記します。バテシバはウリヤの妻であってダビデの妻ではなかった。それなのにダビデはその夫人を無理やりに自分のものとした。「メシアはダビデの子から生まれる」と信じられていた時代に、そのダビデこそ罪びとであったことをマタイは強調しています。
・四人の女性に共通するのは、それぞれに人から罪びとと批判されるであろう、後ろめたい過去を持つことです。タマルは舅ユダとの姦淫を通して、子を生みました。ラハブの職業は娼婦で、ルツは異邦人でした。ウリヤの妻はダビデと姦淫を犯してソロモンを生んでいます。イスラエルの歴史の中にはアブラハムの妻サラやイサクの妻リベカ等、賞賛されるべき女性はたくさんいますが、彼らの名前は系図には現れません。逆に、異邦人であり、また性的不道徳が批判されかねない女性たちをあえて、マタイはキリストの系図の中に選んでいます。何故なのか、昔から、多くの人が疑問に思ってきたところです。

2.罪びとを受け入れられる神

・イエスはヨセフとマリアの長男としてお生まれになられましたが、マルコ福音書によれば、故郷ナザレ村の人々はイエスのことを「マリアの子」(マルコ6:3)と呼んだと記します。父兄社会では人は通常は父親の名前で呼ばれますから、イエスは「ヨセフの子」と呼ばれるべきであるのに、「マリアの子」と呼ばれています。この表現は「ヨセフの子ではなくマリアの子」、「イエスは私生児であった」という響きを持っており、ユダヤ人の中でイエスの出生に悪口をいう人たちがいたことを示します。キリスト教がユダヤ教から分離独立していったのは紀元70年ごろですが、母体のユダヤ教側では、「イエスがヨセフの子ではない」ことを逆手にとって、「イエスは私生児だった」と批判していたようです。
・そう批判されても仕方のない状況下でイエスがお生まれになったのは、事実です。マタイはその事実を踏まえ、仮に私たちの両親が、否、私たち自身がタマルやバテシバのように罪を犯した存在であっても、神は罪を犯す私たちの悲しみを知っておられ、それを赦しておられると主張するためにあえて系図の中に4人の罪ある女性たちの名前を挿入したと思われます。パウロは語ります「肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。」(ローマ8:3)。
・四人の女性たちはそれぞれ罪を犯しましたが、それは生きるためにやむを得ない罪でした。タマルは舅の子を生みますが、当時の女性にとって嫁いで子を産まずに去るということは耐え難い屈辱でした。だから、あえて舅の子を生みます。その舅の子ペレツがイエスの系図を構成します。ラハブは娼婦でしたが、誰が喜んで娼婦になどなるでしょうか。恐らくは家が貧しく娼婦として売られた事情があったはずです。しかし、そのラハブの産んだ子から神の子の系図を構成するボアズが生まれています。ウリヤの妻バテシバはダビデに無理やり王宮に連れ去られ、夫はダビデに殺されています。バテシバの一生は決して平和ではなかった。神はこの女性たちの悲しみを知っておられ、それを憐れまれた。だから、彼女たちは神の子の系図に入ることを許されたとマタイは主張しているのです。
・この福音書を書いたとされるマタイも悲しみを知っています。彼は当時の社会の中で、嫌われ排除された徴税人であったとされています(9:9「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『私に従いなさい』と言われた。彼は立ち上がってイエスに従った)。しかし、イエスはそのようなマタイをも弟子として受け入れて下さった。イエスご自身も「私生児」と陰口されて、苦しまれたと思われます。それ故に「罪びと」と陰口されたマタイの苦しみも知って下さった。自分が差別され苦しんだ人こそが、差別に苦しむ他者を憐れむことが出来る。それを知るマタイだからこそ、キリストの系図の中に4人の差別された女性の名前を入れたのではないかと思えます。

3.罪の赦し

・今日の招詞にルカ7:47を選びました。次のような言葉です「だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」。ルカは罪びとの赦しの物語を7章で展開します。「あるファリサイ派の人が一緒に食事をしてほしいと願ったので、イエスはその家に入って食事の席に着かれた。この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏の壺を持って来て後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻して香油を塗った」(ルカ7:36-38)。「罪深い女」とは娼婦や遊女を指す言葉です。
・宴席の主人シモンは評判の悪い女がそのような行為をするのに、イエスが拒絶されないのを見て、心の中で言います「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(ルカ7:39)。シモンの心中を推察されたイエスは彼に言われます「この人を見ないか。私があなたの家に入った時、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙で私の足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたは私に接吻の挨拶もしなかったが、この人は私が入って来てから、私の足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた」(ルカ7:44-46)。そして言われたのが招詞の言葉です「この人が多くの罪を赦されたことは、私に示した愛の大きさで分かる」。そしてイエスは女性に「あなたの罪は赦された。あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われました(ルカ7:48-50)。
・この女性はその後どのようになったのでしょうか。ルカは何も語りません。しかし、罪を赦された者はもう罪の生活を続けることは出来ません。彼女はおそらく今までの生活と訣別し、新しい生活を始めたと思われます。イエスとの出会いは人生を根底から変える力を持っています。イエスは何故彼女を赦されたのでしょうか。それはイエスが悲しみを知っておられたからです。イエスご自身も「私生児」と陰口されて、苦しまれた、それ故に「罪びと」とされた女性の苦しみも知って下さった。
・神は私たちが弱さのために罪を犯すことを知っておられます。そして私たちが罪を認めた時、私たちの罪を赦されます。精神科医の神谷美恵子さんは、著書「生きがいについて」の中で語ります「罪深いままでよいのだ、ありのままでよいのだ、そのままでお前の罪は赦されているのだ、と。もしそのような声が世界のどこからか響いてくれば、罪の人ははっと驚いて歓喜の涙にかきくれ、とりつくろいの心も捨てて、あるがままの身を投げ出し、その赦しを素直に受け入れるだろう」(同書p156)。この赦しがマタイ福音書冒頭にあるのです。この赦しを経験した者は、もはや以前の生活には戻れません。だから、私たちは教会に来るのです。何故ならば、私たちもこの赦しを経験したからです。福音書の最初のページは赦しから始まっています。私たちはこのことに感謝し、「アーメン、わが主よ、あなたは生きておられます」と讃美したいと思います。


カテゴリー: - admin @ 08時04分35秒

12 02

1.マタイにおける復活顕現

・アドベントの時を迎えました。与えられた聖書箇所はマタイ28:16-20、復活されたイエスが弟子たちに世界伝道をお命じになるところです。何故、クリスマスを前に、復活のイエスの言葉を聞くのか、それはマタイの最後の言葉「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)がイエス生誕の時にも用いられているからです。「インマヌエル」、ヘブライ語で「神は私たちと共におられる」という意味で、マタイはこの言葉をイエス生誕時の受胎告知の中で用います「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(1:23)。「インマヌエルと呼ばれる方がお生まれになる」という約束がイエス生誕の時に為され、その方が「いつまでもあなたがたと共にいる」と約束して天に昇られた。マタイ福音書は「インマヌエル」という言葉で始まり、「インマヌエル」という言葉で閉じられています。インマヌエルの主とはどのような方であるのかを、クリスマスを前にした今、聞いていきます。
・28章でマタイは書きます「さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った」(28:16)。弟子たちはイエスの十字架刑時にその場から逃げ出し、故郷ガリラヤに戻り、その地で復活のイエスと出会います。その時の記事が今日のマタイ28章です。マタイは記します「そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(28:17)。「弟子たちはイエスに出会っても、まだ復活を信じることが出来なかった」ことをマタイは隠しません。弟子たちの中に、これは「幻覚」であり、自分たちは「亡霊を見ている」と思う者が居ても当然です。
・同時にこの箇所を、マタイは自分の教会の信徒に宛てて書いています。マタイ福音書が書かれたのは紀元80年頃、イエスの復活を直接に体験した第一世代の弟子たちは既に亡くなり、教会にいる第二世代、第三世代の弟子たちは復活顕現の直接体験をしていません。「見て信じる」ことさえ難しいのに,「見ないで信じる」ことはさらに困難です。初代教会の中にも「イエスの復活を信じることの出来ない」信徒たちがいた。その人々にマタイは「イエスは本当に復活された。11人の弟子たちは本当に復活のイエスに出会い、イエスから言葉を受けた。その言葉を私は使徒たちから聞いてあなた方に伝えるのだ」と語っています。その言葉とは18節以下の言葉です。「私は天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(28:18b-20a)。
・マタイはイエスの言葉を記します「私は世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(28:20b)。「いつもあなたがたと共にいる」、インマヌエルです。イン=共に、ヌー=われら、エル=神、「神は私たちと共に」が元来の意味です。イエスは死なれたが、宣教の言葉の中に臨在しておられる、それがマタイの信仰です。だから彼は「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいる」(18:20)とのイエスの言葉を伝えています。人が祈りを合わせる時、イエスはそこにおられる、また主の晩餐式における言葉「取って食べなさい。これは私の体である・・・この杯から飲みなさい。これは私の血・・・である」(26:26-28)も、晩餐の時にイエスがそこに臨在されているという信仰を示しています。

2.インマヌエルの主に出会う

・マタイの信仰は、「十字架で死なれたイエスは、復活されて今も生きておられ、私たちと共におられる」というものです。私たちも同じ信仰を持ちますが、主の臨在を実感できないのが現実です。インマヌエルのキリストとの出会い体験がない故に、「疑いつつ信じる」という信仰生活になりがちです。2000年前にペテロやパウロが体験した復活のイエスとの出会いが、「私たち自身の体験」にならない限り、私たちの信仰は弱いままで終わり、やがて教会を離れるようになります。「信仰告白して洗礼を受けた人の半数以上は、数年のうちに教会から離れる」という悲しい事実こそ、インマヌエルなる方とのこの出会いが必要であることを訴えます。では私たちはどのようにして復活のイエスと出会うことが出来るのでしょうか。
・その出会いの一つを示すのが、トルストイの描いた民話「靴屋のマルチン」です。物語の主人公、靴屋のマルチンは妻や子供に先立たれ、孤独でした。彼は家族を自分から奪った神を恨み、生きる希望を失って、惰性で続ける仕事に支えられて毎日を送っています。ある日、教会の神父が傷んだ革の聖書を修理してほしいと聖書を置いていきます。マルチンは今までの辛い経験から神への不満をもっていましたが、それでも、神父が置いていった聖書を読みはじめます。そんなある日の夜、夢の中に現れたキリストがマルチンにこう言います「マルチン、明日、おまえのところに行くから、窓の外をよく見てご覧」。
・次の日、マルチンは仕事をしながら窓の外の様子に気をとめます。外には寒そうに雪かきをしているおじいさんがいます。マルチンはおじいさんを家に迎え入れてお茶をご馳走します。今度は赤ちゃんを抱えた貧しいお母さんに目がとまります。マルチンは出て行って、親子を家に迎え、ショールをあげました。キリストがおいでになるのを待っていると、今度はおばあさんの籠から一人の少年がリンゴを奪っていくのが見えました。マルチンは少年のためにとりなしをして、一緒に謝りました。一日が終りましたが、期待していたキリストは現れませんでした。がっかりしているマルチンに、キリストが現れます「マルチン、今日私がお前のところに行ったのがわかったか」。そう言い終わると、キリストの姿は雪かきの老人や貧しい親子やリンゴを盗んだ少年の姿に次々と変わりました。そして最後に言葉が響きます「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。
・マルチンは隣人との出会いの中で、「インマヌエル」なる方と出会います。マザーテレサもそうです。インドで修道女となったマザーテレサが見たのは、貧しい人々が道端で死んで行く光景でした。彼女は修道院を出て、道端に捨てられた人々を救済する活動を始めます。彼女は語ります「先日町を歩いているとドブに誰かが落ちていた。引揚げて見るとおばあちゃんで、体はネズミにかじられウジがわいていた。意識がなかった。それで体をきれいに拭いてあげた。そうしたら、おばあちゃんがパッと目を開いて、『Mother、 thank you 』と言って息を引き取りました。その顔は、それはきれいでした。あのおばあちゃんの体は、私にとって御聖体でした」(粕谷甲一「第二バチカン公会議と私達の歩む道」)。御聖体、キリストの体です。マザーは死にかけている老婆を介抱することでインマヌエルなる方と出会ったのです。マルチンの話、マザーテレサの体験は、「私たちが『誰が隣人ですか』と問うのをやめ、その人のために行為すればその人は隣人となり、私たちは隣人を通して、インマヌエルなる方に出会う」ことを示します。

3.イエスの宣教命令を受けて

・今日の招詞にイザヤ7:14を選びました。マタイがイエス生誕時に引用したイザヤの預言です。「それゆえ、私の主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ」。イザヤの時代、シリアと北イスラエルはユダに侵略し、時のアハズ王は北の帝国アッシリアの支援を求めます。イザヤは反対し、「神に信頼して鎮まりなさい」と語りましたが、アハズは言葉を聞かず、アッシリアの援軍を求め、アッシリアはパレスチナに侵攻し、シリアと北イスラエルを滅ぼしました。その後アッシリアはユダを属国として支配します。神の言葉を語ってもアハズ王は聞こうとはしなかったので、イザヤは新しい王の出現を望みます。それがインマヌエル預言です。
・ここに期待される「男の子」とは、アハズ王の子ヒゼキヤを指し、彼は前715年に父に代わって王となりました。イザヤはヒゼキヤの即位をメシアの誕生として歌います「一人のみどりごが私たちのために生まれた。一人の男の子が私たちに与えられた・・・その名は『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」(9:5)。ヒゼキヤは即位するとアッシリアとの関係を絶ち、神殿から偶像を放逐しますが、そのヒゼキヤでさえ、後の危機の時にはエジプトに支援を求めます。イザヤはヒゼキヤにも失望し、新しい預言をします「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(11:1-2)。クリスマスで読まれるメシア預言は、人間に絶望した預言者が神に救済を求める預言です。
・それから700年後、パレスチナに生まれたキリスト教会は、イザヤ7章インマヌエル預言にイエス・キリストの誕生の意味を見出します。「マリアは男の子を産む・・・この子は自分の民を罪から救う・・・主が預言者を通して言われていたことが実現する『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」(マタイ1:21-23)。マタイは福音書初めの誕生物語で、イエスの出現を「インマヌエル」(神は私たちと共におられる)という名で指し示しました(1:23)。物語の最後においても、復活者イエスが私たちといつまでも一緒にいてくださる事実を指し示して、「神は私たちと共にいます(イムマヌエル)」の句で締め括ります。同志社大学でユダヤ教を研究しておられる勝又悦子先生は語られます「イザヤ書に書かれている状況は、ユダ王国が置かれた戦争の状況です。今の私たちにとっての戦争は、個々人の心の中のさまざまな葛藤・悩み・不安・絶望として考えることができるのではないでしょうか。そして、そのような絶望、暗闇にあって、イザヤが発した預言の中身は「インマヌエル」=神が私たちとともにいるという、実にシンプルなフレーズでした・・・私たち自身も、さまざまな悩みや苦しみの中にあるかと思います。しかし、そのような個々人の闘いのなかで、「神が私たちとともにいる」ことを感じることで、心の闇や絶望に立ち向かう力を与えてくれるのではないでしょうか」(2013年10月9日京田辺水曜チャペル・アワー「奨励」記録から)。


カテゴリー: - admin @ 07時59分29秒

11 25

1.求められることを待ち望む神

・11月はイザヤ書を読み続けています。今回がイザヤ書の最終回です。イザヤ書の背景にあるのは、バビロンから故国に帰った人々が体験した苦難です。彼らが喜び勇んで帰国してみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がエルサレムをエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンに留まった方が良かったと民は言い始めているのです。
・それに対して預言者は、「主はあなたたちが呼び求めるのを待っておられる」と反論します。「私に尋ねようとしない者にも、私は、尋ね出される者となり、私を求めようとしない者にも、見いだされる者となった。私の名を呼ばない民にも、私はここにいる、ここにいると言った。反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に、絶えることなく手を差し伸べてきた」(65:1-2)。「父なる神は常に私たちと共におられる。私たちにそれが見えないのは私たちが神を求めないからだ」と預言者は語ります。イエスはそれを放蕩息子の帰還という形で私たちに示されました。「息子はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した」(ルカ15:20)。しかし息子が異国の地に留まり続け、父の元に帰らなければ父の本当の姿を知ることはなかったことは事実です。
・預言者は「救いがないのはあなたたちの罪の故だ。あなたたちは主を無視して異教の神々に礼拝を捧げ、墓場で死者の霊を呼び出し、禁止された豚肉さえ食べている」と批判します。バビロニアでは豚肉は広く食され、祖先礼拝も当たり前でした。50年の捕囚の間に民はバビロニア化され、信仰が異教化していたのです(65:3-5)。それを悔い改めて主のもとに帰れ、そうすれば主は豊かに報いて下さると預言者は呼びかけます。しかし異教化した群れに中にも正しい信仰を求める者は必ずいます。その者たちは祝福すると主は言われます。その時、不毛の地シャロンの湿地も、砂漠のアコルの谷も、羊や牛が群がる豊かな地に変えられるとの希望を預言者は歌います「私はわが僕らのために、すべてを損なうことはしない。ヤコブから子孫を、ユダから私の山々を継ぐ者を引き出そう。私の選んだ者らがそれを継ぎ、私の僕らがそこに住むであろう。シャロンの野は羊の群がるところ、アコルの谷は牛の伏すところとなり、私を尋ね求めるわが民のものとなる」(65:8-10)。
・ただ留意すべきことを預言者は語ります。祝福は全ての人に与えられるのではなく、主の教えを守らない者には祝福がないことが伝えられます。11節以降は求める者への救済と、悔い改めない者への審判が交互に繰り返される二重告知になっています。「お前たち、主を捨て、私の聖なる山を忘れ、幸運の神(ガド)に食卓を調え、運命の神(ニメ)に混ぜ合わせた酒を注ぐ者よ。私はお前たちを剣に渡す・・・私の僕らは糧を得るが、お前たちは飢える。見よ、私の僕らは飲むことができるが、お前たちは渇く。見よ、私の僕らは喜び祝うが、お前たちは恥を受ける」(65:11-13)。具体的には、死者を呼び出し、神託を求める等の行為が非難されています。神に頼るのではなく、迷信や占いで将来を知ろうという行為は主を信じる者の行為ではありません。信仰とは「求める者は与えられる」(マタイ7:8)ことを信じることです。しかし求めない者には救いは与えられない、「招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない」のです。今日、この礼拝に招かれた人も、「主に従って生きる」と決心した時、救いが与えられるのです。

2.新しい天と新しい地の幻

・イザヤは「主の名を呼ぶ者に主は必ず答えられる」と語りました。主から与えられた応答こそ、新しい天地創造の幻です。荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムが創造される幻をイザヤは見ます。苦難は過ぎ去り、救いの時が来るとイザヤは歌い始めます。「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」(65:17-18)。
・神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなるとイザヤは語ります。「私はエルサレムを喜びとし、私の民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。そこには、もはや若死にする者、年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者とされ、百歳に達しない者は呪われた者とされる」(65:19-20)。
・これまでは家を建てても敵に強奪され、畑を耕してもその実りは敵が収奪していました。しかし、これからはそのようなことはない。また生まれた子どもが死ぬこともさらわれることもないと宣告されます。「彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、彼らが植えたものを他国人が食べることもない。私の民の一生は木の一生のようになり、私に選ばれた者らは彼らの手の業にまさって長らえる。彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に主に祝福された者の一族となる」(65:21-23)。「今の困難は必ず神が良くしてくださる、その時を希望を持って待て」と預言者は語ります。イエスが語られた「神の国は近づいた」(マルコ1:15)という言葉も、「神が行為して下さるから、神の国の到来を待て」との希望の預言です。

3.幻を持つことの力

・最後にイザヤは究極の幻、神の国の幻を見ます。「狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、私の聖なる山のどこにおいても害することも滅ぼすこともない、と主は言われる」(65:25)。狼は小羊を追い回し、獅子は牛を殺して食べる、弱肉強食のこの世界が平和と安全の世界に変えられるとイザヤは預言します。そのイザヤの預言を継承したものが、ヨハネ黙示録です。今日の招詞にヨハネ黙示録21:3-4を選びました。次のような言葉です「そのとき、私は玉座から語りかける大きな声を聞いた『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである』」。ヨハネはイザヤの預言を自分たちの時代の中で読み直して歌います。
・これは幻であって現実ではありません。イザヤの時代にはイスラエルはペルシャ帝国の植民地であり、帝国に逆らう者は弾圧されました。バビロンからの帰国を導いた指導者たちの多くも殺されていったとみられています(イザヤ57:1-2)。黙示録のヨハネの時代も、ローマ皇帝からの迫害の中で多くの人々が殉教していった時代です(黙示録6:10-11)。しかし先見者が幻を見ることによって、現実社会も動いていきます。キング牧師の「私には夢がある」という演説はその典型です。1963年に彼は語りました「私は同胞に伝えたい。今日の、そして明日の困難に直面してはいても、私にはなお夢がある。将来、この国が立ち上がり、『すべての人間は平等である』というこの国の信条を真実にする日が来るという夢が。私には夢がある。ジョージアの赤色の丘の上で、かつての奴隷の子孫とかつての奴隷主の子孫が同胞として同じテーブルにつく日が来るという夢が。私には夢がある。・・・将来いつか、幼い黒人の子どもたちが幼い白人の子どもたちと手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が」。
・この幻こそ、信仰がもたらすものです。神が行為される故に私たちも行為していく時、幻が現実化します。キングが夢見たように50年後のアメリカでは、黒人と白人の敵意の壁が低くされ、黒人であるバラク・オバマが大統領に選ばれています。幻、あるいは黙示とはどのような状況の中にあっても希望を失わない、神に呼びかけに答える行為なのです。そして神はそれを聞き届けると約束されます「彼らが呼びかけるより先に、私は答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける」(65:24)。
・創世記の初めには「地は闇に覆われていたが、神が光あれと言われると光があった」とあります(創世記1:1-3)。私たちはともすれば現実の中で可能性を見つけようとし、見つからない時、もう駄目だと思います。しかし「どのような闇に覆われていても、神が「光あれ」と言われるとそこに光が生じる」、その神に望みを託して生きるのが私たち信仰者です。使徒言行録は聖霊降臨の日にペテロの行った説教を記しています「神は言われる。終わりの時に、私の霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る・・・主の名を呼び求める者は皆、救われる」(使徒2:17-21)。幻(vision)を見る力が使命(mission)を与え、信仰者を生かす希望(hope)となる。この神から与えられる希望がキリスト者の生き方を愛に導きます。パウロが語るように、「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(第一コリント13:13)のです。


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1.苦難の中での祈り

・イザヤ書は40章から第二イザヤという預言者の言葉が始まります。バビロニアに国を滅ぼされ、異国の地で捕虜となって苦しんだイスラエルの民に、「主が私たちを解放してくださる」との希望の預言が語られます。そしていよいよ捕囚の民の帰国が始まり、人々はイスラエルを目指して帰国の旅につきます。しかし故国に帰ってみると、住んでいた家には他の人が住み、畑も他人のものになっていました。彼らは「主がエルサレムをエデンの園にして下さる」と励まされて帰国しましたが、現実は予想を上回る厳しさです。彼らは言います「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」(59:1)。主に対する信仰まで揺らぎ始めています。人々はつぶやき始めます「私たちは光を望んだが、見よ、闇に閉ざされ、輝きを望んだが、暗黒の中を歩いている」(59:9)。約束が違うではないか、どこにエデンの園があるのか。帰らなければ良かった、バビロンの方が良かったと民は言い始めているのです。
・預言者は信仰をなくした民に語り掛けます「これまでの救済の歴史を忘れたのか、主は私たちを救い続けて来られたではないか」と。「私は心に留める、主の慈しみと主の栄誉を、主が私たちに賜ったすべてのことを、主がイスラエルの家に賜った多くの恵み、憐れみと豊かな慈しみを」(63:7)。「エジプトから救い出された主の慈しみを思い起こせ」と預言者は語ります「主は輝く御腕をモーセの右に伴わせ、民の前で海を二つに分け、とこしえの名声を得られた。主は彼らを導いて淵の中を通らせられたが、彼らは荒れ野を行く馬のようにつまずくこともなかった。谷間に下りて行く家畜のように、主の霊は彼らを憩わせられた。このようにあなたは御自分の民を導き、輝く名声を得られた」(63:12-14)。
・主は私たちに語られた「あなたは私の民、偽りのない子らである」(63:8)。そして主は私たちの救い主となられた。「主は私たちの苦難を常に御自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって私たちを救い、愛と憐れみをもって私たちを贖い、昔から常に、私たちを負い、私たちを担ってくださった」(63:8-9)ではないか。そして今、私たちを「バビロンから救い出してくださったではないか」。それなのになぜつぶやくのか「主の手が短くて救えないのではないか。主の耳が鈍くて聞こえないのではないか」と。

2.天を裂いて降りたまえとの祈り

・預言者は語りを続けます「主が今、あなた方を捨てられたように見えるのは、あなた方が主に背いたからだ」と。かつてモーセを用いてあなた方を救われた主は、あなた方の背信によって、今あなた方から目をそむかれた。だから今主はあなた方と共におられないと預言者は語ります。「彼らは背き、主の聖なる霊を苦しめた。主はひるがえって敵となり、戦いを挑まれた」(63:10)。しかし、民を諫める預言者自身も神の沈黙に悶えています。神の沈黙は罪に対する裁きだと理解していても、このままでは民の心が死に絶える。預言者は民を諫めると同時に主に嘆願の叫びをします「どうか、天から見下ろし、輝かしく聖なる宮から御覧ください。どこにあるのですか、あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは、抑えられていて、私に示されません」(63:15)。
・預言者は祈り続けます「あなたは私たちの父です。アブラハムが私たちを見知らず、イスラエルが私たちを認めなくても、主よ、あなたは私たちの父です。私たちの贖い主、これは永遠の昔からあなたの御名です」(63:16)。それなのに、「なにゆえ主よ、あなたは私たちを、あなたの道から迷い出させ、私たちの心をかたくなにして、あなたを畏れないようにされるのですか。立ち帰ってください、あなたの僕たちのために、あなたの嗣業である部族のために」(63:17)。「民はあなたの力とあなたの憐れみに疑問を感じています。どうかあなたの力と憐れみを彼らに示してください」と預言者は叫びます。
・神の沈黙に対する民の呻きは預言者の呻きでもあります。預言者は祈ります「あなたの聖なる民が、継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名で呼ばれない者となってから、私たちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(63:18-19)。「私たちをバビロンから連れ出し、エルサレムに導かれたのはあなたではないですか。最後まで面倒を見てください。今こそ天を裂いて降って来て、この地上の出来事に介入して下さい。あなたが私たちと共におられることのしるしを見せて下さい」とイザヤは祈り続けます。
・63章の祈りは64章にも連続しています。預言者は自分たちの罪の故に、神が沈黙しておられることを知っています。だから祈ります「私たちは皆、汚れた者となり、正しい業もすべて汚れた着物のようになった。私たちは皆、枯れ葉のようになり、私たちの悪は風のように私たちを運び去った。あなたの御名を呼ぶ者はなくなり、奮い立ってあなたにすがろうとする者もない。あなたは私たちから御顔を隠し、私たちの悪のゆえに、力を奪われた」(64:5-6)。しかし、それにもかかわらず預言者は救いを求め続けます。「しかし、主よ、あなたは我らの父。私たちは粘土、あなたは陶工、私たちは皆、あなたの御手の業。どうか主が、激しく怒られることなく、いつまでも悪に心を留められることなく、あなたの民である私たちすべてに目を留めてくださるように」(64:7-8)。
・私たちは罪を犯した。あなたから糾弾されても仕方がない。それでも「主よ、私たちを救ってください。あなたが私たちを造られたではありませんか」と預言者は激しく求め続けます。「あなたの聖なる町々は荒れ野となった。シオンは荒れ野となり、エルサレムは荒廃し、私たちの輝き、私たちの聖所、先祖があなたを賛美した所は、火に焼かれ、私たちの慕うものは廃虚となった。それでもなお、主よ、あなたは御自分を抑え、黙して、私たちを苦しめられるのですか」(64:9-11)。

3.激しい祈りに応えられる主

・預言者の激しい祈りに応えて啓示された言葉が、今日の招詞イザヤ65:17-18です。次のような言葉です「見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。私は創造する。見よ、私はエルサレムを喜び躍るものとして、その民を喜び楽しむものとして、創造する」。主は荒廃したエルサレムに代り、新しいエルサレムを創造されるとの幻をイザヤは示されました。「苦難の時は過ぎ去り、救いの時が来る」とイザヤは歌い始めます。預言者はどのような絶望の中にあっても希望を持ち続け、その希望を幻として民に提示します。それが預言者の役割です。
・預言者は主の言葉を語ります「私はエルサレムを喜び、わが民を楽しむ。泣く声と叫ぶ声は再びその中に聞えることはない。わずか数日で死ぬみどりごと、おのが命の日を満たさない老人とは、もはやその中にいない。百歳で死ぬ者もなお若い者とせられ、百歳で死ぬ者は呪われた罪びととされる」(65:19−20)。神が共におられる故に、エルサレムは再び繁栄の都となる。そこには泣き声や叫び声は絶え、幼くして死ぬ子どもも、命の日を満たさない老人もいなくなる。イザヤの時代、乳幼児死亡率は高く、天寿を全うせず死ぬ者も多かった。その中での希望の言葉です。
・聖書が私たちに告げることは、「いかなる場合でも希望を持ち続けよ。主はそれをかなえてくださる」という約束です。その約束を信じ続けた人がヴィクトール・フランクルです。彼は1905年にウィーンで生まれた精神科医でしたが、ユダヤ人でしたので、第二次大戦中、ナチスによって、強制収容所に送られます。彼の妻や子、また両親は収容所の中で殺されています。フランクルは、持ち物を全部取り上げられ、素っ裸にされた時、心の中でこうつぶやきました「あなたたちは私から妻を奪い、子どもたちを奪うことができるかもしれない。私から服を取り上げ、体の自由を奪うこともできるだろう。しかし、私の身の上に降りかかってくることに対して、私がどう反応するかを決める自由は、私から取り除くことはできない」。
・フランクルは収容所で絶望して自殺を決意した二人の囚人に語りかけました「あなたを必要とする何かがどこかにあり、あなたを必要としている誰かがどこかにいるはずです。そしてその何かや、誰かは、あなたに発見されるのを待っているのです」(V.E.フランクル「生きる意味を求めて」から)。フランクルは、非人間的な扱いを受ける収容所の中で、なお人間としての誇りを失わず、人々に優しい言葉をかけ、生きる希望を持ち続け、与え続けました。そして、人々が次々と死んでいく中でも、彼は生き延びました。彼と同じように、希望を持ち続けることを選んだ人たちも、また生き延びることができました。彼は言います「どんな状況でも人生にイエスと言うことができるのです」(V.E.フランクル「それでも人生にイエスと言う」)。これがイザヤ書の信仰であり、私たちの信仰でもあります。
・今週、バプテスト連盟総会に参加しました。主題聖句は箴言4:25-26「目をまっすぐ前に注げ。あなたに対しているものに、まなざしを正しく向けよ。どう足を進めるかをよく計るなら、あなたの道は常に確かなものとなろう」でした。主題聖句の解説文は記します「“御言葉はそう言っているが現実はこうだ”というのではなく、“現実はどうであっても御言葉はこういっている”と御言葉にまっすぐ聞き従って行こう」。カール・バルトは死の前日の1968年12月に親友のトルナイゼンとの電話で語りました「意気消沈だけはしないようにしよう。主がこの世界を治めていたもう。神は私たちが滅びるままには放置されない」。現実がどんなに暗い時にも希望を持ち続ける、神が見えない時は叫び続ける、そして叫べば主は「天を裂いて降ってくださる」、このイザヤの信仰こそが私たちの信仰です。


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