すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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06 04

1.ペンテコステ礼拝を迎えて

・聖霊降臨節を迎えました。ペンテコステ、イエスの受難と復活から50日目、祈り続ける弟子たちの群れに聖霊が下り、弟子たちはいろいろな国の言葉で福音を語り始めたと伝えられています。エルサレムで生まれた福音が言葉の壁、民族の壁を超えて伝わり始める、という出来事が起こった、それがペンテコステです。使徒言行録2章はその日に起こった出来事を記しています。今日はペンテコステを祝うために、聖書日課のローマ書を読む前に、使徒言行録2章の物語を最初に聞いていきます。
・ルカはその時の様子を報告します「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1-3)。見えない聖霊が風のように弟子たちに下り、その霊によって弟子たちに語る言葉が与えられた。ルカは記します「一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)。
・エルサレムには外国生まれのユダヤ人たち、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが数多く住んでいました。ユダヤは何度も国を滅ぼされ、その度に人々は外国に散らされてそれぞれの地に住み、その子孫たちが故国に帰っていたのです。彼等はヘレニスタイと呼ばれ(6:1)、ギリシャ語を話していました。大きな物音にびっくりして弟子たちのいた家の周りに集まった人々の中に彼等もおり、弟子たちが自分たちの国の言葉で語っているのを聞き、驚いて言います「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(2:7−8)。「私たちの中には・・・ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2:9-11)。

2.福音伝達の業

・ペンテコステの出来事は、「神が為された偉大な業」(2:11)を、人々に分かる言葉で伝えることができたということです。ルカは「霊が語らせるままに、(弟子たちが)ほかの国々の言葉で話しだした」(2:4)と記しますが、おそらく弟子たちは、外国生まれのユダヤ人や異邦人も理解できる、当時の共通語ギリシャ語で語り始めたと思えます。弟子たちの出身はガリラヤですが、その地方はギリシャ化が進み、弟子たちの何人かはギリシャ語を話すことが出来たのでしょう。弟子たちがイエスの受難と復活をギリシャ語で語った結果、その言葉は人々に伝わり、その結果3千人の人が洗礼を受けたとルカは記します(2:41)。
・このギリシャ語を話すユダヤ人たちがやがて福音宣教の担い手になります。使徒8章ではエルサレム教会にユダヤ教からの迫害が行われたことが記されています。この迫害の結果、ギリシャ語を話すユダヤ人たちがエルサレムを追われ、サマリアやシリア、さらにはアジア地方にまで伝道を行い、その結果、福音が民族、国境を超えて広がって行き、福音はローマにも伝達されました。パウロはローマ帝国の各地で開拓伝道をしながら、いつかは首都ローマに行って伝道したいという希望を持っており、その準備として、ローマにいる信徒たちに手紙を書きます。手紙の中で、彼は自分がたどった回心の歴史、キリストに出会って罪を知ったこと、悔い改めて新しい生き方を示されたこと等を述べています。そして「神を信じる者の新しい生き方とは何か」をローマの信徒たちに送ったものが、12章以下の言葉です。
・12章冒頭で彼は言います「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生ける生贄として献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(12:1)。神の救済に対する応答とは礼拝であり、礼拝とは自分の体=生活を神に捧げることだと彼は言います。礼拝とは日曜日に教会に集まることだけではなく、毎日の生活の中で神を証していく、この世において神の救いを受けた者にふさわしく生きていく、それが本当の礼拝だと彼は言います。そして語ります「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき・・・なさい」(12:2)。この世は、「食料を兵器に」、「援助を弾圧に」、「正義をテロリズムに」、「愛を性欲に」、「解放を専制政治に」、変えてしまう悪の世です。だからパウロは語ります「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただきなさい」と。
・神によって変えられた者はどのような生き方をするのか、それは「愛する」生活です。彼は言います「愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(12:9-10)。この「愛」は「ヘ・アガペー」、その愛、神によって示された愛です。イエスが最後の晩餐の席上で、弟子たちの足を洗われた愛です(ヨハネ15:12)。相手の足を洗う愛、仕える愛、これが「アガペー」と呼ばれる愛です。私たちが「人を愛する」と言う時、そこには「好き嫌い」の感情が入ります。好きな人を私たちは愛し、嫌いな人は愛さない。この愛は「エロス」と呼ばれるものです。聖書はエロスの愛を否定しませんが、エロスの愛だけでは神の平和は不可能です。なぜなら、好きな人は味方になり、嫌いな人は敵になり、敵がいる以上、争いが生まれます。
・嫌いな人をも受け入れる愛、それがアガペーです。パウロは「教会に集まるお互いを、実の兄弟姉妹のように愛しなさい」と教えます。教会に集まる人の中には、良い人も悪い人もいます。尊敬できない人も、好きになれない人もいます。そのような人でも「兄弟愛を持って、互いに愛し、尊敬をもって、相手を優れた者と思いなさい」(12:10)とパウロは語ります。兄弟愛=アガペーの愛とは好き・嫌いという感情を超えた愛です。人間は嫌いな人を愛することは出来ません。だから、祈ることが求められています。パウロは言います「希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」(12:12)。

3.敵を愛し、迫害するもののために祈れ

・今日の招詞にローマ12:14-15を選びました。次のような言葉です「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません。喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。当時のキリスト信徒たちはユダヤ教徒からもローマ人からも迫害を受けていました。パウロ自身もユダヤ教徒からも、異教徒のローマ人からも、何度も鞭打ちを受けていました。それだけ苦しめられたパウロが何故「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と言えるのでしょうか。それは「キリストが『神への反逆者であった彼』のために死んでくださった」からです。パウロは語ります「私たちがまだ罪人であった時、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対する愛を示されました」(5:8)。そのことを知った時、パウロの人生は根底から変わったのです。
・イエスは言われました「あなたがたは私を通して父なる神に出会った。父は、悪い者の上にも良い者の上にも、太陽をのぼらせ、雨を降らして下さる。あなたがたも父の子として敵を愛せ」(マタイ5:43-45)。多くの人々は、イエスの言葉はあまりにも理想主義的であり、非現実的だと考えます。人々は言います「愛する人を守るためには暴力も止むを得ない。悪に対抗するのは悪しかない」。この論理は現代においても貫かれています。軍隊を持たない国はなく、武器を持たない軍隊はありません。武器は人を殺すためにあります。襲われたら襲い返す、その威嚇の下に平和は保たれています。相手は襲うかもしれない存在、敵です。しかし、悪に対抗するに悪で報いる時、敵対関係は消えず、争いは終りません。「目には目を、暴力には暴力を」、この論理によって人間は有史以来、戦争を繰り返してきました。イエスはこのような敵対関係を一方的に切断せよと言われます。「敵を愛せよ、愛することによって、敵は敵でなくなる」のだ。
・パウロはこのイエスの言葉を受けて、迫害の中にあるローマ教会に手紙を書き送ります「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい・・・あなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい」(12:17-18)。世の人々は競争を賞賛し、勝者をほめます。争わない者は弱者として嘲られます。その中でパウロは語ります。「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐は私のすること、私が報復すると主は言われる』と書いてあります。『あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の頭に積むことになる』。悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(12:19−21)。
・このパウロの言葉を政治的に具体化したものが、日本国憲法です。憲法前文は次のように述べます「日本国民は・・・平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」。人間の歴史から見た時、この憲法は驚くほど“愚かな”憲法です。「諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持する」ことが出来ないことを、私たちは歴史を通して知っています。それにもかかわらず、この憲法は9条2項で「一切の戦力はこれを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」と宣言します。日本国憲法は人間の目から見たら愚かで危ない。自衛のための軍隊は必要だ。だから、世の人々はこの憲法を改憲しようとしています。
・しかし、神の目から見れば、違う視点が与えられます。カトリック中央協議会は2003年度の声明の中で次のように述べています「日本は憲法9条を持つことによって国を守ることを放棄したのではありません。戦力を持たないという方法で国を守り、武力行使をしないで国際紛争のために働くと誓ったのです」。この70年間、一人の国民も戦争で死なせず、誰も殺さなかったのは、この憲法のおかげです。この憲法を持つことを、日本人として、キリスト者として、誇りにしたいと思います。その意味で憲法を変え、戦争のできる国にしようという動きに反対することもまた、キリスト者が為すべき礼拝であり、そのための苦難こそ、まさに私たちが捧げるべき生贄なのではないでしょうか。


カテゴリー: - admin @ 08時04分49秒

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