すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

説教内検索

05 28

1. キリストを受入れない同胞への悲しみ

・ローマ書を読んでおります。パウロは異邦人伝道者として召命を受け、多くの異邦人をキリストに導きました。それはパウロには大きな喜びでしたが、同時にパウロは「同胞であるユダヤ人が今なおキリストを拒絶し続けていること」に悩んでいました。「キリストの十字架を通して神と和解し、救われる」と信じるパウロにとって、キリストを拒絶することは神を拒絶することであり、それは滅びを意味しました。「神はユダヤ人を御自分の民として選ばれたのに、今は捨てられたのか」、「私の同胞は滅びに至るのか」、その問題を述べた箇所が今日のテキスト、ローマ書11章です。
・ユダヤ人は「神の民」として選ばれた民族です。神はユダヤ人の父祖アブラハムに、「地上の氏族は全てあなたによって祝福に入る」と約束されました(創世記12:3)。神はユダヤ人を通して人類を救おうとされ、その約束は、ユダヤ人として生まれられたキリストの来臨により成就しました。しかし、ユダヤ人たちは、このキリストを殺し、今なおキリストの教会を迫害しています。何故彼らは神の憐れみであるキリストを受入れることが出来ないのか。彼らは永遠の滅びの中に入ってしまうのか。それはパウロにとって耐えられない悲しみでした。
・このパウロの悲しみを私たちも共有します。日本に福音が伝えられて150年が経ちますが、ほとんどの日本人はキリストを受入れようとしません。私たちの家族でさえ、福音を信じようとしません。日本では、教会に行き始めた子供たちも大きくなって教会を離れることが多く、また一度は洗礼を受けた人がやがて信仰から離れることも度々です。「キリスト以外に救いはない」(使徒4:12)とすれば、キリストを信じることなしに死んでいくかも知れない、私たちの夫や妻、子供たち、あるいは教会を離れた人たちは滅びるしかないのでしょうか。パウロの歎きは、私たちにも真剣に考えるべき問題を迫ってきます。
・パウロは言います「神は御自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(11:1)。パウロは神の摂理を信じます。故に、ユダヤ人がキリストを拒絶するのもまた神の計画の中にあると信じます。ではなぜ神はユダヤ人の心をキリストの福音に対して閉ざされたのか、そこまで考えて行った時、パウロは驚くべき逆説に気づきます。すなわち神は「異邦人を先ず救うことを通してユダヤ人を救おうとされている」との逆説です。それが今日のテキスト11:11の箇所です「では、尋ねよう。ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。決してそうではない。かえって、彼らの罪によって異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、彼らにねたみを起こさせるためだったのです」。
・パウロ自身最初はユダヤ人同胞に伝道しましたが、彼らが受け入れなかったため、進路を異邦人に向けました(使徒13:46「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、私たちは異邦人の方に行く」)。もしユダヤ人がイエスを受け入れて福音を信じたならば、キリスト教はおそらくユダヤの民族宗教に留まり、全世界に述べ伝えられることはなかったでしょう。神の言葉(旧約聖書)がユダヤ人に与えられた時、彼らはそれを自分たちユダヤ教内の聖典として抱え込み、他民族には伝道しませんでした。しかしキリストの福音は、イスラエルの拒絶によって、民族を超え、ローマにまで伝えられて行きました。まさにユダヤ人の拒絶が福音宣教に決定的な役割を果たしたのです。
・それだけではなく、救いが異邦人に及ぶことを通して、一度は福音を捨てたユダヤ人がまた神の恵みに帰るという幻をパウロは与えられました。それが11:12の言葉です「彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」。ボンヘッファーも語りました。「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、またそれを望み給うということを、私は信じる」(ボンヘッファー「抵抗と信従」から)。人間の罪や過ちは取り返しのつかないものではない。神は人間の過ちを善に転換する力をお持ちだ。だから、私たちもまた、家族や友人が今は福音に心を閉ざしているとしても、それは神の計画の中にあるのであり、いつの日にか、家族もまた福音を受け入れるという希望を持つことが許されているのです。

2. 先に救われた者の役割

・では先に救われた異邦人の役割は何でしょうか。それは「ユダヤ人に妬みを起させることだ」とパウロは言います「あなたがた異邦人に言います。私は異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。何とかして自分の同胞に妬みを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」(11:13-14)。あなたがたの救いを通してユダヤ人に妬みを起させ、彼らをもう一度神のもとに連れ帰ることこそ、あなた方異邦人キリスト者の使命なのだとパウロはここで言います。「もし彼らの捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。麦の初穂が聖なるものであれば、練り粉全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです」(11:15-16)。私たちの経験では、妻の信仰を見て夫が変えられて行く、あるいは子の変化を見て親が信仰に入ることがあります。まさに「そのような出来事が起こる」とパウロは語ります。
・パウロはユダヤ人と異邦人の関係を「根と接ぎ木」という例えで説明します。「ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです」(11:17-18)。あなたがた異邦人の救いは、ユダヤ人という根に野生のオリーブが接ぎ木されたようなものであり、接ぎ木された枝が根であるユダヤ人に対して、誇る所は何もないとパウロは言います。しかし、ローマ教会で多数派を占めた異邦人キリスト者は、少数派のユダヤ人キリスト者を「弱い者」と呼んで軽蔑していました(14:1)。まさに接ぎ木された枝が、その根を嘲笑したのです。
・それは間違っているとパウロは語ります。「あなたは『枝が折り取られたのは、私が接ぎ木されるためだった』と言うでしょう。その通りです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」(11:19-20)。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」というパウロの言葉は2000年の歴史を振り返る時、大きな意味を持っています。パウロの時代、ユダヤ人がキリスト教徒を迫害していました。しかしキリスト教がローマ帝国の国教となると立場が逆転し、今度はキリスト教徒がユダヤ人を、「キリストの殺害者」として迫害するようになります。まさに「枝が根を迫害する」ようになった。中世のヨーロッパで、至る所でユダヤ人は迫害され、殺され、その反ユダヤ主義がやがてナチス・ドイツによるユダヤ人大量虐殺を生んでいきます。アウシヴィッツの出来事は、人々がパウロの言葉を真剣に聞かなかったことから生まれているのです。

3. 神の摂理の中で

・今日の招詞にローマ11:31-32を選びました。次のような言葉です「彼らも、今はあなたがたが受けた憐れみによって不従順になっていますが、それは、彼ら自身も今憐れみを受けるためなのです。神はすべての人を不従順の状態に閉じ込められましたが、それは、すべての人を憐れむためだったのです」。ユダヤ人は行いによる義を追い求めることによって、神の義からそれてしまいました。先祖伝来の自分たちの正しさ(律法による救い)に固執したからです。パウロにとってのユダヤ人は、私たちにとっての家族や、教会を離れて行った友のことです。パウロは語ります「一部のイスラエル人がかたくなになったのは、異邦人全体が救いに達するまでであり、こうして全イスラエルが救われるということです。」(11:25-26)。
・神はユダヤ人をその不信仰の故に裁かれますが、それは彼らを滅ぼすためではなく、救うためです。神は福音を世界に伝えるために一時的にユダヤ人の心を閉ざされたが、それは彼らを捨てられたからではない。「現に私のようにキリスト者を迫害していた神への反逆ユダヤ人を神は救って下さったではないか」とパウロは語るのです。同じように、神は今私たちの家族や友人の心を一時的に閉ざしておられる。しかし、閉ざされたものは開けられる、そこに私たちの希望があります。
・神は最後には同胞ユダヤ人を救いたもうとパウロは確信します。そしてパウロは、それが自分の生きている間に実現する、キリストの再臨と共に起こると考えていたようです。そのためにも異邦人伝道を急がなければいけない。ローマに行き、そこを根城に地の果てスペインにまで福音を伝えた時がその成就の時だと考えていたようです(15:22-24)。しかしそれは実現しませんでした。ローマに行ったパウロはその地で処刑されたのです(紀元60年、4年後)。ではパウロの考えた一切は幻想に過ぎなかったのでしょうか。それとも実現しつつあるのでしょうか。ある人々は1948年にイスラエルが国家として2000年を経て再建されたことを、ユダヤ人救済の最初の一歩と考えています。アメリカ原理主義福音派の人々はそう考え、イスラエルに対する宣教や支援を活発化させています(メシアニック・ジュー運動等)。
・しかし私たちは「誰が救われたとか、救われていないかということは神の領分」であり、私たちは「神が私たちを選んでくれたことに感謝するだけで良い」と思います。ボンヘッファーが語ったように、「神はすべてのものから、最悪のものからさえも、善を生ぜしめることができ、またそれを望み給う」という信仰を持ち、その中で、キリストを信じないで死んでいった家族も、キリストから離れた友の救いも神が為してくださることを私たちは信じ、そのために私たちを用いられるように祈っていくのです。


カテゴリー: - admin @ 08時19分21秒

TrackBacks

このコメントのRSS

TrackBack URL : http://shinozaki-bap.jpn.org/modules/wordpress/wp-trackback.php/839

この投稿には、まだコメントが付いていません

コメント

_CM_NOTICE

15 queries. 0.101 sec.
Powered by WordPress Module based on WordPress ME & WordPress