すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

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01 30

1.カナンの女の信仰

・「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(マタイ4:23)。人々は次から次へ、病気の人をイエスの許に連れて来た。イエスは彼らをいやされた。いやしてもらった人々はイエスの許を去った。もう用事が無いからだ。イエスは人々の姿に失望された。彼らが求めるのは、いやしだけであり、いやされる神の御心を知ろうとはしない。いやしだけを求め、満たされると去って行く。「イエスはガリラヤを立ち、ティルスとシドンの地方に行かれた」(15:21)とマタイは記す。「立ち」という言葉は直訳すると「退く」と言う意味だ。イエスはガリラヤでの宣教に疲れられて、休息を求めて、異邦人の土地に退かれた。しかし、そこにも人々が押しかけてきた。

・娘が悪霊につかれて苦しんでいる女が、イエスの評判を聞き、治して欲しいと求めて来た。女は叫んだ「主よ、ダビデの子よ。私を憐れんで下さい。娘が悪霊にひどく苦しめられています」。「悪霊に苦しめられている」、恐らくは精神の病を病んでいたのであろう。医者や祈祷師の所に行ったが、誰も治せなかった。女はわらにもすがる思いでイエスのところに来た。「叫んだ」、原文では「わめく、大声で叫ぶ」の意味だ。髪を振り乱し、金切り声を上げて、娘のいやしをイエスに訴えかけた。彼女の叫びの大きさが、彼女の苦悩の大きさを語っている。

・しかし、イエスは何もお答えにならなかった。ガリラヤでは、あれほどのいやしをされたのに、この異邦の土地では沈黙されている。弟子たちはたまりかねてイエスに言った「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」。女にイエスは言われた「私は、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」。私はイスラエルを救うために、父から派遣されてきた。「まずイスラエルの民を」と言うのがイエスのお考えだった。しかし、女はあきらめなかった「主よ、どうか助けてください」。あなた以外に頼る人はいないのです、誰も治せなかった、あなたが見捨てたら、私たち親子は死ぬしかないのですと女は訴えた。

・女は必死だった。彼女はイエスの前にひれ伏した。土下座して、イエスの救いを求めた。その女にイエスは言われた「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」。犬とは異邦人を指す。「私はイスラエルの子供たちを救うために来た。異邦人の救いは、私ではない誰かが行うであろう」。しかし、この拒絶の後ろには、受け入れがある。子犬とは飼い犬のことであり、野良犬ではない。飼い犬は主人の食べた残りを食べることは出来る。女はそれに気づいた。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」。「その通りです、私たちは救われる価値はありません、選ばれた民ではなく、異邦人です。まず、イスラエルの子供もたちが食べるべきです。しかし、神様は私たち異邦人にも恵みを拒否される方ではありません」。イエスは女に言われた「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」。信仰が立派だ=信仰が大きいとの意味だ。あなたの信仰はイスラエル人よりも大きい。イスラエルの人は当然の権利のごとくに私のいやしを要求したが、あなたは神の憐れみを求めた。父はあなたを憐れんでくださるだろう。イエスはこれまでの伝道方針を破って、異邦人の娘をいやされた。

・イエスは女の求めを三度拒絶された。最初は女の叫びを無視され、二度目は「異邦人をいやすことは私の使命ではない」と言われ、三度目は「神の力を異邦人に用いることは私には許されていない」と言われた。このような拒絶の体験を私たちもする。病や苦しみが与えられた時、私たちは必死になって祈る「主よ、どうかこの苦しみを取り去って下さい。どうか、憐れんでください」。しかし、何の答えもない時がある。そんな時、私たちは祈りが無視され、拒絶されたと怒る。そして祈りを止める。この教会にも過去に多くの人が、御自分の、あるいはお子さんのいやしを求めて来られた。そしていやされないと知ると、失望して去って行かれた。カナンの女は必死に求めた。無視され、拒絶されても、求めた。他にあてが無かったからだ。この熱心さがイエスの心を動かした。

2.祈りを聞かれる神

・しかし、同時に、私たちはもう一つの現実を知る必要がある。それは、どんなに求めてもいやされない病があり、どんなに求めても取り除かれない苦しみがあるという事実である。今日の招詞に詩篇22:2-3を選んだ。次のような言葉だ。「私の神よ、私の神よ、なぜ私をお見捨てになるのか。なぜ私を遠く離れ、救おうとせず、呻きも言葉も聞いてくださらないのか。私の神よ、昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。

・悲痛な叫びだ。いやしを求めたのにいやされなかった。苦しみの取り除きを求めたのに、取り除かれなかった。作者の悲鳴が聞こえる。この詩篇はイエスが十字架上で叫ばれた言葉としても有名だ。イエスは最後の時に言われた「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」。

・前に、心の病に苦しむ娘を持った母親の手記を読んだことがある。彼女はこう書いている「聖書にイエス様が病人や悪霊に取りつかれている人たちをおいやしになった事が出てきます。その度に思うのは娘のことです。9歳の一人娘は知的障害で自閉症です。もしその当時、私が『イエスと言う救い主が現れて病人を治している』と聞けば、娘を連れてどんなに遠くても行ったことでしょう。『何とか治してほしい。どうぞ治してください』と祈っていると、時々虚しくなります。障害の重さばかり目に付いてしまい、絶望的になります」。心の病を持つ子がいる家族の苦悩は重い。全国精神障害者家族会がまとめた「心の病-家族の体験」という本を読むと、多くの苦しみの言葉がある。ある母親は、精神分裂病で入院した娘から「私の人生を返せ」と言われて泣き崩れた。夫から「娘がこうなったのはお前のせいだ」といわれて、この子を殺して自分も死のうと考えた人もいる。

・しかし、多くの経験者は言う「何故ですかと叫び続ける時、苦しみの大きさに押し潰されてしまう。解決が見えないからだ。しかし、何をすべきかと考えた時に、この状態を受入れられるようになる」。カナンの女も思っただろう「私は何故こんなに苦しまなければいけないのか」。彼女はイエスと対話するうちに、神は私たちの不幸を願っておられるのではなく、幸いを願っておられることに気がついた。だから彼女は言った「子犬も主人の食卓から落ちるパンくずはいただくのです」。神は私たちが異邦人という理由で見捨てられるような方ではない。神は私たちを憐れんで下さる。そう信じた。この信仰をイエスは「あなたの信仰は大きい」とほめられた。

・祈りが聞かれないように思える時も、神は聞いておられる。私たちの祈りは神に届いている。その祈りは最善の方法で答えられる。ただ、それが私たちの願う方向とは別なこともある事を知ることは大事だ。有名な詩がある。ニューヨークの老人病院に掲げられた詩で、作者はわからない。いつの間にか、多くの人が愛唱するようになった。次のような詩だ。「私は神に求めた、成功をつかむために強さを。私は弱くされた、謙虚に従うことを学ぶために。私は求めた、偉大なことができるように健康を。私は病気を与えられた、より良きことをするために。私は求めた、幸福になるために富を。私は貧困を与えられた、知恵を得るために。私は求めた、世の賞賛を得るために力を。私は無力を与えられた、神に必要とされていることを知るために。私は求めた、人生を楽しむために全てのものを。私は命を与えられた、全てのものに楽しむために。求めたものはひとつも得られなかったが、願いはすべてかなえられた。神に背く私であるのに、言い表せない祈りが答えられた。私はだれよりも最も豊かに祝福されている」。 

・この詩が指し示すことは、祈りは最善の方法で答えられる、ただ、それが私たちの願う方向とは別な時もあるということだ。いやしを求めたのに、病気の継続を与えられる事もある。苦しみの取り除きを求めたのに新しい苦しみが与えられることもある。今いやされないことが最善であることもあるのだ。聖書は、私たちの求めと異なるものが与えられても、そのまま受け止めなさいと教える。時間の経過と共に、神が私たちに最善のものをお与え下さったことがわかるようになる時が来る。その時を、信仰と忍耐を持って待ちなさいと。詩篇22編は絶望の叫びであるように思えるが、実は感謝の歌だ。作者は続ける。「主は貧しい人の苦しみを、決して侮らず、さげすまれません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いて下さいます」(詩篇22:25)。


カテゴリー: - admin @ 22時48分19秒

01 23

1.あなた方は地の塩、世の光である

・イエスは弟子たちと共に、ガリラヤの地を回り、会堂で教え、福音を宣べ、病気や患いの人をいやされた。大勢の群集がイエスに従って来た。イエスは群集を見て、山に登られ、人々に教えられた。有名な山上の説教がマタイ5章に記されている。イエスの周りを弟子たちが取り囲み、その弟子たちを囲むようにして群衆がいた。その人々にイエスは語られた「あなたがたは地の塩であり、あなたがたは世の光である」。

・塩は生活に不可欠なものだ。塩がなければ食物は腐る。塩を入れない料理はおいしくない。塩は味付けとしても不可欠なものだ。イエスは「あなたがたはこの世において、そのような塩の働きをする。この世にしっかりとした味付けをし、またこの世の腐敗を防ぐ役割をする」と言われている。光は闇を照らし、ものの形を明らかにする。「あなたがたは、この世の闇を照らす者であり、あなたがたによってこの社会は明るくなる」と言われている。しかし、聞く私たちは困惑する。私たちは、地の塩、世の光と言えるような活動はしていない、そんな立派な生き方はしていない。そういわれても困る。

・しかし、イエスの言葉は私たちに迫る。具体的に何をすれば良いのを私たちは考える。ある人は、地の塩になるとは、この社会の腐敗や不正を指摘し、それを改善していく行為ではないかと思った。社会の良心、あるいは見張り塔としての役割だ。運動が支持され、力を持ち、終には腐敗や不正が取り除かれた時、地の塩の役割が果たせたのだと。戦前のクリスチャンたちはそう考えて、社会改革運動に乗り出して行った。賀川豊彦は貧しい人々も連帯すれば豊かになれると考え、消費生活運動や共済運動に力を入れた。今日の生活協同組合や農業共同組合は賀川の遺産だ。海外の宣教団体は学校や病院を作った。ミッションスクールや多くの病院が残った。しかし、それがイエスの言われた「地の塩」としての生き方なのだろうか。

・別の人は、世の光になるとは伝道に励むことだと考えた。教会の本来的役割は伝道であり、伝道が実を結び、多くの人が教会に集まり、クリスチャンの数が増えていけば、この世は良くなる。その時、世の光としての役目を教会は果たしたと。しかし、韓国やアメリカでは、クリスチャンの数が過半数を超えるが、韓国人やアメリカ人を見て、他国の人々が神をほめたたえるとは思えない。それらの国でも、日本と同じように腐敗と不正が蔓延している。そう考えると、クリスチャンの数を増やすことが、求められていることでもない。

・私たちはイエスの言葉の時制に留意する必要がある。それは「塩になりなさい」という命令形でもないし、「塩になれるだろう」という未来形でもない。「あなたがたは地の塩である」と現在形で語られている。あなた方は既に塩なのだ、だから、塩になろうとするのではなく、塩の本質である塩気を失うなと警告される。塩が塩気を失くすことがあるのだろうか。イスラエルの塩は死海で取れる岩塩だ。塩の塊は多くの不純物を含み、水分を吸うと塩が溶け、ただの石になってしまう。「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである」(マタイ5:13)。あなたがたが、私の話しを聞いても、それを行わず、世の人と同じようにして生きるならば、あなたがたは塩としての役割を失う。

・同じように、福音を聞いたあなたがたは、既に神の光をいただき、その明かりを持つ者となった。そのあなたがたが、明かりをますの下に隠したら何の役にも立たないではないかと言われる。「ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(5:15)。ともし火を升の下におけば、風で火は消えてしまう。せっかく明かりをいただいたのに、それを隠すことをするな。あなたがたは既に光なのだ。その光を世に示し、世を照らすのがあなたがたの役割なのだと言われている。

2.私たちにとって、地の塩、世の光とは何か

・今日の招詞にマタイ5:11-12を選んだ。今日の聖書個所の直前にある言葉だ。「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。イエスは山上に集まってきた人々を祝福された。「心の貧しい人々は幸いである。悲しむ人々は幸いである。柔和な人々は幸いである」と言う言葉の最後に、今日の招詞の言葉「迫害される人々は幸いだ」という言葉がある。

・迫害されることが何故幸いなのだろうか。イエスに「地の塩、世の光」と呼びかけられた人々は、社会の有力者でもなく、また信仰のあつい人々でもなかった。私たちと同じような普通の人々、むしろ普通以下の、貧しい、社会的影響力を持たない人たちだった。貧乏人や罪人や障害者として、社会から差別され、疎外されていた人々であった。そういう人たちがイエスの周りに集まり、そういう人たちに対してイエスは言われた「あなたがたこそ、まさに地の塩であり、あなたがたこそ、まさに世の光である」。

・「貧しい人は幸いだ」。何故なら、貧しい人は、明日食べるものがあるだろうか、食べられるだろうかと心配して、「明日も食べ物を与えてください」と神に祈ってから床に就く。翌日、食べ物が与えられた時には、養って下さった神に感謝する。豊かな人にとって、食べ物があるのは当たり前で、与えられても感謝などしない。どちらが神に近いか。貧しい人ほど神に近いから、幸いなのだ。「悲しむ人は幸いだ」。何故なら、自分が悲しんで初めて、他者の悲しみがわかる。自分の子供が不登校になって、どうしたらよいか、おろおろして、カウンセリングに行き、不登校の子を持つ親の会に行き、そこで悩みを分かち合うことを通して、助けられ、次には自分が助ける者となる。喜んでいる人は自分の喜びしか見えない。だから、悲しむ人は喜ぶ人よりも幸いなのだ。「迫害される人は幸いだ」。迫害される人は、自分の信仰、自分の行き方を理解し、支持してくれる人が誰もいない。誰も頼る人がいないから、神に頼る。神の憐れみにすがって生きるしかない。その時、神は憐れんで下さる。神の憐れみを知っているから幸いなのだ。人にほめられ、満たされている人は神を求めない。必要ないからだ。そして、神を求めない人は、やがては滅びる。だから、人にほめられ、満足している人は不幸なのだ(ルカ6:26)。

・「あなたがたは地の塩、世の光だ」と言われている。あなたがたとは、この山上の説教を聞いている弟子たちであり、群集だ。イエスは、ご自分に従ってきた人々に向かって、この言葉を語られた。それは、今日、この礼拝に集まってきた私たちに向かっても、この言葉が語られていると言うことだ。私たちの中には、イエスを救い主と信じ、バプテスマを受けた人もいる。その人たちは既にイエスの弟子となった人たちといえよう。まだバプテスマを受けておられない方もいる。でも、イエスの言葉を聞きたいとして、ここに集まって来られた。その方々は、弟子の周りにいて、共に説教を聞いた人々と重ね合わせることが出来る。ここに集められた全ての人に向かって「あなたがたは地の塩であり、世の光である」と語られている。

・塩が塩として働く時、その形は溶けてなくなる。光は自分のために輝くのではなく、相手を照らすために輝く。塩であり、光であることは、自分が溶けて相手を生かす存在になることだ。地の塩、世の光であるとは、立派なクリスチャンになって、その行為で周りを感化することではない。社会を改革するために熱心に行為することでもない。私たちは自分の罪を知り、自分の惨めさに泣いたことがある。だから、ここに集まっている。泣いたことのある者だけが、他者の悲しみを悲しむことが出来る。苦しんだことのあるものだけが、他者の苦しみを理解できる。私たちは既に地の塩、世の光なのだ。だから塩味を失うな、明かりを消すなと励まされているのだ。


カテゴリー: - admin @ 22時50分15秒

01 16

1.招きと従い

・イエスはヨルダン川でヨハネからバプテスマを受けられた後、しばらく、ヨハネのもとにおられた。やがて、ヨハネはユダヤ当局から危険人物として逮捕される。イエスはこの事件を契機に、御自分の活動する時が来たことを悟られ、故郷のガリラヤに戻って宣教を始められた。そのイエスが言われた言葉がマタイ4:17にある「悔い改めよ。天の国は近づいた」。時は満ちた、神が行動を起こされた、だからあなた方も悔い改めて、神に帰りなさいと言う意味である。

・ルカ福音書によれば、イエスは、ヨルダン地方から、最初はナザレに戻られたらしい。しかし、故郷の人々はイエスの教えを受入れなかった。彼らは言った「この人はヨセフの子ではないか」(ルカ4:22)、何故、大工の子が我々に教えるのかという意味であろう。イエスはナザレを去り、ガリラヤ湖畔の町、カペナウムに来られ、そこに住まれた。カペナウムで宣教を始められたイエスが最初に為されたのは、弟子の招きであった。シモン・ペテロとアンデレはガリラヤの漁師であった。彼らが舟を出して漁をしている時、イエスは二人に言われた「私について来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(4:19)。二人はすぐに網を捨てて従った。

・ヨハネ福音書によれば、ペテロとアンデレは、バプテスマのヨハネの呼びかけに応えて、ヨルダン地方に行ってバプテスマを受けており、そこにおられたイエスの言葉も聞いている(ヨハネ1:40-42)。ガリラヤに戻ってからも、イエスの説教や行われた業を見たり、聞いたりしていたのだろう。日頃から、この人こそは真の預言者だと思っていた。だから「従いなさい」というイエスの言葉に、すぐに従った。この後、イエスはペテロの漁師仲間のヤコブとヨハネが舟の中で網の繕いをしているのをご覧になり、彼らも呼ばれた。この二人も、舟と父親を残して、すぐに従った。弟子とは「呼ばれて」、「従う」者だ。彼らは網を捨てて、舟を捨てて、あるいは父を捨てて、イエスに従った。イエスの招きの言葉の中に、有無を言わせぬ権威があった。従う=アコローセオーという言葉はマタイ4章の中心に位置する言葉だ。

・その後、「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(4:23)。イエスは弟子たちと共に、ガリラヤの町や村を巡り歩かれ、宣べ、教え、病をいやされた。当時、病気は、神の呪い、罪の結果と考えられていた。罪を犯したから重い病気になり、体に障害が与えられたと人々は考え、病者や障害を持つ人を社会から締め出した。イエスが近づいて行かれたのは、このような人々、地の民と呼ばれた人々であった。徴税人、娼婦、重い病気を患う者、心の病を負う者、彼らは罪人として社会から隔離されていた。らい病者は街中に入ることは許されず、体に障害を持つ者も城壁の外でしか物乞いは出来ない。心の病は悪霊のなせる業と嫌われた。その人々にイエスは近づき、言われた「苦しみと悲しみを知るあなた方こそ神の子、神の愛される者」。そして、彼らの病をいやし、社会に戻りなさいと言われた。だから、人々はイエスのもとにあらゆる病人を連れて来、いやされた人々はイエスに従っていった。ここにも従う=アコローセオーと言う言葉が使われている。

2.私たちはどう従うのか

・今日の招詞に、マタイ10:7―8を選んだ。次のような言葉だ。「行って、『天の国は近づいた』と宣べ伝えなさい。病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい。ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。

・イエスが弟子たちを宣教に遣わされた時の言葉だ。何のために弟子を呼ばれたのか。イエスの働きを継承するためである。そして、ここに教会の働きの集約がある。言葉だけではなく、「言葉と行為」による宣教である。宣べ伝える、あるいは教えることは教会の基本的業だ。どの教会でもなされている。現在の教会で不足しているのは、最後の部分、行為である。「病人をいやし、死者を生き返らせ、重い皮膚病を患っている人を清くし、悪霊を追い払いなさい」。言葉の宣教だけでは、人々は救われない。他者の苦しみを受け入れ、共に分かち合う行為、すなわち癒しが必要なのだ。

・説教の言葉はそのままでは人の魂まで届かない。それは2000年前の出来事、2000年前の言葉であり、聴く人には何の現実性も持たない。その言葉が自分への呼びかけとして聞かれるのは、説教を超えた業、癒しの業がなされた時である。バプテスト連盟には300の教会があり、3万人の在籍会員がいる。しかし、毎週教会に来る人は、その半数に過ぎない。残りの人は、かっては教会に来て、悔い改め、バプテスマを受けたが、今は教会から離れている。御言葉が魂に届かなくなったからである。

・私たちの社会には登校拒否の子供たちがいる。家に引きこもっている若者たちがいる。心に病を持つ人たちがいる。行き場の無くなった高齢者の人たちがいる。大勢の人が苦しんでいる。彼らは慰めを必要としているのに誰も声をかけない。教会さえも声をかけない。それどころか、私たちの社会は彼らを隔離し、目に届かない所に押し込んでしまっている。家に押し込め、病院に押し込め、心の病を持つ人は精神病棟に、老人は施設に、死者は葬儀社に送り込んだ。そのため、病人のうめき、孤独な心の叫び、老人の歎き、死にいく人の恐怖が、隠され、痛みが見えなくなった。痛みが見えないから、痛みの共有化が無い。他者の痛みの共有化がないから、自分の救いだけを求めるようになる。教会もその中で「信じなさい。そうすれば救われます」としか言わなくなった。求めて教会に来た人も、平安が得られなければ、教会を去るしかない。教会が自分たちの救い、自分たちの癒しだけを求めるようになる時、教会は行き詰る。教会で無くなる。

・教会=エクレシアの語源は、呼ばれた=エカレオーである。私たちは、呼ばれて、教会に来たのだ。何のために、「人間をとる漁師になる」(4:19)ためである。自分の救いだけではなく、他者と痛みを共有し、それを自分の出来事とする癒しの業を行うように呼ばれている。イエスの癒しの業について、マタイは次のように表現した「イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼は私たちの患いを負い、私たちの病を担った』」(マタイ8:16-17)。他者の患いを負い、他者の病を担う行為こそ、まさに教会に集められた私たちの業なのである。

・マタイを見ると、「従う」には、二つの段階があるようだ。まず、自分が救われる、いやされる、その経験を通してイエスに従う段階だ。マタイ4:25に言う「民衆としての従い」、これが最初だ。しかし、この段階に止まっている限り、福音は福音にならない。次の段階、弟子としての信従が必要になる。そして、私たちの準備が整った時、弟子として従うように招かれる。ペテロやアンデレのようにである。網を捨て、舟を捨て、家族を捨てて従えと招かれる。それは、世を捨てて出家せよとの意味ではない。会社を辞めて伝道者になれという意味でもない。今の職業のまま、今の家族のままで良いから、他者のために働く者、神の救いの業に参加せよとの招きだ。

・聴衆として、福音を聞く者として招かれた私たちは、ある時点で、弟子として、福音を行う者として、従うことを求められる。その時、私たちは招きを聞き流すことも出来る。しばらく待ってくださいと猶予を願うことも出来る。そしておそらく、私たちが招きに応えなかった時には、呼び集められた者の群=教会から、脱落していく。弟子になるとは、完全な者になることではない。弟子たちは「誰が一番偉いのかで争った」(マルコ9:34)し、イエスが捕らえられた時は、皆逃げた。それでも彼らはイエスを離れなかった。彼らを通して福音を伝えるとのキリストの心を知っていたからだ。ボンヘッファーは言う「キリストの生涯は、この地上でまだ終わっていない。キリストはその生涯をキリストに従う者たちの生活の中で、更に生きたもう」。


カテゴリー: - admin @ 22時51分49秒

01 09

1.イエスのバプテスマ

・1月第二主日の説教箇所としてマタイ3:13-17が与えられた。公現日に読まれる個所だ。教会歴では1月6日を公現日、イエスが公に現れた日とする。今年の暦では、先週の木曜日だ。ガリラヤのナザレでお育ちになったイエスは、30歳の時にナザレを出て、ヨルダン川に来られ、ヨハネからバプテスマ(洗礼)をお受けになった。この日をイエスが、公生涯に入られた時、公現日として教会は祝う。お正月に読むのにふさわしい所だ。

・「そのとき、イエスが、ガリラヤからヨルダン川のヨハネのところへ来られた。彼からバプテスマを受けるためである」(マタイ3:13)。イエスが来られた=原文ではイエスが「現れられた」となっている。ヨハネがヨルダンの荒野に現れた(3:1)と同じ動詞=パラギノウマイを用いる。歴史的に見れば、バプテスマのヨハネと呼ばれた預言者が、先駆者として神の国運動を始め、その呼びかけに応えられたイエスが、ヨルダン川に来て、ヨハネからバプテスマを受けられた。その歴史的出来事の中に、マタイは神の出来事を見ている。現れた、ヨハネが神に遣わされて荒野に現われ、続いてイエスが神に遣わされてヨハネのもとに現れられた。神の出来事がヨハネの出現により事実となり、イエスの出現により完成されたとマタイは言っている。イエスの最初の行為はバプテスマであった。バプテスマからイエスの公生涯は始まる。私たちも肉的生涯は出生から始まるが、霊的生涯はバプテスマから始まる。

・バプテスマを申し出られたイエスに対し、ヨハネは言った「私こそ、あなたからバプテスマを受けるべきなのに、あなたが、私のところへ来られたのですか」(3:14)。あなたは罪が無いのだからバプテスマを受ける必要はないとヨハネは言った。それに対してイエスは答えられた「今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(3:15)。正しいこと、原文では「ディカイオスネー=義」となっている。「神の前に義であることが今は必要なのだ」とイエスは答えられている。この「義」の反対の言葉が「罪」であり、聖書の罪=ハマルティアは「的をはずす」という意味だ。的をはずす、真に向き合うべきものに向き合っていない、神ではなく、自分が中心になっている状態を聖書は罪と呼ぶ。

・聖書の言う罪は、英語のcrime=犯罪ではなくsin=内面の罪だ。神から離れる、自分の思いで生きる時、人は欲するものを自分のものとしようとする。それが貪りだ。自分が持っていないものを他者が持っている時、心の中に妬みがおこり、妬みはそれを自分のものにしたいという衝動を招き、ある時は盗みとなり、相手が渡さない場合は力ずくで取るという傷害や殺人の行為になる。心の中にある罪(sin)が盗みや殺人と言う外に現れた犯罪(crime)になっていく。この内面の罪こそ、罪の根源=原罪と言われるものだ。。

・従って、罪からの救いとは、自己中心の思いからの解放、神の思いに従う=義を求めることになる。悔い改める=メタノイアという言葉は「向きを変える」という意味だ。自分を向いていた心を神の方に向き変える。神なき世界は、交通信号の無い交差点のようなものだ。信号がなければ、行きたい者はかってに行き、他者と衝突し、「譲れ」「譲らない」の争いになる。この世を生きるとは、他者との衝突と争いの繰り返しだ。この混沌から解放され平安を得る唯一の道は神に向くこと、神に向くことの大事さを示すために、今はバプテスマを受けるとイエスは言われている。そのイエスがバプテスマを受けられた時、天が開き、声が聞こえた「これは私の愛する子、私の心に適う者」(3:17)。神はイエスの行為を「良し」とされ、喜ばれた。

2.私たちのバプテスマ

・今日の招詞にローマ6:3-4を選んだ。次のような言葉だ「それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるためにバプテスマを受けた私たちが皆、またその死にあずかるためにバプテスマを受けたことを。私たちはバプテスマによってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、私たちも新しい命に生きるためなのです」。

・パウロはバプテスマを受けるとは、キリストの死に預かることだと言う。キリストの救いに預かることではなく、キリストの恵みに預かることでもない。キリストの死に預かることだ。そのキリストは十字架で処刑された。キリストは何故処刑されたのか。それはキリストが罪人と言われた人たちと交わられ、非難する人たちを断罪されたからだ。イエスは言われた「徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった」(マタイ21:31-32)。

・徴税人とは占領者ローマのために税金を取り立てる人たちで、汚れた異邦人のために働く者として社会からはじき出されていた。娼婦は汚れた職業の女として、卑しめられていた。徴税人や娼婦は社会から受入れられなかったために、自分の罪を知った。知らざるを得なかった。そのため、「罪を悔い改めよ」というヨハネの招きに答えた。当時の支配階級であったサドカイ人(祭司)やパリサイ人(律法学者)は、罪人と交わることは自分が汚れることだと考えていた。罪人は汚らわしいと考える人は、自分を罪人とは思わない。自分は正しい、彼らとは違う、そう思う人たちに対して、イエスは「あなたが心の中で思っていることは同じではないか。心の中の思いこそ罪ではないか。それがわからないなら、あなたは目が見えないのだ」と言われた。支配者たちは怒り、イエスを十字架につけた。

・日本の社会は罪を犯した人を、例えその人が服役して償いを済ましたとしても受入れない。自分は犯罪者ではないと持っているからだ。自分が罪人であることを知らないから、あの人は罪人だと言って、社会からはじき出す。奈良の幼児殺害事件を受けて、性犯罪の犯罪歴のある人の住所や氏名を公表しようと言う動きがある。性犯罪者は再犯の可能性が高いから、自分達を守ろうとする動きだ。徴税人を疎外したイエス時代のパリサイ人と同じだ。イエスは罪びとを招かれた。そして、私たちも罪びととして招かれ、今教会にいる。バプテスマを受けるとは、イエスの死に預かること、イエスが歩まれた道を歩くことだ。このことが長い間わからなかった。私は20歳の時にバプテスマを受けた。高校時代から聖書を読み始め、大学になって教会に行き始め、受洗した。その時、自分が偉くなったような気がしていた。自分が、どうしようも無い罪人であることを知らされたのはそれから25年後、45歳の時だ。過ちを犯して、過ちの報いが自分の生活を具体的に犯し始めて、家族関係が息苦しいものになって初めて、罪とは何かがわかった。自分の惨めさに涙を流した時、初めて、徴税人や娼婦のつらさを知った。その時、二回目のバプテスマを受けたように思う。

・ヨハネのいう火のバプテスマだ。「私は水でバプテスマを授けるが、私の後から来る方は・・・聖霊と火でバプテスマをお授けになる」(マタイ3:11)。水のバプテスマは痛くない。救われた喜びで満たされる。火のバプテスマは痛くて苦しい。長い苦しみの後にくる。人は水のバプテスマでイエスを知り、火のバプテスマでイエスを着るのだと思う。火のバプテスマは自分が救われるためと言うよりも、神の救いの業に共に参加するためだ。自分が泣いて初めて、この世には泣いている人が多いことに気がつく。自分の涙を神がぬぐって下さったから、苦しむ人の涙をぬぐいたい。その時、神の声が聞こえてくる「私の兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、私にしてくれたことなのである」(マタイ25:40)。その声に促されて、私たちも神の子としての新しい生活に入っていく。


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1.クリスマスの後で

・12月26日、クリスマスの翌日、スマトラ島沖で大地震が起き、10万人を超える人たちが死んだ。多くの子供たちが津波のために命を落とし、子を無くした母親の嘆きの声がテレビで放映された。私たちは思う、自然も含めてすべては神の権限のもとにある。神が許されなければ、地震も津波も起きなかったであろう。神は何故このような災害が起こることを許され、10万人を超える命が失われることを許容されたのだろう。しかも、クリスマスの喜びの時に。聖書は、イエスが誕生された時、まさにクリスマスの時に、同じような悲しい出来事が起こったと告げる。それがマタイ2章の出来事だ。

・イエスが生まれられた時、東方にしるしの星が現われ、星に導かれた三人の占星術師たちが、救い主に会うために、エルサレムに来た。彼らはエルサレムの王宮にヘロデ王を訪ねた「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおられますか。私たちは東方でその方の星を見たので、拝みに来たのです」(マタイ2:2)。救い主がユダヤ人の王としてお生まれになった、この知らせは地上の王であるヘロデに不安をもたらした。ヘロデは、自分を脅かす者が生まれたとの知らせに、猜疑心を強め、自分の王位を守るために新しく生まれた王を殺そうとする。彼は兵士に命令を出し、ベツレヘムとその一帯の2歳以下の男の子たちをすべて殺させた。子供たちを殺された母親の嘆きの声がベツレヘムにとどろいた。マタイは記す「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」(マタイ2:18)。

・ベツレヘムで殺された幼子たちの親や家族は、何が起きたのか、何故こんなことをされねばならないのか、わからなかったであろう。彼らはメシアが生まれた事も、そのことに危惧を感じたヘロデが、可能性のあるすべての幼子を殺そうとしたことも知らなかった。何も知らないうちに、家族は、突然に、悲しみのどん底に突き落とされてしまった。彼らは思ったであろう、神は何をしておられるのか。神は何故このようなことを許されるのか。その混乱の中で、生まれたばかりのイエスは父ヨセフに連れられてエジプトに逃れられた。クリスマスとは、生まれたばかりのイエスが、ヘロデにより命を狙われて避難され、ベツレヘムに残った他の子供たちは無残にも殺されていった出来事だとマタイは述べる。

・夢でヘロデの陰謀を知らされたヨセフは直ちに、幼子とその母を連れて、エジプトに逃れた。そしてヘロデが死ぬまでそこにいたと記されている。イエスが生まれられたのは紀元前6年、ヘロデが死んだのは紀元前4年であるから、イエスは2年間エジプトに滞在されたことになる。その間にどのようなことがあったのか、聖書は何も言わない。異邦の土地での難民生活は楽ではなかったであろう。今も、この地球上には2500万人の難民がいる。彼らの暮らしが楽でないように、イエス一家のエジプトでの暮らしも苦労の連続であったであろう。

・やがて、ヘロデ王は死んだ。ヨセフは夢でヘロデの死を知らされ、ユダヤに帰ってきた。しかし、そこにまた新しい難関が待ち受けていた。ヘロデ王が死んだ後、イスラエルは三人の息子に分割され、ユダヤは長男アケラオが領主になった。この男は父以上に残忍な王であったと歴史書は記す。そのため、イエスとその家族はベツレヘムに戻ることが出来ず、アケラオの支配の及ばないガリラヤに逃れ、ナザレの町に住んだ。こうして、イエスはガリラヤのナザレで育ち、「ナザレ人」と呼ばれるようになった。イザヤは預言している「エッサイの株から一つの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる」(イザヤ11:1-2)。この若枝がヘブル語のナザレだ。マタイはイザヤのメシア預言が、イエスがナザレに住まれることで成就したと考えている。どのような人間の闇の中にあっても、神はイエスと共にいて、イエスを守っておられたとマタイはこの預言を通して主張している。

2.何故イエスは難民となられたのだろうか

・イエス誕生の出来事の中に闇があったとマタイは証言する。メシアの誕生を喜ばず、不安を抱いたヘロデにより、幼児虐殺が起こされた。しかし、マタイはこの恐ろしい出来事の中に、一つの意味を見出している。そのことを知る言葉がマタイ2:18だ。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないから」。この言葉のどこに救いがあるのだろうか。

・今日の招詞にエレミヤ書31:15-17を選んだ。次のような言葉だ。「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる。苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む、息子たちはもういないのだから。主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」。

・この預言の前半をマタイは引用して、べツレヘムの悲しみを述べた。そして彼は後半の言葉を思い起こせと私たちに告げる。「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる」。ラマはイスラエルの民がバビロンに連行された時、捕囚民が集合を命じられた場所だ。子供たちが捕虜として敵地に連れて行かれる、その光景を見て、イスラエルの母親たちは泣いた。その時、神は言われた「この悲しみはいつまでも続かない。この悲しみは終わる。あなたが流したその涙は報われる。あなたの息子たちは帰って来る。その希望を持って待て」。

・イエスはヘロデの陰謀から逃れられた。残されたベツレヘムの息子たちは殺された。母親たちは涙を流した。しかし、その涙は報われる。キリストの苦難はその出生と共に始まった。その苦難は十字架で完成される。エレミヤは主の言葉を続ける「見よ、私がイスラエルの家、ユダの家と新しい契約を結ぶ日が来る。・・・私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」(エレミヤ31:33)。イエスは十字架にかかられる前日に弟子たちと最後の食事をとられ、言われた「この杯は、あなたがたのために流される、私の血による新しい契約である」(ルカ22:20)。神はイエスを十字架につけるために、生まれたばかりのイエスの命をヘロデから助けられたのだ。

・ある者は幼い時に死ぬ。別の者は天寿を全うして死ぬ。人間の目から見れば、その差は大きい。だから、私たちはベツレヘムの幼子たちが無残にも殺されることに納得しないし、津波で多くの子供たちが死んだことも理解できない。聖書は語る、何故ベツレヘムで多くの子供たちが殺されたのか。人間の心の中にある闇のためではないか。この闇をどうすれば取り除けるのか、それを求めよと。

・しかし、人は言うだろう、今回の津波は自然災害ではないか。人の罪、人の闇がどう関係するのか。今回の津波で、被害が大きいのは貧しい国々だ。スリランカでは27000人が死んだ。しかし、その隣にあるモルディブでは死者は60人しか出ていない。桁違いに少ない。毎日新聞は12月28日付夕刊で次のように伝えた「モルディブの人口の約3分の1が住む首都マレでは、日本からの公的支援で建設された防波壁が、島を津波の大惨事から守ってくれたとの見方が広がっている。海抜1メートルしかない1200の島々から成る同国は地球温暖化の進行で国全体が沈みかねないとの不安を抱え、常に海面上昇への恐怖と隣り合わせで生きてきたが、88年以降、進めてきた首都の護岸工事が壊滅的な被害を回避するのに貢献したと、島民は口々に語った」。ここまで被害が広がったのも、必要なことを為さなかった人災の面が強い。やはり、闇は人間の罪から広がるのだ。

・この闇をなくすためにイエスは生まれられ、難民となられ、十字架に死なれた。人が苦しむ、その苦しみは決して無駄ではなく、苦しみを通して救いが与えられることを示されるために、イエス自らが苦しまれた。その十字架に出会って、人の心は変えられる。十字架を見て、人は自分の罪を知り、悔い改める。その悔い改めを通して、心の中の闇が解け始める。「私の律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。私は彼らの神となり、彼らは私の民となる」と言う出来事が起こる。ヨハネは言った「イエスは、私たちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、私たちは愛を知りました。だから、私たちも兄弟のために命を捨てるべきです。世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内にとどまるでしょう。」(〓ヨハ3:16-18)。ヘロデは特別の悪人ではない。私たちの中にも小ヘロデがいる。自分の命を守るために、他の人の命を何とも思わないで見捨てる自分がいる。そのヘロデ的存在が、他者のために命を捨てようという存在に変わる出来事が起きる。それが十字架の出来事だ。

・年の初めに、人々は今年1年が無事でありますように、災いが来ませんようにと祈る。しかし、キリストに出会った者は別の祈りをする「今年もまた、苦しみや悲しみがあるでしょう。それは人の罪が造るものです。その闇を取り除くために、私たちに何が出来るか、教えて下さい。仮に、私たちに災いが来ました時には、その災いを通して、あなたが何をされようとしておられるのかを求めることが出来ますように」。


カテゴリー: - admin @ 22時56分01秒

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