すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。

説教内検索

05 25

1.百人隊長の信仰

・イエスがカペナウムの町に戻られたとき、その町を守備するローマ軍の百人隊長から、部下が病気で死にそうなため癒していただきたいという申し出が、ユダヤの長老を通してあった(ルカ7:1-3)。当時のユダヤはローマの植民地であり、国の要所にはローマの守備隊が配置され、カペナウムもガリラヤの中心都市であったから、ローマの守備隊がいた。百人隊長はその守備隊の頭であり、支配者であった。そのローマの軍人がイエスのところに部下の癒しを求めてきた。
・この百人隊長は異邦人でありながら、神を畏れ、会堂(シナゴーク)を献堂するほどの篤信家であった。また、彼は部下の病を気遣うほどの優しい人であった。部下=原語ではドーロス(奴隷)の意味であり、奴隷は所有者の持ち物で、死のうと生きようと主人の勝手と言われたこの時代に、これほど僕を気遣うこの百人隊長の行為は珍しいものだった。
・また、この人はイエスに家まで来てくれとは言わない。当時、敬虔なユダヤ人は異邦人の家には入らなかった(律法は異邦人を汚れたものとして、その交際を禁じていた)。彼は律法の教師としてのイエスの立場を慮って、「家に来ていただくには及びません、ただお言葉だけで十分です」と求めた(ルカ7:6-7)。
・百人隊長は軍人として権威が何であるかを知っていた。彼はイエスに神の権威があることを認め、「ただ言葉だけで十分です」と答えた。「 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」(ルカ7:8)。イエスはこの百人隊長の信仰に感動された。「言っておくが、イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(ルカ7:9)。

2.信仰とは何か

・この物語の中には「信仰の本質」とでも言うべきものが含まれている。イエスはカペナウムの町を中心にガリラヤ宣教をなされていたから、百人隊長も自らイエスの業を見て、その言葉を聴く機会があったのであろう。百人隊長はイエスがらい病人をいやし、目の見えない人の目を開かれたことを自分で見て、また人から聞いた。そしてこのような業は人間には不可能であり、神の力が働いているとしか思えなかった。そして彼は、イエスに神からの権威を認めた。それは彼自身が、権威とはどういうものであるかを長い軍人生活を通して知っていたからだ。軍隊においては、たとえ会ったことのない皇帝の命令でも部下は従う。それは皇帝の言葉に権威があるからである。百人隊長は上官が命令すれば従ったし、彼が命令すれば部下は従った。軍隊においては「規律を保つ」、「命令に従う」ということは何よりも必要なことであり、そうしなければ軍隊は統制が取れなくなり、崩壊してしまう。その規律や命令の背後にあるものが権威である。人間の権威を信じることのできる者は、それ以上の権威を信じることは容易である。彼はイエスの業と言葉に神の権威を認めた。
・同じく重要なことは、この百人隊長は、自分は神の恵みをいただくのに値しないことを知っていた。当時のユダヤでは、救いは選民たるユダヤ人のみにあり、異邦人は神の契約の外にあるもの、信仰とは無縁のものであると考えられていた。この百人隊長は礼拝に参加し、自分は異邦人ゆえに救われる価値がないと思っていたのかもしれない。しかし、その自分をも神は憐れんでくださることを願った。聖書によれば、最初のキリストへの改心者はペテロでもなくヨハネでもなく、イエスと共にゴルゴダで十字架につけられた罪人である。ペテロやヨハネが改心したのはイエスの復活後であり、十字架の時には弟子たちは逃げ去っていた。この罪人はイエスに言った「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ 23:42)。この男は自分を救ってほしいとは言わない、ただ思い出してほしいと願うだけだ。自分はこれまで悪事を重ね、救われる価値はないと思っていたからだ。その彼にイエスは言われた「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。
・イエスは多くの病の癒しをなされたが、その大半は求め手の信仰に促されてなされた。長い間出血に悩まされていた女が、いやしを求めておずおずとイエスの衣に触れたとき、イエスは言われた「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」(ルカ8:48)、エリコの町で盲人バルテマイが癒しを求めて叫び続けたとき、イエスは言われた「見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。」(ルカ18:42)。この百人隊長の場合もそうだった。「イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」(ルカ7:9)。癒すのはイエスである。しかし、その癒しを引き出したのは百人隊長の信仰であった。信仰を持って求めればかなえられる。信仰は報われるとは、聖書が繰り返し約束することだ。

3.神の力により頼む

・今日の招詞にヘブル書4:12-13を選んだ。
「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができるからです。更に、神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません。」
・聖書の信仰とは神の言葉の力を認めることだ。天地創造の前、地は混沌として闇が地を覆っていた。そこに神が光あれと言われ、光があった(創世記1:2-3)。アブラハムは「父の家を離れ、私が示す地に行きなさい」(創世記12:1)という神の言葉に従い、行き先も知らずに旅立った。モーセは「行きなさい。私があなたをファラオの元に遣わす」(出エジプト記3:10)という神の言葉に従って、ただ一本の杖を持って、当時の絶対権力者であるエジプト王の元に向かった。それぞれ何の不安もためらいもなしに神の言葉に従ったとは思えない。心のどこかに「本当にこの道でよいのか」「本当に神は守ってくださるのか」という疑いを持ちながらも、最終的には、神の言葉に従って歩んだ。ところが、人々はいつの間にかその権威を律法と神殿の中に固定し、律法を守り、神殿で礼拝をすれば救われると人間化、形式化してしまった。そこでは御言葉が御言葉として受け止められず、力をなくしていた。イエスがなされたことはこの神の言葉の権威を回復し、この言葉に力があることを再び人々に示されたことであった。イエスの言葉には権威があり、イエスの言葉は人をいやし、死人をよみがえらせる力を持った。百人隊長はこの権威を認めた。
・篠崎キリスト教会は今、試練の時にあると思う。古くから教会を支えてきた方たちが高齢化し、あるいは病気になり、共に礼拝を守れなくなった。新しい人たちはまだ育っていないため、一部の人に教会運営の負担が、特に財政的な負担が重くのしかかっている。しかし、この教会はキリストの言葉によって立てられ、キリストの言葉を述べ伝えるために存在する。私たちはそう信じる。信じるから、私たちも、「ここに私の教会を建てる」と言われたキリストの言葉に信頼し、この教会を形成する。教会を形成するのは私たち人間の働きだ。しかし、私たちの背後に神が働いておられる。それを私たちが認めるかどうかが今、問われている。
・イエスは言われた。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである」(ヨハネ15:16)。その言葉が意味するものは、私たちがこの教会を選んでここに来たのではなく、キリストによって召されて、ここにいるということだ。それを信じるか。私は信じる。私は自分から選んでこの教会の牧師になったのではない。神に召されてこの教会の牧師になった。だから、困難があってもこの教会を捨てない。この教会を捨てることはイエスを捨てることだと思っている。皆さんも召されてこの教会に来た。どうか、それを信じてほしい。そして今の試練を共に喜んでほしい。12名から始まったキリストの教会が、今日では世界中に立てられている事実に、神の権威を認めてほしい。この教会も栄える。この会堂に神を讃美する人があふれるときが来る。それは約束されていることだ。それをひたむきに信じてほしいと願う。


カテゴリー: - admin @ 12時44分34秒

05 18

1.WWJD

・最近、日本の若い人たちの間で、WWJDと書かれたアクセサリーが流行していると聞いた。「WWJD-What Would Jesus Do、イエスなら何をされるだろう」という意味である。インターネットで検索してみると、リストバンドや携帯電話のストラップ、ブローチ等で、WWJDブランドがたくさん売り出されていた。またCDや本も出ている。元々はアメリカのプロバスケットボールの選手たちが身に着けているのを見て、流行し始めたという。アメリカではクリスチャンが多いから、選手たちもこのWWJDの心を忘れないために身に着けているのであろうが、日本の若い人たちは単に「かっこいい」という感覚で身に着けているのだろう。しかし、考えればこの「WWJD What Would Jesus Do」という言葉は、私たちクリスチャンにとっては大事な言葉である。
・イエスは言われた「互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。」(ヨハネ15:12-13)。私たちが毎日の生活の中で、「私にとって友とは誰だろう、私の嫌いなAさんも友なのだろうか、それとも私の好きな人だけが友なのか、イエスはこういう時どうされただろうか」と考えることによって、私たちはイエスに近づいていく。また、「愛しあうとはどういう意味なのだろう、夫婦が愛し合う、親子が愛し合う、それさえ出来ないのに、家族以外の人のために心を配ることなど出来ないのではないか。イエスならどうされただろう」。私たちはその答えを求めて教会にくる。今日は、このイエスが私たちに残された遺言「愛し合いなさい」という言葉について、ヨハネ15章から聞いてみたい。

2.愛し合いなさい

・ヨハネ15章はイエスの惜別の言葉の一部である。捕らえられる前の日、すなわち木曜日の夜、最後の晩餐の時、イエスは弟子たちの足を洗われた。そして「私があなた方の足を洗ったように、あなた方もお互いに足を洗いあいなさい」と言われた(ヨハネ13:14)。その後、イエスは弟子たちに向かって惜別の言葉を述べ始めらる。その言葉がヨハネ14章からの言葉であり、その文脈の中で「互いに愛し合いなさい。これが私の与える掟である」とイエスは言われている。
・15章12節でイエスがまず言われていることは「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」という言葉である。この愛はイエスから始まったのだ。最初にイエスが私たちを愛された。最初にイエスが私たちの前にひざをかがめて私たちの足を洗ってくれた。だから、私たちも人を愛し、人の足を洗いたいと願う。ヨハネはここで「愛しあう」という言葉にアガペーというギリシャ語を使っている。これは、私たちの知っている愛はこれとは違う。私たちが知っているのはエロスの愛だ。妻や子を自分の分身として愛する。これが私たちの愛だ。聖書はこのエロスの愛を否定しない。それは人間にとっては自然な、基本的な愛だ。しかし、この愛は一つの限界を持つ。何故なら、自分とその分身を愛するということは、他者に対しては閉鎖的になるからだ。これは野球場でよく見えないから立ち上がる行為に似ている。自分ひとりが立ち上がればよく見える。しかし、自分がよく見えるようになるとき、他の人は見えなくなるから、他の人も立ち上がる。そのうちみんなが立ち上がり、誰も見えなくなる。私たちが人間関係で悩まされるのは、お互いが自分のことしか考えないからだ。
・ギリシャ語には、他にフィレオーという言葉で示される愛がある。兄弟愛、友情等を示すときに使われる。人類愛と言う場合もこのフィレオーに該当する。この愛はエロスよりも広がりを持つ。1982年1月にアメリカの飛行機が東海岸で墜落したとき、乗客のかなりの人がポトマック川に落ちて、救助を求めた。ヘリコプターが何度も往復して、漂流中の遭難者を吊り上げては陸地に運んだ。1月の厳寒の川の中、まだ大勢の人が助けを求めて待っていた。そのとき、一人の男性の前にヘリコプターの降ろす吊り輪が来たが、彼は他の人のためにその輪を譲り、自分は濁流に飲み込まれていって死んでいったという出来事があった。このニュースは世界中の新聞やテレビで報道され、多くの人々に感動を与えた。彼は実に立派な愛の人だった。彼に助けられ、命を救われた人々は、きっとこの命の恩人のことを忘れないだろうし、自分もまた、彼のように他者のために愛を実践したいと思ったであろう。彼の死はまことに尊い。しかし、彼の死からは信仰は生まれない。何故なら彼が行ったのは一瞬の感情的判断であり、もう一度同じことを出来ないからだ。次の機会には彼は他人の吊り輪を取って自分が生きようとするかもしれない。英雄的に死んでいった人は、一時的には感動を引き起こしたが、その死はやがて忘れられていった。フィレオーの愛もまた限界を持つのだ。
・神から来る愛、アガペーだけが人を根底から変えることが出来る。ヨハネはその手紙の中で、イエスの死について次のように述べている。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」(1ヨハネ3:16)。
・30年前のインドでは貧しさのために、治癒する見込みのない病人は道端に捨てられていた。直らない人のためにお金を使う余裕がなかったのだ。マザーテレサはこの人々を「死を待つ人々の家」に収容し、死を看取っていった。道端で死んでいく人の中にイエスの顔を見たからである(マタイ25:40)。世界中がこのマザーテレサの無償の行為に感動し、彼女はノーベル賞を受け、日本にも何度か講演に来た。彼女がインドに帰るとき、必ず何人かの日本の青年男女がマザーの話に感動し、同行してインドに行って「死を待つ人の家」で奉仕活動を始めたという。しかし、インドは暑く不清潔であり、病人を介護する仕事は重労働だ。マザーについて行った日本人たちは、何ヶ月かの後には例外なく日本に戻って来た。続けることが出来なかったのだ。しかし、マザーと一緒に働く修道女たちは、その単純で骨の折れる仕事を何年も、何十年も続けている。ある人がマザーに聞いた「何が彼女たちに力を与えるのか」。マザーテレサは答えた「私たちは朝4時のミサと夕方8時のミサで力をいただきます」。ミサとはカトリック教会の聖餐式で、彼らはパンとぶどう酒を文字通りイエスの体と血としていただく。そのミサが彼らの活力源だとマザーは答えた。修道女たちは、ミサの度ごとに「イエスが私のために死んでくれたのだから、私も他の人々のために死のう」と奉仕の生活に押し出されていくのだという(松永希久夫「イエスの生と死」NHK出版から)。これがアガペーの愛が人間にもたらす力だ。このアガペーの愛は人間からは来ない。神からいただく愛だ。この愛だけが人を根底を変える力を持つ。

3.アガペーの愛

・今日の招詞に〓ヨハネ4:9-11を選んだ。
「神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです」。
・ここに今日のテキストであるヨハネ15章が要約されている。神がまず私たちを愛してくれた。だから私たちも他者を愛する。私たちはそのままでは他者を愛することは出来ない存在だ。何故なら、私たちが愛するのは自分だけであり、自分の分身だけであるからだ。その私たちにイエスの十字架が示された。十字架上で自分を殺すもののために祈られるイエスの姿を見て、私たちは変えられた。十字架につけられたのはイエスの体であったが、同時に私たちの罪、私たちを他者との平安から阻害する自己愛もまた十字架につけられた。そして、私たちもまた、神からこのアガペーの愛を与えられて生きていく。その時、他者との関係もまた平安の関係に変えられていく。これは私たちの周りの人が私たちを愛するということではない。私たちの周りの人は相変わらず、私たちを押しのけ、自分のために私たちを落としいれようとするかもしれない。しかし、イエスの十字架の祈りを知った今は、そのような他者も私たちの平安を乱すことは出来ない。これがキリスト者が与えられる愛の命である。
・それは世の求める、いわゆる幸福とは異なる。幸福とは自己とその分身の幸いを求める行為だ。その幸福は徹底的に外部状況に依存する。失業して経済的安定が崩されれば揺らぐし、家族の誰かが重い病気になれば崩れる。また、幸いにも災いがなくても、やがて次第に満足できなくなる。もっとほしくなるからだ。世の幸福とは、そのように、もろい、綱渡り的な、不安定なものだ。しかし、私たちが与えられる神の平安、愛の命とは、外的状況がどのように変化しても乱されることはない。何故なら、それは私たちの内から、すなわち神から出ているからだ。この平安を受けなさいと私たちは招かれている。そして、今日、私たちは教会にきた。私たちは自分の意思で教会にきたと思っているかもしれないが、違う。イエスが言われたように「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。」(ヨハネ15:16)。皆さんは今日、神から招待を受けてこの教会に来た。豊かに実を結ぶように招かれている。どうか、神からの言葉を豊かにいただいて、この教会の門を出て行ってほしい。


カテゴリー: - admin @ 12時46分22秒

05 11

1.母の日

・教会では5月の第二日曜日を母の日として祝う。これは100年前にアメリカの小さな教会で始まった行事だ。1905年5月9日に、ジョージア州の小さな町の教会で40年間日曜学校の先生をしていたクレア・ジャーヴィスという婦人が亡くなった。亡くなってから3年たった1908年5月10日に、クレアの娘のアンナ・ジャーヴィスが母をしのんで追悼の会を教会で行い、母親の好きだったカーネーションの花を捧げた。それから毎年5月の第二日曜日に母親の追悼会をその教会で行うようになり、それが次第にアメリカ中の話題になっていった。当時アメリカでは日曜学校運動が熱心に推し進められており、その指導者であったジョン・ワナメーカーの提唱で、5月第二日曜日を母の日として国民の祝日にしようということになり、1914年に当時のウィルソン大統領がこれを国民の祝日に定めた。
・日本でも1920年代には、教会で母の日を祝うようになり、やがてこれが教会外でも定着して行き、今日では5月第二日曜日は「母の日」として一般の人もお祝いし、デパートや花屋さんが忙しくなるときだ。しかし、元来この日は「亡くなった母を追悼する日」であり、母を通して命を与えてくれた神に感謝する日である。しかし、今日では、母の日が「お母さん、ありがとう」とプレゼントをあげる日に変わってしまい、死亡や離婚で母のいない人はさびしい思いをするようになったため、教会ではあまり祝わなくなった。ちなみに父の日は6月第三日曜日であるが、これは母の日の礼拝説教を聴いたジョン・ドットという人が「自分の場合は母が亡くなった後、父が男手一つで自分たちを育ててくれた」と思い起こし、父の命日に近い6月第三日曜日に感謝の会を開いたのが始めてであるという。
・先に述べたように、母の日、父の日は、本来は亡くなった父や母をしのび、自分にこの両親を与えてくれた神に感謝するときである。しかし、いつの間にか、現在の父、母にプレゼントをあげるお祭りになってしまい、父や母がいない人はプレゼントをあげられないし、また子供がいない人はプレゼントをもらえなくてさびしい思いをする日になった。私たちはこの父の日、母の日をもう一度本来の姿に戻したい。人はすべて父と母を通してこの世に生まれてくる。その父また母に感謝するということは、自分を生んで、育ててくれたことに感謝することであり、また父母を通して自分を創り生かしてくださる神に感謝することだ。これは教会としてお祝いするにふさわしいことだと思う。
・私たちを生み、育てくれたのは両親である。しかし、その両親が死んでも私たちの生は続く。両親を通じて私たちを生み、育ててくださったのは神である。今日はヨハネ6章を通して、私たちの本当の生みの親であり、育ての親である神の養いについて、学びたい。

2.パンの奇跡

・イエスがガリラヤ湖の向こう岸に行かれたとき、大勢の群集がイエスの後を追った(ヨハネ6:1-2)。イエスが病人たちを癒されたそのしるしを見て、この人こそメシヤ=救い主かも知れないと思ったからだ。彼らは熱心にイエスの話を聴いた。時は夕暮れになり、あたりには人家もない。イエスは食べるものもなく、暗闇の中に座る群衆を見て心動かされ、そこにあった五つのパンと二匹の魚で群集の飢えを満たされた。ヨハネによればそこには男だけで5千人がいたという。人々は食べて満ち足りた。そして、奇跡を起こしたこの人は神からの預言者に違いないと思い、自分たちの王にしようとした(6:14-15)。しかし、イエスは群集を避けて、船に乗ってガリラヤ湖を渡り、カペナウムに帰られた。群衆はそのイエスの後を追って、カペナウムまで来た(6:24)。
・イエスを見つけた彼らは「ラビ、いつここに来られたのですか」と聞いた。「やっと見つけました、どこに行っていたのですか」と群集は問いただした。その彼らに対してイエスは厳しく言われた「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネ6:27-28)。イエスは食べるものがなく空腹な群集を憐れまれて、彼らにパンをお与えになった。それは必要なときは父なる神が養ってくださることのしるしであった。しかし、群集はしるしが示す父の愛ではなく、しるしそのものであるパンに心を奪われていた。当時のユダヤの民衆は十分に食べることができないほど貧しく、イエスによって満ち足りるまでパンを与えられた出来事は、彼らにとっては驚くべき出来事であった。そして、その出来事に接して彼らが求めたのは「もっとほしい」という欲望だった。それに対してイエスは言われた「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)、あなた方が見たとおり、父は必要なときにはあなたにパンを与えてくださる。地上の命を支えるためにパンが必要なことは、父はご存知だ。しかし、このパンは当座の必要を満たすが、やがて空腹になってしまう。本当に必要なものは、いつまでもなくならないパン、命のパンだ。それを求めよとイエスは群集に言われた。それに対して群集は答えた「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」。イエスは答えられた「私が命のパンである。」。

3.命のパン

・「わたしが命のパンである」(ヨハネ6:35)。原典のギリシャ語を見ると「エゴーエイミー(私は・・・である)、ホ・アルトス(そのパン)、・テ・ゾーエー(命の)」と書いてある。ここで問題にされている命は「ゾーエー」としての命だ。ギリシャ語の命には「ビオス」と「ゾーエー」の二つがある。ビオスとは生物学的生命をさし、ゾーエーは魂の命、人格的な生命を指す。人間は単に生理的に生きているだけではなく、人格として生きていなければその生を続けることはできない。「生きていても仕方がない」、「生きる望みを失った」と人が言うとき、その人は動物として生きてはいても人間としては死んでいるのだ。誰も自分を必要とせず誰も自分を愛してくれないとき、人は人格的に死ぬ。人格としての生を維持できないとき、人は自殺する。人間だけが自殺する存在なのだ。地上のパンは肉の命を支えるだろう。しかし、肉の命だけでは人は生きることが出来ない。
・私たちはここで、群集が求めるものとイエスが与えようとしているものの間にすれ違いがあることに気づく。群衆はビオスとしての生命を養うために地上のパンを求めた。イエスは地上のパンは父なる神が下さるから、もっと大事なもの、ゾーエーとしての命を求めよといわれた。群集は納得していない。そして、私たちも納得していない。地上のパンを神が与えてくださる、神が養ってくださることを信じていないのだ。だから、地上の命を支えるためのパンやお金を自分で獲得するために私たちは忙しく生きる。そして地上のパンだけを追求して生きるとき、本当に必要なもの、魂のパンを私たちは失う。
・人間として生きる、人格的な命を生きるためには他者の存在が必要だ。自分が誰かに愛され信頼され、自分も誰かを愛し信頼しなければ、人は孤立しその存在根拠を失う。しかし、人間は自分たちだけではこの愛と信頼の関係を作ることは出来ない。何故ならば私たちの愛の根底を形成するものは自己愛であり、それは他者を排除するものであるからだ。私たちが人を愛するのは、それが自分の利益になるからであり、私たちが人を信頼するのはその人が自分にとって役にたつからだ。愛することが利益をもたらさず、逆に負担になるとき、私たちは人を愛することをやめる。創世記に描かれたアダムとエバを見てみればよい。エバを与えられたとき、アダムはエバを「私の骨の骨、肉の肉」と呼んで、これを喜んだ。しかし、エバが過ちを犯し、その責任を神から追及されたときアダムは答えた「あなたが一緒にいるようにしてくださったあの女が食べるように言ったのです」(創世記3:12)。また、今まで信頼していた人が自分を裏切ったとき、私は人間不信に陥るだろう。人間の愛や信頼はその程度のもので、いざとなれば崩れる。
・それは私たちのうちにあるエゴ=自己中心性のなせる業だ。聖書が罪と呼ぶものはこの自己中心性、自分以外のものは最終的にはどうでもよいとする心だ。それはすべての人が持っているゆえに原罪(original sin)と呼ばれる。この原罪が人を不幸にし、他者との争いを起こし、その結果人格的生命を蝕む。この罪を人間が消し去ることは出来ない。この罪はただ、自己を越えた愛、自分を殺すもののために祈られる方の姿を見て初めて消し去ることが出来る。だからこの罪はイエスの死を通してのみ購われることが出来るのだ。イエスがヨハネ6:40で言われていることはそういうことなのだ。「わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである」。
・このイエスを通してのみ、私たちは神の愛に接し、その時に私たちは自己から解放され、新しい命を与えられるのだ。イエスがいなくても人生を生きることが出来る。しかし、その人生は動物としての生であり、人間としての生ではない。今日の招詞にヨハネ第一の手紙3:16を選んだ。「イエスは、わたしたちのために、命を捨ててくださいました。そのことによって、わたしたちは愛を知りました。だから、わたしたちも兄弟のために命を捨てるべきです。」。イエスを通して、私たちは神からの命のパンをいただく。私たちは肉の父と母の与える地上のパンを食べて、今日まで生かされてきた。そのパンを両親に与えてくれたのは神であり、神は地上のパン以上のもの、命のパンを与えるためにその一人子を地上に遣わし、十字架にかけ、そしてよみがえらせられた。そのことを通して、私たちは誰が本当に私たちを養い、育てて下さっているかを知ることが出来る。それが、教会が祝う母の日の出来事だ。


カテゴリー: - admin @ 12時47分59秒

05 04

1.弟子たちに現れたイエス

・イエスが十字架で殺されて三日目の朝、婦人たちがイエスの遺体に香料を塗るために墓に行き、そこで墓が空で天使がおり、「イエスはよみがえられた」と告げられる出来事があった。婦人たちはそのことを弟子たちに報告したが、弟子たちはそれを「たわごと」と思い(ルカ24:11)、信じなかった。同じ日の昼間、エマオに向かう弟子たちにイエスが現れ、イエスと出会った弟子たちは夜の道を急いでエルサレムに戻って行った。ちょうどその頃、エルサレムに残った他の弟子たちは失意と恐怖の中で、家の戸にかぎをかけて部屋に閉じこもっていた。自分たちも捕らえられると恐れていたからだ。そこへイエスが現れた。弟子たちは復活のイエスを見て、幽霊を見ているのだと思った(24:37)。あまりにも不思議な出来事で、とても信じることが出来なかった。その弟子たちのために、イエスはくぎに刺された手足をお見せになって言われた。「私の手や足を見なさい。まさしく私だ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」(24:39-40)
・やっと信じた弟子たちに、イエスはこの復活の証人になりなさいと言われた。「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣伝えられると。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となるのだ。」(24:45-47)。復活の日、イエスは朝婦人たちと出会い、昼にエマオに向かう弟子たちに現れ、夜にはエルサレムに残った弟子たちに現れたと聖書は伝える。

2.私たちにとって復活とは何か

・この復活の記事は私たちにいろいろなことを教える。弟子たちが復活を信じたのは、復活のキリストが弟子たちに現れたからだ。しかし、最初は弟子たちも信じることができなかった。婦人たちの証言を聞いても、弟子たちはそれを「たわごと」と思い、エマオに向かう弟子たちも同伴したイエスがわからなかった。エルサレムに残った弟子たちも、最初は「幽霊を見ている」のだと思った。復活とはそれほど信じることの難しい出来事だ。私たちが復活を信じることができるとしたら、それは私たちも復活のキリストに出会った時だ。私たちは、それぞれの場で、このキリストに出会った。もし、私たちが出会ったイエスが偽りであり、幻であるとすれば、私たちには何の希望もなくなり、私たちの信仰もまったくの無駄になる。パウロが言うとおりだ。「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。」(第一コリント15:14)。
・復活があることにより、私たちはもはや死を恐れる必要はなくなり、死の縄目から解放される。死の縄目から解放されると言うことは、死ですべてが終わらないから、現在の生を大事にする生き方をすることが出来るということだ。死に勝たれた方がおられるから、私たちは現在がどのように暗く、出口が見えないとしても、希望を失わずに生きていくことが出来るのだ。この復活があるからこそ、私たちは自分の十字架を負って、イエスに従っていくことが出来るのだ。それほどに復活の出来事は私たちにとって大切な出来事なのだ。
・そして、教会はこの復活信仰の上に立てられている。私たちは日曜日を「主の日」と呼び、この日に礼拝を守るが、これは金曜日に十字架で死なれたイエスが、三日後の日曜日に復活されて弟子たちの前に現れたから、教会はこの日を安息日と定め、日曜日に礼拝を守るようになった。今、世界中で日曜日が休日だが、これはイエスが日曜日に復活されたからだ。私たちも日曜日ごとに復活の主に出会うために教会に来る。
・復活されたイエスは弟子たちに「あらゆる人々に福音を告げなさい」と命令された(ルカ24:47)。今日の証詞にマタイ福音書28:19-20を選んだ。
「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
・「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子としなさい」、これが復活の主が私たちに命令されたことだ。その命令を受けて弟子たちは宣教を始め、教会が立てられて行った。教会がエルサレムから始まり、ローマ世界に広がり、ヨーロッパに行き、アメリカに行き、そのアメリカを通して日本にも伝えられた。日本人もこの宣教命令を受けて教会を立て、新小岩教会が立てられ、その新小岩教会を母体としてこの篠崎教会が立てられた。篠崎教会が立てられたのも、新小岩教会の人たちが、このイエスの宣教命令を自分たちへの言葉として聞いたからだ。自分たちだけの信仰生活を守るのであれば、篠崎の地に教会を立てる必要などない。そうではなく、篠崎に住む人々にイエスの言葉を伝えるためにこそ、この教会が立てられた。それは復活のイエスの命令にその根拠を置く行為であることを、私たちは今日、覚えよう。
・私たちはこの宣教命令、「あらゆる人々に福音を告げなさい」という命令をどう聞くのだろうか。私たちが自分の信仰生活を守るだけであれば、ここ篠崎に教会がある必要はない。今、多くの人が小さい教会を離れて大きな教会に移動している。大きな教会は教会員がたくさんいるから献金負担も軽いし、奉仕も誰かがしてくれる、重荷を担わなくとも教会生活ができるからだ。それに対して小さい教会の場合は、教会員が少ないから一人一人への負担が経済的にも、また奉仕の面でも重くなる。私たちがただ礼拝を守りたいだけであれば、この篠崎教会は不要だ。近くに他の教会もあるし、無理して篠崎教会を維持する必要はない。そうではなく、この地域の人に伝道することが教会の使命であり、それが復活の主が命じられたことだと私たちが理解するときだけ、この地に教会が必要だ。私たちの教会の、本年度の主題は「教会を立てる」である。この地に教会があることが必要なのかを、もう一度、復活の主にたずねる。それが今、必要だ。


3.復活を自分の出来事としてとらえる。

・パウロは復活の主に出会った経験をコリントの教会への手紙の中で、次のように書いている。「最も大切なこととして私があなたがたに伝えたのは、私も受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファ(ペテロ)に現れ、その後十二人に現れたことです。・・・ 次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたような私にも現れました。」(〓コリ15:3-8)。ここで、復活のキリストに出会ったのは、すべて弟子たちであり、その他の人たちは復活のキリストに出会っていないことに注意する必要がある。復活のキリストは霊の体であり、信仰なしには見えないのだ。私たちは復活のキリストに出会って、心が熱く燃えた経験がある。今も熱く燃えているだろうか。
・今、この教会は存続の危機に立っている。古くからこの教会を支えてくださった方々が、お年を召したり、病気になられたりで、共に礼拝を守れなくなっている。今現在、この教会を支えてくださる方々も小さい教会ゆえの負担の重さにあえがれている。いま、この教会は皆さんの力が必要だ。もし皆さんが、今も熱く燃えているならば、この篠崎教会を基点として、ご一緒に伝道にまい進して行きたいと願う。もし、皆さんの熱が少し冷めているならば、今改めて復活のキリストを呼び求めてほしい。皆さんなしには、この教会は伝道できないのであり、皆さんなしにはこの教会は存続し得ないのだ。この教会が復活のキリストの命令に答えて立てられていることを今一度、共に覚えたい。


カテゴリー: - admin @ 12時51分11秒

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