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06 09

2019年6月9日説教(使徒言行録2:1-13、言葉の奇跡が起きた)

1.待つ群れへの聖霊降臨

・聖霊降臨節を迎えました。ペンテコステ、元来は過越し祭りから50日目の麦の収穫感謝祭(ユダヤ教の五旬祭)でしたが、この日に、イエスの弟子たちに聖霊が下り、弟子たちの宣教を通して多くの人が回心し、教会が生まれた日としてお祝いするようになりました。具体的には弟子たちが「異なる言葉」で話始め、その結果、エルサレムで生まれた福音「キリストの教え」が言葉の壁、民族の壁を超えて伝わり始める、という出来事が起こりました。それがペンテコステです。使徒言行録2章はその日に起こった出来事を記しています。
・使徒言行録は、十字架で死なれたイエスが三日目に甦り、その後40日間弟子たちと共にいて、聖霊が与えられるまでエルサレムに留まるように指示されたと伝えます「エルサレムを離れず、前に私から聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」(使徒1:4-5)。40日後、イエスは昇天されました。残された弟子たちは、一同に集まり、聖霊を与えてくれるように祈り続けます。その祈りに答えて、神の力、聖霊が与えられたとルカは記します。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1-3)。
・現代の私たちには理解できない表現を用いて、ルカは聖霊降臨の出来事を伝えようとしています。「激しい風が吹いてきた」、風の原語はプノエ、霊はプネウマです。「炎のような舌が見えた」、舌はグロッサで、その複数形グロッサイは言葉です。つまり、霊=プネウマが風=プノエのように下り、舌=グロッサが言葉=グロッサイを与えたとルカは説明しています。「風」、「火」、「現れる」等の表現は、旧約聖書では、「神の臨在」を示す言葉です。風は見えないが感じることが出来る、見えない聖霊が風のように弟子たちに下り、その霊によって弟子たちに語る言葉が与えられたという意味です。ルカは記します「一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話し出した」(2:4)。「ほかの国々の言葉」、原文をそのままで訳すと、「異なる言葉」、になります。
・エルサレムには外国生まれのユダヤ人たちや、ユダヤ教に改宗した異邦人たちが数多く住んでいました。ユダヤは何度も国を滅ぼされ、その度に人々は外国に散らされてそれぞれの地に住み、その子孫たちが祭りにエルサレム神殿に参拝するため、故国に帰っていたと思われます。彼等はヘレニスタイと呼ばれ(6:1)、コイネーと呼ばれる俗語ギリシャ語を話していました。大きな物音にびっくりして弟子たちのいた家の周りに集まった人々は、ガリラヤ出身の弟子たちが自分たちの国の言葉で(すなわちギリシャ語で)、語っているのを聞き、驚いて言います「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうして私たちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか」(2:7−8)。ルカは続けて報告します「私たちの中には・・・ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らが私たちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(2:9-11)。人々は驚き、とまどいました。

2.弟子たちが伝わる言葉で語り始めた

・実際に何が起きたのかはわかりません。しかしルカの報告を通して、二つのことを知ることができます。その一つは臆病だった弟子たちに、語る力が与えられたことです。弟子たちはイエスが捕らえられた時、その場から逃げ出しました。弟子の一人ペテロは心配になってイエスの後をついて行き、大祭司の屋敷まで行きましたが、そこで女中に見とがめられます「あなたもイエスの仲間だ」(ルカ22:56)。ペテロは激しく否定します「そんな人は知らない」。他の人もペテロを仲間だと言いましたが、ペテロは否定します。そして三度目に否定した時、鶏が鳴きました。ペテロは「この人こそメシア」と慕っていたイエスを裏切りました。自分も殺されるかも知れないという恐怖の前に、ペテロは過ちを犯しました。ほんの50日前、夜の闇の中で女中にさえ語ることの出来なかったペテロが、群集を前にイエスのことを語り始めたという奇跡が起きたのです。神の霊はちりに命の息吹を吹き込み、人間を創造しました(創世記2:7)。今また、神の霊は臆病であった弟子に命を吹き入れ、大胆に語る賜物を持った新しい人間を創造しました。語ることの出来なかった人々が、語るための舌を与えられた。それがペンテコステの日に起こった出来事の意味の一つです。
・もう一つの出来事の意味は、「神が為された偉大な業」(2:11)を、人々にわかる言葉で伝えることができたということです。ルカは「"霊"が語らせるままに、(弟子たちが)ほかの国々の言葉で話しだした」と記しますが、おそらく弟子たちは、外国生まれのユダヤ人や異邦人改宗者も理解できる当時の共通語であるギリシャ語で語り始めたのでと思えます。イエスや弟子たちが日常に用いていた言葉は、ヘブル語またはその方言であるアラム語です。他方、外国に住む、あるいは外国から帰国したユダヤ人たちは、ヘブル語を理解せず、ギリシャ・ローマ世界の共通語であるギリシャ語しか話せませんでした。その彼等に福音を伝えるにはギリシャ語で話すしかない。弟子たちの出身はガリラヤですが、その地は「異邦人のガリラヤ」と呼ばれたほど、ギリシャ化が進み、弟子たちの何人かはギリシャ語を話すことが出来たのでしょう(今日のヨーロッパの人々が母国語はもちろん、共通語である英語を話せるのと同じです)。弟子たちがイエスの受難と復活をギリシャ語で語った結果、その言葉は人々に伝わり、その日に3千人が洗礼を受けたとルカは記します(2:41)。
・このギリシャ語を話すユダヤ人たちが、やがて福音宣教の担い手になります。使徒8章でエルサレム教会にユダヤ教会からの迫害が行われたことが記されていますが、この迫害の結果、ギリシャ語を話すユダヤ人たちがエルサレムを追われ、サマリアやシリア、さらにはアジア地方にまで伝道を行い、その結果、福音が民族、国境を超えて広がっていきます。ルカはその歴史を踏まえて、ペンテコステの出来事を書き記しているのです。

3.福音の真理は言葉を超える

・聖霊は、教会が福音(良い知らせ)を持って、人々のところに出て行く力を与えます。その行為は、当初は戸惑いと疑いと嘲りを招くでしょうが、やがて少数の人々であれ、存在の根底から悔い改めさせる力を持ちます。今日の招詞に使徒1:8を選びました。次のような言葉です。「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、私の証人となる」。昇天するイエスが弟子たちに託した言葉です。福音は神の業の目撃証言を通して伝わり、その証しは言葉を通して語られます。その証言を集めたものが新約聖書で、その新約聖書がギリシャ語で書かれたことは、考えれば不思議です。何故ならイエスも弟子たちもアラム語で語っていたからです。アラム語で語られた出来事が、ギリシャ語という当時の共通語で書き記されることを通して、福音が世界に伝えられていった、その出発点がペンテコステの日に起こった「異なる言葉」の奇跡でした。
・イエスや弟子たちの証言集であった新約聖書はギリシャ語で書かれましたが、キリスト教がローマ帝国の公認宗教になると、やがて帝国の原語「ラテン語」に翻訳され、ラテン語聖書(ウルガタ)が権威を持つようになります。ただ民衆はラテン語がわからず、聖書が何を語っているのかを理解できませんでした。その壁を破ったのが、宗教改革です。イギリスではウィクリフが聖書を英語に翻訳し、ドイツではルターによりドイツ語聖書に生まれ、それがグーテンベルクの発明した印刷術によって、世界各地に伝えられていきます。宗教改革を起こしたものは、各国語に翻訳された聖書の力でした。日本ではキリシタン時代に最初に日本語聖書翻訳がなされました。1837年に出されたギュツラフ訳ヨハネ福音書です。この聖書翻訳は日本から漂流した三人の船乗りの協力で為され、三浦綾子著「海嶺」に詳しく報告されています。その後、明治になってキリスト教の布教が許されるようになると、多くの外国人宣教師が日本を訪れ、聖書の翻訳を手がけるようになります。その一人がマタイ福音書を翻訳したヘボンで、彼はローマ字表記の考案者としても有名です。それから150年、現在の私たちは多くの日本語訳聖書を持つことを許されています。
・最近出た新しい翻訳の一つが、山浦玄嗣(はるつぐ)氏のケセン語訳聖書です。ケセン語は東北・気仙地方の方言で、使う人口も少ない言葉です。山浦さんは岩手県大船渡市のカトリック医師ですが、ある時教会で「マタイ福音書・山上の説教」をケセン語で読んで聞かせた所、ある老婦人が涙を流して、「今日ぐらいイエス様の気持ちがわかったことはなかった」と彼の手を掴んで感謝したことから、50歳を超えて聖書の原語であるギリシャ語を学び、翻訳を始めたというのです。何とかイエスの心を伝えたい、その熱情がケセン語聖書を生みました。その山浦さんの熱情が別の回心者を生んでいきます。常盤台教会の会員であった太田雅一兄は、教会に講演で来られた山浦玄嗣さんの証しを聞いて、自分もギリシャ語を学びたいとして東京バプテスト神学校に入学され、やがて牧師になられました。伝わる言葉は奇跡を生んでいくのです。使徒言行録2章1-13節の短い文章の中に、「聞く」という言葉が繰り返されています(2節、6節、11節)。理解できる言葉で話された福音は、「聞かれる」ことによって伝わって行きます。使徒言行録によれば、この日、3000人が、ペテロの「悔い改めてバプテスマを受けなさい」という勧めに応えて、バプテスマを受けたとされています(使徒2:41)。教会が説教を大事にするのも、会衆が「聞く」ことによって、回心の奇跡が起きるからです。教会とは、「神のみ言葉が語られ、神のみ言葉が聞かれる」共同体なのです。キリスト教信仰は、教会という共同体を通しての、交わりの信仰なのです。
・ペンテコステの日に弟子たちに聖霊が下り、彼らに語る力が与えられ、普遍的な言語であるギリシャ語で福音が述べ伝えられ、聞かれました。その聖書が最初にラテン語に翻訳され、さらには英語やドイツ語に翻訳され、今では日本語にも翻訳され、言語の力が福音を世界に伝えました。そして今でも、多くの人々が、異なる言語の人々に福音を伝えたいとして活動しています。先日不幸な事件のありましたカリタス学園は、もともとカナダのケベックに設立されたカリタス修道会が、1960年に三人の修道女を日本に派遣して設立されたとのことです。その三人の修道女たちは、来日当初は日本語が話せなかった。福音を伝えるために必死に言葉を学び、それが実って学校設立まで至った。ペンテコステの奇跡は現代でも起こり続けているのです。


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05 31

1.エルサレムからローマへ

・使徒言行録を読み続けて来ました。今日が最終回です。パウロはエルサレムでユダヤ教徒たちから「背教者」として命を狙われ、混乱の中でローマの軍隊に捕らえられ、カイザリアで2年間監禁されます(使徒21〜24章)。獄中でパウロはローマ皇帝に直訴し(25:11)、ローマに囚人として移送されます。こうしてパウロは囚人としてではありますが、これまで何度も行こうとした帝国の首都ローマに到着します。そのローマでの最後の日々を伝えるのが使徒言行録28章です。
・ローマでは、囚人たちは通常は兵営内の獄舎に収容されますが、パウロの場合は兵営の外に家を与えられ、そこに住むことを許され、いわゆる「自宅軟禁」という緩やかな監禁措置が取られたようです。ですから自宅に人々を呼ぶことも可能でした。ルカは記します「私たちがローマに入った時、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた」(28:16-17)。パウロが最初に招いたのはローマに住むユダヤ教指導者たちでした。当時のローマには多くのユダヤ人が住み、シナゴーク(会堂)も13あったと伝えられています。彼はローマに住むキリスト者たちと懇親を深める以前に、まずキリストを知らない人々に宣教することを優先しました。
・そのユダヤ教指導者たちにパウロは語ります「兄弟たち、私は、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。ローマ人は私を取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。しかし、ユダヤ人たちが反対したので、私は皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、私はこのように鎖でつながれているのです」(28:17-20)。ローマのユダヤ教指導者たちは帝国各地のシナゴーグで伝道活動をしてきたパウロの評判を聞いていたでしょう。エペソやマケドニアで起きた騒動やエルサレムでの裁判のことも噂に聞いていたことでしょう。各地のユダヤ教会はパウロを異端者キリストを宣べ伝える人物として警戒していたと思われます(28:21-22)。だから彼らはパウロの呼びかけに応えて彼の家に集まりましたが、パウロの言うことを信じようとはしません。
・ルカは「ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった」(28:24)と記します。しかし、伝道の成果は上がったとピリピ書でパウロは報告しています。ピリピ書はこのローマの獄中で書かれたとされていますが、そこには、投獄されても伝道を続けるパウロの影響を受けて、ローマのキリスト者たちが伝道に励んだことが記されています。「兄弟たち、私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。つまり、私が監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他のすべての人々に知れ渡り、主に結ばれた兄弟たちの中で多くの者が、私の捕らわれているのを見て確信を得、恐れることなくますます勇敢に、御言葉を語るようになったのです」(1:12-14)。ユダヤ人たちのある者は信じ、他の者は信じませんでしたが、パウロは監禁状態の中で、伝道を続けます。ルカは記します「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(28:30-31)。

2.その後のパウロ

・使徒言行録はここで突然に終わります。その後のパウロがどうなったかは一切記しません。パウロは皇帝に上訴して、時の皇帝ネロの裁判を受ける身です。その裁判の結果がどうであったのかについて、ルカは触れることなく、「使徒言行録」を締めくくります。ルカはこの裁判の結末を知っているはずです。拘留を「2年間」とする以上、その2年が終わった時、有罪とされて処刑されたのか、または無罪とされて釈放されたかを知っているはずです。もし無罪となって釈放されたのであれば、その喜びをルカが報告しないことは考えられません。
・とすればパウロは有罪判決を受けて処刑されたことになります。ルカはそのことを暗示しています。それはルカがパウロのエルサレムへの旅を諸集会へのお別れの旅として描いていることからも推論できます。パウロはエペソの長老たちに「自分の顔をもう二度と見ることはあるまい」と言い(20:25)、エルサレムでの危難を預言し、エルサレム行きを止めようとした人たちに対して、パウロは「エルサレムで縛られることばかりか死ぬことさえも、私は覚悟している」と言ってエルサレムに向かいます(21:13)。
・では、パウロの殉教を知っているはずのルカがなぜこのような終わり方で使徒言行録を締めくくったのでしょうか。それは福音が使徒パウロによって帝国の首都であるローマに到達したことを語るところで、「使徒言行録」の目的が達せられたからです。パウロがローマで「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」ことで、「エルサレムからローマへ」という主題は完結しました。パウロはローマで殉教の死を遂げました。ルカはそれを知っており、多くの読者も知っていることでしょう。しかし、ルカはそのような悲劇的な結末の中に、福音を「エルサレムからローマに」到達させようとされた神の御計画が実現したことを見て、それを表現するのにふさわしい言葉で使徒言行録を締めくくったのです。

3.キリストに在る愚者

・イエスはエルサレムで処刑されました。しかしその後にペテロやパウロが起こされ、イエスの福音を語り続けました。使徒たちもローマで処刑されましたが、次に続く人々が「神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続け」ました。やがて使徒たちの処刑地の上に教会が建てられ、そのローマ教会がキリスト教の中心になって行きます。今日の招詞に使徒18:9-10を選びました。次のような言葉です「ある夜のこと、主は幻の中でパウロにこう言われた『恐れるな。語り続けよ。黙っているな。私があなたと共にいる。だから、あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、私の民が大勢いるからだ』」。「この町には、私の民が大勢いる」、その幻が人々を生かし続けたのです。
・イエスが生きられた時代は前途に希望の持てない時代でした。ユダヤはローマの植民地であり、ローマと、ローマの任命する領主の双方に税金を納めなければならず、税金を払えない人は妻や子供たちを売り、それでも払えなければ投獄されました。人々は小作人として働き、地主に収穫の半分以上を取られ、飢饉の時には大勢の餓死者が出ました。病気に罹れば、治療を受けることなく、人々は死んで行きました。人々は約束されたメシアが来て、生活が良くなることを熱望していました。その人々にイエスは言われました「私がそのメシアだ。あなた方の救いは、今日私の言葉をあなたがたが耳にした時に成就した」と(ルカ4:21)。
・神が行為され、御子キリストが来られ、世の中は変わりました。しかし、人々は言います「何も変わっていない。キリストが来られて何が変わったのか」。現代の日本では、政治家は賄賂をもらって国政をゆがめ、役人は権益保護のために作る必要のない道路や施設を作り、財政は破綻状況にあります。財政負担を減らすために医療や年金の保険料は上がり、生活は苦しくなっています。学校に適応できない子供たちは不登校になり、就職できない若者は家に閉じこもり、未来に希望をもてない者は自殺して行きます。イエスが来られたのに、世の中は何も変わっていないではないかと人々は今もつぶやき続けています。
・「それにもかかわらず、この世界は根本から変わった」と私たちは信じます。ゲルト・タイセンという聖書学者は「イエス運動の社会学」という本を書き、イエスが来られて何が変わったのかを分析しました。彼は書きます「イエスは、愛と和解のヴィジョンを説かれた。少数の人がこのヴィジョンを受け入れ、イエスのために死んでいった。その後も、このヴィジョンは、繰り返し、繰り返し、燃え上がった。いく人かの『キリストにある愚者』が、このヴィジョンに従って生きた」。キリストが来られることによって、「キリストにある愚者」が起こされた、それが最大の変化だとタイセンは言います。キリストにある愚者とは、世の中が悪い、社会が悪いと不平を言うのではなく、自分には何が出来るのか、どうすればキリストが来られた恵みに応えることが出来るのかを考える人たちです。その愚者の一人パウロはローマで処刑されました。しかし後継者たちは語ることを止めませんでした。パウロの後継者たちの語りがエペソ書やテモテ書という「パウロの名による書簡」として残されています。福音はパウロの死を超えて語り継がれていったのです。
・W.ウィリモン使徒言行録注解を翻訳した中村博武氏はあとがきの中で次のように述べます「使徒言行録は過去の物語である。それはこの世の支配の中で、信仰によってあるべき世界を呼び起こし、その世界を目指してきた人々の物語である。その背後に意味と一貫性を与えている活動主体は神である。この物語は復活の主が今も生きて働いていることを証しすることにより、私たちに新たな世界観を提示し、新たな現実を開示し、私たちの人生を変革する力を持つ」。ローマ総督がイエスを処刑し、ローマ皇帝がパウロを処刑しても、福音を沈黙させることは出来ませんでした。福音は「キリストにある愚者」を作り出し、彼らが語り続けてきたからです。そして今、私たちがその役割を継承して語り続けていきます。使徒言行録は私たちによって書き続けられていくのです。


カテゴリー: - admin @ 08時06分05秒

05 24

1.エペソからエルサレムへ

・使徒言行録を読んでおります。パウロはコリント伝道を終えた後、一旦アンティオキアに戻りますが、しばらくしてから再度伝道旅行に出かけます。そしてエペソに3年間滞在してそこに教会を設立し、その後異邦人教会からの献金を携えて、エルサレムに戻ることにしました(19:21-22)。パウロたちの設立した異邦人教会は伝道方針をめぐって母教会のエルサレム教会(ユダヤ人教会)と対立しており、和解のためにパウロは異邦人教会からの献金をエルサレムに捧げる計画を進めていました。彼は諸教会に別れを告げるために、エペソを離れ、ピリピ、テサロニケ、コリントを訪問し、ミレトスから船でエルサレムに帰る計画を立てます。ミレトスはエペソ近郊の港町です。そのミレトスにパウロはエペソ教会の長老たちを呼び、別れの時を持ちます。使徒言行録20章は、そのミレトスで為されたパウロの告別説教です。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時05分16秒

05 17

1.アテネからコリントへ

・使徒言行録を読み続けています。パウロはアテネ伝道を終え、コリントへ移りますが、その時のパウロは大いなる失意の中にありました。彼は後に述懐しています「そちら(コリント)に行った時、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。私の言葉も私の宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、霊と力の証明によるものでした」(汽灰螢鵐2:3-4)。アテネ伝道は完全な失敗でした。パウロの説教を聞いたアテネの人々は「ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」(使徒17:32)。精魂込めて語った説教が嘲りと冷笑の中に凍りつく体験を彼はしたのです。それは伝道者の自信を完全に喪失させる出来事です。パウロは失意の中にコリントに移りますが、このコリントで神は大きな祝福をパウロに与えます。それが今日読みます使徒18章の記事です。 (続き…)


カテゴリー: - admin @ 08時16分48秒

05 10

1.アテネでのパウロの宣教

・使徒言行録を読み続けています。パウロの伝道はアジアを超え、ヨーロッパに入り、使徒17章のパウロはアテネにいます。アテネはギリシア哲学発祥の地、ソクラテスやプラトンを生んだ知性の町です。同時に、その町は「偶像にあふれた迷信の町でもあった」とルカは報告します(17:16)。町中に、ゼウスやアポロ等の神々の像があふれていました。アテネの町にはユダヤ人共同体もあり、パウロは安息日には会堂(シナゴーク)に行って、ユダヤ人たちに福音を伝え、週日は広場(アゴラ)に行き、ギリシア人たちに語りかけました。パウロの話はギリシア人には「おしゃべり」としか聞こえませんでしたが、人々はパウロの熱心さに圧倒され、話をもっと聞こうとして、パウロをアレオパゴスに導きます。アレオパゴスはアクロポリスの丘にある評議所(裁判所)で、討論の場としても有名でした。
・そのアレオパゴスでパウロは人々を前に、語り始めます。ここでのパウロの説教は「知られざる神々への説教」と呼ばれています。何故なら、アテネには「知られざる神々へ」と名づけられた偶像も祀られていたからです。アテネの人々は多くの偶像を祀っていました。しかし、祀りそこなって祟りを及ぼす神がいると困るから「知られざる神々」まで祀っていました。知性と理性の支配する場所はまた偶像の支配する場所でもあったのです。アテネには3000を超える神殿や宗教施設があったと言われています。私たちは彼らを無知な人々とあざ笑いますが、実は日本でも状況は同じです。日本でも恨みの内に死んで行った人々の怨霊を鎮めるために、多くの神社が造られています。平将門を祀った神田明神、菅原道真を祀った天満宮、いずれも死人の祟りをなだめるための神社です。日本には8万を越す神社がありますが、多くの人々はどのような神が祀られているかを知らずに拝んでいます。正月になると、8千万人を超える人が神社に初詣に行きます。人出が一番多いのは明治神宮ですが、そこは明治天皇を祀る社です。明治天皇にお参りするとどのようなご利益があるかも知らずに、私たちは参拝します。また子どもが生まれるとお宮参りに行きます。その神社がどのような神々を祀っているかに私たちは無頓着です。日本人の信仰の形はアテネとそっくりです。私たちも「知られざる神々」を拝んでいるのです。
・パウロは「あなた方は誰を拝むかを知らずに拝んでいる。あなた方が拝んでいる神がどなたなのかを知らせましょう」と語り始めます(17:23)。パウロは「天地万物が神によって創造された、その創造の神は人間が造った神殿などには住まわれない、神が人を造られた故に人は本能的に神を求める存在である、しかし暗闇の中で神を捜し求めても神は探しえない」と説いていきました。人々は、パウロの話しを熱心に聴いています。彼らも共感する部分が多かったからです。パウロは最後に語ります「神は人が悔い改めて帰ってくることを望んでおられる。そのために、イエスを地上に遣わされ、彼を死からよみがえらせられた。この事を通して、人が神に立ち返る道が開かれた」(17:30-31)。パウロの話を熱心に聞いていた人たちは、話がイエスの十字架と復活になると、ある者はあざ笑い、別の者は「その話はいずれまた聞かせてもらおう」と言いました(17:32)。「死人がよみがえった」、パウロの宣教は知性を誇るギリシア人には愚かな言葉と響き、彼らはそれ以上、話を聞こうとはしませんでした。パウロの宣教はアテネの人々には受け容れられず、失意のうちにその場所を去ります。

2.人は何故偶像を求めるのか

・アテネは「人の数より偶像の数が多い」といわれたほど、偶像に満ちていました。日本でも八百万と呼ばれるほど、多くの神々が祀られています。それは、人間は自分の欲する存在を神とするからです。受験競争が激しくなると学問の神様が生まれ、交通事故が多くなると交通安全の神が、商人には商売繁盛の神、子を亡くした人には水子地蔵が用意されています。秀吉や家康のような成功者も日本では神となります。自分もあやかりたいからです。日本では乃木将軍や東郷元帥のような軍人も神になります。人は自分たちの願いを託して神を造り、また祟りを恐れて「知られざる神々の像」まで作ります。
・現代人は「無信仰」を標榜し、形式的には神からは離れましたが、不安からは離れることが出来ません。だから、正月にはお宮参りをし、家を建てる時には地鎮祭を行い、悪いことが続くと厄払いをしてもらいます。それは迷信と言うよりも、自分を超えた者への怖れの感情です。古代最高の知性が集まったアテネの町が偶像礼拝の町であったように、科学技術の進んだ現代日本でも、神社参拝は続きます。自分を超えた、人間にはどうしようも無い世界があることを、人は本能的に知っており、怖れているからです。偶像崇拝は人間の不安の象徴です。
・日本人は無宗教と言われますが、無信仰なのではありません。読売新聞の宗教意識調査(2008年)では「宗教を信じていない」と回答した比率は71.9%ですが、その同じ人々が「盆や彼岸に墓参り」し(78.3%)、「正月に初詣」に行き(73.1%)、家の仏壇や神棚に手を合わせます(56.7%)。死んだ人の魂はどうなるかという問いに、50%以上の人が「別な世界に行く」、「生まれ変わる」と答えています。宗教学者の山折哲雄は語ります「(日本人は)表層的には無神論的心情であるが、深層においては無情感覚(不条理感覚)を抱いているのではないか」(山折哲雄『近代日本人の宗教意識』)。この世界は不条理であることを知るゆえに、人はその不条理を克服する「真実の神」を求めているのです。そのような人々に教会は何を提示することが出来るのでしょうか。

3.十字架と復活を述べ続ける

・今日の招詞に1コリント1:23-24を選びました。次のような言葉です。「私たちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」。パウロのアテネ宣教は完全な失敗でした。パウロがイエスの十字架と復活を語り始めると、「ある者はあざ笑い、ある者は、それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう」(使徒17:32)と言いました。パウロはその後、コリントに行きますが、その時の心境を次のように語っています「そちら(コリント)に行ったとき、私は衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした」(1コリント2:3)。アテネでの失敗にパウロは打ちのめされていたのです。しかしコリントでは、先に来ていたアキラとプリスキラたちの協力もあり、信じる者たちが与えられました。だからパウロは語ります「十字架の福音はユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」と。
・「十字架と復活の言葉」は、どの時代、どの国においても嘲笑と拒否を招きます。それにもかかわらず、教会はこの福音を語り続けます。そこに真理があることを知る故です。真理には客観的真理と実存的真理があります。客観的真理とは誰にでも理解しうる真理、科学的・実証的真理です。地球は丸い、人間は死ぬ、これらは誰にも異論のない、客観的真理です。それに対して、実存的真理とは、例えば「神がおられる」、「神が私たちを創造された」、「神が私たちを生かしておられる」、等の主観的な真理です。私たちが信じた時、それは真理となります。そして「真理は人を自由にする」(ヨハネ8:32)。仮に実存的真理を信じなくとも構わない、とりあえずは困らない。しかし、信じた時、人生の意味が変わってくる。そのような真理があることを教会は語り続けます
・この実存的真理をあざ笑い、「いずれまた聞かせてもらおう」と言う時、そこからは何も生まれません。生まれないどころか、偶像の神々にすがって生きる生き方しか出来ません。それは非日常を怖れて暮らす日々です。ルカ14章15-24節にある「盛大な宴会の喩え」では、主人が宴席(神の国の食事)に招待しようとしても、人々は多忙を理由に断ります。聖書学者の大貫隆はそれについて「日常的・連続的時間、つまりクロノスの根強さがここにある。仕事に追われて宴会どころではない。神の国、そんな話を聞いている暇はさらにない。イエスの『今(カイロス)』が生活者の『クロノス』と衝突し、拒絶される」と解説します(大貫隆『イエスという経験』)。しかし、「今に忙殺され、将来を考えようとしない」現代人も、人間存在の根底的問題、「死」に直面した時は平気ではいられません。1985年8月12日、日航機が群馬県上野村御巣鷹山中に墜落し、520名の方々が亡くなりましたが、30年後の今も遺族は慰霊登山を続けます。彼らにとって事故は終わっていません。また8月15日には今なお多くの戦没者遺族が靖国神社に詣でます。終戦から70年が経っても彼らの戦後は終わっていません。「“カイロス”が生活者の“クロノス”と衝突し、拒絶される」現実が、親しい者の死を通して、「“カイロス”(真実の時)の意味を尋ね続ける」時に変わる出来事が、この日本でも起きています。
・この非日常、人間の支配の及ばない所、その代表が死です。パウロの話を聞いた人々は「それについてはいずれまた聞こう」といってパウロから離れて行きました。「いずれまた」の日は来ません。今日、話を聞いて受け容れるか、あるいは拒絶するかのどちらかです。復活を信じる、信じないは自由です。愚かな話と否認しても良い。しかし、否認しても、そこからは何も生まれない。しかし、復活の意味を求め始めた時、死とは何か、死からどのようにすれば解放されるのかを考え始め、そこに何かが生まれます。イエスは言われました「生きていて私を信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(ヨハネ11:26)。イエスは復活された。それは私たちが怖れる非日常を破る出来事です。イエスを通して、私たちは非日常の恐怖から解放されます。災いや不幸が来てもそれを受け容れることが出来るようになります。「知性を誇るアテネは偶像の町でもあった。知性と恐怖は共存する。人の知恵では人生は乗り切れない」。このことを素直に認め、神の前に悔い改めよと招かれているのです。


カテゴリー: - admin @ 08時08分51秒

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