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説教書庫 Ktai edition2007年7月29日説教(1ペテロ3:13-22、意味のある苦しみ)(07/29 14:05) Page:1
Author : admin
Category: 21.ペテロ第一

1.迫害の中で苦しむ友へ

・今日、私たちはペテロ第一の手紙を読みますが、この手紙の背景にはキリスト教徒への迫害があります。手紙には試練、苦しみ等の言葉が繰り返し出てきます。最初にペテロは書きます「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです」(1:6-7)。火のような試練があなた方を襲う、ローマ帝国内でキリスト教徒迫害が始まった紀元60年代にこの手紙は書かれたと見られています。「何故迫害されるのか、自分たちは何も悪いことをしていないのに」、人々は怖れ、困り果て、教会の中に動揺が生じていました。
・ローマにいたペテロは、迫害に苦しむ小アジアの信徒たちを慰めるために、手紙を書いて、弟子のシルワノに持たせました。彼は手紙の中で言います「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(3:14)。信仰ゆえに苦しみを受けることがある。キリストも正しい方であったのに、十字架で苦しまれて復活の栄光に入られた、あなたがたもこの苦しみを神からの試練として受け入れ、喜びなさいとペテロは言います。この時代に何が起こったのか、人々はそれにどう対処しようとしたのか、それは現在の私たちにどのようにかかわるのか。今日、ペテロの手紙を通して苦難の意味を学んでいきます。
・仏教では苦難を四苦八苦と表現します。四苦=生、病、老、死、生きるゆえの苦難です。病気になり、年老いて、死んでいく。生きることそのものに苦があります。八苦=愛する人と別れる、憎む人と出会う、求めるものが得られない、物への執着、もまた苦難となります。仏教では、この四苦八苦からの解放こそ解脱=救いであると言いますが、ペテロの言う苦難はこのようなものではありません。苦難には人間であるゆえに受ける苦難と、キリスト者であるゆえに受ける苦難があります。ここで問題になっているのは、キリスト者ゆえに受ける苦難です。
・ローマ帝国の支配下にあった小アジアで、回心してキリスト信徒になることは、多くの困難を伴いました。イエスは「殺すな」と言われましたので、人々は兵役を拒否しました。イエスが「偶像を拝むな」と言われたので、人々は皇帝の像も拝みませんでした。その結果、クリスチャンたちは「非国民」、「秩序を乱す者」と呼ばれ、友人や仲間や親戚から排除され、共同体や国から村八分されたのです。世の人々と違う生き方をしようとしたから、信徒は世から憎まれたのです。ペテロは言います「あなたがたは神から選ばれたのだから正しい生活をしなさい。その正しい生活を見て、異教徒が神を讃美するようになるためです」と(2:12)。しかし、正しい生活をしても差別され迫害されることはあります。「その時は喜べ、人々を怖れたり、心を乱すな」とペテロは言います。「義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです」(3:14)。
・世から憎まれた時、私たちはどうするのか、ペテロは言います「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(3:9)。その時に人々は聞いてきます「何故私たちの悪に対して善を、私たちの侮辱に対して祝福をする生き方が出来るのか」。その時あなたがたは自分たちの信仰を証しするのだとペテロは勧めます「あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。・・・そうすれば、キリストに結ばれたあなたがたの善い生活をののしる者たちは、悪口を言ったことで恥じ入るようになるのです」(3:15-16)。ペテロは言葉を続けます「神の御心によるのであれば、善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりは良い」(3:17)。

2.迫害する者のために祈れ

・信仰ゆえに迫害された時、ペテロは「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いるな。祝福を祈れ」と教えます。こんなことが出来るのでしょうか。歴史は出来ると教えます。その証人の一人が、非暴力・不服従を貫いたキング牧師です。彼は言います「あなたがたの他人を苦しませる能力に対して、私たちは苦しみに耐える能力で対抗しよう。あなたがたの肉体による暴力に対して、私たちは魂の力で応戦しよう。どうぞ、やりたいようになりなさい。それでも私たちはあなたがたを愛するであろう。・・・私たちはあなたがたの不正な法律には従えないし、不正な体制を受け入れることもできない。・・・私たちを刑務所にぶち込みたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。私たちの家を爆弾で襲撃し、子どもたちを脅かしたいなら、そうするがよい。それでも私たちは、あなたがたを愛するであろう。真夜中に、頭巾をかぶったあなたがたの暴漢を私たちの共同体に送り、私たちをその辺の道端に引きずり出し、ぶん殴って半殺しにしたいなら、そうするがよい。それでも、私たちはあなたがたを愛するであろう。・・・しかし、覚えておいてほしい。私たちは苦しむ能力によってあなたがたを疲弊させ、いつの日か必ず自由を手にする、ということを。私たちは自分たち自身のために自由を勝ち取るだけでなく、きっとあなたがたをも勝ち取る。そうすれば、私たちの勝利は二重の勝利となろう」(マーティン・ルーサー・キング「汝の敵を愛せよ」、新教出版社、1965年、79P)。
・「私たちは苦しみ能力によって自分たちの自由を勝ち取り、あなたがたの心も勝ち取る」とキングは述べます。何故、彼はこのような希望をもてるのでしょうか。それはキリストがそうされたからです。ペテロは言います「キリストも、罪のためにただ一度苦しまれました。正しい方が、正しくない者たちのために苦しまれたのです。あなたがたを神のもとへ導くためです。キリストは、肉では死に渡されましたが、霊では生きる者とされたのです」(3:18)。キングはこのようにも言っています「私たちは初代のキリスト教徒による非暴力的な抵抗が、ローマ帝国を震撼させるほどの巨大な道徳的攻撃力を生み出したことを知っている」。そうです。「愛は多くの罪を覆い」(4:8)、ついにはローマ帝国の悪を変える力を持ったのです。このことは現代でも通用するのです。

3.意味のある苦しみ

・今日の招詞にマタイ5:11-12を選びました。次のような言葉です「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられる時、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
・キリスト者は世と違う価値観を持つゆえに、周囲の人からの拒否と攻撃に苦しみ、排斥と抑圧の対象になります。ペテロの時代のキリスト者は兵役を拒否し、皇帝像を拝むことを拒んだために、非国民として憎まれました。今日、私たちは応答讃美として、新生讃美歌73番を選びました。D.ボンヘッファーの書いた詩に曲をつけたものです。このボンヘッファーの生涯を通して、キリスト者ゆえの苦難の意味を考えます。
・ボンヘッファーはナチス時代を生きたドイツの牧師です。1933年、ナチスが政権を取り、ユダヤ人迫害を始めると彼はそれに抗議するために告白教会を組織し、「不正な指導者には従うな」と呼びかけます。彼は政権ににらまれ、心配した友人たちはアメリカ行きを勧め、1939年彼はアメリカに渡りますが、すぐドイツに帰ります。他の人々が犠牲になって苦しんでいる時、自分も苦しみを共にしなければもう祖国の人に福音を語れないと思ったからです。ドイツに戻ったボンヘッファーは、ヒトラー暗殺計画に加わります。彼は言います「車に轢かれた犠牲者の看護をすることは大事な務めだ。しかし、車が暴走を続け、新しい被害者を生み続けているとすれば、車自体を止める努力をすべきだ」。ボンヘッファーは国防軍情報部に入り、暗殺計画を推し進めますが、発覚し、1943年4月に捕らえられ、1945年4月に処刑されます。39歳の時でした。キングも39歳で暗殺されて死んでいます。不思議な一致です。彼は処刑の直前に、獄中から家族あてに手紙を書きますが、そこに同封されていたのが、讃美歌の元になった詩です。
・彼は歌います「善き力にわれ囲まれ、守り慰められて、世の悩み共に分かち、新しい日を望もう」。彼は獄中で孤独ですが、家族や友人は彼のために祈り続けていることを知っているゆえに心は平安です。その平安を「善き力に囲まれ」と歌います。反逆罪で捕らえられた彼は死刑になることを予感し、また牧師として暗殺行為に関ったことが良かったのか、迷っています。その迷いの中で「過ぎた日々の悩み重く、なおのしかかる時も、騒ぎ立つ心しずめ、御旨に従い行く」と歌います。
・私たちがクリスチャンとしてこの世を真剣に生きようとすれば、同じような苦しみを受けるでしょう。現代社会では談合や汚職が横行しています。建設会社の社員が職場で行われる談合を告発した時、彼は職場で孤立するでしょう。教師が式典で歌われる君が代斉唱に参加しなければ、学校から追い出されるかもしれません。それでも私たちはそうします。イエスはパリサイ人の偽善や祭司の不正を告発したために、憎まれ殺されました。初代教会の信徒たちは、皇帝の像を拝むことを拒否したゆえに捕らえられていきます。ボンヘッファーもアメリカに留まれば、あるいは世の出来事に目をつぶれば、処刑されることも無かったのです。しかし、彼らは苦しみを選び取りました。この苦しみは無意味ではありません。何故なら、キリストが私たちに呼びかけて下さるからです「私のためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい・・・あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」。


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