2019年7月7日説教(創世記37:1-11、神の摂理)(07/07 08:12) Page:1
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Category: 28.創世記

2019年7月7日説教(創世記37:1-11、神の摂理)

1.ヨセフ物語の始まり

・今日から創世記・ヨセフ物語を読んでいきます。アブラハム・イサク・ヤコブと族長の時代が続き、ヨセフはヤコブの子、アブラハムから4代目です。ヨセフ物語は創世記37章から始まります。イスラエル(神と格闘する者)とも呼ばれたヤコブはメソポタミヤでの苛酷な20年間を終えて、故郷カナンに戻ってきました。ヤコブはメソポタミヤで二人の妻が与えられ、最初の妻レアは6人の子を産み、二人のそばめから4人の子が、最愛の妻ラケルからヨセフとベニヤミンが生まれます。この十二人の子がやがてイスラエル十二部族を形成します。妻ラケルは、ヨセフを生み、その後ベニヤミンを生んだ後、お産が原因で亡くなります(35:16-18)。
・妻に死なれたヤコブは愛するラケルから生まれた二人の子たちを、特にヨセフをかわいがりました。ヨセフには兄たちと違う特別の着物を着せ、羊飼いの仕事をさせないで手元に置いて、秘書の仕事をさせていました。父親の偏愛を受けたヨセフは次第に兄たちを見下すようになり、そのため、兄たちはヨセフを憎むようになります(37:4)。この憎しみがやがて兄たちに、ヨセフを殺そうとする気持ちを生ませます。
・その次第を創世記は記します「ヨセフは十七歳の時、兄たちと羊の群れを飼っていた。まだ若く、父の側女ビルハやジルパの子供たちと一緒にいた。ヨセフは兄たちのことを父に告げ口した。イスラエルは、ヨセフが年寄り子であったので、どの息子よりもかわいがり、彼には裾の長い晴れ着を作ってやった。兄たちは、父がどの兄弟よりもヨセフをかわいがるのを見て、ヨセフを憎み、穏やかに話すこともできなかった」(37:1-4)。「裾の長い晴れ着」、王侯貴族たちが着る着物であり、ヤコブはヨセフを「11番目の子供であるにもかかわらず、その相続者とした」ことを暗示しています。
・偏愛されて高慢になったヨセフは、「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」と語り、兄弟たちの怒りをかいます。創世記は記します「ヨセフは夢を見て、それを兄たちに語ったので、彼らはますます憎むようになった。ヨセフは言った『聞いてください。私はこんな夢を見ました。畑で私たちが束を結わえていると、いきなり私の束が起き上がり、まっすぐに立ったのです。すると、兄さんたちの束が周りに集まって来て、私の束にひれ伏しました』。兄たちはヨセフに言った『何、お前が我々の王になるというのか。お前が我々を支配するというのか』。兄たちは夢とその言葉のために、ヨセフをますます憎んだ」(37:5-8)。ヨセフ物語では夢が大きな役割を担います。「兄たちの束が周りに集まって来て私を拝む」、兄弟たちは「ヨセフが自分たちの支配者になろうとしている」と理解してヨセフを憎みます。
・ヨセフはさらに、「両親さえ彼を拝む夢を見た」と語り、兄弟ばかりか、ヤコブさえも不愉快にさせます。「ヨセフはまた別の夢を見て、それを兄たちに話した『私はまた夢を見ました。太陽と月と十一の星が私にひれ伏しているのです』。今度は兄たちだけでなく、父にも話した。父はヨセフを叱って言った『一体どういうことだ、お前が見たその夢は。私もお母さんも兄さんたちも、お前の前に行って、地面にひれ伏すというのか』。兄たちはヨセフを妬んだが、父はこのことを心に留めた」(7:9-11)。「父はこのことを心に留めた」、古代においては「夢は神からの、語りかけ、また預言である」と受け止められていました。

2.その後のヨセフ

・37章1−11節には、家族に不和をもたらす三つの要素が盛り込まれています。「親の特定の子への偏愛」、そして「偏愛された子の高慢」、「不公平を強いられた兄弟たちの嫉妬」です。この三つが重なり合い、物語を悲劇へと導いていきます。物語の意味を考えるために、その後の展開を見ていきます。ある時、ヨセフは父の使いで、兄たちが羊を飼う地まで行きますが、兄たちはヨセフを殺してしまおうと謀ります。たださすがに反対する者も出て、ヨセフはエジプトに奴隷として売られることになります。兄たちは雄山羊の血をヨセフの着物に浸し、弟は獣に食われて死んだと父ヤコブに報告します(37:33-34)。こうしてヨセフはエジプトに売られて行きます。
・エジプトに連れて来られたヨセフは、ファラオの宮廷の侍従長ポテパルに奴隷として売られます。父親に大事にされて育ったヨセフが一転して、奴隷として苛酷な労働を課せられるようになります。しかし、ヨセフはそのことを嘆きません。エジプトへの旅の間に、兄たちが自分を憎んで殺そうとしたのは自分の傲慢さのためであったことを知り、彼の傲慢が砕かれ、試練が生意気盛りの少年を信仰の人に変えていきます。39章では、短い数節の間に、「主が共におられた」という言葉が繰り返し出てきます。失意のヨセフですが、「主が共におられた」ので、逆境の中でも彼は成功者になっていきます。
・しかしその後、ヨセフは言いがかりで告発され、投獄されますが、逆境の中にあっても不平を言うことなく、与えられた職務を誠実に為していくヨセフの態度が監守長の信用をもたらします(39:21-22)。そのヨセフのいる獄に、エジプト王の給仕役と料理役の二人が、王の怒りに触れて投獄されてきます。何日か経ち、二人は夢を見て、ヨセフがその夢解きをしました。給仕役の夢は3日後に釈放されるという夢であり、料理役の夢は3日後に木にかけて処刑されるという夢でした。二人は夢の通りになり、給仕役は釈放されますが、ヨセフのことを忘れ、彼は牢獄に残されたままです。しかし、ヨセフは給仕役の忘恩を恨みません。全てが神の導きと知る人は、静かに事態の改善を待ちます。
・それから2年が経ち、エジプト王ファラオは夢を二度見ました。第一の夢では7頭のやせた牛が肥えた7頭の牛を食い尽くし、第二の夢ではしおれた7つの穂が肥えた7つの穂を呑み込みます。ファラオは心騒ぎ、国中の魔術師や賢者を呼び集めますが、誰もファラオを納得させる夢解きをする者はいません。その時、給仕役の長がかつて自分の夢解きをしてくれたヨセフのことを思い出し、ファラオに推薦することから、ヨセフの出番になりました。こうしてヨセフがエジプト王のもとに呼び出され、ヨセフは王の夢解きをします「今から七年間、エジプトの国全体に大豊作が訪れます。しかし、その後に七年間、飢饉が続き、この国に豊作があったことは、その後に続く飢饉のために全く忘れられてしまうでしょう」(41:25-31)。
・ヨセフは対応策も語ります「豊作の七年の間、エジプトの国の産物の五分の一を徴収なさいますように。このようにして、これから訪れる豊年の間に食糧をできるかぎり集めさせ、町々の食糧となる穀物をファラオの管理の下に蓄え、保管させるのです。そうすれば、その食糧がエジプトの国を襲う七年の飢饉に対する国の備蓄となり、飢饉によって国が滅びることはないでしょう」(41:34-36)。ヨセフの夢解きとその対応策はファラオの心を動かし、ヨセフは大臣に登用され、政策が実行に移されるようになります。
・7年後、預言通り飢饉が起こりますが、準備の出来ていたエジプトは飢饉で困ることはなく、食糧の乏しい周辺諸国の民を養い、カナンにいたヤコブ一族も食糧を求めてエジプトに下ってきます。ヨセフの前に兄弟たちが跪いて拝みます。かつての夢(「兄弟たちが自分を拝礼する夢を見た」)が真実の預言であったことがここで明らかになります。一族を迎えたヨセフは兄たちに語ります「神が私をあなたたちより先にお遣わしになったのは、この国にあなたたちの残りの者を与え、あなたたちを生き永らえさせて、大いなる救いに至らせるためです。私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」(45:7-8)。「私をここへ遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」、ここに神の摂理を信じる者の信仰が表明されています。
・近代西洋では啓蒙思想の台頭により、夢の解釈などは迷信として排斥されるようになり、歴史の表舞台から姿を消しましたが、その夢がふたたび注目され、人間の心の隠れた側面を表しているものとして科学的に研究されたのは20世紀のジグムント・フロイトに始まります(1900年「夢判断」)。フロイトはオーストリヤ生れのユダヤ人でしたが、後にナチス・ドイツに追われてイギリスに亡命しています。彼は「夢判断」の中で、オーストリヤからイギリスへの移住をヨセフの旅(カナンからエジプトへ)と比較しています(ロベール「フロイトのユダヤ人意識」)。聖書の物語は、それが自分の物語と思う時、特別な意味を持つようになります。

3.神の摂理

・今日の招詞にヘブル12:11-12を選びました。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」。ヨセフは奴隷として売られた時も、無実の罪によって投獄された時も、給仕役が恩を忘れて出獄の機会を失った時も、一言も怨みや不平を言わず、焦りもしませんでした。いつまで逆境が続くのか分からない状態の中で、彼は「主が共にいて下さる」ことを信じ、与えられた境遇の中でなすべき最善を尽くしました。その生き方が彼の道を開いて行きました。
・ヨセフがエジプトに奴隷として売られた時は17歳でした。エジプトに売られ、奴隷の身に落とされることによって、彼は初めて神を信じる者になりました。エジプトで投獄されたことは辛い人生の転機でしたが、投獄されなければ、王の給仕役と知り合うこともなく、王の前に出ることもなかった。そこに働く「くしき業を見よ」と創世記記者は語ります。普通の人はただ目に見える現実だけを見つめて嘆きます。しかし神の摂理を信じる者にとって、苦難こそが神の祝福の第一歩なのです。まさに「鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(ヘブル12:11)。
・神に委ねる生き方をする者は神の祝福を受けます。その祝福とは自分の使命を見出すことです。ヨセフはエジプトの宰相にまで登りましたが、それはやがて来る飢饉と一族受け入れの準備のためでした。生かされていない人生、主が共におられない人生は、この世的に成功してもそれだけの人生であり、墓石と共に終ります。私たちが求めるべきは人生の意味です。そして人生に意味を与えてくださる方は、生命の源であり、死を超えた存在である、「神お一人」です。強制収容所での体験を「夜と霧」に書いたフランクルは「どんな人のどんな人生にも「見えない使命」が与えられている。それを見つけて果たすことによって、初めて人生は全うされる」と語ります。フランクルは晩年、アメリカで死刑囚のいる刑務所に行って講演し、語りました。「明日もしあなたが死刑になるとしても、今からでも人生を意味あるものに変えるのに、遅すぎることは決してない」。人生の意味を見つけるのは最後の瞬間まで諦める必要はない。私たちは「生きているのではなく、生かされている」ことを知った時、ヨセフ物語は私たちの問題となります。


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